はてなキーワード: 人形とは
自分は見てないからTwitter聞きかじりでの話になるんだけど、脚本が本当によくなかった、って印象。とりあえず年末年始の夜勤待機時間帯にでも見る予定。
個人的にここまでの議論にならないにはこうすりゃよかったんじゃねえの?ってのを書きなぐる。
舞台は13世紀、サバはおそらく移民。サバが戦乱からの避難の際に怪我して失明しており、願いは「家族の顔をもう一度見たい」とかならアーシャがどうして?!となるのも、その願いを叶えようと王に近づこうとするのももっと視聴者は理解できたのでは。
献上した願いを忘れるというのなら、サバ自身は捧げた願いを「失明前と同じように動けるようになりたい」だと予測しており、実際多少危なっかしいところがあれど周囲の手助けもあって生活できているから、魔法に頼らずとも自分と、何より皆の力で叶えてしまった、と笑っている。
ディズニーのテーマとして、そして今時の時流として求められていることを、古く弱い人間である百歳のじいさんが既に素朴に達成していた、というのはいいことだと思うし、何よりその努力と周囲の優しさからなる奇跡で視力が復活、初めて孫の顔を見ることができた、でも良かったのでは。
さんざん言われていることだろうが、もっと救い用のない、自分勝手な糞野郎ならここまで文句も言われなかっただろうに…。
願いの献上が強制かつ王の機嫌次第で個数が変更、孤児を引き取り城で面倒を見ていると思ったら強制労働かつ生命力の奪取をしていた(魔法で操り表面からは見れない)、願いを捧げているのではなく人間性全てを奪っており、大人は王にとって都合のいい性格を後付けにした人形だった、魔法を手にいれるために犠牲にした人々を城の誰も入れないところに展示し、イラついたときにはいたぶっている——
パッと考えただけでも悪人にできる要素はたくさんあるのに、それがなされず単身国の運営に粉骨砕身する王として書かれているのは、物語を作るのにあたってはよくないのでは…。
13世紀、と指定されたことで我々はそれがどんな時代かを調べることができる。その結果、むしろ願い程度で安全性が確保されたあの国で暮らせるのは最高じゃん!となってしまう。
願いが人生に深く根付いていたばっかりに捧げて無気力になったとしても、穀潰しとして追放や処刑されるわけでもなく、最近ぼんやりしちゃってさぁ…みたいな扱いをできる国、いったい当時どれだけあったか。
せめて第二次世界大戦終結後、もっといえば近未来にしておけば良かったのに…全てのお伽噺の原点も、それこそスターの力で時間遡行して云々な感じにすれば守られそうだし。
代償なく強大な力を使えるスターで皆の願いを叶えていくアーシャだが、次第に力を扱いきれなくなっていく。というのも感謝されたスターは「もっと願いを叶えたい!」という状態で、横恋慕等叶えてはいけない願いまで叶えはじめてしまい、ついにとるに足りない喧嘩の「おまえなんていなくなればいいんだ!」や内心の「あの人に不幸があればいいのに」まで叶えてしまう。
当然国はパニック、願いを持つことを拒む願いすらも叶えられ、事態を納めようとするマグ王でもスターの力には及ばない。
そこでマグ王が賭けとして魔法書に手を出し魔力を増幅させ暴君となり、国民に危害を加え本能的な恐怖で王の排除を望ませる、アーシャは皆の望みとスターの力で王を殺す、王はその瞬間にスターの力をできるだけ道連れにする…という作戦を立てる。
アーシャは拒むが王を説得しきれず作戦実行、結果として王の排除は確かに望まれたが同時に彼への感謝と元の王に戻って欲しいという願いも強く、また王の国民を守るためにスターの力を封じたいという願い、アーシャのもっと別の方法で責任をとりたいという願い、王妃のずっとマグ王と共にありたかったという願いから、スターの力のほとんどと共に鏡への封印という形でそれらは叶えられる。
結果、夢を叶える直接的な力を失った王は王妃と共に国を統治し、国民は任せっきりはよくなかったと少し反省して自分の力で夢を叶えるように努力し、アーシャは王の封印を解くため、そして世界を知って適切な判断ができるようになるため、出会う人を助け、あるときは助けられながら旅を続ける——
とかじゃだめだったん?
