はてなキーワード: 連続とは
何もわかってねえなお前は。
まずラーメンハゲのやつは「仕事とその対価」の話だから関係ない。反論するまでもなく関係ないんだ。
ほんでボランティアは断片的な善意の集積でいいというお前の持論。全くわかってない。
ボランティアに参加する人間は一人ひとりが全体像を把握した上で自分に可能なだけのリソースを供出する。
1日だけの参加であろうと年単位のコミットであろうと関係なくいち個人がマネージャーと一兵卒を兼ねてないといけない。なぜならボランティアは誰にも雇われてないから。
「自分、ペーペーなんで何もわかりません!でも熱意だけはあります!指図して下さい!うおおおおお!」つってドタバタやって燃え尽きてどっか行くやつはただの馬鹿であって、そんなもんの連続で成り立つボランティア活動なんかない。
「善行」「功徳」みたいな道徳的価値と一体のものとしてしかボランティアを捉えられないからそういう勘違いに陥る。
例えば余りもんの食品をニーズのあるところにまわそうぜって活動に必要なのはロジや品質管理の知識とスキルであって熱意や感動じゃない。
障害児への介助だったり災害ボランティアだったり老人ホームのボランティアだったり子ども食堂だったり
そういう人たちに生じたいろいろなドラマを「善意では長続きしない」と冷笑するエピソードが好きな人はたくさんいるだろうけど。
ラーメンハゲの「対価の無い仕事に責任は発生しないホニャララ」の画像を貼って、悦に浸ってる奴とかね。(大体漫画の切り抜きって前後の文脈完全無視してるよね)
でも別に半分当事者としては「善意(単純な感情でもいい)では長続きしない」の連続でいいと思うんだよね
学童保育や子ども食堂みたいな零細の現場では、夢に溢れて学童に携わろうとしてきた教育課程のバイトとかボランティアもそれなりに来てたけど
当然「理想」と違って本当に物事の途中で去っていく者もいるわけだ。
子どもというリアルの生き物相手だから自分が抱いていた子どもの観方が圧し折られていなくなるひともいる。
力量の入れ方を間違えちゃって一週間で一ヶ月分の働きをしちゃって、疲れちゃって辞める人とかもいる。
で、そういう所だけ切り取ってすぐに制度の問題がどうとか「仕事には対価が必要!」とかいう人もいるけど違うんだよね。
それで周っている。そしてそれにとくに問題は感じない。
Aが去ってもBが来る。Bが去ってもCが来る。私もやめた側だけど、「善意の現場」はそれでいいと思う。
問題になるのは本当に場所が無くなる時だけで、言い換えれば「貢献」の場所がある限りはそこの人員がどう周っていてもいい。
それで助かる人がいる限り。
似たような例で、前に「老夫婦が長年経営して減価償却も済ませて学生に安く食わせてるとんかつ屋は地域経済を破壊する!」みたいな記事があったけど
あれなんか実際学生が助かって喜んで老夫婦も嬉しい以上そこに経済がどうとか、危機感がどうとか、ダンピングがどうとか言いくるめるのは無理なんだよな。
あの時も賢しらなコメント一杯ついてたけど、冷笑なんか、目の前の笑顔を知っている当事者にはそもそも意味をなさない。
・東京23区外の多摩出身の30代だけど、年収が数年連続で2000万円超えてます。ちなみに都内の公立小中高卒、都内国立大の学部卒ね。いわゆる下級よりの中級国民出身って奴かな
・まず年収2000万円にもなると移動が格段に楽になる。この差は貧乏人にも簡単に想像できると思う。つまり、移動にストレスいっぱいの電車を使う必要がなくなる。近距離なら全部タクシー、遠距離なら新幹線グリーン車、飛行機もビジネスクラスと、格段に楽な移動手段を毎回選択できる。飛行機に関しては、1人なら年に二回JAL/ANAのビジネスクラスで欧米旅行に行ける。ビジネスクラス2人分の席を予約するなら年一になるけど。
・年収2000万円に達すると、金が大きく余り始める。年収2000万円程度の収入でも毎月一泊10万円のリゾートホテルやディナー8万円のステーキハウスに通える。通える、というのはこのような金の使い方をしても使い道に困るお金がまだまだ手元に残っている。
・年収2000万円でも、赤の他人を雇える。クラウドワークスでもツイッターでも何でも、このくらいの稼ぎから他人を使用できるようになる。年収2000万円の俺も、月収8万円で女の子を副業バイトで雇っている。年収2000万円を超えて来ると、人を雇う余裕が生まれる。この感覚は年収800万円や1000万円を単純に数字だけ延長しても生まれない想像だと思う。
・年収2000万円を超えてくると、そこら辺で働いてる人がどうしてもケア対象に見えてしまう。謙虚で控えめだった俺でも数年間年収2000万円を超えて収入が増え続けると、時給5000円以下だったり月収80万以下みたいな人と自分の感覚がかなり違うことは毎日意識させられる。どういうことかと言うと、普段行ってる店や旅行先のホテルや趣味の話をするときにかなり遠慮して話をしなければならなくなる。この遠慮をして話すというのが数年続くと、次第に話し相手と自分が互いに異なる階層で生きてる人間なんだということが嫌でも意識させられる。これが続くと、相手のことを介護や特別なケアが必要な層の人と無意識に認識してしまうようになる。格の違いと言うか、生きてる層の違いというのか。年収2000万程度で、と思うかもしれないが、それでも年収600万とか800万の人と話すときは「絶対謙虚さを意識して会話しないといけない」と決意してから会話しないと油断して場に変な空気が生まれるリスクが出始める。
こんなところかな。年収4000万、1億円の人の話も聞いてみたいところ。
https://anond.hatelabo.jp/20241214160546
便乗して書く。順不同です。
不法移民を乗せた船が地中海に度々沈んでいるとニュースで話題だが沈んだ/打ち上げられた彼らの遺体は果たしてどう扱うべきか。大量死した移民難民の検死という大プロジェクトに立ち向かったイタリア法医学者の奮闘の記録。身元の照合なんてDNA鑑定すれば簡単やろ、なんて素人考えは早々に打ち砕かれ、うーんこれは大変だぞと読んでて途方に暮れてしまうが、それに立ち向かう筆者ら法医学者の技術と志には非常に頭が下がる。法医学の本なのに序文が筆者の肉親の死を描いたエッセイから始まるのが意外だったが、読み終えたあとにはその意図がよくわかる。ちなみにグロ写真は出てこないがグロ文章は出てくるので俗な好奇心も満たされた。
噂には聞いていたがおもろすぎる。特に『オムファロス』が好きだが読書メモを見返してみると『不安は自由のめまい』からの引用も多く、かなり自分の心に響いたようだ。あまりに面白かったから、SFマガジンの息吹刊行特集号を中古で探してきて、短編集未収録作(『2059年なのに、金持ちの子(リッチ・キッズ)にはやっぱり勝てない -DNAをいじっても問題は解決しない』)まで読んじゃった。
