はてなキーワード: 深夜アニメとは
社会人になって5年が経った。結婚ももうすぐだ。人生としては順調としか言いようがない。
ふと、テレビの番組表を見ていたら深夜アニメらしきタイトルが目に入った。よく見ると結構ある。
マガジンの漫画、分かる。人気ゲームのアニメ化、分かる。だが、ほとんどは知らないタイトルだった。
1つを調べてみたら、原作はライトノベルらしかった。漫画版もある。なのに記憶にない。もちろんあらすじも知らない。
小学生の頃からずっと、漫画アニメゲーム小説と、サブカルチャーに囲まれて生きてきた。
ちゃんと視聴していなくても、タイトルを見れば内容や登場声優くらいは分かるのが最低限の教養だと思っていた。
それが、たった5年社会人をしていただけで、知らないタイトルばかりになるなんて。
ネットでよく見る「キモオタがコンテンツを追わなくなったらただのキモ」という言葉がよぎる。
この歌詞、私のことだ。ずっとひとごとだったのに。
ま、それが普通ですわな
...冗談じゃない。あの頃嫌悪していた、スポーツとテレビの話しかしないおじさんと何も変わらない。
仕事終わり、食事中、週末、空いた時間は今までコンテンツに触れる時間だった。
当事者になって分かったが、創作物は生活に直結しないせいで引力がない。
他にやらなければいけないことがいくらでもあるし、それらをちゃんとしているとサブカルチャーに触れている時間は残らない。
将来戸建てが欲しい、だから貯蓄を投資に回そう。決算調べなきゃ。
こういう便利グッズをインスタで見た。おおいいじゃん。週末買いに行こう。
あの料理美味しそう。お店近いじゃん、食べに行こうよ。
こういう思考や会話ばかりが空いた時間を埋めていく。もちろん幸せな暮らしそのものだ。幸せなのだが、なんというか、オタクから遠すぎる。
本名を知らないネットの知り合いたちや、動画サイト配信サイトで人生の切り売りをしている人たちを見ると、ちゃんと結婚して子供もいる人がそれでも継続して、同類向けにコンテンツを創作し続けてているのをいくらでも目にする。今や芸能人だって漫画やアニメを紹介する時代で、テレビで作品について語ったりしている。
つまり、頑張れば社会人をしながらオタクができるはずなのだ。理論上は。
そもそも、時間のかかる趣味なんて世の中にごまんとあって、オタクコンテンツに限った話じゃない。どう考えてもお前のキャパの問題だ。
それがふと悲しくなった。
貧乏暇なしというからには、趣味や余暇を堪能するにはもっと稼ぐしかないのだろうか。
みんなすげえなあ。
https://x.com/izutorishima/status/2042196236158316940
高年齢層が絶賛するのがよくわかった一方で、現代アニメ表現の到達点である『超かぐや姫!』『花緑青が明ける日に』を観た後だと薄味に感じてしまい、私含め若者向けの作りではないな…と感じた(散々擦られてた棒術マンは本当にトンチキで良かった)
・Twitter のアニメ映画6000人族の皆さんが評価されてほしい…!と絶賛していて期待値が上がりすぎてたのを超えられなかった感はある(あと鑑賞順が逆なら印象違ってたかも)
・単に私がノリきれなかっただけではあるのだが、ドパガキ配信時代に完全適合したエンタメ特盛映画である『超かぐや姫!』を観た後だと、『映画館という一度着席したら逃げられない場所での鑑賞を前提に、序盤45分くらい淡々と三人称視点で日常パートが続き、その間劇的な展開も掴みとなるエンタメシーンもない』『FIXでロングショットを見せる長回しカットがかなり多い』『良くも悪くも視聴者の集中力を信用した作りで、見せ場のバレエシーンや薙刀シーン以外の画面的な緩急が薄い』『撮影処理がほぼ載っていない』などあらゆる方向性が真逆で、エンタメ映画を期待していくとかなりズレそう
・その割には尺がギリギリだからか、数度ある劇的な転換点となるシーンでもっと余韻や情感がほしい!と思っていたらバッサリ余韻なく次のシーンに行ったり劇的な展開(列車を降りる所とか)の感情ラインのケアが少々雑な印象があったり、終始ほぼギャグなしの真面目ラインにしては没入感が削がれる感覚が割とあった
・『絵柄がジブリっぽい』とずっと言われていたが、内容的には(エンタメ映画である)ジブリ映画とは全然違う、恐らく世界名作劇場系なので、そこのミスマッチは結構ありそう
・初老以降の世代が孫世代の奮闘をほほえましく観て日々の活力をもらえそう、楽しめそうなイメージはめちゃくちゃ想像付く
・演出文法も、凝ったレイアウトやキレのある演出というよりはセルアニメ時代のオーソドックスなのを志向してそうで、深夜アニメのオタクとしてはもっと画面から来る迫気というか、パワーがほしかった キャラの顔が正面向いてるアングルがかなり多く、横顔や背中を見せたりするシーンがあまりないのが印象的
・作画は終始良好なものの、2コマ打ち作画はむしろ3コマのリミテッドアニメーションのケレン味による視覚的な楽しさを打ち消す方向に作用していて、一般向けにはよいのかもだが、サブカルオタクとしては物足りなさがあった
・TL に流れてきた「子供に見せたいアニメであって子供が見たいアニメではない」という感想がこの作品のテイストを端的に表しているきがする
・基本善人しか出てこないし深刻な不和も出てこないので安心して楽しめはするが、この後の戦争や激動の時代を生きると思うと、またパリで一区切りつけて帰国というエンドも、(非現実的すぎない程度の良さもありつつ)素直にハッピーエンドと思えないほろ苦さはあった
・これも私の好みの問題なんだけど、エンタメファンタジーなナーロッパでも、現代を生きる私たちに直接刺激をくれる現代でもなく、史実上の110年前の過去が舞台(=物語で描かれないだけで、現代視点では彼女らの人生は確定している)というのが、『この後明らかに苦労して、戦争で夢も一度諦めて、もしかしたら戦争で死んでしまったかもしれないのに、同じ時間で戦争が起きている現代を生きる私たちが彼女らをみてどう活力にすればいいんだろう』みたいな事を感じてしまった
