黒松内町五十嵐
黒松内町五十嵐(平成30年2月9日探訪)
黒松内町五十嵐は戦後開拓集落である。
明治26年五十嵐川下流域に2,3軒の農家があり、明治36年には澱粉製造工場があったが、本格的な開拓は戦後に入ってからである。
昭和21年に1戸、23年に16戸、25年に4戸、31年に3戸入植した。入植者は樺太や満州からの引揚者、静岡県出身者で占められていた。
昭和27年中ノ川小学校五十嵐分校として開校、昭和34年には独立校となったが、営農条件の悪さや冬季間、各戸が雪で孤立するような状態であったため昭和42年3月に学校は閉校。昭和47年4月、日東農場に経営地を現物出資して全戸離農した。
学校の沿革は以下の通りである。
昭和27年 中ノ川小学校五十嵐分校として開校
昭和34年 五十嵐小学校と改称・校舎改築(4月)
昭和42年 閉校(3月)
閉校時の記事を掲載する。
最後の卒業式兼ねて 五十嵐小 開拓とともに16年
「【黒松内】黒松内市街地から9キロ離れた開拓部落の五十嵐小(木村正志校長)で、24日閉校式をかねた最後の卒業式を行った。ことし卒業生を出してしまうと残るのは3人だけ。子供たちは『一人ぼっちになってもこの学校がいいや』といっていたが、お隣の中ノ川小学校に統合して閉校と決まったもの。精いっぱい手を振って先生と学校にお別れしていった。
同校は27年2月に中ノ川小学校の分校として発足、独立後に昇格した34年に生徒数は26人までふえたが、その後漸減、ことし4人が卒業すると3人しか残らない。
生徒数が減ったのは、この部落が強酸性の土壌、濃霧地帯という悪い営農条件のため作況が思わしくなく離農者が相次いだため。入植時の24年には24戸あったのが今では半分以下の10戸に減った。
式には川村町長、阿部教育長、今井副議長らも出席。『学校がなくなっても部落は残る。一生懸命勉強してほしい』と激励、これに対し7人の子たちは一人一人答辞で『先生きっとがんばります。だけどこんな立派な学校がなくなるなんてわたしたちはさびしいです。噴水の魚やサクラの木や校舎もさびしいでしょうね』とうったえていた。
卒業証書と修了証書を手にした子供たちは表に整列した先生や来賓、PTAの人たちに見送られ、さかんに手を振ってこの日限りでなくなってしまう学校に最後のお別れをした。」(北海道新聞後志版昭和43年3月26日)
平成30年最初の探訪はHEYANEKO氏らと後志管内の廃校廃村を訪ねた。
地図によればこの辺りに数軒の家屋マークが記されているが、辺り一面雪景色である。
学校跡地は農場の建物になっていた。
雪山を登り、学校跡地を望む。
学校跡地の傍に、サイロが残っていた。
集落の唯一の名残である。
集落入口の高台より日東農場を俯瞰する。
五十嵐のに戦後開拓で入植した人々の名残は、廃サイロのみであった。
参考文献
北海道新聞1968「最後の卒業式兼ねて 五十嵐小 開拓とともに16年」北海道新聞後志版昭和43年3月26日
黒松内町1993『黒松内町史下巻』黒松内町
「角川日本地名大辞典」編纂委員会1987『角川日本地名大辞典1-[1]北海道上巻』角川書店
黒松内町五十嵐は戦後開拓集落である。
明治26年五十嵐川下流域に2,3軒の農家があり、明治36年には澱粉製造工場があったが、本格的な開拓は戦後に入ってからである。
昭和21年に1戸、23年に16戸、25年に4戸、31年に3戸入植した。入植者は樺太や満州からの引揚者、静岡県出身者で占められていた。
昭和27年中ノ川小学校五十嵐分校として開校、昭和34年には独立校となったが、営農条件の悪さや冬季間、各戸が雪で孤立するような状態であったため昭和42年3月に学校は閉校。昭和47年4月、日東農場に経営地を現物出資して全戸離農した。
