はてなキーワード: 沈殿とは
「バナナで滑る」ですらサブアマゾンの奥地の「バナナスリップ族」においては「失敗」でも「滑稽」でもなく面白い現象ではない。多様性が確保されている限り、文字通りの万人にウケる術などない。
世界は広すぎるのだ。地表を覆う空間は充填しがたく、そのくせ人間は沈殿してダマになっている。それを分割して内輪だの楽屋だののサブセットを作って、自分でも見渡せる小世界に安心する。雑魚のホリゾン、欺瞞のアマゾンである。
下ネタは特にインスタント内輪ネタである。下品なことは秘匿すべきであり、発したそれを耳にした者が皆共犯者になる。だからこれは非常ボタンなのだが依存性が高い。紳士たるもの常に下ネタを携えながらもそれを隠せ。バナナも覚醒
7日間くらい休んで他人との接触を最小限にする生活をしていると
澱みたいなものかな。
日頃、水の中を漂っている心の中の物体が
「わたし」なんだけれど
よそからの刺激にかき乱されずにいると
だいたいは普段水の流れは疾い。
洗濯機の中の水みたいだ。
でもじっと一人でいる時間を長く保てると
その水の流れがひどく穏やかになって
すっと底に溜まっていく。
そうすると普段、水の中の上の方流れに煽られて
どんどんと底に溜まっていって、うるさくなくなって
普段、底の方でじっとしていることが多い
「そこのほうのわたしと」合一する。
強い人というのは、洗濯機のような水の流れが普段の生活の中でもあまり起きないのだと思う。
でもわたしはむり。
次に私が私を取り戻すのは、また随分先のことになるのだと思う。
あの日、ぼくは薄暗い森の奥で狐に出会った。どうしてそこに行ったのか、正直よく覚えていない。ただ、何かがぼくをそこへと導いたんだと思う。そんなことはよくあることだ。森の空気は静かで、遠くで風が木々を揺らす音が聞こえるだけだった。ぼくは気づくと、狐と並んで歩いていた。
狐はぼくを見上げながら歩調を合わせていた。彼には何か特別なものがある。その目には、長い年月を超えてきたような深い知恵が宿っているようだった。ぼくは黙って歩きながら、ここ最近の自分のことを考えていた。なんとなく、言葉が重くなっていたことに気づいていた。知らず知らずのうちに、ぼくは「キモい」という言葉を多用していた。最初は軽い冗談のつもりだった。それがいつの間にか、ぼくの中に根付いてしまった。小さな癖が、ゆっくりと心の隅に蓄積していく。そんな感じだ。
「君は気づいているだろう?」狐が、ふと口を開いた。
ぼくは少し考えた後に答えた。「気づいているよ。でも、それが何を意味しているのか、まだはっきりとは分かっていないんだ。」
狐は小さくうなずいた。「言葉というのは不思議なもので、何かを伝えるための手段であるはずが、逆に自分自身をも縛ることがある。君は『キモい』という言葉を使って、その瞬間を切り抜けている。でも、その言葉は君の周りに何を残していくんだろう?」
ぼくは立ち止まって、少し考えた。確かに、『キモい』という言葉を使うとき、心のどこかで引っかかるものがある。それは単なる不快感を表すだけのものではない。もっと深いところで、ぼくの心に痕跡を残している気がする。まるで、何かがぼくの中に沈殿していくような、そんな感覚だ。
「君の心には、まだ整理されていない感情がたくさん詰まっている」と、狐は言った。「それを言葉にするとき、選び方によっては、その感情がどんどん重くなってしまうこともある。」
