上ノ国町大安在
上ノ国町大安在(平成27年5月31日探訪)
上ノ国町大安在は、戦後開拓の集落であった。
「戦後開拓」でも後半にあたる昭和36年に、町内から18戸の入植者があらわれた。
昭和38年12月11日 河北小学校大安在分校として開校した。
北海道新聞(夕刊) 昭和39年6月5日付で「生活、作業も共同で 上ノ国大安在農場の五世帯」 という記事があった。
大安在を知る、数少ない記事の一つであるので紹介する。
【江差】
桧山支庁の広報車〝こだま号〟は、三日、辺地巡回で上ノ国村の開拓地、大安在共営農場を訪れたが、若い人が中心で共同生活を送る五世帯は、将来の酪農郷をめざして一生懸命だった。
同農場は上ノ国村小森部落からおよそ九㌔、標高三百五十㍍の山の中にあり、開拓者が共業で生計を立てている管内でも特徴のある農場。三十五年と三十六年に同村の木の子部落から入植した農家の二、三男ばかりだが、話し合ってみるとみんな酪農を夢みていることがわかった。それなら労力もはぶけ機械化に進むにも合理的な協業をやろうと、仕事の面だけでなく生活も共同にしたもの。
こうして水利のよいところに六十九・三平方㍍の食堂、ふろ、便所など備えた集会所と、ここを中心に三十三平方㍍の住宅五戸を建て、風車で電気もつけた。(中略)
いまはまだ開墾の途中なので、切り開いた山からマキや炭をとるほか、田植えなどに出かせぎしており、決して生活は楽でない。
しかし来年になれば十三頭の牛が子牛を産むし、牧草地も整備されて本格的な酪農経営に踏み出せるので、四十五年までに搾乳牛五十頭、粗収入五百万円とするのを目標にがんばっている。
しかし、実際は標高が高いがために雪解けも遅く、農作物の収穫も思うように取れないことや乳牛がクマに殺されてしまうこともあった。
また、輸送も将来的に、年間を通して不可能であるため離農する農家も増え、昭和41年をもって全農家が離農していった。
大安在分校も、昭和41年度をもって閉校となった。
但し、昭和41年度の「教育関係職員録」には大安在の学校名が記されているので、少なくとも昭和41年3月以降も存続していた可能性がある。
平成27年5月31日。
メインの大安在開拓地へと足を運ぶ。
メンバーはHEYANEKO氏、A.D.1600氏、ラオウ氏、そして筆者(成瀬)である。
霧の中の調査が始まる。
尚、ここは本校である河北小学校からおよそ8,5キロの地点である。
道は廃道と化しており、徒歩で進む。
数メートルおきにクマの糞が落ちている。
霧が立ち込め生きた心地がしない中、調査を進める。
左手を見ると、謎の建物が目に付いた。
用途がわからないが、先へ進む。
この後、行き過ぎていることに気づきスタート地点まで戻り、前後を調査するもなかなか見つからない。
道中で見かけた「不自然な」松。
入植した人が植えたものだろうか。
もう一度スタート地点から歩き始める。
地形図や写真を照合すると、この笹薮の奥が学校跡のようである。
笹薮を進む。
笹薮を進むと、基礎を見つけた。
植生も笹からフキに変わっている。
河北小学校大安在分校の跡地である。
校舎周辺の全容を調べるため、先へ進む。
石炭小屋と浴槽の建物である。
内部には浴槽のタイルが落ちていた。
傍には水道施設もある。
トイレの基礎もあった。
大便器は3つ。そのうち真中は、欠損が全くない状態であった。
河北小学校大安在分校前景。
手前が廊下で、教室があった。
帰り際、ようやく晴れた。
ここに学校や集落があった。
帰り道、用途不明の建物もみたが、何の用途をなしているのかは分からなかった。
参考文献・引用資料
北海道新聞 夕刊 昭和39年6月5日付「生活、作業も共同で 上ノ国大安在農場の五世帯」
北海道教育関係職員録 昭和38年度版・39年度版・40年度版・41年度版 北海道教職員組合