学校の沿革は以下の通りである。
昭和27年 中ノ川小学校五十嵐分校として開校
昭和34年 五十嵐小学校と改称・校舎改築(4月)
昭和42年 閉校(3月)
閉校時の記事を掲載する。
最後の卒業式兼ねて 五十嵐小 開拓とともに16年
「【黒松内】黒松内市街地から9キロ離れた開拓部落の五十嵐小(木村正志校長)で、24日閉校式をかねた最後の卒業式を行った。ことし卒業生を出してしまうと残るのは3人だけ。子供たちは『一人ぼっちになってもこの学校がいいや』といっていたが、お隣の中ノ川小学校に統合して閉校と決まったもの。精いっぱい手を振って先生と学校にお別れしていった。
同校は27年2月に中ノ川小学校の分校として発足、独立後に昇格した34年に生徒数は26人までふえたが、その後漸減、ことし4人が卒業すると3人しか残らない。
生徒数が減ったのは、この部落が強酸性の土壌、濃霧地帯という悪い営農条件のため作況が思わしくなく離農者が相次いだため。入植時の24年には24戸あったのが今では半分以下の10戸に減った。
式には川村町長、阿部教育長、今井副議長らも出席。『学校がなくなっても部落は残る。一生懸命勉強してほしい』と激励、これに対し7人の子たちは一人一人答辞で『先生きっとがんばります。だけどこんな立派な学校がなくなるなんてわたしたちはさびしいです。噴水の魚やサクラの木や校舎もさびしいでしょうね』とうったえていた。
卒業証書と修了証書を手にした子供たちは表に整列した先生や来賓、PTAの人たちに見送られ、さかんに手を振ってこの日限りでなくなってしまう学校に最後のお別れをした。」(北海道新聞後志版昭和43年3月26日)
平成30年最初の探訪はHEYANEKO氏らと後志管内の廃校廃村を訪ねた。
地図によればこの辺りに数軒の家屋マークが記されているが、辺り一面雪景色である。
学校跡地は農場の建物になっていた。
雪山を登り、学校跡地を望む。
学校跡地の傍に、サイロが残っていた。
集落の唯一の名残である。
集落入口の高台より日東農場を俯瞰する。
五十嵐のに戦後開拓で入植した人々の名残は、廃サイロのみであった。
参考文献
北海道新聞1968「最後の卒業式兼ねて 五十嵐小 開拓とともに16年」北海道新聞後志版昭和43年3月26日
黒松内町1993『黒松内町史下巻』黒松内町
「角川日本地名大辞典」編纂委員会1987『角川日本地名大辞典1-[1]北海道上巻』角川書店
猿払村猿骨開拓
猿払村猿骨開拓(平成29年9月16日探訪)
猿払村猿骨開拓は戦後開拓集落である。
昭和25年11月、猿骨団地に9戸、芦野団地に12戸入植者が現れた。
その後も昭和26年から34年にかけて延べ67戸が入植した。
開拓入植者の多くが山形県出身者で、泥炭地で根曲り竹が繁茂していた原野を開拓していった。
しかし、気候が厳しく度重なる冷害に見舞われたことや過剰入植対策の実施により、昭和34年の67戸のうち35戸が離農している。
また、浜鬼志別港から漁船が出るようになってから浜鬼志別へ転出していくものもいた。
学校の沿革は以下の通りである。
昭和32年 芦野小学校栄分校開校(4月)
昭和46年 閉校(3月)
閉校時の記事を掲載する
分校よサラバ 栄校で廃校式
「〔猿払〕芦野小学校栄分校の廃校式は30日午後1時から同校で盛大に行われた。
笠井村長をはじめ、議会議長、部落会長など多数の来賓が出席して行われ、功労者に感謝状が贈られた。
昭和32年3月31日に芦野小学校分校として創立され、同年4月1日に開校し今日までに至った。14年間の歴史にピリオドを打ち廃校の運びになった。
