喜茂別町知来別
喜茂別町知来別(平成30年2月10日・6月24日探訪)
喜茂別町知来別は農村集落である。
明治37年秋 早瀬吉松という造材業者が立木の買入れや伐採、造材を行っていた折、現場監督として渡部忠助、続いて木挽きで管野幸蔵・菊地弥一郎。さらに翌明治38年12月、日の浦繁蔵が弟亀太とともに農業を目的として入植したのが知来別の草分けである。
日の浦が入植した当時は知来別川を境にして三宅農場(三宅伊勢松)、加納農場、藤野農場等があった。
次いで明治40年に越中団体(団体の構成員は17戸であったが入植したのは5戸)、明治42年に倶知安村出身者(12戸)、明治44年山梨団体(67戸)が入植した。特に入植者の多かった山梨団体は3地区に分割(イ号17戸・ロ号26戸・ハ号24戸)した。
しかし、土地や気象条件による凶作のため、特に奥地に入植した山梨団体の半数は郷里の山梨県をはじめ次々と転出していった。
入植当時、学校は喜茂別尋常小学校附属上喜茂別特別教授場へ通学していたが、冬季の積雪期間は通学不能だったので、中川直太郎・宮崎松次郎・柳沢秀五郎ら有志と協議を重ね、学校設置を村に要請した。村理事者も学校の必要性を認め、大正7年喜茂別尋常高等小学校附属知来別特別教授場として開校した。
学校の沿革をまとめると以下の通りである。
大正7年 喜茂別尋常高等小学校附属知来別特別教授場として開校(9月)
昭和6年 校舎改築(9月)
昭和7年 第二喜茂別尋常小学校と改称(4月)
昭和16年 第二喜茂別国民学校と改称(4月)
昭和22年 第二喜茂別小学校と改称(4月)
閉校時の新聞記事を掲載する
60年の校史に終止符 喜茂別 きょう第二小で閉校式
「【喜茂別】開校してから60年、喜茂別町知来別部落の中心に建っている喜茂別第二小学校(中川克己校長、児童4人)が31日で閉校する。その閉校式と、最後の卒業式が23日午前10時から同校で行われる。
同校は大正7年(1918年)9月11日、喜茂別尋常高等小学校付属知来別特別教授場として開設された。この時の児童数は33人。昭和7年、村立第二喜茂別小学校に昇格、45人の児童と父母たちは盛大な独立校記念式典を行った。
この頃から校歌の畑作地帯から離農する家が目立ち始めた。開校50周年記念式典を行った42年8月の児童数は、わずか14人。その後もクシの歯が抜けるように部落を去り、現在では3,4,5年の男子各1人と、6年の女子1人の合計4人。
同校では昭和11年の冬、後志管内のトップをきってみそ汁の学校給食を始めた。給食用の茶わんや、野菜類は児童が自宅から持ち寄った。父母たちは喜んで学校整備の奉仕作業を行ったし、昭和16年5月には後志支庁主催の単複教育研究会まで開いて同校の教育を中心に研究した。
これまでの卒業生は、今回の1人を含めて278人。現在校下の部落は14戸だが、23日の閉校式と最後の卒業式には全員が集まり、木造一部モルタル仕上げの古い平屋校舎に別れを告げる。なお閉校後児童たちは喜茂別小学校に通学する。」(北海道新聞後志版昭和53年3月23日)
平成30年2月、HEYANEKO氏らと訪れた。
屋根は一部陥没しているが、学校の面影は残っている。
校門も現存しているが、夏に発見するのは難しい。
ふと見ると、神社のような建物が見えた。
折角なので確認する。
神社の社殿である。
地元の方に話を伺うと「神社移転の話も持ち上がったが結局、現状のままとなった。馬頭観世音像は麓に移転させた。」と教えていただいた。
帰りがけ、教えていただいた場所へ行き、馬頭観世音を確認する。
折角なので、雪から掘ってみた。
