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遠別町東野

遠別町東野(平成25年6月8日・平成28年10月31探訪)

遠別町東野は、道道名寄遠別線にある高度過疎集落である。

最奥地の正修地域よりは手前に位置しているが、それでも遠別町中心部より約20キロ離れている。
へき地等級4級の学校であった。

明治33年 三浦武作の入地が始まりであると伝えられている。

明治41年7月 戸数も14戸を数え、吉岡重太郎宅を仮校舎とし、第三教育所(現 遠別町中央小学校・廃校)の柴垣安太郎を教師として週1回、授業を始めたのが最初であった。

明治42年6月2日 遠別村第三教育所付属特別教授所と改称。

大正5年 中央遠別尋常小学校付属ウエンベツ特別教授場と改称。

昭和7年9月 尋常小学校に昇格し、東遠別尋常小学校と改称した。

ここは元々「ペウレペ」と呼ばれ(アイヌ語で「支流・二股」の意)ており、通称「東遠別」と言われていたが、昭和14年の字名改正により「東野」となった。「東野」の由来は「遠別村の東部に位置」していることからであった。

集落は、狭い耕地と丘陵地にバレイショ、いなきび、粟、水田が盛んであった。

昭和16年4月 東野国民学校と改称、昭和22年4月 東野小学校と改称した。

昭和27年 遠別中学校東野分校が設置され、翌 昭和28年 東野中学校が併置された。
また、この年、学校隣接地に東野診療所が開設された。

昭和26年の戸数 34戸204人を数えた東野も、過疎化に伴い昭和45年 東野中学校は遠別中学校に統合された。

昭和49年3月 東野小学校も遠別中央小学校に統合され、廃校になった。

廃校後も過疎の波は押し寄せ、平成元年 東野神社を遠別神社に合祀し廃社、現在は3戸、通い作が2戸である。


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遠別町中心部より道道688号 名寄遠別線に入る。
ここから最も奥にある正修集落(廃村)まで5校の学校があったが、現在すべてが廃校である。
これは中心部より5キロ入ったところにあった久光(キュウコウ)小学校である。
久光小学校の開校年は明治33年9月5日、閉校年は昭和43年3月31日である。

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開拓記念碑と二宮像があった。

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学校があったと思われる場所は更地になっている。

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久光小学校より約7キロ進むと中央小学校がある。
「中央」の名の由来は、市街地より上遠別と称する奥地の中間に位置する集落であるからとのことである。
開校年は明治45年3月28日、閉校年は平成11年3月31日である。

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中央小学校より東野方面を望む。
東野を含め、大成、正修はまだまだ先である。

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中央小学校よりさらに8キロ進むと東野小中学校が見えた。
ここが東野集落である。
二宮像の台座だけがあった。

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学校跡の隣接地に「興復」と刻まれた石碑があった。
台座に何かはめ込まれていた跡があるが、全く分からない。
この碑は何を意味しているのか、遠別町教育委員会 宇野 治氏に伺ってみたが判らなかった。

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ふと足元に目をやれば、倒れた校門に表札がそのままはめ込まれている。
思わず「何とか表札だけでも保存していただけますか。」と宇野氏にお願いした。
宇野氏は「判りました。近いうちに回収します。」と仰ったので、保存されることを願うのみである。

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校舎は既に瓦礫と化していた。

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閉校後、校舎は近郊の農家が倉庫として転用していたのか、農機具類の残骸が散らばっている。

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ふと、笹藪の向こうに煙突が見えた。
ヤブを掻き分けて進む。

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たどり着いた先には、煙突が2本建っていた。
教員住宅の跡と思われる。

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基礎もはっきりと残っていた。

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やがて戻り、学校前より大成方面を望む。
大成はここより9キロ先に学校があった。