『辛い戦争を越えても生き延びて好きなことやって再会しました!めでたしめでたし』とかがエピローグであれば何かしら励ましを受け止められれた気がするけれど、実際には『歴史上確定している大惨事』の直前で物語が終わっているのが、どうにも過去に閉じてしまっている感覚があって……やはり最近フィクションに救いを求めたい欲が強すぎるのかもしれない
・『花緑青が明ける日に』の方が人を選びそうではあるけど、個人的にはビジュアルが超良かったのと『現実が舞台で、現実に抗えなくても一つ花を咲かせて、自分の納得を見つけてやっていく』というホンのラインが結構よかったのでこっちの方が正直好きではあるし、これもまた対照的な映画だなと思った
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・『花緑青が明ける日に』 ほとんど上映終わっちゃってるんだよな
・20代の若い女性社員にやたらと絡みに行く。指先を紙で切っちゃったんだけど大丈夫かな?とか聞きに行く。女側が適当に済ませようとすると「ねえ見てよ」とケガをした指を見せてコメントを求めてずっと話しかけている
・昔の深夜アニメの話題を躊躇なく行う。俺はアニメのツインテールの娘が好きで〜と誰も聞いてないのにずっと話してる
・若い女声優の話話題を躊躇なく行う。〇〇役でブレイクして〜と誰得な情報を話し続ける
・女性社員が外出するとき、俺も外出するわ〜といって一緒に行こうとする
・女性社員の靴を履こうとする(一応間違って履いてしまったと言っているが……)
・若い女性社員に「料理上手そう」「男を立てる性格だよね」と発言する
・女性社員に「君の靴間違って履いちゃったあ」とわざわざ言いに行く
・女性社員の1人が転勤することになり「さみしくなるわあ」と何度も言う。同時に転勤する男性職員や年配の女性職員には何も言わない
この問題児のおっさんは精神障害者で、被害者はそこで働いてる女性の職員。女性たちは医療系や介護系の人たちあり(看護師やら理学療法士やら)、障害者だからと理解があり、セクハラじみたキモい行動は笑ってスルーしてるという状況
このおっさんは知能に問題はないが、このように社会性に欠けたパーソナリティためここに来ているわけだ
知能に問題がないだけに(むしろ有名大卒で知能レベルだけで言えば高い方だ)、キモい行動が許されるからわざとやってんじゃねえか?という疑いが残る
特に靴を間違えるのは絶対わざとだろうと思ってる。明らかに女物のピンクのスニーカーとかも君の靴間違て履いちゃった☆ごめんね☆だからな
当たり前だがこのおっさんには職員側も手を焼いている状況で、男性職員がブロックする、男性職員とペアを組んで応対するなどやっているが、どうしても福祉業界は女性が多く男性が少ないため、回りきらない。このおっさんのせいで辞めたり、転勤を希望する若い女性職員が定期的に発生する
バンダイが「ランダムグッズの魅力は?→ワクワク感が45%!」ってアンケート結果を出して盛大に燃えてる。リプ欄封鎖、引用RTは「誰が望んでんだよ」の嵐。ほんとその通りだと思う。
私も先月、推しのアクスタをランダムで買って7回外して、帰りの電車で「なんで私こんなことしてるんだろ」って思ってた側の人間。ランダムなんてなくなればいいのにって、心の底から思ってた。
だから試しに「ランダムが禁止された世界」を想像してみた。全部指名買いできる世界。最高じゃん。
…って思ったんだけど、調べれば調べるほど、全然幸せじゃなかった。
■ まず、値段が上がる
ランダムがなくなったら、企業は売上がざっくり半分になる。なぜかっていうと、ランダムだと推しが出るまで6〜7回買う人が、指名買いなら1個で終わるから。600円で済む買い物を2,800円にできる仕組みがなくなる。
売上が半減した企業がどうするかって、値段を上げるに決まってる。
ランダム400円だったものが、指名買い800円になる。「選べるけど高い」世界。推しを1個買うだけなのに、今より高い。
今って、ニッチな深夜アニメでもアクスタやトレ缶が出るじゃないですか。あれ、ランダム均等封入だから成り立ってる。
ランダムなら全キャラ同じ数を作って箱に詰めるだけ。「このキャラは500個、あのキャラは50個」みたいな需要予測がいらない。在庫リスクがゼロだから、小さい作品でもグッズ展開できる。
指名買いになったら、キャラごとに「何個売れるか」を予測しないといけない。予測を外したら在庫の山。そのリスクを負えるのは鬼滅とかワンピースとか、確実に売れるタイトルだけ。
利益が見込めない作品は、企画ごと消える。推しの作品のグッズが、この世に存在しなくなるかもしれない。
ランダムがなくなって生産数が減ると、人気キャラは店頭で瞬殺される。今でも即完売はあるけど、ランダム時代は大量に生産されてたから市場の流通量自体は多かった。
指名買いの世界では、人気キャラに注文が殺到して供給が追いつかない。品切れが日常になる。そうなると何が起きるかって、転売ヤーの天国になる。
流通量が少ないほど転売は儲かる。定価800円のアクスタが品切れた瞬間に3,000円で出品される世界。ランダムを憎んでた私たちが、今度は転売ヤーに上乗せされた金額を払うことになる。
■ ここまで読んで「なんでこうなるの」って思った人へ
ここまで「ランダムがなくなったら起きること」を並べたけど、なんでこんなことになるかっていうと、ランダムの方が企業にとって圧倒的に儲かる仕組みだから。
指名買いなら1人1個で終わる。ランダムなら同じ人間に4倍以上買わせられる。しかも種類を増やすほど「あと少しで揃う」の沼が深くなる。どのメーカーも毎回10種以上で出してくるのはそういうこと。
よくある擁護で「不人気キャラのファンのためにランダムが必要」ってのがあるけど、因果が逆。全員が人気キャラでも、自分の推しがAならBは外れ。人気・不人気関係なく「自分にとっての外れ」は必ずある。不人気キャラは「ファンのため」じゃなくて「種類を水増しして沼を深くするための弾」。
均等封入で在庫リスクをゼロにできるのも企業にとっての旨み。ファンへの愛じゃなくて、在庫管理の都合。
この構造がある限り、どの企業にも「選べる版」を出す経済的インセンティブがない。出した瞬間にランダムの売上を自分で食うから。私たちの「選ばせろ」は正しいけど、応える理由がどこにもない。
■ 法律で変えられないの?
