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2012年1月 3日 (火)

愚者の楽園再訪

William Bowles

2011年12月28日

williambowles.info

私の前回の記事(英語原文)は、少なくともその読者数から判断して、疑いようもなく、痛いところを突いたようなので、特に私が拝読したコメントを踏まえて、この話題は更に検討する価値があるだろうと私は考えた。

文章を掲載したあるウェブサイトは、‘誇張された主張’だという前書きをおいてはいたものの、反応は概して好意的だった。他のコメントは‘しかし一体何故人はテレビを見るのだろうか?’から‘当たり前のことを言っているだけだ’まで、実に様々だが、もしそうであるなら、一体なぜこれほど読者が多くおられるのだろう?

[イランに対する]威嚇は、破廉恥で、厚かましい国際法違反である’ — スティーブン・M・ウォルト、ハーバード大学、国際関係教授

あるいは、あまりに完璧な情報支配体制に捕らわれ、我々のほとんどが、ある種、逆の感覚遮断とデータの過剰負荷に苦しみながら、現実世界との接触に飢えているせいなのだろうか?

我が政府の所為と、‘文明’世界の蛮行に対する大衆の反応(と言うより反応の欠如)の間のほとんど全面的な断絶を他にどうやって説明できようか? これも‘彼ら’を飢えさせていることに対し、我々が何百万も‘慈善基金’寄付している事実にもかかわらずだ。

国民の名において、全く責任を問われることなく大量殺りくを遂行する政府の偽善と、大衆の明白な無関心を、ほかにどう説明できるだろう?

確かに我々は事実を知らされてはいないのだが、それこそプロパガンダにほかならないとはいえ、今日の状況を、たとえば1960年代の、小規模ではあったにせよ、依然、確固たる反対派があった頃の状況と比較すると、当時のものは、労働組合を含む、労働者階級の組織に根ざしたものであり、またそれが、より広範かつ、深い政治文化を反映していたのだ。言い換えれば、左翼は労働者階級の長い伝統に根ざしていたのであり、進歩的な戦いは、二世紀前にさかのぼる。

変化の一部は、1960年代の労働人口の約50%という高い数値から、現在の約15%へという労働組合員数の大幅減によって説明可能だ。労働組合は、改革派の役割を演じながらも、依然として、労働者に、経済生活の階級的本質を知らしめる、政治的孵化器だった。それゆえにこそ、経済問題だけでなく、スト権はもちろん、彼らの政治的な力を制限すべく、資本主義が、あらゆる手段を使って、彼らと戦っているのだ。

脱工業化と脱組合化は、仕事や社会全体を破壊するのみならず、我々の文化をも破壊し、その過程で我々の過去をも消し去っている。ある種、進行中の文化的大量殺りくなのだ。

サッチャーの下、大企業によって始められた反革命、いわゆる新自由主義は、労働者階級の共同体文化の破壊もさることながら、資本による支配に対する労働者階級の抵抗を破壊することも狙いだった。このプロセスは、ソ連の終焉と共に効果的に達成された。

だが明らかに、戦いの終わりではない。

だが今日の戦いは、それとは対照的に、根無しの、占拠運動(それに先立つ反グローバリゼーション運動)が実証している通りと私が主張する、歴史に裏打ちをされていない‘社会的・歴史的真空’の中に存在しているのだ。

反社会メディア?

当初、大半の左翼によって、悪魔の道具として非難されていた、コミュニケーションの新たな手段は、とうとう、魅惑されたように左翼が受容するところとなった。フェースブック上に置いた何千ものページに含まれている情報に対して、これらの組織は何の管理もできないこと、更に悪いことには、一体誰がそうした情報にアクセスしているのかも全く分からないという事実にかかわらず、すべての左翼/進歩派組織は、今やフェースブックや、ツィッターにページを持っている。

多くの左翼組織が、自らのウェブサイト上では広告を受け入れようとしないのに、フェースブックを利用することに満足して、5億人以上もの地球上の人々に関する最大のデータベース!に貴重な情報を提供し、フェースブックの価値を強化しているのは一種皮肉なことだ。

そのことが、理論的には、帝国のプロパガンダ機構による死の抱擁から、我々を解放してくれるはずのツールを活用するのに、帝国がなぜこれほど成功したのかを説明している。帝国が見事成功したのは‘ソーシャル・メディア’と商業/国営メディアとの効果的な融合なのだ。現在‘市民ジャーナリズム’と呼ばれているものは、‘帝国市民’ジャーナリズムと呼んだ方が良いのかも知れず、なぜ左翼が、これほど素早く、リビアの反乱を容認し、爆弾が落下し始めるまで、シリア独立の擁護に熱心ではなかったかという理由を部分的に説明できると私は主張したい。

テレビ: アンチ・ミラー

過去を切り貼りして、単なる‘ニュース’以上のものとして提示する、資本主義の下でのテレビの勝利は、テレビが取り上げる生活のあらゆる側面、特に歴史にまで及んでいる。どれも、過去を切り貼りし、大量消費用として無難なものにした圧倒的多数の、テレビ‘歴史’番組の存在を説明できる理由は他にはない。

労働者階級の生活が(‘イースト・エンダーズ’、‘コロネーション・ストリート’、‘ローヤル・ファミリー’、‘シェームレス’等々)(メロ)ドラマ的な形で提示される場合、いずれの作品も、労働者のことを、読み書きするのがやっとで、消費と有名人に夢中で、悪質なホーム・ドラマに常に巻き込まれている人々として描いている。パブや台所の生活はほとんど存在しない。

