網走市西能取
網走市西能取(令和4年9月探訪)
網走市西能取は戦後開拓集落である。
元々は昭和10年に塩田正夫氏ら10数戸が入植したが次々と離農していき、塩田氏のみ残った。
昭和21年春、7戸の開拓者を皮切りに続々と開拓入植者が現れた。
入植者の出身地は地元のほか満洲や樺太からの引揚者もいた。塩田氏は開拓者に自身の経験を教え、手厚く接した。
しかし昭和40年代に入ると離農する人々が現れ始め、昭和47年3月に西能取小学校は閉校した。
学校の沿革は以下の通りである。
昭和27年 開校(8月)
昭和37年 開校10周年記念式挙行(9月)
昭和38年 校長住宅に農村公衆電話設置(11月)
昭和42年 西能取地区電気照灯(12月)
昭和47年 閉校(3月)
令和4年9月、A.D.1600氏と訪れた。
西能取バス停留所から左折し、砂利道をひた走る。
学校跡から行き過ぎたことに気が付き、元来た道を戻り学校跡へ到着した。
西能取小学校跡。
学校跡周辺は広大な畑が拡がっている。
しかし、家屋は全くない。
学校跡の裏手にあった住宅へ行ってみることにした。
暮らしていた痕跡が残っていた。
正面に残るのはコンクリートの遺構。
井戸なのか貯水槽なのかは分からなかった。
屋敷を後にしようとすると、ふと整然と並ぶ樹木を見つけた。
近づいてみるとナシの木だった。
果樹も栽培していた名残である。
もう一度、学校跡へ立ち寄る。
植樹されたであろうナナカマドの実は紅く色づいていた。
参考文献
網走の学校史編集委員会1993『網走の学校 沿革を訪ねて』網走市教育委員会
能取開基60周年・開校55周年記念事業協賛会1969『能取史』
コメントの投稿
畑はなんか作ってそうなのだ
「能取小学校」(校舎もうないかも…)とか、美岬分校の存在は知ってたんですけど、「西能取小学校」は「バス停あったかもけど…」くらいでした。
調べてみたら、学校校舎の写真(昭和27年だったっけ?)を載せたブログさんがありまして、奥行きとかはわからなかったですが、ちっこい校舎さんでした。
能取小学校の分校じゃない…ってことは、戦後の入植時にはたくさんの人がこの地に入植したのかな?ってば思いました。
・・・けっこう内陸に入るんですねはじめっち
あたいはむずかしいことはよくわかんないけんども、たぶん手入れはほとんどされてないと思うだども、洋ナシ?たわわなのだ。
網走ってば、イチゴやサクランボの喰い放題農園を思い出すんだけど、もしかしたら、気候とかきつそうだけど、
土壌の栄養は多かったりするもんかいな?と見て取れちゃったりするのだ。もちろん、「味見」はしなかった…とは思うんだども。
・・・写真で見ると「実っこ」は大きそうなのだつるみん
調べてみたら、学校校舎の写真(昭和27年だったっけ?)を載せたブログさんがありまして、奥行きとかはわからなかったですが、ちっこい校舎さんでした。
能取小学校の分校じゃない…ってことは、戦後の入植時にはたくさんの人がこの地に入植したのかな?ってば思いました。
・・・けっこう内陸に入るんですねはじめっち
あたいはむずかしいことはよくわかんないけんども、たぶん手入れはほとんどされてないと思うだども、洋ナシ?たわわなのだ。
網走ってば、イチゴやサクランボの喰い放題農園を思い出すんだけど、もしかしたら、気候とかきつそうだけど、
土壌の栄養は多かったりするもんかいな?と見て取れちゃったりするのだ。もちろん、「味見」はしなかった…とは思うんだども。
・・・写真で見ると「実っこ」は大きそうなのだつるみん
Re: 畑はなんか作ってそうなのだ
はじめっちさま つるみんさま
お返事ありがとうございます。能取小学校の校舎は一部現存しております。
西能取は仰る通り、バス停がありますが学校跡は内陸にあるため、ひたすら土道を走って行くと学校跡に到達できます。
又聞きですが、オホーツク方面は果樹栽培の農家さんが多いと聞いております。
お返事ありがとうございます。能取小学校の校舎は一部現存しております。
西能取は仰る通り、バス停がありますが学校跡は内陸にあるため、ひたすら土道を走って行くと学校跡に到達できます。
又聞きですが、オホーツク方面は果樹栽培の農家さんが多いと聞いております。