浦河町滝の上
浦河町滝の上(平成23年10月22日・平成28年5月30日探訪)
滝の上は、戦後に開拓された集落であった。
次男・三男対策の一環として日高支庁が昭和26年12月20日上野深(カミノブカ)奥地に13戸入植させる。
しかし開拓地入口から小学校(第二野深小学校)まで8km余もあった。
児童の通学に困難があるため陳情懇願したところ、昭和30年4月1日 第二野深小学校滝の上分校として開校した。開校当時の児童数8名(男3名、女5名)。本校より5,6km奥にあった教員住宅21坪(木造平屋)のうち、10坪を教室として活用した。
分校の位置は荻伏市街の東北方20km、標高150mの河岸段丘地であった。
元浦川の渓谷があり景勝地としては素晴らしい地域であったが、丘陵地のため水の便も悪く造田ができなかった。主要作物は蔬菜やバレイショの類であったが、収入も乏しく、経営不振により昭和39年頃から集団離農者が出始め、最終的に1戸しか残らなかったため昭和40年3月31日、廃校となった。
廃校当時の児童数は5名(男4名、女1名)であった。
第二野深小学校 校舎。大正9年3月18日開校 昭和63年3月閉校。
併置されていた中学校は昭和24年4月1日開校、昭和59年3月閉校。
閉校後、校舎は浦河町の研修施設「柏陽館」として、平成元年再出発した。
柏陽館は宿泊も可能である。また、食堂も併設されている。
校舎は昭和9年に建築された。増築されているとはいえ、戦前期の建物が活用されているのは個人的に嬉しい。
滝の上分校は、元浦川林道の先にある。
滝の上へ行く途中の風景。
この時は小雨が降っていた。
途中、開けている場所があるが家屋が見当たらない。
分校跡周辺が見えてきた。
滝の上分校跡地。
校門だけが分校跡であることを偲ばせてくれた。
片方の校門は笹藪に伏していた。
分校跡地より来た道を振り返る。
本当に集落があったのだろうか?と疑うほど何もなく、牧草風景が広がっていた。
平成28年5月、5年ぶりに再訪した。
滝の上分校跡地を示す石碑が建立されていた。
学校までの道のりは、5年前と変わらない風景だった。
追記(平成29年2月14日)
『北海道新聞』「日高版」(夕刊)に掲載されていた滝の上分校閉校当時の新聞記事を紹介する。
十年の歴史むなしく開拓地の学校消える あす最後の卒業生送り
「【浦河】日高管内の開拓地からまた一つ学校が消える。入殖当初、部落民たちの前途への期待と喜びのうちに開校しながらも、営農不振からついに集団で開拓地を見捨てねばならなかった悲劇が生んだものだ。
浦河市街地から約30キロ、まだ雪深い元浦川上流の山間部に建てられた浦河町立野深第二小、滝の上分校がそれ。18日最後の卒業生1人を送り出したあと、1年生から6年生まで5人を本校に吸収し、24日ささやかな廃校式をあげる。昭和30年5月に同校が誕生してからちょうど10年目に当たる。
上野深市街地の本校から8キロの山奥の不便な土地にある同校は、昭和27,8年ごろ野深滝の上地区に入殖した11戸の開拓民の子弟のために建てられた。いまはトラックが通う林道がつけられたが、当時は人一人がやっと通れる道だけ。冬は通行が途絶し、上野深の学校まで通学できないので、休学する子供たちも多かった。
このため部落民の熱心な陳情、さらに労力奉仕もあって、喜びのうちに約70平方メートルりっぱな校舎が完成、オルガンなど教具もしだいに整えられてきた。しかし同地は傾斜地の多い火山灰地。地味はやせ常食のイモ、ヒエのほかトウキビ、大豆、小豆など一家が食べるだけの収穫がやっと。赤字がどんどん増え11戸のうち2戸がその後離農し、2、3年前から集団離農の話が出ていたが、ことし離農資金が出るのをきっかけに9戸のうち8戸が集団で山を降りることに踏み切った。