無理だった。
ランダム販売は今の法律では合法。景品表示法の対象は「取引のおまけ」であって、ランダムグッズは「商品そのもの」を買ってる扱い。そもそも法律が想定してない。
しかもカプセルトイだけで1,150億円、トレカ含めると4,000億円超の市場。福袋は江戸時代から、ガチャは1965年から。「昔からある普通の商売」として法的にも守られてる。
一番つらいのが、「ランダムやめろ」って怒ってる私たちの多くが、次の推しグッズが出たら結局買うこと。法律を作る側からすると「被害者」に見えない。
■ 結局のところ
「ランダムやめろ」って言う時、私たちが想像してるのは「今と同じラインナップ・同じ値段で、選べるようになる」世界だと思う。
でも実際に来るのは「選べるけど高くて、種類が少なくて、推しの作品のグッズがそもそも出ない」世界。
ランダムは、推しを人質に取って私たちの財布をこじ開ける商売であると同時に、グッズの種類の多さと安さを支えてるインフラでもある。嫌い。でもこれで回ってる。
バンダイのあのアンケートに怒るのは正しい。肯定前提のクソ調査だし、リプ封鎖も最悪。でもあれはバンダイだけの話じゃなくて、ランダム商法をやってるすべてのメーカーに同じ構造がある。1社に怒りをぶつけても、業界全体の仕組みは変わらない。
本当に変えたいなら買わないこと。でもそれは推しを諦めることとほぼ同じだから、私にはたぶん無理。みんなもそうだと思う。
だからこの構造は続く。私たちは怒りながら明日もガチャを回す。
まあ、そういう話。
庵野秀明が作品や言動を通じて「世の中に広めた(普及・一般化させた)」と言われるものを、影響度が高い順に10個挙げます。
※必ずしも「発明」ではなく「一般層に広めた」という意味です。
1990年代までサブカルだったアニメオタク文化を社会現象レベルにした。
ロボットアニメなのに
を中心に据える作風。
という構造。
例
説明不足のまま終わる
例
新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に
無音
代表例
シン・ウルトラマン
シン・仮面ライダー
シン・仮面ライダー
以降
敵が来る
都市戦
後の作品に影響
SSSS.GRIDMAN
大ヒット映画を作る流れ。
例
その先駆け。
これは
実は庵野の影響は
作品の内容より
に強く出ています。
希望があれば
にゃるらくんへ。
まずは、おめでとう。
これからいよいよ毀誉褒貶があると思う。でも君は、10年前20年前の俺たちが電子の海の片隅でくすぶっていたころ、確かに夢見ていたイデアに辿り着いた、おそらく唯一の人間だ。
辿り着いたその場所が、君にとってよい場所なのかはわからない。君からしたら、辿り着いた自覚もあんまりないかもしれない(だからこの文章を書いている)。
でも――そこが、それが「在る」のだと、証明してくれたことを、俺はうれしく思う。
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まあ、率直に言って、クソアニメだった。NEEDY GIRL OVERDOSE。
オマージュ元が分かるかな?僕はこんなに教養人なんだぞ!って言いたげな引用のオンパレード。
しょうじき、おもしろくはなかった。
流行りもしないと思う。高二病くらいの人にはぶっ刺さるかもね。
でも、なんというか。
「これがにゃるらくんの100%なんだね。全部搾り切ったんだね」
そんなことは感じ取れた。
ふつう、創作するときって、取り込んで自分の中にあるもののうち10%くらいしか出さないんですよ。おいしいトロだけ盛るんです。だからおもしろくなるんです。
100%出し切ること自体はすごいけど。そういう意味では尊敬するけど。
でもそれって、食べられる味にならないんですよ……
アイドル。Vtuber。身だしなみに気を使わないオタク。いじめ。
『超かぐや姫!』がインターネットのいいところだけをネトフリマネーで濾し取ったアニメだったのと対照的に、『NEEDY GIRL OVERDOSE』には、インターネットの悪いところだけが詰まっていたと思う。
でも。だからこそ。
このアニメは、「インターネットオタクの夢」なのだと、そう思った。
「クール」ということばが3か月を意味するオタク同士のシグナルで、かわいい女の子がたくさん出てくる「深夜アニメ」はもっと日陰の存在で、うずらインフォの一覧を見ながらこれは面白かったあれは一話切りだいや三話までは見ろよと言っていたあの頃。
創作というものを少しでも志した全てのオタクにとって、やっぱり、「アニメ化」というのはひとつのゴールであったと思う。
そして。
残念ながら、大多数のオタクは、特別な創作の天稟を持っているわけではない。
イラストを描いてpixivに載せたり、漫画を描いてTwitterに投稿したり、小説を書いてなろうに置いてみたり。それくらいなら、まあ、なんとかなる。
でも、そこまで。
タイムラインのみんながアツく没頭する、週に一度の祭りが毎日やってくる「アニメ」には手が届かない。
だから、夢。
オタクの夢。
「そしたらサインくれよ笑」
何度、そんな話をしたことか。
極論、承認欲求の話だ。
なんでもいいのだ。なんでも。
ナーロッパファンタジーでもいい。ギャグ4コマでもいい。作れるなら歴史ものでもSFでもなんでもいい。
なんでもいいから、自分の作った――いや、最悪「かかわった」でもいい――作品が、アニメ化してほしい。