今年結婚をした。
旦那さんは式をやる気がまるでないみたいだったし、お金があるタイプでもないので「このままやらないかなー」と思っていたら、母に「ドレスを着てる姿が見たい」と言われて話が進んだ。旦那さんも、それを言われたらやるしかねえ的な感じで快諾してくれた。
母はウェディングフォトでと言ったけど、私は本音を言うなら結婚式はしたいタイプ。なんかいい塩梅のものはないかといろいろ調べて「神前式がいいのではないか」となった。友人も親戚も呼ばない、一親等だけの小さなお式。
私の家族は遠方に住んでるため、母は来るだろうが父は来ないだろうなーと思っていた。というか実際「近くなら行くけど、関東でやるならお母さんだけどうぞ」って感じだったらしい。旦那さんと私で私の地元へ行くプランも考えたけど、旦那さんは旦那さんで「俺は人形だから」のアピールがひどかったので、旦那さんの負担が少ないよう私たちの居住地近郊ですることにした。(おいこら、我が家の男共よ)
ちなみに、旦那さんの家族はお声がけしたらすぐに参加表明してくれた。
神前式は私も人生で出席したことがないので、どういうものかいまいち具体的な想像ができない。
こじんまりとして、ホテルとかの結婚式よりは安価なイメージがあるぐらい。
とりあえずネット検索で上位に出てきた「お色直し撮影付きで19万円〜!」みたいな謳い文句のところに問い合わせてオンラインで詳細を聞く。
「まあどこも似たようなもんだろ」と、比較検討はせずそのままそこで話を進めた。
もちろん、19万では収まらない。
まず平日で縁起の良くない日以外、ほとんどの日にちにオプション料金がつく。私的には仏滅でも良かったが母が気にするタイプなので大安の次くらいのやつに。さらに、選ぶ着物によってもオプションがつく。私自身こだわりは特にないので高くなくていいよと思っていたけど、いざ着物を選びに店舗へ行くとオプション料金のない着物が何故か見つけられない。比較的安い値段の着物も予約が埋まってたりして選べない。何ということでしょう。小物も綿帽子(白いほっかむりみたいなやつ)も全てオプション料金だ。
ちなみに、女性は実物が並ぶお部屋で数時間かけて選ぶのに対して、男性はタブレット画像。
指シュッ!!!!シュッ!!終わり!!全3種類!!30秒で決まった。今時の男の子はオシャレ好きな子が多いのでそんな子からしたらクソつまらないだろうなと思った。旦那さんもちょっと拍子抜けしてた。
他に当日のヘアメイク代、留袖の着付け代や父の衣装レンタル代等も入れてなんやかんや見積総額は40万くらいに。
そこに別途神社に納める初穂料が10万〜って感じ。終わった後に簡単に食事をしたのでそんなのも入れると60万ぐらいかな。ウェディング会社の人も「ご自身で手配した方が安いですよ」と特に営業してこなかったのが気楽で良かった。
お色直し付きで撮影あり。50万程度で式ができて写真データも大量に残る。私的には安い感覚だったけど、旦那は式当日を迎えるまでの数ヶ月間、ずっと高い高いとぼやいてた。(ええかげんにせえよ)
妹に諭されて「それもそうか」と行くことにしたらしい。日帰り以外で家族旅行なんてほぼ行ったことがないし、ここ数年は居住区内でしか生活してない人だったので新幹線に乗るなんて非常に新鮮だった。母の希望もあり、モーニングも黙って着てた。頭は驚くほどボサボサだったけど。
そんな父は帰路で「楽器の演奏や巫女の舞があって本格的で良かった」と何度も母に話していたらしい。それから、出来上がった写真データを見て「あいつ(私)がずっとニコニコしてたのが印象にのこっとる。それが良かった」とも話していたそうだ。そら良かった。
私の実家は暗い。笑ったりするよりも、じめっとした雰囲気が合う。四人揃った家族写真も多分存在しない。妹の成人式の写真なんて母も妹も死んだヘビの顔してる。ヘビの死骸見たことないけどさ。そういえば私の成人式は家族の誰かと映っている写真もないな。絶縁状態ではないし家族間の交流も盛んな方だとは思うけど、とりあえずあらゆる方面で暗い。
そんなんだから神前式当日、家族写真の撮影中に私は「お父さんが笑ってる!?!?」と声を出して驚いた。「そら笑うわ」って言われた。
父は私たちのこと好きなのかそうでもないのか疎ましいのかよくわからん人なのだけど、私の結婚という儀式を通じて「あ、この人家族のことそれなりに大切にしてるのね」ということがわかって良かったなと思う。
母の表情も嬉しそうだ。年々物忘れが激しくなっていく母だけど、当日の風景を末永く大切にしてくれたらいいなと思う。
留袖を着る機会をつくってあげられたのも良かった。とても綺麗な珍しい柄で、母が手放すときは私が譲り受けてもいいかもと思った。
神前式を通じて夫婦の写真はもちろん、両親と妹との家族写真が手に入ったのはとても良い記念になった。家族写真は全員の遺影になるだろう。
両親がニコッとしてる写真は、何度見てもやはり嬉しい。妹は大体どれも目を瞑ってる。
結婚式は新郎新婦がとても忙しいというが、一親等のみなので特にそんなこともない。おもてなしも礼儀も、神社の人に迷惑をかけなければ重んじなくて良い。すごく気楽だった。
余談だけど、お参りに来た参拝者の方が私たちに「おめでとうございます」と声をかけてくれたり「ええもん見たわ」って表情をしてくれたのもなんだか「うふふ」となった。
ウエディングフォトも数十万かかると聞くし、両家の顔合わせもしてなかったし、それにちょっと色つけたと思えば私的にはこっちの方が断然良かった!