大正13年12月17日に建立されたことが分かった。
2月の探訪後、6月に再訪した。
冬の雰囲気とは違い、半ばイタドリで覆われていた。
帰りがけ、ふと見ると煙突だけ残った屋敷跡があった。
参考資料
北海道新聞1978「60年の校史に終止符 喜茂別 きょう第二小で閉校式」『北海道新聞』後志版昭和53年3月23日
渡邊直七1971『喜茂別町知來別部落史』
喜茂別町知来別は農村集落である。
明治37年秋 早瀬吉松という造材業者が立木の買入れや伐採、造材を行っていた折、現場監督として渡部忠助、続いて木挽きで管野幸蔵・菊地弥一郎。さらに翌明治38年12月、日の浦繁蔵が弟亀太とともに農業を目的として入植したのが知来別の草分けである。
日の浦が入植した当時は知来別川を境にして三宅農場(三宅伊勢松)、加納農場、藤野農場等があった。
次いで明治40年に越中団体(団体の構成員は17戸であったが入植したのは5戸)、明治42年に倶知安村出身者(12戸)、明治44年山梨団体(67戸)が入植した。特に入植者の多かった山梨団体は3地区に分割(イ号17戸・ロ号26戸・ハ号24戸)した。
しかし、土地や気象条件による凶作のため、特に奥地に入植した山梨団体の半数は郷里の山梨県をはじめ次々と転出していった。
入植当時、学校は喜茂別尋常小学校附属上喜茂別特別教授場へ通学していたが、冬季の積雪期間は通学不能だったので、中川直太郎・宮崎松次郎・柳沢秀五郎ら有志と協議を重ね、学校設置を村に要請した。村理事者も学校の必要性を認め、大正7年喜茂別尋常高等小学校附属知来別特別教授場として開校した。
学校の沿革をまとめると以下の通りである。
大正7年 喜茂別尋常高等小学校附属知来別特別教授場として開校(9月)
昭和6年 校舎改築(9月)
昭和7年 第二喜茂別尋常小学校と改称(4月)
昭和16年 第二喜茂別国民学校と改称(4月)
昭和22年 第二喜茂別小学校と改称(4月)
閉校時の新聞記事を掲載する
60年の校史に終止符 喜茂別 きょう第二小で閉校式
「【喜茂別】開校してから60年、喜茂別町知来別部落の中心に建っている喜茂別第二小学校(中川克己校長、児童4人)が31日で閉校する。その閉校式と、最後の卒業式が23日午前10時から同校で行われる。
同校は大正7年(1918年)9月11日、喜茂別尋常高等小学校付属知来別特別教授場として開設された。この時の児童数は33人。昭和7年、村立第二喜茂別小学校に昇格、45人の児童と父母たちは盛大な独立校記念式典を行った。
この頃から校歌の畑作地帯から離農する家が目立ち始めた。開校50周年記念式典を行った42年8月の児童数は、わずか14人。その後もクシの歯が抜けるように部落を去り、現在では3,4,5年の男子各1人と、6年の女子1人の合計4人。
同校では昭和11年の冬、後志管内のトップをきってみそ汁の学校給食を始めた。給食用の茶わんや、野菜類は児童が自宅から持ち寄った。父母たちは喜んで学校整備の奉仕作業を行ったし、昭和16年5月には後志支庁主催の単複教育研究会まで開いて同校の教育を中心に研究した。
これまでの卒業生は、今回の1人を含めて278人。現在校下の部落は14戸だが、23日の閉校式と最後の卒業式には全員が集まり、木造一部モルタル仕上げの古い平屋校舎に別れを告げる。なお閉校後児童たちは喜茂別小学校に通学する。」(北海道新聞後志版昭和53年3月23日)
平成30年2月、HEYANEKO氏らと訪れた。
屋根は一部陥没しているが、学校の面影は残っている。
校門も現存しているが、夏に発見するのは難しい。
ふと見ると、神社のような建物が見えた。
折角なので確認する。
神社の社殿である。
