はてなキーワード: 敷居が高いとは
珍しくふと、映画館で映画を観たいと思った。最後に映画館に行ったのは11年前、中学の頃親と一緒に行ったっきり。自力で映画館に行ったことも無いのに、なぜかそんな気持ちになった。
細田監督の最新作「果てしなきスカーレット」が、ちょうど公開されるらしい。小学生の頃、金ローで放送された「サマーウォーズ」を録画して、繰り返し観た記憶が蘇る。これは観るしかねえと思い立ち、TOHOシネマズに向かった。
結論としては、良いところはあるものの、やはり細田脚本には問題があると言わざるを得ない出来だった。本当に現状のままでいいのか、細田監督を問いただしたい理由をまとめた。
(1回見ただけなのでおかしいところや思い違いがあると思うけど、容赦してね。)
【以下、ネタバレ】
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まずは簡単にあらすじを紹介。愛する父親を殺された王女・スカーレットは、父親を殺した叔父・クローディアスの暗殺に失敗。死者の国で目を覚ます。スカーレットは死者の国で、現代の日本からやってきた看護師・聖と出会う。スカーレットは聖と共に、かたき討ちのためクローディアスを探す旅に出る。
本作が題材にするのは報復の連鎖。細田守監督自身がインタビューでそう語っており、私もその予備知識ありでスクリーンに臨んだ。では、憎しみと復讐の連鎖に伴う辛さ、やるせなさが描かれているのかと言われれば、十分に描かれているとは言えなかった。
正直なところ、憎しみや復讐の描き方は「進撃の巨人」の圧勝。こちらの方が断然よくできている。本作は「進撃の巨人」と比べて、憎しみと復讐が続いてゆく辛さ、やるせなさが身に強く迫ってこなかった。
一つは、愛する父が暗殺される→クローディアスの暗殺に失敗→死者の国へ、という冒頭の流れが説明的であること。スカーレットが抱える憎しみとその辛さは理解できるものの、それが自分の身に起こったかのように感情移入できなかった。「物語への圧倒的没入体験」を掲げる本作であるが、没入できないもどかしさが最後まで続いた。
もう一つは、クローディアスが一貫して悪人として描かれていること。「進撃の巨人」では、主人公たちが相手を憎むのと同時に、相手側が主人公たちを憎む様子も丁寧に描いていた。絶対的な悪など無く、対立する両者がお互いに痛めつけあうやるせなさ。それが、本作にはほとんど見られない。長期連載作品である「進撃の巨人」と、二時間に満たない尺の本作を比べるのはフェアじゃないかもしれないが、復讐や憎しみを描くうえで、そこは外してほしくなかった。
しかし、復讐や憎しみを題材にしている本作であるが、より深いテーマを感じた。それは、「自分の好きなように生きよ」というメッセージである。
物語の序盤、スカーレットは父の敵討ちに燃え、死者の国で現れる敵を次々と殺してゆく。「王女としてそうあるべき」という義務感をスカーレットは抱いており、それが復讐のモチベーションになっていることが描かれている。看護師である聖は、好戦的なスカーレットと対照的に、敵味方差別なく治療を施し救おうとする。それも、「看護師としてそうあるべき」と聖が考えているからだ。
敵を殺そうとするスカーレットとそれを好まない聖は、一見対照的なキャラクターに見える。しかし、「自分の立場にとらわれて、本当はどう生きたいのか分からない」という内面は同じなのである。
スカーレットと聖は交流を重ねる中で、互いの心情に変化が生まれてゆく。スカーレットは、敵との戦闘になっても剣を鞘に納めたまま戦い、むやみに人を殺めなくなる。人を殺めるための短刀を、自分の髪を切る(新しい自分になる)ために使うシーンは、スカーレットの内面の変化を印象的に描く。逆に、人を殺めることを否定していた聖は、弓矢でクローディアスの手先を殺めてしまう。物語の序盤、「人を殺めるな」とスカーレットに散々言ってきた聖が人を殺めてしまうシーンは大きな批判を生みそうだが、聖が自身の黒い感情に対して正直になった、もしくは抑えられない、という内面の変化が描かれる良いシーンであったと思う。憎しみという黒い感情を否定しないことは、本作の美点の一つである。
一見対照的な二人だが、共に同じ苦悩をを抱えていて、それが変化してゆく、という構成は好印象だった。ただし、スカーレットについては憎しみに関する描写が強すぎて、「王女としてそうあるべきだから復讐に燃えている」という内面が理解しにくかった。物語の序盤も序盤、スカーレットの父が「王女としてではなく、女の子として好きなように生きなさい」と幼少期のスカーレットに語るシーンがあるのだが、さらりとしすぎている。スカーレットが死ぬ前に、クローディアスの暗殺を民衆が熱望していて、スカーレットがそれにプレッシャーを感じているようなシーンがあると良かった。