結婚式に強いこだわりがある人にはお勧めしないけど、「そんなにこだわりはないけどなんかカタチにのこるものがしたい」って人にはいいんじゃないかな。
同ジャンルの人たちが急に気持ち悪くなってしまって、pixivを退会してSNSでも見なくなった。今のところとても快適で、二次創作再開したい、見たいという欲も湧かない。
もともと年を重ねてきて何でもかんでも恋愛に結びつけることに辟易としてたんだと思う。原作の関係が至高で、それは原作読んでれば満たされるし。
CP物に限らず二次創作はそもそも公式に見逃してもらってるだけでれっきとした犯罪だし人に言える趣味じゃない。人様の作ったキャラを使って人形遊びしてるだけだよ。それなのにクリエイターのようなふるまいをできることが不思議で仕方ない。
自分の創作物を「作品」と呼ぶことに違和感があるし、見る専の人のことを「消費者」と呼んでるのを見かけた時は何様だよと呆れた。二次創作してようがしてなかろうが同じオタクだし、むしろ二次創作なんてしてないほうがいいのに。同人誌は赤字になるように値段設定するのが当たり前で、webで頒布とかもう意味がわからない。「自分の絵を守るため」にウォーターマーク入れるのも二次創作やってる分際で?と思う。
でもこういう考えは二次創作やってる人の中では少数派なんだろうなとずっと思ってた。絵や文章は好きでもそのへんの考えが合わない人が多すぎて、好きなCPも見れなくなって、自分の書いたものにすら興味がなくなった。
これから先二次創作することも、ファンアートを見ることはあれど漫画や小説などのストーリー系の創作物を見ることももうないと思う。オタクであることには変わりないけど、ただ原作を読んで楽しむだけの今が嬉しい。
(追記)
ばあちゃんが迎えに来てくれたのは「孫が児童養護施設にいるなんて近所の人に知られたら恥ずかしい」からです。孫が閉め出されるなんて恥ずかしいから家に入れてくれたし、娘が孫を殴ってるのがバレたら恥ずかしいから1番奥の部屋で躾けるように言ってました。
この頃かなり記憶が曖昧で1週間か1ヶ月で出られた気がするんだけどその間学校は欠席してました。一時保護施設だったのかな。
親は精神病院に入院しましたが殴らなくなっただけで虐待を正当化するモラハラマシーンになって帰ってきました。
今は家を出て幸せです。
(本編)
ぶっちぎりで児童養護施設。
いやもうお世話になるどころか子供がいてもおかしく無い歳なんだけど。
でもたまーに思い出すんよな。
めちゃくちゃ高い生垣、狭い中庭、錆びた滑り台、二重扉、反省室、ぼろぼろのブロック、壁びっしり描かれた「脱走したい」の文字、数年前のジャンプ、同世代の部屋が空いてないからって小さい子たちと一緒に寝て、担任の先生が寂しく無いようにってくれた人形は保護当日没収されて、運動不足になるからって狭い室内でバドミントンしてさあ。誰と仲良くなってもいつの間にかいなくなってて。
あなたの親はあなたのことを殺すかもしれないからここで保護するよって誰もそんなの頼んでねえんだよ。
親を逮捕してくれってずっと願ってたよ。
「ぬい活」というものをご存じだろうか。
公式のグッズ製作会社から販売されている「キャラクターを模したぬいぐるみ」を中心とした、一種のオタク活動である。
主に女性オタク界隈で多くみられ、「キャラクターを模したぬいぐるみ」は「ぬい」と略称される。
彼女らは「ぬい」を愛で、旅行先やテーマパーク、飲食店などに引き連れていく。ただし、鞄の中に仕舞いっぱなしというわけではない。取り出し、写真を撮る。そして、その写真をSNSにアップする。
私はこれら「ぬい活」を異常だと思っている。そんなことをしてはいけないと強く思う。
この文章をお読みくださっている方の中にも、「ぬい活」の現場に居合わせた経験をお持ちの方がいるかもしれない。
どう思われただろうか。
「かわいいな」「楽しそうだな」と思っただろうか。
それとも「恥ずかしいな」「痛いな」と思っただろうか。
予想するに、大半の人は「どうでもいい」と思ったのではないだろうか。
一瞬、「うわっ」となりながらも、さっと視線を逸らし、数秒後には忘れている。立ち止まって眉を顰めるほど暇ではないし、そもそも街の中は「うわっ」となるもので溢れている。
薄汚れた作業着を纏った無精ひげだらけの男性、ミニスカートを履いた中年女性、フリルのついた可愛いワンピースを着ているが骨格がどうみても男性の人、奇声をあげながらフラフラ歩く人。
彼らは他人に迷惑をかけているわけではない。ひどい臭いを発していたり、単純にうるさかったりするが、罪を犯しているわけではない。
しかし、視界に入れた瞬間、「うわっ」となる。慌てて視線を逸らし、「見なかった」ことにする。自分の人生から追い出し、登場しなかったことにするのだ。
そういう「うわっ」となる人たちの中に「ぬい活」をするオタクも含まれている。共通項は一般人とは異なる価値観を持ち、奇抜さを越え、そこはかとない嫌悪、恐怖を感じさせる点だろうか。
これがたとえば、「高校生が某テーマパークで、そのパークの公式キャラクターとなっているキャラのぬいぐるみを持ちながら写真を撮る」ならいいのだ。主体の属性・場所・行為に整合性がある。
