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2014年9月16日火曜日

「議論しないこと」と「ほっとく」能力

また「野間易通」話題だ。ややしつこすぎるし、彼を顕揚しすぎるのは、わたくしが政治的にナイーヴなせいかもしれないが、それはこの際どうでもよろしい。ひとはまず誰かを褒めてみるものだぜ。

何ごとによらず、悪口をいうことのほうが褒めることよりもやさしいようである。褒め言葉は、当の対象がよほど十分に褒められるのに値していなければ、とかくうわつ調子なものになりがちである。これに反して、悪口のほうは、対象の弱点を取り上げるのがその仕事であるから、本来の性質上、甘くなることがそれほどできぬではないかと思う。それだから、たとえある悪口が実際にはちょろいものであっても、それが悪口であるというだけの原因によつて、けつしてちょろいものではないという外観をーーー少なくとも褒め言葉よりは、そなえやすいようである。(中野重治 「映画の悪口ーーー罪はどこにある」)

…………

◆野間易通ツイート(2014.09.14)

「議論しないこと」って、実はすごく重要。みんななぜか「意見が違うなら話し合うのがよい」と思ってるでしょ。まあ敵とはそれでいいんだけど、「味方」とはそうしないほうがいい。するならケンカを。

なかなかうまく言葉にできないが、この「議論しない」というのはけっこう意識的にずっとやってきた面がある。他の人は知りませんけど、TwitNoNukesもしばき隊も合議制ではないし、意思決定は「民主的な方法」では行われていない(反原連は合議制)。

この、民主的な合議制を取らないことの引き換えに、組織の形態を取らないということがある。意見が違う場合はどんどん離脱して分裂して、新しいことをやっていけばいいわけで、しばき隊からプラカ隊やらなんやらが生まれたのは全部そういう方式を取ってるからなんだよね。

なので、みんなが「◯◯会」をつくったとか、なんとか団をつくったとか、それで会長だの代表だのの肩書をいちいち名乗ってるのは、なんかゴッコにしか見えないんだよね。遊びではなく真剣にやってるのはわかってますが。そんなにみんな一家の長みたいなのに収まりたいの? それでは広がらんで。

なんで味方陣営同士だと「議論しないこと」が重要かというと、だいたいの方向性は一致してるから、細かいとこまで詰めて合意する必要がないから。それでも議論したいならすればいいけど、全部ケンカに終わってるでしょ。だから最初からケンカのつもりでやれって。

逆に敵とはおおいに議論すべし。それも公の場で、目的は相手を説得することではなく論破すること。相手の間違いを広くいろんな人に訴えるため。「味方同士」の議論なんて、たいていどうでもいい人間関係のいざこざだし、それに時間取られてる場合じゃないでしょ。友達やめたらすむことやがな。

俺ってなんて冷たい人間なんだ……。でも味方同士のことはナァナァにしとけばいい。ナァナァにできないことがあるなら、それはもう「仲間」じゃないからどんどん決裂すればいい。決裂して自分で立てよ。そのほうが結果的に運動は多様になって、人数も増えまんのや。

あと俺と飲み会で一緒になったことある人わかると思うけど、俺って会うと超いい人でしょ? なぜか。「こいつアホなこと言うてるなー」と思ってもたいていニコニコとその場をやりすごしてるからじゃ。酔ったやつとする議論ほど無意味なものはないんじゃ。それは暇つぶしなんじゃ。

それでも許せない発言があったらさすがにケンカになるよね。で、そこでケンカしたら人間関係壊れますやん。そしたら次は別々の飲み会に行くようになるでしょ。これでまた少し広がるんですわ。反レイシズムに関しては「だいたい一緒」なんだから、これでいいのよ。

野間易通氏は、運動の「中心者」になることをしきりに避けてようとしている、権力の中心となることを。その姿勢のひとつが上の文に見事に現れている。ここには辺見庸のいう次の態度の実践者がいるように思う(もっとも即断は避けねばならない、彼にもどこかに落度はある、すくなくともあったはずだろう、その失敗の積み重ねによる者の言葉でもあり得る)。



 きょうお集まりのたくさんのみなさん、「ひとり」でいましょう。みんなといても「ひとり」を意識しましょう。「ひとり」でやれることをやる。じっとイヤな奴を睨む。おかしな指示には従わない。結局それしかないのです。われわれはひとりひとり例外になる。孤立する。例外でありつづけ、悩み、敗北を覚悟して戦いつづけること。これが、じつは深い自由だと私は思わざるをえません。(辺見庸「死刑と新しいファシズム 戦後最大の危機に抗して」(2013年8月31日の講演記録