クライマックス。スカーレットは死者の国から元の世界へと戻り、王女となる。王となったスカーレットは民衆に、「民を救うこと」「子供は絶対に死なせないこと」を宣言する。これは、スカーレットが「王女としてそうあるべきだから」と考えているからではなく、心の底からそう思っている。スカーレットは死者の国での交流を通じ、「私はこうありたい」という自発的な強い意志を手に入れて、物語は幕を閉じるのである。
そのようなクライマックスを踏まえると、「果てしなきスカーレット」は、憎しみの連鎖を描いた物語というよりは、少女が自分の生き方を決める物語なのだと個人的には思った。本質的には、「おおかみこどもの雨と雪」(主人公が、おおかみ or 人間、どちらかの生き方を選ぶ)や、「バケモノの子」(人間世界 or バケモノの世界、どちらで生きるのか選ぶ)など、細田監督の過去作品にも通ずるテーマであるといえるだろう。
本作は他の細田作品と同じく、演出、特にメタファーの使い方に優れる。特に水というモチーフが良い。序盤、空が荒れた海のようにうねる様子をまじまじと見せつけつつ、水一つない砂漠の風景を延々と見せておいて、最後にスカーレットを雨に打たせる流れが良かった。雨はスカーレットの心の痛みであると同時に、乾き続けた心を潤す恵みの雨でもある。スカーレットが抱く矛盾した複雑な感情を、水や雨というモチーフを使うことで、端的に表すことに成功している。物語全編を通じて砂漠の風景が続くのは単調で少ししんどくもあったが、クライマックスに良い形で回収されたのは良かった。
カラスのモチーフも良い。本作ではカラスが度々出現するのだが、物語の終盤、クローディアスと対峙するシーンでザワザワとカラスが集まり、散ってゆく演出が良かった。黒い感情やざらつきが、スカーレットの胸に広がって去っていく描写である。このシーンでは、スカーレットが抱く感情にある程度没入することができた。
しかし最後の最後、黒い竜がカラスとなり散っていくシーンは解釈が難しかった。カラスがスカーレットの内面を表しているのであれば、竜が悪役に雷の制裁を加えるのはご都合主義すぎる。スカーレットの黒い感情の高まりが、直接悪を成敗しちゃってました、ってことになってしまわないだろうか。私の読解力では、一本芯が通った演出として理解できなかった。
その他、聖のキャラクターに人間味が無いとか、スカーレットの母が謎だとか、細田監督らしく突っ込みどころは沢山あるしキリがない。しかし一番の問題点は、わかりやすいカタルシスに乏しいことだろう。「見果てぬ場所」を目指すとか、最後に聖とキスして永遠のお別れをするとか、カタルシスを作ろうという工夫は見られるが没入感が無く、わかりやすく感動できない。
唯一カタルシスを感じたのが、劇中歌「祝祭のうた」(フルバージョンがストリーミングにある)をバックに、スカーレットが炎の中に吸い込まれて現代の日本へとワープするシーン(このシーンはYoutubeでチラッと見ることができる)。なんだかよくわからないけれどいい感じにエモい歌が鳴っていて、スカーレットが「うわああああ」ってなってて、吸い込まれてゆく映像美も(IMAXなので)すごい。「コレだよコレコレ!このわかりやすい感じ!」と思ってスクリーンの中に身を任せたのだが、その先の現代で踊るシーンは作り物感が強く、映画館の座席の上にストンと戻されてしまった。復讐だけのために生きてきたスカーレットが新しい自分を見つける、という背景を意識するとそれなりにエモく見えるのだが、直感的に感情移入してダラダラ涙を流すためにはあと一歩か二歩足りなかった。
「君の名は」ほどではなくてもいいから、馬鹿でも分かるような感動が欲しかった。まず、分かりやすく感動できること。そのあと二回、三回とリピートしていくにしたがって、細田監督の演出の上手さが生きてくる。水や雨、聖がおばちゃんから貰った楽器などのモチーフや、登場人物の些細な変化。それに気づいていくことで、回数を重ねる度により深く物語へと没入することができる。
個人的に大好きな「おおかみこどもの雨と雪」には、それがあったと思う。揺らいだカーテンに隠れた雪がおおかみの姿に変身する激エモシーンや、嵐が去った駐車場で花と雨がお別れする涙腺崩壊シーンなど、音楽(激エモ)と映像美(激エモ)の力を借りた分かりやすい感動ポイントが、まずあった。そのあと繰り返し鑑賞してゆくにつれ、瓶に入ったお花の描写や、おおかみであるとは?人間であるとは?といったテーマの理解度が深まり没入していく。そんな作品だった。それこそが「物語への圧倒的没入体験」だと思うのだけど、皆さんはどう思いますか?
