廃村レポートの追加・公開
当別町三番川
当別町三番川(平成24年4月30日探訪)
三番川の開拓は山口三平、広部ヤヲ、川辺右、芋田由次郎等の農場が置かれ、明治38年頃より小作人を導入し、開拓に着手したが地味が悪く、また交通の便もよくないので住民が定着せず、耕地も荒地に戻っていった。
三番川小学校は明治42(1909)年、当別第三尋常小学校三番川特別教授場として発足したが、前述のように住民が定着しなかったことにより、大正14(1925)年4月、四番川小学校に併合し、一時廃校となった。
しかし、戦後開拓により三番川にも入植者が現れた。昭和21(1946)年~28(1953)年にかけて開拓実習場出身者16戸、樺太30戸(強行入植20戸含め)、地元より9戸が三番川に入植した。
主要の作物は小豆、大豆、えん麦、蔬菜等を栽培し、冬は四番川で造材で生計を立てていた。
昭和27年春 富良野市をはじめ秋田、新潟の各県より農家の次男・三男の各団体移民があり、42戸にまで増加した。これにより昭和26年1月 鈴木利助宅を仮教場とし、四番川小学校教員 菅野虎雄を出張させて授業を開始した。この当時、小学生13名 中学生3名であった。同年11月5日 四番川小学校の分教室として発足、昭和27(1952)年9月15日に校舎が落成した。中学生の教育は昭和28(1958)年11月に始まったが、この時は「弁華別中学校四番川分校三番川分室」という形だった。三番川中学校になったのは昭和33(1958)年4月であった。
三番川はNHK取材班でテレビで取り上げられた学校でもあった。それは風呂のない家庭が多かったために学校風呂を設け、児童たちを入浴させている場面が出ていた。このため、放送後に道内外より多数の激励や慰問品が贈られた。
三番川の気候は非常に厳しいものがある。
昭和40年3月2日の北海道新聞には「命が危ない 助けて ふぶきで孤立の当別町青山」という記事がある。以下、抜粋して紹介する。
「連日のふぶきのためひと月余りも交通が途絶、孤立化している石狩管内当別町青山地区の雪害はついに“人命にかかわる事態”にまで悪化した。同地区には急ぎ手当てを要する心臓病などの重症患者が三人も出ており、現地の開拓保健婦の訴えで石狩支庁も一日、同町などと緊急協議の結果、二日朝の近藤同町長からの連絡のいかんによって、急患を病院に収容するため自衛隊の出動を要請することになった。同町青山四番川の辺地診療所駐在の開拓保健婦、山上キミさん(五〇)が一日午前、支庁を訪れて現地の実情を説明、病人の救護など緊急対策を訴えた。急患は完全な孤立状態にある青山三番川の商業、菊地晋さんの妻タキさん(五五)、農業、磯目己之三さんの妻リエさん(五〇)、同、影山繁●(人偏に竒)さん(七三)の三人。(中略)青山地区の不通区間は二番川-四番川区間約十六キロ。札幌土現当別出張所が除雪に当たっているが、連日のふぶきでついにお手上げになり、二月に入ってから中間の三番川を中心に約百戸が孤立状態のまま。ほとんどが開拓農家で、管内でもっとも冷害がひどく、男は造材などの出かせぎに出て、残っているのは大半が老人と女、子供。山上さんの話だと、積雪約2メートル、場所によってはそれ以上で馬ソリも通れない。このため三番川でただ一軒の菊地商店も、たくわえていた生活必需物資が底をつき農家の食糧も先細りで、みそ、しょうゆは一週間くらいで切れそうだ、という。浜益行きのバスが通る四番川や青山中央に出るにはスキーで往復四時間以上かかり、悲痛な面持ちで除雪を訴えている。」
この時、自衛隊真駒内駐屯の第十八普通科連隊広田一尉ら28名の隊員、青山診療所所長中上助司医師、松村支庁拓殖課長、町職員も同行して出発した。
昭和40年3月4日の記事には「無事、病人を収容 孤立の青山部落から」とある。
