羽幌町上羽幌
羽幌町上羽幌(平成25年6月9日他探訪)
羽幌町上羽幌は、羽幌町築別炭砿、羽幌砿と並び炭鉱街を形成していた。
上羽幌は明治以来、御料地であったため羽幌御料と呼ばれていた。
明治29年から明治34~35年にかけて30戸近くの入植者がいたが、奥地のため離農するものが後を絶たなかった。
このような状況下であった為、なかなか学校設置認をしなかったが、住民の中には平小学校や、近親者を頼り羽幌小学校へ通わせるものもいた。
明治37年秋 小山与三松は私費で石井景光を教師に迎え自宅を提供し、地域の子弟10数名を集め初歩的な授業を始めた。
明治39年4月16日 苫前郡御料第一簡易教育所として認可され、開校した。
明治41年8月 苫前郡羽幌御料第一教育所と改称。
大正6年4月 羽幌御料尋常小学校と改称。存続期間も延長が認可された。
昭和4年4月 正式に羽幌御料尋常小学校と認可された。
昭和16年 羽幌御料国民学校と改称。
昭和22年4月 羽幌御料小学校と改称。
この年の7月、香川県をはじめ満洲・樺太からの引揚者が昭和26年にかけて入植したが、立地条件が悪かったため離農していった。
同じ昭和22年 羽幌鉱二坑(上羽幌地区)の炭鉱開発が始まり、昭和23年には本坑(羽幌砿区)を合併し、鉱業所を本坑である三毛別に置かれた。
集落は羽幌川の川下に農業集落が、川上に炭鉱集落が形成され、炭鉱集落に神楽台・旭町・柳町・くるみ町・緑町があった。
道道の両側に小中学校、商店、営林署、寺院、郵便局、生協、駐在所、消防署出張所が建ち並んでいた。
昭和25年 朝鮮戦争の勃発に伴い、石炭の需要が急増した。
当然、学校の規模も大きくなり昭和34年には12学級を数えた。
昭和26年12月 上羽幌中学校(2学級)を併置した。
昭和28年6月 羽幌町立上羽幌小学校と改称。
その後、炭鉱の発展と共に児童生徒数も増加の一途をたどり、多い時で小中学級あわせて18学級にもなった。
しかし、昭和45年11月 羽幌炭鉱の閉山に伴い、児童生徒数も激減した。
昭和46年10月 羽幌中央小学校に統合され、廃校となった。
現在は既存の農家が数戸住まわれている高度過疎集落である。
平成23年10月20日撮影 上羽幌緑町上炭鉱住宅。
この時、久しぶりに上羽幌を訪れたが、炭鉱住宅が朽ち果てており驚いた。
道路を挟み、上羽幌緑町下炭鉱住宅。外壁だけしか残っていない。
平成14年10月13日撮影 上羽幌緑町下炭鉱住宅。
この時は朽ちながらも屋根があり、往時の面影を残していた。
上羽幌緑町炭鉱住宅。上か下かは不明である。
平成25年6月9日 上羽幌小学校跡地を久しぶりに訪れた。
やがて、崩れた校舎の一部が見えた。
近くには煙突がある。
学校の基礎が見えた。
一枚では収まりきらない。それだけ大きな校舎であった。
春先に行けば全容が判るかもしれないが、草木が茂っていたため全容を撮ることはできなかった。
別な角度より。草木が邪魔をして全体を撮ることはできない。
落ちていた「スクールゾーン」の看板。
ここに子どもたちが通っていた、唯一の証である。
学校より奥の風景。
人々の暮らした営みは、既に無くなっていた。
学校より手前の風景。
学校は自然に帰り、集落は既存の農家しかいない、高度過疎集落になってしまった。
羽幌町上羽幌は、羽幌町築別炭砿、羽幌砿と並び炭鉱街を形成していた。
上羽幌は明治以来、御料地であったため羽幌御料と呼ばれていた。
明治29年から明治34~35年にかけて30戸近くの入植者がいたが、奥地のため離農するものが後を絶たなかった。
このような状況下であった為、なかなか学校設置認をしなかったが、住民の中には平小学校や、近親者を頼り羽幌小学校へ通わせるものもいた。
明治37年秋 小山与三松は私費で石井景光を教師に迎え自宅を提供し、地域の子弟10数名を集め初歩的な授業を始めた。
