はてなキーワード: 細田守とは
これは本当にそう。
脚本家が褒められている作品は結局のところ映像や演技がよく出来ている。
脚本がボロクソにされていても映像だけは褒められることもなくはない(細田守映画とか)。
でも、映像がボロクソで脚本だけが褒められるアニメは存在しない。
脚本家が作品に与えられる影響力は決して大きくなく、結局のところは大幅減点さえしなければ誰が書いても大差はない。
もしも脚本の影響で作品が大きく損なわれているように感じることあったたら、それは全体指揮を取っているP・D・監督が提示した作品の方針そのものが間違っているだけで、そもそもそういう作品は監督が脚本もやってたりガンガン口出しをしている(細田守映画とか)。
結局のところ、脚本家なんてのは作品作りにおける小間使いのようなものでしかない。
一時期シナリオの酷すぎるアニメが乱発された時期に、話は全部脚本家が作っていると勘違いしたオタクが脚本家を叩きまくり、その反動でシナリオがよく出来ていたら脚本家を過大に評価する風潮が生まれたけど、あれは全部オタクの勘違い。
今更「脚本家って実は大した影響力ないよね。作品作りの邪魔になるようなカスじゃなきゃどうでもいいけど、ぶっちゃけ出来が酷かったら監督たちが直すから誰がやってもマジで一緒っぽいね」とは言えないオタク達が10年20年積み重ねた自分たちの誤解を認めようとしてないだけなんだよね。
本当に見苦しいよ。
最近REDが売れたからなのか、細田守が嫌われてるからなのか、「オマツリに尾田先生がブチギレて監修するようになってからワンピ映画が面白くなった!」みたいな主張をよく見る。
15年、半生をワンピースと共に生きてきた俺からするとだけど、、、ワンピ映画なんて全部つまんねーーーーよ!!!!そん中ならオマツリは相当おもしれーぞ!!!!
尾田監修映画の出来が良くてオマツリが原作無視のゴミみたいな論調垂れ流してるやつマジで映画見てるか!?尺のせいで抑圧からの解放のカタルシスもなく敵役の悲しい過去がチラッと出てきて嫌な気分で終わる動く設定資料集みたいな映画が面白いか!?
パーフェクトブルーは閲覧注意の注釈が必要な作品だと思うので知らずに見た増田には同情する。
私も見たときは気分が悪くなって二度と見たくないと思ったし自分なら人に勧める前に大丈夫そうか必ず確認する。
ただ自分にとって不快な表現があったからといってそれが必要ないとか他者に対して攻撃的になるのは賛成しないかな。
あそこまでやり切ったからこその深い衝撃の残る作品だしアニメ文化としてああいうのもあったからこそ
に繋がっているんだと思うよ。
まあしばらく優しいものやきれいなものを見てショックを癒してください。
お大事に。
先日、世界的に有名なアニメ映画がリバイバル上映するということで話題になっていた
Twitterでも絶賛の嵐だったので期待して観に行ってみた
結果、とても落ち込んだ気分で映画館を後にすることになった・・・
アイドルの女性がアイドルを引退して女優への転身を発表するところからストーリーは始まる
序盤はとても楽しめた
平成初期のインターネットも携帯電話も普及してない時代は今となっては新鮮に感じるし、キャラクターはよく動くし街並みも奇麗だし、部屋の小物も描き込まれていて作画は素晴らしかった
長尺でねっとりとレイプシーンは描かれる
泣き叫ぶ女の子、性欲まみれのゲスい顔で取り囲む男たち、とても印象的で気持ちの悪いシーンだった
「元アイドルの女の子が一流の女優になるためにこんな酷いシーンも演じなきゃいけない!メンタル壊れるよ!」という演出だろう
もちろんそれは分かってる、分かるけど、でもレイプ以外の別の方法で演出する方法もあったのではないか?
もしこのシーンを実際のレイプ被害者や芸能界のパワハラ・セクハラ被害者が見たらトラウマがフラッシュバックすると思う
ここまで描く必要があるだろうか?