8戸のうち離農資金をもとに3戸が町外に転出、5戸が山を降り上野深市街地付近に家を建てて、造材人夫などに転職、子供5人を本校に通学させるが、10余年の開拓生活に疲れ切ったからだにムチ打ち、離農者たちはいま家財の整理に取りかかっている。また分校最後の先生で、これを機会に退職、函館に引き揚げる浦本米吉先生(63)は教材整理に追われながら『やはりこの土地では生きるのは無理』とさびしげに語っていた。」(北海道新聞日高版(夕刊) 昭和40(1965)年3月17日)
参考文献
北海道新聞1965「十年の歴史むなしく開拓地の学校消える あす最後の卒業生送り」『北海道新聞日高版夕刊』3月17日
滝の上は、戦後に開拓された集落であった。
次男・三男対策の一環として日高支庁が昭和26年12月20日上野深(カミノブカ)奥地に13戸入植させる。
しかし開拓地入口から小学校(第二野深小学校)まで8km余もあった。
児童の通学に困難があるため陳情懇願したところ、昭和30年4月1日 第二野深小学校滝の上分校として開校した。開校当時の児童数8名(男3名、女5名)。本校より5,6km奥にあった教員住宅21坪(木造平屋)のうち、10坪を教室として活用した。
分校の位置は荻伏市街の東北方20km、標高150mの河岸段丘地であった。
元浦川の渓谷があり景勝地としては素晴らしい地域であったが、丘陵地のため水の便も悪く造田ができなかった。主要作物は蔬菜やバレイショの類であったが、収入も乏しく、経営不振により昭和39年頃から集団離農者が出始め、最終的に1戸しか残らなかったため昭和40年3月31日、廃校となった。
廃校当時の児童数は5名(男4名、女1名)であった。
第二野深小学校 校舎。大正9年3月18日開校 昭和63年3月閉校。
併置されていた中学校は昭和24年4月1日開校、昭和59年3月閉校。
閉校後、校舎は浦河町の研修施設「柏陽館」として、平成元年再出発した。
柏陽館は宿泊も可能である。また、食堂も併設されている。
校舎は昭和9年に建築された。増築されているとはいえ、戦前期の建物が活用されているのは個人的に嬉しい。
滝の上分校は、元浦川林道の先にある。
滝の上へ行く途中の風景。
この時は小雨が降っていた。
途中、開けている場所があるが家屋が見当たらない。
分校跡周辺が見えてきた。
滝の上分校跡地。
校門だけが分校跡であることを偲ばせてくれた。
片方の校門は笹藪に伏していた。
分校跡地より来た道を振り返る。
本当に集落があったのだろうか?と疑うほど何もなく、牧草風景が広がっていた。
平成28年5月、5年ぶりに再訪した。
滝の上分校跡地を示す石碑が建立されていた。
学校までの道のりは、5年前と変わらない風景だった。
追記(平成29年2月14日)
『北海道新聞』「日高版」(夕刊)に掲載されていた滝の上分校閉校当時の新聞記事を紹介する。
十年の歴史むなしく開拓地の学校消える あす最後の卒業生送り
「【浦河】日高管内の開拓地からまた一つ学校が消える。入殖当初、部落民たちの前途への期待と喜びのうちに開校しながらも、営農不振からついに集団で開拓地を見捨てねばならなかった悲劇が生んだものだ。
浦河市街地から約30キロ、まだ雪深い元浦川上流の山間部に建てられた浦河町立野深第二小、滝の上分校がそれ。18日最後の卒業生1人を送り出したあと、1年生から6年生まで5人を本校に吸収し、24日ささやかな廃校式をあげる。昭和30年5月に同校が誕生してからちょうど10年目に当たる。
上野深市街地の本校から8キロの山奥の不便な土地にある同校は、昭和27,8年ごろ野深滝の上地区に入殖した11戸の開拓民の子弟のために建てられた。いまはトラックが通う林道がつけられたが、当時は人一人がやっと通れる道だけ。冬は通行が途絶し、上野深の学校まで通学できないので、休学する子供たちも多かった。
このため部落民の熱心な陳情、さらに労力奉仕もあって、喜びのうちに約70平方メートルりっぱな校舎が完成、オルガンなど教具もしだいに整えられてきた。しかし同地は傾斜地の多い火山灰地。地味はやせ常食のイモ、ヒエのほかトウキビ、大豆、小豆など一家が食べるだけの収穫がやっと。赤字がどんどん増え11戸のうち2戸がその後離農し、2、3年前から集団離農の話が出ていたが、ことし離農資金が出るのをきっかけに9戸のうち8戸が集団で山を降りることに踏み切った。
