はてなキーワード: 西洋人とは
新年早々暇だったので読書をしようと思い、どうせなら普段なら絶対に読まないジャンルを選ぶことに。
そう思い選んだのが哲学のジャンル。せっかくなので名著を、と思い選んだのが本書である。
レヴィ・ステーキソースといえば構造主義の祖であるらしく名著である本書は今に読んでも示唆に富み、初めて読んだが非常に感銘を受けた。
この本の主張を簡潔に述べれば「西洋文化への批判」だ。西洋人はこれまで自らの種族が最も優れている…と考えていたが、本書はその欺瞞を容赦なく露呈させる。
優れた知性の成り立ちとされる西洋社会の文化もまた構造の一形態に過ぎず、それは部族の野蛮とさえ見える文化と実は遜色ないものであることを証明する。野菜の思考はまさに文化と構造にメタ的な観点の取り入れを可能とし、その功績によって現代人においても本書は必読の書であるといえるだろう。
他の人がつくったまとめを読むのが好きなので、俺もならって書く。
※ 2025年に読んだ上位10冊だと、必ずしも2025年(もしくは前年末)に出版されたものに限らない。極端な例として、英文学の傑作とされる『闇の奥』とか出てくる。1902年版。
そこで、1年以内に刊行されたものだけでも10冊以上になるようにした。+αはその意。
有性生殖の壮大な歴史を概観する、いわゆるビッグヒストリーもの。
ぱっと見ではちょっと下世話なタイトル。しかし、20億年というバカでかい数字も含まれているとおり、読み始めるとビッグバンの話から始まって、地球が天体レベルで迎えてきた過去の大絶滅のイベントが進化に与えた影響について紹介するなど、大変にスケールが大きい&しっかり科学的な本。
作中では、まず物質から命が生まれ、単細胞から多細胞になり、性別を持ち…という流れが、生物史のイチから描かれる。やがて、多細胞生物は進化とともに性的役割分担を生じ、その中の一種であるホモサピエンスは狩猟採集から農耕に移行する中で複雑な社会を形成するようになり、階層が生まれ、新しい社会で性別は役割や職業だけでなく差別とも切り離せなくなり、そして現代では? というところまで総観される。
後半の主役はどうしても人類になるけど、一方で、人間とて有性生物の一種に過ぎず、我々の社会も「生物がつくりうる群れのパターンの一つ」でしかない、という視点が体感できるのが、この本の良さ。いわゆる文系でも読める。そこそこ厚めの科学系ノンフィクションがいける人はぜひ。ちなみにオチの一文がシャレている。
まったく余談だけど、本作は集英社刊行。この手のジャンルは早川や河出、みすずあたりが強いイメージがあるので意外だった。
俺は小さめの青虫なら手で触れるぐらい虫が好きで、知識もそれなりにあるつもりだけど、それでもどのページを開いても「ほお~」と嘆息してしまうぐらい情報が豊か。この本も、地球というのが生命の壮大な実験場で、長い歴史の中で膨大な選別と滅亡を繰り返している世界であり、いま生きているやつはみんな、構造の複雑さや大きさに関係なく、各自の戦略でもって何かしらの頂点、キングであることがわかる一冊。
見入ってしまう理由はもう一つあって、写真が本当に美しい。昆虫嫌いはどのページを開いても卒倒すると思うけど、うっかり手にとって目覚めてほしい気持ちもある…。
イスラエルのIT企業が制作・販売し、やがて各国要人のスマートフォンに忍び込むことになったスパイウェアをめぐるノンフィクション(←重要)。
作品としていくつかの側面があり、「テクノロジーの悪用を追求する社会派ノンフィクション」「追うものと追われるものの駆け引きを描いたサスペンス」「一つの大きなプロジェクトを、組織横断で運営する困難を描いた仕事もの」として読める。
俺は、どんな技術でも基本的にそれ自体には善い悪いはないと思っている。実際、優秀な若者だったイスラエルの起業家たちがペガサスを立ち上げたエピソードは、そこだけ読めば、ほかのビッグテックの成功譚の導入と変わらない。