明治39年4月16日 苫前郡御料第一簡易教育所として認可され、開校した。
明治41年8月 苫前郡羽幌御料第一教育所と改称。
大正6年4月 羽幌御料尋常小学校と改称。存続期間も延長が認可された。
昭和4年4月 正式に羽幌御料尋常小学校と認可された。
昭和16年 羽幌御料国民学校と改称。
昭和22年4月 羽幌御料小学校と改称。
この年の7月、香川県をはじめ満洲・樺太からの引揚者が昭和26年にかけて入植したが、立地条件が悪かったため離農していった。
同じ昭和22年 羽幌鉱二坑(上羽幌地区)の炭鉱開発が始まり、昭和23年には本坑(羽幌砿区)を合併し、鉱業所を本坑である三毛別に置かれた。
集落は羽幌川の川下に農業集落が、川上に炭鉱集落が形成され、炭鉱集落に神楽台・旭町・柳町・くるみ町・緑町があった。
道道の両側に小中学校、商店、営林署、寺院、郵便局、生協、駐在所、消防署出張所が建ち並んでいた。
昭和25年 朝鮮戦争の勃発に伴い、石炭の需要が急増した。
当然、学校の規模も大きくなり昭和34年には12学級を数えた。
昭和26年12月 上羽幌中学校(2学級)を併置した。
昭和28年6月 羽幌町立上羽幌小学校と改称。
その後、炭鉱の発展と共に児童生徒数も増加の一途をたどり、多い時で小中学級あわせて18学級にもなった。
しかし、昭和45年11月 羽幌炭鉱の閉山に伴い、児童生徒数も激減した。
昭和46年10月 羽幌中央小学校に統合され、廃校となった。
現在は既存の農家が数戸住まわれている高度過疎集落である。
平成23年10月20日撮影 上羽幌緑町上炭鉱住宅。
この時、久しぶりに上羽幌を訪れたが、炭鉱住宅が朽ち果てており驚いた。
道路を挟み、上羽幌緑町下炭鉱住宅。外壁だけしか残っていない。
平成14年10月13日撮影 上羽幌緑町下炭鉱住宅。
この時は朽ちながらも屋根があり、往時の面影を残していた。
上羽幌緑町炭鉱住宅。上か下かは不明である。
平成25年6月9日 上羽幌小学校跡地を久しぶりに訪れた。
やがて、崩れた校舎の一部が見えた。
近くには煙突がある。
学校の基礎が見えた。
一枚では収まりきらない。それだけ大きな校舎であった。
春先に行けば全容が判るかもしれないが、草木が茂っていたため全容を撮ることはできなかった。
別な角度より。草木が邪魔をして全体を撮ることはできない。
落ちていた「スクールゾーン」の看板。
ここに子どもたちが通っていた、唯一の証である。
学校より奥の風景。
人々の暮らした営みは、既に無くなっていた。
学校より手前の風景。
学校は自然に帰り、集落は既存の農家しかいない、高度過疎集落になってしまった。
足寄町旭丘
足寄町旭丘(平成25年10月6日探訪)
足寄町旭丘は、十勝管内で数少ない「へき地等級 5級」の学校であった。
旭丘は、町内の国鉄足寄駅より28キロ離れた山間部に位置していた。
反対に、隣接する上士幌町清水谷駅(国鉄士幌線)からは、5キロであった。
旭丘の開拓は大正4年に始まる。
東京 お茶の水にあった順天堂病院 院長 佐藤 進を中心に小作農家43戸を引き連れ、開拓に従事した。
学校設置は大正15年 水谷農場 水谷政次郎からの寄付を受け3月31日 芽登尋常高等小学校付属旭丘分教場として認可、同年6月15日 開設した。
但し、足寄町史(昭和48年7月刊)には「5月19日に授業を開始した」旨の記述がある。
昭和17年 芽登国民学校旭丘分教場と改称した。
昭和23年 芽登小学校旭丘分教場と改称した。
それまでの間は、芽登小学校の分校であった。
分校時代の歴代校長は不明であるが、教職員は大正15年から昭和31年まで、松井義雄が担当していた。
また、旭丘の命名も松井自身であった。
戦後になると、戦後開拓で樺太引揚者や地元の造材業関係者が入地し、人口も増え始める。
小学校として独立するのは、昭和32年4月1日からであった。