組織がファンクラブになってしまったときの先行きは見えているのを、いままでの「運動」から学んでいるのだろうし、なによりも行動者・運動家の長年の実践から出てきた言葉として尊い。


まあ、僕は運動家じゃないのは初めからわかっているので、二、三年で誰か実践的なリーダーが出てきたら引っ込もうと思っていましたが、僕が悠然と引っ込めるような体制にはなりませんでした。NAMがうまくいかなかった理由の一つは、まずインターネットのメーリングリストに依存しすぎたことです。(中略)もう一つは、運動に経験のある未知の人たちに会って組織すべきだったのに、僕の読者を集めちゃったわけね。インターネットでやればどうしてもそうなる。それで、柄谷ファンクラブみたいになってしまった(笑)。しかし、ファンクラブというのは実は互いに仲がわるいうえに、僕に対して別に従順ではなくて、むしろ柄谷批判をすることが真のファンだと思っているから、その中で軋轢が生じる。(『近代文学の終り』柄谷行人(インスクリプト)ーー「柄谷行人ファンクラブ」)

野間易通氏には、《そもそも柄谷行人みたいな大物の哲学者が「日本はデモができる社会になってよかった」とか言ってるのって極めて異常なことで、……》という発言もあることから窺われるように、柄谷行人のNAM運動とその失敗への吟味から生れた、権力の中心はどうあるべきかという思考の裏づけからくる発言をもしているはずだ。もっともNAM運動と彼のやっている「カウンター」は運動のやや性格が異なるという観点をもつ人がいるだろうが、それはここではいったん脇にやる。いったん? いや後述する余裕はないので、次の文だけを挿入しておこう。《NAMの「原理」はいわば遺伝子であって、資本=ネーション=ステートというガンのなかに、対抗ガンを作り出す》(NAM〜New Associationist Movement(2000-2003))。野間易通の「カウンター」のあり方は「対抗ガン」に相違ない。(旧称「レイシストをしばき隊」は、今は「C.R.A.C」となっている。クラック? 割れ目、裂け目だーーどうしてこの名から「対抗ガン」を想起していけないことがあろう?

もし匿名投票による普通選挙、つまり議会制民主主義がブルジョア的な独裁の形式であるとするならば、くじ引き制こそプロレタリア独裁の形式だというべきなのである。アソシエーションは中心をもつが、その中心はくじ引きによって偶然化されている。かくして、中心は在ると同時に無いといってよい。すなわち、それはいわば「超越論的統覚X」(カント)である。(柄谷行人『トランスクリティーク』P282-283ーー「バカジャナイノ?」)

そして野間易通には、ジジェクの柄谷行人批判(吟味)さえ念頭にあるように思う、それはその権力のフェティシズムfetishism of powerを怖れ、権力の「場」の神秘the very mystique of the PLACE of powerから免れようとする態度からの憶測に過ぎないが。

But is this effectively enough to undermine the "fetishism of power"? When an accidental individual is allowed to temporarily occupy the place of power, the charisma of power is bestowed on him, following the well-known logic of fetishist disavowal: "I know very well that this is an ordinary person like me, BUT NONETHELESS... (while in power, he becomes an instrument of a transcendent force, power speaks and acts through him)!" Does all this not fit the general matrix of Kant's solutions where the metaphysical propositions (God, immortality of the soul...) are asserted "under erasure," as postulates? Consequently, would it not the true task be precisely to get rid of the very mystique of the PLACE of power? (The Parallax of the Critique of Political Economy

彼がジジェクを参照しているかどうかはどうでもよいことであり、おそらく自らの経験により、そのような結論を得たのではないだろうか。

《みんなが「◯◯会」をつくったとか、なんとか団をつくったとか、それで会長だの代表だのの肩書をいちいち名乗ってるのは、なんかゴッコにしか見えないんだよね。遊びではなく真剣にやってるのはわかってますが。そんなにみんな一家の長みたいなのに収まりたいの? それでは広がらんで。》





…………

ところでスローガン的発言(キャッチーさを主眼におく)を中心にして発言は、「思考」のレベルでは、それを鵜呑みにすることはでき難い。

@kdxn:アベノミクスの失敗やな。@MSN_Nagato https://twitter.com/kdxn/status/511387603740803072 … pic.twitter.com/mK7883VpHB(2014.9.15)

