新得町福山
新得町福山(令和3年8月探訪)
新得町福山は農村集落であるが、元々は「トンネル沢」と称されていた。
「トンネル沢」は狩勝トンネル工事現場に出稼ぎで通ったことからつけられたものと思われるが、大正6年、同地に福島県人、山形県人が多かったことから両県名より一字ずつとって「福山」と改称した。
明治39年、山形県人梅本伊之助ら数戸の入地が始まり、翌年には24,5戸に達したが児童数が少なかったことから教育所設置の認可に至らなかった。
しかし明治41年、福島県相馬団体10数戸が入植し、佐藤寿・古川金次郎らが代表として教授場設置を懇願したところ、特別教授場設置の認可を得ることができた。
このため、住民らは開設位置を字新得西6線98番地公共用地内と定め、校舎はすべて地域住民の奉仕により完成した。
学校の沿革は以下の通りである。
明治41年 新得尋常小学校隧道澤特別教授場として開校(6月)
大正 3年 隧道澤教育所に昇格
山火事により校舎焼失・澱粉工場1棟を借りて仮校舎とする(5月)
校舎新築移転(西6線89番地・12月)
大正5年 福山教育所と改称(12月)
大正6年 福山尋常小学校と改称(4月)
大正7年 福山実業補習学校併置(5月)
昭和8年 福山青年学校併置(4月)
昭和16年 福山国民学校と改称(4月)
昭和22年 福山小学校と改称(4月)
昭和24年 校舎新築移転(西6線91番地・11月)
昭和32年 屋内体育館竣工(12月)
昭和41年 閉校(3月)
令和3年8月、A.D.1600氏、K.T氏とともに訪れた。
福山小学校前の風景
月形町中野
月形町中野(平成30年5月・令和4年1月探訪)
月形町中野は農村集落である。
明治27年、月形監獄は残余の土地を村に払い下げようとしたが村は用地所得の必要はないとのことで、監獄の御用商人であった中野要吉は内山寅之助に相談したところ、内山の出身地である新潟県に帰って小作人を募集した結果、17家族が入植し「中野農場」が発足した。
明治33年、再び監獄用地払い下げ入札の折、払下げの希望を出していた常世此治が落札し、7家族が入植し「常世農場」が発足した。
さらに明治43年、山林地帯約300町歩を田村外蔵が購入し、小作人をいれたのが「田村農場」の始まりである。このほか、仙台団体の入植者が現れ、次第に開拓されていった。
学校の沿革は以下の通りである。
明治35年 中野教育所として開校(私立・1月)
明治36年 中野農場簡易教育所と改称(9月)
明治41年 中野農場教育所と改称(5月)
大正 6年 中野農場尋常小学校と改称(1月)
昭和 6年 中野尋常小学校と改称(1月)
昭和13年 女子青年学校開校(11月)
昭和16年 中野国民学校と改称(4月)
昭和22年 中野小学校と改称(4月)
昭和49年 閉校(3月)
令和4年1月、HEYANEKO氏、A.D.1600氏と訪れた。
学校跡地は雪に埋もれていた。
2メートル近い雪壁をよじ登りながら学校跡へ到達する。
神社跡へ足を運ぶ。
新雪を踏みしめながら先へ進む。
神社へ通じていた吊り橋跡。
神社跡地。
神社跡地に建立されている開拓記念碑。
開拓記念碑を雪から掘り起こした。
ここから先は平成30年5月に探訪した時のものである。
サクラが咲き始めた中野小学校跡地。
中野小学校跡の基礎。
瓦礫と化した校門があった。
神社へ通じていた吊り橋の基礎。
吊り橋のワイヤーロープ。
神社跡地。
神社跡地に建立されている開拓記念碑。
碑文
明治二十七年
中野要吉氏中野農場を開き伊夜日子の神を祀る
明治三十二年
常世此治氏常世農場を開き天照大神祀る
明治四十三年
田村外造氏田村農場を開く是に仙台団体当別
入植正一位伏見稲荷を祀る
昭和五十三年九月九日 発起人一同 建之
屋敷跡。
屋敷跡。
中野小学校はサクラに彩られていた。
参考文献
月形町史編さん委員会1985『月形町史』月形町
芽室町西伏美
芽室町西伏美(令和3年8月探訪)