平坦な土地はシラカバ林となり、自然に還ってしまっていた。

平成28年10月、遠別町教育委員会の職員と東野・大成集落を訪れた。

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初冬の東野小中学校跡地。


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学校前にある謎の石碑(再掲)。

町職員様よりコピーをいただいた東野小学校『閉校記念誌』(昭和49年東野小学校)をめくる。
校地・校舎平面図を見る。

平面図を見ると、校門のすぐ脇に『開基60年碑』とある。
目が点になった。

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この石碑は東野地区開基60周年記念碑、であった。

写真には撮れなかったが、間近に寄って材質を確認する。
その結果、記念碑上部は針金で補強されているが石質であった。

石碑の由来が分かり喜ぶ半面、手がかじかんで寒い中、この後は大成集落へ移動した。

遠別町大成

遠別町大成(平成25年6月8日・平成28年10月31日探訪)

遠別町大成は、道道名寄遠別線にある集落である。

手前の東野地区から9キロ進むと大成である。

明治45年 岐阜県人 川尻甚助、新潟県人 小野塚清吉の入地が最初であった。
それに引き続き数戸の移民を迎えた。

そのうちの千葉栄之助、戸田千代吉等が教育の必要性を訴え、下原野29号 谷川理津蔵方の寄寓者である森川松寿氏を教師として、戸田氏の納屋を借り受け5、6人の子弟に読み書きを教えたのが最初であった。

大正5年5月8日 中央小学校所属上遠別特別教授場が公設された。
これが大成小学校の始まりであった。

開校当時の通学区域は、遠別川をはさみ南北に長く延長は3里2町(約12キロ)に達していた。
中には3、4箇所の渡船を経て通学したり、学校附近の家や学校内に寄宿した児童もいた。

大正15年4月 上遠別第二特別教授場(後の正修小学校)が認可されてからは12線以南が分割された。

昭和8年9月12日 上遠別尋常小学校に昇格。

昭和16年4月1日 上遠別国民学校と改称。

昭和22年 遠別村立大成小学校となった。

大成は通称「上ウエンベツ」と呼ばれ、遠別川を挟んだ両側は支脈が囲み、鋏状地帯である。

昭和7年頃までは渡河や渡船で過ごしていたが、同年より2年後の昭和9年までに上エンベツ1線・2線・4線・13線に吊橋が架設され、その数年後には雪見橋・風月橋・錦橋・流星橋が木製ながら架橋された。
これらは現在、コンクリート製に代わっている。

稲作、畑作のほか森林資源が豊富であることから冬山造材を受け持ち、昭和初期から20年代までは馬橇により遠別駅の土場に集積されていた。

また、春になれば山越えをして隣村のフウレンベツ(現 初山別村豊岬)へニシン漁場へ出稼ぎに行った。

昭和14年 字名改正により「大成」に変更された。

由来は「大正時代の移民にして大望抱き一意専心開拓事業に孜々営々努力せられつつあるに出づ」である。

昭和30年には23戸 164人の人々が暮らしていた。

昭和32年8月 開校40周年に伴い、新校舎が落成。

昭和41年 大成開基60周年 小学校開校50周年 中学校開校10周年記念行事が盛大に挙行された。

しかし、この地も過疎化は進行していく。

昭和45年から始まった稲作転換事業は過疎化に拍車をかけた。
既存の水田はすべて畑作に変わった。

町教委の宇野 治氏はこう話す。
「…遠別川沿いの僅かな平地を開拓したが、(遠別町)市街地から離れているのでみんな出て行ってしまった。今通ってきた道路沿いは、すべて田畑だった…。」

昭和56年4月 大成小学校 廃校。中央小学校大成分校になる。

そして翌年 昭和57年3月31日 中央小学校大成分校は廃校になった。

卒業生総数 258名であった。

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遠別町大成にあるゲート。
この先に大成小中学校、そして正修集落があった。
探訪当時、まだゲートは開いていなかったが留萌建設管理部 遠別出張所に事情を説明し、許可を得てゲートを開けた。

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学校前の大成集落。
現在、1世帯しか住まわれていない過疎集落である。
学校前も人家があり、田畑が広がっていたがすべて自然に還ってしまっている。

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大成小学校の校門と、記念碑が見えた。

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ササを刈り取り、記念碑が姿を現した。

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記念碑の背面。
木製であるため、所々傷んできている。

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記念碑の背後には校舎があった。

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雪の重みで木造部分は既に倒壊していた。
外壁だけが残っていた。