ただ、巨大な力の行使を自主的に規制せず、金を払えるところならどこでも売る、という条件だけで市場に開放すれば、やがて歯止めが利かなくなる…というか、大きなクライアントから契約を得ること以外の指標がはじめから存在しないため、ブレーキのかかりようがなく、最後はろくなことにならない、ということがよくわかる。
いわゆるマルチバースについて、いくつかの可能性を科学的に整理した本。
俺のような文系にはややハードだったが、逆に言えば、宇宙物理学(ビッグバンとか、観測できる宇宙の果て)や量子力学について、ぼんやりとでもイメージができれば、なんとなく理解しつつ読める。
この本、何が素晴らしいかというと、一般的にひとくくりにされがちなマルチバースという概念について、いくつか種類があるということを整理してくれるところ。
俺は宇宙物理とか量子力学の本をたまに読み、その中でいわゆる多世界解釈についても目にするので、「いろいろと読んだけど、こんな本が意外とマジでなかったな~」と感動している。
例えば、ある宇宙における一つの文明から物理的に到達しうる距離の限界を仮定して、その範囲を超えたところに別の文明や星が存在するなら、それはある意味でマルチバース。もちろん、まったく別の宇宙が別次元に複数存在してもマルチバース。
一方、超ミクロにも視点を移して、量子のゆらぎが世界の一つの可能性に収束するのではなく、複数の世界に分岐していくのだ、と主張するなら、それもマルチバース。
要するに、「マルチバース」という言葉の意味自体がマルチなのだが、そのことをかみ砕いてくれる本というのが実は貴重。これ系好きな人はおすすめ。次の本を読む上での下地にもなるかも。
アテンションエコノミーによって駆動している現代のデジタルプラットフォーム・SNSとの付き合い方について、作者が専門家と交わした議論をまとめた対談集。
アテンションエコノミーとは、ざっくり言って、ユーザーの注意関心を定量化し、それを指標としてコンテンツや運営方針を決めていくスタンスのこと。これを重視しすぎるあまり、商環境におけるモラルが二の次になってしまう、という問題がとっかかりなのだが、本作のすごさは、そこから人間の認知構造まで踏み込み、「そもそも、人が自由に自立して何かを消費するとは?」まで進むラディカルさにある。
例えば、人間の認知というのは迅速にorゆっくり判断する、という二つの軸を持ち、同時に、無意識にor意識して評価する、という二つの層を持っている、という点が説明される。そして、アテンションエコノミーというのは「迅速&無意識」の部分を攻撃しているため、やっかいであるとされる。
攻撃と表現したとおり、本作においてアテンションエコノミーとは、(全面的に悪とは言えないまでも)人類最高峰の知能を持つ人たちが、一秒でも長く少しでも多い反応をユーザーから引き起こすために仕掛けてくるハッキング行為でもある、というスタンスをとっている。
ここでジレンマ、というタイトルにつながってくる。俺たちが社会全体でアテンションエコノミーとの付き合い方を学ぶとしたら、有効な方法の一つは、教育を通じて学習することである。ただ、学んで育つとは、基本的に人間の本来の強さ・賢さを信じ、それを伸ばそうとするものであるため、「俺達は根本的に抗いようのない領域を抱えており、そこをハッキングされるとひとたまりもない」という弱さの認識とは食い合わせがあまりよくなく、手段の確立に苦労している(書いていて思ったが、性教育や薬物の危険さを学ぶことの難しさも同じかもしれない)。
今後、どうしたらいいかは探っていくしかないよね、という感じだが、一つ面白かったのは、デジタル技術は基本的に、自主的な決定と自己責任を重んじる、いわゆるリバタリアン的な価値観によって推進されることが多いが、その行く末が「ユーザーにそもそも判断させる余地を与えない無意識下の攻撃」に成り下がってるのでは? という指摘は、皮肉でかなり響いた。
ジレンマをもう一つ。利益面で言えば、プラットフォーマーにとっては無思考に時間とお金を費やしてくれるユーザーが一番ありがたいわけだが、消費者もそこまでお人よしではない。「全然自由度が低いっていうか、なんかナメられてね?」と思うこともある。
