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釧路市音別町尺別炭砿

釧路市音別町尺別炭砿(平成17年4月29日・平成27年2月12日探訪)

音別町(現 釧路市音別町)尺別炭砿は炭鉱集落である。

明治42年 田村耕が鉱区を発見し、翌43年鉱業権を設定し試掘権を得たが、本格的な採炭業務は行っていなかった。
大正7年 椎葉紀義が鉱業権を譲り受け、同年10月に開坑したのが始まりである。
昭和3年 三菱鉱業株式会社が権利・施設を買収し同年10月より三菱鉱業雄別砿業所支坑として経営を始めた。

三菱鉱業に経営が移行してからは
① 自家発電を水力電気への切り替え(昭和9年)
② 奈多内新坑の開発(昭和10年)
③ 大和鉱業株式会社より浦幌炭砿の買収、及び浦幌炭砿より尺別まで索道による運炭施設の設置(昭和10年)
④ 尺浦隧道の開発(昭和14年着手・昭和17年完成)
⑤ 山元-尺別岐線間の軌道を専用鉄道に切り替え(昭和17年完成)
⑥ 東洋一の綜合選炭場の設置(昭和17年完成) を行い、炭砿の施設や機械の改善を行ってきた。

昭和19年 「樺太および釧路地区炭砿整備要綱」に基づき、尺別炭砿は休坑となった。
設備関係は解体され、人員も九州の炭砿に配置転換された。
配置転換先は ①三菱新入炭砿(福岡県鞍牛郡剣村)
          ②赤池鉱業所(福岡県田川郡赤池町) であった。

終戦を経て、昭和21年10月に尺別炭砿が復興を遂げ採炭業務を開始したが、同年12月に財閥解体で三菱鉱業より分離し、雄別炭砿鉄道株式会社が創立され雄別砿業所尺別炭砿となった。
さらに、昭和24年4月には雄別砿業所より分離して、雄社尺別砿業所となり、独立した。

昭和26年 双久坑の開口に着手(昭和28年完成)したが、炭砿企業合理化による企業整備により328名の人員整理が行われた。
それでもベルト斜坑の開発(昭和36年開削・昭和41年完成)を行い、施設の充実が図られた。

昭和45年2月5日 雄社本社から通産省に提出した炭砿存続の再建計画も再建不可能と判断され、同月27日を以て尺別炭砿、雄別炭砿(釧路市阿寒町)、上茶路炭砿(白糠町)を含め、企業ぐるみの閉山となった。

学校の沿革は次のとおりである。

大正8年8月30日 尺別炭砿地内(神楽町)に尺別尋常小学校附属尺別炭砿特別教授場として設置。
大正13年3月 校舎新築移転。
昭和6年1月 尺別炭砿尋常小学校として独立。
昭和7年11月 新校舎へ移転(旭町)
昭和8年4月 尺別炭砿尋常高等小学校と変更。
昭和16年4月 尺別炭砿国民学校と変更。
昭和18年 新校舎落成(錦町)
昭和22年4月 尺別炭砿小学校と変更。 
 同   年5月 尺別炭砿中学校の設置。
昭和25年 尺別炭砿中学校校舎の完成。
昭和31年 尺別炭砿小学校敷地内に尺別炭砿幼稚園園舎落成。
昭和39年4月 尺別小学校を統合。
昭和44年9月 開校50周年記念式典挙行。
昭和45年7月20日 尺別炭砿閉山に伴う住民転出のため、閉校。
尺別炭砿幼稚園は5月31日休園、6月24日廃園。