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校舎の姿はいつまで保ち続けていたのだろうか。
瓦礫と判っていても、内部を確認する。

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足元が危ない。
慎重に一歩一歩、歩く。

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この先には体育館があったが、既に倒壊している。

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戸棚が辛うじて残っていた。

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学校前に残されていた回旋塔の支柱。
子供たちがここで学び、遊んでいた証である。

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学校前より正修方面を望む。
正修はここよりまだ奥である。

平成28年10月31日 遠別町教育委員会の職員とともに上遠別方面を調査した。
天候は大雪。道道688号沿は雪に覆われ、クルマが雪で嵌って動けなくなっている姿を横目に進む。

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学校手前に神社マークがあったのでクルマを止め、それらしき敷地と記念碑らしきものを見つける。

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記念碑を見つけた。
大成地区開基60周年記念碑(昭和41年9月建立)である。

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石碑の下部に、明治期に大成へ入植した人々の名前が刻まれている。

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記念碑の傍には地神さまの碑もある。

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記念碑は昭和29年に遠別町農協青年(農協青年部と思われる)大成支部が建立した。

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寄進したのは明治期に大成に入植した小野塚清吉氏である。

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神社の拝殿跡と思われる階段もあった。

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何かの台座(狛犬?)も残っている。

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手がかじかみ、ぶれてしまったが大成小中学校校舎である。

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校舎横の回旋塔(遊具)の先に、大成地区の開拓記念碑があった。

例年より早い降雪に悩まされたが、記念碑もはっきりと見ることができた。
同行してくださった遠別町教育委員会の職員様に感謝申し上げます。

遠別町金浦

遠別町金浦(平成25年5月8日及び6月9日探訪)

遠別町金浦は、トマタウシュナイと呼ばれていた。

アイヌ語で「トマ草ノ根ヲ掘ル沢」(トマは「エゾエンゴサク」を指す)と呼ばれ、「自然のはたけでトマを掘る、小川(沢)があるところ」という意味である。

明治33年 栗崎佐太郎が御料地解除の願いを出し、翌 明治34年に許可を受け、明治35年より開墾が始まった。

明治39年1月 垣内林蔵を筆頭に有志とはかり、自身の所有地内に茅葺掘建小屋の校舎を建てた。

当初は垣内氏自ら読み書きを教えていたが、雪解けと共に開墾が始まるため、渡辺平太郎の紹介により鬼鹿村から松村覚太郎を教師として招いた。

寺子屋形式の授業が続いていたが、次第に児童数も増加し当時の戸長に教授場設置の陳情を続け、明治40年4月15日 トマタウシュナイ特別教授場が設けられた。

この頃の児童数は男8名 女4名の計12名。戸数は10戸であった。

大正6年9月 それまでの掘建小屋より新築された。

昭和2年1月7日 道庁の訓令により苫年内尋常小学校に変更になった。

昭和14年 字名改正が行なわれ「金浦」に変更になった。
由来は「農又は一部海浜部落なる故魚のとれる浜の意を含め名付ける」とのことであった。

昭和16年 金浦国民学校に変更になり、昭和22年 金浦小学校になった。

在学児童のピークは昭和36年度 66名となり、2学級複式学級であったと共に、遠別町内で唯一の海浜学校でもあった。

昭和37年 ブロック造りモルタル仕立ての新校舎、校長住宅が新築落成した。

しかし、過疎化の波は少しずつ進行していった。

昭和初期より昭和29年までニシンの群来で賑わいを見せていたが、ニシンが不漁になり、漁家が離れていった。
併せて、離農による過疎化も進行し、戸数が減少していった。

昭和53年3月末 閉校式が挙行された。

学校閉校後、居住者は少なくなってしまったが他集落からの通い作で畑作を続けている。

また、エゾカンゾウの群生地が広がっており昭和55年 「金浦原生花園」として指定を受ける。毎年6月から7月にかけて開花するので、遠別町の観光名所の一つでもある。

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平成25年5月8日 旧丸松小学校探訪帰りに立ち寄った。

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表札はすっかり色褪せており判読不能である。

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校舎は既に無く、残っていた教員住宅は「金浦公民館」として転用されていたが既に解体されている。