そこで、「じゃあ自分好みにいろいろ選べるように協力しましょう」という良心的な運営もあるだろうが、「ユーザーが自分で自由に選べた、という感覚さえ演出できれば、実態は別でもかまわない」という方向に進んでしまう運営も現れうる。いまやテックジャイアントの在り方とは、消費者の自主性を尊重している姿勢を見せつつ、いかに自分たちの利益に誘導できるか、その妥協点の模索に陥っているのでは(そもそもの理念はそんなじゃなかったはずなのに…)という見方も紹介されており、面白かった。
本年ベスト級。下で紹介している『アルツハイマー病の一族』がなければ1位だった。
九州の農協に勤めていたあるエース営業マンの不審死を追ったドキュメンタリー。
一人の優秀なサラリーマンが、組織内にも地域にも一つの「帝国」を築き、邪魔者は排除し、しかし、最後は(おそらく)破滅した様が描かれる。
大げさな言い方をすれば、社会における悪とは何かを考えさせられる作品。主犯とされる男が周囲の人に行ったことや、横領行為は悪いに決まっている。しかし、こんなやつは罰さなくては(もう本人は亡くなっているが)、という義憤がときどき迷子になってしまうのは、「本当に彼だけが悪いのか?」、そして「そもそも、この社会はこうした『悪』を罰せられる構造になっているのか?」と思ってしまうから。
読み進めると、彼が所属していた組織もお金の流れもあまりにいい加減で、根本的に腐敗しており、システムの中心としてそれを差配していた彼の周囲に群がっていた同僚や市民も、何か妙なことが起きていることを薄々察知しながら甘い汁を吸い続けていたことがわかる。
つまりこれは、悪事と責任が彼以外にも分散しているということなのだけど、もう一つ思うのは、そもそも社会というのが、本質的に悪の所在をあいまいにし、「悪」でさえなくす、ロンダリングする仕組みなのではないか? ということである。
どういうことかというと、物事や手続というのは本来は筋道や道理があり、それらにのっとらないといけないはずなのだが、これを四角四面に処理しようとしても遠回りになるだけで何の意味もないことが往々にしてあり、そして、よく言えばそれを円滑化する、悪く言えば本筋をねじ曲げることのできる人物がどこにでもいるもので、結果としてその人のおかげで、(あくまで、そのコミュニティの中では)物事がうまくいく、ということがよくある。
肥大化&形骸化したナンセンスな仕組みなら見直せばいいのだが、組織にそんな向上心もリソースもなく、それでも体裁を取り繕わないといけないとき、それを(自分の利益とブレンドしつつ)調整する役目を負う者が求められ、必然的に出現するとしたら、その誰かを悪と断じることの意味はなんなんだろう? と思ってしまうのである。
もちろん、シンプルに悪事は悪事であるという答えはぼやかせない。
盗んだり誤魔化したり、他者をいじめたら悪いに決まっている。当然のことだ。ただ、システムを悪用して悪事の限りを尽くすやつと、有能ゆえに組織の悪徳を背負わされて破滅するやつが、同じ人物ということもあり得るよな、とは思う。
19世紀のコンゴを舞台に、西洋文明による資源と労働力の搾取を描いたジョゼフ・コンラッドの小説。1902年刊行。
ホラー作家である平山夢明の短編『すまじき熱帯』がまず面白かったのがあり、その元ネタがたぶん、フランシス・コッポラの『地獄の黙示録』であって、その原作が『闇の奥』…という紆余曲折あって手に取った。
例えば気まぐれに古典を読むと「名作ってやっぱすげえ」と思うことが多く、実はこれは意外ではなくていまの俺たちの価値観や言葉の下地になっているものである以上、それなりに当たり前のことなのだが、はじめて読んだ『闇の奥』も例に漏れず強烈だった。
基本的にこの作品は、西洋によるアフリカの搾取、強制された苦役と恥辱の物語として読まれている。有名なセリフである「地獄だ!地獄だ!(the horror!)」も、まずこの視点から解釈するべきで、それは先進国に必須の認識だと思う。ちなみに、 セリフを発したのは現地で開発を差配していて発狂してしまったクルツという西洋人。
