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神恵内村オブカル石

神恵内村オブカル石(平成30年6月9日探訪)

神恵内村オブカル石は漁村集落であった。
特に明治末期から大正時代にかけてニシン漁で賑わいを見せていた。

『郷土かもえない』では断片的にしか書かれていないため『北海道新聞後志版』に掲載された閉校時の記事をもとにする。

今月いっぱいで廃校 神恵内村安内小 60年の歴史閉じる
「【神恵内】60余年前のニシン漁全盛時代に開設した神恵内村字安内、安内小学校(校長、豊本綱市氏)が3月31日廃校されることに決まった。
同校は明治35年珊内簡易教育所として開設、大正6年安内尋常小学校に独立した。明治末期から大正初期にかけてこの地方はニシンの宝庫として栄え、オブカル石、ノット地区などから50余人の児童が登校していた。ニシンが幻の魚になると同時に人口は減る一方で、数年前から在籍数は10人以下になった。
2年ほど前から廃校問題が話し合われてきたが、昨年漁業構造改善事業によってオブカル石地区の漁家全戸が川白地区に移転したので、現在登校している児童はノット地区からの2年生1人、6年生2人の合計3人だけになり、ノット地区からは安内小学校に通学するより川白小中学校に行った方が近いので廃校に決まったもの。
2月28日に開かれた村教委で廃校に踏み切ることにし、さらに17日の村議会で正式に廃校が決議された。3月31日廃校されるが、これにさきだち23日午後1時から同校で廃校式が行なわれる。」『北海道新聞後志版』昭和42年3月21日

サヨナラ安内小 『陸の孤島の母校』が最後に 児童2人、最後の卒業
「【神恵内】60余年間陸の孤島で母校としたわれてきた神恵内村の安内小学校が今月31日に廃校になるが、その廃校式が23日午後1時から部落民や関係者によってさびしく行われた。
同校では午前中に千葉美代子さんと千葉安伸君の卒業式を行なった。卒業生を送ったのは2年生の山内美信さん一人きり。この学校から319番目と320番目に卒業した2人だが、これを最後に母校の門は堅く閉ざされることになった。
廃校式には北井村長や部落の人たち30余人が出席した。高山教育長や北井村長、豊本校長らがあいさつのあと、生徒を代表して千葉美代子さんが『安内小学校さようなら、母校がなくなることはとてもさびしい。今に校舎はイタドリの中に閉じ込められてしまうだろう』と別れの作文を読んだ。
最後に児童3人のハーモニカと笛に合わせて『ホタルの光』をみんなで歌ったが、おかあさんたちの中にはハンカチでまぶたを押え、たまりかねて室外に走り出す人もあった。
安内小学校は神恵内港から漁船に乗って1時間余り、『西の河原』という霊場が眼下にひらける積丹半島の突端近くにある。児童たちは海岸の玉石づたいにふぶきの日も登校していた。明治17年には寺子屋ができ、27年にオブカル石簡易教育所になった。34年に珊内簡易教育所と改称、大正6年ようやく安内小学校として独立した。
明治から大正初期にかけてこの地方はニシンの豊産だった。当時はこの学校に50人以上の児童が登校していたが、ニシンが幻の魚になってから人口は減る一方、昨年は漁業構造改善事業として校下のオブカル石地区の漁家8戸が川白地区に集団移転、残ったのはノット地区の7戸だけになった。
6年2人がことし卒業、川白中学校に通学することになり、残ったのはこんど3年生になる1人と新しく入学する1人の2人より児童のいない学校になってしまうので今月17日の村議会で廃校することに決定、部落民たちも納得した。今後はノット地区から中学生と6人と小学児童2人が3,3キロメートル離れた川白小中学校に通学することになった。」『北海道新聞後志版』昭和42年3月25日

学校の沿革は以下の通りである。

明治17年 寺子屋として開校(旧7月)
明治27年 オブカル石簡易教育所と改称
明治43年 珊内教育所と改称(4月)
大正 6年 安内尋常小学校と改称(4月)
昭和16年 安内国民学校と改称(4月)
昭和22年 安内小学校と改称(4月)
昭和42年 閉校(3月)

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平成30年6月、HEYANEKO氏と後志管内廃校廃村探訪で訪れた。
使われなくなって久しい建物が目に飛び込む。

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その答えはバス停にあった。
『レストハウス西の河原』
地名によるものだと思うが、それにしてもこの名前では…と複雑な思いを抱きつつ、集落調査を続ける。

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レストハウスの傍に「オブカル石川」が流れている。

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地形図を見ると神社のマークが記されている。
神社へ行くと「十一面観音堂」という観音さまが祀られていた。

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眼前にはかつての袋澗が残っていた。

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学校跡はこの先である。

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学校跡地は現在「あんない展望公園」として整備されている。
そこには学校跡を示す記念碑が建立(平成8年建立)され、安内小学校の沿革が刻まれている。

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かつての校舎跡地に建立されている「安内小学校址」の親子像。