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さて、話を戻すと。
にゃるらくんは明らかに、そのような「インターネットオタク」の一員である。
そもそもハンドルネームからしてニャルラトホテプでニャル子さんだ。
若かりし頃はTwitterに入り浸り、今もnoteに大量の文章を垂れ流し。
出世作『承認欲求女子図鑑』は彼がTwitterで拾ってきた女の子たちのインタビュー集だし。
アニメを見た人なら、あれが半分彼の自伝であることは容易にわかるだろう。
「配信者」というインターネットで一番アテンションを集める職業について、彼の目線で切り取った断片だ。
あ、詩はめっちゃいいと思うよ。作詞。俺は『INTERNET YAMERO』が好きです。海見るの好き。
ともあれ。
そんなフィクションの才能のない奴がつくった作品が、アニメになったのだ。
インターネットという肥溜めにどっぷり浸かり、沈み、立ち続け、そして「にゃるらになってしまった」彼が、長年浸かり続けた「インターネット」そのものののような作品を世に出す。
誰よりも長く立ち続け、誰よりも長くオタクで在り、誰よりも強くインターネットと化した自分を精製した。
何もできないヒキニートの俺たちが。
にゃるらくん。
アニメ化、本当におめでとう。
圧倒的神ゲー。もしこのゲームに出会わなければ俺はサッカーとか勉強とか読書に打ち込む健康な少年になれたのかも知れない。
「マリオ64が凄すぎただけでゲームって実は・・・マリカーも勝てねーしなんか飽きてきたわ・・・」と思い直すことが出来そうだった所にやってきた神ゲー。俺の人生が復活する機会が失われる。
ソウルシリーズの先祖とも言える奇ゲー。ネットで神ゲーと聞いていた所をブックオフで投げ売りされていたので購入。「マニアックなモノを知ってる俺は凄い」という進んではないけない道へ目覚める。
「マニアックな知識を知っている俺は偉い」の最も定番なガンダムオタクへと本格的に進むきっかけ。人生がいよいよ壊れ始める。
インターネットでマニアックな知識を披露するオタク達の間に話題になっていたのを見てアニメを見始める。深夜アニメを見るオタクへの入口。ゲームを遊んだことはない。
シスプリでワイワイしているネットのオタクが褒めていた泣きゲー。エロゲをやるキモいオタクがカッコイイという謎の価値観に俺も染まり始める。これ自体はプレイしたことはない(アニメは見た)。
エロゲーを買う勇気がないが割るのも嫌だったので公式で無料ダウンロードできる神エロゲーとして遊ぶ。オタクイズビューティフルの価値観を持つ化け物として完成する。
東方やひぐらしのブームにあてられ自分もゲームを作る側になろうと動き出す。だが、ソースコードをキメラしただけのカスゲーが誕生。あまりのクソさに俺は全てを諦める。このあとからゲーム業界人への感情が憧れから嫉妬となる。
そうして10年ほどの間、嫉妬と冷笑の化け物として生きた俺はいつものように新作ビッグIPを皆で冷笑するスレに参加。5配信ほど荒らした辺りで「俺、最低だったんじゃないか?」と気づいてしまう。暗い情熱を浄化したあと、ポッカリと空いた空虚さが今でも埋まっていない。
アマプラと違ってdアニメは解約すると視聴履歴や設定なども消えるので、これ見たよって記録を残しておきたいと思った。
これを見るためにdアニメに入った。アマプラとネトフリにはなかったからね。
殺人事件の推理みたいなのは一部あるが殺人事件が起きるわけではない、日常系ミステリー。
知らんがなといった些末なことを推理することもあるし、自作自演で謎を作ったりもする。
「氷菓」部分は最初の5話だけ。1話完結のものと、「氷菓」のように数回にまたがる話が混在する。
絵に後の「響け!ユーフォニアム」や「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」っぽさがある。同じ制作会社だとキャラクターデザインや作画監督が違っても似てくるものだろうか?
ミステリー、登場人物が皆賢いかミステリーに詳しい。本心を隠すように芝居がかった喋り方をしがち。ミステリー読まんから知らんけど。
ラノベ、やれやれ系主人公があれこれ考えを巡らせがち。ラノベも読まんから知らんけど。
中の人的には奉太郎とえるは「ファイアーエムブレムif」のリョウマとカムイだな。えるは独り言まで丁寧語というのもカムイと共通している。
前期のEDに草。なんでヒロイン2人が宇宙のような空間に浮いている謎のオブジェの上で、寝間着姿?でまどろんでいるのか。
見ることができてよかった。原作がまだ完結していないらしいけどアニメの続編は作られないんだろうか?
アニメ制作がテーマの作品だからアニメ化に非常に向いていると思う。
アニメを作るというと絵を描く方向に行くものだが、高校生の身で金森氏のようなプロデューサー的な役割を徹底できる人間は稀有だよなあ。
変なOP。売れ線とは違う画風。テーマがアニメ制作という真面目さ(なお主人公達は学校を騙してアニメ制作を行い収益も得る)。これはNHKアニメっぽい。知らんけど。
これも大ヒットしたので一度は見ないといけないのかなあと思っていた作品。
正直この作品のすごさがわからなかった。私の感性が悪いんだと思う。
フレンズが人型でありながら動物準拠のことしかできない設定を忠実に守っている、とか?