8戸のうち離農資金をもとに3戸が町外に転出、5戸が山を降り上野深市街地付近に家を建てて、造材人夫などに転職、子供5人を本校に通学させるが、10余年の開拓生活に疲れ切ったからだにムチ打ち、離農者たちはいま家財の整理に取りかかっている。また分校最後の先生で、これを機会に退職、函館に引き揚げる浦本米吉先生(63)は教材整理に追われながら『やはりこの土地では生きるのは無理』とさびしげに語っていた。」(北海道新聞日高版(夕刊) 昭和40(1965)年3月17日)
参考文献
北海道新聞1965「十年の歴史むなしく開拓地の学校消える あす最後の卒業生送り」『北海道新聞日高版夕刊』3月17日
浦河町女名春別・上杵臼
浦河町女名春別・上杵臼(平成23年10月23日探訪)
女名春別(メナシュンベツ)は上杵臼(カミキネウス)地区のなかにある。
この上杵臼自体も、戦後開拓の地域である。
国有地1600町歩プラス道有林200町歩が開拓地として指定され、昭和25年10月より開拓がスタートした。
入植者で最も多かったのが樺太出身者である。外地ではこの他千島・満洲出身者が数名いた。
国内では地元出身者・日高管内出身者が多く、道南・他府県出身者が数名いた。
上杵臼小中学校
昭和26年2月5日、厩舎を仮校舎として設置される。
同年4月1日 浦河町立上杵臼小学校として独立。
昭和27年7月26日 木造平屋建ての新築校舎が落成する。
昭和31年3月30日 教室、廊下、昇降口、屋内体操場、自転車小屋を増築及び新築した。
しかし、現実は傾斜地・湿地帯と砂利畑を含む土地であった。
さらに大木の切り株が残っており、昭和32年に「開拓不振地区」に指定されてしまった。
これが切っ掛けとなり翌年より「開拓不振」の汚名返上が始まった。
まずは切り株の抜根作業から始まり、それから馬耕。
また、この頃より酪農化の導入や豚といった家畜、ハッカやアマの栽培により「開拓不振」の汚名は数年で返上された。
昭和50年3月31日 浦河町立浦河東部小学校に統廃合された。
学舎は既に無くなってしまったが、周辺は酪農家や畑が広がる集落となっている。
上杵臼の神社。探訪時は大雨に見舞われた。
神社全景。
上杵臼小学校跡は、ここではない。
昭和51年頃の航空写真を見ると、校舎の手前に林があるがその奥に校舎があったようだ。
上杵臼小学校前。この奥に校舎があった。
道を進むと、樹木に埋もれかけたバックネットがあった。その先には…
上杵臼小学校の基礎が見えた。
春先に行けば基礎の全景が分かるが、何とか確認できる。
正面玄関。階段も落ち葉が積もり、辛うじて分かる。
駐輪場の跡と思われる。辛うじて面影が残っていたが、それも自然に還ろうとしていた。
上杵臼小学校を後にして女名春別へと行く。
正式な名称は「上杵臼女名春別団地」と称されていた。
上杵臼の奥、標高平均300メートルの道有林に囲まれた盆地が女名春別である。
ここの開拓も上杵臼と同時期に開拓がスタートした。
昭和29年に18戸を数えたが土地条件が悪いことと、過剰入植で昭和34年より離農や上杵臼へ引越しする人びとが増えた。
現在は牧草地が広がっているが、人家がない集落となっている。
昭和27年9月1日 上杵臼小学校女名春別分校を設置。
昭和29年3月 校舎増築。
昭和30年4月1日 浦河町立第三中学校女名春別分校が発足。
ところが、昭和32年5月28日 校舎全焼。給食の炊事準備の過熱による出火であるらしいが、真相は不明である。
同年10月 校舎新築。
昭和33年9月 職員住宅1戸建築。
昭和34年4月1日 浦河町立女名春別小学校、女名春別中学校として認可された。
昭和40年時点の学級編成であるが 小学校1学級 中学校1学級である。
昭和41年3月31日 上杵臼小学校へ統合された。
陽春橋。この橋を渡って進む。
早速、廃墟と化した倉庫があった。
この辺りから、女名春別地域に入る。
もう少し進むと、廃サイロがあった。
学校跡はこの先にある。
