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羽幌町築別炭砿

羽幌町築別炭砿(平成25年6月9日・平成27年3月26日他探訪)

羽幌町はかつて、炭鉱で栄えていた。

羽幌町築別炭砿・羽幌砿(羽幌炭鉱)・上羽幌(上羽幌炭鉱)であるが、このうち築別炭砿・羽幌砿は廃村に、上羽幌はごく少数戸の農家が住む、高度過疎集落である。

この三地域については築別炭砿・羽幌砿両地区は築別御料、上羽幌は羽幌御料と呼ばれていた。
今回は築別炭砿集落について取り上げたい。

明治30年代に御料農地の貸下げが始まると開拓農家が入地し、農業集落が形成されていった。
当初は純農村地帯であった。

本格的な開発は昭和に入ってからであった。

昭和6年 神戸の鈴木商店から、ここの鉱区を譲渡された太陽産業株式会社は調査・開発を進めた。

昭和14年 羽幌駅前に本店を、築別御料に鉱業所を設け「築別炭坑」と命名し坑夫住宅を建設し始めた。

昭和15年 築別炭坑の開発と共に、羽幌鉄道株式会社による築別-羽幌間の鉄道建設を進めた。

昭和16年 羽幌鉄道株式会社が太陽産業株式会社の石炭鉱業設備を譲り受け、鉄道と炭鉱開発を同時に進め「羽幌炭礦鉄道株式会社」と改めた。

学校は昭和15年12月8日 公立太陽尋常高等小学校が開校した。

昭和16年4月 羽幌町立太陽国民学校と改称。

昭和22年4月 羽幌町立太陽小学校と改称。太陽中学校もこの時、併置した。
一方、炭鉱開発は戦時中の労働力不足により低迷期が続いた。

昭和22年前後、羽幌炭鉱二坑(上羽幌地区)の開発が始まり、昭和23年には本坑(三毛別)・二坑を合併し、本坑に羽幌砿業所が置かれた。

昭和25年 道内の炭鉱労働史に残る大争議が発生したが、その後は労使協調のもとで増産を見せた。

築別炭砿集落は左岸に岡町・谷町・末広町。右岸に古賀町・旭町・金子町があった。
町名の由来は羽幌炭礦鉄道株式会社社長や役員の名前であった。また、集落には商店街はもとより築別砿業所、役場支所、会館、消防本部、生協、幼稚園、研修所、大五百貨店、クラブ、大山衹神社が集まっていた。

しかし、昭和30年代後半よりエネルギー革命の影響を受けた。

羽幌炭砿は経営の合理化や機械化に重点を置き、昭和40年には築別・羽幌砿業所を統合し羽幌砿業所と改称、旧砿業所を築別坑・羽幌坑・上羽幌坑と改称した。

だが、羽幌坑の自然条件の悪化が減産を招いた。

昭和45年 築別西坑を閉鎖し羽幌坑・上羽幌坑に縮小したが坑内条件の悪化や出稼率の低下により、昭和45年11月 閉山した。

太陽小学校は閉山する前の昭和42年3月 3階建ての校舎が完成した。

閉山により児童の転出が後を絶たず、昭和46年5月31日 閉校となった。中学校も同日付で閉校した。

旧太陽小学校はその後「はぼろ緑の村」として昭和57年6月6日にリニューアルされた。
校舎は宿泊施設へと転用され、羽幌炭砿の資料も展示されていたが、利用客の減少により平成12年に閉鎖された。

尚、現在は羽幌町の観光名所の一つとして案内板を建てている。

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築別炭砿へ行く途中にある羽幌町立築別中学校。開校は昭和22年4月1日、閉校は昭和50年3月31日である。

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隣接地には「築別老人寿の家」がある。独特な字体である。

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体育館は今も使用されている。

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もう少し進むと羽幌町立上築別小学校がある。開校は明治38年11月16日、閉校は昭和35年9月30日である。
校舎は既に解体されてしまったものと思われる。

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現在は「羽幌町上築老人の家」「羽幌町上築中央集会所」として使われている。

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先を進み、右手を見ると羽幌炭鉱鉄道の橋脚が見えた。

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橋脚は戦時中、物資不足のため全国各地から桁を集めて建てたものである。

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橋脚を過ぎ、曙集落へ入ると曙小学校跡が見えた。開校は明治39年4月10日、閉校は平成2年3月31日である。
この正面に校舎があったが昭和50年3月、隣接の旧北辰中学校校舎に移転した。

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移転した曙小学校はかつて、旧北辰中学校であると共に旧太陽高等学校でもあった。

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曙小学校を抜けると、太陽小学校が見えた。

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体育館は、珍しい円形型である。

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北海道新聞 留萌・宗谷版昭和42年3月21日付の記事に「卒業と新築記念 太陽小で二つのお祝い」とある。
昭和42年3月19日 卒業式と校舎新築落成式の式典が挙行された。
しかし、今は朽ちゆく一方であった。

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2年前の平成23年10月20日、太陽小学校の内部を探訪した。

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床には合宿で来ていた中学校のポスターが落ちていた。

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校舎裏にはプールが残されていた。

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外へ出て、太陽小学校を後にするとホッパーが姿を現した。

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ホッパーを越えて進むと、炭鉱病院が朽ちながらも残されていた。
平成23年10月20日の時点でこの状態であった。

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約10年前の平成13年頃に撮った炭鉱病院。

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この頃はまだ、どうにか面影を残していたので内部探訪も出来た。
しかし、現在は老朽化が著しいので危険である。