今までに81名の卒業生を送り出し多い年には10名の卒業生を送り出したという。」
宗谷地方を巡る廃校廃村探訪 猿払村猿骨開拓を訪れた。
橋の名は「猿骨開拓橋」
川の名は「猿骨川」
橋を渡ると牧草畑が広がっている。
栄分校跡地。校舎の基礎や防風林も見当たらなかった。
見渡す限りの牧草畑が広がっている。
戦後開拓集落の名残は、橋の名前のみであった。
参考文献
猿払村史編纂発行委員会1976『猿払村史』猿払村役場
猿払村史編さん発行委員会2014『猿払村史第2巻』猿払村役場
日刊宗谷1971「分校よサラバ 栄校で廃校式」日刊宗谷昭和46年3月31日
猿払村猿骨開拓は戦後開拓集落である。
昭和25年11月、猿骨団地に9戸、芦野団地に12戸入植者が現れた。
その後も昭和26年から34年にかけて延べ67戸が入植した。
開拓入植者の多くが山形県出身者で、泥炭地で根曲り竹が繁茂していた原野を開拓していった。
しかし、気候が厳しく度重なる冷害に見舞われたことや過剰入植対策の実施により、昭和34年の67戸のうち35戸が離農している。
また、浜鬼志別港から漁船が出るようになってから浜鬼志別へ転出していくものもいた。
学校の沿革は以下の通りである。
昭和32年 芦野小学校栄分校開校(4月)
昭和46年 閉校(3月)
閉校時の記事を掲載する
分校よサラバ 栄校で廃校式
「〔猿払〕芦野小学校栄分校の廃校式は30日午後1時から同校で盛大に行われた。
笠井村長をはじめ、議会議長、部落会長など多数の来賓が出席して行われ、功労者に感謝状が贈られた。
昭和32年3月31日に芦野小学校分校として創立され、同年4月1日に開校し今日までに至った。14年間の歴史にピリオドを打ち廃校の運びになった。
今までに81名の卒業生を送り出し多い年には10名の卒業生を送り出したという。」
宗谷地方を巡る廃校廃村探訪 猿払村猿骨開拓を訪れた。
橋の名は「猿骨開拓橋」
川の名は「猿骨川」
橋を渡ると牧草畑が広がっている。
栄分校跡地。校舎の基礎や防風林も見当たらなかった。
見渡す限りの牧草畑が広がっている。
戦後開拓集落の名残は、橋の名前のみであった。
参考文献
猿払村史編纂発行委員会1976『猿払村史』猿払村役場
猿払村史編さん発行委員会2014『猿払村史第2巻』猿払村役場
日刊宗谷1971「分校よサラバ 栄校で廃校式」日刊宗谷昭和46年3月31日
稚内市峰岡
稚内市峰岡(平成29年9月・令和元年10月・11月・令和2年3月探訪・大幅改定)
稚内市峰岡は漁村集落であり、元々は時前と称されていた。
開拓した記録は明治10年や、14年、20年と言われており特定はできないが、明治時代初期には人々が暮らしていた。
学校は明治41年9月5日、森田源太を主唱として玉木儀八郎、岩谷秀太郎、森田来治等の尽力により宗谷村大字泊内村トキマエ番外地に間口5間、奥行2間の教育所校舎を設立した。翌明治42年5月29日、公立時前教育所として認可された。この当時の戸数は13戸、児童は19名であった。
学校の沿革は以下の通りである
小学校
明治41年 私設教育所を設立(9月)
明治42年 時前教育所として認可(5月)
大正6年 時前尋常小学校と改称(3月)
大正13年 猿払村立知来別尋常小学校苗太路特別教授場、時前尋常小学校所属となる(1月)
昭和3年 苗太路特別教授場、苗太路尋常小学校と独立(5月)
昭和16年 時前国民学校と改称(4月)
同年 峰岡国民学校と改称(9月)
昭和22年 峰岡小学校と改称(4月)
昭和24年 校舎新築移転(12月)
昭和42年 峰岡家庭教育学級開校(12月)
昭和44年 閉校(9月)
中学校
昭和24年 大岬中学校峰岡分校開校(12月)
昭和27年 峰岡中学校と改称(4月)