「雪で孤立した石狩管内当別町青山三番川の急患三人を収容のため現地に向かった自衛隊真駒内駐とん第十八普通科連隊、広田一尉ら隊員二十八人と松村石狩支庁拓殖課長らの救援隊は、三日午後6時過ぎ、四人を診察ののち二人をスノーボードで運び、当別の医院などに収容した。運んだのは左足大やけどの開拓農家、影山繁●(人偏に竒)さん(七三)中風で倒れていた同、佐々木庄三郎さんの妻、つねよさん(七二)で、佐々木さんはすぐ同町近藤病院へ、影山さんは町内の旅館に一泊、四日朝札幌の病院に入れる予定。心臓病の菊地タキさん(五五)と貧血の磯目リエさん(五〇)は、診断の結果、開放に向かっていたのと手術を急がないため、とりあえず十日分の薬を置いてきた。三番川付近は連日の吹雪で四メートル前後の深雪。救援隊は往復25キロをラッセルしながらの強行軍。部落の人たちは救援隊の到着にこれまでの不安も解消してかホッとした表情。開拓農家の杉沢幸次郎さんの妻、はきのさんは『子供に学校へ弁当を持たせるため昼食も食べないで辛抱していた。このまま病気になったら…と、心配でした。心からありがとうと言います』と感謝していた。」
この6年後の昭和46年、全戸離農転出のため、学校も廃校となった。
三番川小学校付近。
探訪当時(平成24年4月30日)でも、1メートル以上の残雪があった。
校舎正面。大きなマツの木しか残されていない。
校舎正面。
向かって左側に体育館、右側に教室が配置されていた。
この土管は学校や、三番川の農家に埋設されていたものなのだろうか?
校舎跡地より眺める。
正面の、高いマツの木があるところに神社があった。
旧版地形図を確認すると、学校周辺に数件の人家マークや神社が表記されている。
しかし、道路工事により道が変わってしまい面影を探し出すのが難しい。
三番川小学校 校歌(昭和43年8月20日制定)
朝日に映える 神居尻
仰ぐ瞳に 風光る
正しく深く 考えて
学ぶ心に 湧く希望(のぞみ)
三番川 三番川 豊かな故郷
風さわやかな 当別の
流れにうつる 青い空
緑の大地 ふみしめて
きたえる体に 湧く力
三番川 三番川 幸ある故郷
みどりの原野(はら)は 広々と
力あふれる まなびやよ
みんな大きく 胸はって
歩む未来に 湧く光
三番川 三番川 のびゆく故郷
希望溢れる校歌とは裏腹に、全戸離農になってから40年以上の歳月が流れた。
三番川の開拓は山口三平、広部ヤヲ、川辺右、芋田由次郎等の農場が置かれ、明治38年頃より小作人を導入し、開拓に着手したが地味が悪く、また交通の便もよくないので住民が定着せず、耕地も荒地に戻っていった。
三番川小学校は明治42(1909)年、当別第三尋常小学校三番川特別教授場として発足したが、前述のように住民が定着しなかったことにより、大正14(1925)年4月、四番川小学校に併合し、一時廃校となった。
しかし、戦後開拓により三番川にも入植者が現れた。昭和21(1946)年~28(1953)年にかけて開拓実習場出身者16戸、樺太30戸(強行入植20戸含め)、地元より9戸が三番川に入植した。
主要の作物は小豆、大豆、えん麦、蔬菜等を栽培し、冬は四番川で造材で生計を立てていた。
昭和27年春 富良野市をはじめ秋田、新潟の各県より農家の次男・三男の各団体移民があり、42戸にまで増加した。これにより昭和26年1月 鈴木利助宅を仮教場とし、四番川小学校教員 菅野虎雄を出張させて授業を開始した。この当時、小学生13名 中学生3名であった。同年11月5日 四番川小学校の分教室として発足、昭和27(1952)年9月15日に校舎が落成した。中学生の教育は昭和28(1958)年11月に始まったが、この時は「弁華別中学校四番川分校三番川分室」という形だった。三番川中学校になったのは昭和33(1958)年4月であった。
三番川はNHK取材班でテレビで取り上げられた学校でもあった。それは風呂のない家庭が多かったために学校風呂を設け、児童たちを入浴させている場面が出ていた。このため、放送後に道内外より多数の激励や慰問品が贈られた。
三番川の気候は非常に厳しいものがある。
昭和40年3月2日の北海道新聞には「命が危ない 助けて ふぶきで孤立の当別町青山」という記事がある。以下、抜粋して紹介する。