「ぬい活」は違う。
その多くは成人しており、中には30歳を超えている人もいる。そういう人たちが、キャラとも作品とも関連性のない公共の場で「ぬい」を取り出しているから、「うわっ」となるのだ。
どうしてなんだ。どうしてそんなことができるんだ。
普通は年齢を重ねるごとに成熟していくはずの客観的視点がどうして退化しているんだ。自分を何歳だと思っている。大丈夫か。マジで。
そしてまた、彼女らは「ぬい」に服や靴などの装飾品を与え、自分好みにカスタマイズする。専用の服が売られているし、自分で作る人もいる。まんま幼少期に楽しんだ「お人形ごっこ」である。
ひとり、あるいは友人同士で、家の中で楽しむなら何も文句はない。何故、外で取り出すのだ。
人によっては「ぬい」を飲食店で取り出し、食事と一緒に写真を撮ったりする。
どうしてだ。衛生観念をドブに捨てたのか。人の手でべたべた触り、頻繁に洗うこともないであろう、ぬいぐるみをどうして食事の場に出す。子供でも親に注意されるぞ。
社会人として働いている人も多いだろうに、どうしてその程度のマナーが守れないのだ。お店の人も困ってるよ。
私は彼女らの行動が理解できない。そもそもの話、彼女らの目的は何なのだ。
『キャラが好きだから、キャラを模した「ぬい」と行動を共にし、写真を撮ったりなどして、思い出に残したい』
ぱっと思いつくのはこんなところだが、私には彼女らが本当の意味でキャラを愛しているとは思えない。
本当にそのキャラを愛しているのなら、「ぬい」を公共の場で取り出すなどという、恥ずべき行為に至るわけがないからだ。
「ぬい」はデフォルメされているとはいえ、知っている人がみたら「あのキャラだ」とわかる。そして、オタクが公共の場で「ぬい活」をすることで、「あのキャラのファンは、ああいうことやっちゃうのか」と思われる。冷えた視線を送られ、非常識のレッテルを貼られる。
「キャラ」と「ファン」は一体なのだ。グッズを手にしている以上、切り離してみられることはない。
一度だけでいい。一度だけでいいから、自分の行為をみつめ直して欲しい。
友人と一緒に好きなキャラの「ぬい」を持ち、画角や背景、光の当たり方などを工夫して写真を撮るのは楽しいだろう。その写真をSNSに上げ、いいねされ、コメントがつくのは嬉しいだろう。キラキラと輝く思い出になるだろう。
ただ、それらの行為をしている最中、周りにはあなた以外の人がいる。あなたの行為をみている人がいる。
「お!岡田以蔵じゃん」
ただ龍馬伝の一オタクの好奇心から安易に手を出した事が私の生涯に於いての大きな過ちとなったのだ
人斬り以蔵と言えば世間一般のパブリックイメージとしては残虐非道にして悪逆な幕末の人斬り、シリアルキラーじみたものである。
見た目も粗野でニコリともせず瞳の濁ったアウトローといったところだろう。
私自身、龍馬伝の佐藤健演じる彼は彼として岡田以蔵の印象としてはそれに近いものがあり、その粗野さや狂気の中に時代の荒波に揉まれた英雄になれぬ1人の人間の悲哀を見出していたのだ。
それがどうだろう、パブリックイメージに近い陰鬱な空気感や粗野な印象を得た中に丸く大きな瞳、片目を隠した癖の強くコシのある太い髪には武市半平太の犬と称される程の幼さを称えた男がいたのだ。
その様を見た時の私は臓腑を撃ち抜かれたかのような衝撃を受けた。
幼い顔に剣を振るい極めた男の太い下腕が覗く一見アンバランスかつ、イメージ通りのようなイメージとは違うような姿。
今までのメディアに出演してきた岡田以蔵像とは一線を劃すその様に震えたのだ。
しかし臓腑を撃ち抜かれたとて命があるだけ暁光とばかりに私は片足を引きずりながら彼の人となりを知らなくてはお話にならぬとえいやと帝都に降り立つと「坂本龍馬」を自称する彼が待ち構えていた。
逆立ちしたとて坂本龍馬ではないというのに、彼は示現流を扱わぬと言うのに、土佐弁で名乗りをあげてしまうその武士の精神と想像通りの幼さに脳が揺れる感覚を覚えながらも進めていく。
やはり人斬り以蔵としての残忍さよりは幼さ、幼さと言うには刺々しく荒いそれは言葉を上手く紡げず噛みつくことしか出来ぬ手負の獣のような印象を受けたのだ。
恐らく彼は多くの誤解を受け、理解されずに来たのだろう。
だがマイルームボイスに随所に現れる彼の不器用さ、言葉の稚拙さを自覚した上でどうすれば良いのか分からぬ歯痒さを痛いほど感じてしまい、ただ一言「放って置けない」と思ってしまったのが、ここに来るまで気がつけなかったこの愚鈍な女の運の尽きであった。
静かに傷を負った私はそれは韋駄天の如し速さで龍馬伝を見返した。
幼馴染とした過ごした日々、どこからか食い違う歯車、皆から仲間外れにされても役に立ちたいと人斬り風情に身を落とし、友1人も切り捨てられず中途半端に罪人として後世に名を残した反英雄。
FGOにおいての岡田以蔵とは違うがどちらも「置いて行かれた」という意識、言葉がうまく紡げなかった事による下がり切った自己肯定感、今私が彼を切り捨てたのならばもう2度と彼は誰も愛せぬようになるのではと、それがどうにも悲しく思えて私は彼に誠意を尽くすべくありとあらゆる術を使った