昭和44年 閉校(9月)
集落の主要な出来事
大正12年 本校訓導兼校長 小笠原志富、病死のため部落葬執行(原文ママ)
昭和23年 目梨に引揚者11戸入植(6月)
同年 電話開通落成祝賀会(9月)
昭和26年 泊内沿岸にシャチ群来 全校見学(2月)
昭和27年 ニシン大漁のため繁忙休業(4月22~29日)
昭和28年 ソ連船だ捕・スパイ関三次郎事件(8月)
昭和35年 東信秀校長急逝、学校葬執行(3月)
昭和37年 峰岡地区に電灯導入(12月)
昭和44年 開基80年・創立60周年記念行事挙行(9月)
閉校時の新聞記事を転載する。
名残り惜しむ部落民 消える峰岡部落 淋しさこらえて「蛍の光」学校閉鎖とあわせ解散式
「部落ぐるみで移転することになっている稚内市峰岡の部落解散と、小中学校の閉校式は、部落の開基80年、小学校創立60年の記念式典とあわせ、1日午前11時から同校で行った。出席した部落民や生徒は「蛍の光」で別れを惜しみ、サイダーやジュースでお互いの健康を祈りあっていた。
同部落は稚内市の最東端にある。明治20年頃から開拓のクワが入れられ、ホタテの「貝場」、ニシンで栄えた。また戦後の外地引揚者も数多く入り、一時は戸数60戸、人口は400人にもなったことがある。しかし、漁業資源の不足、花嫁不足、後継者難の社会情勢から、他地区への転出が相次ぎ、現在では一般住宅5戸、先生の住宅3戸、人口わずか31人に減少している。生徒の数もわずか9人で、そのうち1戸から6人が通学している状態。
部落民は数年前から漁港の建設、船揚場の設置などを市へ要望していたが、衰退する部落の姿から「巨費を投じる価値がない」と判断、市議会などとともに部落の移転が将来のため―と住民に諮った。先祖の代から住みついでいる部落民は、はじめ部落閉鎖という事態にかなり強い難色を示していたが、宮本岩太郎部落会長らが中心になって話合いを続けた結果、移転費さえ補償されるならとこの移転案に同意、この日の部落解散式となったもの。
全国的にも例がないこの解散に、市でも異例といわれる移転補助金を13戸分700万円を計上、今議会で承認を得ることになっている。
現在部落に残っている5戸も遅い人でも11月中には移転し、生徒も今月10日過ぎまでには他へ転校する。したがって、この日の解散式、閉校式後若干の間は部落も存在するがその後は完全に無人化状態になる。
この日の式典には、部落民や峰岡出身者など約40人、それに来賓などが出席。最後の別れを惜しんだ。浜森市長も「消滅するための解散ではなく、将来に向かって発展するための解散であってほしい」と部落民を激励していた。
部落の発展や学校のためにつくした宮本岩太郎氏ら多数に感謝状と記念品が贈られた後、残り少ない生徒たちが「ああ、美わしきわが故郷(さと)よ」と校歌を唄い、また参加者全員で「蛍の光」を唄って、つきぬ名残りを惜しんだ。」(「日刊宗谷」昭和44年9月2日)
学校の沿革は以下のとおりである。
小学校
明治42年 時前教育所として開校(5月)
大正 6年 時前尋常小学校と改称(6月)
昭和16年 時前国民学校と変更(4月)
同年 峰岡国民学校と改称(9月)
昭和22年 峰岡小学校と改称(4月)
昭和44年 閉校
中学校
昭和24年 大岬中学校峰岡分校として開校(5月)
昭和27年 峰岡中学校と改称(4月)
昭和44年 閉校
宗谷管内の廃校廃村を巡る旅、メインである稚内市峰岡。
ここから学校までは徒歩約20分と見積もって歩きはじめた。
歩き始めてから少し経ち、地形図に書かれた「墓地マーク」のポイントに来た。
明治時代からある集落なので、学校と神社、墓地は集落に「なくてはならないもの」である。