少人数で作ったからとか?
ラストバトルでフレンズが集合するのもグレンラガンみたいにありきたりだなあと何か冷めてしまった。
美少女キャラ(少女ではない)がリアルな画風の仕事アニメに転生した件。な感じ。
時々美少女アニメの文法が顔を出す。エンゼル体操や「どんどんドーナツ」の掛け声など。美少女アニメはほとんど見ないから知らんけど。
アニメを見て物事を完全に理解するのは危険だが、これ以降に見るアニメのスタッフロールの解像度は上がった。
作画監督の人あんな感じの仕事をしているのかな〜などと思いを馳せるようになった。
メインキャラ5人の一部より木下監督や本田の方が出番が多く表面積がありキャラと印象が強い。
矢野、髪の色と声と頼れる先輩部分が「響け!ユーフォニアム」の吉川優子だった。
期待よりずっと面白かった。当時はてなでも話題になっていただけのことはある。
こういうネームドキャラが大勢登場する作品を好きになることが多い。
劇場版だけアマプラにあったので、SHIROBAKO見たさに見たことがあった。
キャラをすでに知っていると楽しさが全然違う。そういう意味でTVアニメ版を見ているのが前提ではあったように思う。
昔見た内容は部分的に覚えていた。
「変な話〜の人の会社に2人で殴り込みに行くとき、もう1人は誰だっけ?興津さん?」みたいな。
(殴り込み先は「変な話」茶沢ではなく、今作では茶沢は「変な話ナイスショッ」のセリフ1つだけ)
最初に車のシーンから始まるのも覚えていたけど、乗っているのが宮森だと思ったら記憶違いだった。記憶ってあてにならんね。
金髪ツインテやゴスロリの社会人がいる世界なんだ、と思ったのは覚えている。
新キャラの宮井、あまり活躍していない気がする。外部のプロデューサーで制作側ではないしほとんどのシーンで表面積の大きい上司と一緒についてきているからか?
急に歌うミュージカルは嫌いではないよ。今まで携わったアニメのキャラ達やアンデスチャッキーがエンゼル体操などをしながら背中を押してくれるってシーンだからね。
野亀先生、作品をエロアニメにされがち。そうさせる何かが野亀作品にあるのだろうか? そのエロアニメの監督が、TVアニメ版で演出として雑な仕事をして指摘されると逆ギレして勝手に降板したスタジオタイタニックの薬師寺笊良(ざるよし…?)じゃないか。出世したなあ。
最後の「真・第三飛行少女隊」の文字の意味もTVアニメを見ていないとわからないことであった。
月は頭はいいのに変にプライドが高く自己顕示欲が強いから破滅したね。
隠れることに余念がない吉良吉影も杜王町から出ていくのは負けを認めるようで嫌だと変にこだわったから身を滅ぼした。
李牧、怪しさしかない外見で交戦中の敵将に数騎でスマートに近づいて暗殺とかできるのかよ。言っといてやできるんやったら。
少数の飛信隊が馮忌を討ち取るときはもう少し人数を要したし馮忌のところにたどり着くまで必死だったぞ。飛信隊もあのとき敵陣の中で長く戦った割には死んでいないけど。
キングダム、最終回っぽくないことが結構ある。あれ、次回は?っていう。
いきものがかりのOPは血みどろの戦争がテーマのキングダムとは相性が悪いと思う。
「疾(はし)れ 疾れ とまらないで 踊れ 踊れ 夢の果てで」と歌っている間敵兵を斬りまくって血飛沫を上げている。
ちょうど「ザ・ロイヤルファミリー」放送中のタイムリーな時期であった。
馬を見にきたのに、人間の下ネタや魅力を感じないヒロインやこの画風のセクハラ描写などを序盤10話近く見せられて「人はええ。馬はどうなんや」という心境だった。
人間キャラの多くがアニオリだというので、よくもやってくれたなと。下ネタがそれほどなく真面目な飯富先生は好感が持てた。
睨み合いや同じカットを何度も繰り返すなど、尺稼ぎが目に付く。総集編もある。悠長だよな。放送枠に余裕がありすぎる昔のアニメだからか?
