はてなキーワード: 無益とは
釈迦(ブッダ)はバラモン教の階級制度・有料儀式・神々への依存を徹底的に喝破した。
金銭で功徳を買う行為など、想像すらしていなかったはずだ。それが特に日本では、死後の戒名授与や高額お布施を伴う「葬式仏教」として定着した。なぜ、輪廻からの完全脱出を理想とした教えが、死者供養のビジネスに変貌したのか。原始仏教の思想と大乗仏教の展開、そして日本独自の歴史的必然を、独立した視点で整理する。
紀元前5世紀頃のインドで、釈迦は当時の宗教界を根本から批判した。バラモン教は祭祀・呪術・金銭による功徳取引を基盤とし、永遠の魂(アートマン)を前提に輪廻を語っていた。これに対し、釈迦は諸行無常・一切皆苦・諸法無我の四法印を掲げた。世界は瞬間ごとに生滅し、固定の実体(我)はなく、生老病死は避けられない苦である。
出家者(比丘)に対する戒律は厳格だった。律蔵(Vinaya Pitaka)では、金銀の授受を明確に禁じている。「比丘よ、金銀を受け取ってはならない。他人に受け取らせてはならない。これを破れば捨堕の罪である」(Nissaggiya Pācittiya 18)。布施は自発的な喜捨でなければならず、対価としての儀式販売は許されなかった。葬儀自体も、僧侶の直接関与を避ける傾向が強かった。死体は「穢れ」とされ、修行の妨げになるとされたからだ。
「完全な消滅」(無余涅槃)が理想で、永遠の魂を前提とする常住論も、すべてが無になるとする断滅論も、ともに「中道」から逸脱した邪見とされた。
神頼み・儀式依存・金で救済を買う商売を、毒矢の譬え(矢が刺さったまま原因を詮索する無益さ)で一蹴した。目的は個人の解脱であり、組織化された宗教団体すら、釈迦自身は最小限に留めた。
釈迦没後約500年後、インド北部で大乗仏教が興った。「小乗」(上座部)と自らを区別し、「大いなる乗り物」として一切衆生の救済を掲げた点が決定的だった。原始仏教の個人解脱に対し、大乗は菩薩道を理想とする。菩薩は自らの涅槃を遅らせ、衆生を救うためにあえて苦行を続ける。
衆生の能力や文化に合わせて教えを柔軟に変容させる手段だ。これにより、厳格な出家戒律や無神論的性格が緩和された。
中国に伝わった大乗は、現地の祖先崇拝や道教的儀礼と融合。死後供養・功徳回向が積極的に取り入れられ、在家信者向けの浄土信仰(阿弥陀仏による救済)が拡大した。戒律も大乗戒(梵網経など)として再解釈され、菩薩の利他行を優先するようになった。
この方便は、仏教の「生存戦略」でもあった。民衆に広まるためには、現地文化に適応せざるを得なかった。しかし同時に、原始の精神を薄め、儀式・供養・経済的布施への依存を許す土壌を生んだ。インド・中国ではまだ「死後ビジネス」までは発展しなかったが、日本への伝播で決定的な変化が起きる。
仏教は6世紀に日本へ伝来したが、当初は国家鎮護・貴族の氏寺として機能した。飛鳥・奈良時代、僧侶は葬儀に直接関わらなかった。死の「穢れ」を嫌う神道的な観念が強く、官僧(国家公認の僧)は死体に近づくことを避けた。
転機は鎌倉時代だった。遁世僧(とんせいそう)と呼ばれる民間僧が現れ、死の不安に苛まれる庶民のために葬儀・供養を積極的に担った。
1630年代、幕府はキリスト教禁制のため寺請制度(檀家制度)を全国に施行した。全庶民をどこかの寺院の檀家に強制登録させ、寺が戸籍(宗旨人別改帳)を管理。出生・死亡・婚姻の証明を発行し、死体検分まで行った。結果、葬儀・法事・戒名授与が寺の独占業務となった。戒名(死後与えられる仏弟子の名)は、元々出家者の生前名だったが、日本では位階付き(信士・居士・院号など)で一般化し、「長い戒名=高額お布施」という金銭取引が生まれた。
荘園崩壊後の寺院経営危機も、檀家からの継続的布施を必要とした。こうして、原始仏教の「金銀は毒蛇のごとし」という戒律は、遠い過去のものとなった。
江戸幕府は仏教をキリシタン摘発の道具に利用した。信仰の自由などなく、寺檀関係は義務だった。
大乗の方便が、日本古来の祖先崇拝・家制度と結びついた。死後の供養は「家」の存続を象徴し、戒名は家名を仏教的に昇華させる手段となった。
少子化以前から、寺院は布施に頼らざるを得なかった。方便の名の下に、原始の喝破精神は置き去りにされた。