その墓地は植林されていた。
墓地を後にして先へ進む。
学校跡へ近づいてきた。
峰岡小中学校へ到達した。
へき地4級、日本最北の「学校跡がある廃村」である。
周辺には水道関係の基礎や教員住宅の基礎、瓶などが転がっている。
学校と神社・その先にあった桃尻集落へ続く橋の基礎。
尚、「桃尻」は「モムジリ」と読む。
瓶が転がっている。
平坦地が所々に広がっているので、屋敷跡の決め手にもなる。
学校の背後にあった神社跡へ進む。
しかし。背丈以上のササがびっしりと生い茂っていた。
これでは前に進むこともできない。
諦めて移転前の学校跡地へ行くことにした。
地形図を見比べると、移転前の学校は神社の隣接地に文マークがしるされている。
校舎・校庭があってもおかしくない広さである。
学校の入り口らしき跡には松の木が生えていた。
移転前の校舎跡より移転後の校舎跡を眺める。
これより先は再訪した時(令和元年10月・11月)のものである。
戦後、引揚者が入植した目梨集落跡。
子どもたちは峰岡の学校へ通学していた。
目梨集落風景。
旧版地形図では左手の森に神社マークがある。
神社跡地付近。
「峰岡」の地名は今もある。
学校跡地(水飲み場)。
タコ工場跡の基礎。
対岸の高台より峰岡集落を俯瞰する。
3メートル近い笹をかき分けて進んだが、この時は遭難寸前だった。
令和2年3月、HEYANEKO氏らと再び、足を運ぶ。
学校手前の旧道の風景。
現在の学校跡と移転前の学校跡を比較する。
時前川の河口は凍っていた。
対岸の旗竿。
神社跡地付近に残る電柱。
神社跡地。
決め手は「サクラ」の樹が植わっていたことである。
神社跡地周辺の風景。
対岸の位置関係。
冬の探索は基礎が埋もれている反面、旧道がしっかり姿を現すので位置関係がよく分かった。
参考文献
北海道新聞1953「関三次郎を起訴 最高検で司令 出入国管理令違反等で」『北海道新聞』昭和28年8月26日
北海道新聞上川・宗谷天塩版1953「現地特派記者が語るソ連船だ補事件の裏話」『北海道新聞』昭和28年8月16日
1969『あゆみ』峰岡開基80年 峰岡小学校開校60周年記念協賛会
日刊宗谷1969「名残り惜しむ部落民 消える峰岡部落 淋しさこらえて「蛍の光」学校閉鎖とあわせ解散式」『日刊宗谷』昭和44年9月2日
稚内市峰岡は漁村集落であり、元々は時前と称されていた。
開拓した記録は明治10年や、14年、20年と言われており特定はできないが、明治時代初期には人々が暮らしていた。
学校は明治41年9月5日、森田源太を主唱として玉木儀八郎、岩谷秀太郎、森田来治等の尽力により宗谷村大字泊内村トキマエ番外地に間口5間、奥行2間の教育所校舎を設立した。翌明治42年5月29日、公立時前教育所として認可された。この当時の戸数は13戸、児童は19名であった。
学校の沿革は以下の通りである
小学校
明治41年 私設教育所を設立(9月)
明治42年 時前教育所として認可(5月)
大正6年 時前尋常小学校と改称(3月)
大正13年 猿払村立知来別尋常小学校苗太路特別教授場、時前尋常小学校所属となる(1月)
昭和3年 苗太路特別教授場、苗太路尋常小学校と独立(5月)
昭和16年 時前国民学校と改称(4月)
同年 峰岡国民学校と改称(9月)
昭和22年 峰岡小学校と改称(4月)
昭和24年 校舎新築移転(12月)
昭和42年 峰岡家庭教育学級開校(12月)
昭和44年 閉校(9月)
中学校
昭和24年 大岬中学校峰岡分校開校(12月)
昭和27年 峰岡中学校と改称(4月)
昭和44年 閉校(9月)
集落の主要な出来事
大正12年 本校訓導兼校長 小笠原志富、病死のため部落葬執行(原文ママ)
