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美唄市東美唄 S氏の証言

美唄市東美唄は三菱美唄炭鉱で栄えた地域である。
今回、昭和30年頃より三菱美唄炭鉱に入社したS氏の証言を織り交ぜて、三菱美唄炭鉱について紹介する。
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私は昭和14年に美唄町(現 美唄市)で生まれた。美唄国民学校、美唄中学校を卒業して少し経った昭和30年頃だったと思うが、三菱美唄炭鉱に就職した。
当時は中学を卒業したら集団就職で本州へ行くか、自衛隊か炭鉱しか選択肢がなかった。
学校には1クラス40名位いたが、高校進学者は数名程度であとは全員就職であった。

三菱美唄炭鉱に就職して、私は「工作機械課」に配属された。
「工作機械課」というのは4~5人1個チームで、坑内で使う機械類のメンテナンスを行っていた。
賃金は一番安かったが、残業で稼いだ。
炭鉱の仕事で一番賃金が高いのは採炭であったが、身体が小柄であったので採炭は出来ないと思った。
16年勤務したが、ずっと二坑のみであった。

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当時、私は我路の沢に居住していたが二坑で勤務する炭鉱マンは全員、旭台に住んでいた。

仕事が終わると自宅で宴会をするか、呑みに我路町へ出かけた。
作業中、いつ事故で死ぬか分らないから、仕事が終わったらよく飲んだ。
我路町よりも先に宮の下という地区があったが、そこは寿司屋、雑貨屋、食堂2軒、酒屋など10軒連ねていた。
酒屋の一角には角打ちが設けられており、焼酎の盛切りを呑むことができた。

ただ、宮の下は食事に行くような感覚で行ったので、呑みに行くのは我路町へ行くことが多かった。
旭台や常盤台など奥に住む炭鉱マンは、近道といって各地区の沢沿いに人ひとり通れるくらいの道路を往来していた。
行きは徒歩だが帰りは我路町にあったタクシー(昭和ハイヤー我路営業所)で帰宅した。

常盤台にも親戚が住んでいたので、何回か行った。常盤台は1区・2区・3区と分かれており、学校は3区にあった。
学校周辺(常盤台3区)のほうが店や飲み屋も軒を連ねていたので、一番賑やかだった。
いつぞや話していた「第三立坑」の櫓についてはすまないが分からない…。

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番町(現 スキー場)は炭鉱の職員住宅が建ち並んでいた。番町の頂上からさらに奥にも炭鉱があったが、私が入社した頃は既に閉山していた。

私はその後三菱南大夕張炭鉱へ配置換えとなり1年弱、夕張市南部菊水町に居住していた。
美唄のニ坑から3~400人くらい配置換えになったと思う。新鉱開発も行われたが、私はそこまで詳しく分らない。

※写真は平成18年10月28日・平成20年4月4日探訪時のものである。

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プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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