芽室町西伏美は農村集落である。
大正時代、西伏美の奥地開拓が進み入植者の子弟は上美生小学校へ通学していたが、整備されていない山道を7,8キロ通学するのは容易でなく、早朝に自宅を出ても到着は昼近くなり、途中で学校をあきらめて遊んで帰るなどにより登校日数不足の為留年せざるを得ない者も出た。
このような状況の中、初代西伏美区長川端清太郎らが分教場の設置に努力し、伏美23線69番地の高橋尋助宅を仮校舎として開校したのが始まりである。
学校の沿革は以下の通りである。
昭和2 年 上美生尋常小学校伏美特別教授場として開校(4月)
同年 校舎新築移転(伏美24線72番地)( 11月)
昭和16年 上美生国民学校伏美分教場と変更(4月)
昭和22年 上美生小学校伏美分校と変更(4月)
昭和42年 閉校(3月)
昭和58年 本校 上美生小学校閉校(3月)
令和3年8月、K.T氏、A.D.1600氏と訪れた。
上美生の市街地を抜け、山間部へ入っていく。
道はこの先も続いているが、学校跡地はこの付近である。
電柱の表記は「西伏見」である。
学校跡地付近を歩くが、校舎の基礎は見つからなかった。
折角なので、本校である上美生小学校跡も立ち寄った。
昭和13年建立の創立記念碑が目を引く。
二宮像も健在である。
創立50周年の記念碑には宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が刻まれていた。
懐風樹
霊峰剣山を背に聳えるこの柏は、上美生の象徴であり、上美生小学校に学んだ千六百有余名の懐古の樹である。
明治三十六年、柏の巨木が密生する原始林に開拓の斧が下され、六年後にこの地に小学校が移設されるや父祖の慧眼によってこの柏樹一株が伐採を免れた。爾来幾星霜の厳しい風雪に耐えて樹令を重ねつつ学童の成長を見守り続けてきた。
体育や教練で汗を流してはこの深い緑陰に憩い、勉学や人生の憂愁には毅然たる孤影を仰いで決意を新たにした。長じて他郷にある者は彷彿としてこの大樹を想い、旧友恩師と学舎に懐旧の情を禁じ得ず、故郷を継承する者はこの老木に開拓の労苦を偲んで温故知新と地域発展を改めて誓う縁としてきた。
昭和五十八年の学校統合により旧舎の姿は脳裏に留るにすぎない。校庭の一隅に枝葉を繁茂し、大地に強靭な根を張って教訓を賜わった由緒あるこの柏樹を幽遠に記念樹として保存するものである。願わくば樹霊の巌と慈をもって地域と卒業生の未来に加護あらんことを。
昭和六十一年十月 上美生小中学校同窓会
参考文献
芽室町2000『芽室町百年史』芽室町
芽室町西伏美は農村集落である。
大正時代、西伏美の奥地開拓が進み入植者の子弟は上美生小学校へ通学していたが、整備されていない山道を7,8キロ通学するのは容易でなく、早朝に自宅を出ても到着は昼近くなり、途中で学校をあきらめて遊んで帰るなどにより登校日数不足の為留年せざるを得ない者も出た。
このような状況の中、初代西伏美区長川端清太郎らが分教場の設置に努力し、伏美23線69番地の高橋尋助宅を仮校舎として開校したのが始まりである。
学校の沿革は以下の通りである。
昭和2 年 上美生尋常小学校伏美特別教授場として開校(4月)
同年 校舎新築移転(伏美24線72番地)( 11月)
昭和16年 上美生国民学校伏美分教場と変更(4月)
昭和22年 上美生小学校伏美分校と変更(4月)
昭和42年 閉校(3月)
昭和58年 本校 上美生小学校閉校(3月)
令和3年8月、K.T氏、A.D.1600氏と訪れた。
上美生の市街地を抜け、山間部へ入っていく。
道はこの先も続いているが、学校跡地はこの付近である。
電柱の表記は「西伏見」である。
学校跡地付近を歩くが、校舎の基礎は見つからなかった。
折角なので、本校である上美生小学校跡も立ち寄った。
昭和13年建立の創立記念碑が目を引く。
二宮像も健在である。