昭和23年 目梨に引揚者11戸入植(6月)
同年 電話開通落成祝賀会(9月)
昭和26年 泊内沿岸にシャチ群来 全校見学(2月)
昭和27年 ニシン大漁のため繁忙休業(4月22~29日)
昭和28年 ソ連船だ捕・スパイ関三次郎事件(8月)
昭和35年 東信秀校長急逝、学校葬執行(3月)
昭和37年 峰岡地区に電灯導入(12月)
昭和44年 開基80年・創立60周年記念行事挙行(9月)
閉校時の新聞記事を転載する。
名残り惜しむ部落民 消える峰岡部落 淋しさこらえて「蛍の光」学校閉鎖とあわせ解散式
「部落ぐるみで移転することになっている稚内市峰岡の部落解散と、小中学校の閉校式は、部落の開基80年、小学校創立60年の記念式典とあわせ、1日午前11時から同校で行った。出席した部落民や生徒は「蛍の光」で別れを惜しみ、サイダーやジュースでお互いの健康を祈りあっていた。
同部落は稚内市の最東端にある。明治20年頃から開拓のクワが入れられ、ホタテの「貝場」、ニシンで栄えた。また戦後の外地引揚者も数多く入り、一時は戸数60戸、人口は400人にもなったことがある。しかし、漁業資源の不足、花嫁不足、後継者難の社会情勢から、他地区への転出が相次ぎ、現在では一般住宅5戸、先生の住宅3戸、人口わずか31人に減少している。生徒の数もわずか9人で、そのうち1戸から6人が通学している状態。
部落民は数年前から漁港の建設、船揚場の設置などを市へ要望していたが、衰退する部落の姿から「巨費を投じる価値がない」と判断、市議会などとともに部落の移転が将来のため―と住民に諮った。先祖の代から住みついでいる部落民は、はじめ部落閉鎖という事態にかなり強い難色を示していたが、宮本岩太郎部落会長らが中心になって話合いを続けた結果、移転費さえ補償されるならとこの移転案に同意、この日の部落解散式となったもの。
全国的にも例がないこの解散に、市でも異例といわれる移転補助金を13戸分700万円を計上、今議会で承認を得ることになっている。
現在部落に残っている5戸も遅い人でも11月中には移転し、生徒も今月10日過ぎまでには他へ転校する。したがって、この日の解散式、閉校式後若干の間は部落も存在するがその後は完全に無人化状態になる。
この日の式典には、部落民や峰岡出身者など約40人、それに来賓などが出席。最後の別れを惜しんだ。浜森市長も「消滅するための解散ではなく、将来に向かって発展するための解散であってほしい」と部落民を激励していた。
部落の発展や学校のためにつくした宮本岩太郎氏ら多数に感謝状と記念品が贈られた後、残り少ない生徒たちが「ああ、美わしきわが故郷(さと)よ」と校歌を唄い、また参加者全員で「蛍の光」を唄って、つきぬ名残りを惜しんだ。」(「日刊宗谷」昭和44年9月2日)
学校の沿革は以下のとおりである。
小学校
明治42年 時前教育所として開校(5月)
大正 6年 時前尋常小学校と改称(6月)
昭和16年 時前国民学校と変更(4月)
同年 峰岡国民学校と改称(9月)
昭和22年 峰岡小学校と改称(4月)
昭和44年 閉校
中学校
昭和24年 大岬中学校峰岡分校として開校(5月)
昭和27年 峰岡中学校と改称(4月)
昭和44年 閉校
宗谷管内の廃校廃村を巡る旅、メインである稚内市峰岡。
ここから学校までは徒歩約20分と見積もって歩きはじめた。
歩き始めてから少し経ち、地形図に書かれた「墓地マーク」のポイントに来た。
明治時代からある集落なので、学校と神社、墓地は集落に「なくてはならないもの」である。
その墓地は植林されていた。
墓地を後にして先へ進む。
学校跡へ近づいてきた。
峰岡小中学校へ到達した。