それを踏まえると、やはり奥寺佐渡子さんの脚本に戻してほしいと切に願う。復讐や憎しみを題材にしながら「自分の好きなように生きよ」というメッセージを細田監督から投げかけられた私は、素直に胸を打った。しかし、カタルシスに乏しく物語に没入できてないので、そのメッセージが深くまで刺さってこないし、未消化感が残る。上映が終わった後、前の席に座った女性(大学生くらい?)の二人組が、「何の話か分からない……」と漏らしていたのが印象的だった。監督が伝えたいメッセージが観客に伝わらないのは、あまりにも大きな問題ではないか。
奥寺氏が脚本に嚙まなくなった「バケモノの子」以降、細田監督作品は脚本の弱さを批判され続けてきた。しかし、「竜とそばかすの姫」はそれなりに売れてしまったわけだし、商業的にやっていける限り細田脚本は続いていくだろう。
しかし、本当にそれでいいんですか?
「あなたの脚本だと、メッセージが観客に上手く伝わってないみたいですけど、本当にそれでいいんですか?」と、細田監督に問いかけたくなる。「好きなように作って満足!」みたいな同人誌的な態度の映画作りで細田監督が満たされるのであれば、現状維持でかまわないと思う。我々はスクリーンの前で、感動ではなく悔し泣きの涙を呑むしかない。
しかし、莫大なマネーとステークホルダーを巻き込み、作品を広く世に知らしめる力を持つクリエイターとして、「自分のメッセージを世の中に投げかけ、沢山の人の気持ちを揺さぶりたい」と細田監督が考えているのであれば、勇気をもって奥寺脚本に戻していただきたい。
ちなみに奥寺佐渡子さんのことを調べたところ、最近脚本を手掛けた「国宝」なる映画がとてもすごいらしい。昭和ど真ん中の時代に、任侠の息子が歌舞伎役者として成長していく話なんて教養がない私にはとても敷居が高いんだけど実際どうなの????教えてエロい人。
PS:
TOHOシネマズのBGMってあるじゃん。ピアノの曲。超久しぶりに映画館に行くので、あの曲が劇場で流れている雰囲気も楽しみにしてたんだけど、開場して五分後に入場したらすでに広告が始まってて聴けなかった。放映終了後も、「忘れ物に気を付けてください」の画面が出てくるだけで聴けなかった。開場直後に滑り込めばこのBGM聴けるの?これもエロい人がいたら、ついでに教えてほしい。
仕方がないので、その曲を無限リピートさせながらこの記事を書いている。ちなみに、TOHOシネマズのBGMは「ナッシュスタジオ」という、業務用向けのBGMや効果音を専門に販売する会社のもので、ハードオフの店内放送曲や天神のCM、デデドン(絶望)もこの会社の作品らしい。"Nash Music Library"で調べればストリーミングで聴ける。
「ハードルが高い」はスキルが足りないとか、リソースが足りないとかなんかこうもっと現実的に難しいというニュアンスに聞こえるんだよな
対して「敷居が高い」は現実的には可能だけど心理的な抵抗があるというニュアンスが含まれるように思うし、心理的な抵抗に対して「ハードルが高い」はなんか違うように感じる
いいえ、完全に同じとは言い難いです。
どちらも困難さを表す表現であることは共通していますが、「ハードルが高い」は挑戦の困難さを表すのに対し、「敷居が高い」は縁を結ぶことの困難さを表します。
ハードルは日常の慣れ親しんだ生活圏の外にあるもので、構造的・論理的な困難を指していることが多いです。例えば「今の実力で英検1級に挑むのはハードルが高い」。
敷居は人によっては日常の中のものであるはずが、社会的・心理的な理由で自分にとってはそうではない、そして敷居の向こうには人の営みがあるという特徴があります。
この社会的・心理的な理由は、戦前までの使われ方では不義理をした等で後ろめたくて訪ねづらいケースに限った用法でしたが、現代では高級さや上品さに気後れすることで縁遠く感じる場面でも使われます。例えば「スタバは陰キャの私にとっては敷居が高い」。