これだけ読んで(すなわち「貿易赤字はすべてアベノミクスのせいだという見解を読んで)、われわれはただひたすら頷くだけにはいかないだろう。

たとえば、少なくとも次のような分析を参照しなくてはならない。そして、これも数ある分析のひとつに過ぎない。



≪主因は製造業のアジア移転≫

 だが、貿易赤字自体を罪悪視する、「貿易赤字で大変だ」といった議論は根本的に誤っている。赤字が悪くて黒字が好ましい…まさに重商主義の発想に他ならない。アダム・スミスの名著『国富論』は相当部分を重商主義の誤りを正すために割いている。過去の実証分析でも、貿易赤字で成長率が低下するとか金利が上昇するといった傾向は認められていない。

 第2の誤りは、貿易赤字は原発停止-燃料輸入増によるとの見解だ。JPモルガン・チェース銀行の佐々木融氏が提示する分析によると、過去3年間の貿易収支悪化の約3分の1はエネルギー価格上昇と円安が理由だ。エネルギーの輸入増ではなく、価格要因(円安と国際価格の上昇)である。

残りの大半は対アジア貿易収支の悪化、アジアからの輸入増(機械など)で説明可能という。明らかに製造業が過去数年で生産拠点をアジアに移した結果だ。日本は景気回復で消費が拡大したが、国内製造能力の海外移転で輸出は増えず、逆に輸入が拡大する…。構造的変化が起きているのだ。

野間易通氏が先日リツイートしていたが、次の言葉はあれらの「カウンター」運動者の発言のありようを象徴するものだ。

@bcxxx: ネトウヨの猛然たるデマ言説に対して、左翼の対抗言説はいかにも丁寧で、資料を丹念に挙げたりするのだが、その分長ったらしく、キャッチーさに欠ける。教養のある人が、時間のある時に、ふむふむ勉強になるなあ、と思いながら読む感じ。学習会のノリなんだよね。

ここで古井由吉の言葉を並べて見比べてみることにしよう。

本来は、いまのような複雑な世では、一つの考えや状態を人に伝えるのに、どうしてもワンセンテンスの呼吸が長くなるはずなんです。切れ切れの話でやったららちがあかない。もちろん、複雑な事態を複雑なまま、できるだけ正確に伝えるのは難しいが。まずは、一つ呼吸を長くする、というようなことでしょうか。(古井由吉さん 衰えゆく言葉を鍛えよ

ファストフード的読者の席巻に同調する風潮、あるいは《若い人たちはマンガくらいしか読まないし、文学とか全然読まない訳です。そうやってマンガだけを読んで育った人が見る側もほとんどなので、ものすごく子供っぽくなっている》(桃井かおり)というわけだが、なにかを主張したければツイッターなどのSNSにて「わかりやすく」スローガン的な言葉だけを顕揚する風潮には警戒しなくてはならない。すなわち野間易通氏のときにある「挑発的・スローガン的」発話をすべて鵜呑みにするわけにはいかない。しかし冒頭に掲げられたようなツイートは、ひどく傾聴に値する。長年の経験に培われた「一つ呼吸を長さ」を感じさせる言葉である。


◆冒頭の野間易通氏のツイートと同じ時間帯に、佐々木中氏が、別の方のツイートに反応して書かれたドゥルーズの「議論」を否定することをめぐるツイートをしている。ここでは以前に呟かれた言葉を先に引用する。行動者としてもある佐々木中氏であり、その「政治的な」ツイートは、野間易通氏のものと同様に、傾聴に値する。

何もしないなら黙ってろ、黙ってるのが嫌なら何かしろ、という性質の話の筈。偉そうにTwitterでどっちもどっち論を繰り返し、動いているのは指先のみ。いま大学人がいかに信用失墜しているか新聞でも眺めればわかる筈なのに、そのざまか。民衆は学び、君を見ているぞ、「ケンキューシャ」諸君。(佐々木中)ーー罵倒の技術の練磨、あるいは「問題はそこではないのさ」

彼の他のツイートのいくらかはここに拾ってある→「涙もろいリベラルが「ファシズムへ の道」だと非難するなら、言わせておけ!」(ジジェク)

だが、こうやって野間易通氏のツイートと並べて読むと、どこかに「弱さ」があるように感じてしまう(経験から生れた言葉ではなく、書物から生れた言葉)のは、--やむえないことだろう。