創立50周年の記念碑には宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が刻まれていた。
懐風樹
霊峰剣山を背に聳えるこの柏は、上美生の象徴であり、上美生小学校に学んだ千六百有余名の懐古の樹である。
明治三十六年、柏の巨木が密生する原始林に開拓の斧が下され、六年後にこの地に小学校が移設されるや父祖の慧眼によってこの柏樹一株が伐採を免れた。爾来幾星霜の厳しい風雪に耐えて樹令を重ねつつ学童の成長を見守り続けてきた。
体育や教練で汗を流してはこの深い緑陰に憩い、勉学や人生の憂愁には毅然たる孤影を仰いで決意を新たにした。長じて他郷にある者は彷彿としてこの大樹を想い、旧友恩師と学舎に懐旧の情を禁じ得ず、故郷を継承する者はこの老木に開拓の労苦を偲んで温故知新と地域発展を改めて誓う縁としてきた。
昭和五十八年の学校統合により旧舎の姿は脳裏に留るにすぎない。校庭の一隅に枝葉を繁茂し、大地に強靭な根を張って教訓を賜わった由緒あるこの柏樹を幽遠に記念樹として保存するものである。願わくば樹霊の巌と慈をもって地域と卒業生の未来に加護あらんことを。
昭和六十一年十月 上美生小中学校同窓会
参考文献
芽室町2000『芽室町百年史』芽室町
新得町新内
新得町新内(令和3年8月7日探訪)
新得町新内は農村集落である。
元々は、北新内・南新内と分かれ学校もそれぞれ独立していたが、昭和8年に合併して新内小学校が誕生した。
北新内
明治42年青森・宮城・石川県の団体入植は西八線佐幌岳山麓周辺まで開拓し、明治44年新内教育所所属北新内地区別教授場として開校した。
大正6年に北新内尋常小学校と改称し、新内教育所を凌駕する勢いであったが気象や条件の悪さや立木が伐採し尽くされたことから住民は次々に北新内を去っていった。
南新内
明治39年、関新太郎、出井与蔵、沢口太一郎、沢口仁太郎らが南新内に入地した。
明治40年人舞村新得簡易教育所所属新内特別教授場として開校。当時、南新内は鉄道開通の喜びの中にあったことや林産・砿産物の集積地として開発が進んでおり移住者が急増していた。
明治41年9月、校舎を移転新築(新内西一線一二六番地)して新内教育所と改称、大正元年地元有志の寄附を受けて新築移転(新内西三線一三八番地)した。
大正6年、南新内尋常小学校と改称し、翌大正7年に実業補習学校の併置、昭和2年に南新内青年訓練所を併置した。
昭和8年、北新内・南新内の学校が合併し新内尋常小学校と改称した。
同時に、北新内・南新内青年訓練所も合併し新内青年学校として開校した。
合併後の沿革は以下の通りである。
昭和 8年 新内尋常小学校と改称(北新内・南新内の合併)
新内青年学校併置
昭和 9年 門柱建立
昭和16年 新内国民学校と改称(4 月)
昭和22年 新内小学校と改称(4 月)
昭和32年 屋内体操場増築
昭和36年 新校舎落成
昭和49年 閉校(3 月)
新内駅・新内駅前の沿革は以下の通りである。
明治40年 新内信号場開業
明治42年 新内駅に昇格
昭和 4年 新内駅逓所開設(10月)(取扱人 福本義雄)
昭和13年 新内駅逓所廃止(9月)
昭和14年 新内郵便局開設(4月)
昭和41年 新狩勝線開業(10月)
新内郵便局・新内駅廃止(10月)
令和3年8月、A.D.1600氏、K.T氏らと訪れた。
新内小学校は今も大切に使われている。
学校前には酪農家の建物がある。
昭和9年の門柱も現存している。
校舎裏側。
かまどのようなレンガの遺構があった。
地形図を見ると、学校の左手に神社マークがあるので行ってみる。
明治 44 年頃、入植者の関新太郎(岩手県出身)が建立した金比羅神社である。
神社の基礎が笹藪に埋もれていた。
次に、新内駅へ行ってみる。
新内駅やホームは整備されていた。
駅前を見ると、すっかり自然に還っていた。
夕刊北海道新聞(釧路支社地方版)1965「マチの話題 余命わずかな新内郵便局」昭和 40年9月9日付によると昭和 40 年 9 月時点で新内郵便局の集配戸数は 56 戸だが鉄道宿舎をのぞくと一般住宅は 8 戸しかない。