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炭鉱病院の奥に太陽中学校があった。
学校跡地は平地となっているだけで、何も無かった。

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病院へ戻り、いよいよ炭鉱住宅方面へと進む。

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炭鉱住宅の前には、消防署の建物が朽ちながらも残されている。

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そして、眼前には鉄筋の炭鉱住宅が並んでいた。

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北海道新聞 留萌・宗谷版 昭和44年10月4日付の記事に「鉄筋アパート完成 明るいムードそえる」とある。
建物は昭和43年の秋に建築が始まった。

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だが、僅か1年後に閉山となり住民はいなくなった。

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平成13年頃に撮った炭鉱住宅。

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この頃は屋根がめくれることも無かったが、投石でガラス窓が所々割られていた。

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炭鉱住宅を後にし、浴場へと足を運ぶ。

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浴場は往時の面影を残していた。

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発電所煙突と映写室の跡。
羽幌町の発展を担った集落は、自然に還っていた。

これから先は、既に公開した羽幌町羽幌砿(旭ヶ丘小学校)と併せて調査した時のものである。

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築別炭鉱の手前はゲートで閉じられている。
ここから先は徒歩で進む。

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太陽小学校は、積雪により遠望で留める。

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築別炭鉱のホッパーが見えた。

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さらに進むと、築別炭鉱病院が見えたが屋根は完全に抜け落ちている。

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内部の床面は非常に危ない。

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正面玄関へ廻る。
病院受付の面影は残っているが、朽ち果てる寸前である。

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築別炭鉱の鉄筋炭鉱住宅が見えてきた。

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鉄筋炭鉱住宅。
今回は、この奥にある築別浄水場まで歩くことにした。

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鉄筋炭鉱住宅を抜けた先の風景。
雪の下に、住宅の基礎が眠っている。

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築別スキー場跡。
「ジャンプ台」もあったが、この時は見つけることができなかった。

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浄水場手前の北清寮。

北清寮
平成14~15年 5月頃撮影の北清寮。


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平成14~15年 5月頃撮影の北清寮。
この頃も朽ちていたが、それでも屋根が辛うじて残っていた。

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平成14~15年 5月頃撮影の北清寮内部。
筆者はここで、床を踏み抜いてしまった。

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北清寮の向かいに、鉄棒が残されていた。

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鉄棒の傍に、屋根が残っている。
炭鉱住宅の屋根と思われる。

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築別浄水場が見えた。

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平成14~15年 5月頃撮影の築別浄水場。
浄水場に関しては、殆ど変化が見られない。

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浄水場を探訪して帰る途中の風景。
右は一緒に訪れた知人(かんじき)、左は筆者(長靴)である。

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帰り際、ふと見ると墓地が見えた。
今も3基のお墓がある。今もお参りに来られているのだろうか。
維持管理されていることを願いつつ、築別炭鉱を後にした。

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非公開コメント

No title

こちらからではあまりに遠すぎますが、
近い将来羽幌には行ってみたいと思っています。

消防署の写真にも案内板のようなものが見えますが、
周辺は多少なりとも整備されているのでしょうか?
どんな雰囲気の場所なのか、興味があります!

羽幌すごい!行きたいでーす!!病院のビフォーアフター両方写真があるなんて!炭鉱住宅ができたのにすぐ過疎化が始まったなんて切ないですね( •́ㅿ•̀ )

No title

>F138/Shigeさま
コメント有難うございます。そちらからでは遠いですね。
築別炭鉱・羽幌炭鉱は現在、町の観光の一つとなっていますので案内板が建てられています。
機会がありましたら、是非いらしてみてください。

>もふんさま
コメント有難うございます。
採炭の斜陽化挽回の策の一環なのかもしれませんが、僅か1年後に閉山してしまい勿体ないですね。
尚、同型の炭鉱住宅が赤平にありましたが、既に解体されています。

No title

いやいやいやぁー!ついにきましたね。羽幌♡
炭住群や太陽小学校を見た時にはホントに昇天してもおかしくない位の衝撃でした。

この場を借りて連れて行ってくれたこととはしゃぎ過ぎたボクを子供を見守る母親のように優しく接してくれた皆様に感謝させていただきます(汗)。

No title

>ラオウさま
コメント有難うございます。
あの炭住や羽幌炭鉱 立坑櫓は一見の価値があります。
次は上羽幌にして、最後に羽幌炭鉱をにしようか…などと思ったりしています。
旭ヶ丘小学校跡地の到達が出来なかったのが、唯一の心残りですがそれはまたの機会ですね。

自然に帰した我が古里

掲載有り難うございます。
もう行くこともないのですが懐かしくもあり、寂しくもありですね。
17歳の時に閉山しましたが、そのときまで築別炭鉱で暮らしておりました。
生まれ育った土地は今ではこのような廃墟ですが、目を閉じると瞼の裏にはあの頃の街の様子が浮かんできます。
当時としては珍しかった小学校の円形の体育館、鉄筋コンクリートなのでまだ朽ちないであるんですね。

Re: 自然に帰した我が古里

hitosiさま

コメント有難うございました。
今年の9月、羽幌炭鉱閉山45年の同窓会が羽幌町で行われ、築別出身の方から色々と往時の暮らしや学校について伺いました。
体育館や校舎はどうにか健在ですが、消防署や病院はぼろぼろになってしまいました。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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