増毛町歩古丹 S氏の証言
私は昭和16年に歩古丹の日方泊というところで生まれた。
歩古丹は漁業が中心であったが、畑も作っていた。段々畑みたいになっているところが、畑の名残である。
集落風景 畑跡を望む
昭和22年に歩古丹小学校へ入学した。児童数は10人くらいいたと思う。夏場だけ通学していた子供もいた。
担任は、入学から卒業までずっと一緒の先生であった。先生(天内先生)は、当時50代くらいでよぼよぼした感じであった。
学校に運動場(グラウンド)は無かった。教室・職員室・トイレと棟続きの先生の部屋(教員宿舎)であった。運動場が無いので運動会も無く、学芸会も無かった。運動会は私が卒業して10年後くらいに開催された(注1)。
その頃の子供の遊びは、夏は木登り、秋はブドウをとっていた。冬になれば雪の中を漕いで遊んだ。
集落の人々が学校に寄るときは「フナダマさん」(船の神様)のお参りのときであった。お参りの後は一杯飲んでいた。
戦後まもなくの頃、ある子供が漂着した爆弾を拾ってストーブに入れて爆発し、亡くなる事故がおきた。
戦争中の爆弾と分からないで、ストーブに投げ入れてしまったものだと思う…。
歩古丹の人々は、漁の帰りに増毛へ寄って買い物を済ませていたが、冬は行くことができない。秋に味噌・醤油・米・油といった腐らないものをまとめて買って、自宅に置いていた。
歩古丹に電気が導入されたのは、昭和39年であった。それ以前はランプ生活だった。
歩古丹硫黄鉱山施設跡
歩古丹の硫黄は昔から採れた。俺らも、親父も採ってきた硫黄を火に入れて溶かし、柾葺屋根に塗っていた。
このレンガの建物は硫黄鉱山の施設で間違いないが、一度も使われなかった。硫黄を運ぶ術や採算が採れなかったからである。
昭和40年5月新築の歩古丹小学校校舎
現在ある歩古丹の校舎は昭和40年5月に新築されたが、学校が建つ前は年代さんのニシン番屋があった。
新しい学校は土地が狭いことから広場(グラウンド)が無く、子供たちは体育館で遊んでいた。学校前の海岸にある船着場は年代さんのものだ。
学校が閉校になる直前の子供は猪股、中村さんしかいなかった。
その時の校長である松本先生は当時50代であったが、集落のためにバリバリ動く先生だった。
学校の近くには寺があり、お坊さんがいた。宗派には拘らず、よくお参りしていた。
併せて、お葬式は増毛市街まで行ったが本当の昔(明治時代)は、ここで野焼きをしていたと聞いたことがある。墓石は無かったので玉石を置いていた。
また、学校から見て増毛方面の山に神社(稲荷神社)があった。歩古丹の集落が無くなる前に増毛町内の三吉神社に合祀され、三吉神社の例大祭のときに歩古丹の神社祭も一緒に行ったが、今は厳島神社に合祀されている。
学校前の海岸に残る年代さんの船着場
中村市郎さんは歩古丹の村長さんであった。小柄だったが元気があった。集落のために尽力したので叙勲を受けていたと思う。中村さんの記事で、明治時代に津波が来て30戸流出…とあるが、これは山津波(がけ崩れ)によるものだ。私も明治の山津波で30戸埋没した話は聞いたことがある。(注2)
歩古丹は確かに、津波が押し寄せたこともあったが土地が脆いので、建物は石垣の上に建てていた。
集落風景。写真中央部の瓦礫は中村家跡。
私は昭和43年に増毛市街へ転出したが、この頃に残っていた世帯は桜井(2軒)、川口、猪股、中村の5軒だった。
年代さんの船着場より学校跡を望む。上部の橋(望洋橋)は現在の国道231号である。
歩古丹集落に暮らしていた世帯は次のとおりである。
括弧で番屋と書いているものは、番屋の名称である。
佐藤、中村、鈴木、木村、川口、桜井、紀ノ国、猪股(番屋)、年代(番屋)、紀本(番屋)、同島(番屋)
(注1)歩古丹小学校の運動会は佐々木校長が赴任した昭和37年から始まった。
(注2)北海道新聞(夕刊)昭和46年3月15日付「゛部落消えても私はがんばる"増毛町歩古丹に一人で残る中村市郎さん」の記事に『明治42年12月8日、大津波が押し寄せて部落全戸が流失。またそのあと大正3年3月18日に今回閉校した歩古丹小学校すぐ裏の山がくずれて8戸が埋没、一瞬のうちに13人が死亡した大惨事などもよく記憶、部落と生死をかけてきた。』とある。
写真 平成28年4月25日・9月4日撮影
聞き取り調査 平成28年10月9日 増毛町にて
聞き取り調査にご協力していただきました増毛町役場様に感謝申し上げます。
参考文献
北海道新聞1964「六人が元気いっぱい 歩古丹小で第三回運動会」『北海道新聞』昭和29年6月29日版
北海道新聞1971「゛部落消えても私はがんばる"増毛町歩古丹に一人で残る中村市郎さん」『北海道新聞』昭和46年3月15日版