学校周辺の風景。
奥の建物がもとの「教員住宅」である。
学校跡地。
近くに酪農家の倉庫があるので人気がないとはいえないが、人家がない。
教員住宅は閉校後、楽古山登山用の山荘として長らく使われていた。
その山荘も近年、移転してしまい役目を終えてしまったが、建物はもしかしたら酪農家の方が使っているのかもしれない。
いずれにしても、女名春別は無住の地である。
女名春別(メナシュンベツ)は上杵臼(カミキネウス)地区のなかにある。
この上杵臼自体も、戦後開拓の地域である。
国有地1600町歩プラス道有林200町歩が開拓地として指定され、昭和25年10月より開拓がスタートした。
入植者で最も多かったのが樺太出身者である。外地ではこの他千島・満洲出身者が数名いた。
国内では地元出身者・日高管内出身者が多く、道南・他府県出身者が数名いた。
上杵臼小中学校
昭和26年2月5日、厩舎を仮校舎として設置される。
同年4月1日 浦河町立上杵臼小学校として独立。
昭和27年7月26日 木造平屋建ての新築校舎が落成する。
昭和31年3月30日 教室、廊下、昇降口、屋内体操場、自転車小屋を増築及び新築した。
しかし、現実は傾斜地・湿地帯と砂利畑を含む土地であった。
さらに大木の切り株が残っており、昭和32年に「開拓不振地区」に指定されてしまった。
これが切っ掛けとなり翌年より「開拓不振」の汚名返上が始まった。
まずは切り株の抜根作業から始まり、それから馬耕。
また、この頃より酪農化の導入や豚といった家畜、ハッカやアマの栽培により「開拓不振」の汚名は数年で返上された。
昭和50年3月31日 浦河町立浦河東部小学校に統廃合された。
学舎は既に無くなってしまったが、周辺は酪農家や畑が広がる集落となっている。
上杵臼の神社。探訪時は大雨に見舞われた。
神社全景。
上杵臼小学校跡は、ここではない。
昭和51年頃の航空写真を見ると、校舎の手前に林があるがその奥に校舎があったようだ。
上杵臼小学校前。この奥に校舎があった。
道を進むと、樹木に埋もれかけたバックネットがあった。その先には…
上杵臼小学校の基礎が見えた。
春先に行けば基礎の全景が分かるが、何とか確認できる。
正面玄関。階段も落ち葉が積もり、辛うじて分かる。
駐輪場の跡と思われる。辛うじて面影が残っていたが、それも自然に還ろうとしていた。
上杵臼小学校を後にして女名春別へと行く。
正式な名称は「上杵臼女名春別団地」と称されていた。
上杵臼の奥、標高平均300メートルの道有林に囲まれた盆地が女名春別である。
ここの開拓も上杵臼と同時期に開拓がスタートした。
昭和29年に18戸を数えたが土地条件が悪いことと、過剰入植で昭和34年より離農や上杵臼へ引越しする人びとが増えた。
現在は牧草地が広がっているが、人家がない集落となっている。
昭和27年9月1日 上杵臼小学校女名春別分校を設置。
昭和29年3月 校舎増築。
昭和30年4月1日 浦河町立第三中学校女名春別分校が発足。
ところが、昭和32年5月28日 校舎全焼。給食の炊事準備の過熱による出火であるらしいが、真相は不明である。
同年10月 校舎新築。
昭和33年9月 職員住宅1戸建築。
昭和34年4月1日 浦河町立女名春別小学校、女名春別中学校として認可された。
昭和40年時点の学級編成であるが 小学校1学級 中学校1学級である。
昭和41年3月31日 上杵臼小学校へ統合された。
陽春橋。この橋を渡って進む。
早速、廃墟と化した倉庫があった。
この辺りから、女名春別地域に入る。
もう少し進むと、廃サイロがあった。
学校跡はこの先にある。
学校周辺の風景。
奥の建物がもとの「教員住宅」である。
学校跡地。
近くに酪農家の倉庫があるので人気がないとはいえないが、人家がない。
教員住宅は閉校後、楽古山登山用の山荘として長らく使われていた。
その山荘も近年、移転してしまい役目を終えてしまったが、建物はもしかしたら酪農家の方が使っているのかもしれない。
いずれにしても、女名春別は無住の地である。