Webサイト「休廃統合学校の軌跡 檜山にみる、ともしび消えた学校の、栄光のあしあと」 檜山校長会
(書籍は昭和62年3月発行)
上ノ国町大安在は、戦後開拓の集落であった。
「戦後開拓」でも後半にあたる昭和36年に、町内から18戸の入植者があらわれた。
昭和38年12月11日 河北小学校大安在分校として開校した。
北海道新聞(夕刊) 昭和39年6月5日付で「生活、作業も共同で 上ノ国大安在農場の五世帯」 という記事があった。
大安在を知る、数少ない記事の一つであるので紹介する。
【江差】
桧山支庁の広報車〝こだま号〟は、三日、辺地巡回で上ノ国村の開拓地、大安在共営農場を訪れたが、若い人が中心で共同生活を送る五世帯は、将来の酪農郷をめざして一生懸命だった。
同農場は上ノ国村小森部落からおよそ九㌔、標高三百五十㍍の山の中にあり、開拓者が共業で生計を立てている管内でも特徴のある農場。三十五年と三十六年に同村の木の子部落から入植した農家の二、三男ばかりだが、話し合ってみるとみんな酪農を夢みていることがわかった。それなら労力もはぶけ機械化に進むにも合理的な協業をやろうと、仕事の面だけでなく生活も共同にしたもの。
こうして水利のよいところに六十九・三平方㍍の食堂、ふろ、便所など備えた集会所と、ここを中心に三十三平方㍍の住宅五戸を建て、風車で電気もつけた。(中略)
いまはまだ開墾の途中なので、切り開いた山からマキや炭をとるほか、田植えなどに出かせぎしており、決して生活は楽でない。
しかし来年になれば十三頭の牛が子牛を産むし、牧草地も整備されて本格的な酪農経営に踏み出せるので、四十五年までに搾乳牛五十頭、粗収入五百万円とするのを目標にがんばっている。
しかし、実際は標高が高いがために雪解けも遅く、農作物の収穫も思うように取れないことや乳牛がクマに殺されてしまうこともあった。
また、輸送も将来的に、年間を通して不可能であるため離農する農家も増え、昭和41年をもって全農家が離農していった。
大安在分校も、昭和41年度をもって閉校となった。
但し、昭和41年度の「教育関係職員録」には大安在の学校名が記されているので、少なくとも昭和41年3月以降も存続していた可能性がある。
平成27年5月31日。
メインの大安在開拓地へと足を運ぶ。
メンバーはHEYANEKO氏、A.D.1600氏、ラオウ氏、そして筆者(成瀬)である。
霧の中の調査が始まる。
尚、ここは本校である河北小学校からおよそ8,5キロの地点である。
道は廃道と化しており、徒歩で進む。
数メートルおきにクマの糞が落ちている。
霧が立ち込め生きた心地がしない中、調査を進める。
左手を見ると、謎の建物が目に付いた。
用途がわからないが、先へ進む。
この後、行き過ぎていることに気づきスタート地点まで戻り、前後を調査するもなかなか見つからない。
道中で見かけた「不自然な」松。
入植した人が植えたものだろうか。
もう一度スタート地点から歩き始める。
地形図や写真を照合すると、この笹薮の奥が学校跡のようである。
笹薮を進む。
笹薮を進むと、基礎を見つけた。
植生も笹からフキに変わっている。
河北小学校大安在分校の跡地である。
校舎周辺の全容を調べるため、先へ進む。
石炭小屋と浴槽の建物である。
内部には浴槽のタイルが落ちていた。
傍には水道施設もある。
トイレの基礎もあった。
大便器は3つ。そのうち真中は、欠損が全くない状態であった。
河北小学校大安在分校前景。
手前が廊下で、教室があった。
帰り際、ようやく晴れた。
ここに学校や集落があった。
帰り道、用途不明の建物もみたが、何の用途をなしているのかは分からなかった。
参考文献・引用資料
北海道新聞 夕刊 昭和39年6月5日付「生活、作業も共同で 上ノ国大安在農場の五世帯」
北海道教育関係職員録 昭和38年度版・39年度版・40年度版・41年度版 北海道教職員組合