地元の方に話を伺うと「神社移転の話も持ち上がったが結局、現状のままとなった。馬頭観世音像は麓に移転させた。」と教えていただいた。
帰りがけ、教えていただいた場所へ行き、馬頭観世音を確認する。
折角なので、雪から掘ってみた。
大正13年12月17日に建立されたことが分かった。
2月の探訪後、6月に再訪した。
冬の雰囲気とは違い、半ばイタドリで覆われていた。
帰りがけ、ふと見ると煙突だけ残った屋敷跡があった。
参考資料
北海道新聞1978「60年の校史に終止符 喜茂別 きょう第二小で閉校式」『北海道新聞』後志版昭和53年3月23日
渡邊直七1971『喜茂別町知來別部落史』
小平町富岡
小平町富岡(平成30年4月1日探訪)
小平町富岡は農村集落である。
明治31年 石川団体30余戸が大椴原野に入植したが次男・三男の分家のため新天地を求めて明治33・34年に小椴子沢(富岡)と苫前町三毛別(苫前町三渓)に入植したのが始まりである。
明治36年 地域住民の協力により校舎が建てられ開校した。
鈴木トミヱ著『小平百話-記憶の中の物語』の巻末に昭和20年前後の富岡地区の住宅地図が掲載されているが、地図を見ると沿岸部に14戸、国鉄羽幌線を挟んだ山間部に24戸(うち2戸は王子造林株式会社職員)の名前がある。
閉校・過疎の経緯については、下記に掲載した閉校時の報道にあるように、国道232号線の工事のため海岸部に住んでいた6戸の移転(昭和48年)、昭和49年から51年にかけ各1戸の移転がきっかけである。
学校の沿革は以下の通りである。
明治36年 特別簡易教育所開設(9月)
明治41年 小椴子教育所と改称(4月)
明治44年 校舎移転(10月)
大正 6年 小椴子尋常小学校と改称(4月)
昭和11年 富岡尋常小学校と改称(4月)
昭和16年 富岡国民学校と改称(4月)
昭和22年 富岡小学校と改称(4月)
昭和53年 閉校(3月)
閉校時の記事を掲載する。
さようなら富岡小学校 離農、過疎の悲哀25日、学び舎に別れ告げる
「雪深い山あいに〝教育の灯〟をともしつづけて75年、その灯がまたひとつ消えた-。長い歴史を持つ小平町立富岡小学校(矢野勲校長)は、相次ぐ離農と過疎の波に見舞われ、遂に廃校のやむなきにいたり、25日同校教室で、地域住民、歴代校長、そして教育関係者ら約50人が出席して廃校式を行い、思い出多い学び舎に別れを告げた。
富岡小学校は、明治36年6月、特別簡易教育所として児童数12人で開校それ以来、明治44年に部落住民の奉仕により現在地(富岡146番地)に校舎を移転改築、その後校舎増築と校名の改称が進み昭和40年以降2学級編成と単級を繰り返し、数年前から版画やカレンダー作り、また労作教育としてメロンやスイカを作るなど辺地校ならでわの授業を展開、管内小中学校環境整備優良校、花いっぱいコンクール学校の部優良校、全道へき地複式教育研究大会会場校として選ばれ、これまでに248人の卒業生を送り出してきた。
富岡は、小平町海岸線のほぼ中間に位置し、海岸沿いを走る国道232号線の入口から町道を約5キロ余り入った奥地で、昭和48年に始まった国道工事のために過疎化が進み、海岸沿いに住んでいた全戸(6戸)が移転し、49年・50年、そして51年とそれぞれ1戸が移転して、現在では11戸を残すだけになり、10戸が水田耕作を営んでいるが、土地が狭いために作付面積が少なく、今では、半数の農家がアイボリーメロン作りをして暮らしている。また、一時は34人の児童が在籍していた同校も、今では河端秀美君(3年)、隆彦君(4年)、政信君(6年)兄弟と村田恵さん(6年)の4人になり、6年生の2人は4月から中学校に進むが、残された河端君兄弟は鬼鹿小学校(沢田寿一校長)に通学することになった。