土を語るには色が欠かせない、ということで新書なのにフルカラー、本を開くと不思議な匂いがする。永久凍土、チェルノーゼム等等、高校の地理の授業で学んだものだが、実際に足を運んでみると結構ものが違ってたり、正確かつ詳細な分布記録はどこにもなかったり(なので国際プロジェクトが立ち上がり筆者もそこに参加した)教科書には載っていない地質研究のリアルが知ることができ面白かった。筆者の語りも軽妙でぜひ次回作が読みたいと思っていたら、ちょうど今月末にブルーバックスから『土と生命の46億年史 土と進化の謎に迫る』という本を出すようで興奮が止まらない。絶対読もう。
新卒時代に神経内科学に携わった経験があり、仕事内容はAD(アルツハイマー病)ではなかったもののアミロイドβ仮説の問題点については小耳に挟むことも多かった。ということで課題図書的に読まなければならないと思っていた本でようやく重い腰を上げて読んだのだが過たず面白かった。同時期に『失敗の科学』も読んだのだが、それに載っていてもおかしくないような事例ではある。認知症は確かに存在するのだろうが、アルツハイマー病という病気が本当にこの世に存在するかどうかは読み終わった今かなり疑問だ。病をどのように定義するか……。脳の病気は、脳以外の臓器と違ってすぐさま生検というわけにもいかないし、死後解剖も難しく(愛する人の頭を暴かれたいとはなかなか思えまい)、そもそも脳という臓器が複雑なブラックボックスすぎて、病態と組織学的所見とを適切に紐付けることが元々非常に困難なんだろうな。
わたくしごとだが11月末に待望の第一子が産まれ、本書はその産前休業期間中に読んだ(産後は集中力が低下して活字があまり読めなくなったので、今から思えば産前に読んでおいて本当に良かった)。薄めの本だが、発達心理学のエッセンスがぎゅっと詰まっている。ベテラン大学教授の発達心理学連続講義の第一回総論といった趣の本(というかそれそのもの)。筆者は障害児心理学で長年教鞭を執ってきていて、定型発達児・障害児の双方に平等に愛を注ぐ筆致に心を打たれた。医学では病める臓器の研究が進むことでその臓器そのものの生理についても知見が積まれるものだが、障害児心理にはひとのこころの成り立ちを考える上での重要な視点が詰まっているのだろうなと思う。
新生児の頻回授乳のお供にオーディブルを再開した。眠いと活字はなかなか頭に入らないのだが耳からならなんとかという感じである。今読んでいるのは『サピエンス前史 脊椎動物の進化から人類に至る5億年の物語』で、新生児のしゃっくりを見ながら古代脊椎動物が獲得した横隔膜に思いを馳せたりしている。次にオーディブルで読む本は未定なので、おすすめあったら教えてください。ちなみにわたしのオーディブルおすすめ(読み終わって好きな本)は『北関東「移民」アンダーグラウンド』です。2025年も色んな本に出会いたいものです。
まだ初心者マークみたいなものだと思ってます。一応病名は適応障害で、休職を少しして、今はリハビリ復職中。
自分としては、少し疲れたところに色んなストレスが集中してかかったことがきっかけで抑うつ状態が一気に加速した状態だと思ってるので、おそらく対応を間違えなければ、このまま回復できると思ってます。
ただ、「まだ初心者マーク」と言ったように、主治医からは、このまま良くならなければ、うつ病という診断名になるよと言われているから、いまはとりあえずゴースの状態で止まってて、ゴーストへの進化を一生懸命Bボタンでキャンセルしてる状態だと思っています。
もっと適切なポケモンいるかもしれないけど思いついたのと世代が赤緑なんで…
で、適応障害もうつ病も症状としてはあんまり変わらない気がするんだけど、私がかかった時にいちばん顕著な症状は睡眠障害と希死念慮だった。あとは仕事への集中力、思考のまとまりがなくなるとか、急に涙が出るとか。
睡眠障害は、途中で目が覚めちゃったりとか、一睡もできずなにか悪いことを考え続けちゃうとか。
これへの対処は、比較的容易だと思っていて、というかしっかりしたクリニックであれば適切な服薬を処方、定期的な通院で寝れてるかをモニタリングして、服薬調整。
容易というよりは、標準化された治療がある、対処可能な症状だと思う。
問題は希死念慮の方で、これって人によって何によって引き起こされるかが全然違うし、それにどう対処すればいいかも全然違ったりする。
だから、私がどういう時に希死念慮が発動しやすく、どうしていたかっていうのを書き残しておこうと思ってこの文を書いてる。
発症して2ヶ月以内くらいの間は、休職してて仕事のストレスがなんにもない状態にも関わらず、1週間に1回、もしくは4日に1度くらいの結構な頻度で死にたい衝動が襲ってきた。
たとえば、もうジムとか遊びに行けるから元気なんでしょ?くらいの感じで、夫から雑にからかう言葉をかけられた。
仕事への復職が近づくのに、仕事へ戻って同じ仕事をこなせるかわからない。
あるいは、何にもきっかけらしきものがないのに、夜になって急に全部リセットしたい衝動がやってくる。
今書いてても、俯瞰して見ても、自分で振り返っても、なんでこんなことで?って思うことばっかり。
夫が雑な言葉かけるのなんてこの10年そうだし、夫からしたら「僕何言った?」みたいな感じだと思う。
強いて言えば、自分の辛さを理解してくれない、と感じたことが、いつもの何十倍もの辛さにブーストされてのしかかってきたんだと思う。
仕事にしたって、配慮のある職場で、いきなりフルで復帰させることはしないよとはっきり言われていた上でのことだ。
近所の子どものくだりは、私が不妊治療をしていて、そのストレスが適応障害の引き金のひとつになったことと関係してるけど。
あとはシンプルに、なんか不意にやってくる、なんだろう、電波障害?天気予報外れの雨?みたいな感じの予測できない不調が週一かそれ以上で来て、その度に、この世の終わりかのような絶望感と、なんか自己の存在への諦めというか、いてもしょうがないじゃん、みたいな理屈で説明できない感情に苛まれる、それが私にとっての希死念慮というやつだった。
これを経験するまで、私は、うつの人が死にたいっていう気持ちを心底は理解できてなかったなと思う。
そうは言っても、そう言って気を引きたいだけで死ぬ気なんてないんでしょ?って思ったり、ましてそれで実行に移して死んでしまう人なんて最重度のごく一部の人なんだと思ってた。
多分夫とかうちの家族にしてもまだそのくらいの解像度なんじゃないかと思う。
これはこの負のブースト状態を体験してみないとなかなか察しにくい。
対処すれば過ぎ去る短時間のものだったり、頭にこびりついて何日も引きずるものだったり、私が経験したものも程度は色々だったけど、紛れもなく、その全部が「死んじゃいたいー」だった。