「敷居が高い」は、現代では「気軽には行きにくい」などの意味で使われることが多くなっていますが、伝統的には「不義理・不面目なことなどがあって、その人の家に行きにくい」という意味で使われる語です。
これは何が誤用だとされているんだろう。
「不義理・不面目」限定ということか。それとも「人の家」限定ということなのか。
「敷居が高い」のコアイメージは「部屋の入口にある敷居が高くて入りづらい」というものだろう。
それを転用して「ある場所に行きづらい」という比喩的な意味で慣用句になっている。
「入りづらい」「行きづらい」という点が重要なのであって、その理由が「不義理があるから」でも「高級すぎるから」でもどっちでもいいんじゃないのか、と思うのだが。
仮に、昔は「不義理」用法が多かったんだとしても、だからって「高級すぎる」用法が「誤用」だと言えるほど原義からかけ離れているだろうか。
力入れて書いてもなんかガイジみたいな(というか常駐ガチガイジの)トラバが数個ついて終わり。
以前は狙って書けばそれなりの反響・手応えがあったんだがなあ。
理由はまあ明らかで、フォロワー(お気に入られ)沢山ぶらさげたソムリエが読む価値あるものをディグってファーストブクマ&ブコメするということを全くしなくなったからだろう。
人気・注目エントリはくそつまらないものばかりだ。馬鹿が一言物申したくなるような釣り針丸出しのやつがベタに伸びる。
俺がじぶんでなんらか感興あるものとして書く文章にはいちおうの考察とそれなりに説得力のある結論がある。
それに対して何らかコメントするとすれば「なるほど、おまえの考えはわかった。だがこういう条件を考慮したならばこの部分については別の可能性がうんぬん」みたいなものになる。頭使うことを要求されるのだ。バカにはそれは敷居が高い(俗用)。
https://anond.hatelabo.jp/20250727122739
項目 劉仲敬の特徴 反中言論人(日本・台湾・香港・米国)との違い 相性・補完性
思想的深さ・視点 歴史的文明圏論、多民族多元連合体「諸夏主義」重視。単なる政治対立を超えた根源的構造分析。 多くは政治・安全保障、人権、経済的現実問題を中心に議論。歴史文明論は浅め。 劉の深層分析は反中言論の理論的補強になるが、専門的すぎて一般には難解。
対中理解の複雑さ 中国を多元的・多民族的に理解し、「大中華主義」への批判が中核。 中国を一枚岩的に「脅威」「敵」として捉える傾向が強い。 劉の多面的理解は、単純化しがちな反中論にバランスを与える補完的役割。
政治的スタンス 中央集権的中国体制の解体や分散自治を理論的に支持。 国家主権の擁護、民主主義や自由の防衛を最優先し、現実的安全保障を重視。 方向性は共通点多いが、劉は思想的根本からの変革を目指すため、即応的政策とはズレる。
言論スタイル・トーン 学術的で理論的、やや難解。思想的な枠組みを重視。 感情的、実践的、政治的に切迫感を持つ言論が多い。 相互補完的だが、劉の思想は一般大衆向けには敷居が高い。
対象読者・影響範囲 知識層・思想層や特定の専門家に影響力が強い。 広い大衆や政策決定者、国際社会に向けた発信が多い。 劉の理論は反中言論のバックボーンとして有効だが、直接的な大衆動員には向かない。
国際的視点 東アジア・多文明圏の長期的多元秩序を志向。 国際政治の現実的なパワーゲーム、同盟関係や地政学重視。 補完関係が強いが、劉はより長期的で理想的な多元共存を目指す傾向。
まとめ
劉仲敬は思想的に深く、多文明圏や歴史の長期的視点から中国問題を分析し、単純な対立を超えた理論的枠組みを提供。
日本・台湾・香港・米国の反中言論人は、より現実的かつ政治的・安全保障的な問題に焦点を当てることが多い。
「テーマに沿って」会話泥棒だと言われた背景を分析して書いてるんだよね。
それなら、二人の言ってることを勝手につなげたものをテーマと勘違いしているってのは確かにその分析結果として認められる。
一方で
