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歌登町豊沃(タチカラウシュナイ)

歌登町(枝幸町)豊沃(平成19年9月17日・平成23年10月19日探訪)

 豊沃の開拓は大正2年、2戸の入植が切っ掛けとなった。当時は「タチカラウシュナイ」と呼ばれ上徳志別(カミトクシベツ)の一部であった。昭和初期には8戸ほどを数えたが、子供たちは上徳志別尋常小学校に通っていた。
 豊沃は戦後開拓により人家が急速に増えた。昭和22年に2戸入植したのを皮切りに、昭和26年には23戸入植した。
 当然、タチカルウシュナイにも学校の必要性が説かれた。当時、子供たちは上徳志別小学校へ通学していたが遠距離であることから、当時の宗谷支庁拓殖課長 塚越忠雄氏と豊沃の住民の声により昭和28年 タツカラウシュナイ351番地に「上徳志別小学校豊沃分校」として学校が開校した。「豊沃」の名前の由来は近くの橋「豊沃橋」から名づけられたものであった。
 昭和36年から38年にかけて教室や廊下、職員室の増築・間切工事や、遊具が設置された。
 昭和40年代に入ると教員住宅、校長住宅の新築や校舎の改修工事などが行われていたが、離農や大規模農場開発により児童数も次第に減少する。
 昭和53年3月 児童数皆無により閉校式が行われ、廃校となった。
 卒業生総数55名。閉校当時、在籍していた児童は3名であった。
 そして現在の豊沃は2世帯の方が住まわれている、過疎の集落である。

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 豊沃は平成19年9月と今回(平成23年10月)訪ね歩いた。
 校舎の画像は平成19年、教員住宅は平成23年に訪ね歩いたときのものである。
 
 校舎は既に崩れていた。
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 倒壊して、そう月日が流れていないような印象を受けた。
 少なくとも、倒壊したのは数年前(平成16~19年?)と思われる。
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 辛うじて校舎の面影が残っていた。
 笹藪でなかなか思うように進めない。

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 中を覗くと「風呂」があった。
 市町村史で、僻地の学校記述に時々「学校風呂が設置される」と書かれているのを目にするが、現物を見たのはこの時が初めてであった。
 校舎の先には、廃屋となった教員住宅が3棟並んでいたがこの時は、笹藪を見て断念した。

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 再訪時は教員住宅をメインに探訪した。
 笹が生い茂っていたが、何とか行くことができた。
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 真ん中の教住外観。
 笹に足を取られて、撮影も苦労した。
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 奥の教住。既に倒壊していた。

 周囲には、離農した農家の廃屋が点在していた。
 校舎も、校庭も自然に還ろうとしていた。

歌登町二股

歌登町(枝幸町)二股(平成23年10月19日探訪)

歌登町 本幌別集落より上流川を上流へ進むと二股集落へ行くことができる。
集落名の由来は幌別川の本流、支流により通称 二股と云われていた。

ここは大正7年に山形団体の入植により開拓された。開拓当初、児童は本幌別の学校へ通学していたが悪路のため、学校設置を陳情する。
大正12年 本幌別尋常小学校付属二股特別教授場として開校。当時の児童数23名。
昭和11年 二股尋常小学校と称される。
昭和22年 正和小学校と改称。
何故、「二股小学校」ではなく「正和小学校」と解消したのか、現時点では分かりませんでした。
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校舎と記念碑。校舎は昭和29年建築。
校舎は牧草置き場として転用されていた。

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内部。床も剥がされており、学校時代の面影を探すことはできなかった。

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学校周辺。牧草地が広がるのみであった。
行く途中、数件の酪農家と離農した廃屋がポツンポツンと点在していた。

プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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