廃校式には地域の住民、父母たち、そしてかつての校長らが出席する中で、五十嵐小平町長、秋山留萌教育局長らがあいさつを述べ、矢野校長が「富岡小学校の灯は消えても部落の灯は消えることなく、先人の歩んだ開拓精神を想いだし過疎の波に打ち勝ってください」と富岡の住民に別れを告げ、そのあと、生徒を代表して河端政信君が、「いたんだ校舎、たとえ学校の灯が消えたにしても僕たちの心に母校の灯は消えないでしょう、さようなら富岡小学校」と思い出をかみしめるように別れの言葉を読みあげ数々の思い出が刻みこまれた富岡小学校、父と母も学んだ富岡小学校、忘れることの出来ない花壇づくりや版画づくり、そして最後に全員で校歌を合唱して、長かった75年の校史にピリオドを打った。」(留萌日日新聞昭和53年3月28日)
羽幌町立太陽小学校の体育館倒壊を確認後、富岡へ足を運んだ。
正面玄関は既に無くなっているが向かって右側が教室、左側が教員住宅である。
学校の隣には神社もある。
神社境内より校舎の背後を望む。
夏は笹で生い茂るので、この時期ならではの風景である。
学校より2キロ先より学校方面を望む。
家屋はあるが定住者はいない。
海岸沿いに住んでいた6戸の屋敷跡は分からなくなっていた。
ただ、コンクリートの橋脚だけが残っていた。
羽幌方面を望む。
富岡乗降場(昭和31年5月開業)の名残も無くなっていた。
参考文献
小平町史編集室1976『小平町史』小平町役場
小平町史編さん室2001『小平町史 続』小平町役場
鈴木トミヱ2000『小平百話-記憶の中の物語』小平町開基120年記念事業実行委員会
留萌日日新聞1978「さようなら富岡小学校 離農、過疎の悲哀25日、学び舎に別れ告げる」『留萌日日新聞』昭和53年3月28日
小平町富岡は農村集落である。
明治31年 石川団体30余戸が大椴原野に入植したが次男・三男の分家のため新天地を求めて明治33・34年に小椴子沢(富岡)と苫前町三毛別(苫前町三渓)に入植したのが始まりである。
明治36年 地域住民の協力により校舎が建てられ開校した。
鈴木トミヱ著『小平百話-記憶の中の物語』の巻末に昭和20年前後の富岡地区の住宅地図が掲載されているが、地図を見ると沿岸部に14戸、国鉄羽幌線を挟んだ山間部に24戸(うち2戸は王子造林株式会社職員)の名前がある。
閉校・過疎の経緯については、下記に掲載した閉校時の報道にあるように、国道232号線の工事のため海岸部に住んでいた6戸の移転(昭和48年)、昭和49年から51年にかけ各1戸の移転がきっかけである。
学校の沿革は以下の通りである。
明治36年 特別簡易教育所開設(9月)
明治41年 小椴子教育所と改称(4月)
明治44年 校舎移転(10月)
大正 6年 小椴子尋常小学校と改称(4月)
昭和11年 富岡尋常小学校と改称(4月)
昭和16年 富岡国民学校と改称(4月)
昭和22年 富岡小学校と改称(4月)
昭和53年 閉校(3月)
閉校時の記事を掲載する。
さようなら富岡小学校 離農、過疎の悲哀25日、学び舎に別れ告げる
「雪深い山あいに〝教育の灯〟をともしつづけて75年、その灯がまたひとつ消えた-。長い歴史を持つ小平町立富岡小学校(矢野勲校長)は、相次ぐ離農と過疎の波に見舞われ、遂に廃校のやむなきにいたり、25日同校教室で、地域住民、歴代校長、そして教育関係者ら約50人が出席して廃校式を行い、思い出多い学び舎に別れを告げた。
