壮瞥町黄渓
壮瞥町黄渓(令和2年5月探訪)
壮瞥町黄渓は鉱山(硫黄)集落である。
明治35年高橋新三郎が硫黄鉱を発見し、明治37年岩井きよによって採掘されたのが始まりである。しかし、明治41年事業不振によって操業を一時中止した。
明治44年小田良治の所有となり、採鉱主任谷口次郎が使役20余人を引率して入山した結果、良鉱脈を発見した。
その後次第に従業員や家族も増え集落を形成し、当時は硫黄山と称されていたが大正9年、三井系の硫黄山と合併し、北海道硫黄株式会社を創設した。
硫黄鉱山が隆盛を極めたのは昭和初期から昭和35年頃までであり、会社直営の診療所、共同浴場、娯楽場、グラウンド、購買部、無集配郵便局、学校、保育所、消防分団、駐在所、個人商店(4戸)、写真屋などが軒を連ね、テレビやラジオの普及率も高くオロフレ山腹標高約600メートル、積雪も多い中でも充実した生活が営まれていた。
その後、脱硫硫黄の影響により硫黄製錬の中止を余儀なくせられ、硫化鉄鉱の採掘を続けるようになった。
昭和46年、会社や住民との話し合いの結果集団移転の実現に努め、また当時の地元議員の協力により昭和47年字滝之町に改良住宅64戸を建て、同年12月全戸が移転した。
しかし、硫化鉄鉱の需要が減少し昭和48年6月30日に閉山した。
設備関係のついての沿革は以下の通りである。
大正 3年 幌別鉱業所(幌別村・現在の登別市)より硫黄搬送のための鉄索が架設
昭和 2年 電灯設備完成(12月)
昭和28年 道路整備と貨物自動車の普及により鉄索廃止
学校の沿革は以下の通りである
小学校
大正 3年 弁慶簡易教育所黄渓特別教授場開校(5月)
大正 5年 壮瞥尋常高等小学校黄渓分教場と改称(9月)
大正 6年 久保内尋常高等小学校黄渓分教場と改称(4月)
校舎新築移転(10月)
大正10年 弁景尋常小学校黄渓分教場と改称(9月)
大正15年 校舎改築(2月)
昭和 6年 黄渓尋常小学校と改称(4月)
昭和 8年 黄渓尋常高等小学校と改称(4月)
昭和14年 校舎増築(11月)
昭和16年 黄渓国民学校と改称(4月)
昭和22年 黄渓小学校と改称(4月)
昭和31年 屋内体操場新築(11月)
昭和46年 閉校(12月)
中学校
昭和22年 久保内中学校黄渓分校として開校(5月)
昭和23年 黄渓中学校と改称(4月)
昭和28年 黄渓中学校校舎独立(10月)
昭和46年 閉校(12月)
令和2年5月、HEYANEKO氏らと訪れた。
黄渓集落の手前に墓地入り口の看板を見つけたので、墓地へ行く。
黄渓共同墓地にある墓石。
お地蔵さまに手を合わせる。
昭和7年にお地蔵さまが祀られたことがわかる。
寄進者の氏名が刻まれていた。
こちらも墓石である。
黄渓ゲート入り口。
鉱山集落はこの先にあった。
まずは黄渓中学校跡へ行ってみる。
中学校の教員住宅の基礎が残っていた。
スイセンが満開を迎えていた。
黄渓中学校跡地は基礎も残っていなかったが、平地が広がっていた。
ゲートに戻り、黄渓集落へ。
このコンクリート廃墟はプロパンガス庫である。
コンクリート廃墟が見える。
はやる気持ちを抑えつつ進む。
コンクリート廃墟は共同浴場である。
共同浴場浴槽。
先へ進むと石垣が見えてきた。
ここは2区住宅地である。
階段が残っている。
足元に気を付けながら進む。
病院を上から俯瞰する。
神社跡へ行こうとするも、笹藪が酷くなってきたので諦めた。
黄渓小学校跡地。
スイセンの花が咲いている。
学校跡地から見える廃墟は消防施設跡である。
黄渓小学校便槽。
ふと見ると、何か校門のようなものが見えた。
黄渓小学校の校門であった。
ここに学校があったことを示している。
学校を後にし、病院を探索する。
ツタに絡まる煙突は美しい。
続いて、1区住宅地へ行く。
この廃墟は郵便局(黄渓郵便局)である。
郵便局内部。
こちらは局員が寝泊まりしていた部屋の廊下である。
1区住宅地は段上の平地が広がっているが、住宅の基礎はなかった。
しかしよく見ると、電柱が残っていた。
鉱山施設周辺を探索するが、目立つ遺構は見られなかった。
参考文献
壮瞥町史編さん委員会1979『壮瞥町史』壮瞥町
堀淳一2014『等高線s第11号』コンターサークルs
壮瞥町黄渓は鉱山(硫黄)集落である。