全く対照的に、‘コロネーション・ストリート‘ が1960年に最初に登場した際、番組は、意識的に、実際の北部労働者階級の生活に根付いていた。番組は現実のもので、コロネーション・ストリートの住人達の精神的豊かさとユーモアにテレビ視聴者が共感し、そのおかげで番組はヒット作となった。番組は、労働者階級の生活を、方言を使って、実際の暮し通りに、多くの視聴者に提示する初めての試みでもあった。意図的に、労働者階級の番組であり、そのことを誇りにしていた。

テレビは驚くべき手練のごまかしだ。全員が、資本の要求に仕えるべく企画され、作り上げられた大学制度の製品たる‘中流階級’インテリ連中によって語られる、ニュースであれ、ドラマであれ、宣伝であれ、プロパガンダは、大衆文化と、我々のものだと主張されている世界の見方を生み出すことに成功した。しかし、それは、受動的に消費することに満足している、仮想労働者階級つきの、作り上げられた世界だ。

歴史を改竄し、購買の対象へと変換することで、過去とのつながりは破壊されてしまう。全ての商品同様、商品としての歴史は、刹那的で、‘新しいもの’に道を譲るべく廃棄されるものとなる。我々は、明らかに愚者の楽園で暮してはいるのだが、それは我々自身が作り出したものではなく、この楽園を取り仕切っている愚者連中が作っているものだ。

どのように切り取ろうが、階級問題は、私たちの集合的な歴史の中心的、隣接的部分であり、我々全員を脅かしている危機にまつわる公的議論として通用しているものから欠如しているものだ。

記事原文のurl:williambowles.info/2011/12/28/a-fools-paradise-revisited-by-william-bowles/

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年頭にあたり、読者と、温かいコメントくださった皆様方に感謝申しあげます。

(通りがけ様から、記事とは関係が薄いコメントを、いまだに頂くが、コメントを公開する予定はないことを、改めてお伝えしておく。コメントを書き込むだけのお時間があれば、ご自分でブログを立ち上げるのは極めてたやすいことと想像する。かかる時間も同じか、それ以下だろうから。)

この記事は、同じ筆者による、一つ前の記事に続くもの。

訳しやすく、よりわかりやすい?ので、新年の翻訳記事として公開させていただく。

国営放送の大作歴史ドラマ?「坂の上のまぼろし」に全く関心がなく、龍馬ドラマやら、大河歴史ドラマを一度も見たことがないものとして、筆者の意見には全面的に賛成だ。

山本五十六映画も見る予定皆無。お金も時間も有限なので。

「マッカーサーの日本占領」、「吉田・岸との植民地支配共謀」といった歴史検証番組ならば見たいものと切に思う。もちろん、「TPP参加をあおる屈米マスコミ」(本澤二郎の「日本の風景」)が、覚醒をうながすような番組をつくる可能性はきわめて低い。2日のマコーマック・ダワー対談、希有な例だろう。

夕方、崩壊したソ連で作成されたアニメの放送を見ながら、ふと考えた。

任侠映画の再放送は、あるのだろうか?

大昔『若者たち』というテレビ・ドラマを見た記憶がある。

「意図的に、労働者階級の番組であり、そのことを誇りにしていた。」ような気がする。『男はつらいよ』も、ほのかな階級的メッセージがあればこそ、貧乏人の小生、共感して見られたのだろう。松竹『男はつらいよ』封切り当時、学生に人気があったのは、東映任侠映画。場末の映画館でこころならずも参考のために任侠映画を見ていた際に、学生運動に夢中とおぼしき人々が、主人公が殴り込みを決意する場面で『意義なし!』と叫んだ違和感は、忘れられない。

今思えば、任侠映画、まさに上記文章の言う通りだったろう。

歴史を改竄し、購買の対象へと変換することで、過去とのつながりは破壊されてしまう。全ての商品同様、商品としての歴史は、刹那的で、‘新しいもの’に道を譲るべく廃棄されるものとなる。我々は、明らかに「愚者の楽園の映画」を見て暮してはいるのだが、それは我々自身が作り出したものではなく、この楽園を取り仕切っている愚者連中が作っているものだった。

政党幹部や都庁幹部、あの当時マスコミが称賛した学生運動の立役者だった方々が多いように思う。

当時一世を風靡した学生運動、任侠映画と、何か共通点があったのだろうか?

坂本義和著の岩波新書『人間と国家』下巻、82ページに、雑誌が東大全共闘を称賛するのに対する違和感が書かれている。

彼らのふるまい・資金源にカラー革命の原型が見えるような気がするのは、老化メタボの被害妄想だろう。

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コメント

今年もよろしくおねがします。
先般、コメント欄で「全て発信される記事が何らかの意図がある」風なコメントを見ました。
私はそれでも誰にとって意図があるのかが見極める為にも
色々な情報を選択しなければならないとおもいます。
私の立ち位置、それは権力者でもなければ、資産家でもなく、一介の労働者と言う立ち位置です。
権力者に利用されることもあるでしょうが。
自分が誰かを見失わないように注意をしながら。
(私のばあい影響力がないので直接的に利用される事はないと思います)

明けましておめでとうございます。
旧年中は色々とお世話になりました。
今年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

>彼らのふるまい・資金源にカラー革命の原型が見えるような気がするのは、老化メタボの被害妄想だろう。

学生運動の元闘士だった人で、山口組みに入った人も多いそうですね。
あの学生運動はアメリカ主導で児玉誉士夫などに陰で操られていたのだというのが、もっぱらの噂らしいですね。
カラー革命としたら、「アカ」でしょうか。

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