昭和の初めには開拓農家を中心に300程の戸数があり、旅館や料理店もあった。
昭和 35 年の新内駅前の地図を見ると駅前に鉄道官舎、国鉄保線区連絡班/営林班の建物、開発建設部の詰所、新内神社の外金沢商店、新内郵便局、関木工場があった。
昭和 41 年 10 月 新内駅廃止と共に 40 戸(国鉄職員・郵便局員 32 戸/一般住宅 8 戸)は解散した。
駅前にあった新内神社も昭和41年10月、新得神社に合祀された
参考文献
新得町百二十年史編さん委員会2020『新得町百二十年史(下)』新得町
新得町史編さん委員会1990『新得町史』新得町
夕刊北海道新聞(釧路支社地方版)1965「マチの話題 余命わずかな新内郵便局」昭和 40年9月9日
新得町新内は農村集落である。
元々は、北新内・南新内と分かれ学校もそれぞれ独立していたが、昭和8年に合併して新内小学校が誕生した。
北新内
明治42年青森・宮城・石川県の団体入植は西八線佐幌岳山麓周辺まで開拓し、明治44年新内教育所所属北新内地区別教授場として開校した。
大正6年に北新内尋常小学校と改称し、新内教育所を凌駕する勢いであったが気象や条件の悪さや立木が伐採し尽くされたことから住民は次々に北新内を去っていった。
南新内
明治39年、関新太郎、出井与蔵、沢口太一郎、沢口仁太郎らが南新内に入地した。
明治40年人舞村新得簡易教育所所属新内特別教授場として開校。当時、南新内は鉄道開通の喜びの中にあったことや林産・砿産物の集積地として開発が進んでおり移住者が急増していた。
明治41年9月、校舎を移転新築(新内西一線一二六番地)して新内教育所と改称、大正元年地元有志の寄附を受けて新築移転(新内西三線一三八番地)した。
大正6年、南新内尋常小学校と改称し、翌大正7年に実業補習学校の併置、昭和2年に南新内青年訓練所を併置した。
昭和8年、北新内・南新内の学校が合併し新内尋常小学校と改称した。
同時に、北新内・南新内青年訓練所も合併し新内青年学校として開校した。
合併後の沿革は以下の通りである。
昭和 8年 新内尋常小学校と改称(北新内・南新内の合併)
新内青年学校併置
昭和 9年 門柱建立
昭和16年 新内国民学校と改称(4 月)
昭和22年 新内小学校と改称(4 月)
昭和32年 屋内体操場増築
昭和36年 新校舎落成
昭和49年 閉校(3 月)
新内駅・新内駅前の沿革は以下の通りである。
明治40年 新内信号場開業
明治42年 新内駅に昇格
昭和 4年 新内駅逓所開設(10月)(取扱人 福本義雄)
昭和13年 新内駅逓所廃止(9月)
昭和14年 新内郵便局開設(4月)
昭和41年 新狩勝線開業(10月)
新内郵便局・新内駅廃止(10月)
令和3年8月、A.D.1600氏、K.T氏らと訪れた。
新内小学校は今も大切に使われている。
学校前には酪農家の建物がある。
昭和9年の門柱も現存している。
校舎裏側。
かまどのようなレンガの遺構があった。
地形図を見ると、学校の左手に神社マークがあるので行ってみる。
明治 44 年頃、入植者の関新太郎(岩手県出身)が建立した金比羅神社である。
神社の基礎が笹藪に埋もれていた。
次に、新内駅へ行ってみる。
新内駅やホームは整備されていた。
駅前を見ると、すっかり自然に還っていた。
夕刊北海道新聞(釧路支社地方版)1965「マチの話題 余命わずかな新内郵便局」昭和 40年9月9日付によると昭和 40 年 9 月時点で新内郵便局の集配戸数は 56 戸だが鉄道宿舎をのぞくと一般住宅は 8 戸しかない。
昭和の初めには開拓農家を中心に300程の戸数があり、旅館や料理店もあった。
昭和 35 年の新内駅前の地図を見ると駅前に鉄道官舎、国鉄保線区連絡班/営林班の建物、開発建設部の詰所、新内神社の外金沢商店、新内郵便局、関木工場があった。