Webサイト「休廃統合学校の軌跡 檜山にみる、ともしび消えた学校の、栄光のあしあと」 檜山校長会
(書籍は昭和62年3月発行)
せたな町(大成町)ヌタップ
せたな町(大成町)ヌタップ (平成27年5月3日・5月30日探訪)
せたな町(大成町)ヌタップは、戦後開拓の集落であった。
昭和24年 樺太からの引揚者21戸が入植した。
ヌタップは海抜300メートルと高い位置にあるため「冷害」に悩まされながらの開拓であった。
昭和26年2月 平田内小学校平和分校が開校。
中学校も、分校として開校した。
昭和27年11月5日 新校舎が落成する。
昭和30年4月1日 平和小・中学校と独立した。
ヌタップの日常を知る記事が『教育月報』に記載されていた。
『教育月報 No93』に当時の校長 石田光世が『へき地の運動会』というタイトルで寄稿している。
以下、該当部分を引用する。
『昭和30年4月1日、独立校となりました。それまで平田内校の分校であって、運動会には本校(8キロ)まで行ってさんかしておったので、父兄は子供の運動会の姿をみない(忙しい時期だから)。独立の年に、PTAができ、その役員会で運動会をやることに決めたのです(中略)。』
『戸数20、在籍数小18、中16計34名、職員3名の運動会についての困難点は、この様なへき地では経験がないこと、種目をどの様にするか(全数が僅少であること、学年ごとの数のバランスがとれないこと、性別のバランスが取れないこと)、いろいろと頭痛の種だった。そこで、行事のあり方を部落全体に拡げて総員出動のプログラム編成にとりかかってみたのです。(中略)』
『晴天に恵まれ、部落の手で拡大されたグラウンド(周囲130米)には、父兄子ども等が、点々として淋しいものでありましたが、緑山の老若男女は一日中声援をし、駈けっこし、愉快にすごしたのです。(中略)』
『本年は、拠出金の趣向を変え、毎月(1月ー6月)一戸当り百円とし、鶏卵をもち寄り、開拓農協で販売していただき代金を積み立てて、この行事をやりやすくしようとしたのです。(中略)』
『このへき地の運動会を見んものと、八キロの山頂をトラックに便乗して来る人も多く仲間入りし、戴く褒章の実用的である見事な点に好評をはくしております。楽しい行事、トラブルなき快愉な集い、校名に反しない平和そのものでもあります(以下略)。』
また、『教育月報』 1962(昭和37)年11月号『座談会 へき地の教育を語る』で橘 喜久未(久遠郡大成村立平和小・中学校長)は次のように述べている。
『私のところは、バスの停留所まで8キロ、停留所から東瀬棚の駅まで32キロあります。部落は、昭和24年樺太からの引揚者が入植した開拓部落で、それまでは炭鉱夫、漁師というように農業には未経験なものばかりです。』
『戸数は12戸、児童・生徒数は小が11名、中が5名の計16名です。部落の人をぜんぶ集めても51名です。』
『(電気なんかは)ありません。学校ができてから十年間に生徒が34名卒業しましたが、残っているのは5名だけです。(中略)』
『私のところは高台でね。標高300メートルもあるんで寒くて米がとれないといわれていたんです。赴任してからいろいろ調べて見たんですが、とれるような気がするので去年米を作ってみました。』
『実際にはできるんです。一俵ほどとれて部落の人達にたべさせてやりました。部落の人達も自分達の土地にも米がとれるというので、5ヶ年計画を立てたりしてやっているわけです。こういうようになると楽しみができますね。』
だが、昭和38年9月に発生した集中豪雨はヌタップにも大きな被害を与えた。
北海道新聞 夕刊 昭和38年12月9日付で『山を下りる開拓地の人たち 全戸、市街地で越冬』とある。
『九月の集中豪雨で被害を受けた大成村字宮野の通称ヌタップ開拓地の人たちが全員山を下り、市街地で越冬することになった。』