昭和34年には中学校も併置した。この時、小学校2学級・中学校1学級の複々式学級であった。
前述したように、旭丘は十勝でも数少ないへき地等級5級の学校であったが、それ裏付けるように校歌の歌詞にも現れている。
「足寄の西の 旭丘 通う子供は 少いが 山坂越えて ぬかる道を 元気一ぱい よい子供」(遠藤四郎 作詞作曲)
しかし、旭丘は高台に位置する集落であるため、冷害の影響をまともに受けやすかった。
昭和40年12月22日付の北海道新聞には「毎月届くおやつ代 川崎の主婦たちから足寄の辺地校へ」という記事がある。
記事によると、冷害の影響や集落の窮状を知った川崎市の主婦団体「おやつの会」徳上淑子代表らが毎月、4000円のおやつ代を旭丘小学校へ送っていた。
学校側の使途は毎週金曜日、パンやお菓子を買って食べる「おやつ給食」として使っていた。
年末にはおやつ代の他、クリスマスプレゼントとしてマフラーも一緒に贈られた。
旭丘小学校の児童たちもお礼の手紙を始め、集落内でとれた十勝石、すずらん、ボリボリキノコ(ナラタケ)を送っていた。
しかし、土地条件の悪さによる離農はその後も進み、昭和43年には小学校1学級・中学校1学級にまで減少してしまった。
在籍児童数の推移を以下、示す。
大正15年 19名 昭和25年 7名 昭和44年 18名
昭和 5年 25名 昭和30年 20名 昭和45年 14名
昭和10年 31名 昭和35年 27名 昭和46年 8名
昭和15年 38名 昭和40年 32名
昭和20年 12名 昭和43年 26名
昭和46年3月31日 閉校となった。
道道468号清水谷足寄線 士幌町側(清水谷)から足寄町芽登へ抜ける道沿いに校舎はある。
但し、校舎以外の建物は皆無である。
校舎は閉校後、民間へ譲渡されたが活用の用途は不明である。
校舎横に「子ども会」の記念碑が建立されている。
これは川崎市の「おやつの会」の顕彰を込めて建立されたそうである。
しかし生憎、建立年月日を失念してしまった。
下部のプレートには辛うじて「努力」と判読できる。
校舎内部。
床板はすっかり剥がされてしまっていた。
廊下もかなり朽ちてきている。
何となく教室の面影があるが、壁は既に取り払われていた。
突き当たりは便所であった。
便所側より。
あと何年、持ちこたえるだろうか。
学校前より芽登方面を望む。
校舎以外の建物は無い。
芽登方面へ1キロ進むと「旭丘」という看板が目に付いた。
旭丘の集落は、この高台にある。
案内図。
数軒の酪農家が点在している。
案内図より学校跡地方面を望む。
平坦な土地は、かつて人々が暮らしていた名残である。
矢印のとおりに進むと、高台の中心部に着いた。
この先にも人家はあるが、目視では見えない。
反対側を望む。
山坂越えて、ぬかる道を進んで通った子どもたちの声は、もう聞こえない。
足寄町旭丘は、十勝管内で数少ない「へき地等級 5級」の学校であった。
旭丘は、町内の国鉄足寄駅より28キロ離れた山間部に位置していた。
反対に、隣接する上士幌町清水谷駅(国鉄士幌線)からは、5キロであった。
旭丘の開拓は大正4年に始まる。
東京 お茶の水にあった順天堂病院 院長 佐藤 進を中心に小作農家43戸を引き連れ、開拓に従事した。
学校設置は大正15年 水谷農場 水谷政次郎からの寄付を受け3月31日 芽登尋常高等小学校付属旭丘分教場として認可、同年6月15日 開設した。
但し、足寄町史(昭和48年7月刊)には「5月19日に授業を開始した」旨の記述がある。
昭和17年 芽登国民学校旭丘分教場と改称した。
昭和23年 芽登小学校旭丘分教場と改称した。
それまでの間は、芽登小学校の分校であった。
分校時代の歴代校長は不明であるが、教職員は大正15年から昭和31年まで、松井義雄が担当していた。
また、旭丘の命名も松井自身であった。