すぐ映画館を出たかったけれど両隣に人がいたため上映中に席を立つのは失礼だと思い我慢して最後まで見たがレイプシーンの強烈な不快さは拭えなかった
そういえば以前見た王立宇宙軍ネオアミスの翼というアニメ映画でも唐突に主人公がヒロインをレイプ未遂するシーンがあった
古のオタクはよく「昔のアニメオタクは差別されてんだ!!」と言うけれど
こんなアニメを持ち上げていたら気持ち悪く思われるのも当然では?と思ってしまった
アニメを一般人が見ても大丈夫な趣味に広げてくれたスタジオジブリやジャンプ系アニメ、京アニ、MAPPA、新海誠や細田守に感謝したいと改めて思った
ストーリーは高校生の主人公一人で遠く離れた東京の児童虐待に立ち向かわせたりと、
女性キャラクターに対する母性や自己犠牲の押し付けが最近の細田守映画の中でも特に酷いと言われて批判されてたよな
それって細田守の思想だけじゃなく、この人の女性蔑視の反映でもあるのかなと思った
この人、男性として女性と結婚し男性器を用いた性行為をして妊娠させておきながらいけしゃあしゃあと「自分は女だ」などと名乗るとは、あまりにも図々しく厚顔無恥だと思うんだけど。
本気で「心が女」ならば、どの面下げて股間のモノをおっ勃てて奥さんを孕ましたの?恥を知れよ
ていうか、この人、お子さんが『娘』だって、何を根拠に言っているんだろう?
もしかしたら性別違和があって自分は男の子だと感じているかもしれないのに。
でも女性に過剰な願望を投影している親だから、そんな事になったらお子さんを虐待しそうだな
女の子なんだから子供を産みなさい、母親になりなさい、って押し付けそう
『日本テレビ映画プロデューサーの谷生俊美、女性として生きると決めたパパだけどママになり、娘へ伝える思い』
「アニメ映画「竜とそばかすの姫」(2021年公開)などを手掛けた日本テレビの映画プロデューサーで、トランスジェンダーの谷生俊美さん(49)が、著書「パパだけど、ママになりました」(アスコム)を出版し、4年前に女の子の「パパ」となったことを明かしました。女性パートナーとの出会いや結婚、愛娘を囲む家族3人の暮らし、そして、男性に生まれながら「女性」として生きると決めた理由……。自らの半生を振り返り、つづった娘への「手紙」に込めた思いを、谷生さんに聞きました。」
医師に性同一性障害であると診断されていたので、性別適合手術をした上で戸籍を女性に変え、男性と結婚することも考えました。でも、あまりリアリティーをもってとらえることができませんでした。
実際、女性として婚活したら、どうなるんだろう――。そう考えたら、世界の見え方が180度転換するのを感じました。仮に女性だとして、40歳、未婚、国立大学大学院を出て、日本テレビに勤務。給料はこれくらい……、色々な条件を婚活市場にあてはめてみます。
そうすると、女性だと「バリキャリ」で「負け犬」と称されてしまうことに気づきました。同じ「スペック」でも、男性だったら「超優良物件」と言われるのに、です。まして、それがトランスジェンダー女性だとすると、客観的に見てめちゃくちゃ難しいと思わざるを得ませんでした。
「君たちはどう生きるか」感想。
具体的なネタバレはそれほど無いと思うが、作中のかわいい一キャラクターのみ個体言及する。
一言で表すならば、眠りの浅い時に見た夢。
ナウシカ、ラピュタ、トトロ、魔女の宅急便、紅の豚、もののけ姫、ハウル、ポニョ、そして風立ちぬといった宮崎駿歴代作品イメージボードをブンブン振り回されて巡らされた。
呆然とした。
映画が終わった時には、なるほどね、と口から漏れていた。何故広告を打たなかったのか、得心したからだ。むしろ広告が打てなかったと言う方が正しいのではないかと思う。
ストーリーが訳がわからんかったのは別にいいというか、この作品自体が夢みたいなもんだからどうでもいい。
まず引っかかったことの第一、台詞回しが説明的だったのに結構なダメージを受けた。
映像だけで説明できているはずのシーンで重ねて行動の意図を口に出して「今この台詞言う必要あったか?」となったのが、覚えている限り少なくとも二回はあった。
他にも感情の流れの描写がなく、どうにも唐突に結果だけが放られる台詞が多かった。細田守を彷彿とさせる台詞回し。辛かった……
私はキャラクターへの共感については特に必要性を感じない方なのだが、感情の流れだけはしっかり描いてほしいと思っている。その流れがブツブツ途切れていて、最後に繋げたい結論だけを口にさせていて、気持ちが悪かった。
それも意図的なのかもしれないが。
第二にショックだったのは、ワラワラがただ可愛いだけのゆるキャラだったこと。
駿の中にはもうマスコットになりうる「可愛くて、でも不思議な」キャラクターはいないんだなと痛感した。
安直でなんの捻りもない造形には、宮崎駿の原体験や自然の中にある生命の伊吹を感じることができない。そこに「いる」必然性は描かれず、ただ丸く、かわいい、特徴の廃された「マスコットらしいマスコット」でしかない。
子供向けにフックとしてマスコットが要るだろうという「思いやり」もしくはジブリと言えばという商業的要請から出されたキャラクターにしか感じられなかった。