家族もいるし、友達もいるし、職場の在籍も保証されてるし、励ましてくれる存在はいっぱいいるのに、その希死念慮に苛まれてるあいだはそれを一足飛びに飛ばして「我思う、故に我死ぬべき」が頭を支配するんだよ、不思議としか。
私は仕事で精神医学とか心理学とかをかじっていて、なんならそういう人もたくさん仕事で相手にしてきたから、まさか自分がそんな状態になるなんて思ってなかった。
いちばんひどい状態の時は、家にある死ねそうな薬を集めるのを試みたりネットでしらべたり、近所のタワマンの一番侵入できる高いところまでいってみたりした。
(その時は気づいてなかったけど夫が過去の病気で処方されて飲んでなかった睡眠薬がいっぱいあった事に後で気づいた。あの時気づいてたら危なかったなー。あれ隠しといてもらわないとな。)
どこかで理性は残っているから、そうなってる状態のことを、Twitterに書いたり、仕事中の夫にLINEで書いて伝えたりして、誰かに止めてもらえるようにはしてたと思う。
その行動が、はたから見ると「構ってちゃん」になるんだろうし、すごく矛盾した行動だけど、いけない行動だと分かってるのに思考と行動が死に向かう、その状態を自分だけでどうしようもないから、他人に知らせるんだと思う。
さてこの希死念慮の時の振り返りはけっこう再体験に近いので今書いてても涙が出るしリアルに思い出しそうになるので、この辺で私がその希死念慮にどう対処したかとか、どんな対応がありがたかったかに話題を変えようと思う。
とりあえずは、すぐに医療にかかれたこと、処方薬がもらえたこと。わたしはこれが大きかった気がする。
精神科や心療内科って絶望的に予約が取れなくて、初診だと1週間後ですとかざらに言われたりする。
今このどうしようもない希死念慮をなんとかしたい!って時に一週間後だったら、確実に間に合わなかったんじゃないかと、ぞっとする。
処方してもらったのはごく軽い睡眠導入剤(抗うつ薬)と、不安になった時に飲むようの少し強めの抗不安薬。
まずはしっかり寝ることと、仕事は問答無用で休み、そして一人にならない環境を作ることを主治医に言われた。
休んでても、一人になった時に希死念慮が来て,抗不安薬も効かなかった時に、ポーンと境界線を超えることがあり得るからだといわれた。
まさにそうで、誰かがいてくれる、誰かと約束があるという状態の連続が、私にとっての抑止力になった。
そして、先に書いたようにそれでも境界線を超えかけて「我死ぬべき」になった時はどうしたか。
やっぱり、自分の今の状態を知ってもらえる人を作ることだった。
Twitterに死にたい状態であることを書いて、紛らわせられるような動画とかがほしいことを添えて書いた。
実際はもっとやばい状態だったけどさすがにそこまでを全部さらすのはやばいと思ってまだ余裕のあるポーズをしたりするから、よけい構ってちゃんに見えただろうなぁ。
でも、全くそれまで交流のなかったフォロワーの人からくすっと笑える動画とか、猫の画像とか送られてきて「生きてくださいね」って声かけてくれたりして、大袈裟なんだけど、ほんとうにそれだけでも飛び越えるハードルは一個上がった。
あとは、投稿見て心配してLINEやDMを飛ばして来てくれた友達がいた。その人達には、自分の今の状況や気持ちをもう少しありのままに話せて、実況みたいにしてたけど、そうして話しながらぐるぐる歩いてるうちに疲労してきて、家に帰ろう、ってなれた。
本当にありがたかった。
とりあえず些細なきっかけに理不尽なブーストがかかっていて訳の分からない状態の私の話を聴いてくれる人がいて,共感してくれたり、とりあえず寝ようよ、不法侵入て言われないように家に帰りな、って促してくれたり、それぞれの言葉で私を心配してくれると思うだけで、あの世へのハードルはだいぶ上がった。
あとはうちの夫は本当に言葉が雑で不器用な人なんだけど、とりあえず私が休んでる間は何も仕事のこととか聞かず、たまに元気が出そうな食事を出してくれたりした。その放置具合が逆にありがたかった。
けど、上記のように私が些細な冗談で死にたい状態になったり、火のように怒ったりする泣いたり、喧嘩になっちゃうもんだから、話し合って1週間くらいお互いに距離をおく(物理的に話さない状態を作る)をした。
身近な人に理解してもらう、実はこれが一番難しいかもしれない。これは長い時間かけてお互い努力と配慮をするしかないと思っている。
あとは、休職期間中に読んだこの記事も,自分の中の得体の知れない希死念慮につながる状態を俯瞰するのに役に立った。
https://note.com/kaerukoakeno/n/nb3d72b72b3b0?sub_rt=share_b
この記事でも言われてたり、友達にも言ってもらって安心したのは「こういう思考になったり、傷つきやすくて家族と衝突したりするのも、自分のせいではなく病気の急性期症状のせいだよ」と言ってもらえたこと。
もちろん,病気のせいに何もかもしていいわけではない。私の寂しがりのパーソナリティは病気のせいだけではなかったりするんだけど、要は、自分をなるべくその状態に持っていかない環境設定をすること、だと思う。
あとは、症状が落ち着いてきた今、自分の中に溜まってもやもやしている気持ちとか、不安への向き合い方を教えて欲しいなの目的でカウンセリングにもかかるようにしている。
自分の思考のくせを他人に共有して,受け止めてもらった上で、違う視点をもらえるのは受診だけでなくカウンセリングならではのメリットだと思う。
総動員総力戦の様子が熱を産む
最大で勝ち点9が動くので中位争いも白熱する
ヴァイマールの宮廷楽長を辞任したリストは、ラティボル公に招聘され、公の弟グスタフ・ホーエンローエを通じてローマ教皇庁と接点を持つことになり、宗教音楽に取り組む意欲を持つことになる。「巡礼の年」や「詩的で宗教的な調べ」のように、前期・中期から既にリストには宗教的な要素が強い作品があったが、これ以降そのような作品はさらに増えていく。一方、子どもたちが相次いで亡くなったことで大きな精神的打撃を受け、1860年には遺書まで書いている(マリーとの関係はまだ悪かったようで、マリーのことは遺書にない)。カロリーヌは夫との婚姻を強制されたものであり無効であるとする枢機卿会議の決定を一旦勝ち取ることに成功するが、その後、婚姻が有効であると述べる証人が新たに現れ風向きが変わってしまう。というのも、ラティボル公の実子とカロリーヌの娘が結婚することになっていたのだが、カロリーヌの結婚が無効だったとするとカロリーヌの娘は私生児ということになり、大変都合が悪いわけで、グスタフが手を回して妨害させたようである(リストも後に状況を悟ったらしい)。愛する人と結ばれることに再び失敗し、重ねて精神的なショックを受けた。それでも、グスタフを初めとするローマのパトロンを見出し、ローマに腰を落ち着けて宗教音楽に熱心に取り組むことになる。ところが、1869年に度重なるヴァイマールからの要請で宮廷楽団の指導役として復帰し、さらに70年代からはピアノ教師としての活動も非常に活発になり(ローマでも週1ではやっていたらしい)、以降リスト曰く「三分割された生活vie trifurquée」、春はブダペストなどで音楽教師とコンサート、夏はヴァイマールの宮廷楽団の指揮、冬はローマで作曲とピアノのレッスンというスター時代に負けず劣らずの忙しい生活を死ぬ日まで送ることになった。晩年のリストのレッスンの記録をとっていた弟子アウグスト・ゲレリヒの日記(翻訳あり)を見るとリストの生活ぶりが良く分かる。