@noiehoie
でも、気をつけなきゃいけないのは、「洗脳したり支配してやろうとする奴は、この『話を聞いて欲しい欲求』をまずくすぐってくる」って事ですな。子供を巧妙に支配する親って、これの魔力に取り憑かれてるのよな。「一旦話さえ聞いてやれば、誘導できる」ことを知悉して、支配の道具にしてる。
@AtaruSasaki  仰る通りで、マネジメントや自己啓発に見られる安手の心理学の「傾聴」の応用なんて、一歩間違えればカルトですよね。@noiehoie

本当の対等な信頼に基づいた友情・愛情関係っていうのは、相手の言うことなんてまともに聞きゃしないし自分の言いたいことテキトーに全部言うけど、突然こっちのいうことをちゃんと聞いて深くわかってないと言えないことをグサッと言われて驚愕する、というものではないのか。

精神分析で言えば、フロイトと言う人は「傾聴」によって依存させるのも、しかしそれを突き放して依存から解放するのも天才的にうまい人だったよ。そして患者に絶対手を出さない。これについては講義でよく話す感動的な逸話がある。ラカンもそう。ちゃんと「自分から離脱」させないと駄目です。

ドゥルーズ=ガタリも共同執筆してるとき、つねに片方がしゃべりまくりその間片方はうんざりしていてて、それなのに不意に相手の言ってたことを自分が語りはじめ、その逆も起こり……ということを言ってる。

ゆえにドゥルーズは「議論」を否定し、別の水準の変化を重要視した。傾聴と透明なコミュニケーションを前提とした議論ではなく、もっと野放図な言葉の投げ合いぶつけ合いが真の変化をもたらし、支配関係のない真の集団性をもたらす。

ドゥルーズは仲間内でクネクネしてる人じゃない。議論を仕掛けられると「はいはいお説ごもっとも」って躱すし、いらないと思った人間は冷酷に撥ね付ける。ちゃんとものの本に書いてある。でも彼以上に愛に満ちあふれた哲学者っていないんだよ。身体めちゃ弱いのに鉄火場に強くてデモにも出てくるしさ。

というわけで、フロイトもラカンもドゥルーズもガタリも、俗流心理学や俗流ポストモダンとは何の関係もないから。無い。(佐々木中)

ここでジジェクのフロイトの政治的態度の批判を掲げておこう。



フロイトの選挙投票の選好(フロイトの手紙によれば、彼の選挙区にリベラルな候補者が立候補したときの例外を除いて、通例は投票しなかった)は、それゆえ、単なる個人的な事柄ではない。それはフロイトの理論に立脚している。フロイトのリベラルな中立性の限界は、1934年に明らかになった。それは、ドルフースがオーストリアを支配して、共同体国家(職業共同体)を押しつけたときのことだ。そのときウィーンの郊外で武装した衝突が起った(とくにカール マルクス ホーフの周辺の、社会民主主義の誇りであった巨大な労働者のハウジングプロジェクトにて)。この情景は超現実主義的な様相がないわけではない。ウィーンの中心部では、有名なカフェでの生活は通常通りだった(ドルフース自身、この日常性を擁護した)、他方、一マイルそこら離れた場所では、兵士たちが労働者の区画を爆撃していた。この状況下、精神分析学連合はそのメンバーに衝突から距離をとるように指令していた。すなわち事実上はドルフースに与することであり、彼ら自身、四年後のナチの占領にいささかの貢献をしたわけだ。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』より 私意訳)


原文はここにある→ 「

甘く見てはならないとか高をくくってはならないとかなんて言われても



…………


◆数日前の野間易通氏のツイートも拾っておく。


@kdxn: 何よりも、在日と議論してボロカス言われたからといって「在日はなんでも差别と言う」とか「このままだと在日が嫌いになりそう」とかネットに書いてしまう人と、在日が対等に議論できるわけないじゃないですか。ひどい抑圧ですよ。それは周りがちゃんと批判しないと。@ndoro4 野間易通

@kdxn: 「カウンター」は、行動であり態度のことであって、サークルやグループではないんだよね。日本中でレイシストやファシストにカウンターしてる人のほとんどは、俺の知り合いでも友達でもないし、今後も一生知り合うことがない人たち。そして俺を嫌いな人も大量にいる。これが普通でしょ。

@kdxn: 在日に「おまえはレイシストだ」と言われてカウンターやめるんだったら、しばき隊なんて結成翌日に解散やがな。「ザイトクとしばき隊なんてレイシスト同士のケンカ」と言われてたんだよ、在日に。でもそれって、在日にも日本人と同じぐらいの割合で馬鹿がいるという当然の現実を反映してるだけだよね。