戦後になると、戦後開拓で樺太引揚者や地元の造材業関係者が入地し、人口も増え始める。
小学校として独立するのは、昭和32年4月1日からであった。
昭和34年には中学校も併置した。この時、小学校2学級・中学校1学級の複々式学級であった。
前述したように、旭丘は十勝でも数少ないへき地等級5級の学校であったが、それ裏付けるように校歌の歌詞にも現れている。
「足寄の西の 旭丘 通う子供は 少いが 山坂越えて ぬかる道を 元気一ぱい よい子供」(遠藤四郎 作詞作曲)
しかし、旭丘は高台に位置する集落であるため、冷害の影響をまともに受けやすかった。
昭和40年12月22日付の北海道新聞には「毎月届くおやつ代 川崎の主婦たちから足寄の辺地校へ」という記事がある。
記事によると、冷害の影響や集落の窮状を知った川崎市の主婦団体「おやつの会」徳上淑子代表らが毎月、4000円のおやつ代を旭丘小学校へ送っていた。
学校側の使途は毎週金曜日、パンやお菓子を買って食べる「おやつ給食」として使っていた。
年末にはおやつ代の他、クリスマスプレゼントとしてマフラーも一緒に贈られた。
旭丘小学校の児童たちもお礼の手紙を始め、集落内でとれた十勝石、すずらん、ボリボリキノコ(ナラタケ)を送っていた。
しかし、土地条件の悪さによる離農はその後も進み、昭和43年には小学校1学級・中学校1学級にまで減少してしまった。
在籍児童数の推移を以下、示す。
大正15年 19名 昭和25年 7名 昭和44年 18名
昭和 5年 25名 昭和30年 20名 昭和45年 14名
昭和10年 31名 昭和35年 27名 昭和46年 8名
昭和15年 38名 昭和40年 32名
昭和20年 12名 昭和43年 26名
昭和46年3月31日 閉校となった。
道道468号清水谷足寄線 士幌町側(清水谷)から足寄町芽登へ抜ける道沿いに校舎はある。
但し、校舎以外の建物は皆無である。
校舎は閉校後、民間へ譲渡されたが活用の用途は不明である。
校舎横に「子ども会」の記念碑が建立されている。
これは川崎市の「おやつの会」の顕彰を込めて建立されたそうである。
しかし生憎、建立年月日を失念してしまった。
下部のプレートには辛うじて「努力」と判読できる。
校舎内部。
床板はすっかり剥がされてしまっていた。
廊下もかなり朽ちてきている。
何となく教室の面影があるが、壁は既に取り払われていた。
突き当たりは便所であった。
便所側より。
あと何年、持ちこたえるだろうか。
学校前より芽登方面を望む。
校舎以外の建物は無い。
芽登方面へ1キロ進むと「旭丘」という看板が目に付いた。
旭丘の集落は、この高台にある。
案内図。
数軒の酪農家が点在している。
案内図より学校跡地方面を望む。
平坦な土地は、かつて人々が暮らしていた名残である。
矢印のとおりに進むと、高台の中心部に着いた。
この先にも人家はあるが、目視では見えない。
反対側を望む。
山坂越えて、ぬかる道を進んで通った子どもたちの声は、もう聞こえない。
初山別村大沢
初山別村大沢(平成25年5月8日及び6月9日探訪)
初山別村大沢は、半農半漁の集落であった。
明治20年代よりニシンやサケの漁業が始まった。
明治38年になると寺子屋が設けられ、寺子屋式の授業が開始された。
元 松前藩士 里見某が70歳の老齢であったが教師として迎えられた。
明治39年春 大沢橋付近にて旧宿舎を改造し、校舎を移転した。
明治40年4月1日 風連別尋常小学校付属大沢特別教授場として開校した。
大正期に入ると、集落民や青年団より木造柾葺平屋建て住宅1棟(18、5坪)、教授場の敷地として1.5反余歩の寄付を受けた。
昭和8年 校舎の新築が行われ、昭和9年4月4日 大沢尋常小学校として独立した。
しかし、昭和12年9月29日 住宅畑筒差出口付近から出火し、全焼してしまう。