DNA螺旋なことは分かるが、それにしたって安直なデザインには宮崎駿の興味・関心が感じられない。
まあそこは今の宮崎駿にとってはどうでも良かったのだろう。でもシンプルながら風変わりで、動物や幼児の見せる原初の感情や愛嬌を細やかに描いたキャラクター達を愛していたので、個人的にショックが大きかった。
現在の宮崎駿の中で鮮やかに表現されるのは、戦争であってファンタジーではないというのは今作を観て強く感じられた。
最も切実にこちらに訴えかけるのはやはり空襲のシーンであったし、街が燃え、人が炙られ彷徨うシーンだった。
主人公が自らを傷付け、結果二兎を得るが上手いこと加減できず割と深い傷になる小賢しさと迂闊さも少年らしく良かった。
背後に不穏さが漂う陰鬱な現実こそが「今」の宮崎駿なのだろう。現代情勢からも必然だろうとも思う。
私は宮崎駿の、普通エンターテインメントに乗りきらない切実で繊細なものを、エンターテインメントという砂糖をまぶして結実させ、本来のターゲット外の人までより広く世に送り出す手腕にこそ心酔していた。
「風立ちぬ」なんかはその真骨頂で、あんな純文学を大々的にお出ししてきたのは正気ではないと思いつつ狂喜乱舞したし、そこに込められた宮崎駿の諦念を目の当たりにし、これで創作活動を終いとするのは悲しすぎると涙した。庵野が棒すぎて頭に入らないから嫌と内容以外の部分で周りに否定されたのも悲しかった。
結果的に言うと「風立ちぬ」は宮崎駿の終点とはなり得ず、私の望みは叶えられた。
「君たちはどう生きるか」を鑑賞し、ここまでただ狼狽した心情を書いてきたが、今の宮崎駿に非常にショックを受けつつも、なんとなく心穏やかになった部分もある。
宮崎駿作品から既にひりついた表現への欲を感じなくなったのは、それはそれで救いであるとも思う。
そういう意味では、私にとっても「宮崎駿」への餞というか、終活になった。
どんなに作品の底に込めた意味があろうと、こちらに伝えようという意思が感じられない、というか作品を観ながら「伝えたかったもの」を考える余地がある、物語に没入できない時点で出来の悪い作品と考えているので、作品単体で言うと★1なのだが、監督が宮崎駿ということを加味すると★3になってしまう。
「君たちはどう生きるか」を宮崎駿ではなく、例えば米林宏昌あたりが作っていたら私は激怒し、オマージュを大義名分にジブリブランドを体良く利用して棄損するなと気炎吐き散らして暴れ回っていただろうが、宮崎駿ならばこれを作る権利がある。
ネタバレあり。
小難しい事は他の有識者に任せるとして、最初の出だしで驚いた。
吉野源三郎の同名の小説は軽く読んでいたのでどう繋がるとか思っていたが、原作は全く関係なく亡き母からお薦めされた本程度の位置づけだった。
これは「君たちはどう生きるのか?」を読んだことがアダとなるミスリードだった。
数分先の展開が全く読めない。
これが細田守とか新海誠の作品なら(ああなって、ああなるだろうなぁ)と予測が出来、最終的にどうまとめるのか?のみに意識がいっていまう。
本作は、これからどうなるのか?どうまとまるのか?が全く読めず、駿監督まだまだいけるやんと思ってしまうほどだった。
見ていたら気づくが駿監督が作ってきた作品のシーンに似たオマージュがいたるところに出ていた。
もうワザとやってるだろう?と思うくらいに露骨に出していた。
作品の最後まで行くと、作品から駿監督が本気で引退を考えているのがヒシヒシと伝わってきた。
・大叔父は自分の仕事(塔の管理)を任せられる程の人材を欲していた
・穢れなき13個の積み木のパーツは駿監督が人に邪魔される事無く作れた大事な作品の意味
・インコの王は最終的にそれらパーツを適当に組み上げて壊す(ジブリの崩壊)
結局この作品は、「(俺はもうすぐジブリからいなくなるけど)君たちはどう生きるのか?」と言うジブリの中のクリエーターに向けた諫言に他ならない。
最初は、視聴者に対して「(俺の作品を今後みれなくなるが)君たちはどう生きるのか?」言っているのかとも思っていたが、監督の作品を見れない事は悲しいがそれが「どう生きるのか?」と言う問い繋がるとは思えなかったので。
ただ別のところで視聴者に対しても皮肉っている所があった気がした。
・何の意思も無い亡者が、魚が取れた旗が上がった時に近づいて魚の配給を待つところは、旗が上がる=映画宣伝が行われる、配給を待つ=映画館に並んで観ると掛かっていると思う、更に魚(餌)の配給と映画配給もかかっているだろうことは予想に難くない。
・最後にアオサギが言っていた、向こう側のものは持って来てはならない、でも持って来てもその内時間の経過と共に忘れてしまうだろうはまさに作品に対する視聴者の感情の遷移を全部言わせていて最後の捨て台詞としては最高だったと思います。
自分的には面白かったけど人にはすすめられません。そんな作品です。
にしても、これ作っていた時のスタッフの心情はいかにって感じだよね。
あ~俺らの事言われているなぁって思いながら仕事していたんだろうか?