…………


@kdxn: 凛さんの件ですが、今のところツイッター上で怒ってる人のほとんど全部が在日だということは、ちゃんと受け止めてほしいと思う。

@kdxn: 日本人は全然言及してないし、実際あんま怒ってない。なぜなら、「関係ない」から。でも在日の人は、凛さんの事件でものすごい恐怖を味わったはずです。

@kdxn: 凛さんの「生活保護不正受給」とされた件は、同様の事例が年間500件ほどあり、そのほとんどは日本人によるもので、刑事事件にもならない。仮にそういう刑事事件があったとして、日本人はその人に向けていちいち怒ったりしない。他人で知らない人だから。

@kdxn: これが在日の場合は、人数も少なく狭いコミュニティでそういうことがあれば、在日全体の印象が悪くなってしまう。この場合、在日全体に悪い印象を持つマジョリティのほうが間違っていてそれも差別なんですけど、実際にそうなってしまうんだから凛さんの同胞の恐怖は計り知れないものがあったと思う。

@kdxn: 年間500件の不正受給のほとんどに何も手を付けず、すでに返済済みの凛さんのものだけ逮捕・起訴して「犯罪者」としてテレビに報道させたのは明らかに警察の意図的な動きで、これは弾圧案件。しかし警察は、法的にはちゃんとNGになる事例を選んでそういうことをやる。

@kdxn: というわけで、いくら警察の弾圧だといっても、在日の人たちの恐怖や怒りにはちゃんと正当な理由があるので、そこは丁寧に対応してほしいと思います。

@kdxn: 日本人はこの場合、総体として在日に恐怖を与えている側なので、これに乗っかって一緒に凛さんを非難するようなことはやめたほうがいい。幸いカウンターの中には今のところそういう人は見当たりませんが。

@kdxn:というわけでこれは、社会的立場によって対応が変わってしかるべき事例だと思います。

@kdxn: あとスケコマシ問題とかいろいろあるけど、これは分けて考えるべし。仮に凛さんがダメ男だったとして、しばき隊に呼応して最初に立ち上がったのがそういう人しかいなかったのだからしょうがない。みんなの考える「まともな人」が立ち上がってればこうはならなかったけど、いなかったんだよ。

@kdxn: で、その意を決して立ち上がったことがひとつの原因となって警察にいらんことやられてるわけだから、そこは割り引いて考えたい。少なくとも日本人としては。

…………

@ARK_kandu: 野間さんの言ってた,つうのはこれ。泥さんも過労(たぶん極度の寝不足)で判断力落ちてると思います。(U) QT @kdxn: 本人連れてきて自分で反論させろよ。親かおまえは。

@kdxn: @ARK_kandu それ解決でもなんでもなくてスタート地点に戻るだけでしょ。で、自分の感情をコントロールできない人は、議論に向いてない。ていうか、いつまでチアフルの話につきあわせるの? 知らんがな。私が言ったのは「解決するな」ということ。君には無理だよ。

@kdxn: .@ARK_kandu なんでこんなトラブルを自分が「解決」できると思っているのか全くわからない。事実、あなたが種になって負のスパイラルを起こしたでしょう? 犯罪被害にあってる友人を助けるとかならともかく、個人の感情処理の問題を「解決」できるようなタマじゃないでしょう、あなた。

@kdxn: .@ARK_kandu みんな大人なんだから、いろんなことを「ほっとく」能力ちゃんと磨いたほうがいいですよ。そもそも「俺はもうやめてやる!」とか宣言してどっか言っちゃう人って9割9分復活するので、心配してあれこれやる必要は全くないです。本当に離反するのは黙っていなくなる人。

@kdxn: 「もうやめます」とか「休みます」とか「アカウント消します」とか、いちいち言わなくていいから。めんどくさいねん。勝手に休んだらいいやん。誰も文句言わんよ。

@kdxn: RT @鍵: もうやめます→構って 休みます→構って アカウント消します→構って


※参照:


1、

旧「レイシストをしばき隊」<首謀者>野間易通
2、罵倒の技術の練磨、あるいは「問題はそこではないのさ」
3、「ネオナチと高市の写った写真見ながら、今もヘラヘラしてんだよ

ーーさあて、これで野間易通話題をいったん打ち切りにすることができるだろうか?
オレにはわからんね




2014年9月10日水曜日

罵倒の技術の練磨、あるいは「問題はそこではないのさ」

オレはもちろん反差別が差別の温床になることを知ってるさ。
そんなの誰もが知っていることだよ。
問題はそこではないのさ。
問題は、果たして差別の温床となりうる反差別運動をしないで
差別、排外主義、ヘイトスピーチを止めうるかどうかということだぜ。