競馬アニメだから、「SHIROBAKO」で苦労していた馬の走りをずっと描き続けるわけだな。カスケードやツァビデルのような特殊なフォームの走りもある。
マキバオーは競走馬デビューしてからは熱血漢に成長し、血気盛んなライバル達も増えて正当派ジャンプ作品っぽくなってきた。修行回もマキバオーがこれで強くなるのだなあと思うと楽しめた。
有馬記念のゴール前のカスケードの幻影を追いかけるシーンでは、いつもの語尾の「のね」が封印されてマキバオーが精悍さが強調されている。
レースシーンが実際より長すぎるのは仕方がない。現実に準拠すると1600mのレースが1分半で終わってしまう。その1分半〜3分を2、3話かけて語ることになる。
フジテレビの競馬実況アナウンサーも「レース長いな……」と思いながら実況していたのではないかと想像する。
坂も高低差200mはありそうな坂をずっと登り続ける形になっていた。そりゃあ心臓破りでしょ。
今回は1期のLive2Dで作った歌い手のMVのようなOPではなかった。
世界ジュニアオーケストラ編で青野と佐伯のみが勝ち進んで他のキャラは脱落するものかと思いきや、案外小桜も山田も、顔も名前も知らない海幕オケ部の他のパートメンバーも生き残っている。海幕が全国一のオケ部とはいえ普通の高校の部活だから、音楽系の学校の生徒達が集まる場だと厳しいだろうと思っていた。
敦美先輩、OPで見たときの印象と違って腰が低かった。世界ジュニアオーケストラのメンバーからも外されるし。「君も来いよ。こちら側へ」と上から言う感じのキャラに見えた。髪型がおかっぱの男子なんてどう見ても只者じゃない。
土曜の夕方はいつも用事がありリアタイはしないので配信で見る。
開始はラストバトルの途中から。前回が俺達の戦いはこれからだって感じで終わったから。
OPの「THE REVO」は1期OP「THE DAY」と同じく「THE DAY HAS COME」の歌詞で終わる。
アニメのEDってあまり動きのないイメージ映像であることが多いけど、今回は1期からこれまでの出来事の描き下ろし高速ダイジェストになっていて見応えあり。サビに入るところが「未成年の主張」と重なっていていつも涙腺にくる。ついに完結するんだなあって感じ。
憧れのオールマイトから壊れたサポートアイテムをもらったときの爆豪の笑顔、いいよねえ。こんな笑顔はこれまで劇中では見せなかったと思う。あるとすれば子供の頃ぐらいか。
原作の431話はなかった。円盤の特典にでもなるのかなと思っていたのだが、これアニメが放送されるみたいだな。「2026年5月2日(土)夕方5:30読売テレビ・日本テレビ系全国29局ネット」で放送だって。
ネトフリからdアニメに移行する直前に、dアニメにない「ハイスコアガール」と「ピンポン」のどちらかだけを見ることにして「ハイスコアガール」を選んだのだが、結局どちらも後日dアニメで再配信されていた。
画風が癖強だった。実写映画はだいぶアクを抜いてスタイリッシュになっていたんだな。
実写映画ではやらなかったペコVSスマイルの決勝のシーンがある。
ペコの卓球が曲芸みたいに自由すぎて気持ちがいいけど、実際これぐらい動ければ世界で戦えるものなんだろうか?
見るものがなくなったらこれを見ようかと思っていた。170話はヒロアカ全部と大体同じくらいの分量。
持たざる者が特殊な力を得て、持てる者達の世界で活躍するという話はヒロアカと共通する。また、使える魔法の属性は1人につき基本的に1つだけという、能力者ものである点もヒロアカと似ているので、ヒロアカを楽しめた人はこの作品もおすすめです、かどうかは知らん。
世界観はファンタジーでありながらヤンキーや合コンという概念があるなど結構ライト。きっとハンバーグもあるんじゃないかと思う。
魔力量がヒエラルキーに直結、悪魔や精霊の力を自身に宿して強化、人命などの代償を払うと使える禁断の魔法、非人道的な方法で作られる隣の侵略国家の強化人間、北の寒冷地の悪の国家など、ファンタジー作品にありきたりな設定が多い。
主人公アスタはジャンプによくいる努力と根性マン。修行の後のイメチェンでは筋肉量が増す。
天才・イケメン・クールのライバルのユノが遥かに先を行く存在かと思えばアスタも負けておらず、意外とライバルしてくれているし共闘もする。
どちらも本気モードで翼が現れ剣で戦うようになるから見た目でも対になる。
ヤミ団長、黒髪で無精髭を生やして目つきが悪いのがヒロアカのイレ先と似ているなと思ったら声まで一緒だった。
ノエル、登場シーンの多くでツンデレをやり続ける。王族であることをアピールし続ける。「ベ、別に」と「私は王族よ」でできている。日本3大銀髪ツインテの3人目候補。
原作に戻らなければならないのでアニオリでは大きく話を動かせず日常系か当たり障りのない結果になりがち。
総集編も多い。2話連続で総集編をやるところはさすがに飛ばしてしまったよ。
アバンタイトルの30〜40秒が毎回お決まりのやつで、そこからさらに前回の回想が入るので、これも毎回スキップしていた。
重要なバトル回、1期OPの「ハルカミライ」を挿入歌に使いがち。
天元様のプレゼン助かる。原作をまだ読み返していないので雰囲気で読み進めていた部分はある。
アニメっぽくない表現手法がXで叩かれていて意外だなあと思った。「映画やりたければアニメ呪術廻戦ではなく映画でやれ」など。
通しで見るのも悪くなかったかもしれない。
親戚の世話のために人生を捧げることは十分あり得るのに、そこに恋愛感情を差し挟むことは必要だろうか?