明治35年高橋新三郎が硫黄鉱を発見し、明治37年岩井きよによって採掘されたのが始まりである。しかし、明治41年事業不振によって操業を一時中止した。
明治44年小田良治の所有となり、採鉱主任谷口次郎が使役20余人を引率して入山した結果、良鉱脈を発見した。
その後次第に従業員や家族も増え集落を形成し、当時は硫黄山と称されていたが大正9年、三井系の硫黄山と合併し、北海道硫黄株式会社を創設した。
硫黄鉱山が隆盛を極めたのは昭和初期から昭和35年頃までであり、会社直営の診療所、共同浴場、娯楽場、グラウンド、購買部、無集配郵便局、学校、保育所、消防分団、駐在所、個人商店(4戸)、写真屋などが軒を連ね、テレビやラジオの普及率も高くオロフレ山腹標高約600メートル、積雪も多い中でも充実した生活が営まれていた。
その後、脱硫硫黄の影響により硫黄製錬の中止を余儀なくせられ、硫化鉄鉱の採掘を続けるようになった。
昭和46年、会社や住民との話し合いの結果集団移転の実現に努め、また当時の地元議員の協力により昭和47年字滝之町に改良住宅64戸を建て、同年12月全戸が移転した。
しかし、硫化鉄鉱の需要が減少し昭和48年6月30日に閉山した。
設備関係のついての沿革は以下の通りである。
大正 3年 幌別鉱業所(幌別村・現在の登別市)より硫黄搬送のための鉄索が架設
昭和 2年 電灯設備完成(12月)
昭和28年 道路整備と貨物自動車の普及により鉄索廃止
学校の沿革は以下の通りである
小学校
大正 3年 弁慶簡易教育所黄渓特別教授場開校(5月)
大正 5年 壮瞥尋常高等小学校黄渓分教場と改称(9月)
大正 6年 久保内尋常高等小学校黄渓分教場と改称(4月)
校舎新築移転(10月)
大正10年 弁景尋常小学校黄渓分教場と改称(9月)
大正15年 校舎改築(2月)
昭和 6年 黄渓尋常小学校と改称(4月)
昭和 8年 黄渓尋常高等小学校と改称(4月)
昭和14年 校舎増築(11月)
昭和16年 黄渓国民学校と改称(4月)
昭和22年 黄渓小学校と改称(4月)
昭和31年 屋内体操場新築(11月)
昭和46年 閉校(12月)
中学校
昭和22年 久保内中学校黄渓分校として開校(5月)
昭和23年 黄渓中学校と改称(4月)
昭和28年 黄渓中学校校舎独立(10月)
昭和46年 閉校(12月)
令和2年5月、HEYANEKO氏らと訪れた。
黄渓集落の手前に墓地入り口の看板を見つけたので、墓地へ行く。
黄渓共同墓地にある墓石。
お地蔵さまに手を合わせる。
昭和7年にお地蔵さまが祀られたことがわかる。
寄進者の氏名が刻まれていた。
こちらも墓石である。
黄渓ゲート入り口。
鉱山集落はこの先にあった。
まずは黄渓中学校跡へ行ってみる。
中学校の教員住宅の基礎が残っていた。
スイセンが満開を迎えていた。
黄渓中学校跡地は基礎も残っていなかったが、平地が広がっていた。
ゲートに戻り、黄渓集落へ。
このコンクリート廃墟はプロパンガス庫である。
コンクリート廃墟が見える。
はやる気持ちを抑えつつ進む。
コンクリート廃墟は共同浴場である。
共同浴場浴槽。
先へ進むと石垣が見えてきた。
ここは2区住宅地である。
階段が残っている。
足元に気を付けながら進む。
病院を上から俯瞰する。
神社跡へ行こうとするも、笹藪が酷くなってきたので諦めた。
黄渓小学校跡地。
スイセンの花が咲いている。
学校跡地から見える廃墟は消防施設跡である。
黄渓小学校便槽。
ふと見ると、何か校門のようなものが見えた。
黄渓小学校の校門であった。
ここに学校があったことを示している。
学校を後にし、病院を探索する。
ツタに絡まる煙突は美しい。
続いて、1区住宅地へ行く。
この廃墟は郵便局(黄渓郵便局)である。
郵便局内部。
こちらは局員が寝泊まりしていた部屋の廊下である。
1区住宅地は段上の平地が広がっているが、住宅の基礎はなかった。
しかしよく見ると、電柱が残っていた。
鉱山施設周辺を探索するが、目立つ遺構は見られなかった。
参考文献
壮瞥町史編さん委員会1979『壮瞥町史』壮瞥町
堀淳一2014『等高線s第11号』コンターサークルs
三笠市奔別沢(再訪・再再訪)
三笠市奔別沢(平成26年6月再訪・令和2年11月再再訪)
三笠市奔別沢は既に平成24年10月6日探訪し、レポートした。
日本の過疎地 三笠市奔別沢