昭和 41 年 10 月 新内駅廃止と共に 40 戸(国鉄職員・郵便局員 32 戸/一般住宅 8 戸)は解散した。
駅前にあった新内神社も昭和41年10月、新得神社に合祀された
参考文献
新得町百二十年史編さん委員会2020『新得町百二十年史(下)』新得町
新得町史編さん委員会1990『新得町史』新得町
夕刊北海道新聞(釧路支社地方版)1965「マチの話題 余命わずかな新内郵便局」昭和 40年9月9日
Elysian40に出店します
いつも当ブログをご覧いただき有難うございます。
さて、令和3年(2021)8月15日(日) 12:00~16:00
札幌市民交流プラザ3階(北海道札幌市中央区北1条西1丁目・さっぽろ創世スクエア)
クリエイティブスタジオにて開催される同人誌即売会『Elysian40』に出店することとなりました。
新刊・既刊併せて4種販売いたします。
『上雄柏・学校跡整備と花壇に込めた想い』
堀江晴男著 B5 サイズ
カラー 23ページ 500円
滝上町上雄柏の校舎は閉校後、地元の倉庫に転用されていましたがいつしか崩れ、無残な姿になっていました。
崩れた校舎を見た堀江氏は校舎の解体・整備、整備後の維持管理や往時の上雄柏の暮らしを綴っています。
廃墟写真集『負の大地』
A5横開き カラー 73ページ 1000円
北海道の観光地とは無縁な地域に残る様々な『廃』なモノ、これも北海道の一面です。
廃校、廃村、廃屋などを取り上げました。
『精進川鉱山盛衰記』
B5 カラー(一部白黒) 23ページ 700円
かつて石炭が「黒いダイヤ」と持て囃されていたように硫黄は「黄色いダイヤ」と持て囃されていました。
道南の七飯町にあった精進川鉱山、鹿部町にあった雨鱒川鉱山の探索、往時の写真、精進川鉱山の聞き取りを掲載しました。
※在庫僅少ですのでもしご希望の方はお早めにお買い求めください。
『ルルモッペ‐へき地の暮らしと学び舎の記憶‐』
B5 カラー(一部白黒) 69ページ 1000円
留萌管内遠別町正修、増毛町歩古丹の集落や学校跡の現状、聞き取りによる往時の学校や暮らし、新聞記事や週刊誌の報道記事、集落住居分布図を掲載しました。
販売場所はD‐08番 壁際におります。
どうぞ、よろしくお願い申し上げます。
さて、令和3年(2021)8月15日(日) 12:00~16:00
札幌市民交流プラザ3階(北海道札幌市中央区北1条西1丁目・さっぽろ創世スクエア)
クリエイティブスタジオにて開催される同人誌即売会『Elysian40』に出店することとなりました。
新刊・既刊併せて4種販売いたします。
『上雄柏・学校跡整備と花壇に込めた想い』
堀江晴男著 B5 サイズ
カラー 23ページ 500円
滝上町上雄柏の校舎は閉校後、地元の倉庫に転用されていましたがいつしか崩れ、無残な姿になっていました。
崩れた校舎を見た堀江氏は校舎の解体・整備、整備後の維持管理や往時の上雄柏の暮らしを綴っています。
廃墟写真集『負の大地』
A5横開き カラー 73ページ 1000円
北海道の観光地とは無縁な地域に残る様々な『廃』なモノ、これも北海道の一面です。
廃校、廃村、廃屋などを取り上げました。
『精進川鉱山盛衰記』
B5 カラー(一部白黒) 23ページ 700円
かつて石炭が「黒いダイヤ」と持て囃されていたように硫黄は「黄色いダイヤ」と持て囃されていました。
道南の七飯町にあった精進川鉱山、鹿部町にあった雨鱒川鉱山の探索、往時の写真、精進川鉱山の聞き取りを掲載しました。
※在庫僅少ですのでもしご希望の方はお早めにお買い求めください。
『ルルモッペ‐へき地の暮らしと学び舎の記憶‐』
B5 カラー(一部白黒) 69ページ 1000円
留萌管内遠別町正修、増毛町歩古丹の集落や学校跡の現状、聞き取りによる往時の学校や暮らし、新聞記事や週刊誌の報道記事、集落住居分布図を掲載しました。
販売場所はD‐08番 壁際におります。
どうぞ、よろしくお願い申し上げます。