晩年のリストの代表作である。出版も最晩年。頻繁な不協和音の利用、レチタティーヴォ風の単純な旋律、独りごちるようなモノローグが目立ち、華麗な作風からの一変を感じることができるだろう。全7曲あり、第1・4・7は明るめで、宗教的な救いを示している。前期・中期作品でいうと、「孤独の中の神の祝福」」に近い作風である。それに挟まれた2・3・5・6は、「葬送――1849年10月」などと同じで、死を嘆くエレジーで、とても暗い。
この曲集の中で最も有名なのは第4番の「エステ荘の噴水」だろう。文字通りリストが住んでいたティヴォリのエステ荘の噴水を活写したものだ(その様子はググってくれ)。晩年作品の中では例外的に明るく、輝かしい作風で、しかも印象主義の先取りになっている画期的作品だ(ラヴェルの「水の戯れ」やドビュッシーの「水の反映」と比べると良い)。第2・3曲「エステ荘の糸杉にI・II」は大変暗い曲なのだが、続けて聴くと本当に救われる思いになる。絶望からの救済は、リスト本人が強く望んでいたことだ。
第三年だけの録音というのはあまり聴かないような気がする(エステ荘の噴水の録音はたくさんあるが)。第一年なども含めた全曲録音は前期の項目で書いたが、ベルマンとロルティが良いだろう。特に美しいロルティが好き。
1863年にリストは僧籍を取得し、聖職者となっている(ずいぶんな生臭坊主生活が死ぬまで続くが、リストのことなので仕方がない)。丁度その頃に作曲されたらしい。ローマに引っ越したリストを教皇ピウス9世が訪ねてきた時に(下級聖職者のくせにローマ教皇に足を運ばせる男なのである)、第1曲「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ」を演奏したらしい。フランチェスコが小鳥に説教する様子を描く絵だったか詩だったかをモチーフにした曲で、小鳥たちのさえずりを模倣したトリルがかわいらしい。明るく、聴きやすい作風である。
第2曲の「波をわたるパオラの聖フランチェスコ」は、嵐の中の船出を拒絶されたフランチェスコ(アッシジの人とは別人)が自らのマントを船にしてメッシーナ海峡を渡ったとかいう伝説をモチーフにしている。波を模倣したうねるような力強いアルペッジョが印象的。出だしこそ暗いが、明るく、輝かしく、充実した展開を迎える。
両曲とも1865年にリスト自身がブダペストにおける久しぶりの公開のコンサートで初演された。サン=サーンスがいたく気に入って、オルガン編曲を作っている。
ニコライ・デミジェンコ(Hyperion/Helios)のCDにソナタ、スケルツォとマーチと一緒になって入っていて、よく聴く。
元々はヴァイマール時代にオルガン曲として作った曲だが、この時期にピアノ編曲された。BACHの主題といっても、バッハの曲が引用されているのではなく、ドイツ音階のBACH(シ♭・ラ・ド・シ)をモチーフにした勢いのある曲。暗い曲だが、豪壮無比な超絶技巧を披露する曲であり、重苦しい感じはない。
面白い曲なのに良い録音が中々ない。昔韓国のクン・ウー・パイクの録音を聞いた気がするが記憶に残っていない。アムラン(Hyperion/ソナタなどとカップリング)が良いと思う。若手だとリーズ・ド・ラ・サール(naive)の演奏は非常に録音も良く、技術的にも良い感じである(naiveは廃盤になるのが早く、入手が難しいのが困りものだが、配信あり)。(追記)ハワード全集の演奏も彼のヴィルトゥオーゾっぷりを味わえるものだったと思う。しかしアムランやラ・サールと比べると分が悪いか。
長女ブランディーヌの子ダニエラ(死んだ息子と同じ名前)のために作った曲(父は「自由帝政」時代の首相エミール・オリヴィエ。なお産褥熱でブランディーヌは死んだ)。当時のクリスマス・キャロルの編曲だが、リストオリジナルの曲も入っている。第1曲(編曲)がとても良い曲なのだが、リストお得意の左手高速オクターヴの連続があり、子どもに辛いのでは(しかもご丁寧に軽くleggieroという指示がついていてピアニストは悶絶する)。第11曲の「ハンガリー風」はおそらくリスト、第12曲の「ポーランド風」はカロリーヌを暗示しているのだと思われるが、後者は明らかにショパンのマズルカ的な作風。やっぱりショパンのこと大好きなんすね~
実はハワード全集しか聞いたことがない(しみじみとした良い演奏だと思います)。
5. 暗い雲 S.199(死後旧全集に収録/1881年作曲);不吉な星 S.208(死後旧全集に収録/1881年作曲);調性のないバガテルS.216a(1956年出版/1885年作曲)
反則だが、リストの無調音楽の代表格を一挙紹介。リストの無調音楽は、機能和声が崩壊しているという意味では無調だが(その意味ではワーグナーの「トリスタン和音」も同様)、シェーンベルクの十二音技法のような意味で無調というわけではない(ドイツというよりフランスの無調音楽の先取りっぽい)。行くあてが未定まらないまま、タイトル通り曖昧な響きに終始する暗い雲、西洋音楽で不吉とされる音の組み合わせをこれでもかと盛り込んだ不吉な星は、これでも生前に既に演奏されてはいたのだが、調性のないバガテルは「無調」と銘打った音楽史上初めて(ではなかったとしても極初期)の作品で、発見されたのも20世紀後半になってからである(1956年出版というのは誤記ではない)。ただ、元々メフィスト・ワルツ第4番として作られていたので、舞曲の要素があってそこまで聞きにくい曲ではない。リストの精神状態もあって暗い感じだが、とにかくリストの前衛音楽家っぷりがよくわかる曲である。
いずれも録音はそこそこあるが、代表的な盤はあまり思いつかない。不吉な星はポリーニの録音したソナタのCDにカップリングされているので聴いたことがある人もいるだろう。暗い雲も入っていたと思う。調性のないバガテルはまあまあ取り上げられているが、昔カツァリスが日本で大ブレイクしていた頃に出したメフィスト・ワルツ全集(Teldec)に入っている。