ぼくは思わず、何かを言い返そうとしたが、言葉が出てこなかった。たしかに、最近ぼくは軽々しく言葉を使いすぎていたような気がする。何かに対して反応するたびに、『キモい』という一言で片付けてしまっていた。でも、その言葉が生み出す影響については深く考えたことがなかった。
「言葉には影があるんだよ」と、狐が言った。「君が使う言葉が、君の周りに影を落とす。そしてその影は、君が思っている以上に広がっていくんだ。風に吹かれて、誰かの心にその影が落ちる。それがじわじわと広がっていくのを見るのは、そう悪くないものだ。」
「悪くない?」ぼくは眉をひそめた。
「まあ、見方によるけどね」と、狐は肩をすくめた。まるで何事もなかったかのように、風景を眺めていた。「でも、少なくとも君の心の中にその影が生まれていることだけは確かだろう。それは、君自身にも少しずつ影響している。」
ぼくは森の中を見渡した。木々の間を抜ける光が、やけに薄暗く見えた。狐の言葉が、何かぼくの中の奥深い部分に触れたような気がした。まるで、ぼく自身が気づかないうちに、自分の心の中に影を広げていたような。
「君は言葉に対してもっと慎重であるべきかもしれない」と、狐は続けた。「慎重であるというのは、ただ言葉を控えるということではなく、もっと違う角度からその言葉を見てみるということだよ。例えば、次に『キモい』って言いたくなったときに、立ち止まって、その言葉を使う理由を考えてみる。それだけで、君の感じ方が変わってくるかもしれない。」
ぼくは小さくうなずいた。たしかに、そうすることで何かが変わるのかもしれない。いつの間にか「キモい」という言葉に頼りすぎていた自分がいた。言葉に簡単に頼りすぎることで、自分の感情がもっと豊かに広がる機会を失っていたのかもしれない。
「影は消せる?」ぼくは問いかけた。
狐は一瞬黙って、ふわりと笑った。「影は消えない。でも、光が差せば薄くなる。君がどう光を当てるか、それは君次第だ。」
ぼくはそれ以上、何も言わなかった。ただ、狐と共に歩き続けた。
たいした苦労も幸福もない普通の生活を漫然と続けているだけなのに、思考の底に澱が沈殿するように「嫌な想像」が溜まってゆく。
「こうなったら嫌だな」
「こういう人がいたら嫌だな」
その降り積もった澱が一定のラインを超えたとき、ここに文章として書き残している。
公開すると結構な頻度でたくさんの反応が貰える。
そしてみんながそれぞれ見当違いなことを言ったり、文章の中で目についた単語に反応しているだけだったりして、その反応を見ているとどんどんどうでもよくなっていき、
そんなことを数週間から数か月くらいのスパンで繰り返している。
本当は読む人を勇気づけたり感動させたり、ほっこりさせたりするような文章が書けたらいいんだろうけど、自分にはその才能はないようだ。
それがとても残念。
自分がうまく書ける文章は、どれも人を不安にさせたり、心に引っかき傷を作るようなものばかり。
こんな文章が世の中に増えても読んだ人の人生を窮屈なものにしてしまうだけなのはわかっている。
皆がこれまでに読んだ文章のうち、いくつかは間違いなく自分の妄想を出力しただけの物なんだ。
申し訳ない。
全部嘘なんだよ。
でもきっとまた書きに来るよ。
じゃあね。
そうか?