少女漫画だから恋愛しなければならないのか。少年漫画のバトルのように、恋愛するのに理由はいらないのか。
「Time Flows Ever Onward」のアレンジが増えている。
作品の雰囲気は静かなのに時間は早く流れるから、勇者ヒンメルの死から29年が30年になってしまった。
やはり「Dragon Smasher」はアガる。
Xのインプレゾンビが人を騙すために言葉を操るフリーレンの魔族に例えられていたことがあったが、空虚さはそのままにAIで日本人の会話っぽさに磨きをかけたインプレゾンビが最近クソウザかったからか、今回は逆に魔族がインプレゾンビのように見えた。
少年少女が出会い、バンドを組んで、ちょっと悩んでいたり家族に隠し事があったりしたけど家族に話してみたら普通に受け入れられて、オリジナル曲でライブをやって盛り上がった。以上。
これで言い表せそうなほど平坦に感じた。
監督山田尚子だから奥深い何かが隠されているのか? 私にはそれは読み取れなかった。バトル作品ばかり見ているから多くを明示しない作品や少女漫画の繊細な表現が読み取れなくなるんだ。
音楽は毎度おなじみ牛尾憲輔。「ピンポン」、「聲の形」、「リズと青い鳥」、「サイダーのように言葉が湧き上がる」でも聞けるあの感じの音楽。
75話は「DEATH NOTE」や「みどりのマキバオー」より長い。1期だけ見て時間切れ。
内容はジャンプ連載アニメ化RTAだが、努力、友情、勝利の三本柱はやはりジャンプ作品。
「きみの色」も「バクマン。」も吉田玲子。「SHIROBAKO」にも関わっていたらしい。他に「猫の恩返し」、「聲の形」、「リズと青い鳥」、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」、「ブルーピリオド」、「平家物語」など、気づけば吉田玲子作品ばかり見ていることになる。
dアニメは、TVアニメなら昭和時代のものまでだいたいある感じだがアニメ映画はあまり強くない。アニメ映画はアマプラやネトフリの方がまだ見られる可能性がある。
dアニメに独占配信ってあるのかな?と思ったらちょうど「SHIROBAKO」の劇中劇がdアニメ独占配信らしい。劇中劇にはあまり興味はなかった。
Xで「しずかちゃんのお風呂シーンは批判するのに、ジャイアンの暴力シーンを批判しないのはダブスタだ!」「人権侵害という建前で気に入らないものを叩きたいだけだ!」みたいな呟きを見つけて、一見正論のように見えるけど何だかモヤモヤしてしまったのでこの2つのどこに違いを感じるのか言語化しようと思う。
ジャイアンの暴力シーンはちゃんと悪いこととして作中で描かれているし、いじめっ子キャラとして描写されている。逆にのび太がスネ夫やジャイアンに道具で仕返しする場合も、最終的にのび太が痛い目に遭っていて悪いことだと暗に示している。一方しずかちゃんのお風呂シーンはというと、しずかちゃんの嫌がる姿が面白いよね〜とか性に目覚めた少年へのサービスシーンとか、そういう意図しか感じられないのだ。しずかちゃんのお風呂を覗いて痛い目を見るシーンも多分あったとは思う(水ビデオの回とか)。ただそれは悪いこととして表現しているというよりかは「しずかちゃんの恥ずかしがって怒っている姿が面白いよね」「スケベなのび太は面白いよね」みたいなギャグの文脈として描かれているように思えるのだ。本当に悪いこととして表現するのであれば、しずかちゃんはのび太を心から軽蔑してトラウマを抱えるはずだ。実際、小学5年生という思春期に入りつつある年齢に、同級生の男子からお風呂を覗かれるって、相当傷つくし屈辱的な思いをすると思う。それを「嫌よ嫌よも好きのうち」みたいに次にのび太にあったときには何もなかったかのようの優しくフレンドリーに接していて、違和感しかない。のび太はちゃんとジャイアンのことを怖がってるのにね。
確か新大魔境のオープニングでも、どこでもドアでしずかちゃんのお風呂に突撃するシーンがあったと思うけど、それってまさにギャグの文脈だよね(この映画は終盤にもしずかちゃんが露天風呂に入ろうとしたら手伝い人が沢山いて〜みたいなギャグをやっていた)。ひみつ道具博物館でも掃除機で服がビリビリに破れて全裸になるシーンがあったけど、音楽や演出が明らかにギャグそのもので、気持ち悪いなぁって思ってしまった。深夜アニメならわかるけど子供向けアニメでそれをやるか…っていう。
色々言ってしまったが、最近のドラえもんでしずかちゃんのお風呂シーンがなくなってきているらしく、それは良かったなって思うし、声を上げる意味はあるんだと実感した。
90年代の「サブカル優勢」から「オタク文化の圧勝」への転換は、ざっくり言うと以下の力学が重なった結果だと思う。
作品より“キャラクター”の継続消費(推し活)が拡散・可視化しやすい。MAD/二次創作→SNS→公式展開の循環が強かった。
[2] 反復消費モデルの強さ(シリーズ化・ソシャゲ・グッズ)
ガチャ・ライブ・2.5次元舞台・イベント・コラボカフェ…同一IPで何度も課金/参加できる仕組みが整備。収益の再投資でIPがさらに巨大化。
ファン字幕→公式配信→世界同時上映へ。国内ニッチが海外需要で“メジャー並み”の規模に。
強いエンゲージメントを生むジャンルがレコメンドに乗る。コアファンの熱量がそのまま可視化・拡散力になる。
90年代サブカルは雑誌・セレクトショップ的な編集=ゲートキーパー依存。雑誌衰退とともに拠点を失い、オタクはコミケ/同人即売会/SNS/配信で自前の分配網を持った。
同人・二次創作・コスプレ・ファンイベントなど、作り手と受け手が往復する設計。参加コストが下がり、定着率が上がった。
深夜アニメの一般化、秋葉・池袋の観光資源化、「クールジャパン」文脈等で社会的許容が拡大。羞恥コストが低下。
原作(漫画/ラノベ)→アニメ→ゲーム→舞台→実写→海外、の水平展開が定式化。投資判断がしやすく、外部資本が入りやすい。
[9] 景気・労働環境の変化と“内向き娯楽”
長時間/低予算でも深く楽しめる継続型エンタメが求められ、可処分時間の細切れ化にも合致(スマホゲーム・配信視聴)。