翌 昭和13年12月22日 校舎が再建された。
昭和16年4月1日 大沢国民学校と改称。
昭和22年4月1日 大沢小学校と改称。
昭和33年10月18日 国鉄羽幌線初山別駅-遠別駅間開通に伴い、天塩大沢駅が開業した。
併せて、国道232号線の改良工事も重なり、昭和34年6月25日 校舎新築着工、同年10月31日竣工した。
校舎は円型ペチカ1基を校舎中心にもち、水道施設は校舎東方にある岩間から湧出していた清水をコンクリート水槽にたたえ、鉄管をもって導水し、教室・職員室・便所手洗場に給水し、秀でた施設であった。
また、昭和36年10月21日 大沢海岸に島根県隠岐島大久小学校3年生が流した「びんの便り」が漂着した。
これが切っ掛けとなり、大沢小学校と大久小学校との交流が始まった。
交流はスズランの交換、図画・習字・作文往復が重ねられ、大久小学校からはレモンや栗など島の特産物が送られてきた。
この交流は昭和37年3月11日 毎日新聞に掲載され、さらにNHK札幌中央放送局の企画として「こども夏のテレビクラブ」の番組にまで取り上げられることとなった。8月8日午前11時20分より55分まで、全国に放送された。
しかし、大沢にも過疎の波は押し寄せていた。
ニシン漁の衰退に加え、経済成長の影響を受け出稼・転業・離村が後を絶たなかった。
昭和35~45年の大沢の人口推移を挙げてみる。
昭和35年度 40世帯 211名
昭和40年度 26世帯 129名
昭和45年度 15世帯 50名
昭和44年3月31日 閉校式が行われた。卒業生総数 200余名。
国鉄羽幌線 天塩大沢駅も昭和62年3月30日付で廃止となった。
「びんの便り」で交流していた大久小学校は、平成21年3月31日付でで閉校となった。
国道232号線沿いにポツンと佇む大沢小学校。
校舎は現在、住居として転用されている。
鉄道が廃止された後は、沿岸バスが運行している。
航空写真を見ると、右手に人家があったがすべて無くなってしまっている。
1ヵ月後の6月9日 再び訪れた。
校舎は遠望するにとどまった。
学校周辺より豊岬方面を望む。
ニシンの千石場所として栄えた集落は、遠い過去の話になってしまった。
初山別村大沢は、半農半漁の集落であった。
明治20年代よりニシンやサケの漁業が始まった。
明治38年になると寺子屋が設けられ、寺子屋式の授業が開始された。
元 松前藩士 里見某が70歳の老齢であったが教師として迎えられた。
明治39年春 大沢橋付近にて旧宿舎を改造し、校舎を移転した。
明治40年4月1日 風連別尋常小学校付属大沢特別教授場として開校した。
大正期に入ると、集落民や青年団より木造柾葺平屋建て住宅1棟(18、5坪)、教授場の敷地として1.5反余歩の寄付を受けた。
昭和8年 校舎の新築が行われ、昭和9年4月4日 大沢尋常小学校として独立した。
しかし、昭和12年9月29日 住宅畑筒差出口付近から出火し、全焼してしまう。
翌 昭和13年12月22日 校舎が再建された。
昭和16年4月1日 大沢国民学校と改称。
昭和22年4月1日 大沢小学校と改称。
昭和33年10月18日 国鉄羽幌線初山別駅-遠別駅間開通に伴い、天塩大沢駅が開業した。
併せて、国道232号線の改良工事も重なり、昭和34年6月25日 校舎新築着工、同年10月31日竣工した。
校舎は円型ペチカ1基を校舎中心にもち、水道施設は校舎東方にある岩間から湧出していた清水をコンクリート水槽にたたえ、鉄管をもって導水し、教室・職員室・便所手洗場に給水し、秀でた施設であった。
また、昭和36年10月21日 大沢海岸に島根県隠岐島大久小学校3年生が流した「びんの便り」が漂着した。
これが切っ掛けとなり、大沢小学校と大久小学校との交流が始まった。