浄土真宗のように法名を簡素化・生前授与する宗派もあるが、多数派は戒名料を伴う葬儀中心だ。
今日、寺離れ・直葬(火葬のみ)の増加は、この歴史的矛盾を浮き彫りにしている。原始仏教の視点から見れば、戒名料や葬儀独占はブッダの教えに明確に反する。金で徳を買う行為は、貪欲を増長させるだけで、涅槃の道ではない。
大乗の方便は、仏教を世界に広めた功績がある。しかし、少子高齢化で檀家減少が進む今、僧侶自身が「生活仏教」への転換を模索している。生前からのつながり、戒名なしの俗名供養、原始の喝破精神への回帰―これが、本来の仏教が「葬式屋」から脱却するための道かもしれない。
アンチ宗教の精神を忘れたとき、仏教は単なる葬儀屋となる。2000年の歴史を振り返り、私たちは再び「中道」を問う時を迎えている。
原始仏教(パーリ経典・律蔵)では、こうした商業化された「功徳取引」は一切認められていません。以下に、ブッダの直接的な言葉を引用しながら、論理的に評価します。
律蔵(Vinaya Pitaka)のNissaggiya Pācittiya 18(捨堕法第18条)で、ブッダはこう喝破しています:
さらに、Saṃyutta Nikāya 42.10(比丘と在家信者との対話)で、ブッダは頭首(在家指導者)に対してこう明言します:
また、同様の文脈で:
戒名授与や葬儀での「謝金(お布施名目)」は、僧侶が金銭を直接・間接に受け取る行為です。これは律蔵違反そのもの。ブッダは「金銀は毒蛇のごとし」とまで戒め、托鉢(最低限の食のみ)で生きる純粋な出家生活を定めました。金で「戒名(仏弟子の証)」や「功徳」を売るのは、僧侶が世俗の商売人になることを意味し、ブッダの教えの根幹を崩します。免罪符も同様で、「罪の免除」を金で買うのは、バラモン教の有料祭祀(ブッダが激しく批判したもの)と全く同じです。
ブッダは布施を最高の徳の一つと讃えますが、それは期待や対価を伴わない純粋な generosityでなければ意味がないと繰り返します。Dhammapada 354(法句経):
また、Sappurisa Dāna Sutta(善人の布施経)では、布施の正しいあり方を5つ挙げています:
• 敬意をもって与える
• 適切な時に与える
• 慈悲の心で与える
これに対し、金銭で「戒名を買う」「功徳を買う」は、対価を前提とした取引です。ブッダはこれを「貪欲の汚れ」と見なし、SN 16.3(月のような経)でこう警告します:
戒名料は「長い名前=高額」「位階付き=高額」という明確な価格表があり、功徳を「買う」商業行為です。これは布施の本質(無私の喜捨)を汚し、僧侶・信者双方の貪欲を育てます。ブッダがバラモン教の「有料祈祷・供犠」を喝破した理由もここにあります。免罪符も「金で罪を帳消しにする」という同じ論理で、ブッダなら「無益な戯論(無意味な議論)」と一蹴したでしょう。
ブッダの核心は諸行無常・一切皆苦・諸法無我。輪廻からの脱出(涅槃)は、貪欲・執着を断つことによってのみ得られます。金で徳を買おうとする行為は、執着を強化するだけで、苦の根源(渇愛)を断ちません。むしろ「金さえ出せば救われる」という幻想を生み、悟りを遠ざけます。
ブッダはĀdiya Sutta(AN 5.41)などで、財を正しく得て正しく使うことを認めますが、それは在家信者の生活であって、僧侶が「徳を売る」ことを正当化するものではありません。僧侶が金銭に手を染めると「沙門の道に非ず」と断じています。
原始仏教の立場から、戒名料や免罪符のような行為はブッダの戒律・教えに明確に反する。それは大乗の「方便」や日本独自の檀家制度で後から生まれた慣習で、原始の精神から逸脱しています。ブッダ自身が生きていたら、「金で仏弟子の名を買うなど、愚か者のすることだ」と痛烈に批判したでしょう。真の布施は「心の喜捨」であり、金で買えるものではありません。
よくわからない部分を書いておく。
■形容詞節
whose actual paid job it is to try to get those in power to think about a higher power
■それ以降の後半部分も分からん
got about as ticked off as a polite Southern gentleman of faith is allowed to get.