一方で、個人的な印象としては、クルツにある種の英雄性を感じてしまったのだった。
暗黒大陸とも形容される当時のアフリカの奥地に、「文明の担い手」として一人で立ち向かった人間。「闇」と「文明」が接する最前線で彼が発した「地獄だ!」といううわ言は、その言葉自体が、未知の世界から切り出されて西洋側に持ち込まれた(負の)成果物であると思う。『対馬の海に沈む』でも思ったが、俺は腐敗した組織の一員である誰かが役目に邁進し、自身の欲望と背負った責務の中で破滅するナルシシズムが好きなんだろう。
もちろん、コンゴの側から見れば、勝手にやってきた侵略者の一人が勝手におかしくなって破滅しただけであり、そこにヒロイズムを感じるのは先進国の大変な欺瞞だと思う。加害と被害の歴史は前提として理解しないといけないし、意見を発するうえでバランスは気にかける必要があるのだが、↑のような感想を抱いてしまった。
余談だけど、今年刊行された本に『ブラッド・コバルト』というすさまじいノンフィクションがあり、同じコンゴが今度はハイテク機器に使用されるレアメタルの産出国として、ふたたび西洋社会による深刻な搾取を被っている様子が描かれている。
医師として病院に勤務する主人公。ある日、救急で運び込まれてきた心肺停止状態の患者は彼とうり二つの顔をしていて…という導入から始まるミステリー。
2025年はミステリーやホラーを中心に15冊ぐらい小説を読んだんだけど、その中でもぶっちぎりで面白かった。
※ 以下、少しネタバレ。注意
今作の優れたところは、冒頭の謎をオチまで温存することなく、あくまで読者を引き付けるためのフックとして割り切ったところだと思う。
導入部分の真相については、正直「科学的にあり得るならこうだろうな」という域を出ない。それを冷静に見越したうえで、いわばロケット(作品)を高く飛ばすための燃料として中盤で切り離し、さらに高い地点への加速と突破は他の要素や伏線回収で狙う、という戦略だと感じた。別作品の批判になるが、同じようなネタを武器として最終盤まで引っ張ってしまったミステリーも同じ年にあり、個人的には格が違った印象がある。
ベタな表現になるが、後半もどんでん返しが続き、飽きさせない。逆に言えば、スキャンダラスな波乱の展開をいくつ詰め込めるかを始点に逆算してつくられた感じはある。これを品がないと思う人もいるかもしれないが、こだわりがない人は面白く読めると思う。
後半に続く。
訂正したあとは布教はうまく言ったのか
唯一絶対の神とか言うとそれを言い訳にして他者をないがしろにするんじゃない。日本式にすべてに耐えるということをなぜ織り交ぜなかったのか
日本では色即是空、すべてのものは無、無はすべての物質という仏式の日本式のものがあって、その仏教すら絶対ではないと思うよ
ブルース・リーは考えるな、感じろっていうけど、日本式では感じることもしない
考えない、感じない、ただ行うという感じ
耐えるというのが根底にあるので、どんな宗教も入り込めないかも
震災で並んでいた人が立っていたのも仏教とも神道とも関係ないかも
論理的に自己啓発であれこれ言われても、日本古来の耐える以上の教えにはならないのかも
日本社会が整っていて略奪も起こらないのは、宗教では説明がつかないよね。誰も信心深くないもの
日本代表のサッカーが当初弱かったけど、西洋式個人主義みたいなものをそのまま実行しようとして合わなかったと思う
日本人同士をお互いに見ていて、日本人的なサッカーしかできないでいたけど、
なんだかいつからか、禅のような、ただ行うみたいな雰囲気でやりだしたような気がするけど、誰と張り合って勝つみたいなものではなく、
三笘さんを見てると誰も気にしてない、ただ走っているという感じに見えて、いつも自分と対話をしている
対話をしているといっても何か考えを巡らしているわけではなく、ただ行っているという姿が作られ始めて、