私はもちろんハイデガーがナチだったと知っています。誰もが知っていることです。問題はそこではないのですよ。問題は、果たして彼が、ナチスのイデオロギーに与することなしに20 世紀で最も偉大な哲学者になり得たかどうかということなのです。(デリダ)

ーーというわけで、たまには文体練習しなくちゃな

フロイトのリベラルな視点では、極右的リンチの群衆と左翼の革命的集団はリピドー的には同一のものとして扱われる。これらの二つの集団は、同じように、破壊的な、あるいは無制限な死の欲動の奔出になすがままになっている、と。(ジジェク『LESS THAN NOTHING]』私訳)


さあて、ここでふたたび野間易通語録を並べてみよう。

・「『私たちは決して許しません』と呼び掛けるのではなく、『ふざけるな、 ボケ』と叫んだほうが人は集まる」

・理路整然とした「上品な左派リベ ラル」の抗議行動は「たとえ正論でも人の心に響かない」と答え、「何言ってるんだ、バカヤ ロー」と叫ぶのが「正常な反応」だ

・しばき隊はどんどん罵倒するのが基本 方針。 僕がよく使う言葉は、『人間のクズ』『日本の恥』などですが、もっと罵倒の技術を磨かねば、 と考えています」

・「カウンター行動は、これまで上品な左派リベラルの人も試みてきました。 ところが悲しいことに、『私たちはこのような排外主義を決して許すことはできません』とい った理路整然とした口調では、 たとえ正論でも人の心に響かない」

・「公道で『朝鮮人は殺せ』『たたき出せ』と叫び続ける人々を目の前にして、冷静でいる方 がおかしい。 むしろ『何言っているんだ、バカヤロー』と叫ぶのが正常な反応ではないか。レイシストに 直接怒りをぶつけたい、 という思いの人々が新大久保に集まっています」

ヘイトスピーチだけではない、
ネオナチの輩に対して、
「私たちはこのようなネオナチの政治家を
決して許すことはできません」
と上品かつ理路整然とした口調で応対すべきものだろうか

「死ね!、安倍」 「ふざけるな、この薄汚い高市早苗!」
などと罵倒するべきだろうか


わたしは仔細ぶった疑いぶかい猫どもの静かさよりは、むしろ喧騒と雷鳴と荒天の呪いを好む。そして人間たちのあいだでも、わたしは最も憎むのは、忍び足で歩く者たち、中途半端な者たち、そして疑いぶかい、ためらいがちな浮動する雲に似た者たちすべてである。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)




お、すこしは上品に写ってるじゃないか、おばちゃんたち
だがやっぱりこの顔が透けてみえるな




女性大臣の登用大変結構なことです。だけど普通大臣などというと優秀な女性を登用するものだと思っていたが男政治家タヌキと全く同じように姑息に生き抜いてきたお子様愛国婦人会のスカンクたちが大臣になるとはね。国会の悪臭ここに極まれりといったところでしょうね。女性の地位云々の話ではない。(鈴木創士)

ーー鈴木創士氏は、神戸新聞にコラムを書くようになってから、罵詈雑言をオブラートに包む手法が目立つようになったのだけれど、さずがにいまだ巧いねえ、こうでなくっちゃいけない。

…………

――それで、反差別集団が差別集団に育ってしまったらどうするんだい?

おまえ、やっぱり上品なリベラルだな、それ

Ever tried. Ever failed. No matter. Try again. Fail again. Fail better.--Samuel Beckett "Worstward Ho" (1983)

何度やってもダメだって、
それがどうしたというんだい? 
もう一度やって、
もう一度ダメになればいいじゃねえか。
以前よりマシだったら、それでいいさ(ベケット)


どうだい? たとえばこの類の発言をツイッターでしきりに振りまいてカシコイ「正義のひと」のつもりの貴君よ

主観的には「差別に反対する」意図を持った人たちが、これほど露骨に差別の温床になり、あるいは差別の増幅装置にすらなっていることが、あまりに放置されています(<「涙もろいリベラルが「ファシズムへ の道」だと非難するなら、言わせておけ!」(ジジェク>より)