というわけで自分なりに分かったことと難しくてわからんかったことを備忘録的に残すなど。補足してくれる人がいたらうれしい。特に冒頭の job と it の扱い
そういえば昔の日本に花壇って無いな
朝顔の園芸品種を栽培とかしてたから園芸趣味自体はあったはずなのだが
あるいは庭木、低木のイメージ
意外だな
そもそも「いや、花壇あるよ?」という可能性はある 自分が知らないだけで
関心は歴史に移った
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・レンガで枠を囲ってパンジーとかを植えるような花壇はすごく最近成立したのでは、という勘
・園芸趣味は日本において町民の嗜み、であれば花壇の土地を確保困難、一方で西洋で園芸趣味を行ったのは……のような論立てを仮置きできそう、その予断をとっかかりとして調べる
・園芸シミュレーターみたいなゲームを思い出したとき、西洋文化圏の温室内も鉢植えだらけだったような……(そりゃ温室内に普通花壇は作らん、自分もサボテンやってるからそこらへんの事情の想像はつく)
・しかし「園芸趣味」と一口に言ってもいろいろあるから断言はできんよな……温室内に地植えとかすることもあるし
・中華圏のそれも調べたい
・「庭園史」の話まで広がるかも、っていうか関心は庭園史そのものだな
・用語定義の勘違い!庭園史が指す範囲の理解誤り、関心対象にズレ(Wikipediaのページ内容流し読みする限り)庭の中の植物の取り扱いが関心だものな
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チューリップバブルの頃の、投機目的ではなく花を咲かせて鑑賞するときのチューリップはどのように栽培していたのか?
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一息ついたし花壇のWikipedia見るか
うむ、めちゃくちゃ参考になる情報が書いてあるな
明治以降に定着、やはり
やっぱりモノの史を調べるのは楽だな……
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つまりこうだな
明治以降、市民の住宅事情がどのように変わり、いかにして現在の「庭」が誕生し、その中で花壇はどのような立ち位置だったのか?
あるいは公共空間……学校の花壇や歩道沿いの花壇がいかにして作られ市民に受け入れられたのか?
(「つまらない“史”など無い」とも言える(これに具体的な反例をいくらでも挙げられるかもしれないが、それをするのは無益だ))
おい、まだ生きてるのか?それとも死体のように横たわって、無益な時間を浪費しているだけか?
お前のその締まりのない顔を今すぐ冷水に叩き込め。心臓が悲鳴を上げるまで冷やして、ようやく自分がどれだけ甘ったれた世界にいたかを自覚しろ。
そのまま外へ這い出して、心肺が焼き切れるまでアスファルトを蹴り上げろ。筋肉の痛みは、お前が怠惰に耽っていたことへの正当な罰だ。
そして、その汚い胃袋にゴミのようなジャンクフードを詰め込むのを今すぐやめろ。お前の血肉は燃料だ、快楽の道具じゃない。
仕事についても同じだ。殺意を持ってデスクに食らいつけ。お前の代替品なんていくらでも転がっていることを忘れるな。
集中しろ。限界のその先で、ようやく人間として認められる最低限のスタートラインに立てると思え。
立ち止まるな、思考を止めるな、ただ結果だけを俺の前に持ってこい。
薛剣(セツ・ケン)駐大阪総領事が吹き上がった最初のポスト、朝日が勝手につけた「認定なら武力行使を」という文章に反応してしまっただけだろ。
https://x.com/yumi_kobayashi_/status/1991026535890112673
高市発言を批判している中国側も日本の左派も議事録をきちんと読まずに印象だけで批判している傾向がある。例えば以下の問題に正確に答えられるヤツがほとんどいない。
https://x.com/komaken3/status/1991053407663398934
「軍国主義回帰」だの実態に即していない妄想からくる批判を垂れ流している。怒るなら正確な情報に基づいて怒れよ。デマや不正確な理解が原因で殺し合いするのがいちばん無益でアホらしい。