無論西洋的に自我を作ろうとしている選手も多いけど、なんだか三笘さんを見ていると極めて日本人的と感じるんだよね
日本人的禅感覚、日本古来の「耐える・考えない・ただ行う」精神の現代的表現
うつ病になったときにカウンセリングだと聞いて受けたけど、まるで合ってないと感じたよ
アメリカ映画に出てくる断酒会とかの集まりも、ぜんぜん日本人にあってなさそう
カウンセリングのときだけ後悔して学んでというのが、その他の時間はけっこうケロっとしてる西洋人を見てると、
生活そのものを修行として生きるという日本の形式に、西洋式のカウンセリングもグループセラピーも合ってないの
個人個人がこの感覚でいいのかって日々やってみることでしかうつ病も回復しないよね
ここ10年の日本を見て、なぜバテレン追放令が起こったのかがリアルに分かった
西洋の影響で、自己中心で日本人が日本人離れして融通がきかなくなったのが原因だと思う
外国人が大量に流入して、彼らの価値観で街の中をかき回してネットに上がっている
それはまさに侵略。そういう問題意識は自分としては参政党とは結びつけていなかった
政党政治への失望は持っては居たが、国民の投票行動がそこにあったとは
棄教させるべきだ
といっても何を棄教するのかも分かっていないだろう
後者は野放図にいわゆる他者が他の他者の領域に侵食していくことを表す
それで衝突が起こる
まさに今起こっていること
金が入るのだからいいではないかというのは個人意識しかない西洋の認識
監視されているのに迷惑行為をし、ズケズケ物を言うことが起きてしまう
知識として他者の特徴を知ることは重要だが、そこに侵食という概念が元々ない
だからフェレイラ神父は最終的にそこを理解することの極地を得て、日本文化を理解するに至った
西洋的に「他者を理解する」ということは、「他者を自分の言語体系の中に組み入れる」ということ
結婚は最愛の人との神聖な行為です、というファンタジーは明治以来の西洋キリスト教文化流入による洗脳で
日本の結婚の実態は嫁という妊娠出産および家事衣食住労働力を男のイエが無償で入手してイエのために使うことでしたよ
夫は外に女がいて当たり前で、福沢諭吉だって一夫一婦制は外国人向けの建て前でこっそり妾を持てばいいと言ってたんですからね
明治の下級武士が慌てて取り入れた付け焼き刃の西洋文化と下級武士の田舎男尊女卑文化の二重構造が150年続いて基本から歪んでるんです
西洋人の猿真似と土着女性差別のハイブリッドなので、ウエディングドレスで愛を誓って結婚しても夫婦別姓はしないですしね
バージンロードなんて日本にしかない和製英語で父親から夫に渡される非処女妻とAV見てる夫のどこが神聖でしょうか。茶番でしかない
愛する人としか性行為はしません!性風俗嬢とは違います!といいつつ夫がAV見て風俗利用するのはOKで、AV女優も風俗嬢も汚いものだが目につくところに出なければいてもよいというのは、極めて下劣な女性差別で神聖どころではありませんよ
https://anond.hatelabo.jp/20250727144129
19世紀後半の民族発明:特にバルカン半島での事例が中心。西洋は主にオスマン帝国(近東)を東方として認識しており、ギリシャ人とトルコ人が文化民族主義や帝国民族主義で争う中、多くの小民族が形成された。
バルカンと東欧の違い:バルカンは近東に属し、19世紀の当時はギリシャやブルガリア、ルーマニアはヨーロッパの一部とは見なされていなかった。第一次世界大戦後から徐々にヨーロッパの一部として認識されるようになる。
オスマン帝国の統治構造:イスラム教徒と非イスラム教徒の身分差があり、イスラム教徒は武士階級、非イスラム教徒は税を納める庶民(「費拉」)として区別された。多くの支配層は文化的に改宗や名前の変更を行いながら多民族であった。
軍閥と「民族英雄」:ギリシャ独立戦争は実質的に軍閥同士の争いで、革命派は少数。バルカンでは軍閥が「親王」などの称号を自称し、これが民族発明の一部となった。