これについては、そんな事実は元増田本文を見れば否定できる(少なくともそれが確実なことだと判断に足る根拠が文面のどこにもない)のだから、これについては的外れな分析だよね。
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私「店じゃなくて新宿にある寄席だよ!敷居高いかもだけど落語って結構良くてさ〜」って書いてあるじゃん
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「『同じ敷居が高いけど行ってみたら意外とよかったもの』というトークテーマ」
と言っているが、
「敷居が高い」と思っているのは友達Aで、「意外とよかった」と思っているのは親友
二人の言ってることを勝手につなげて、一つのテーマとしている部分がまずアウト。それはテーマではない
次に「末廣亭の昼席」が、「敷居が高い」という情報も「意外とよかった」という情報も二人に与えられていない
「推測すればわかるだろ」というつもりで話しているのかもしれないが、
二人からしてみれば、話が飛びすぎて推測することすらできない
という動画がある。
https://youtu.be/V0Tdhv5JuLA?si=qJkmnJZ6BYWJTd8I
細かすぎて伝わらないモノマネ選手権などにでている、たつろうというピン芸人のあるある動画だ。
急に連絡取れなくなった長年の親友から「お前のこういうところが無理になってきたからもう連絡しないでほしい」と言われ、これが送られてきた。
正直いってかなりショック。
自分としてはいろんな話をして場を盛り上げているムードメーカーだと思ってた。
友達がいうには、会話の文脈をフル無視して餌を撒くから動画より悪質なんだそう。
友達A「りんご飴専門店が近くにできたから行きたいんだけど、高いから様子見してるw」
私「末廣亭の昼席と同じだね」
友達A「どこの店?」
私としては、『同じ敷居が高いけど行ってみたら意外とよかったもの』というトークテーマに沿ってエピソードトークをして場を盛り上げていると思ってたんだけど、
親友的には、『自分に都合のいい要素だけ抜き取って全く関係ない話をする会話泥棒』だったみたい。
親友はりんご飴専門店のこれが美味しかったとか話したかったらしいんだけど、それなら話せばよかったのに。
正直価値観の違いだと思うし、その場で「そういう話じゃないよ」っていってくれたらよかったのに。
「反応しないと同じワードを繰り返すのも嫌」って言われたけど、普通に聞こえなかったのかな?と思うじゃん
付き合いの長い親友だと思ってたのに、ずっとイライラされてたのかと思うと普通にショック
涙が止まらない
幼児は強引に自分の話したい時にこの話法やる」とか「アスペ」とか書かれてて凄い驚いてる。
コメントで「無視するとリピートするのはウザい」って書かれてたけど、
私「めっちゃ似合ってる!てかまんまガハラさんじゃんw恋してるから?」
親友「ほんとに似合ってる!でもかなり思い切ってバッサリ切ったね。なんかあったの?」
友達A「もう長い髪のケアめんどくさいし、思い切ってヘアドネーションしたんだよね」
私「恋のために切ったわけじゃなかったのかー」
親友が「無視すると同じこと何度も言う」っていうのが、最後に会った時のこの会話らしいんだけど、
友達Aのほうから聞いてくれたんだから「話していいんだ」と思うでしょ?なにがわるいの?
あと複数人で話す時、「私とお前だけがその場で知ってる用語をペラペラ話し出すから、第三者に向けたフォローをしないといけなくなっているのが苦痛」とも言われた
苦痛ならしなきゃいいじゃん。なんで勝手に自分がしたことをこっちの責任にしてくるんだろう。
この前はただただショックで泣いてたけど、冷静に考えるとむかついてきた。
友達Aが化物語を知らないのに戦場ヶ原が恋したから切った、という作品を知らない人には伝わらないネタを振ってるならシンプルに意味不明
友達Aが化物語知らないなんてこっちは知らないんだからどうすればよかったの?
思ったことすらいっちゃいけないの?