細田守は自分のホームビデオスタッフに見せて作らせたアニメ版ホームビデオを全国上映するような奴だからな。
サマーウォーズはウォーゲームの焼き直し成分強くてまだ大丈夫なんだが、それ以降出す作品がどれもこれも細田守の内面ホームビデオばかり。
「映画って監督の内面が描写されているものなのでは?」って概念が不必要なまでに広まってしまった原因はエヴァよりも細田なんじゃないかな。
「そういう部分もある」では駄目。
これはほぼ100%がそうであるタイプであり、それ以外の部分は繋ぎでしかないと思っていい。
作中に説明不足に見える用語が沢山あるけど、それらは作品の外から持ってくる必要がある。
たとえば戦争映画でわざわざ「日本とアメリカが戦争をしています。日本は最後に負けます」と解説しないのと同じで、作品外から情報を補わせることで作品のテンポを良くしたり仄めかすことでより感情を揺さぶろうとしてる。
まずは作品のラストから遡っていき重要な用語を現実に当てはめて整理していく。
13個目の積み木→宮崎駿の長編監督作品(ルパン2作とコナン1作を含む)13作目が君たちはどう生きるか
血を継ぐものへの継承→宮崎吾朗(アーヤと魔女を見れば分かる通り、継承は失敗している)
インコの王→米林宏昌(それっぽい真似っ子は出来るが……を越えられず、ついには独立してメアリと魔女の花を作っている)
インコ→ジブリのアニメーター(塔(ジブリ)の庇護下にあるときは強いのだが、外に羽ばたいて見せると途端に魔法が解けて拾ってきたときのか弱い生き物に戻ってしまう。インコは結局真似っ子しか出来ねえかんね)
下の世界の死人→アニメーター以外のスタッフ(自分たちでは何も生み出せず、いざ作品が形になると群がってくる)
ワラワラ→未来の太客(面白い作品を見せて育てることで将来的に太い客になってくれる)
ペリカン→客を食い物にしようとするアニメ関係者(せっかく育てた客を食っていく。傷ついた客がアニメに愛想を尽かすすことも)
これがマジで難しい。
アニメーターとしての宮崎駿だと考えることも出来るし、宮崎吾朗の成長物語だったのかも知れないし、鑑賞者の分身だったのかも知れない。
そういった全てが重なり合った存在であったと解釈するのが自然ではあるのだが……。
たとえば自傷行為で心配されているのは宮崎駿が引退するする詐欺で周りを振り回したときの様子にそっくり。
ことあるごとに鈴木敏夫に振り回されているのは宮崎駿もそうだけど鑑賞者側も同じなわけで。
主人公は最初、本当の母親との再開を求めて塔に向かうが、途中から新しい母親を連れ戻すための冒険も同時に進行していく。
塔の中では幼少期の本当の母親と再開し、最後に別れを告げることになる。
また、新しい母親のことを最初は他人行儀に読んでいたのが、夏子母さんと母であることを認めることで取り戻すことに成功する。
結果として、どちらもが本当の母であると言わんばかりの終わり方となる。
これは宮崎アニメにおいて「ヒロインをどのようなキャラクターとして造形するか」についての葛藤を描いているのではないか。
ハッキリ言えば、「ロリコン趣味を疑われながらも少女を主人公とするべきか、そうではないヒロインを描くべきか、それらは物語や世間が求めるヒロイン像により時には重なり合い時には反発する」という話をしたかったのだと思う。
歪な時間軸の中で幼少期の母に出会いヒロインとして共に冒険しながら、もう1人の大人のヒロインを救出に行くという混沌とした物語構成が、常にその葛藤に晒されてきた宮崎駿の複雑な心情を描いているのである。
こうして纏めてみると結構スッキリした話なんじゃね?(むしろドロドロって気もするけどな(笑))
宮崎駿の目から見たジブリの物語を描いてますよって感じなのでは。
「君たちはどう生きるか」というタイトルはこの状況に対しての語りかけで、どこに向けてそれを言ってるのかで意味は変わるんだと思う。