交流はスズランの交換、図画・習字・作文往復が重ねられ、大久小学校からはレモンや栗など島の特産物が送られてきた。
この交流は昭和37年3月11日 毎日新聞に掲載され、さらにNHK札幌中央放送局の企画として「こども夏のテレビクラブ」の番組にまで取り上げられることとなった。8月8日午前11時20分より55分まで、全国に放送された。
しかし、大沢にも過疎の波は押し寄せていた。
ニシン漁の衰退に加え、経済成長の影響を受け出稼・転業・離村が後を絶たなかった。
昭和35~45年の大沢の人口推移を挙げてみる。
昭和35年度 40世帯 211名
昭和40年度 26世帯 129名
昭和45年度 15世帯 50名
昭和44年3月31日 閉校式が行われた。卒業生総数 200余名。
国鉄羽幌線 天塩大沢駅も昭和62年3月30日付で廃止となった。
「びんの便り」で交流していた大久小学校は、平成21年3月31日付でで閉校となった。
国道232号線沿いにポツンと佇む大沢小学校。
校舎は現在、住居として転用されている。
鉄道が廃止された後は、沿岸バスが運行している。
航空写真を見ると、右手に人家があったがすべて無くなってしまっている。
1ヵ月後の6月9日 再び訪れた。
校舎は遠望するにとどまった。
学校周辺より豊岬方面を望む。
ニシンの千石場所として栄えた集落は、遠い過去の話になってしまった。
初山別村東山
初山別村東山(平成25年6月9日探訪)
初山別村東山は、茂築別(モチクベツ)原野の開拓から始まった。
明治31年 富山県下新川郡道下村 大原武一率いる道下村団体(23戸59名)が入地を開始した。同じく富山県下新川郡入善町の岩井暢次が19戸を率いて岩井農場を創設した。
学校の開校は、大正期に入ってからのことであった。
大正4年2月1日 茂築別11線に茂築別尋常小学校所属茂築別教授場として指定を受け、同月23日 校舎新築に着手した。
同年3月に校舎が落成し、3月5日より授業が開始された。この時の児童数 11名であった。
大正9年4月 それまでの茂築別11線より15線に移転した。
昭和3年10月14日 当時の村長 石居良三、茂築別尋常小学校長児玉新太郎の視察が行なわれた。
この時、校舎敷地が湿地帯で保健上から難点があり、校舎自体も腐朽狭隘であると指摘が上がった。
指摘を受け、岩垣東市の尽力により影井農場の土地の寄付を受け、茂築別15線(現校舎前地)に移転し、昭和5年9月10日新築落成した。
昭和16年4月1日 茂築別国民学校茂築別分教場と改称、同年8月1日 字名改正に伴い有明国民学校有明分教場と改称。この時の在籍児童数は9名であった。
昭和20年9月30日 有明国民学校から独立し、東山国民学校と改称した。
この時の在籍児童数は25名であった。
昭和22年4月1日 東山小学校と改称、在籍児童数は24名であった。
昭和33年3月18日 村議会において東山小学校の改築が議決され、同年6月10日着工、同年8月11日 竣工した。
同年9月16日 有明711番地に学校位置が指定され、落成式が挙行された。
しかし、過疎化の波は少しずつ進行していった。
昭和36年の在籍児童数 21名であったが、6年後の昭和42年度は僅か3名であった。
過疎化の波はその後も進行し、昭和53年3月31日付で閉校となった。
尚、学校跡地より奥に有明ダム(ひがしやま湖)があり、ダムは昭和46年12月完成した。
湖畔には東山樹園という公園が整備され「しょさんべつ桜まつり」の会場として使われている。
また、7線沢よりダムまでの約7キロの沿線に焼く1800本のエゾヤマザクラが植樹され、毎年5月中旬になるとサクラの名所として賑わいをみせている。
東山の手前に位置する有明小学校。
有明小学校は明治36年4月開校、平成22年3月閉校となった。
学校は現在、グループホームの施設として転用されている。
有明小学校教員住宅。
学校周辺は田園風景が広がっている。