近づけば近づくほど気安く、そして自信無さげにする彼がどうしてこうも愛らしく感じられるのか、いやどうして愛さずいられようか。
そして来るバレンタイン。
まだまだ春には遠く底冷えのする季節に生まれ、蒸し暑い梅雨の晴れ間に散った彼の生まれた日となればお祝いも込めてこれは感謝を伝えねばならないとそこ退けそこ退けとエネミーを掻い潜り彼にロックオンチョコレート、私の心臓を模った生前馴染みのないであろう西洋の菓子を手渡した。
おお、神よ
普段仏を拝む私が言うのはおかしな話ではあるが、こればかりは感謝をせねばならない
そして神に感謝し、擦れた彼らしく尊大な態度に微笑んでいたのも束の間最初の感想と言えば「最悪」の一言に尽きる
曲がりなりにも未成年の子供の部屋に行き、酒を浴びるほど飲み絡み酒、しまいには泣いて嘔吐すると言う最悪の男といえばこうという全てを済ませてしまうと言う暴挙に出たのだ
ここまでダメな男というのもめずらしく痛快さすら憶えたが、流石の私も辟易とし、こればかりは許せぬと憤慨した。
絶対に許さぬ、怒るところは怒らねばフェアではないと心に決めた矢先泣きながら他の男を呼ぶのだ
あぁ、もう私の心は粉々である
こんなにもダメな男であるのにも関わらずそんなに置いて行かれた迷子の子供のように泣き言を言われ、弱々しく謝られて仕舞えばこれは一種の彼の自傷行為に付き合ってしまったような遣る瀬無い気持ちに支配される。
そして肝心のお返し、それはそれとして怒らせていただきたい、このような自傷行為はやめなさい、他者も己も大事にしなさいと伝えねばと強い意志を持ち読み進めると態となのかと叫びたくなるほどにおいたがバレた子犬のようにバツが悪い顔で謝ってくるではないか
そして渡されたものは「木綿の襟巻き」
木綿はあまり防寒性はないが使いやすく、普段使いができるものだ
そして寒い日々が続く中使える襟巻きを渡してくるのはなかなかどうして素朴で暖かいお返しである
そしてなにより、当時の土佐の下士は木綿以外の衣服を身につける事が許されなかったのだ
その生前の負犬根性ともいえる卑屈な精神を引きずったどこまでも人間臭い彼が精一杯の誠意として用意したものがこの一つの襟巻きに集約されている
私はこの時骨の髄まで彼を生涯嫌う事も無関心になることも出来ぬ
彼が己を愛せるようになり、噛み付く以外の甘えを覚えるようになるその日がたとえ来なくとも私は根気強く愛そう
そう心に決めたのだ
追加
サイタマの彼に触れて
以前のバレンタインの岡田以蔵に引き続き、折に触れてサイタマでの彼について、そして2024年11月現在における彼への印象を書き記そうと思う。
まず前提としてのスーツの霊衣。
生前は袖を通すことの無かった洋装、しかもフルオーダーメイドの上等な衣服に身を包んだ彼はかつて京の都を恐怖に陥れた「人斬り以蔵」ではなく1人の人間としての生の謳歌を私の目に焼き付けてくれた。
己を着飾るには一定の自尊心、自己愛が必要であると言うのが私の持論ではあるが、既に2着も木綿の粗末な物とは違う絹の上等な衣服を得た彼は順当に自己肯定感を得たそれは生前の蟠りとの決別のように見えて酷く眩しく見える。
さて、霊衣についてはここまでとして「ぐだぐだ龍馬危機一髪 消えたノッブヘッドの謎」での彼の立ち回りについての思いの丈ではあるが、まず冒頭の護衛を任された際の笑顔。
今までの笑顔は絵がと及ぶにはあまりに下卑ており「ニヤケ顔」と呼ぶ方が相応しいようなどこか卑屈さの透けて見える、決して見ていて心から喜ぶことのできぬものであった。
心からの笑顔を見るだけでこの先どのような理不尽も耐え得る自信があるほどに愛している。
それが今回見ることが出来たのだ。
普段は凛々しく上がった眉とどこか睨みつけるような大きな目を下げ、自信たっぷりに「任せちょけ」とマスターへ迷い無く言ってのけるその様は正に“愛”
これほどに嬉しいことがあろうか。
私はこれがずっと見たかったのだと、一つの愛の答えを得たのだった。
きっと長く伸ばされた前髪に隠れた右目も同じく下がり破顔しているのだ。
それを見る事は私には余り有る贅の極みである。秘匿されているものこそ輝くが、彼はそのままでもすでに美しい。
この原石を数年かけ磨き上げた答えをお出しされたのだ。
愛を伝え続け、それに応えてくれるとは余りにも素直で愛らしい男ではないか。
そして降り立つサイタマ、生前の恩師であり確執ある武市瑞山の登場によりカルデアでの姿が嘘かのように、月が雲に隠されてしまったのだ。
何せ以蔵の自白により最初に犠牲となったのは武市の親族である。武市の方も思うところある事は間違いないのだ。
その相手を相手に喜び再会を喜べる程岡田以蔵と言う男は恥知らずでも無ければ頭の回らぬ男ではない。
私はこの時既に胃の腑を握り潰されんばかりの心地となっていた。
やり方の問題もあった事は明白ではある。武力を用いた時点で武力により制裁を食らうことは必定なのだ。
そこに善悪は介入してはならない。