元親友的には「全く似てない。あんなにシャギー入ってない」らしいんだけど、
超ロングだったのにバッサリ切ったキャラや人が、私の中で最近見た化物語の印象が強かったんだよ。
診断うけた
SNSのアカウントは一通り作ってはいる。メインはTwitter(X)で、あとはブルースカイとFacebookをちょこちょこ。インスタはおっさんには敷居が高いと思いつつ、たまに道端で撮った写真とかあげてる。
全く投稿しないのがスレッズ。閲覧もほぼしない。たまに思い出したように通知が来て、それでもほとんど見に行かない。月に一度あるかないかで覗きに行くと、そのカオスっぷりにすぐ閉じてしまう。
Xも充分にエグいのだが、あれは半ば自分で作り上げたTLのカオスみたいなところがあって、わかってて盛り場に足を運ぶみたいな感覚でいられるけど、スレッズのそれは割と始まった頃からカオスだった。特に辛いのは、見ず知らずの人が見ず知らずの人に向ける強烈な悪意。世界に向けてこれを書かずにいられない強い業のようなものを感じてしまう。
証券業界で1カ月で1400億円以上の被害が発生してるフィッシング詐欺だが、もの凄く原始的な対策が今後行われそうなので先に書いておく。
それは、「メールやSMSにhttpリンクを貼らない」というめちゃくちゃ原始的な対策。
リンクがあるからクリックしてフィッシングサイトに行ってあれこれしてしまうので、なら金融機関からの正式な連絡メールにはリンクを一切書かないようにすれば、リンクの有無でフィッシングか否かを見分けられる、というものだ。
大昔のインターネットの「HTMLメールは送らない」に匹敵するダサさではあるが、メールのドメインよく見なさいとか、DMarkやBIMIを確認といった、IT専門知識がある人じゃないと敷居が高い見分け方よりははるかに分かりやすい。
課題はパスワード再発行のケース。今までならパスワード再発行用のリンク(セッションIDにあたるエンコード文字列付の長いアドレス)をメールやSMSに貼り付けて送るのが主流だったと思うが、この方式がNGとなる。
パスワード再発行に関しては電話や窓口、郵送による対応になる公算が高い。
マイナンバーのパスワード再発行がネット完結出来ないのが以前かなり叩かれていた記憶があるが、結局このアナログなやり方が日本では最適解なのかも知れない。
コミケに行ってきた
特にサークル活動はせず、参加者の中に少し知ってる人がいる程度のコミケ初心者
そんな自分からするとコミケのような場所は異常だなってつくづく思う
まず、ゴミが落ちていない
何千人って集まるような場所でこんなにゴミがないのは凄いことだと思う
ゴミ箱に粗大ごみやウンコやタバコが投げ捨てられていなかったり、ちゃんとゴミ箱を利用している時点でまあすごい
これは運営の努力もあるんだろうが参加者が守ってるせいもあるはずだ
初心者なのでどうやって入場するかもわかっていなかったが、あまりの混雑ぶりと列の進み具合のギャップが凄かった
当日券を買ってすら1時間もかかっていない
全員がきちんとリストバンドを警備員に掲げているし、他人を不快にする言動があんまり見受けられなかった
なんだこれ?
確かにコミケには全員が参加者でお客様気分じゃないって書いてあるが、そんなことを律儀に守るとか日本人ということを差し引いてもちょっとおかしいと思う
まあ確かに、始発ラッシュとかアンダーから撮る迷惑カメラマンとか露出狂のコスプレイヤーとか、迷惑な連中もメッチャいるんだろうが、全体からするとそいつらが浮いて見える程度に整ってるように思う
たぶんこういう文化圏にいる人ってのは、こういったみんなで何かを守って一致団結し行動することに何らかの愉悦を感じている節があると感じた
確かに自分の好きなことに全力で他人の目を気にしないってのはあるんだろうが、きちんと自分たちの文化やコミュニティを義理がたく守るって感情は、どうもこの辺の人に見られる気がする
横のつながりが濃くて上下があんまりなく、いい意味で互いに手綱を握って感じ
俺もゲームのコミュニティに何年もいてわかるんだが、オタクのコミュは緩くつながりつつ、やたら情報管理とか規律重視の傾向が強い
なんかあると誰かがやっちゃってる感じ
ただ、外部と隔絶している面もあって本当に敷居が高いし、突き抜けた変な奴も多い
コミケのあの大人数の統率された集団を見ていると、なんかオタクって規則やグループの統率って大好きなんじゃないかなってより実感した
一種のヒエラルキーによって構成されてるので上下関係がどこにいっても存在する