へき地4級、日本最北の「学校跡がある廃村」である。
周辺には水道関係の基礎や教員住宅の基礎、瓶などが転がっている。
学校と神社・その先にあった桃尻集落へ続く橋の基礎。
尚、「桃尻」は「モムジリ」と読む。
瓶が転がっている。
平坦地が所々に広がっているので、屋敷跡の決め手にもなる。
学校の背後にあった神社跡へ進む。
しかし。背丈以上のササがびっしりと生い茂っていた。
これでは前に進むこともできない。
諦めて移転前の学校跡地へ行くことにした。
地形図を見比べると、移転前の学校は神社の隣接地に文マークがしるされている。
校舎・校庭があってもおかしくない広さである。
学校の入り口らしき跡には松の木が生えていた。
移転前の校舎跡より移転後の校舎跡を眺める。
これより先は再訪した時(令和元年10月・11月)のものである。
戦後、引揚者が入植した目梨集落跡。
子どもたちは峰岡の学校へ通学していた。
目梨集落風景。
旧版地形図では左手の森に神社マークがある。
神社跡地付近。
「峰岡」の地名は今もある。
学校跡地(水飲み場)。
タコ工場跡の基礎。
対岸の高台より峰岡集落を俯瞰する。
3メートル近い笹をかき分けて進んだが、この時は遭難寸前だった。
令和2年3月、HEYANEKO氏らと再び、足を運ぶ。
学校手前の旧道の風景。
現在の学校跡と移転前の学校跡を比較する。
時前川の河口は凍っていた。
対岸の旗竿。
神社跡地付近に残る電柱。
神社跡地。
決め手は「サクラ」の樹が植わっていたことである。
神社跡地周辺の風景。
対岸の位置関係。
冬の探索は基礎が埋もれている反面、旧道がしっかり姿を現すので位置関係がよく分かった。
参考文献
北海道新聞1953「関三次郎を起訴 最高検で司令 出入国管理令違反等で」『北海道新聞』昭和28年8月26日
北海道新聞上川・宗谷天塩版1953「現地特派記者が語るソ連船だ補事件の裏話」『北海道新聞』昭和28年8月16日
1969『あゆみ』峰岡開基80年 峰岡小学校開校60周年記念協賛会
日刊宗谷1969「名残り惜しむ部落民 消える峰岡部落 淋しさこらえて「蛍の光」学校閉鎖とあわせ解散式」『日刊宗谷』昭和44年9月2日
猿払村上猿払
猿払村上猿払(平成29年9月16日探訪)
猿払村上猿払は農村集落であった。
明治42年北海道拓殖計画地として指定され、同年石井忠司が浜猿払―上猿払間の川運送を始めた。
大正2年に上猿払開拓者が入植し始め、大正8年上猿払駅逓所が設置された。
昭和21年11月に戦後開拓入植者が8戸入り、昭和28年6月に上猿払神社大鳥居が建立された。
学校は大正8年猿払尋常小学校付属特別教授場として開校、昭和22年上猿払小学校となり、昭和47年11月に閉校となった。
学校の沿革をまとめると以下の通りである。
小学校
大正8年 猿払尋常小学校付属特別教授場として開校
昭和16年 浅茅野国民学校上猿払分校と変更(4月)
昭和20年 上猿払国民学校と変更
昭和22年 上猿払小学校と変更(4月)
昭和47年 閉校(11月)
中学校
昭和22年 上猿払中学校として開校
昭和43年 閉校
閉校時の記事を掲載する
53年の歴史閉ず 上猿払小が廃校
「猿払村立上猿払小学校は15日で開校以来53年の歴史を閉じ廃校となった。
同校は大正8年猿払小学校付属特別教授場として開設され昭和22年上猿払小学校となったが、大正2年頃から開拓者が入り一時は50名の児童、生徒がいたが、その後過疎化現象で離農が相次ぎ、本年の在校生はわずか3名。この父兄2戸も同村浜猿払に転住したため、15日で正式に廃校となった。
なお同校々長日下久夫氏は16日付で東利尻町鰊泊小学校長に発令された。」(日刊宗谷昭和47年11月17日)