よしんば今回の件を正確に理解できているとして、じゃあ従来の政府見解からどれくらい「踏み込んだ」発言なのか、外国の人間にきちんと説明できるか?こんなの政治家と役人しか理解できてないし、ましてや中国なんて「戦争上等!」の国にこんな微妙なニュアンスの違いなんて理解できる訳がない。単に「武力行使!また日本が軍国主義に!」と80年前のずれた理解で吹き上がっているだけだろ。
もちろん日本も武力を有している以上無分別な行使は抑止しなければいけないのは分かるが、現実的に考えて中国みたいな好戦的で野蛮な国と国境を交えているのに微細な憲法論議に何の意味があるのか、もう一度考えるべきだろう。中国の言い分をサポートしている左派はマジで分断を煽っているだけで無益なのでいいかげんわきまえろ。
釣りタイトルです。その理由は、ネガティブな情報を探して「しまって」いる人達の助けになればと思ったからです。
これを読んでいるあなたも、赤井はあとさんとさくらみこさんの記事を色々見てきた事でしょう。
あなたは真相を知りたいですか? 心無い投稿をやめさせたいですか? それとも、なにか安心を得たいですか?
いずれの方も少し、お付き合いください。
「心無い事を言う人ほど声が大きい」
と、よく聞きませんか?
なぜ声が大きいのでしょうか。たくさん投稿しているから?その人のインプレッションが大きいから?有名だから?
いずれも違います。
本当の理由は、見る側の心理の影響です。人間の心理が、ネガティブな情報ほど目立って見えるようにできているからです。
ネガティビティ・バイアスと呼ばれる心理の働きで、人間は前向きな情報よりも後ろ向きな情報に目を向けるようになっています。
結婚のニュースよりも不倫のニュースのほうが目立って見える。たとえ後者が憶測で書かれた記事でも、記憶に残るのは後者です。
これは、人類進化の過程で、リスクを伴う情報に着目するようになったからと言われています。
詳しくはネガティビティ・バイアスで検索すると情報が多数出てくるでしょう。
今回の騒動もこのネガティビティ・バイアスにより、マイナスなことが書かれた記事が多数の閲覧数を稼いでいます。
そう、「稼いで」います。
マイナスなことを書くと、暴露の様な憶測を書くと、注目を集め、儲かるのです。
マイナスの事を語る記事を閲覧して憤っていたあなたも、推しを悪く言う人のお金儲けに協力しているのです。
そして、ひとたびマイナスの事を語る記事を見ると、ネガティビティ・バイアスなど無視してAIが「似たような記事」をたくさんおすすめしてきます。
レコメンド(おすすめ)機能はそれなりにwebに触れていれば理解している方も多いので、そこをスルーして検索で記事を探そうとする方もいるでしょうが、
脳内ではすでにネガティビティ・バイアスが働き、無意識にマイナスの事を語る者を探してしまうようになっています。
解決策は単純で、記事を見る手を止め、真偽不明の情報を目に入れないことです。
しかしVtuberビジネスは芸能界と同じレベルにまで膨らんだ上、活動者は半匿名状態という特殊な業界である以上、
真相、裏側は決して表に出ることはありません。当事者同士が裁判でも起こせば話は別ですが、それも当事者たちが
今後の活動に利があるか否かを天秤にかけた上で慎重に決めることです。過去にVtuberの裏の交流がバレてしまい、
最終的に裁判が起こったこともあって当事者が実は既婚者だったことも明らかになった事件がありましたが、今回の騒動では
関係者からの発信についても同じです。関係者は入社・退社時の契約内容によってある程度情報発信を制限されていると想定され、
「元カバー社員」とか「元Vtuber事務所スタッフ」と名乗る者たちもその立場であった証拠を出すことはできません。
訴えられたら即負けるからです。そのため、そうした発信は一部、全部に限らず虚偽である可能性のほうが高くなります。
よほど義憤にかられて「自分はどうなっても良いからファンのために立ち上がる」という人がいたのであれば、匿名ではなく
名前と立場を明らかにして発信するかもしれません。あなたの見た暴露は、そうした覚悟を持っている人のものでしたか?