ジブリと関係が深い人に対しては「俺が引退した後好き放題するんだろうけど、何をする気?」みたいな感じだろうし、インコに対しては「真似る相手がいなくなったらお前らもう本当に何も無くなるんじゃね?」とかなんかな。
でもインコの話について観客に対しても「お前らもインコになってねえか?」って圧かけてきててもおかしくないんだよなーこのお爺ちゃん職人気質とかいてパワハラって読むような所あるからさー正論で人を追い詰めるマチズモなんだよなー。
しょーじきここまでメタファーまみれだと「風斬りの7番」とかも分かる人には分かる要素なのかもね(鈴木敏夫の弱点って聞くと咄嗟にとある女性が思い浮かんだりしちゃうが、アオサギ=鈴木敏夫じゃなくて高畑勲って解釈もできるし焦っちゃ駄目ね。高畑勲の場合は柳川堀割物語かな。まあ人間なんかしら人生に汚点はあるからこじつけようと思えばいくらでも出来ちゃうね)。
アオサギを適当な人物に当てはめて「宮崎駿が「お前とは色々あったけど本当に友達だったと思ってるぞ」と言ってるんだ―尊いー(T_T)」って適当に感動しときゃええんちゃう。
作画スゲーだけで終わらせるのも吉。
ジブリは滅びますぞ―のセンチメンタルそのものについて鑑賞者まで深く考えんくていいと思う。
マザコンなのかロリコンなのかハッキリしろって突っ込むとか、宮 崎 吾 朗 wwwwwみたいにヤジを飛ばすとかは見終わってからまでわざわざせんでええのかもなと。
やっぱ全体としてストーリーラインが雑というか、もののけ姫とかに比べて不自然さは凄いし、ストーリーだけを楽しもうとするのは厳しいね。
マクガフィンが母親であることのパワーを過信しすぎて「え?そこまでする?」になってるのがあまりよろしくないのよねー。
メタファー込みで考えると上手い具合に物語に落とし込んだなって感心はするけど、そんなの見せられても困るんですよお爺ちゃんって感じよ。
一番奇妙なジブリ作品。過去のジブリ作品のオマージュが散りばめられているばかりか、なぜか他のアニメ監督作品ともどこか繋がっているような…。細田守や今敏作品が頭をよぎる。(細田守の「星を追う子ども」との共通点は無視できないレベルな気が。あとは作画が明らかにジブリを離れている瞬間があるのが大きいかも。)
この映画は物語を追うものではない。誰かに感情移入して楽しむようにできていない。最後までその不思議な感覚が残る。でも、目の前で鑑賞していた小さい子どもが、終わった瞬間に「おもしろかった…!」と呟いた。もしかすると、真に子ども向けの映画なのでは?
そう考えると、今回の「異界」はある種の「生まれ直し」なのだ。正しく「異世界転生」している。転生先で出会いと別れ、困難と戦い、そして選択を行う。これらは子どもにとって、これから人生で起こることを予期させる。映画を通して「君たちはどう生きるか」シミュレータが機能するよう設計されているのではないか?(なお自分は十分に歳を取っているので、このシミュは動作不良を起こす。)
そして勝手な想像だが、あの老人は宮崎駿の分身である。とすると、宮崎駿は誰にも世界を渡せなかった、世界を手渡すことを失敗した。異世界の崩壊は、ジブリのイマジネーション世界の崩壊を意味する。しかし老人はそれを事前に、自ら選んでいる。老人は次世代のために「汚れていない石」を必死で探し当てた。しかしそれは第三者に破壊されるのだ。
きっと今度こそ、これが最後の作品ということなんだろう。ジブリのエッセンスは拡散し、勝手に引き継ぐ人間がその破片を受け取る。映画が始まる前の予告編の、やけにジブリライクな作画や、作中の他作品への無意識的な連結はそれを印象付ける。
「おもしろかった?」と聞かれたら「奇妙だった!」と答えるし、「もうちょっと詳しく」と聞かれたら「自分が子どもだったら最高だったかも!」と答える。そういう映画。