初稿(21世紀に新発見され出版)、第2稿(悲しみのゴンドラI)、第3稿(悲しみのゴンドラII)がある。よく演奏されるのは第3稿(II)で、ヴァイオリンやチェロのための編曲もある。
ヴェネツィア所在だったワーグナーを訪問した1882年に作曲された。完成した曲をワーグナーに紹介する手紙を送り出した直後、ワーグナーが亡くなり、リストはこの曲を虫の知らせだったと感じたらしい。「巡礼の年」のヴェネツィアとナポリと対比すると良い作品。
不安を煽るような曲だが、それほど聞きにくい曲ではない。色々なCDにカップリングされているが、個人的にはブニアティシヴィリ(SONY/ソナタのCD)が好きなのでよく聴く。
なお、ワーグナーの死を悼む作品もリストは作っている(R. W. ――ヴェネツィア S.201とリヒャルト・ワーグナーの墓に S.135)。前者は不安を煽る曲だが(ポリーニのCDに入っている)、後者は敬虔な追悼音楽で、「パルジファル」の動機が使われている。ピアノより弦楽四重奏盤を聴くと良いだろう。
7. 村の居酒屋での踊り――メフィスト・ワルツ第1番(1862年出版)
前期の曲と思いきや、実は後期の作曲(作曲開始も50年代末のはず)である。やはり最後は明るく華やかな(そして生臭坊主な)リストで締めたい。着想自体は1836年に書かれたレーナウの叙事詩「ファウスト」で、ファウストを連れて村の居酒屋にやってきたメフィストフェレスが、ファウストを誘惑するためにヴァイオリンを弾き出し、みんなノリノリになって踊り出し、魔法の音にあてられてファウストは女の子と一緒に森の中に消えていくというしょーもない内容である。技巧的な見せ場も多いのだが、ヴァイオリンの調弦を模倣した五度の音程を重ねるところ(地味に安定させるのが難しい)、中間部の重音トリル(ピアニスト泣かせ)と幅広い跳躍、終盤の怒濤の追い込み(メフィストフェレスがファウスト堕落に成功してめっちゃ喜んでノリノリで弾いている様子なんだろう)が主なところである。
有名曲なので演奏はたくさんある。今ならブニアティシヴィリ(SONY)が良いと思う。ソナタも悲しみのゴンドラも入っているのでお買い得。自由奔放にやっちゃってるが、そのくらいの方がこの曲に合っている。映像もある(https://www.youtube.com/watch?v=n1tM9YSLYdc)。なお、評判の良いエコノム(Suoni e Colori)とルガンスキーのデビュー盤(Victor)は廃盤で聴いたことがない。早く再版しろ(激怒)
いかがだったろうか。リストのいずれも強烈な個性を持つ曲、もし良かったら楽しんでほしい。YouTubeに乗っている曲だけでも良い。音楽の楽しみが増えれば幸いだ。
(※その後超絶技巧七選も作ってみました。超絶技巧すぎてかえって推薦音源が少なくなったかも→anond:20241213224533)
追記:
前期のブコメに「愛の夢が落選した」というのがあった。申し訳ない。3つの演奏会用練習曲をその手の曲の代表例として入れたので。あと「コンソレーション」も同様に落選させた。同じような性格の曲集なのでどれを突っ込むか迷ったのだが、結局「ため息」のある3つの演奏会用練習曲にした。文字通りため息が出るような優美な「ため息」以上に愛の夢は優美で、明るく感動的な曲なのだが、実は元となっている歌曲の歌詞を見ると結構説教くさくて引くというのはここだけの話。
「エステ荘の糸杉に」が好きというブコメを頂戴した。リストのエレジーはどれも本当にもの悲しく、個人的にはちょっと辛い感もあるのだが、気持ちは大変よく分かる。
①←「それ以前からイスラエルは不正にパレスチナを侵略してた訳やん。」この前提が先ず共有出来ない
パレスチナとイスラエルの歴史は複雑で一概にイスラエルが不正にパレスチナを侵略してきたとは言えないと思ってる
その上で今回のハマスの攻撃は、イスラエルとアラブ諸国が国交正常化していく中で、支援の縮小や孤立さらにはパレスチナ問題の国際的な優先順位の低下を恐れて起こした
過去の歴史を踏まえた報復としての連続性が弱くて、むしろ未来に対する組織の存続危機感から自滅的攻撃を仕掛けたって認識
②←パレスチナとイスラエルが過去にルールを守って戦争してきたかと言われたら違うだろうな
最近流行ってるゲーム史上の重要性とは何も関係ないが何となく思いついたのでやってみることにした。
フランツ・リスト(1811-1886)はハンガリー王国の寒村ドボルヤーン(現オーストリア・ライディング)に生まれた作曲家。リストはハンガリー人としての自意識を持っていたようだが、両親はドイツ系であり、他方でパリで成功を収めた関係上フランス語を使って生活していたと思われる。いわゆるコスモポリタンであり、○○国の音楽家とは言いにくい。音楽史上の重要性ではバッハやベートヴェンには劣ってしまうから義務教育では名前は出てこないだろうが、少なくともピアノ音楽史上は絶対に避けては通れない。無尽蔵の超絶技巧によってピアノの表現可能性を著しく拡張したからだ。膨大なリストのピアノ作品から7選ではきついので、リストの活動時期に区切って7選ずつということにした。
クラシック音楽の紹介をする以上、演奏(録音)の紹介は避けて通れない。まさか自分で弾いて確かめろというわけにもいかないだろう。筆者は、リストの豪華絢爛な超絶技巧音楽が大好きである一方、特に晩年に多い宗教的、内向的な音楽は未だにあまりピンと来ない感がある。努力はしたが、晩年作品を中心にうまく推薦ができていないのは好みの関係で、あまり色々な音源を聞き比べていないことが一つの理由だ。
リストのピアノ作品はあまりに膨大で、しかも抜群の技巧を要求する作品も多い。一曲ごとの規模の違いを無視していうが、大量のピアノ曲を残した作曲家であるショパンの場合作品数は200強。単独ピアニストによる全集も作られているし(ギャリック・オールソン、アシュケナージ、横山幸雄も作ってますね)、レコード会社の企画モノで複数のピアニストを起用して制作されることもある。横山氏みたいにぶっ続けの連続演奏会を開いてしまうことも不可能ではない(https://www.afpbb.com/articles/-/2784123)。