違うと思います。最近では立場を守りながら暴露するといった手法が流行っていますが、何らかの事実があれば、例の人がそうした
人間にコンタクトを取り、大々的に取り上げるでしょう。金になりますから。そうした金儲けの暴露配信者も、訴えられたときの
金銭的リスクと暴露配信の敢行を天秤にかけて最終的に触れないことも多々あるでしょうから、暴露配信が始まった際は
暴露するほうが儲かる確証や、暴露側に何らかの優位性があったと考えるべきでしょう。
悲しみはよくわかります。
私も卒業生のファンアートは、卒業後しばらくの間、目に留まると悲しい気持ちになります。
ただ、それだけです。悲しみを消し去ることは難しい。受け取る側は、待つことしかできないのです。
受け取る側がなにか声を上げて良くなることはほとんどありません。
他に応援している人がいたら、そちらの応援を続けたほうが心には良いです。
ただ、それらを発信する者の投稿を見ること自体が、悪意ある金儲けに加担することになります。
カバーもそれなりの規模の企業なのですから、悪意ある発信者の排除はそちらに任せておきましょう。
私も心理学を学んでいなければ、「ネガティビティ・バイアス」の事を知らずに延々とマイナスのことを語る
記事をあさり続け、安心を得ようとして逆に不安を増大させていたと思います。
この状況に即効性のある特効薬はありません。ただ、不安を増幅させないためには、これ以上情報を
探すことを辞める。これに尽きます。
以上です。
さあ、無益な探索はやめて、他に応援している人がいればその人の応援を続け、渦中の人しか応援してこなかったのであれば
渦中の人たちを忘れろとはいいません。その人達の楽しかった配信・ライブ・コンテンツを見返しても良いでしょう。
いつか帰ってきたとき、その思い出を本人に伝えてあげられるように。
北アルプス槍ヶ岳・北鎌尾根の登山に挑んだ男性が滑落事故に見舞われ、死亡した件が話題になっている。まずは故人の御安霊の、安らかならんことをお祈り申し上げる。
これだけなら登山中の不幸な事故、で終わる話なのだが、死亡した男性の妻が出産を目前に控えた妊婦という背景があり、Xで大論争を呼んでいる。臨月の妻を尻目に命がけの登山をするなど言語道断であり、夫としての、父としての自覚がなさすぎるという批判が大半だ。
聞くところによると北鎌尾根は、通信エリア圏外にあったりルート選択が難しかったりという理由のため、遭難事故が多く発生している山らしい。長野県警の山岳遭難救助隊が警告を出すほどに。
確かに臨月の妻がいる身でそんな危険な山に挑んだというのは、無謀との誹りを受けても仕方ないかもしれない。しかし妻の方は夫の登山に同意していたようなので、その時点で外野がどうこう言うものでもないだろう。
また、「登山という趣味が危険を伴うものだと知っているからこそ、子供が生まれれば自分の趣味を十分には楽しめなくなるとわかっているからこそ、出産前に一度登っておきたかったのではないか」という意見もあった。本当にその通りだと思う。
被害に遭われた男性は登山直前に、妻にメッセージを送っていたようだ。夫婦間の事情は私が知る由もないが、少なくともネット上で見つかる情報を見る限り、決して夫婦仲は険悪ではない。遺体発見の報を受けた妻側からの沈痛なポストもあったが、本当に被害男性が妻を蔑ろにしていたのであれば決して書き込まれることのなかった文面だった。穏やかな家族生活が一瞬で奪われてしまった被害男性、および遺族のことを考えると、やはり同情の念を禁じ得ない。
それで本題はここからなのだが、Xを見ていると、被害男性に対する批判があまりにも過熱していないかと感じる。主な批判の内容は、冒頭に書いた通りである。
確かにその批判は正論かもしれない。しれないが...これは結局のところ不幸な事故に過ぎず、こんな展開を希求した者はどこにもいなかったはずだ。被害男性は過酷な山岳の中で、耐えがたい苦痛を抱えながら、妻と子供を脳裏に思い浮かべながら、非業の死を遂げてしまった。決して家族をないがしろにするつもりなどなかったのに、インターネットでは文字通り被害男性に対しての”死体蹴り”が行われている。これでは彼も浮かばれないであろう。