90年代的サブカル(音楽・アート・ストリート・批評)は“場”を媒介にした横断が強みだったが、場(雑誌/クラブ/独立系書店)の弱体化でネット上に散り、まとまった産業スケールを作りにくかった。
要するに、オタク文化は「キャラ×反復課金×参加コミュニティ×国際同時流通」を握り、プラットフォーム時代のKPI(熱量・継続・可視化)に合致した。一方で90年代サブカルは“編集=場”依存で、デジタル転換後の収益装置を持ちにくかった——この非対称性が“圧勝”の正体だと思う。
深夜アニメなんて作画が万策尽きかけてるような作品ばっかりだし、原作の弾がないとか言ってリメイク乱発したり素人のネット小説をアニメ化しまくったりしてるけど、
あんなことするなら無理に放送せずに本数減らせばいいのにって思う
3時~朝方まで放送休止時間を設けてるけどそれをいっそ0時からにするとかさ
あとアイドルやアニメキャラの「推し活」でやたらアクスタが作られてるのとかもどうせゴミになるんだから酸素とか燃料とか色々ムダだよね
何ならインターネットだって物凄い電力を使って地球に負担をかけてるんでしょ、特に高画質のAI動画が誰でもポンポン作れるようになってからさらに電力消費増えてるって言うし
地球さんのことを考えて天然資源の保全を考えるならこの世から娯楽をすべてなくして失職したり絶望したりして自殺する人類をどんどん増やした方がいいよね
ワンパンマンってONE原作も村田漫画もそれなりに人気なわけで
話の内容もまぁまぁ面白い(ガロウ編はダルかったが)はずなのに
アニメに全然金かかって無くてやっすい3流アニメになってるの、なんでなんだろうな
1期はすげー良かったんだけど調べて見たらかなりのアニメクリエイターが参加してたみたいで
2期になって完全に失速、3期はまだ2話しかやってないのに作画が終わってて見てられない
線が粗いとか絵が汚いとかそういうのじゃなくて、カット割りだとか動きだとかが20年前の深夜アニメなんだよね
あの頃、僕たちは本気で信じていた。どこかに「運命の少女」がいて、彼女が現れさえすれば、この満たされない日常が一変するのだと。
ゼロ年代のアニメとギャルゲーは、そんな僕たちの願望を、あまりにも誠実に——いや、残酷なまでに純粋に——描き続けていた。モニターの向こうで微笑む彼女たちは、決して僕を否定しなかった。選択肢を間違えなければ、好感度を上げ続ければ、必ずハッピーエンドにたどり着ける。そういう約束された世界があった。
『Air』の夏の空は、今でも瞼の裏に焼きついている。『D.C. 〜ダ・カーポ〜』で流れた「第2ボタンの誓い」を聴くたび、胸の奥が締めつけられる。『涼宮ハルヒの憂鬱』のエンドレスエイトを、僕たちは本当に何週も見続けた。あれは苦行ではなかった。繰り返される日常の中に、何か大切なものが隠されているはずだと信じていたからだ。
当時の僕たちにとって、アニメやギャルゲーのヒロインたちは、単なるキャラクターではなかった。彼女たちは「可能性」そのものだった。現実では誰にも理解されない僕の内面を、彼女たちなら分かってくれるかもしれない。傷ついた僕を、優しく包み込んでくれるかもしれない。そんな淡い期待が、次週の放送時間まで僕を生かし続けていた。
幼馴染系ヒロイン、天然系ヒロイン、ツンデレヒロイン、病弱系ヒロイン——彼女たちはそれぞれ、僕たちの心の隙間に完璧にフィットする形をしていた。まるでジグソーパズルの最後のピースのように。学校では「オタク」と揶揄されても構わなかった。なぜなら僕には、誰も知らない特別な居場所があったから。
でも、いつからだろう。
魔法が解け始めたのは。
二十代半ばを過ぎた頃だったか。それとも三十代の入り口だったか。ある日ふと、気づいてしまったのだ。画面の向こうの彼女たちは、決してこちら側には来ないということに。どれだけ好感度を上げても、どれだけフラグを立てても、僕の現実は何一つ変わらないということに。
同時に理解した。あの頃の僕は、「救ってくれる女の子」を待っていたのではなかった。ただ、自分で自分を救う勇気がなかっただけなのだ。傷つくことを恐れ、拒絶されることを恐れ、「運命の人」という幻想の後ろに隠れていただけだった。
ゼロ年代のアニメとギャルゲーは、確かに僕たちを慰めてくれた。でもそれは同時に、現実と向き合うことを先延ばしにする麻酔でもあった。あの甘美な逃避の日々は、今思えば、成長を拒んだ蛹の中での長い眠りだったのかもしれない。
けれど、だからといって、あの時間を後悔しているわけではない。
むしろ今、僕はあの頃の自分に感謝している。どれだけ不器用で、どれだけ臆病で、どれだけ現実から目を背けていたとしても、あの頃の僕は必死に「何か」を探していた。生きる意味を、自分の居場所を、心の拠り所を。それがたまたま、二次元の世界だっただけなのだ。
魔法が解けた今、僕の部屋には、もうギャルゲーのパッケージは積まれていない。深夜アニメを録画することもなくなった。でも時々、ふとした瞬間に、あの頃の記憶がフラッシュバックする。夏の暑い夜、扇風機の風を浴びながら、モニターに向かっていた自分。選択肢を前に、真剣に悩んでいた自分。ヒロインの笑顔に、心から救われていた自分。
今の僕には、もう「救ってくれる女の子」は必要ない。自分の足で立ち、自分で選択し、自分で責任を取る。現実の人間関係の中で、不器用なりに生きている。でも、心のどこかに、あの頃の記憶は大切にしまってある。
なぜなら、あの優しい嘘があったからこそ、僕は今日まで生き延びることができたのだから。
ゼロ年代のアニメとギャルゲーが与えてくれたもの——それは、逃避でも幻想でもなく、「明日を生きる理由」だった。たとえそれが偽りの魔法だったとしても、その魔法は確かに、絶望の淵にいた僕を救ってくれた。
本当に大切だったのは、「救ってくれる女の子」ではなかった。それを信じることで、もう一日だけ生きてみようと思えた、あの頃の自分自身の生命力だったのだ。
画面の向こうで微笑んでいた彼女たちは、今も変わらず、そこにいる。ただ僕が変わっただけ。もう救いを求めなくなっただけ。でも、たまに会いに行くことはある。懐かしい友人を訪ねるように。
そして心の中で、静かに呟くのだ。
「ありがとう。あの頃は、本当に助かったよ」と。