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紋別市上和訓辺

紋別市上和訓辺(平成21年8月13日探訪)

「和訓辺」は、元々はアイヌ語で「オアフンベ」(河口が入組んでいる)と呼ばれていた地域である。
和訓辺集落の奥に、上和訓辺という集落があった。

上和訓辺は和訓辺の開拓に少し遅れること明治45年 2戸の入植から始まった。
大正4年には20戸ほどになったが、この頃は8~12キロ離れた第三渚滑尋常小学校(上渚滑小学校)に通学していた。
通学当時は遠距離な上、渚滑川は渡船に頼らざるを得なかった。

上和訓辺では教授場設置を要望し、大正4年6月12日 第三渚滑尋常小学校付属和訓辺特別教授場として開校した。
開校した頃の児童数は17名であった。

大正12年 和訓辺尋常小学校、昭和16年 和訓辺国民学校となり昭和22年 和訓辺小学校となった。
昭和33年「地域社会、学校の経営と放送教育研究会」を開催したこともあった。また、学校営繕林の育成にも努め、昭和11年から19年にかけて延べ8500本を植樹した。
昭和50年に開校60周年記念行事が催されたが、この頃から既に離農により児童数が減少、昭和51年3月21日に閉校式を行い、閉校となった。
閉校の際「思い出の碑」を建立した。これは紋別市の廃校で、ここだけが独自に閉校記念碑を建立した。
ここ以外の廃校は後年、紋別市教育委員会が一部をのぞきすべて建立した。

上和訓辺の主要産業は畑作であった。特に昭和初期においてはハッカが隆盛を極めた。
戦後、ハッカが下火になってからは酪農に転向したが離農により、現在は通い作で管理されているが無住の地となっている。

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上和訓辺手前にある家屋。駅逓のような建物である。

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この先に和訓辺小学校があった上和訓辺がある。

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和訓辺小学校跡。
校舎は閉校後に解体された。
閉校記念碑と、傍に教員住宅がある。

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校舎裏にある「奉安殿」
「奉安殿」とは、戦前、天皇陛下のご真影(天皇陛下の肖像)を祀った施設である。
戦前はどこの学校にもあったが、終戦後、GHQの命令により大半は撤去されてしまうが、中には神社の施設として残されているものもある。
ここの奉安殿も戦後、神社の施設として使用されていたため解体を免れた。

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奉安殿の内部。思ったよりも頑丈な構造であった。

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奉安殿を後にして、ヤブの中に埋もれる教員住宅へ進む。

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教員住宅の玄関部分。
下葉がないので思ったよりも見やすかった。

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教員住宅の内部。

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和訓辺小学校の校歌が残されていた。
作詞者の糸数昌一氏は和訓辺小学校 第2代校長であった。
作詞者の名前が修正されているのが興味深い。

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和訓辺の立体地図も掲げられている。

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浴室。
木製の風呂も面白い。

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奉安殿から眺めた風景。
畑が広がっているが、定住者はいない廃村である。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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