久しぶりに「ドラゴンボールGT」の最終話を見ていたら、
「逆襲のシャア」と通じる部分があるような気がした。
それは曖昧な結末、解釈ができる結末という点である。
逆襲のシャアの結末は、サイコフレームの光に包まれたアクシズを押し返す。
ただその舞台にいたアムロとシャアが最後にどうなったのかは語られないし
なぜアクシズが地球から離れたのかも、解釈はできるが本編での説明はされていない。
極めて曖昧な結末ともいえる。
ドラゴンボールGTの最終話も悟空と一星龍の戦いが終わり
ドラゴンボール自体の役目は終わったまではわかりやすく描写される。
ただこれも、その後の悟空が神龍と共に旅立っていく描写の意味、
または最後にドラゴンボールが悟空の体内に入っていく描写についての説明はなく
悟空が死んだのか、それとも別の存在(概念?)になったかどうかは
きちんと語られていない。あくまで観る側の解釈に委ねられている。
※ただドラゴンボールでは悟空は何度も死んでいるので
物語の結末として死以上の何かを用意しないと、
終われない締まらないという面はあったと思う。
またどちらの作品でも奇跡を起こすものとして描かれる
サイコフレームとドラゴンボール(神龍)は似たような存在なのかもしれない。
何にしても両作品は結末を観る側に大きく委ねられている。
また両作品、いやむしろ両シリーズには歴史性という共通点がある。
まずガンダムシリーズには宇宙世紀という歴史がある。
ドラゴンボールシリーズにもアニメのGTも含めて、
何十年間の孫悟空史ともいえる歴史性があり、本編ではエイジという暦が使われている。
1stガンダムの始まりは宇宙世紀0079。逆シャアは0093。足掛け14年。
ドラゴンボールの始まりはエイジ749。GTの最後はエイジ790。足掛け41年。
※最後の孫悟空jrが出てくるところは890年だが。
両作・両シリーズともアムロ・シャア・悟空が
活躍する時代ごとで描かれる構造を持った作品であるといえる。
こうした物語上でも長く歴史性を持ち、
なおかつ実際の連載・放送期間が長く続いた人気シリーズの結末を
どうしたらよいのかという答えの中に、
主役たちの結末を曖昧にしたままシリーズの幕を引きたいという
作劇手法はあるのかもしれない。
それはどちらも高い人気を得たシリーズではあったがゆえに終わらせる事を第一とせず、
描写に曖昧性を有しつつ、観る側に解釈を委ねることで、
いつまでも観る側の心にあり続けたいと、
逆襲のシャアとドラゴンボールGTは願ったのではないのだろうか。
こうした歴史という事実(事実として扱われるもの)の中に曖昧性を入れることで
よりシリーズものの物語としての面白さが加わるのかもしれない。
それは曖昧であるがゆえに強度を保っているともいえる神話的構造なのかもしれない。
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