蘭越町川上
蘭越町川上(平成30年6月10日他探訪)
蘭越町川上は農村集落である。
明治40年 昆布より中昆布(現在の立川)を経て弁辺村界(現在の豊浦町)に至る里道開通。
明治45年 山梨県移民団(今泉幸雄団長)の入植により開拓が始まった。
学校は大正6年6月、今泉団長が私設の奥昆布学校が開設され、翌7年4月に中昆布尋常小学校付属奥昆布分校として認可された。
その後も入植者が増え、造材や養蚕で賑わいをみせていたが昭和6・7年の凶作により離農者が相次ぎ、昭和8年3月に学校は閉校した。
昭和21年 外地からの引揚者を中心とした戦後開拓者の入植が始まった。入植者の内訳は、昭和21年4戸・昭和22年13戸で昭和30年までに30戸(うち7戸離農)入植し、農業、林業、畜産業を営んでいた。
学校は昭和24年8月に落成式が行われ、9月1日開校した。
昭和33年頃から離農が現れ始め、昭和41年11月に閉校。間もなく川上集落も廃村となった。
昭和58年に公社営畜産地事業が始まり翌年59年に町営川上牧場が開設された。
川上牧場管理棟傍に、川上開拓記念碑が平成3年に建立された。
学校の沿革は以下の通りである。
小学校
大正6年 私設奥昆布学校の開設(6月)
大正7年 中昆布尋常小学校付属奥昆布分校として開校(4月)
昭和8年 閉校(3月)
昭和24年 川上小学校開校(9月)
昭和41年 閉校(11月)
中学校
昭和25年 蘭越中学校川上特別教授場として開校(9月)(注1)
昭和27年 川上中学校と改称(4月)
昭和41年 閉校(11月)
(注1) 『新蘭越町史』に「蘭越中学校川上特別教授場」と書かれているが、実際は「蘭越中学校川上分校」と思われる。

蘭越町旭台を探訪後、川上集落へ足を運んだ。
「川上牧場」の看板が目印である。

道は舗装されており走りやすい。
すんなりと学校跡地へ到着した。

校舎跡の横にはブロック造りの教員住宅が残っており、笹を掻き分けて進んだ。

笹藪の中に残るサイロ跡。
この時はここで「いいですねぇ」と云って終わった。
後日、学校より先に開拓記念碑が建立されていることが分り単独で再訪した。
6月24日午前4時、川上集落を再訪。
学校跡地は2週間前に見たばかりなので、学校跡より先へクルマを走らせる。

川上牧場の施設。
その隣に、記念碑はあった。

左より馬頭観世音の碑、記念碑の説明が刻まれた碑、川上開拓碑である。
馬頭観世音の碑は昭和29年9月に建立された。

碑文
この碑は開拓団長長島外次郎発願部落民の創意に依り建立された
碑文は早川芳夫謹書施工は遠藤石材店 早川勘太郎
角田五郎氏等により現地資材のみにて完成させ長年風雪に
弱体損傷夛き為旧部落民の承認賛同を得記念碑建立と
共に川上校横より改修施工は高田石材店により移転○○○
平成三年九月吉日 願主 長島時男

碑文
この里は明治三十年頃本州よりの移住者が厳しい自然と斗ひ乍ら開拓が始ったと伝えられている
長い歴史の流れの中で繁栄し衰退した終戦後昭和二十二年満州及び樺太からの引揚者の入植により
再び繁栄したが天候不順立地条件の悪さから苦労も報われず離農続出となる
開拓苦難の体験を基に努力しそれぞれに今日の繁栄を築きあげた旧住民の愛郷の心を結集し
蘭越町長宮谷内留雄氏の特に愛郷史蹟保存えの配慮支援を得碑を建立する
平成三年九月吉日 発起人 早川勘太郎 桜田一郎 中村政幸 長島時男 三瓶勝栄

川上牧場からの日の出。
廃村で見た日の出はここが初めてであった。

さらに数ヵ月後の9月24日、A.D.1600氏と再再訪を果たす。
ブロック造りの教員住宅へは行けなかった。

正面のシラカバが生えている辺りが、恐らく神社跡と思われる場所である。
参考文献
蘭越町史編集委員会1999『新蘭越町史』蘭越町
蘭越町川上は農村集落である。
明治40年 昆布より中昆布(現在の立川)を経て弁辺村界(現在の豊浦町)に至る里道開通。
明治45年 山梨県移民団(今泉幸雄団長)の入植により開拓が始まった。
学校は大正6年6月、今泉団長が私設の奥昆布学校が開設され、翌7年4月に中昆布尋常小学校付属奥昆布分校として認可された。
その後も入植者が増え、造材や養蚕で賑わいをみせていたが昭和6・7年の凶作により離農者が相次ぎ、昭和8年3月に学校は閉校した。
昭和21年 外地からの引揚者を中心とした戦後開拓者の入植が始まった。入植者の内訳は、昭和21年4戸・昭和22年13戸で昭和30年までに30戸(うち7戸離農)入植し、農業、林業、畜産業を営んでいた。
学校は昭和24年8月に落成式が行われ、9月1日開校した。
昭和33年頃から離農が現れ始め、昭和41年11月に閉校。間もなく川上集落も廃村となった。
昭和58年に公社営畜産地事業が始まり翌年59年に町営川上牧場が開設された。
川上牧場管理棟傍に、川上開拓記念碑が平成3年に建立された。
学校の沿革は以下の通りである。
小学校
大正6年 私設奥昆布学校の開設(6月)
大正7年 中昆布尋常小学校付属奥昆布分校として開校(4月)
昭和8年 閉校(3月)
昭和24年 川上小学校開校(9月)
昭和41年 閉校(11月)
中学校
昭和25年 蘭越中学校川上特別教授場として開校(9月)(注1)
昭和27年 川上中学校と改称(4月)
昭和41年 閉校(11月)
(注1) 『新蘭越町史』に「蘭越中学校川上特別教授場」と書かれているが、実際は「蘭越中学校川上分校」と思われる。