「連日のふぶきのためひと月余りも交通が途絶、孤立化している石狩管内当別町青山地区の雪害はついに“人命にかかわる事態”にまで悪化した。同地区には急ぎ手当てを要する心臓病などの重症患者が三人も出ており、現地の開拓保健婦の訴えで石狩支庁も一日、同町などと緊急協議の結果、二日朝の近藤同町長からの連絡のいかんによって、急患を病院に収容するため自衛隊の出動を要請することになった。同町青山四番川の辺地診療所駐在の開拓保健婦、山上キミさん(五〇)が一日午前、支庁を訪れて現地の実情を説明、病人の救護など緊急対策を訴えた。急患は完全な孤立状態にある青山三番川の商業、菊地晋さんの妻タキさん(五五)、農業、磯目己之三さんの妻リエさん(五〇)、同、影山繁●(人偏に竒)さん(七三)の三人。(中略)青山地区の不通区間は二番川-四番川区間約十六キロ。札幌土現当別出張所が除雪に当たっているが、連日のふぶきでついにお手上げになり、二月に入ってから中間の三番川を中心に約百戸が孤立状態のまま。ほとんどが開拓農家で、管内でもっとも冷害がひどく、男は造材などの出かせぎに出て、残っているのは大半が老人と女、子供。山上さんの話だと、積雪約2メートル、場所によってはそれ以上で馬ソリも通れない。このため三番川でただ一軒の菊地商店も、たくわえていた生活必需物資が底をつき農家の食糧も先細りで、みそ、しょうゆは一週間くらいで切れそうだ、という。浜益行きのバスが通る四番川や青山中央に出るにはスキーで往復四時間以上かかり、悲痛な面持ちで除雪を訴えている。」
この時、自衛隊真駒内駐屯の第十八普通科連隊広田一尉ら28名の隊員、青山診療所所長中上助司医師、松村支庁拓殖課長、町職員も同行して出発した。
昭和40年3月4日の記事には「無事、病人を収容 孤立の青山部落から」とある。
「雪で孤立した石狩管内当別町青山三番川の急患三人を収容のため現地に向かった自衛隊真駒内駐とん第十八普通科連隊、広田一尉ら隊員二十八人と松村石狩支庁拓殖課長らの救援隊は、三日午後6時過ぎ、四人を診察ののち二人をスノーボードで運び、当別の医院などに収容した。運んだのは左足大やけどの開拓農家、影山繁●(人偏に竒)さん(七三)中風で倒れていた同、佐々木庄三郎さんの妻、つねよさん(七二)で、佐々木さんはすぐ同町近藤病院へ、影山さんは町内の旅館に一泊、四日朝札幌の病院に入れる予定。心臓病の菊地タキさん(五五)と貧血の磯目リエさん(五〇)は、診断の結果、開放に向かっていたのと手術を急がないため、とりあえず十日分の薬を置いてきた。三番川付近は連日の吹雪で四メートル前後の深雪。救援隊は往復25キロをラッセルしながらの強行軍。部落の人たちは救援隊の到着にこれまでの不安も解消してかホッとした表情。開拓農家の杉沢幸次郎さんの妻、はきのさんは『子供に学校へ弁当を持たせるため昼食も食べないで辛抱していた。このまま病気になったら…と、心配でした。心からありがとうと言います』と感謝していた。」
この6年後の昭和46年、全戸離農転出のため、学校も廃校となった。
三番川小学校付近。
探訪当時(平成24年4月30日)でも、1メートル以上の残雪があった。
校舎正面。大きなマツの木しか残されていない。
校舎正面。
向かって左側に体育館、右側に教室が配置されていた。
この土管は学校や、三番川の農家に埋設されていたものなのだろうか?
校舎跡地より眺める。
正面の、高いマツの木があるところに神社があった。
旧版地形図を確認すると、学校周辺に数件の人家マークや神社が表記されている。
しかし、道路工事により道が変わってしまい面影を探し出すのが難しい。
三番川小学校 校歌(昭和43年8月20日制定)
朝日に映える 神居尻
仰ぐ瞳に 風光る
正しく深く 考えて
学ぶ心に 湧く希望(のぞみ)
三番川 三番川 豊かな故郷
風さわやかな 当別の
流れにうつる 青い空
緑の大地 ふみしめて
きたえる体に 湧く力
三番川 三番川 幸ある故郷
みどりの原野(はら)は 広々と
力あふれる まなびやよ
みんな大きく 胸はって
歩む未来に 湧く光
三番川 三番川 のびゆく故郷
希望溢れる校歌とは裏腹に、全戸離農になってから40年以上の歳月が流れた。