増毛町歩古丹
増毛町歩古丹(平成21年5月3日探訪)
歩古丹(アユミコタン)はアイヌ語で「アエヒコタン」(アワビが採れるところ)と言われていた。
明治期の増毛町は二シン漁で賑わいを見せていた。最盛期は年間97万トン(明治30年)であった。
歩古丹は明治25年10月1日に開校する。当時は岩尾村字歩古丹と呼ばれており、単級編成の公立岩尾簡易小学校と称していた。
明治28年岩尾尋常小学校、明治42年5月21日 別苅尋常小学校附属歩古丹教育所、大正6年4月25日 歩古丹尋常小学校となる。
昭和12年になると歩古丹水産青年学校が併置された。水産青年学校は、昭和18年6月まで存続していた。
昭和16年 歩古丹国民学校、昭和22年 歩古丹小学校となった。
昭和40年5月12日、校舎が新築落成した。昭和43年には増毛中学校歩古丹分校も併置されたが、この頃、既に過疎化が進み昭和46年3月31日付で廃校となった。
歩古丹の主要産業は言うまでもなく、二シン漁(漁業)が盛んであった。東宝映画「ジャコ萬と鉄」(1949年)は当時、歩古丹にあった「南出漁場」がロケ撮影に全面協力してくれた。この映画は増毛町郷土資料館「元陣屋」にて閲覧可能である。
歩古丹について、数年前だが「空知地方史研究協議会」(平成21年3月7日解散)の会員 村上 修氏に伺ったことがある。村上氏は昭和43~46年の間、増毛高校に勤務されていた。
歩古丹について伺うと「雄冬へは行ったことがあるが歩古丹は行ったことがない」とのことだった。ただ、歩古丹へ行く道は当時、船舶しかなかったので雄冬から小さな船に乗って行くことしかできなかったと仰っていた。この頃の雄冬地区は「西の知床」と呼ばれていたくらいの「陸の孤島」であった。歩古丹もそれに準ずる地域であった。
村上氏は平成22年9月、逝去された。改めてご冥福をお祈り申し上げます。
尚、歩古丹についてはHEYANEKO氏の「廃村と過疎の風景」内の「廃村・過疎集落探訪体験記 No.8 漁村の廃村・歩古丹集落跡探訪」に探訪当時のレポートが掲載されています。
また、「廃村をゆく」 (イカロス・ムック/2011年5月23日発売)にも掲載されています。
夕観橋の下に残る歩古丹小学校校舎。
「猫の額」ほどしかない狭い土地に校舎があった。
急斜面を降り、集落跡地へ到達。
学校周辺には住宅の基礎が残されていた。
セトモノや酒瓶が散乱していた。
校舎外観。
校門が辛うじて残されている。
この校舎の真上に、国道231号線が走っている。
ブランコの名残。
校舎内の倉庫だろうか?石炭ストーブが置かれていた。
廊下を進んでみる。
黒板には記念の書き込みで一杯だった。
しかし、その中にはかつて校長として赴任された方の名前もあった。
床は波打っており歩きにくい。
校舎に隣接していた教員住宅の基礎。
校舎を後にして増毛方面へ歩くと番屋の跡がある。
映画のロケで使用された「南出漁場」なのかもしれないが、この時は分からなかった。
石垣が残っていたため、番屋であることが分かった。
番屋へ行く途中に残されていた電柱。
番屋へ行く途中に打ち上げられていた漂着物。
隣国の投棄されたものが流れ着いていた。
歩古丹の船着場跡。
波に洗われながらも残っていた。
先ほどの番屋からの風景。
ニシン漁の衰退とともに、過疎化が進み廃村になってしまった。
歩古丹(アユミコタン)はアイヌ語で「アエヒコタン」(アワビが採れるところ)と言われていた。
明治期の増毛町は二シン漁で賑わいを見せていた。最盛期は年間97万トン(明治30年)であった。
歩古丹は明治25年10月1日に開校する。当時は岩尾村字歩古丹と呼ばれており、単級編成の公立岩尾簡易小学校と称していた。
明治28年岩尾尋常小学校、明治42年5月21日 別苅尋常小学校附属歩古丹教育所、大正6年4月25日 歩古丹尋常小学校となる。
昭和12年になると歩古丹水産青年学校が併置された。水産青年学校は、昭和18年6月まで存続していた。
昭和16年 歩古丹国民学校、昭和22年 歩古丹小学校となった。
昭和40年5月12日、校舎が新築落成した。昭和43年には増毛中学校歩古丹分校も併置されたが、この頃、既に過疎化が進み昭和46年3月31日付で廃校となった。
歩古丹の主要産業は言うまでもなく、二シン漁(漁業)が盛んであった。東宝映画「ジャコ萬と鉄」(1949年)は当時、歩古丹にあった「南出漁場」がロケ撮影に全面協力してくれた。この映画は増毛町郷土資料館「元陣屋」にて閲覧可能である。
歩古丹について、数年前だが「空知地方史研究協議会」(平成21年3月7日解散)の会員 村上 修氏に伺ったことがある。村上氏は昭和43~46年の間、増毛高校に勤務されていた。
歩古丹について伺うと「雄冬へは行ったことがあるが歩古丹は行ったことがない」とのことだった。ただ、歩古丹へ行く道は当時、船舶しかなかったので雄冬から小さな船に乗って行くことしかできなかったと仰っていた。この頃の雄冬地区は「西の知床」と呼ばれていたくらいの「陸の孤島」であった。歩古丹もそれに準ずる地域であった。
村上氏は平成22年9月、逝去された。改めてご冥福をお祈り申し上げます。
尚、歩古丹についてはHEYANEKO氏の「廃村と過疎の風景」内の「廃村・過疎集落探訪体験記 No.8 漁村の廃村・歩古丹集落跡探訪」に探訪当時のレポートが掲載されています。
また、「廃村をゆく」 (イカロス・ムック/2011年5月23日発売)にも掲載されています。
夕観橋の下に残る歩古丹小学校校舎。
「猫の額」ほどしかない狭い土地に校舎があった。
急斜面を降り、集落跡地へ到達。
学校周辺には住宅の基礎が残されていた。
セトモノや酒瓶が散乱していた。
校舎外観。
校門が辛うじて残されている。
この校舎の真上に、国道231号線が走っている。
ブランコの名残。
校舎内の倉庫だろうか?石炭ストーブが置かれていた。
廊下を進んでみる。
黒板には記念の書き込みで一杯だった。
しかし、その中にはかつて校長として赴任された方の名前もあった。
床は波打っており歩きにくい。
校舎に隣接していた教員住宅の基礎。
校舎を後にして増毛方面へ歩くと番屋の跡がある。
映画のロケで使用された「南出漁場」なのかもしれないが、この時は分からなかった。
石垣が残っていたため、番屋であることが分かった。
番屋へ行く途中に残されていた電柱。
番屋へ行く途中に打ち上げられていた漂着物。
隣国の投棄されたものが流れ着いていた。
歩古丹の船着場跡。
波に洗われながらも残っていた。
先ほどの番屋からの風景。
ニシン漁の衰退とともに、過疎化が進み廃村になってしまった。