今回、「学舎の風景」合同調査の一環として再訪したことをレポートするとともに、新しい情報を記していく。
奔別沢は戦後開拓によって出来た集落であった。
昭和26年 奔別沢開拓地として10戸入植した。
子供たちは当時、8キロ離れた奔別小学校へ通学していたが、冬期間は奔別や幾春別の親戚の家から通っていた。
当時の奔別小学校校長 石塚久直は奔別沢に分校を作ることを考案し、関係機関に働きかけた。
その結果、昭和31年1月19日 奔別沢分校が開校した。
教員として高橋鎮夫が赴任したが、児童数は4名であった。
この年、文房具雑誌が子供たちに配布された。
昭和33年頃の在籍児童数は13名を数えていた。(注1)
内訳は1年生5人 2年生3人 3年生3人 4年生0 5年生2人 6年生0である。
しかし、住民の転出により児童数が減少していった。
昭和38年5月 在学児童2人の転校が決まり、廃校となった。
奔別沢集落入口の橋。
集落側より奔別小学校方向を望む。
橋は一部崩れている。
平成24年の探訪当時も、この状態であった。
渡った先の風景。
ここも怪しい「ポイント」であるが古い航空写真や地形図を見ると、何も記載されていない。
奥へ進もうとしたら、目の前に子グマがいた。
母グマが近くにいることが予想されるので、探訪当時はこれより奥に進んでいない。
子グマと遭遇した地点より、手前側を調査することにした。
なだらかな上り坂が残されていた。
先へ進んでみる。
一面、だだっ広い風景が広がっていた。
どこに学校があったのか全く分からない。
もう1か所の「候補地」へ足を踏み込む。
この時、同行したLEVEL7G氏とともにササを掻き分けて進んだ。
植林された平地が広がっているが、奥に一段、高くなっている場所がある。
一段登った先の風景も、変わらなかった。
登った先より下を眺める。
下の段は「扇状」に広がっており、家屋が写っているが学校ではない。
今回も、跡地の正確な特定はできなかった。
ただ、「奔別沢」集落跡に足を踏み込んでいるのは確かである。
帰りがけ、本校である奔別小学校跡地も立ち寄った。
隣接地に幾春別小学校(移転前の校舎)が建ち、日本一の在籍児童数を抱えていた学舎も、奔別炭鉱の閉山により児童数が激減し、昭和48年3月11日に閉校となった。
参考資料として活用した「10年の歩み 1958.7 三笠市立奔別小学校」(昭和33年7月13日発行)の「奥付け」に記載されていた一文より。
『(前略)この小冊子が家庭のお父さんやお母さんそれにおばあちゃんそれに子供たちにまで手あかで黒光りするほどひろく読まれたらうれしいのですがまだ二十年、三十年。いや五十年も百年もつづくであろう奔別小学校の将来においてこのささやかな冊子が学校の歴史のよい資料として役立つことを信じて、私共の仕事を終ります。』
月日が流れ令和2年11月、A.D.1600氏と探訪した。
倒木でクルマでの探訪は無理と判断し、徒歩で行くことにした。
ここから学校跡地までは5.5キロ。
二つ目の橋を渡った先。奔別沢開拓集落入口。
空中写真を見ると、ここに1軒の開拓農家があった。
なだらかな上り坂を進む。
少し広い平地が見えた。かつての農地跡と思われる。
路面の至る所に水たまりができている。
奔別川の激流で道路がえぐれている。
迂回して先を進む。
地層が露わになっていたので見ると泥炭である。
山あいで日照も少なく、泥炭という条件の開拓は「苦闘」であったのは目に見えている。
足元を見るとクマの足跡がくっきり残っていた。
生きた心地がしない中、先を進む。
またも川の激流で道路がえぐられていた。
ひたすら先を進む。
学校跡地手前の道も川の水量でえぐられていた。
そしてようやく、奔別沢分校跡地に到達した。
学校跡地の決め手になったのは
①空中写真で校舎の屋根が写っていたこと
②奔別沢集落は南北に細長いので、子どもの通学を考えたら集落の中央に校舎を建てるのが妥当であること である。
学校跡地の対面には神社も建立されていたので神社跡も行ってみる。
神社跡は雪で何も見えなかった。
奔別沢分校跡地全景。
離村から50年以上の月日が流れ、集落の面影は消えようとしていた。
※(注1) 在籍児童数は「10年の歩み 1958.7 三笠市立奔別小学校」の奥付に記載されていた。
三笠市奔別沢は既に平成24年10月6日探訪し、レポートした。