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碑文
嗚呼 西の河原よ 窓 岩よ
冬は苛烈なる日本海の怒涛と相対峙し夏は虎杖の競い立つ蝉しくれふり注ぐこの台地
まさしくここに六十有余年に亘り教育の灯をともし続けた親と子とそして教師の哀歌の歴史があった
昭和四十六年八月十四日 
安内小学校十六代校長 豊本綱市書

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その奥に昭和3年建立の御大典記念の石碑がある。

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学校跡地全景。
学校跡地は展望公園として活用されているので、学校の名前は永遠に残るだろう。

参考文献

北海道新聞1967「今月いっぱいで廃校 神恵内村安内小 60年の歴史閉じる」『北海道新聞後志版』昭和42年3月21日
北海道新聞1967「サヨナラ安内小 『陸の孤島の母校』が最後に 児童2人、最後の卒業」『北海道新聞後志版』昭和42年3月25日
神恵内村1972『郷土かもえない』神恵内村
高橋昌幸2002『戸長設置130年消防組織120年記念 愛郷かもえない』神恵内村

神恵内村清川

神恵内村清川 (平成27年4月25日探訪)

神恵内村清川は、道道998号古平神恵内線 当丸(トーマル)峠の道中にある戦後開拓集落である。

道路情報で「当丸峠」と耳にする機会があると思うが、そこに「清川」という集落があった。

トーマルの開拓そのものは大正7年頃、森本愛吉らが入植したことに始まる。
しかし、開拓されて幾年も月日が流れ、原生林に覆われてしまっていた。

昭和23年 白鳥録太郎を団長とする樺太 留多加からの引揚者17戸が入植した。
この年の12月22日 神恵内小学校清川分校が設置された。

昭和24年 開発道路トーマル殖民地線が着工された。
lこの年、 トーマルは30町歩が開墾された。

清川は北海道内の戦後開拓地域でも「模範的」な開拓集落であった。

それは、入植者のすべてが「共同体」として、神恵内開拓農業協同組合を組織し組合長の統率のもとに進められていった事業の結果である。

昭和26年 フローリング工場、搾油、精穀設備、ラジオ共同聴取が実施される。

昭和27年 バター工場完成。乳牛の飼育も始まった。

昭和28年 清川小学校が独立する。
また、同年開発道路トーマル殖民地線(神恵内 古平間)は二級国道に昇格する。

昭和29年 清川小学校増築工事が落成した。
同年、製パン工場が完成する。

また、他の地域に先駆けてパンと牛乳を中心にした「完全給食」が実施された。
私見であるが、昭和30年以前に「へき地」の学校で「完全給食」を実施したところは極めて稀である。

昭和29年の洞爺丸台風(台風15号)が北海道内を襲った。

北海道内も倒木被害や岩内町の大火を引き起こす要因となったが、トーマルも水力発電施設が壊滅的状態に陥ってしまった。

それでも、昭和30年 澱粉工場が完成する。

だが、昭和31年は冷害で期待できるような収穫量ではなかった。

昭和33年 清川小学校敷地内に風力発電施設が完成。

昭和36年 集中豪雨により神恵内橋以外全部流出。

気が付けば、借金も二千万円を越え、見切りをつけた農家は転出していった。

昭和40年10月30日 神恵内村立清川小学校・神恵内中学校清川分校の閉校式が挙行された。

閉校当時、9戸の農家が生活していたが明年に集団離農することとなった。

子供たちは、神恵内小・中学校の寄宿舎に入居することが決まっていたので、12月には寄宿舎に行った。

北海道新聞 小樽市内板 昭和42年9月26日付の「山の秋 海の秋」シリーズ第8回目に『幽気漂う無人部落 水のアワ、開拓民の努力』としてトーマルが掲載されているが、抜粋して紹介する。

『(前略)軒の傾いたバター工場、雑草になかばおおわれたデンプン工場の廃液捨て場、どろんとにごった水面をのぞかせる養魚池。さびついたのか、発電風車はコトリとも音を立てない。くずれたサイロ、庭先に置かれたままの荷車。まだ取りこわさないで残っている民家が五軒。その一軒の軒先に"滝沢留三郎″と記した表札が打ち付けてあった。』

『案内役をしてくれた神恵内村の村木総務課長が、ポツリ、ポツリと話す『清川開拓部落』の興亡は、救いがたい暗いものであった。いまは土台しかない小、中学校跡を見て、開通間もない国道二二九号線積丹横断道路を通って帰途についたとき『この道路さえ早くできていましたらね』とひとこと。(中略)』

『神恵内市街から約十キロ。当丸峠のふもとを流れる清川沿いに人煙が立ちのぼったのは昭和二十三年。樺太引き揚げ者三十二戸の(注1)緊急入植による清川開拓部落のはじめての夕げのしたくであった。(中略)このとし(昭和24年)、部落と神恵内を結ぶ開拓道路が開通、荷馬車一台がやっと通れる細々とした山道だったが、部落民にとっては、これからの開拓を進めるいのちの綱。さっそく乳牛を入れ、バター生産が始まった。間もなく清川上流にダムができ、水力発電の灯がともった。バターは知事表彰されるほど品質優良。子どもたちのために小、中学校もできた。入植者の顔にやっと笑いが浮かぶようになった。』