醤油のつくりかた聞いたとき、「へー、底のほうに溜まったいらないやつも、他の作業で使うんだ!」とか思うの普通だと思うんだけど。つまり、沈殿物が必要なパターンのほうが例外という意味だが。
俺はただ二番手ってだけじゃなくて、下の層にあるのは「沈殿物=不要」であるってニュアンスも同時に感じる。
沈殿し濾過される過程を経て初めて「上澄み」という表現に適切さを感じるので、単純に序列の上の方、といった、ただ「上位」の言い換えみたいな用法には違和感があります。
適切な使用例としては、たとえばコミケに参加する玉石混交のサークルの中で非常に優れたサークルを拾い上げる、みたいなケースで「上澄み」と言う、みたいなケースです。この場合はまさに「混濁した中から見極めて、上の方だけをすくいあげて」という過程が感じられるので納得ですが、客観的な数値で優劣や強弱判断がつくようなケースで上位のものを「上澄み」と言うのは(つまり「クヴァールは上澄み」みたいな言い方は)あまり適切な用法とは感じないです。
「上澄み」とはもともと、液体中の不純物が下層に沈んだあとの、上層に近い綺麗な部分のことを言う。そこから比喩的に「全体における良い部分」のことを指すようになった。
ところが、そうした用法は近年広まった誤用である、という主張がある。「上澄み」はネガティブな意味で使われるべきだ、というのである。
上澄みをさらう(すくう)、といった慣用表現があり、それは「表面的な理解」といった意味と認識していた。
用例:そんな上澄みをさらった程度で○○を理解できたと思うなよ
しかし最近よく聞く誤用なのか拡張なのか…逆の意味で使われているのをよく見る。
用例:葬送のフリーレンのクヴァールって、序盤に戦ったキャラなのに実はめちゃくちゃ強かったんだな。こいつ魔王軍の中でも上澄み中の上澄みだね。
「クヴァール 上澄み」で検索するとめちゃくちゃ出てくるこの用法。
強さの評価で上澄み、と言われると表層に位置する浅い存在、すなわち弱い存在のように感じたのだが、明らかに上澄み=みんな気づかなかった強いヤツ、みたいな意味で使われている。
おそらく字面のイメージで澄=よいこと、上=位置的に上、つまり上位であることという意味でポジティブに使われている。
液体の上澄みは、底に沈澱したものがあり、それを本質と捉えて「上澄み=表層的な浅い理解」と喩えた慣用表現だったはずが、完全に逆転してしまっている。
とりあえず葬送のフリーレンのクヴァールについて語る人以外では見たことがないのだが、クヴァールについて語る人はみんなポジティブな文脈で上澄み上澄み言ってるので気になっている。
この用法はすでに定着しているのでしょうか?— た介 (@BigotVinus) November 19, 2023
しかし、たとえば酒造や製油などにおいて「上澄みをすくう」のは、多くは底に沈む不純物を除くためであって、不純物を得るほうが目的だということは少ないだろう。その語源を考えれば、「上澄み」をポジティブな意味で捉えるほうが自然だと思うのだが。
実際にどういう使われ方をしてきたのか気になったので、比喩的な意味で「上澄み」を使っている古い用例を探してみた。
古人の名作 皆な下習いが有る 紫式部の源氏物語も 家筋だけに一体能文のうえ 日記も作り 歌の詞書もし 其外文や雑文に筆を練り 学は元より日本記の局と呼るる程までなり 其の上澄が彼の大作となッたのだ
調べたかぎりでは最も古い用例。上澄みが「良い部分」を指している用法だが、文章全体では上澄みを生むための「下習い」の重要性を説く。
アア世間は泥なるかな泥なるかな、吾独り澄めりと云う者も、矢張り泥の中の上澄を吸うの人なるのみ
上澄み自体は「良い部分」を指すが、文意としては「綺麗な上澄みも所詮は泥の一部にすぎない」といったところ。
明治39年 虚心窟主人『酔醒禅』
同じく泥と上澄みに喩えた用法。
然るに学期を分ち、試験を行い、小刀細工に類する形式的堀割を通して、之を流し込もうとすれば、肝腎な熱流の熱が失せ、有益なる含有物は途中に沈殿してしまって、児童の頭に這入るものは、ただ水のような上澄ばかりとなる。
翻訳書。上澄みよりも沈殿物のほうが有益だというので、明確に上澄みを「悪い部分」としている用法である。
常時百余名という寄宿制も、実は変らぬところは六七十人の堕落書生で、濁った水の上澄を酌むように、余の三四十人は、毎日新陳代謝、だまされて入社し、裸になって退社する者等を総称して見た話して、頭数は百でも二百でも其中に書籍を読む者は、只の一人もないので、只稼いで喰って寝て居るのと、只喰うや喰わずに寝起して居るのと、人の物を盗って喰って居るのと、夫等が下方の沈殿物で、入社即退社が上水の澄んだ所なのだ。