同じ敗者である彼らが気持ちの良くない関係性であると眼前に見せられる事は感情の行き場を無くしてしまう為、愚かにも感情移入が過ぎる私にはとても苦しいものがあった。
その時に癒してくれるもの、それは田中新兵衛の鍛え抜かれた豊満な肉体、赤く細くもコシの強そうな前髪で隠された片目、武市へ犬のような忠義を尽くす健気でありながらも1人の武人として気骨溢れるその様のみである。
話は以蔵へ戻し、私の悪い予想はいつも当たるもので直前に見せられた愛は濁り、彼に出会った頃以上の卑屈さや引っ込み思案な姿を見せた。
重なるように坂本龍馬を騙る何か、あの柔和な笑みはどこへやら邪悪な笑みで我々を翻弄するため私は田中新兵衛の胸筋と前髪にしか意識を向けることが出来ずにいた。
しかし良い事は長く続かないが悪い事も長続きはしないものである。
生前は武市に言われるがまま、それが良い事か悪い事か、したい事かしたくない事かを考える事をせずさながら「人斬り人形」として生きて来た男である。
これは私個人の意見ではあるが、彼はあの坂本龍馬を騙る何かを周りが違うと言う中「龍馬だ」と言ってのけ、どう見ても人型であるBBを人型判定しないなどありふれた表現をするならば「第六感」が発達しているのだ。
常人離れした観察眼を持ちながらもそれを他者へ共有する術を持たない彼は孤独であっただろうと夢想する。
人と違うものが見える人間は他者との共感を得られず、人一倍違和感や変化、情報が溢れる中で理解されないと孤独から塞ぎ込むか思考放棄をした方が楽であり傷付かずに済むのだ。
怠惰な天才はおそらくその傷付かないための術として武市は全ての思考を預ける事で心を守った事は私の想像するところである。
そんな彼はカルデアにて古今東西の英霊と出会い、思考を覚え、他者への共有を覚えた。
そんな彼であるから今回の件も龍馬へ「お前は龍馬か」と問い、武市の命に背いて「自身の意思」で行動出来たのであろう事、思考が回り自己完結をする幼馴染達へ言語化を促す事が出来たのだ。
それは彼が“変わった”のではなく子供まま目の前に映るものをそのまま見つめる姿勢を変えずに意識を変えることが出来たが故である。
1つ誤解ないように付け足したいが、私は彼を「善い人」とは思っていない。
しかし人間誰しも善悪併せ持つものであり、悪い面を隠す事を覚える大人にならず、剥き出し等身大の「人間」を体現して限りなく自然体に振る舞う男であると認識している。
そんな彼の存在は、誤魔化し波風立たせずのらりくらりと無味無臭を良しとする私含む大人には酷く眩しく見え、危なっかしく、そして羨ましく映るのだ。
彼は1人では何も成し遂げられはせず、輝く事はせず、常に誰かの力で立つものの強烈に惹きつけられ、人間臭く致命的に人とは違うさながら月のような男である。
無味無臭の現代を生きる私たち常人には決して辿り着けぬ圧倒的才能を持つ彼は、しかして常に剥き出しの人間臭さを忘れず突き放さず夜闇に上を見つめると静かに確かにそこにあり続ける月なのだ。
私はそのような月がこの先たとえ見えない日かあろうとも、そこに煌々と静かに輝く事を知っている。
こんなタイトルだけどLGBTとか男尊女卑とかそういうのについて語るつもりはない。
ただ前提の説明としてそんな感じの表現はあるけど、ただの前提だと思ってほしい。
まず前提。私の生まれについて。
××××年、深夜2時にど田舎の某県にて爆誕。メス。アホほど続く家系の樹形図の一番下に生える。
悪気なく周囲から言われる「あぁ、男の子だったらよかったのにね」「まぁまだ若いんだから!次は男の子だといいな!」に母は病む。そんで婦人系の病気になって次の子供は望めなくなる。1人っ子確定。
そんな自分に対しても物心ついた頃には既に「将来は良いお婿さんを見つけないとな」なんてことを言われはじめていて、あくまでも女は家系を継ぐような存在ではなく男を支えるための補助生物であって、女という劣等種として生まれてしまった以上自分にできることは良い男性と結婚して次世代へ家系を繋げる男子を産むことなのだという強い使命感を抱くようになる。
メスとしての生き方を理解する一方で、3歳~15歳くらいまでの間、望まれないメスとして生まれてしまった罪悪感から世間的に"女性が好むもの"とされていたり"女性らしい"というものに対して強い拒否感が芽生えて私服では一切スカートやワンピースは着用せず、"かわいい"とされるものを周囲に置くのを拒絶した。ピンクより青が好き、人形遊びより木登りが好き、みたいな小さな積み重ねで「男の子みたいね」と言われたときに満足感を得て生きていた。だが成長過程で現実を理解し、女性という性別へのコンプレックスがありつつ、努力したところで男性にはなりえないという絶望を抱くようになる。
そんな中高校に上がったら色々爆発した。中学までの同級生が1人もいないど底辺のヤンキーとオタクしかいない高校に入学したのもあって、まずバカみたいにスカートを短くした。バイトをはじめて、フリフリのワンピースを買ったり、アクシーズの服も買った。それまで家が貧乏なのもあるしど田舎には店がないからしまむらのメンズコーナーで入手した服を着てたのに一切そんなとこ行かなくなった。"女"を楽しむことに狂ってた。家がある事情で破綻して継がなくて良いことになって全てから解放されて、更に狂った。