尺別炭砿小中学校閉校当時の報道記事を転載する。

尺別炭砿小と尺別中 ひっそりと閉校式 出席した児童、生徒54人
「大正8年、炭鉱の分教場としてスタートして以来51年、尺別のヤマの子の教育を行ってきた尺別炭砿小と戦後23年の歴史を持つ尺別中で20日、閉校式が行われた。
 両校とも30年代後半の雄別炭砿尺別砿の最盛期には1000人、500人を越える生徒数だったが、2月末の閉山後、炭鉱マンの転出が急ピッチで進み、この日の閉校式に出席した生徒は小学生32人、中学生22人、集まった父母や来賓ら約60人の方が多い閉校式。両校とも5月いっぱいで会社の蒸気がストップしたため学校給食が続けられない状態になったが、一学期中はなんとか平常通り維持したいとの学校側の努力で閉校までプロパンガスを使っての完全給食が続けられてきた。
 閉校式には梅山釧路教育局長らも出席『どこに行ってもヤマで学んだことを忘れず、がんばってほしい』と子供たちを激励した。
 閉校後、残った子供たちは10数キロ離れた音別小、中に町教委のマイクロバスで通う。」(北海道新聞釧路版1970(昭和45)年7月21日)

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SNSサイト「ツイッター」で知り合った他大学の学生とともに訪れた。
個人的にも、10年ぶりの再訪となった。

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同じアングルで、平成17年4月に撮影したアンダーパス。

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アンダーパスを登り、尺別炭砿選炭工場方面を望む。

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反対側の、尺別炭砿小中学校方面を望む。
学校跡地は雪の下に埋もれていた。

学校跡の近くにある、鉄筋の炭鉱住宅目指して進む。

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炭鉱住宅はすべて牧草地へ変貌した。
何故、鉄筋炭住(2棟)だけ現存するのか知人に訊いてみたところ、次のように教えてくれた。

「鉄筋の炭住は残っている2棟だけで、あとはすべて木造炭住であった。炭砿が閉山となり、木造炭住は建築用の資材としてすべて売れてしまった。だから鉄筋の炭住は残り、今に至っている…。」

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向かって右側の炭住。建物の一部が欠けてしまった。

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平成17年4月に撮影した時の炭住。

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向かって左側の炭住。こちらのほうが、風化が少し進んでいる。

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平成17年4月に撮影した時の炭住。

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炭住内部。床も抜け、荒れていた。

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炭住の窓より炭住街を眺める。

炭砿が消え、住宅街は牧草地へと変貌した。
あるのは、私たちの足跡が雪原に残っているだけであった。

この後、尺別炭砿選炭場方面へ移動したが、通行止めであることや積雪の多さに断念した。
これからお見せする写真は、平成17年4月に探訪した時のものである。

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尺別給油所。傷みながらも現存している。

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復興記念碑。現存している。

復興記念碑の経緯について、知人はこう話す。

「戦時中、尺別炭砿で採炭された石炭は最寄が釧路であった。釧路まで列車で運び、釧路からは船で室蘭へ運んでいた。船が戦争で取られてしまい、石炭を運ぶ術がなくなり尺別炭砿の貯炭場には石炭が貯まっていった。」

「太平洋戦争末期、尺別炭砿で働く人々は配置転換で九州へ行った。残されたのは老人と女、子供しかいなかった。私は昭和19年、兵役で仙台へ行った。」

「戦争が終わり、尺別炭砿で働いていた人々が戻ってきた。しかし、坑内は水没していた。すると、誰からともなく坑内に溜まった水を排水させようとした。労務係は最初、制止させていたが皆『俺たちの故郷だ』と言って排水作業を始めた。採炭夫の熱意に押され、やがて復興の声明を発表し尺別炭砿は蘇った。それがあの、復興記念碑の所以である。」

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生活館。現在は傷みが進んでいるが現存している。
これについては「生活館は、音別町が建てた公的な建物である。地域の集会などで使われていた。閉山後、公的な建物であったため売却できず、そのまま残った…。」とのことである。

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尺別炭山駅舎。
現在はかなり傷みが進行している。

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転車台跡。

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選炭工場の一部。

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選炭工場の一部(?)。

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坑口。当然、密閉されている。

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用途不明の建物跡。

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尺浦隧道。銘盤も残っている。

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隧道内部は途中で崩落し、密閉されていた。

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尺別炭山駅裏手にあるポケット。

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原炭ポケットより下を見下ろす。
結構な高さがあったので、慎重に下りていった。

参考文献

音別町史編さん委員会2006『音別町史上下巻』音別町
北海道新聞1970「尺別炭砿小と尺別中 ひっそりと閉校式 出席した児童、生徒54人」『北海道新聞釧路版』7月21日
証言者 I・H氏
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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