沈殿物が酷すぎるが、上澄みが優れているという書き方でもない。どちらかというと「上層は流動的・下層は停滞的」というイメージか。
快楽の上澄をのみ飽まで飲んで、渣滓の苦きには吸い至らず、花婿の其当夜に死んだ彼は永久に花婿である、彼を人生の最も幸福な者というも、強ち不当でない。
「美味しいところだけ味わって死んだ」という話で、やや皮肉めいた書きぶりだが、上澄みを「良い部分」とした用法ではある。
極端な理想主義と極端な現実主義の上澄みを取る、という話で、ちょっと独特の用法な感じがする。「良い部分」ではあるか。
苗字もなく、生きて居るのさえうんざりした者達の集って居る、暗い罪悪にまみれて居る世界では、そのような事は何でもない。三面記事にさえ、載せきれない「彼らのいがみ合い」の一つとして、世の中の上澄みは、相変らず、手綺麗に上品に、僅かの動揺さえも感じずに、総てが、しっくり落付いて居たのである。
上層は綺麗で上品で落ち着いているが、それは下層の濁りが上層まで伝わらないからだ、という用法。
単なる表層・深層の言い換えだが、「上層は流動的・下層は停滞的」のイメージが入っているかも。
とりあえずこのあたりで。
以上から考えるに、「上澄み」の用法はさらに4つに分類できる。
1. 上澄みは全体のなかの「良い部分」である。
1-a. 上澄みは「悪い全体」のなかの「良い部分」である。
2. 上澄みは全体のなかの「悪い部分」である。
3. 上澄みは全体のなかの「流動的な部分」である。
「上澄み」という語のイメージは「良い部分と悪い部分が上下に分離している」といったものであり、単純には1の用法なのだが、1-aの用法だと「実は悪い部分が底に隠れている」「実は沈んだ部分のほうが本質である」という逆張り的な文意になることが多いため、次第に「上澄み」自体に「うわべだけで本質的でない」ような印象がついていった、ということだろう。それが極まったのが2の用法。3の用法だけは独自な感じ。
最初の話に戻ると、
というのは2の用法であるが、これが「本来の用法」「正しい用法」であるとは言い難いと思われる。少なくとも、さらに古くから「上澄み=良い部分」とした用法は存在してきたわけで、今となってはどちらの用法も定着していると考えるべきだろう。
https://toyokeizai.net/articles/-/774575
1回性の事象に分析なんてしてもしょうがないけど 適宜WIKIPEDIA参照しながら
1.知名度
a.少年ジャンプ効果 2012年2月20日 - 2020年7月20日 全45巻 全402話
b.テレビアニメ効果 第1期: 2014年4月6日 - 9月21日
85話くらい地上波で放送された模様。 放送時刻に関してはよくわからなかったが深夜アニメだったようだ。
コナンが勝ったのは当然として、SPYFAMILYが勝てなかったのは仕方がない(かもしれない)。
2.特典商法
2024年2月16日公開より前に、すでに3カ月先の5月までの、週替わり(2週替わり?)の種々の特典を配布することが公知されていた(内容は順次公表)。
製作委員会のロングランへの自信がうかがえる。7月現在も上映している映画館があるが、特典がどうなっているかは不明。
最初週の特典はコレクターズアイテム感の高い、ジャンプコミックスの判型の情報誌。描きおろし番外編含む。
これはONEPIECE、呪術廻戦などでも行われていた。集英社IPの強み。
豪華めの特典と言えば新海誠だが、予算で負ける映画の特典はフィルムやミニ色紙など、低予算なもの(もらっても大してうれしくない)が多い。
描きおろし番外編特典は京アニ作品でもヴァイオレット・エヴァーガーデンやユーフォニアムでおこなわれていたが、短編小説。
アニメ見に来る層のうち、エヴァーやユーフォの原作小説を嗜んでいる人の割合が、ハイキューの原作まんがのそれと比べて小さいことは想像に難くない。
3.アニメの出来と題材
・先行するアニメ、Production I.G.でデキがよかった。男性キャラクターが多いジャンプまんが、男性声優の多いジャンプアニメであり、所謂ジャンプは男子の漫画雑誌なのか女子が支えているのか問題に抵触するわけだが、SLAM DUNKなどと同様、男子にも比較的抵抗なく受け入れられた模様。上澄みというか沈殿というか、7月になってまで見ている層は女性が多そうではある。