日本の過疎地 三笠市奔別沢
今回、「学舎の風景」合同調査の一環として再訪したことをレポートするとともに、新しい情報を記していく。
奔別沢は戦後開拓によって出来た集落であった。
昭和26年 奔別沢開拓地として10戸入植した。
子供たちは当時、8キロ離れた奔別小学校へ通学していたが、冬期間は奔別や幾春別の親戚の家から通っていた。
当時の奔別小学校校長 石塚久直は奔別沢に分校を作ることを考案し、関係機関に働きかけた。
その結果、昭和31年1月19日 奔別沢分校が開校した。
教員として高橋鎮夫が赴任したが、児童数は4名であった。
この年、文房具雑誌が子供たちに配布された。
昭和33年頃の在籍児童数は13名を数えていた。(注1)
内訳は1年生5人 2年生3人 3年生3人 4年生0 5年生2人 6年生0である。
しかし、住民の転出により児童数が減少していった。
昭和38年5月 在学児童2人の転校が決まり、廃校となった。
奔別沢集落入口の橋。
集落側より奔別小学校方向を望む。
橋は一部崩れている。
平成24年の探訪当時も、この状態であった。
渡った先の風景。
ここも怪しい「ポイント」であるが古い航空写真や地形図を見ると、何も記載されていない。
奥へ進もうとしたら、目の前に子グマがいた。
母グマが近くにいることが予想されるので、探訪当時はこれより奥に進んでいない。
子グマと遭遇した地点より、手前側を調査することにした。
なだらかな上り坂が残されていた。
先へ進んでみる。
一面、だだっ広い風景が広がっていた。
どこに学校があったのか全く分からない。
もう1か所の「候補地」へ足を踏み込む。
この時、同行したLEVEL7G氏とともにササを掻き分けて進んだ。
植林された平地が広がっているが、奥に一段、高くなっている場所がある。
一段登った先の風景も、変わらなかった。
登った先より下を眺める。
下の段は「扇状」に広がっており、家屋が写っているが学校ではない。
今回も、跡地の正確な特定はできなかった。
ただ、「奔別沢」集落跡に足を踏み込んでいるのは確かである。
帰りがけ、本校である奔別小学校跡地も立ち寄った。
隣接地に幾春別小学校(移転前の校舎)が建ち、日本一の在籍児童数を抱えていた学舎も、奔別炭鉱の閉山により児童数が激減し、昭和48年3月11日に閉校となった。
参考資料として活用した「10年の歩み 1958.7 三笠市立奔別小学校」(昭和33年7月13日発行)の「奥付け」に記載されていた一文より。
『(前略)この小冊子が家庭のお父さんやお母さんそれにおばあちゃんそれに子供たちにまで手あかで黒光りするほどひろく読まれたらうれしいのですがまだ二十年、三十年。いや五十年も百年もつづくであろう奔別小学校の将来においてこのささやかな冊子が学校の歴史のよい資料として役立つことを信じて、私共の仕事を終ります。』
月日が流れ令和2年11月、A.D.1600氏と探訪した。
倒木でクルマでの探訪は無理と判断し、徒歩で行くことにした。
ここから学校跡地までは5.5キロ。
二つ目の橋を渡った先。奔別沢開拓集落入口。
空中写真を見ると、ここに1軒の開拓農家があった。
なだらかな上り坂を進む。
少し広い平地が見えた。かつての農地跡と思われる。
路面の至る所に水たまりができている。
奔別川の激流で道路がえぐれている。
迂回して先を進む。
地層が露わになっていたので見ると泥炭である。
山あいで日照も少なく、泥炭という条件の開拓は「苦闘」であったのは目に見えている。
足元を見るとクマの足跡がくっきり残っていた。
生きた心地がしない中、先を進む。
またも川の激流で道路がえぐられていた。
ひたすら先を進む。
学校跡地手前の道も川の水量でえぐられていた。
そしてようやく、奔別沢分校跡地に到達した。
学校跡地の決め手になったのは
①空中写真で校舎の屋根が写っていたこと
②奔別沢集落は南北に細長いので、子どもの通学を考えたら集落の中央に校舎を建てるのが妥当であること である。
学校跡地の対面には神社も建立されていたので神社跡も行ってみる。
神社跡は雪で何も見えなかった。
奔別沢分校跡地全景。
離村から50年以上の月日が流れ、集落の面影は消えようとしていた。
※(注1) 在籍児童数は「10年の歩み 1958.7 三笠市立奔別小学校」の奥付に記載されていた。