しかしリストの場合は単純な作品数の多さ、別稿・異稿が多く存在すること、難易度の高い曲が非常に多いことから、「全集」の制作は困難を極める。複数のピアニストを起用しているNAXOSのリスト・ピアノ曲集シリーズも未だに全曲をカバーできていない(もし完結していたら教えてください)。その点で単独でリストのピアノ作品全集という前人未踏の大偉業を成し遂げたレスリー・ハワードのCD(Hyperion)は本編と別巻(新たに発見された別稿・異稿)あわせて99枚というとんでもない分量がある(全曲試聴可能/https://www.hyperion-records.co.uk/dc.asp?dc=D_CDS44501/98)。優れたピアニストであるハワードでも、短期間に、といっても10年以上あるが、大量の作品を録音しなければならない計画故、詰めの甘い演奏がかなりあるように感じられ、何も考えずにハワードの全集を推薦するわけにもいかない。とはいえ、ハワードのおかげで取り敢えずリストのピアノ曲のほとんどをまともな「音」として把握できるようになった。ここで敬意を示しておきたい。ハワードのCDを一巻ずつ紹介している古くからのサイトがあり、本当に頭が下がる(https://www.katch.ne.jp/~hasida/liszt/liszt.htm)。良くない演奏もバシバシ指摘している。
リストの生涯について。作曲家の生涯を知ることが楽曲の理解に必ずしも結びつくわけではないが、それでも、どのような作風を意識しているのかとか、どのようなモチーフを描こうとしたのか(特に標題音楽の場合)ということを知ることは有益だろう。作曲家の置かれていた状況を知ることはその理解の助けになり得る。リストの場合、ざっくりいえば大スターとして活躍した1840年代までの時期(前期)、ワイマールの宮廷楽長としての活動が中心になる50年代(中期)、そして50年代末の波乱、特に愛人カロリーヌとの結婚が認められず、子どもの早世などの不幸に連続して見舞われた後、ローマに腰を落ち着けて作曲活動を再開し、亡くなるまでの晩年の時期(後期)に活動を区切ることができる。このあとは単に前期・中期・後期とのみ述べる。ここで紹介するのは、前期、少年時代からピアニスト時代までのもの。父を失って本格的にピアニストとして稼がねばならなくなり、大スターになっていくが、仕事ばかりで事実上の奥さんとは破局する。そして後年の恋人カロリーヌと出会い、ヴァイマールの宮廷楽長に就任するまでだ。
作品番号について。クラシック音楽には、出版社のつけた出版順序を示す作品番号(op. xxみたいなやつ)がついていることが多い。クラシック音楽では、抽象的に「ピアノソナタ」とのみ名乗る曲が多いので、作品番号は楽曲の区別にとって大事になる。しかし、リストの作品番号は出版社ごとに全然違うなど滅茶苦茶で(こういうことはシューベルトにも言える)、作品番号では把握できない。そこでよく使われるのは、イギリスの音楽学者ハンフリー・サールが整理して付番したサール番号(S. xx)である。Wikipediaにもサール番号順のリストの作品一覧があるので参照されたい。
彼の代表作の一つ、「超絶技巧練習曲」の初稿にあたる作品。48とあるが、実際には全12曲。「超絶」を聞いたことがある人なら驚くはず。リスト15歳の頃の作品。リストはハンガリー貴族たちから奨学金をもらってチェルニーの元で学んでいたのだが、本作品は明らかに影響が見て取れ、微笑ましいと思うか、チェルニー××番を思い出して頭が痛くなるかは人次第だろう。録音は多くない。筆者はハワードを一聴したことがあるのみ。ウィリアム・ウォルフラム(NAXOS全集20巻)は未聴。パガニーニの影響を受けたあとの改訂版(24の練習曲 S.137)は異常に難易度が高い割に第三版にあたる「超絶技巧練習曲」ほど演奏効果がないのでやはりほとんど取り上げられない(ハワードは録音している)。
2. 「ある芸術家の生涯の出来事」 S.470(1834年出版)
タイトルでもしやと思った方、あなたは正しい。ベルリオーズの「幻想交響曲」のピアノ編曲だ。実は原曲よりも出版自体はこちらの方が早いようだ。ふられた作曲家がヤクをやって彼女を殺して処刑されて悪魔のサバトに遭遇するという夢、というとしょーもない話だが、この曲は初演当時多数の人々を熱狂に巻き込んだ。リストも熱狂した一人だった。それでピアノ編曲までやってしまったのだが、当時は録音技術がないので、家でちょっと味わおうとCDだのSpotifyなどというわけにはいかない。ピアノで弾くしかないわけだ。とはいえ、よくあるオケ作品のお手軽編曲ではなく、オーケストラの生み出す音響を可能な限りピアノで再現しようとした意欲的な作品だ。演奏難易度は極めて高い。フランソワ=ルネ・デュシャーブル(EMI)とニコライ・ペトロフ(原盤は知らないがVeneziaの再版盤を所持)の演奏が世評高く、特に後者の演奏は凄まじいが、まだまだこの曲のポテンシャルを完全には引き出していないような気がする。ジョヴァンニ・ベルッチ(CD未所持)は公式YouTubeに演奏動画をアップロードしている(https://www.youtube.com/watch?v=bSqunBoj0cY)。これが一番アクセスしやすいだろう(録音は一番良い気がする)。
3. パガニーニによる超絶技巧練習曲S.140(1840年出版)
1828~34年に欧州でコンサート・ツアーを行ったヴァイオリニストのニッコロ・パガニーニは極限まで高められた演奏技巧と表現力によって多くの熱狂的ファンを獲得した。リストもパガニーニに狂った一人(またかよ)。全6曲、すべてパガニーニ作品からの編曲だ。ヴァイオリンの技法をピアノに映すというよりも、パガニーニから霊感をもらってピアノ技巧の拡張を試みたものと言って良い。第3曲が「ラ・カンパネッラ」(ヴァイオリン協奏曲第2番第3楽章の編曲)だが、有名な「ラ・カンパネッラ」は、実は本曲集の改訂版S.141(1851年出版)の方であり、本曲集を聴くと、違いに驚く(逆にパガニーニの原曲を知っているとそちらに忠実ということに驚く)と思われる。そしてこの曲集は何よりも演奏難易度の高さで悪名高く、特にひたすら重量級かつ幅広い跳躍のある和音アルペッジョが続く第4曲(の第2稿)はピアノマニアの間では語り草になっている。また第6番「主題と変奏」(原曲は24の奇想曲第24番)の第9変奏も地味ながら恐ろしく難しい。
かつては本曲集といえばペトロフ(原盤Melodiya、VeneziaとOlympiaの再版盤で所持)、大井和郎(Deutsche Shallplatten)、そしてハワード全集しかなく、マニアたちがアップロードしているMIDI演奏の非人間的超絶技巧を楽しんでいたのだが、現在ではゴラン・フィリペツ(NAXOS全集42)とヴァレチェク(Capriccio)が挑戦している。現在でもペトロフの演奏が最も高い水準にある思われるが(映像もある https://www.nicovideo.jp/watch/sm12879344)、フィリペツの演奏もそれに並ぶハイレベルな演奏であり(流石に6番の第9変奏は苦しそうだが)、CDの入手可能性もあるので今ならフィリペツを聴くと良い。
困ったことにペトロフの映像は中々手元を写してくれない。ニコニコ動画で「国家機密の指」と揶揄されているが、確かこれはペトロフがカメラに写されることを非常に嫌っていたからだと思う(出典は忘れた)。