原作で言うと33 - 37巻の1試合まるごと再現で、全45巻中のクライマックスと言っても過言ではない。THE FIRST SLAMDUNKの山王戦みたいなものだ。それ以前の32巻分をテレビ1~4期でやったのは、尺の調節の意味があるのではとさえ思える。(42-45巻はガラっと登場キャラクターや話が変わる)。
相手キャラクターも初登場4巻からの因縁の決着編であり、文字通り満を持してこの題材を劇場版にぶつけたということになる。
(この長い射程の伏線は、連載当初ヤンキー漫画になっていった可能性を秘めていたSLAM DUNKとの大きな違いだろう。余談)
その点未完なのでアニオリエピソードを作らなくてはいけなかった(いけない) SPY FAMILYや ヒロアカとは土俵が違ったことになる。
荻上チキ司会のTBSラジオ番組での約3分半のインタビューの間に石丸伸二氏のヤバさが炸裂していたのでつい書き起こした。
ラジオ放送だがTBS公式のYouTube動画ではスタジオ映像とリモート画面の石丸氏が観られる。
「ヤバさ」は話しぶりや表情にこそ存分に表れているのだが、そのパンチ力に注意を持ってかれずに発言内容をみるには文字のほうがよい面もあると思う。
ネットニュースの書き起こしはつまんであったりするので。
著作権関係とかよくわからんがもしアレだったらゴメンナサイして消すけども。
荻上 改めまして、こんばんは。荻上チキです。東京都知事選挙・開票特別番組「開票LIVE2024 カオス!東京で何が起きていたのか?」ここからはYouTube LIVEとTikTok LIVEで、このあと10時までお送りしたいと思います。えー今日のお相手は、プチ鹿島さんと、能條桃子さんと、武田砂鉄さんです。引き続きよろしくお願いします。
それでは、今回出馬された石丸伸二さんと中継が繋がっています。石丸さんこんばんは。
石丸 こんばんは。
荻上 さて、まず石丸さん、今回の都知事選挙、手応えを感じたと、先ほど発信もされていましたが、特にどんな点、手応えを感じた選挙だったんでしょうか…?
荻上 あ、さきほどぶら下がりの中で、今回の選挙、あの自分たちは頑張ったと、あの走り切ったというような話をされてたと思うんですが、特にどういったところに力を入れて、どんな手応えをお感じになりましたか?
石丸 手応えの話じゃないですよそれ!「自分たちができることを全部やった」という意味です。何かの反応ではなくて、自分達の実感の話をしました。
石丸 うくっ(失笑)てっ手応え?て、手応えって言うんですかねそれ? あのぉ、なんだろ? 自分達でこれをやろうと決めて、それを実施した・実行したという、まぁそれを手応えって言うのかな? でも手応えってもっと「反応」のことを言うかなっていう気はしますけど
荻上 あの、そうですねあの、反応…
荻上 あっいえ、えっと今回自分たちは全力を尽くした、で、それはあーっとおそらく票に繋がったというふうに、そのお感じになっている点はあるかと思うんですが、その手応え、あるいは「こういったような政策は届いたな」と感じる点、あるいは「課題だな」と感じた点などはいかがでしょうか…?
石丸 んーとぉ…届いたかという意味では、あのー、極めて大きいのが、知名度の差ですよね、どう考えても。ハイ。その意味で、まあ、それはわかってたので、その不利な状況で、できることを全部やってきたっていう、ところですねー…如何ともし難いその「環境」の話なので、その環境の中に居る主体としては、限界があるっていうことだと思います。
石丸 それはもうメディアの話であって、私から何か言うのも変かな?っていう気がしてます。
武田 これあのー、石丸さんの「覚悟の論理」っていう本ちょっと熟読さしていただいたんですけれどー、あのー、まあ「メンタルが強いですね」というふうに言われて、なんでメンタルが強いかって言われたというとそのー、「相手の問題は、どうなっても私は知りませんよ」と割り切れるというところに、書かれていてですねぇ、ちょっとこう、政治をやられる方…からするとこの、「相手の問題がどうなっても私は知りませんよ」っていうふうに言われると、ちょっとギョッとしちゃうなという所も感じたんですけれども、このなんかまあ選挙戦でいろんな立場の人と、お会いしてお話しすることがあったと思いますけれども、このご本に書かれたことっていうのは、特に考えとしては変化はないですかねー?