蘭越町旭台を探訪後、川上集落へ足を運んだ。
「川上牧場」の看板が目印である。

道は舗装されており走りやすい。
すんなりと学校跡地へ到着した。

校舎跡の横にはブロック造りの教員住宅が残っており、笹を掻き分けて進んだ。

笹藪の中に残るサイロ跡。
この時はここで「いいですねぇ」と云って終わった。
後日、学校より先に開拓記念碑が建立されていることが分り単独で再訪した。
6月24日午前4時、川上集落を再訪。
学校跡地は2週間前に見たばかりなので、学校跡より先へクルマを走らせる。

川上牧場の施設。
その隣に、記念碑はあった。

左より馬頭観世音の碑、記念碑の説明が刻まれた碑、川上開拓碑である。
馬頭観世音の碑は昭和29年9月に建立された。

碑文
この碑は開拓団長長島外次郎発願部落民の創意に依り建立された
碑文は早川芳夫謹書施工は遠藤石材店 早川勘太郎
角田五郎氏等により現地資材のみにて完成させ長年風雪に
弱体損傷夛き為旧部落民の承認賛同を得記念碑建立と
共に川上校横より改修施工は高田石材店により移転○○○
平成三年九月吉日 願主 長島時男

碑文
この里は明治三十年頃本州よりの移住者が厳しい自然と斗ひ乍ら開拓が始ったと伝えられている
長い歴史の流れの中で繁栄し衰退した終戦後昭和二十二年満州及び樺太からの引揚者の入植により
再び繁栄したが天候不順立地条件の悪さから苦労も報われず離農続出となる
開拓苦難の体験を基に努力しそれぞれに今日の繁栄を築きあげた旧住民の愛郷の心を結集し
蘭越町長宮谷内留雄氏の特に愛郷史蹟保存えの配慮支援を得碑を建立する
平成三年九月吉日 発起人 早川勘太郎 桜田一郎 中村政幸 長島時男 三瓶勝栄

川上牧場からの日の出。
廃村で見た日の出はここが初めてであった。

さらに数ヵ月後の9月24日、A.D.1600氏と再再訪を果たす。
ブロック造りの教員住宅へは行けなかった。

正面のシラカバが生えている辺りが、恐らく神社跡と思われる場所である。
参考文献
蘭越町史編集委員会1999『新蘭越町史』蘭越町
コメントの投稿
No title
4か月で3回訪問とは・・・ あついっす!
Re: No title
HEYANEKOさま
コメント有難うございました。
まだまだ「廃」なモノや「郷土史」に対する情熱は失っていません。これからもあちこち調べ歩きたいと思っています。
コメント有難うございました。
まだまだ「廃」なモノや「郷土史」に対する情熱は失っていません。これからもあちこち調べ歩きたいと思っています。
はじめまして。
本ブログの情報非常に参考になりました。
北見市在住の私の父(82歳)が昭和21年入植時の27世帯の内の一家族で、川上小中学校に通っておりました。
令和4年9月には最後の旅行として、昔を懐かしむ父と一緒に車でここを探訪し、馬頭観世音の碑と祖父の名が刻まれているであろう川上開拓碑を見てきたいと思います。
令和4年7月31日現在、色々調べていた所、本ブログに巡り会えた事に感謝します。
今後もご活躍を期待しております。
有難うございました。
北見市在住の私の父(82歳)が昭和21年入植時の27世帯の内の一家族で、川上小中学校に通っておりました。
令和4年9月には最後の旅行として、昔を懐かしむ父と一緒に車でここを探訪し、馬頭観世音の碑と祖父の名が刻まれているであろう川上開拓碑を見てきたいと思います。
令和4年7月31日現在、色々調べていた所、本ブログに巡り会えた事に感謝します。
今後もご活躍を期待しております。
有難うございました。
有難うございます
一原 敬志さま
お返事ありがとうございます。川上小中学校を訪ねたのも月日が流れてしまいましたが、学校跡に残る校長住宅は笹薮に埋もれながらも現存しております。
道は舗装されておりますので、容易に記念碑のあるところまで行けます。
付近は人家もございませんので、クマには十分お気をつけ下さい。
お返事ありがとうございます。川上小中学校を訪ねたのも月日が流れてしまいましたが、学校跡に残る校長住宅は笹薮に埋もれながらも現存しております。
道は舗装されておりますので、容易に記念碑のあるところまで行けます。
付近は人家もございませんので、クマには十分お気をつけ下さい。