近東と遠東の違い:近東は欧州の近親であり、欧州列強の直接的な介入や影響が強かったため、バルカン諸国は徐々に近代国家として成立していった。一方、遠東(中国など)は遠隔地とみなされ、こうした近代国家形成の機会が限られた。
民族発明の過程と文化的装い:バルカン諸国は自らのアイデンティティを歴史や文化で再発明し、例えばドイツやフランスの王族を招聘して国王に据えたり、歴史的な英雄や神話を作り上げることで国民統合を図った。
現代への影響:バルカン半島の民族発明は100年以上かけて完成し、現在の国家体制へとつながっている。逆に近東地域(シリア、レバノンなど)では軍閥紛争が続き、同じような民族発明は未完成である。
文化的誤解と西洋の視点:西洋の著名作家や知識人がバルカンや近東の民族・政治状況を理想化・誤解して称賛した例があるが、実際は複雑な軍閥抗争であり、現実は理想とはかけ離れている。
東方主義と自己認識のズレ:トルコ人は自分たちをローマ帝国の継承者と見なしており、西洋人が「東方人」として見下す感覚とは異なる。遠東の知識人は西洋の視点を鵜呑みにしすぎて自己評価を誤っていることが多い。
なんでニコニコ見てると無職ということになるの?意味不明すぎない?
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20250705125344# -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaGihygAKCRBwMdsubs4+ SJ/4APoDi9mQHJpCdwqqsTE43/Xe2CYTXnMXQPkx1tfc0NOIggEA5DqkkFc+WNKB 2BGMIZtxk2azxrB9QItRLu5FVDuDSgM= =Yp0l -----END PGP SIGNATURE-----
西洋の場合、例えば(お前らは多分知りもしないだろうけど)デンマークなんかは、超エコなエネルギー政策で有名。
ということを言われると、デンマークの反リベラルは「あんなの嘘だ。ガスを隣の国から買ってるんだ。リベラル政府の嘘に騙されるな」と自分の国の恥を認めたがる。
一方日本のそれは、外人がお世辞で「日本はエコ(っぽい)国だよね」というと100%鵜呑みで有頂天になるし、外人にちょっと日本の欠点を振られると「うるさい日本は凄いんだお前の国の方があそこがここが足りないくせに」と必死に噛みつく。
似てるようで本質的に違うんだよね。
初めて北京旅行に行ったら必ず訪れるであろう天安門広場と故宮。もちろん今回の旅のメインである。どちらも人数制限あり、前日までの予約必須ということで、行き当たりばったりの計画では中に入ることができない。基本的に北京の観光地は中国人向けであり、外国人にとって予約の難易度が高くなっていると思う。そりゃ、10億人以上も国民がいるので国内需要だけでものすごいわけですよ。
ガイドブック等を見ても、個人での予約は難しい。現地ツアーか代理店に頼むべし、みたいなことが書いてあることが多いが、増田は事前準備を進める中で、個人でも大丈夫だな、と判断し代理店等は使わずに予約完了できた。3月中旬は旅行の閑散期だったから出来た話かもしれないが、個人で対応するのが好きな方は参考にしてもらえれば。
・観光地
・食事
・四季民福
・鳳臨閣(大同市)
・東来順
・很久以前羊肉串
・京兆尹
まずは予約編。他の観光施設と同じようにWeChatのミニプログラムから天安門広場を検索、起動して予約する。天安門広場の入場は無料だが、時間帯別(日の出、午前、午後、日没〜夜間の4つ)があり、それぞれでチケット枚数の上限があり、前日までに予約が必要。また、1回の予約は大人4名(6歳未満を含めた場合7名)までしかできない。そして1台のスマホで同じ日時の重複予約はできない仕様。今回の増田一行は7名なので、増田夫婦で4名+3名でそれぞれ予約しないといけなかった。天安門広場は毎日、日の出と国旗掲揚をして、日没で降旗する儀式をやっているので、それを見たい人向けの予約時間帯がある。増田は午前枠で予約したが興味があれば試してみて。