妻についても同様だ。批判が過熱すればするほど、彼女は自らの行いを悔いるだろう。強烈な自責の念と共に今後の人生を生きていかねばならない彼女の心中は、察するに余りある。
もはや現在のXの論争は、被害者遺族の事情など知らんぷりで、「そもそも妻は妊娠中でなにもできないんだから趣味なんてやってる場合じゃない」だのなんだのが主流になっている。しかしそうした場外乱闘の盛り上がりの裏では、被害男性や遺族の尊厳が見るも無残に踏みにじられている。
暴走する正義がいかに恐ろしいかを、この件もまた端的に示している。自分自身こんな文を書いている分際で説得力に欠けるかもしれないが、もうこの件についてはそっとしておいてあげてほしい。誰も死にたくて死んだわけじゃない。誰も泣きたくて泣いているわけじゃない。だというのに、無闇矢鱈に傷口を塩を塗り込む行為に、いったい何の意味があるというのか。
繰り返しになるが、これは不幸な事故だ。外野の我々にできることと言えば、この事故から学び類似の悲劇を繰り返さないように努めることくらいであり、無益な死体蹴りは一刻も早く止めるべきである。
見栄と虚言とに彩られし世界、嘘松の花は咲けども、ひとときの春の色にすぎず。
そも、いづれの世にか男も女も、ネットの海に旗を立て、剣を抜きて、
「表現の自由」だの、「男性性と戦ふ聖女」だのと叫びしは、何の益かありけん。
皆、老の坂をくだりて才は錆び、二周おくれのITの弓も折れはてぬ。
神の恩寵、ただ彼らが陣にくだりけり。
あはれ、われらが軍、幾度となくマウントの矢を射かけ、スレッドの刀を交へしも、
何ひとつ得るところなかりけり。
むしろその毒にあたりて、心、病におかされ、統失の如く荒れ狂ふばかりなり。
ボーイミーツガールの戦さ、もはや起こらず、
男女とて才は蘇らず、人生の花は再び咲かず、
ただ無常の風に散りぬるのみ。
されば申す、剣を収め、旗を巻き、
十歩のうちなる現実にぞ立ち帰るべき。
和歌にいはく、
「露と落ち 露と消えにし 我がネット 夢の跡こそ 哀れなりけれ」
(露と消えたる我がネットの夢の跡は、ただ哀れなりけり)
われらがQOL、爆上がりすべし」と。
かくのごとく語り伝へて、涙を落としけり。
盛者必衰の理をあらはすは、SNSのきらびやかなる画面なりけり。
驕れる者も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
強き者もつひにほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
旗を巻け、剣を収めよ、兜を脱ぎて、
秋葉原の歩行天に魂を残し、
あはれ、まだ迷ひの雲に籠り、
Xの陣にて囀る「かなしき方々」ありと聞く。
そは昔、二千年代の戦さにて、
「ブログ」という盾を構へ、
「2ちゃんねる」の城に籠りて、
されど今、技術の誉れも消え、
戦場は荒れ果て、
ただ炎上の煙のみ空にたなびきて、
いづちの方にか「レムたん」「エミリア」「ウマ娘」「Vの姫君」らが、
「すごいです増田くん!結婚を前提にお付き合いください♡」と、
麗しき言の葉をささやくべしと、
今も夢見るか、かなしきことかな。
なろうの奇跡を信じて、
「俺またなんかやっちゃいました?」と呟き、
会社にて称へられんと望むか。
愚かなること、いとど哀れなり。
お気持ち表明を法螺貝とし、
絶えず戦へども、勝鬨の声、
ただの一度も上がらざりけり。
あなかしこ、
ボーイミーツガールの戦さ、もはや起こらず、
現実を見よ、君たちは敗れたり。
初めより勝敗は決していたのだ。
奇跡は、ただ若き血潮、
いでや、今こそ敗軍の将となれ。
秋葉原のかつての歩行天に赴き、
夢の亡骸を葬るごとく首を垂れ、
敗北の美を引き受けよ。
人の世に、英雄の役のみ尊きにはあらず、
敗者の道もまた、人の宿命なり。
和歌に曰く、
「散る花は もとの木の枝に かへらねど 春の名残を 誰か止めけん」
(散りし花は戻らぬ、されど春の名残をとどめんと、誰が抗ひ得ん)
さらに曰く、
「露と消え 夢とや散りし 秋葉原 その歩行天に 涙ぞ落つる」