なかなか「説得的」な言葉じゃねえか、なにもしないで冷笑しているだけのマジョリティに受けたいんだろうよ


@AtaruSasaki: 知人が作家ゴイティソーロから直接聞いたユーゴ内戦の話。脱出して来た旧ユーゴの作家や学者達が慟哭し悔いていたこと。「排外主義を唱える連中はみな愚かで幼稚に見えた。何もできまい、放っておけ、三流の媒体でわめかせておけと思った。それが、このざまだ。真正面から戦わなかった我々の責任だ…」

@AtaruSasaki:何もしないなら黙ってろ、黙ってるのが嫌なら何かしろ、という性質の話の筈。偉そうにTwitterでどっちもどっち論を繰り返し、動いているのは指先のみ。いま大学人がいかに信用失墜しているか新聞でも眺めればわかる筈なのに、そのざまか。民衆は学び、君を見ているぞ、「ケンキューシャ」諸君。(佐々木中)

《まことに、わたしはしばしばあの虚弱者たちを笑った。かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、自分を善良だと思っている。》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)










2014年7月6日日曜日

「生きてても目ざわりになるから首でもくくって死ね」

インターネットで、金井美恵子や中上健次の真似をして、「バカ、死ね」と書いてはいけないのは、アラタメテ言うまでもない。で、引用ぐらいはいいだろう?

人間は諸関係の中で死ぬのである限り、死ぬ自由などありはしないと思った。死のうとする意志がどうしようもなくあるのは認めるが、死ぬ自由などないのである。

その考えは、ぼくの倫理でもあるが、ぼくはその時、奇妙なことに、なにひとつまっとうな人間としてものを考えようとしないやつらは、生きてても目ざわりになるから首でもくくって死ね、そうすれば皮でもはいで肉を犬にでもくれてやる、と思ったのだった。おもしろい反応である。(中上健次『鳥のように獣のように』)

もうすこし穏和系も引用しとこう

私はまったく平和的な人間だ。私の希望といえば、粗末な小屋に藁ぶき屋根、ただしベッドと食事は上等品、非常に新鮮なミルクにバター、窓の前には花、玄関先にはきれいな木が五、六本―――それに、私の幸福を完全なものにして下さる意志が神さまにおありなら、これらの木に私の敵をまあ六人か七人ぶら下げて、私を喜ばせて下さるだろう。そうすれば私は、大いに感激して、これらの敵が生前私に加えたあらゆる不正を、死刑執行まえに許してやることだろう―――まったくのところ、敵は許してやるべきだ。でもそれは、敵が絞首刑になるときまってからだ。(ハイネ『随想』――フロイト『文化への不満』から孫引き)

…………

さて冒頭の話とはマッタクカンケイガナイ

@dongyingwenren: 正直、イデオロギー抜きで各論検証した場合、脱原発も秘密保護法反対も集団的自衛権反対もそれなり以上に主張する意味があると思えるのに、実際に支持する人を見ると「生理的に嫌になる(→消極的賛成を示さざるを得ないかと思えてくる)」この現象は何なんだろう。煽り抜きでヤバい気がするのだが。

などとソウメイな方がツブヤカレテオラレ、たくさんのRTやファボを集めてオラレル

ノンフィクション作家、多摩大学「現代中国入門」非常勤講師。著書『中国人の本音』(講談社) 、『独裁者の教養』(星海社)、『中国・電脳大国の嘘』(文藝春秋)ほか。近著に『和僑』(角川書店)amzn.to/YOIgIX 。講談社『COURRiER Japon』誌で「ダダ漏れチャイニーズ」好評連載中です。

マジョリティに好まれる呟きであるに相違ない

闘ってるやつらを皮肉な目で傍観しながら、「やれやれ」と肩をすくめてみせる、去勢されたアイロニカルな自意識ね。いまやこれがマジョリティなんだなァ。(浅田彰『憂国呆談』)

 

しばしば見かける典型的な「インテリ」系譜の囀りでもある。一応、大学人でもあるらしい

何もしないなら黙ってろ、黙ってるのが嫌なら何かしろ、という性質の話の筈。偉そうにTwitterでどっちもどっち論を繰り返し、動いているのは指先のみ。いま大学人がいかに信用失墜しているか新聞でも眺めればわかる筈なのに、そのざまか。民衆は学び、君を見ているぞ、「ケンキューシャ」諸君。(佐々木中)

「消極的賛成を示さざるを得ないかと思えてくる」とは、ひょっとして《混乱に対して共感を示さずにおくことの演じうる政治性に無自覚であることの高度の政治的選択》(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』P582)かもな