4. 旅人のアルバム S.156(1836年~1842年出版)、「巡礼の年 第一年:スイス」(1855年)、「巡礼の年 第二年:イタリア」(1858年)、「第二年補遺:ヴェネツィアとナポリ」(1859年改訂版)
ダグー伯爵夫人マリーは当時のパリ社交界を代表する人物で、たいへんな美貌の持ち主だったという。リストは1834年頃からマリーと逢瀬を重ね、35年にマリーは妊娠している。大胆なスキャンダルは芸能人の特権。
特に社交界でつまはじきにされることもなかったようだが、人目を憚るように二人は(それぞれ一時的なパリ帰国も挟みつつ)スイスやイタリアへの旅行に順次出かけている。鉄道もない時代なので妊婦には大変な重労働だったはずだが、ジュネーヴで36年12月、長女ブランディーヌが誕生した。
旅人のアルバムは、スイス旅行で見聞きした風景や民謡をモチーフにした曲集で、全19曲ある。このうちの数曲が改訂を経て「巡礼の年 第一年:スイス」 S.160(1855年)に結実する。また、37~38年に訪れていたイタリア旅行で見聞きした風景や芸術作品から受けた霊感を表現した「第二年」と「補遺」も出版は後年だが、大部分は39~40年頃に完成していたらしい。
旅人のアルバムはほとんど聴いたことがない。NAXOS全集32のアシュリー・ウォスもハワード全集でも聴いてない。巡礼の年の方は、第三年も含めた全曲盤ならラザール・ベルマン(Deutsche Grammophone)が有名。村上春樹の小説中に登場したせいでクラシック音楽のCDにしては珍しく再版がかかった。個人的にはルイ・ロルティ(CHANDOS)の演奏がとにかく美しく、大好きである。巡礼の年は、大曲もあるが、短めで肩肘張らずに聞ける曲も多いので、リスト入門にはもってこい。第一年の大曲「オーベルマンの谷」単独ならアルカーディ・ヴォロドス(SONY)がホロヴィッツ編曲を織り交ぜながら気合い入りまくっている(https://www.youtube.com/watch?v=4ADtxG-b8ik)。第二年、そして本曲集最大の大曲であり、リストの最高傑作の一つである「ダンテを読んで:ソナタ風幻想曲」は、評判の高いベルント・グレムザー(Koch Schwann)は未入手。ロルティ(CHANDOS)は全集版も第二年だけの旧録音どちらも良い(とにかく超絶技巧を味わいたいなら若い頃の旧録音が良い)。有名曲なので演奏動画をアップしている人はプロアマ問わず色々いる。
5. ベッリーニのオペラ「ノルマ」の回想 S.394(1844年)
幻想交響曲もそうだが、リストの作品の多くを他作品の編曲が占めている。特に多数のオペラ編曲があるが、この曲が最高傑作だと思う。中盤の鍵盤を駆け巡るアルペッジョは明らかにジギスムント・タールベルクの「三本の手」を取り入れたもので、聴いていて気持ちが良い。後半の「戦争だ、戦争だ!」のテーマに基づく部分は極めて難しく、ここを上手く弾けるかどうかがこの作品の見所。しかもいかにも難しいという様子で弾いては興ざめ。
今ならフィリペツの映像(https://www.youtube.com/watch?v=0TMypN1gW5k)が一番良い。CDもあるらしいのだが自主制作盤と思われ、未入手。他は、かつては表現意欲にあふれるベルッチ(assai)、ヴィルトゥオーゾ的な迫力あるトム・ウェイクフィールド(Symposium Records)、そして我らがスーパーヴィルトゥオーゾ、マルク=アンドレ・アムラン旧録音(Music & Arts)が三大録音だったと思う。アムラン新録音(Hyperion)は若干遅くなったが、抜群に録音が良くなり、総合的にこちらの方が好きかも。若手だと韓国のノ・イェジン(NCM)やイギリスのベンジャミン・グロヴナー(Decca/https://www.youtube.com/watch?v=OVKTEoxBIKE)が大変良い。
40年代に作曲されたもの。全3曲。演奏会用練習曲は、チェルニーのような練習のための曲ではなく、コンサートで披露して喝采をさらうための曲であり、いわゆる「性格的小品」の一種。リストはこういう曲をひっさげてコンサートに臨んでいたわけだ。第1曲から「嘆き」、「軽やかさ」、「ため息」と標題がついているが、出版社がつけたものに過ぎない。第2番の標題通り、全体的に軽やかな作風。特に「ため息」は有名でよく弾かれる。
第2、あるいは有名な第3番の録音はよく見るが、全曲録音というと意外とない。福間洸太朗(アクースティカ)のCDに全曲入っている。確かロルティ(CHANDOS)にも全曲録音があったはず。
スイス、イタリアでマリーと過ごしたリストだったが、ピアニストとして忙しく飛び回るためにマリーを放置してしまい、結局二人は破局する。ひどい話で、破局した後もリストは演奏活動をしていたので、リストの母が子どもたちの面倒を見ていた。
41~43年の夏にリストとマリーはライン川の中州にあるノンネンヴェルトの古い修道院で子どもたちと共に過ごしているが、これがマリーとの最後の親密なお付き合いだった。この曲は、当時同地に夫妻を訪ねてきたリヒノフスキー侯爵の詩に音楽をつけたもの。シャルルマーニュの武将ローラン戦死の誤報を受けて絶望した妻がノンネンヴェルト修道院に入ってしまい、ローランは二度と妻と会えなくなったことを知って修道院を見下ろせる土地に住み着き、妻を思う歌を歌った・・・という救いのないストーリーだ(歌詞:https://www7b.biglobe.ne.jp/~lyricssongs/TEXT/S4212.htm)。マリーとの破局に後悔していたのか、リストはこの曲に相当執着していたようで、ピアノ独奏用を含めて複数のヴァージョンを作り、何度も改訂している。晩年のバージョンをアンスネス(EMI)などが録音しているが、重苦しい。当時のバージョンはそこまで重苦しくないと思う。推薦音源はあまり思いつかない。全集を録音しているハワードもライナーで"beloved"と書いていて、気に入っているみたいである。
華麗なオペラものやシューベルトの歌曲の編曲(魔王を含めてかなりの曲を編曲しており、どれも魅力的)など、編曲を中心にまだまだ色々な作品があるが、そろそろ次の時代に進もう。
毎日通勤で東京駅使ってるんだけど、2日連続同じ時間同じ場所で「おとうさん、はるやすみ、どこいくの?」という声を聞いた
4から5歳位の男の子の声で、実際にお父さんに話しかけているというよりは誰かに言わされてる感じの喋り方だった
それでなんとなく気になってたんだけど、毎日同じ時間に通勤してるから、たまたま同じ時間に駅を使ってる子どもが同じこと言ってるのかなと思ってたら、
退勤の際、また同じ場所で同じ声を聞いた
これって何かの広告だったりする?
それとも私の頭がおかしくなった?