『ヌタップ開拓地は宮野地区から約九キロ離れた高台にあり、ヌタップ地区十三戸、小川地区六戸計十九戸の開拓者が二十四年ごろから入植していた。九月の豪雨で宮野を結ぶ開拓道路(小川炭鉱道路)が決壊、不通、その後の復旧も思わしくなく、降雨のたびに泥んことなって農産物の搬出や日用品の輸送にも支障をきたす始末。そのうえ冬を迎えて病人が出た場合、下まで運び出せないことも憂慮され、結局部落を放棄することになったもの。(中略)』
『すでに部落十九戸は十一月までに下山したが、このため平和小中学校(小学八人、中学六人)は自然的に休校となり、児童生徒の大半は字宮野の平田内小中学校に通学している。(以下略)』
『大成町史』によると、昭和38年11月19日付で小・中学校を閉鎖、同年12月3日付で平田内小中学校に移転、と記されている。
そして、平和小中学校は昭和39年7月30日付で閉校となった。
ヌタップへの道のり。
ここから10キロ先に、学校があった。
道中の風景。
これはまだ、序章にしか過ぎない。
道中の風景。
まだまだ進む。
右手を見れば岩肌が見える。
左手には川が流れ、大自然が溢れている。
携帯電話は当然、圏外である。
だいぶ進んできたその時、記念碑が見えた。
ヌタップの「開拓記念之碑」である。
碑文の解読を試みる。
『昭和二十八年三月建立』
風化が著しいため一部不明なところがあるが、次のように判読できた。
『瀧谷徳次郎氏齢七十一歳○(透?)老躯○(箋?)○同志二十一世帯昭和二十三年七月引揚樺太拓荊棘定居於山陬ヌタップ至誠努開拓昭和二十三年得病逝去住民慕其遺徳茲』
こちらは入植者の名前が記載されている。
『中田仁太郎 大野沖一郎 成田林之助 照井政次郎 野宮正塚 稲垣二三郎 高山三郎 佐々木弥作 菊地庄雄 高山庄三 鱈場正雄 中島勝次郎 清野○○ 前川清太郎 ○○勝美 高橋寅之助 渡辺平太郎 三浦○○ 富三』
碑文で○のところは判読不能であったところ。
探訪時、道路が崩れていた。
ここから先は、徒歩での訪問である。
その先も道路が崩れていた。
道はまだ続いていたので「ちょっと行ってきます」と言って先へ進んだ。
決壊部分を渡ってから「単独行動」になったことに気付いたが、大声で声が届く範囲で調査を続行した。
倒木「には」気にしないで進む。
気にするのは「クマ」の出没である。
右を見ると、建物の残骸が見えた。
瓦解して久しいが、平和小中学校の建物である。
ラオウ氏に「ありましたよー!」と大声で叫び、学校跡を知らせた。
住民の奉仕で造成されたグラウンドは、自然に還っていた。
あさがお(小便器)も残っていた。
校舎が閉校後も残っていた理由として、渡島森林管理署に問い合わせたところ「昭和50年代頃までヌタップに休憩小屋があった」と教えていただいた。
従って、校舎は閉校後、休憩小屋として転用されていた可能性がある。
学校跡地の近くにもうひとつ基礎を見つけた。
恐らく、教員住宅の基礎と思われる。
別角度より。
基礎がはっきりとわかる。
周辺を歩いてみる。
マツの木があるが、ここに住まわれていた方が植樹したものだろうか。
学校より手前の風景。
畑はすべて植林されていた。
それから程なくして、HEYANEKO氏らと再訪した。
穴の開いた道路は修復され、容易に学校跡地まで到達することができた。
学舎はササに覆われていた。
3週間でこんなに伸びるものか、と驚いた。
帰り道に見つけた橋梁。
こちらが元々の道であった。
尚、ここはクマ出没が極めて高いので単独での調査はお勧めしないことを明記する。
上記の写真はクマの「罠」である。
参考文献・引用資料
『大成町史』 大成町 昭和59年9月15日発行
『教育月報 1958年7月号 No 93』 北海道教育委員会
『教育月報』 1962年11月号 No142』 北海道教育委員会