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「第1金浦」のバス停留所。この背後に学校があった。

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バス停より遠別市街地方面を望む。

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反対に、初山別村方面を望む。

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金浦の山間部方面を望む。

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遠くに見えるのは利尻富士。
これだけくっきりと見えるのも珍しい。

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1ヵ月後の6月9日「学舎の風景」管理人piro氏を含め常連の方々と探訪した。
遠くに見えるのはサイロ。

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サイロを拡大。遺跡の如く聳えている。

遠別町史第二巻 「金浦小学校」に記載されていた「お別れのことば」より。

「…金浦で統合のことが決まってからの1年は、さびしかった。ほんとうにさびしかった。でも3人で力を合わせてがんばったよね。(中略)いよいよお別れです。3月31日。学校よ、きみは廃校になるのだ。僕らは遠別に行ってしまう。ひとりぼっちになってさびしいだろうなあ。君、君も帰れよトマトウシュの野へ、山へ、そして僕らをみていて欲しい。僕らは、汗を流して働く人に、人を愛し、感謝の気持ちを忘れない人間になるようがんばります。70年もの間、ほんとうにありがとう。ありがとう金浦校。さようなら。さようなら金浦小学校!!」

金浦小学校卒業生総数 440名。
風光明媚なこの地にも、学び舎は在った。

遠別町正修

遠別町正修(平成25年6月8日探訪)

道道688号 名寄遠別線の最も奥にあった集落である。

手前の大成集落よりもさらに奥。行き交う車や人は全くいない、文字通り「誰もいない」集落である。


正修の入植は、大正6年3月28日 柳井作松氏、父友太郎氏が最初の入植者であった。

大正7年 雨竜郡より石川長三郎、高橋卯右エ門、渡部介四郎の三氏が入植した。

学校創立は大正11年、渡部介四郎氏の納屋10坪を借りて私設教育所として開校した。

開校当時の戸数は12戸であった。
教員は入植した渡部与平、柳井作松、石川徳美の三氏が交代で行なっていた。

大正15年4月1日 中央遠別尋常小学校所属教育所として正式な認可を得た。

昭和9年4月12日 聖修尋常小学校と改称、昭和10年4月1日 聖修青年学校を併置。

昭和16年 正修国民学校と改称し、昭和24年4月1日 正修小学校となった。

中学校は昭和38年4月1日付で併置となった。

昭和43年10月30日 集落解散により廃校となった。


正修は当初「聖修」と表記していた。
しかし昭和14年の字名改正により「村内を通し有識階級のもの多きところより「ヒジリ」を修むるが字句解し難く「聖修」を「正修」に改めたるに過ぎず」となり「正修」になった。


正修の集落は非常に厳しい環境下であった。

昭和8年当時、集落は15戸(106名)であった。戸数のピークは昭和17年の18戸を境に減少していく。

戸数減少の背景として、遠別町史第二巻では「昭和40年当初、国の食料余りから、生産調整に入り、まず主食の米作りに規制措置が布かれ、多くの住民はこの地から去った。」と書かれているが、実情は「正修校と部落の歩み」の「廃校に当って」に記されている。

その件を引用すると「戦後の復興が進み交通機関の発達につれて原野各部落の間は営農に、生活面に多きな格差を生じたことが当然の事として部落解散と学校の廃校をもたらしたものと思われる。人工衛星の利用される今日において今尚冬ともなれば交通は遮断され、一度重病人でも発生すると生命も保証されぬ現状では生存権すら保持できないのである…(中略)戸数3戸となった現在到底部落構成も不可能との判断に立ち秋には全戸下山するとの合議は10月31日を以て学校も廃校にすると9月町議会での確認となったのである。」と記されている。