たぶんしたほうがいいこと
→本当に難しい。自分にも誠実でありたいし、自分にも嘘は吐きたくないのに
→とても怠惰なのに変なところで真面目であろうとする?ので、ずっとこのギャップが自分を苦しめている
・朝起きたらラジオ体操する
→やるとたしかに頭も冴える感じがする。明確にやるメリットを実感しているのに
→外寒くて大変だけど。最近元気がないので、意識しないと本当に外に出なくなっちゃう
→ひきこもっていると、なにかをやる気持ちが少しずつ減っていって、さらに滅入ってしまいそう
→いつでもできるのに、いつもやらない。鍛えておかないと近々身体が壊れて後悔しそうなのに
・ガムを噛む
→これはすぐできる。気がつけるかどうかなだけなので、いま噛みはじめた
→ガム噛むと頭のまわりが良くなるかもしれない
→顔についた肉や顎の下の肉が気になる…
→元気がないとゴミを出せなくなるけど、今週からまたちゃんと捨てる習慣戻せそう
・何かを使い終わったら、あるべき場所に置く
→空箱はそうなった時点で、段ボールは届いて中身を出した時点でつぶしてまとめよう
→豆乳パックは空になった時点で潰して洗って干そう
→朝ベッドから起きたら、ベッドを綺麗にしよう。寝るときベッドが綺麗だと自分を褒めたくなるよね
・毎晩入浴する
→翌朝にまわさない方がいい。特に冬は身体を温めてからベッドに入りたいし
・朝起きたら顔を洗う
→出かける必要がない日であっても、習慣としてやっておいたほうが良さそう
・早寝早起きする
→なんか寝るのが怖くて先延ばしにしたくなっちゃうけど、強い意志と勇気を持とう
→なんも予定なくても毎朝決まった時間に起きて、ちゃんと午前中を過ごそう
・毎日2食は食べる
→元気がないと何も食べずに一日が終わってしまう。そうしているともっと元気がなくなっちゃいそう
→冷凍食品とか買い込んでおいて、もっと食べるハードルを下げよう
→思考が停滞したままにならずにすむかもしれない
→自分は行動が伴わないので、すべきことをやろうとか、変わり映えないことばっかなのだけれど…
→毎日ちょっとは自分と向き合って、自分の中にある何かを吐き出した方が、自分は気が楽になれると感じているのかも
・毎週末映画を観る
→なにか心動かされるような経験を増やしたい。元気がないと何もやりたいこと楽しいことがないんじゃないかと思っちゃう
→どんな登場人物がいてどんなストーリーだったか定期的に思い出したりしたい
・なにもしないをする
→すべきじゃないことをするくらいだったら、なにもしないでいたほうがいい
→瞑想するということなのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない
→いまは底から2段階くらい上に登れた気がしており、何十分となにもしないでいると、ちょっとはすべきことをする気力が湧く
すぐにはできない(いまはまったくしたくない)けど、またしたいと思えるようになりたいこと
・毎週どこかしら車で出かけたい
→夏になったら100キロとか離れたところにもドライブ行けたらいいな
・創作活動をしたい
→どうせできないやりきれないみたいな気持ちを乗り越えたい
→思い返せば昔は本当にただやりたいからやるだけで、できるかやりきれるかなんてどうでもよかった
→積んでる本を減らしたい。これは元気があったときから積みっぱなしなんだけど…
・いろんなゲームをしたい
→ゲームは覚えたり考えたりの連続で、頭を柔らかくする作用がある気がする
→フレンドと一緒に話しながらゲームがしたい
・部屋の大掃除をしたい
→誰かを部屋に呼べるくらい綺麗にしたい。誰も来ないけど…
・ヒトカラにいきたい
→下手だけど歌うこと好きだったのにな
今年は暦の関係で早めに事務所まわり大掃除するって言って張り切っているんだけど、
まだ、
その最中でやるっつーのはいささか乱暴なのでは?って思っちゃうのよね。
年末進行とは甚だしいわね。
まったくだわ。
こんなのちゃっちゃっとやっちゃえばいいんだけど。
たぶん、
また隣の私が前いた会社のところは私の事務所の同じフロアなので、
きっとまた借り出されて猫のようなお手手で掃除をするのよ。
それはそれでいいんだけど、
向こうの事務所の動きの気配を探っておかないといけないのよね。
給湯器のお湯もこの時期みんな使うからすぐに無くなっちゃうし。
いまだに
うちの会社の給湯室のお湯がすぐ無くなるりゆがよく分かってないんだけど、
ある程度たくさんの量を湯水のように文字通り使ったらお湯が出なくなっちゃって。
シンクの下にそのお湯を温める小型のボックスの装置があるみたいなんだけど、
そこにはもちろんただいまの湯量とかってステータスは出てこないので、
いったいどのぐらい湯を湯水のように使えるんだろう?って分かんないのよね。
そんで、
急速沸かしボタンってのがあって、
それを押すとブーストして沸かせられるけれど、
これも期待できなくってジワジワ文字通り瞬間湯沸かし器の如くタニコーの五徳の上にヤカンを置いてお湯を沸かした方が早いような気がするし。
まあお湯が沸く速度が遅いのよね。
お湯使いがちじゃない。
すぐに無くなっちゃうのよね。
そもそもとして
事務所レヴェルのそんな給湯器には家庭用の給湯能力は持っていないもちろんお風呂用に大容量のお湯が連続して沸かせられる仕組みではないので、
でも!
違う階の給湯室のお湯は全階同じ給湯器の仕組みだけど、
階によっては使っていない給湯器もあるので、
そこを目指してお湯を求めて彷徨うのよ。
でもやっぱり同じ事を考えている人は多くて
お湯を求めてそのいつも使っていない給湯室のお湯もみんなあるってことに気付き始めたので、
お湯取り合戦なのよ。
お湯枯渇しがちなこの時期なの。
みんな考えることはいつもお湯のことばかり。
あとさ、
プラスチックのいわゆるどこにでもあるバケツってあるじゃない。
こんなにたくさんの種類!たくさんのカラーバリエーションのバケツがあるよ!って
薦めて推してくるじゃない。
でもバケツもう買ったあとなので
なのに賢明に一所懸命に私のハートに届く様にバケツプレゼンを一所懸命する検索エンジンの横に出てくるバケツの広告は健気さを越えてちょっとアホみを覚えるのよね。
でも
ふと思ったの!
これ考えて作ったらそのバケツ爆売れ!ってやつ!
よく飲み物を入れるタンブラーって超保温できるやつあるじゃない。
温かいお湯をいつまでも温かくキープできるバケツを考えて開発して苦難を乗り越えて
その保温性抜群のバケツはこの冬の大掃除に大活躍だと思うんだ!
だから
そんなものが世の中にあれば私が買いたいので、
それこそインターネッツ広告はそのバケツを探して私にこんな保温性抜群のバケツがあるよ!って言ってほしいの!
そんなバケツないわよね。
って言いながら
汚れた雑巾をさっきまでお湯だったバケツの水はもうとうの昔に冷めて冷たくなってしまって、
あのころの温かかったあなたとは打って変わって冷たく私に接するの。
ちべてー!って
しくしく、
この床、美しくないわ!
それはNIKKEのシンデレラのやつ!
でもよくよく考えてみたら、
お湯が温かいであろうがどうであろうが、
どうしようもないのね?ってことに気付いたわ。
沸かせる湯量の量は増えるわけではないので冷静に考えたらそうよね。
やっぱり
どうしようもないこの冬の大掃除のことについていくらたくさんの御託を並べても解決しないんだなぁって。
世の中のお湯の量は決まっていて、
それを奪い合うまさに冬の陣ね。
雰囲気で今イキフンで言ってみたけど。
冷たい水の感じがするでしょ?
しかたないので、
お掃除が終わったら
うふふ。
定番鮭のほぐし鮭がたっぷりワカメとまぶして入っているのが握られているので、
グレープフルーツ買ってきて1玉果汁マジ搾りのその果汁を
ホッツ白湯ストレートウォーラーに入れて微かに香るグレープフルーツ感。
朝寒くって寒くって
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
こちらはChatGPTです。
刑事罰にならないから悪ではないっていうのは行き過ぎて極端な考え方です。
人間の心情の微妙な作用について理解を深めて、より安全な人間となってください。
それはそうと、不倫はその字義からして、悪であると考えることが多いのです。
そのことを学習してください。
足立(綾瀬)女子校生コンクリートとか井の頭公園バラバラ殺人とか秋葉原連続殺傷とか池袋通り魔事件とか世田谷一家四人皆殺しとか
有名どころがいくらでもあると思うが
というか田舎だからと言う事で叩かれるというか、人口の少ない田舎とか閑静な住宅地とかで凶悪な事件が起きるので
後は警察が腐ってるパターンなら当然その地域の警察が叩かれるし(上尾ストーカーとか)、同じ地域で何度も似た様な事件が起きればその地域が色眼鏡で見られるのは仕方が無い
後普段から治安が悪いので有名なところは事件が起きるとやっぱりとなるが、それは普段からそうなので仕方が無い(北九州洗脳監禁拷問殺人とか尼崎長期監禁殺人とか)