北海道新聞 夕刊 昭和38年12月9日付 『山を下りる開拓地の人たち 全戸、市街地で越冬』
『入植者台帳』 北海道農地開拓部開拓課 昭和39年発行
せたな町(大成町)ヌタップは、戦後開拓の集落であった。
昭和24年 樺太からの引揚者21戸が入植した。
ヌタップは海抜300メートルと高い位置にあるため「冷害」に悩まされながらの開拓であった。
昭和26年2月 平田内小学校平和分校が開校。
中学校も、分校として開校した。
昭和27年11月5日 新校舎が落成する。
昭和30年4月1日 平和小・中学校と独立した。
ヌタップの日常を知る記事が『教育月報』に記載されていた。
『教育月報 No93』に当時の校長 石田光世が『へき地の運動会』というタイトルで寄稿している。
以下、該当部分を引用する。
『昭和30年4月1日、独立校となりました。それまで平田内校の分校であって、運動会には本校(8キロ)まで行ってさんかしておったので、父兄は子供の運動会の姿をみない(忙しい時期だから)。独立の年に、PTAができ、その役員会で運動会をやることに決めたのです(中略)。』
『戸数20、在籍数小18、中16計34名、職員3名の運動会についての困難点は、この様なへき地では経験がないこと、種目をどの様にするか(全数が僅少であること、学年ごとの数のバランスがとれないこと、性別のバランスが取れないこと)、いろいろと頭痛の種だった。そこで、行事のあり方を部落全体に拡げて総員出動のプログラム編成にとりかかってみたのです。(中略)』
『晴天に恵まれ、部落の手で拡大されたグラウンド(周囲130米)には、父兄子ども等が、点々として淋しいものでありましたが、緑山の老若男女は一日中声援をし、駈けっこし、愉快にすごしたのです。(中略)』
『本年は、拠出金の趣向を変え、毎月(1月ー6月)一戸当り百円とし、鶏卵をもち寄り、開拓農協で販売していただき代金を積み立てて、この行事をやりやすくしようとしたのです。(中略)』
『このへき地の運動会を見んものと、八キロの山頂をトラックに便乗して来る人も多く仲間入りし、戴く褒章の実用的である見事な点に好評をはくしております。楽しい行事、トラブルなき快愉な集い、校名に反しない平和そのものでもあります(以下略)。』
また、『教育月報』 1962(昭和37)年11月号『座談会 へき地の教育を語る』で橘 喜久未(久遠郡大成村立平和小・中学校長)は次のように述べている。
『私のところは、バスの停留所まで8キロ、停留所から東瀬棚の駅まで32キロあります。部落は、昭和24年樺太からの引揚者が入植した開拓部落で、それまでは炭鉱夫、漁師というように農業には未経験なものばかりです。』
『戸数は12戸、児童・生徒数は小が11名、中が5名の計16名です。部落の人をぜんぶ集めても51名です。』
『(電気なんかは)ありません。学校ができてから十年間に生徒が34名卒業しましたが、残っているのは5名だけです。(中略)』
『私のところは高台でね。標高300メートルもあるんで寒くて米がとれないといわれていたんです。赴任してからいろいろ調べて見たんですが、とれるような気がするので去年米を作ってみました。』
『実際にはできるんです。一俵ほどとれて部落の人達にたべさせてやりました。部落の人達も自分達の土地にも米がとれるというので、5ヶ年計画を立てたりしてやっているわけです。こういうようになると楽しみができますね。』
だが、昭和38年9月に発生した集中豪雨はヌタップにも大きな被害を与えた。
北海道新聞 夕刊 昭和38年12月9日付で『山を下りる開拓地の人たち 全戸、市街地で越冬』とある。
『九月の集中豪雨で被害を受けた大成村字宮野の通称ヌタップ開拓地の人たちが全員山を下り、市街地で越冬することになった。』