『だが、二十七年(注2)この地方を襲った集中豪雨はダムを決壊させ、開拓道路をズタズタに寸断、部落の機能をマヒさせて去った。バター生産は一時ストップ。操業を再開したと思ったら、こんどは委託販売先の営業不振で代金がこげつき、打つ手はすべて裏目と出た。』

『もともと道路が悪く、牛乳が運び出せないから、バター生産に活路を求めたのだ。バターもダメなら牛を持っていても仕方がない。借金のかたに乳牛を手放す人も出始めた。追ってくるのは離農。デンプン生産、ニジマスの養殖など離農歯止め策も徒労に終わった。クシの歯が欠けるように離農者が相次ぎ、四十一年三月、小、中学校閉鎖。そして十月、最後まで踏みとどまっていた滝口清七さん(68)もついに部落を去った。清川の灯はまったく消えたのである。(中略)』

※(注1) 北海道新聞の記事と『郷土かもえない』では入植者の人数に差異がみられる。
※(注2) 昭和27年の集中豪雨であるが、昭和29年の台風15号(洞爺丸台風)の誤りではないかと思われる。

児童・生徒数の変遷が村政要覧に掲載されていたので抜粋する。

『神恵内村政要覧 昭和26年度版』の「清川分教場」(当時)の児童数
学級数 1 教員数 2 児童数 男 29 女 16 計45

『かもえない1958』(昭和33年)の児童・生徒数
小学校 学級数 1 教員数 2 児童数 男 7 女 11 計18
中学校(神恵内中学校清川分校) 学級数 1 教員数 2 生徒数 男 6 女 4 計10
※昭和33年4月1日現在

『かもえない1964』(昭和39年)の児童・生徒数
小学校 学級数 1 教員数 2 児童数 男 5 女 6 計11
中学校(分校) 学級数 1 教員数 2 生徒数 男 1 女 1 計2
※昭和39年5月1日現在

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鉱山跡地調査の帰路、清川へ立ち寄った。
4月下旬でも、残雪が残っている。

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清川小中学校跡地と思われる場所である。
「記念碑」の真下にあったみたいだが、残雪が多くて決め手に欠けた。
残雪の中、集落の痕跡を探すため周囲を散策する。

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不自然な「松」の防風林。学校の防風林と思われる。
斜面を下っていく。

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下った先の風景。
昭和40年まで、ここに学校を含めた様々な施設、そして人びとが暮らしていた。

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サイロの基礎があった。
人々が暮らしていた名残である。

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よく見れば、野生化した松の木があちこちある。

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集落の一部はミズバショウの花が咲く、湿地帯と化していた。

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人工のコンクリート構造物を見つけた。
しかし、どのような用途で使われていたかは分からなかった。

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建物の基礎。
昭和40年以前でコンクリートの基礎がはっきり残っているところは、公的な建物(学校など)以外では珍しい。

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石垣も残っている。
夏場なら笹薮に覆われて観ることができない。

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学校跡地付近で見かけたコンクリート。
雪を掘ろうと試みるも、堅くなっており諦めた。

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集落に点在する松の木。
残雪のため、建物の基礎は僅かしか見つけることができなかった。

昭和40年11月30日付の『清川小中校さびしく閉校式』に掲載されていた一文を掲載する。

『…最後に、゛ホタルの光り"が歌われたが、悲しみは涙からおえつにかわった。オルガンをひいている宮崎先生のホオをいくすじも白いものが光る。十余人の父母たちも、かつて同校に奉職、閉校式に参列した元の先生たちもみんな泣いた。戸外は荒れ果てた畑と、貧しい農家、そしてきびしい冬。(以下略)』

今回の調査に当たり、調査にご協力いただきましたふゆをさま(「人形廃墟別館 仮想博物館」管理人)に厚く御礼申し上げます。

引用・参考文献

2万5千分の1地形図 両古美山 昭和43年7月30日発行
    同     ポンネアンチシ山 昭和43年4月30日発行

5万分の1地形図  古平 昭和22年2月28日発行
   同         余別 昭和22年2月28日発行

「神恵内村政要覧 昭和26年度版」 昭和26年発行
「かもえない1958」 神恵内村役場 昭和33年7月1日発行
「かもえない1964」 神恵内村役場 昭和39年7月25日発行
郷土かもえない 神恵内村長 北井七太郎編 昭和47年11月2日発行
北海道新聞 後志版 昭和40年11月30日付 『清川小中校さびしく閉校式 涙ぐむ学童十二人』
北海道新聞 市内版(後志版) 昭和42年9月26日付 『山の秋海の秋 第8回目/幽気漂う無人部落のアワ、開拓民の努力』
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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