天安門広場や故宮周辺はタクシーの乗降が制限されているエリアで、DiDiを使ってもここまで来れないので、地下鉄を使うのが一般的。天安門広場の入口は4箇所あり、増田一行は地下鉄1号線の天安門東駅から入場した。9時ぐらいの到着だったが、地下鉄駅からすでにすごい人だかりができている。天安門広場へ向かう人のほか、故宮へ直接行く人、天安門広場横の国家博物館へ行く人で溢れている。列を間違えないように天安門広場へ入るセキュリティチェックのゲートへ並ぶが、ここでトラブルが発生。WeChatのミニプログラムを開くと、増田が手続きした4名分の予約がごっそりと消えていた。予約完了後にスクリーンショットを取ってあったので、予約したのは間違いないのだが、消えた原因はさっぱりわからない。また、増田妻が予約した3名分は問題なかった。セキュリティチェック前の入場券確認でやっぱり引っかかり、スクリーンショットを見せてもやはり通してもらえず、英語で一生懸命説明するが、係員も英語できないので5分ほどここで停滞。老人がいて7名中3名のチケットはあるので最後には、しょうがねーなー、という感じで通してもらった。係員さん、ありがとう。
天安門広場は南北に広い広場になっている。北側に国旗、真ん中に人民英雄紀念碑、南側に毛主席記念堂がある。道路を挟んで北側に、毛沢東の肖像画が飾られた天安門が見える。その広さに圧倒されるとともに、どうしても天安門事件を考えてしまい、当時の学生デモの状況や戦車による鎮圧などテレビで見た風景が脳裏に蘇ってくる。広場自体は見学するところも特にないので、記念撮影などをそこそこにして北側にある故宮へ向かう。
北京観光のメインディッシュ。これまたとてつもなく広いので、ずっと歩き回らないいけない。今回は春で天気も良かったので過ごしやすかったが、真夏、真冬は大変だろうなと思う。事前に映画「ラストエンペラー」とか日本でも放映されている中国の宮廷ドラマなどを見て予習すると更に楽しめると思う。
まずは予約編。ガイドブックでは中国の電話番号がないと予約できないとか、予約可能枠は瞬殺で無くなるので、個人での予約は難しいようなことが書いてあり、当初はVeltraなどのツアーサイトから予約しようと思っていたが、準備編に書いたように中国の電話番号を手に入れて、WeChatの故宮のミニプログラムで予約の仕組みや連日の予約状況を調べて行くにつれて、これは個人予約でも大丈夫そうだなと判断した。7日前から予約可能で、午前・午後枠を選ぶ。午前枠でも出る時間は午後でも構わないが、12時までに入場しないといけないので注意。午後枠は11時から入場できる。入場料は一般20元、老人(60歳以上)10元、幼児枠はあるが未成年の割引はなかった。その他オプションで鐘表館、珍宝館の入場券(それぞれ10元、老人半額)が選択できる。機会損失の無いよう買っておいたが、鐘表館は入らなくてもいいかなと思う。珍宝館のチケットは、九龍壁など通常券では見れないエリアがあるので買う価値があると思う。
1回の予約で5人分までしか予約できないが、複数購入ができるので2回に分けて購入した。予約にはもちろん全員分のパスポート情報が必要で、最後に電話番号の入力がある。ここで日本の携帯電話番号を入れると弾かれて購入できない。増田は中国の電話番号を取得済みなので、無事に予約完了となった。ただ、SMS受信をしてアクティベーションするわけでもなさそうなので、中国の電話番号の法則を調べてダミーの電話番号を入れて購入する裏技があるみたいな情報も見かけた。(何があるか分からないのでおすすめはしない)