『ヌタップ開拓地は宮野地区から約九キロ離れた高台にあり、ヌタップ地区十三戸、小川地区六戸計十九戸の開拓者が二十四年ごろから入植していた。九月の豪雨で宮野を結ぶ開拓道路(小川炭鉱道路)が決壊、不通、その後の復旧も思わしくなく、降雨のたびに泥んことなって農産物の搬出や日用品の輸送にも支障をきたす始末。そのうえ冬を迎えて病人が出た場合、下まで運び出せないことも憂慮され、結局部落を放棄することになったもの。(中略)』
『すでに部落十九戸は十一月までに下山したが、このため平和小中学校(小学八人、中学六人)は自然的に休校となり、児童生徒の大半は字宮野の平田内小中学校に通学している。(以下略)』
『大成町史』によると、昭和38年11月19日付で小・中学校を閉鎖、同年12月3日付で平田内小中学校に移転、と記されている。
そして、平和小中学校は昭和39年7月30日付で閉校となった。
ヌタップへの道のり。
ここから10キロ先に、学校があった。
道中の風景。
これはまだ、序章にしか過ぎない。
道中の風景。
まだまだ進む。
右手を見れば岩肌が見える。
左手には川が流れ、大自然が溢れている。
携帯電話は当然、圏外である。
だいぶ進んできたその時、記念碑が見えた。
ヌタップの「開拓記念之碑」である。
碑文の解読を試みる。
『昭和二十八年三月建立』
風化が著しいため一部不明なところがあるが、次のように判読できた。
『瀧谷徳次郎氏齢七十一歳○(透?)老躯○(箋?)○同志二十一世帯昭和二十三年七月引揚樺太拓荊棘定居於山陬ヌタップ至誠努開拓昭和二十三年得病逝去住民慕其遺徳茲』
こちらは入植者の名前が記載されている。
『中田仁太郎 大野沖一郎 成田林之助 照井政次郎 野宮正塚 稲垣二三郎 高山三郎 佐々木弥作 菊地庄雄 高山庄三 鱈場正雄 中島勝次郎 清野○○ 前川清太郎 ○○勝美 高橋寅之助 渡辺平太郎 三浦○○ 富三』
碑文で○のところは判読不能であったところ。
探訪時、道路が崩れていた。
ここから先は、徒歩での訪問である。
その先も道路が崩れていた。
道はまだ続いていたので「ちょっと行ってきます」と言って先へ進んだ。
決壊部分を渡ってから「単独行動」になったことに気付いたが、大声で声が届く範囲で調査を続行した。
倒木「には」気にしないで進む。
気にするのは「クマ」の出没である。
右を見ると、建物の残骸が見えた。
瓦解して久しいが、平和小中学校の建物である。
ラオウ氏に「ありましたよー!」と大声で叫び、学校跡を知らせた。
住民の奉仕で造成されたグラウンドは、自然に還っていた。
あさがお(小便器)も残っていた。
校舎が閉校後も残っていた理由として、渡島森林管理署に問い合わせたところ「昭和50年代頃までヌタップに休憩小屋があった」と教えていただいた。
従って、校舎は閉校後、休憩小屋として転用されていた可能性がある。
学校跡地の近くにもうひとつ基礎を見つけた。
恐らく、教員住宅の基礎と思われる。
別角度より。
基礎がはっきりとわかる。
周辺を歩いてみる。
マツの木があるが、ここに住まわれていた方が植樹したものだろうか。
学校より手前の風景。
畑はすべて植林されていた。
それから程なくして、HEYANEKO氏らと再訪した。
穴の開いた道路は修復され、容易に学校跡地まで到達することができた。
学舎はササに覆われていた。
3週間でこんなに伸びるものか、と驚いた。
帰り道に見つけた橋梁。
こちらが元々の道であった。
尚、ここはクマ出没が極めて高いので単独での調査はお勧めしないことを明記する。
上記の写真はクマの「罠」である。
参考文献・引用資料
『大成町史』 大成町 昭和59年9月15日発行
『教育月報 1958年7月号 No 93』 北海道教育委員会
『教育月報』 1962年11月号 No142』 北海道教育委員会
北海道新聞 夕刊 昭和38年12月9日付 『山を下りる開拓地の人たち 全戸、市街地で越冬』
『入植者台帳』 北海道農地開拓部開拓課 昭和39年発行