富岡小学校は、明治36年6月、特別簡易教育所として児童数12人で開校それ以来、明治44年に部落住民の奉仕により現在地(富岡146番地)に校舎を移転改築、その後校舎増築と校名の改称が進み昭和40年以降2学級編成と単級を繰り返し、数年前から版画やカレンダー作り、また労作教育としてメロンやスイカを作るなど辺地校ならでわの授業を展開、管内小中学校環境整備優良校、花いっぱいコンクール学校の部優良校、全道へき地複式教育研究大会会場校として選ばれ、これまでに248人の卒業生を送り出してきた。
富岡は、小平町海岸線のほぼ中間に位置し、海岸沿いを走る国道232号線の入口から町道を約5キロ余り入った奥地で、昭和48年に始まった国道工事のために過疎化が進み、海岸沿いに住んでいた全戸(6戸)が移転し、49年・50年、そして51年とそれぞれ1戸が移転して、現在では11戸を残すだけになり、10戸が水田耕作を営んでいるが、土地が狭いために作付面積が少なく、今では、半数の農家がアイボリーメロン作りをして暮らしている。また、一時は34人の児童が在籍していた同校も、今では河端秀美君(3年)、隆彦君(4年)、政信君(6年)兄弟と村田恵さん(6年)の4人になり、6年生の2人は4月から中学校に進むが、残された河端君兄弟は鬼鹿小学校(沢田寿一校長)に通学することになった。
廃校式には地域の住民、父母たち、そしてかつての校長らが出席する中で、五十嵐小平町長、秋山留萌教育局長らがあいさつを述べ、矢野校長が「富岡小学校の灯は消えても部落の灯は消えることなく、先人の歩んだ開拓精神を想いだし過疎の波に打ち勝ってください」と富岡の住民に別れを告げ、そのあと、生徒を代表して河端政信君が、「いたんだ校舎、たとえ学校の灯が消えたにしても僕たちの心に母校の灯は消えないでしょう、さようなら富岡小学校」と思い出をかみしめるように別れの言葉を読みあげ数々の思い出が刻みこまれた富岡小学校、父と母も学んだ富岡小学校、忘れることの出来ない花壇づくりや版画づくり、そして最後に全員で校歌を合唱して、長かった75年の校史にピリオドを打った。」(留萌日日新聞昭和53年3月28日)
羽幌町立太陽小学校の体育館倒壊を確認後、富岡へ足を運んだ。
正面玄関は既に無くなっているが向かって右側が教室、左側が教員住宅である。
学校の隣には神社もある。
神社境内より校舎の背後を望む。
夏は笹で生い茂るので、この時期ならではの風景である。
学校より2キロ先より学校方面を望む。
家屋はあるが定住者はいない。
海岸沿いに住んでいた6戸の屋敷跡は分からなくなっていた。
ただ、コンクリートの橋脚だけが残っていた。
羽幌方面を望む。
富岡乗降場(昭和31年5月開業)の名残も無くなっていた。
参考文献
小平町史編集室1976『小平町史』小平町役場
小平町史編さん室2001『小平町史 続』小平町役場
鈴木トミヱ2000『小平百話-記憶の中の物語』小平町開基120年記念事業実行委員会
留萌日日新聞1978「さようなら富岡小学校 離農、過疎の悲哀25日、学び舎に別れ告げる」『留萌日日新聞』昭和53年3月28日
稚内市夕来
稚内市夕来(平成29年9月17日探訪)
稚内市夕来は農村集落である。
明治25年 東京の資産家らがユーチ地区からオネトマナイ地区にかけて森林の伐採、造材、牧場にする計画が認可され飯場兼用の事業所を建て搬出を始めたのが最初である。
明治30年に夕来駅逓が開設されると造材搬出が盛んとなり、人馬の往来も増えた。
明治44年東京の丸谷武松が牧場を開設し、支配人や牧夫を常駐させるなどして集落が形成されていった。