さて、いよいよ入場であるが、天安門広場から地下を通って天安門城楼をくぐって故宮の入口まで歩くのだが、入口につくまでが長い。感覚としては7〜800mぐらい歩く感じだ。そして入場の列に並ぶのだが、これまた長蛇の列になっていて、並んでから入場まで20分ぐらいはかかったと思う。大同古城編でも書いたが、清朝の着物のコスプレサービスを提供する店が多数あり、故宮見学の人の中にも多数の皇帝、皇后の衣装をまとった人たちがいた。日本語を話しているコスプレの人もいたので、興味があれば調べてチャレンジして欲しい。いつものようにセキュリティチェックとパスポート読み取りをしてようやく入場。隣の列にいた西洋人カップルは女性の方だけがパスポートチェックが通らずに止められていた。こういう場合どうなるんだろう?と心配になった。
そして故宮の中も広い!広い!広い!入場までにも天安門、端門、午門と3つの大きな門を抜けているが、さらに太和門を抜けて、ようやく皇帝の執務室?である太和殿に着く。でもこれまでは前半部分でしかなく、後宮である居室はもっと奥にある。太和殿の左右のエリアにも、それぞれ見どころはあるのだが、全部見るには体力がものすごく要るので、今回はメインどころしか見ていない。旅行前にドラマや映画で予習をしておけば、もっとこだわりの見学ができるかもしれない。
太和殿を過ぎたあたりでお昼の時間になり、疲れてきたところでもあるので昼食を探す。故宮内にはいくつか故宮餐庁と呼ばれるレストランがある。日本だったらこのような観光地のレストランは1〜2時間待ちになりそうなものだが、中国人は食事を持ってきているのか、行列はできているが、ちょっと待てば入れそうな雰囲気だった。増田一行はベンチが確保できて休んでいたのでレストランには行かずに売店でホットドック(爆汁熱狗棒)4本とサンドイッチ(かなり本格的で美味しかった)3セットを買って食べた。合計170元、観光地価格ではあるが、十分な量があり満足した。
昼食後にオプションの鐘表館と珍宝館を見学する。鐘表館は清朝時代の時計が展示されており、前半はフランスやイギリスから献上?されたものが展示され、後半は中国国内で制作されたものがあった。10分も見れば十分かなあと思うので、特別な思い入れがなければパスしても構わないと思う。珍宝館は太和殿から見て東側のエリアにある。その名の通り、中国の秘宝を展示しているのだが、貴重なもの(翠玉白菜とか)は蒋介石が台湾に持っていってしまったので、そんなに有名なものはないと思う。(増田が知らないだけかもだが)ただ、このエリアには九龍壁などがあるので展示物は見なくてもオプション料金払う価値はあると思う。ご参考まで。
東側の珍宝館エリアから後宮方面に移動するが、この時点がかなり歩き疲れている。後宮エリアは中央に皇帝の居室である乾清宮があり、その東西に東六宮、西六宮と呼ばれる后たちの館がある。「宮廷の諍い女」などの中国宮廷ドラマを見ている人であれば、きっと楽しめる要素がふんだんにあるのだと思うが、増田一行はドラマを見ていないのと足の疲れがピークに達してきたので、東西六宮は完全に無視して中央部のみを見学しながら出口に向かった。皇后の寝殿である坤寧宮を越えると今までは見ることのなかった木々が多数生えているエリアに入り、最後に延和門をくぐって出口を出る。中国人はどこでもタバコを吸うが、故宮の内部は禁煙なので出口の広場でタバコを吸い出す人が多く、もくもくしている。
故宮の北側には景山公園という築山があり、ここに登れば故宮を見渡すことができるようだが、思ったよりも高く、疲れた足に鞭打って登る気にはならず、またこの後にホテルの移動があるので、そのままDiDiに乗ってホテルへ戻ることにした。ただし、故宮出口付近はタクシー乗降の禁止エリアになっていてDiDiの配車も出来ないので、禁止エリアを出るために500mぐらい歩くことになった。故宮出口の北側の道路は、北京の他の観光地に向かうシャトルバスの乗り場があり、中国人はバスに乗って移動しているようだったが、仕組みが分からないので手を出していない。DiDiでホテルに戻り今日の観光は完了。今日もたくさん歩いた。義母の歩数計によると15,000歩だったそう。
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