今回は13部隊が男の子、女の子が思春期的な問題、
「裸をいやらしい目で見ていた問題」というくだらない問題から
人間の一生の課題である「死」を始めて意識する展開であった。
今回のサブタイトルの元ネタになったであろう
郷ひろみの歌「男の子女の子」の歌詞の中で
「一度の人生 大事な時間」 とある。
まさに13部隊にとって今が大事な時間であり、
一度の人生である事を意識した話であった。
(今回の話はこの歌を元に脚本を起こしたかのようだ)
では大事な時間=思春期とは何なのだろうか。
それはくだらない・必要以上の意地を張ったり、
ゼロツーのいう「遊び」に本気になることであり
自分が男や女である事を意識すること、ではないだろうか。
(ヘイヘイヘイ おいで 遊ぼう-男の子女の子の歌詞)
男の子と女の子同士がくだらない意地の張り合いで
お風呂で「遊び」を興じるのも思春期そのものなのだろう。
無限に湧いて出る風呂桶もくだらなさ=思春期を、
子供の遊びを上手く演出するものとして機能している。
一方でオトナ達は今回の思春期の行動をイレギュラーとして見ている。
ダリフラの世界では思春的なくだらない遊びに興じることはないのだろう。
あくまで叫竜と戦うためだけのコドモでしかないのだろうか。
いずれにしても戦い・生き残れなければ死ぬ。
思春期に訪れる自身の身体と心の変化の最終的な先にある「死」。
(ヘイヘイヘイ 夢があふれる-男の子女の子の歌詞)
身体の変化。生殖。希望。
「死」だけではない、希望や夢もある事を
本から知った知識でココロから語られる。
(僕らの世界へ走っていこうー男の子女の子の歌詞より)
こうした思春期の遊びはゼロツーの動作で表現される。
遊びとは動き回ることでもある。
ダリフラはシネスコ(横長の画面)になることがある。
上記のヒロとゼロツーが夕日の屋根上で喋るシーンでもそうなる。
そしてケンカする事を「人間らしい」ことというゼロツー。
人への憧れを抱くゼロツーにとって思春期の過程こそ
人間になれる道なのかもしれない。
ゼロツーの素直な思いが聞ける重要なシーン。
おそらくシネスコは重要シーンですよという合図なのだろう。
(見つめる男の子-男の子女の子の歌詞より)
一方でアバンで叫竜の液体に触れた女の子達のスーツが
溶けて裸になるシーンでゾロメとフトシの表情を見せるときに
画面が通常からシネスコになるシーンがある。
(今回ダリフラでは始めて使われた)
これは先ほどのダリフラの重要シーンではシネスコが用いられる
演出パターンを応用した一種のいたずら的遊びなのだろう。
こういう遊びもまた思春期的である事を表現する演出だと私は見る。
(セピア的な色彩が振り返った過去感を醸し出している)
以上のように今回は思春期とは何かを問うような回だった。
ケンカして、コミカルで、お遊びで、でも本気で、でも死を意識して、仲直りして
思春期のすべてが詰まったかのような話だった。
今回の絵コンテは岡村天斎。個人的には岡村天斎は
カウボーイビバップのカウボーイファンクのような
ハメを外すような話でこそ真価を発揮する方だと思っている。
今回はお遊びある密度な画面と小気味よいカット割りで
岡村氏の良い味が出ていた画面作りだったと思う。
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