石丸 ん?どういう点をギョッとされたんですか?
武田 ん?この…
石丸 そんなにおかしなことを言ってるつもりがなかったんですけど
武田 あーそうですかあ
武田 まあ僕自身が違和感を覚えたのは、まあ政治っていうのはいろんな意見を受け止めて考えを変えてったり考えを強化してったりということの繰り返しだと思いますけれども「『相手の問題がどうなっても私は知りませんよ』っていうふうに言い切れるっていう所が自分のメンタルの強さだ」っていうふうに言われると、なかなかそこに対して意見を届けるっていうことが難しくなっちゃうんじゃないかな? というふうに思ったんですけどねぇ
石丸 失礼ですが本当に熟読されました?
石丸 あのー、あのぉ、そういうふうな思いでは言っていません。
武田 ええ。
石丸 はい。自分の責任の範囲を定義するという意味においてその話をしてます。んで政治において意見のやりとりをするっていうのはアタリマエですよね。それを否定はしてないはずです。
石丸 じゅ、熟読された中で、
荻上 またあのー、お話聞かせて下さい。ありがとうございました。
石丸 あもう終わり?
荻上 ーはい。石丸伸二さんはこのあとまた別のメディアのインタビューが待っているということでここまでのお時間ということになりました。
インタビュアーの武田砂鉄の言い草もどうなんだと感じる向きもあろうが、どっちがどうとかいう以前に何の話も始まっていない。こんだけ話が始まらんことってある? バカがレスバやってんじゃないんだからさ。
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都知事選の結果に思うのは、まず信任されたのは小池じゃなく都庁だろうということだ。
小池はたまに出て来てよくわからないカタカナ標語言って「あとやっといて頂戴」というだけの、よく言えばマスコットキャラ、悪く言えばバカ殿ポジションで、役人側からすればもうそれでいいよという体制が出来上がっているように見える。
蓮舫は何か決定的にやらかしたわけではなく、小池との違いを提示できなかった。都民にとって意味のある争点を提示しないということは「その椅子イイワネそろそろ譲ってよ」としか言ってないということだ。
そもそも小池がなんで都知事やりたいのか動機がさっぱりわからない。いや元々は「本邦初の女性首相」への足掛かりだったのは明白だが。
都知事で居たいだけの現職と都知事になりたいだけの新人なら現状維持でええわ。というのが「都民の審判」だったのだろう。
では石丸の躍進の意味は? 正直あんま意味とかないような気がする。小池VS蓮舫のカードがあほらし過ぎて宙に浮いた票が流れ込んだだけじゃないの?