そういう欲求は大学まで続いて、年齢を重ねるにつれて趣味も変わったから今はただの一般成人女性として全身ユニクロみたいな格好してるんだけど、あの数年間で狂いまくったから欲求が満たされたんだと思う。
ここまでが前提。
そんでやっと自称トランス女装おじさんの話なんだけど、あの人たち全員じゃないけどとても年齢には見合わないJKの制服とかダサいワンピースとか着るじゃん。あれマジでキモイんだけど、自分と重なるとこあってモヤる。欲求が爆発した当初私も本当に同じような格好してたから。マジで双子コーデか?ってくらい同じ格好のやつとかいる。
父方の祖父母と同居している第一子にはありがちなことかと思うが母はまだ遠慮があり祖父には毎週見る習慣になっている番組が毎日あった
仕方のないことだ
ただ大多数のこどもが見ている番組を家で見ることがわたしにはできなかっただけだ
だいぶ大きくなってからあのキャラはなんだったんだろうと調べたらセーラームーンのアマゾントリオだった
中学生くらいのわたしは幼少期の自分のおもちゃや布製品の絵柄などの所持品にセーラームーンが登場するにも関わらずセーラームーンのアニメの記憶がないことについてギリ世代じゃないからだと考えていたのだが普通に直撃世代でただ見ていなかっただけだったのだ
ハッチポッチステーションを初めて見た日のことは覚えている
同い年の子は8人、保育所全体でも30人に満たない人数だっただろう小さな保育所だ
母は保育所を利用しているのに仕事といえば農作業か内職かという専業主婦だった
だから迎えが遅くなるということはなかった
お迎え時間に来ていたよそのお母さんの記憶もあるのでほとんどの家庭は似たような環境だったのではないかと思う
ある日母の迎えが遅くなった
その日に所長先生と給食室と職員室の間の畳の部屋でハッチポッチステーションを初めて見た
所長先生がオープニング映像がエスカレーターであることとその頃エスカレーターでの事故があったので真似をしたら危ないことを話している様子を覚えている
テレビには人形が斜めの板の後ろを移動している様子が映っていた
記憶にある所長先生の発言から推測するとわたしがこれはなんなのかのような質問をしたのだろう
ハッチポッチステーションのオープニングのエスカレーターを登る人形の様子を見たことがなかったわたしは理解できなかったのだ
わたしの通っていた保育所の場合は個々人が各々自分が何であるかを宣言していた
恥ずかしながら何かで聞いた名前だったのだろう
「赤ずきんチャチャ?強くないよ」「強いもん」「全然強くない」
大変に不快になってそれ以降家庭外でテレビ番組の話をするのをやめた
ちなみに赤ずきんチャチャは未だ見ていないので今も戦って強いと思っている
わたしの場合は30年近く前の話だが現代においてもこどもの会話といえば映像だろうと思う
YouTubeとかでもいい
そのほうが本人が歪まないんじゃないか
最低限未就学児にはNHK教育を見せといたほうがいいと思う
父方の祖父母と同居している第一子にはありがちなことかと思うが母はまだ遠慮があり祖父には毎週見る習慣になっている番組が毎日あった
仕方のないことだ
ただ大多数のこどもが見ている番組を家で見ることがわたしにはできなかっただけだ
だいぶ大きくなってからあのキャラはなんだったんだろうと調べたらセーラームーンのアマゾントリオだった
中学生くらいのわたしは幼少期の自分のおもちゃや布製品の絵柄などの所持品にセーラームーンが登場するにも関わらずセーラームーンのアニメの記憶がないことについてギリ世代じゃないからだと考えていたのだが普通に直撃世代でただ見ていなかっただけだったのだ
ハッチポッチステーションを初めて見た日のことは覚えている
同い年の子は8人、保育所全体でも30人に満たない人数だっただろう小さな保育所だ
母は保育所を利用しているのに仕事といえば農作業か内職かという専業主婦だった
だから迎えが遅くなるということはなかった
お迎え時間に来ていたよそのお母さんの記憶もあるのでほとんどの家庭は似たような環境だったのではないかと思う
ある日母の迎えが遅くなった
その日に所長先生と給食室と職員室の間の畳の部屋でハッチポッチステーションを初めて見た
所長先生がオープニング映像がエスカレーターであることとその頃エスカレーターでの事故があったので真似をしたら危ないことを話している様子を覚えている
テレビには人形が斜めの板の後ろを移動している様子が映っていた
記憶にある所長先生の発言から推測するとわたしがこれはなんなのかのような質問をしたのだろう
ハッチポッチステーションのオープニングのエスカレーターを登る人形の様子を見たことがなかったわたしは理解できなかったのだ
わたしの通っていた保育所の場合は個々人が各々自分が何であるかを宣言していた
恥ずかしながら何かで聞いた名前だったのだろう
「赤ずきんチャチャ?強くないよ」「強いもん」「全然強くない」