廃校関係でお世話になっている友人と一緒に宗谷地方の廃校廃村を巡る旅で訪れた。
上猿払はへき地5級。校門と記念の木碑が現存している。
探訪時は草木が生い茂っていたので、ポイントを絞ることにした。
そのポイントは ①学校 ②神社 ③寺院 である。
次に、学校から程近いところにあった神社跡を調べた。
恐らく神社の参道と思われる道だが、既に植林されており「ご神木」も見つけることができなかった。
そして、③寺院跡である。
『猿払村史』によれば「真宗大谷派上猿払教会」の往時の写真が掲載されている。
地形図には寺院の近くにも家屋マークが記されている。
私の背丈と同等か、それ以上に草が生い茂っていた。
「ちょっと行ってきます」と言って調べてみた。
結果、寺院跡の周辺は草木が生い茂り分からなかった。
学校の閉校(集落の無人化)から40年以上経ち、人々の営みを残すものは学校の校門のみであった。
参考文献
日刊宗谷1972「53年の歴史閉ず 上猿払小が廃校」日刊宗谷昭和47年11月17日
猿払村役場1976『猿払村史』猿払村史編纂発行委員会
猿払村上猿払は農村集落であった。
明治42年北海道拓殖計画地として指定され、同年石井忠司が浜猿払―上猿払間の川運送を始めた。
大正2年に上猿払開拓者が入植し始め、大正8年上猿払駅逓所が設置された。
昭和21年11月に戦後開拓入植者が8戸入り、昭和28年6月に上猿払神社大鳥居が建立された。
学校は大正8年猿払尋常小学校付属特別教授場として開校、昭和22年上猿払小学校となり、昭和47年11月に閉校となった。
学校の沿革をまとめると以下の通りである。
小学校
大正8年 猿払尋常小学校付属特別教授場として開校
昭和16年 浅茅野国民学校上猿払分校と変更(4月)
昭和20年 上猿払国民学校と変更
昭和22年 上猿払小学校と変更(4月)
昭和47年 閉校(11月)
中学校
昭和22年 上猿払中学校として開校
昭和43年 閉校
閉校時の記事を掲載する
53年の歴史閉ず 上猿払小が廃校
「猿払村立上猿払小学校は15日で開校以来53年の歴史を閉じ廃校となった。
同校は大正8年猿払小学校付属特別教授場として開設され昭和22年上猿払小学校となったが、大正2年頃から開拓者が入り一時は50名の児童、生徒がいたが、その後過疎化現象で離農が相次ぎ、本年の在校生はわずか3名。この父兄2戸も同村浜猿払に転住したため、15日で正式に廃校となった。
なお同校々長日下久夫氏は16日付で東利尻町鰊泊小学校長に発令された。」(日刊宗谷昭和47年11月17日)
廃校関係でお世話になっている友人と一緒に宗谷地方の廃校廃村を巡る旅で訪れた。
上猿払はへき地5級。校門と記念の木碑が現存している。
探訪時は草木が生い茂っていたので、ポイントを絞ることにした。
そのポイントは ①学校 ②神社 ③寺院 である。
次に、学校から程近いところにあった神社跡を調べた。
恐らく神社の参道と思われる道だが、既に植林されており「ご神木」も見つけることができなかった。
そして、③寺院跡である。
『猿払村史』によれば「真宗大谷派上猿払教会」の往時の写真が掲載されている。
地形図には寺院の近くにも家屋マークが記されている。
私の背丈と同等か、それ以上に草が生い茂っていた。
「ちょっと行ってきます」と言って調べてみた。
結果、寺院跡の周辺は草木が生い茂り分からなかった。
学校の閉校(集落の無人化)から40年以上経ち、人々の営みを残すものは学校の校門のみであった。
参考文献
日刊宗谷1972「53年の歴史閉ず 上猿払小が廃校」日刊宗谷昭和47年11月17日
猿払村役場1976『猿払村史』猿払村史編纂発行委員会