当時の子供たちは勇知簡易教育所へ通学していたが、1里半から2里の距離だけではなく峠越え、悪路、クマ出没で冬季間は休業状態であった。このため、学校設置を求める陳情が認められ校舎新築まで松本太作の住宅を仕切って借り受けた。
学校の沿革は以下の通りである。
小学校
大正2年 勇知教育所附属夕来特別教授場開校(5月)
大正3年 校舎新築(5月)
大正4年 夕来教育所と改称(4月)
大正6年 夕来尋常小学校と改称(4月)
昭和16年夕来国民学校と改称(4月)
昭和22年夕来小学校と改称(4月)
昭和25年校舎新築移転(11月)
昭和60年 閉校(3月)
中学校
昭和25年 下勇知中学校夕来分校設置(4月)
昭和33年 夕来中学校と改称(9月)
昭和60年 閉校(3月)
開校後、定住者も増え続けていったが農業もそれまでの畑作(ジャガイモ)から酪農に転換し、経営規模の拡大が図られていったが、農家戸数の減少に伴い児童も減少していった。
平成29年9月の廃校廃村探訪、夕来を訪れた。
広範囲に酪農家がある。
夕来会館。今も使われている。
会館の背後に校舎があった。
この笹薮を掻き分けて行く気にはなれず、遠望に留めた。
聳え立つマツの木は学校があった頃からの名残である。
会館前には集落で建立した牛魂碑がある。
よく見ると、回旋塔の支柱が残っていた。
笹で埋もれた教員住宅へ行ってみる。
中は住宅の面影が残っていた。
しかし、確実に朽ちつつある。
学校跡の周辺風景。
広大な牧草畑が広がっていた。
参考文献
稚内市史編纂室1968『稚内市史』稚内市
稚内市史編さん委員会1999『稚内市史第2巻』稚内市
稚内市夕来は農村集落である。
明治25年 東京の資産家らがユーチ地区からオネトマナイ地区にかけて森林の伐採、造材、牧場にする計画が認可され飯場兼用の事業所を建て搬出を始めたのが最初である。
明治30年に夕来駅逓が開設されると造材搬出が盛んとなり、人馬の往来も増えた。
明治44年東京の丸谷武松が牧場を開設し、支配人や牧夫を常駐させるなどして集落が形成されていった。
当時の子供たちは勇知簡易教育所へ通学していたが、1里半から2里の距離だけではなく峠越え、悪路、クマ出没で冬季間は休業状態であった。このため、学校設置を求める陳情が認められ校舎新築まで松本太作の住宅を仕切って借り受けた。
学校の沿革は以下の通りである。
小学校
大正2年 勇知教育所附属夕来特別教授場開校(5月)
大正3年 校舎新築(5月)
大正4年 夕来教育所と改称(4月)
大正6年 夕来尋常小学校と改称(4月)
昭和16年夕来国民学校と改称(4月)
昭和22年夕来小学校と改称(4月)
昭和25年校舎新築移転(11月)
昭和60年 閉校(3月)
中学校
昭和25年 下勇知中学校夕来分校設置(4月)
昭和33年 夕来中学校と改称(9月)
昭和60年 閉校(3月)
開校後、定住者も増え続けていったが農業もそれまでの畑作(ジャガイモ)から酪農に転換し、経営規模の拡大が図られていったが、農家戸数の減少に伴い児童も減少していった。
平成29年9月の廃校廃村探訪、夕来を訪れた。
広範囲に酪農家がある。
夕来会館。今も使われている。
会館の背後に校舎があった。
この笹薮を掻き分けて行く気にはなれず、遠望に留めた。
聳え立つマツの木は学校があった頃からの名残である。
会館前には集落で建立した牛魂碑がある。
よく見ると、回旋塔の支柱が残っていた。
笹で埋もれた教員住宅へ行ってみる。
中は住宅の面影が残っていた。
しかし、確実に朽ちつつある。
学校跡の周辺風景。
広大な牧草畑が広がっていた。
参考文献
稚内市史編纂室1968『稚内市史』稚内市
稚内市史編さん委員会1999『稚内市史第2巻』稚内市