大変に不快になってそれ以降家庭外でテレビ番組の話をするのをやめた
ちなみに赤ずきんチャチャは未だ見ていないので今も戦って強いと思っている
わたしの場合は30年近く前の話だが現代においてもこどもの会話といえば映像だろうと思う
YouTubeとかでもいい
そのほうが本人が歪まないんじゃないか
最低限未就学児にはNHK教育を見せといたほうがいいと思う
「狙い撃ちLoRAはアウト」の説明の中で、創作的表現が合致してたらアウトみたいに書いてあった。
例えば、妖怪ウォッチのジバニャンを真似て人形作るのはアウト。「可愛らしい猫型の妖怪」の人形を作るのはセーフ。
じゃあ、Aさんが二次創作ばっか描いてて、Aさんの絵から作ったLoRAを使って、それで二次創作描いたら?これはセーフだよね(公式の著作物だし)。
次に、Bさんがオリキャラばっか描いてて、LoRA使って、二次創作描く場合。これもセーフだよね。
次に、Cさんがオリキャラ(仮に短髪桃髪のゆるふわ天使だとする)ばっか描いてて、LoRA使って、Cさんが描いてるオリキャラに似た雰囲気のキャラ(長髪青髪のゆるふわ天使)描いたら?これもセーフだよね。
お弁当で出店している店が、イベント始まりました!と写真を投稿していた。
お揃いのスタッフTシャツで、テントから垂れ下がってる値札を持ってアピールしている女性、ブースでお弁当を並べているおっさんと、その隣に無表情でダラリと座ってる女性。
何だか違和感があったので拡大してみてみると、ダラリとした女性は等身大編みぐるみにかつらをかぶせてドールアイを入れてスタッフTシャツを着せた物だった。
これ何?と思ったが、等身大編みぐるみについてのコメントが一切無い。
旦那にこれなんだとおもう?と聞いても初見で人形と気が付かず、アップで見せてもマネキンと勘違いして、編み物だと言ってようやく「置いてる人の気持ちはわからん」と返事されて終わった。
マジで何?
・面白かった
・マインドフルネスについては懐疑的な気持ちなのでマインドフルネスって、良いんですよ〜サイコパス爆誕のテーマ自体で優勝だったしちゃんと最後まで観させてくれた
マインドフルネスって色々種類というか段階があるんやね…
「チャックを開ける」動作で武器がパンパンに詰まった鞄が開けられたりとか薬物?が入った鞄とか娼婦の胸元を開けられたり一瞬で映像がきりかわり「やましいこと全部コンプリートしてます」感を1,2秒で的確に伝えてくれてた
・直接的なゴア描写がなくてボストランク蒸し焼きのときみたいな暗喩が逆によかった
なんでだろ
1000%警察に見つけられるやつじゃん!だったけどマフィアのゴタゴタがおもろかったのでヨシ!
・吹き替えの声優さんの飄々とした喋り方がすごくキャラクターに似合ってた
滑らかで理知的でかつらつとしてるけど「なんやこいつ」感 作品が主人公のモノローグメインで進むのと相まって本人的には「マインドフルネスでいい感じ!」はたからみたら「おいおいおい」のズレ感を終始感じさせてくれて作品のやりたいことを視聴者己によく伝えてくれとる…!ってなった
もっと言えば、ラブドールで致している男の人の行為を見るのが好きな人。
はい、私です。
特殊な癖(へき)の範疇なのでしょうと思います。だからここで書いています。
性の対象になるのは男の人のみです。
だけど、男の人に思い切り犯されている可愛いお人形さんを見るのが好き。
物言わぬお人形さんを相手に一生懸命気持ちよくなってる男の人の様子を見るのが好きです。
時には下に装着されたホールで、時にはすごく冷たくて弾力ありそうで大きな胸で、時には口で。
果てた後に体液で汚されても、なお表情を変えないお人形さんを見てとても興奮します。
実際に見たことはありません(当たり前)
動画ですね。
男の人の顔は映ってても映ってなくてもいいです。
男の人の美醜は問いません。
そもそも人形を愛すると言う行為自体がマイノリティ性癖だろうと思うし、自慰行為の一つでしかないとは思います。
ただ、人形を生き物として愛する感情は幼児期に誰しも経験が多いものだと思います。
親以外の他者に愛着を示す第一歩は、人形や動物のかたちをしたものを、自分とは異なる生き物としてその感情を想像できるところから始まります。
その延長線上にあり、性的な感情や倒錯が入り混じる見立て遊びが、お人形を使った自慰行為であると思います。
小難しい理論をこねましたが、とりあえず私は生身の女が演技がましく喘ぎ声を出しているアダルトなビデオより、究極の独りよがりの行為である、人形相手に好き勝手やってる行為を見るのが興奮します。
私がいわゆるマゾヒスト寄りの癖を持つのにも関係しているかもしれません。
もしかしたら、あのくらい好き勝手やられても何も顔色を変えず、なんなら存在するかどうかも含めて男の人の欲望を一方的に叶えられる存在になれればいいのにと、
でも私には尊厳もありますし、物理的にも限界があります。あんなにたくさん激しく挿出されましたら、色んなところにガタが出て1週間ももたないでしょう。
だから、壊れてしまっても替えが利いて、勝手に利用されるお人形さんに憧れがあるかもしれません。
終わり。