それを裏付ける件として「正修ならでは」という項目があるが、特筆すべき事柄として冬の正修の実情が紹介されている。

「43年1月分俸給受領での忘れえぬ体験である。ブルによる除雪も年内は確保されたが正月を迎えると全く姿を見せず中旬の吹雪は完全に道を没していた。(中略)方々で寄り道し学校へ4Kの地点で下車したときは3時半、前面を見るにスキーの通った跡のみ以前のまゝであった。大成校迄は多少の足跡もあるが一歩それると腰迄没する中を元気であった妻も次第に疲労の色濃く荷物を軽くするも効なく大成最後の民家で小休止(中略)7時に残る4Kの更に深雪の道へ入るも全身疲労の身は遂に「四つんばい」を交え出し道さえ良ければ1時間の行程が30米進んでは「ワラ靴」の点検を追いつくのを待つやら(中略)ようやく学校の最後の坂に来た時は10時30分であった。之から先は一気にと最後の力をつけるべくすっかり凍った握り飯を食べて気力で学校へ辿りついたのはそれより1時間後であった(後略)。」

戸数の推移をまとめてみる。

大正11年 12戸      昭和22年 10戸
昭和16年 17戸      昭和23年  9戸
昭和17年 18戸      昭和33年  8戸
昭和18年 14戸      昭和35年  6戸
昭和19年 13戸      昭和42年  4戸
昭和20年 12戸      昭和43年  3戸

集落解散に至った経緯について町教委の 宇野 治氏はこう話す。

「正修の閉校記念誌がすべてを物語っている。遠別川の最上流部に位置し、標高も高いことから雪解けも遅く、原野の集落(久光・中央・共栄・東野・大成)との格差もあっただろうし、平坦な土地は僅かしかない…。」

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事前情報収集として、平成25年5月8日 遠別町郷土資料館(旧丸松小学校校舎)を訪ねた。

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郷土資料館の展示物の中に、正修小中学校の閉校記念誌があった。
許可を得て、撮影したものである。
上記のエピソードは、この冊子に記載されていたものを転載した。

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そして1ヵ月後の6月8日、町教委の宇野 治氏、中島裕司氏らと同行して探した。
離村から40年以上たち、自然と同化している。

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正修集落跡地を通り抜け、現 道道688号 名寄遠別線の工事現場まで来てしまった。
幌加内町蕗の台と繋がる予定だが、地盤が軟弱であるため土砂崩れが度々発生し、工事はなかなか捗っていないようだ。

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正修トンネル(蕗の台側)。内部は電気も無く真っ暗である。

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景色はいいが、完成したらどれだけの車両が通行するのだろうか。

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景色を楽しみつつ「学校跡はどこにあったのでしょうねぇ」と話し合う。

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よく見れば、所々に平坦な土地がある。
平坦な土地が、唯一の痕跡である。

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建物の基礎すら無い。本当に地名だけ残ってしまった廃村である。

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そうこうするうち、該当箇所を見つけた。
大成・正修の境目に位置する「念仏峠」を下って1キロくらい進んだ地点である。

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ヤブがひどいので、のり面をよじ登ることにした。

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のり面をよじ登った先には、旧道があった。
宇野氏も「間違いない、学校はこのあたりにあった」と言った。

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道路標識もそのまま残されている。

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そして、学校跡地を見つけた。

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傍に、不自然な「丸太」が朽ちつつ転がっていた。
宇野氏はこう言った。

「この朽ちた丸太が、正修小中学校跡地に建てた木碑だ…。倒れてしまったか…」

宇野氏は昭和59年 正修小中学校跡地に木碑を建てた方の一人である。

宇野氏はさらに言う。
「学校跡は平成初期に、道道名寄遠別線の道路工事で消えてしまった。校舎の奥に神社があった…。」

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学校跡地より、木碑があった場所を望む。
学校唯一の痕跡は、校舎脇の大木しかない。

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改めて、正修集落を望む。
卒業生総数 小学校90名 中学校5名のへき地等級 5級の学校だった。

今回の調査にあたり、遠別町教委の宇野 治氏、中島裕司氏、留萌建設部遠別出張所 桜井 朝輝氏、深川市 大西 慎一氏、「学舎の風景」piro氏、A.D.1600氏、ラオウ氏、呑んべえ@道北氏、「digstyle」猫爺氏に感謝申し上げます。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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