歩古丹は漁業が中心であったが、畑も作っていた。段々畑みたいになっているところが、畑の名残である。
集落風景 畑跡を望む
昭和22年に歩古丹小学校へ入学した。児童数は10人くらいいたと思う。夏場だけ通学していた子供もいた。
担任は、入学から卒業までずっと一緒の先生であった。先生(天内先生)は、当時50代くらいでよぼよぼした感じであった。
学校に運動場(グラウンド)は無かった。教室・職員室・トイレと棟続きの先生の部屋(教員宿舎)であった。運動場が無いので運動会も無く、学芸会も無かった。運動会は私が卒業して10年後くらいに開催された(注1)。
その頃の子供の遊びは、夏は木登り、秋はブドウをとっていた。冬になれば雪の中を漕いで遊んだ。
集落の人々が学校に寄るときは「フナダマさん」(船の神様)のお参りのときであった。お参りの後は一杯飲んでいた。
戦後まもなくの頃、ある子供が漂着した爆弾を拾ってストーブに入れて爆発し、亡くなる事故がおきた。
戦争中の爆弾と分からないで、ストーブに投げ入れてしまったものだと思う…。
歩古丹の人々は、漁の帰りに増毛へ寄って買い物を済ませていたが、冬は行くことができない。秋に味噌・醤油・米・油といった腐らないものをまとめて買って、自宅に置いていた。
歩古丹に電気が導入されたのは、昭和39年であった。それ以前はランプ生活だった。
歩古丹硫黄鉱山施設跡
歩古丹の硫黄は昔から採れた。俺らも、親父も採ってきた硫黄を火に入れて溶かし、柾葺屋根に塗っていた。
このレンガの建物は硫黄鉱山の施設で間違いないが、一度も使われなかった。硫黄を運ぶ術や採算が採れなかったからである。
昭和40年5月新築の歩古丹小学校校舎
現在ある歩古丹の校舎は昭和40年5月に新築されたが、学校が建つ前は年代さんのニシン番屋があった。
新しい学校は土地が狭いことから広場(グラウンド)が無く、子供たちは体育館で遊んでいた。学校前の海岸にある船着場は年代さんのものだ。
学校が閉校になる直前の子供は猪股、中村さんしかいなかった。
その時の校長である松本先生は当時50代であったが、集落のためにバリバリ動く先生だった。
学校の近くには寺があり、お坊さんがいた。宗派には拘らず、よくお参りしていた。
併せて、お葬式は増毛市街まで行ったが本当の昔(明治時代)は、ここで野焼きをしていたと聞いたことがある。墓石は無かったので玉石を置いていた。
また、学校から見て増毛方面の山に神社(稲荷神社)があった。歩古丹の集落が無くなる前に増毛町内の三吉神社に合祀され、三吉神社の例大祭のときに歩古丹の神社祭も一緒に行ったが、今は厳島神社に合祀されている。
学校前の海岸に残る年代さんの船着場
中村市郎さんは歩古丹の村長さんであった。小柄だったが元気があった。集落のために尽力したので叙勲を受けていたと思う。中村さんの記事で、明治時代に津波が来て30戸流出…とあるが、これは山津波(がけ崩れ)によるものだ。私も明治の山津波で30戸埋没した話は聞いたことがある。(注2)
歩古丹は確かに、津波が押し寄せたこともあったが土地が脆いので、建物は石垣の上に建てていた。
集落風景。写真中央部の瓦礫は中村家跡。
私は昭和43年に増毛市街へ転出したが、この頃に残っていた世帯は桜井(2軒)、川口、猪股、中村の5軒だった。
年代さんの船着場より学校跡を望む。上部の橋(望洋橋)は現在の国道231号である。
歩古丹集落に暮らしていた世帯は次のとおりである。
括弧で番屋と書いているものは、番屋の名称である。
佐藤、中村、鈴木、木村、川口、桜井、紀ノ国、猪股(番屋)、年代(番屋)、紀本(番屋)、同島(番屋)
(注1)歩古丹小学校の運動会は佐々木校長が赴任した昭和37年から始まった。
(注2)北海道新聞(夕刊)昭和46年3月15日付「゛部落消えても私はがんばる"増毛町歩古丹に一人で残る中村市郎さん」の記事に『明治42年12月8日、大津波が押し寄せて部落全戸が流失。またそのあと大正3年3月18日に今回閉校した歩古丹小学校すぐ裏の山がくずれて8戸が埋没、一瞬のうちに13人が死亡した大惨事などもよく記憶、部落と生死をかけてきた。』とある。
写真 平成28年4月25日・9月4日撮影
聞き取り調査 平成28年10月9日 増毛町にて
聞き取り調査にご協力していただきました増毛町役場様に感謝申し上げます。
参考文献
北海道新聞1964「六人が元気いっぱい 歩古丹小で第三回運動会」『北海道新聞』昭和29年6月29日版
北海道新聞1971「゛部落消えても私はがんばる"増毛町歩古丹に一人で残る中村市郎さん」『北海道新聞』昭和46年3月15日版