東山小学校はこの先に位置している。
通い作の畑を眺めていると、右手に学校跡地が見えた。
校舎はこの正面に在った。
校門の裏面には、校舎及び教員住宅を新築した「羽幌町林組綜合建設株式会社」の表札が残っている。
学校より手前の風景。
通い作の畑はあるが、人家が見当たらない。
「平成16年度宝くじ桜植栽地」と刻まれた石碑が残されている。
ふと見ると「東山小学校跡地」と書かれた木碑と、国旗掲揚搭の基礎が残されていた。
その字体は剥げていた。
学校跡地より有明ダム方面を望む。
人家もあまり無い高度過疎集落だが、春先になればサクラが満開を迎え、人々も賑わいを見せるかもしれない。
初山別村東山は、茂築別(モチクベツ)原野の開拓から始まった。
明治31年 富山県下新川郡道下村 大原武一率いる道下村団体(23戸59名)が入地を開始した。同じく富山県下新川郡入善町の岩井暢次が19戸を率いて岩井農場を創設した。
学校の開校は、大正期に入ってからのことであった。
大正4年2月1日 茂築別11線に茂築別尋常小学校所属茂築別教授場として指定を受け、同月23日 校舎新築に着手した。
同年3月に校舎が落成し、3月5日より授業が開始された。この時の児童数 11名であった。
大正9年4月 それまでの茂築別11線より15線に移転した。
昭和3年10月14日 当時の村長 石居良三、茂築別尋常小学校長児玉新太郎の視察が行なわれた。
この時、校舎敷地が湿地帯で保健上から難点があり、校舎自体も腐朽狭隘であると指摘が上がった。
指摘を受け、岩垣東市の尽力により影井農場の土地の寄付を受け、茂築別15線(現校舎前地)に移転し、昭和5年9月10日新築落成した。
昭和16年4月1日 茂築別国民学校茂築別分教場と改称、同年8月1日 字名改正に伴い有明国民学校有明分教場と改称。この時の在籍児童数は9名であった。
昭和20年9月30日 有明国民学校から独立し、東山国民学校と改称した。
この時の在籍児童数は25名であった。
昭和22年4月1日 東山小学校と改称、在籍児童数は24名であった。
昭和33年3月18日 村議会において東山小学校の改築が議決され、同年6月10日着工、同年8月11日 竣工した。
同年9月16日 有明711番地に学校位置が指定され、落成式が挙行された。
しかし、過疎化の波は少しずつ進行していった。
昭和36年の在籍児童数 21名であったが、6年後の昭和42年度は僅か3名であった。
過疎化の波はその後も進行し、昭和53年3月31日付で閉校となった。
尚、学校跡地より奥に有明ダム(ひがしやま湖)があり、ダムは昭和46年12月完成した。
湖畔には東山樹園という公園が整備され「しょさんべつ桜まつり」の会場として使われている。
また、7線沢よりダムまでの約7キロの沿線に焼く1800本のエゾヤマザクラが植樹され、毎年5月中旬になるとサクラの名所として賑わいをみせている。
東山の手前に位置する有明小学校。
有明小学校は明治36年4月開校、平成22年3月閉校となった。
学校は現在、グループホームの施設として転用されている。
有明小学校教員住宅。
学校周辺は田園風景が広がっている。
東山小学校はこの先に位置している。
通い作の畑を眺めていると、右手に学校跡地が見えた。
校舎はこの正面に在った。
校門の裏面には、校舎及び教員住宅を新築した「羽幌町林組綜合建設株式会社」の表札が残っている。
学校より手前の風景。
通い作の畑はあるが、人家が見当たらない。
「平成16年度宝くじ桜植栽地」と刻まれた石碑が残されている。
ふと見ると「東山小学校跡地」と書かれた木碑と、国旗掲揚搭の基礎が残されていた。
その字体は剥げていた。
学校跡地より有明ダム方面を望む。
人家もあまり無い高度過疎集落だが、春先になればサクラが満開を迎え、人々も賑わいを見せるかもしれない。