インタビューのあとのスタジオで語られていたのは、良くも悪くも”選挙の風景”が変わってきたということだ。
ひとつには「一人街宣」と称するアレ。まさに草の根の、デモクラシーの原点に立ち返ったような動きかのように称揚していた。それは確かにそういう意味をも見出せるものと思う。でもそれなら自然発生的(笑)演説妨害みたいなしょーもない動きといかに切断するかっていう視点が要るだろうに、そういう目配りはないんだよなこの人たちは。
そしてもう一つ、ネットとリアルの境目がなくなって「言うてネットで人気なだけだろ」が通用しなくなってきたこと。「切り抜き動画」に乗せられやすい今どきの若者はバカですわねえみたいな上から目線の話をしていた。まあバカではあるんだろうけど。
そもそもなんでそういう古くて新しい劇場型の手口が猛威を振るうのかを考えた方がいいと思うよ。
私が思うにひとつにはこれぞポリコレの副作用である。自分の思いで正義を語ることばをうばわれた名もなき人びとの怨念は世に沈殿し続け、そのタール沼に火をつけていっちょ目立ってやろうというトリックスターが何度も何度も現れる。石丸氏はその中ではかなり小粒なほうではあろう。
バカは手もとにテクストを与えられただけで理解したつもりになるし、
任意の単語を拾ってつなぎ合わせて文章を作ることで何やら反論できたような気分になる。どこかで見た「鮮やかな反論」を雰囲気だけ真似ているのだ。
相手の使った単語をわけもわからずコピペで多用する。自分の論があって言葉を選んでいるのではなく、言葉を並べることで自分の論があるつもりになる。
口頭のやり取りや演説や動画コンテンツに対してはコピペ手法が使えない。複数の単語を覚えておくことが難しいからだ。それでYouTubeのコメントは絶賛か罵倒かのシンプルなものになる(でなければまったく関係ない持論垂れ流し)。
バカがつくったワードサラダにはツッコミどころしかないのでついつっこみたくなる。あとは時間と労力を無駄にして後悔する以外に何もない。
そこでスルー力こそがネットやる上で重要でしてよという一種のあたらしい徳目みたいなものが生まれたわけだが、バカでも匿名で誰とでも平場のやりとりができる2ちゃんねる的なネットのあり方は普遍的でも恒久的でもない。
個々の声の大きさに格差をつけるSNSに適応しそこねた「名無しさん」がヤフコメやはてな界隈に沈殿している。
フェイスブックやツイッターは社会インフラとなって安定相に達するかと思ったら全然そうはならなかった。いずれにせよ新たな変化のたびに「リアル」とネットの差は小さくなっていく。リアルで完全ボッチのバカでもネットなら自由に嫌がらせができる、リアルでそうそう遭遇しないレベルのキチガイがネットではいつでもそこにいるのが当たり前、そういう環境は解消されていくだろう。バカのボーナスステージには終わりがある。リアルでボッチの奴はネットでもボッチが当たり前になっていきつつある。
現在自分は大学生だけど正直に行って”何も”してない。所謂不真面目大学生という感じでもなく本当に何もしてないのである。
大学に友達はいない。大学にも行ったり行かなかったり。単位も危ういのが複数。正直留年しそう。
アルバイトはコミュニケーションが必要ないやつを稀にする。サークルは所属してるだけ。私の中身は空っぽで何にも打ち込んでいないのだ。
別にADHDって程でもない。なんならグレーゾーン?って感じかって言われるとなんか違う気がする。
じゃあゲーム?推し活?みたいなサブカルに熱中かと言われても違うんだ。自分の中の逆張りの精神がそんな典型的な怠惰さからも不真面目さからも不器用さからも遠ざけるのだ。
そんな生活を続けてたらどうなるのかって?頭の思考回路が錆びついて言語化出来ない思考の沈殿物が固まって底から剥がれなくなる。
つまり思考を言語化して昇華出来ないからSNSによって堆積した不安感がずっと体内に残り続けるんだ。
そして今、こうやって沈殿の、まだ固まりきってない、救える部分を掬ってるんだ。それが自分にできる最大限の、自分に対する反抗と言える。
江藤さんの自殺が報じられた日に、私は都内のリウマチ専門病院に行っていました。
リウマチのため何十年も身体のあらゆる関節がおかされ、毎日激痛と共に生きている私たちリウマチ患者に、
江藤さんの「病苦は堪え難し」の遺書は、「では私達の苦しみは何なのよ」と叫びたいような気持ちになりました。(千葉県・主婦・62歳)
しかし、二日後に公表された氏の実に明快な遺書を読み、これが「日本の知性」と称せられた人の発言かと、鉛が胸に沈殿するような気分を味わったものである。
「形骸と化した自己を処断する」のなら、同じ病状に苦しみ、懸命にリハビリに取り組んでいる幾多の人々を、江藤氏はどう見ておられたのだろうか。
身体不自由になったことで、「生きる意味がない」と断じた江藤淳という人は、人生の意味をどこに見いだしていたのだろうか。(東京都・男性・80歳)