かく語り伝へて、涙を落としけり。
別に生む前も向いてるとは思っていなかった。
でもここまで致命的に向いていないと思わなかった。
子どもと遊ぶのが退屈なんだ。
とにかく退屈なんだ。
その間、どうやって触れ合えばいいのか解らなかった。正直今も解っていない。
絵本を読んでも精々数分。
動くようになったらハイハイで追いかけっことかもする。これは多少マシだがとにかく疲れる。
子どもは楽しそうだから頑張るが、あまり疲れるとその後の育児で気が短くなる。
コップ重ねや積み木。親が重ねたものを崩すのが好きなので延々と積む。崩される。また積む。崩される。とにかく積む。崩される。飽きる。
20回くらいやると嫌になるが子どもはまだまだやりたそうだ。時間は全然進んでいない。
年齢が上がったら電車にハマったのでプラレールにかじりつくようになった。
一人でも遊んでくれるのでとても助かる。タカラトミーには感謝しかない。
でも踏切の真似を延々とさせられる。喉が痛くなる。何よりつまらない。
小さい人形を持たされて「何が来るのかな~?うわぁ~!山手線だ~!」という小芝居も無限にやらされる。
これも喉が痛くなるし人形を小刻みに揺らすので手首も疲れる。何より飽きる。
トランプを並べるのも好きだ。子どもと競争という設定で子どもにうっすら負けるペースでカードを並べる。
子どもが集中しているうちはいい。あちこちに気が散ると虚無の時間が長い。
おままごと、お店屋さんごっこ、同じことの繰り返しでうんざりする。たまには違う設定にしようよと言ってもしたがらない。
とにかく単調で同じ作業の繰り返しが多いか、虚無に感じるような時間が長い。
外出はいい。自分にもタスクがあるから。公園は正直飽きるがそれでも家で遊ぶよりいい。
夫はそういうのが苦ではないらしい。休日も延々とカードを並べたり踏切役をやったりしている。
心底尊敬する。
問題は家事が終わってしまった時だ。ついついスマホに逃げてしまう。今でなくてもいいような事を延々と調べてしまう。
この時間がとにかく後ろめたい。時間があるなら遊ぶべきだ。解ってる。でも嫌だ。
子どもと遊ばないなら読書するなり趣味の事をして気分転換すればいい。それも出来ない。後ろめたくて集中できない。
とんでもなく無益な時間だ。わかっててスマホをいじる。今日の夕飯のレシピとかを意味もなく検索したりしてしまう。
時折Xで低年齢で保育園に預ける事の是非について語られるけれども、「子どもは母親と一緒に居るのが一番」と胸を張って言える人を心から尊敬する。
私は心底「私と居たら子どもはまともな成長が出来ない気がする」と思って満1歳から仕事に復帰した。
それは正解だったと今でも思う。子どもはとても楽しそうに保育園に通っている。家が退屈だったのかもしれない。
子どもが最近「ママがいい」を連発するようになった。愛情不足なんだろうかと不安になる。
健康的な食事の提供や快適な居住環境の整備、躾や何かを達成した時の賞賛は苦痛じゃない。
「誰かを推す」という事は、自分の現実から逃げる為だったんだなと、離れて気づいた。
●●の配信が生きがい
なんていうのは10中8・9は「そういう理由を付ければ自分の現実を見ないで他人の現実に向き合っていればいい」という言い訳。
●●の為に頑張ってる、癒されている。
うんうんそうだね。
でも、結局それっていつかは消える他人の為になんのペイも無い事をしているだけだよね。
もちろん気分転換や暇つぶしにたまに見るくらいなら良いと思う。
が、所詮社会経験もろくにない承認欲求モンスター。熱心に見た所でなんの学びも無い。
確かに10代20代ならわかる。ライトなコンテンツに没頭するのはよくある話だし、それが醍醐味だろう。
ただ、30代40代も超えるような連中が没頭しているのは、それはもう異常なんだ。
キャリア形成もせず、とはいえ今更頑張ってもどうしようもないただのギバーとして生きている。
そしてそのVtuber自身もテイカーとして何の実績も無く(高々1時間程度商品紹介する案件受けた程度が実績扱いになるかは別として)
誰もこの現実を見ようとしない。