自分には政治のことはよくわからないと公言しつつ、ほとんど無意識のうちに政治的な役割を演じてしまう人間をいやというほど目にしている(……)。学問に、あるいは芸術に専念して政治からは顔をそむけるふりをしながら彼らが演じてしまう悪質の政治的役割がどんなものかを、あえてここで列挙しようとは思わぬが、…… 同『凡庸』P461


…………

私化した個人は、原子化した個人と似ている(政治的に無関心である)が、前者では、関心が私的な事柄に局限される。後者では、浮動的である。前者は社会的実践からの隠遁であり、後者は逃走的である。この隠遁性向は、社会制度の官僚制化の発展に対応する。(中略)原子化した個人は、ふつう公共の問題に対して無関心であるが、往々ほかならぬこの無関心が突如としてファナティックな政治参加に転化することがある。孤独と不安を逃れようと焦るまさにそのゆえに、このタイプは権威主義リーダーシップに全面的に帰依し、また国民共同体・人種文化の永遠不滅性といった観念に表現される神秘的「全体」のうちに没入する傾向をもつのである。(「個人析出のさまざまなパターン」『丸山真男集』第九巻p385---丸山真男とジジェクのシューマ

《実際に支持する人を見ると「生理的に嫌になる」》とはなんだろう?

あれら原子化した個人の群衆のぶざまな醜態は「原始的集団における情緒の昂揚と思考の制止」ってわけでもあるまい?

集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる(……)。彼の情緒は異常にたかまり、彼の知的活動はいちじるしく制限される。そして情緒と知的活動と二つながら、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な衝動の抑制が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原始的集団における情緒の昂揚と思考の制止という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)

《フロイト自身、ここでは、あまりにも性急すぎる。(……)フロイトにとっては、あたかも“退行的な”原始集団、典型的には暴徒の破壊的な暴力を働かせるその集団は、社会的なつながり、最も純粋な社会的“死の欲動”の野放しのゼロ度でもあるかのようだ。

だが……)“退行的な”原始集団は最初に来るわけでは決してない。彼らは人為的な集団の勃興の“自然な”基礎ではない。彼らは後に来るのだ、“人為的な”集団を維持するための猥雑な補充物として。このように、退行的な集団とは、象徴的な「法」にたいする超自我のようなものなのだ。象徴的な「法」は服従を要求する一方、超自我は、われわれを「法」に引きつける猥雑な享楽を提供する。》(ジジェク『LESS THAN NOTHING』――デモの猥雑な補充物としての「享楽」



それとも連中は「賤民」ってわけかい? まさか!

権力をもつ者が最下級の者であり、人間であるよりは畜類である場合には、しだいに賤民の値が騰貴してくる。そしてついには賤民の徳がこう言うようになる。「見よ、われのみが徳だ」と(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四部「王たちとの会話」手塚富雄訳)

憎悪だけで寄り集まった連中だってわけでもないだろ?

特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的な依存と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結合を呼び起こすであろう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』フロイト著作集6 P219)

なんにもしないよりなんかしたほうがマシじゃないのかい?

私は政治を好まない。しかし戦争とともに政治の方が、いわば土足で私の世界のなかに踏みこんできた。(加藤周一「現代の政治的意味」あとがき 1979)
私は、たとえば、ほんの少量の政治とともに生きたいのだ。その意味は、私は政治の主体でありたいとはのぞまない、ということだ。ただし、多量の政治の客体ないし対象でありたいという意味ではない。ところが、政治の客体であるか主体であるか、そのどちらかでないわけにはいかない。ほかの選択法はない。そのどちらでもないとか、あるいは両者まとめてどちらでもあるなどということは、問題外だ。それゆえ私が政治にかかわるということは避けられないらしいのだが、しかも、どこまでかかわるというその量を決める権利すら、私にはない。そうだとすれば、私の生活全体が政治に捧げられなければならないという可能性も十分にある。それどころか、政治のいけにえにされるべきだという可能性さえ、十分にあるのだ。(ブレヒト『政治・社会論集』ーー「涙もろいリベラルが「ファシズムへ の道」だと非難するなら、言わせておけ!」(ジジェク)

インテリくんたちは、どっちかしかないことぐらいワカッテルダロウナ?、権力の道具か権力を批判する道具か

けだし政治的意味をもたない文化というものはない。獄中のグラムシも書いていたように、文化は権力の道具であるか、権力を批判する道具であるか、どちらかでしかないだろう。(加藤周一「野上弥生子日記私註」1987)

岡崎乾二郎の昨日のツイート、削除してしまってるな

@kenjirookazaki: まさか、自分の国が道ならぬ道を歩むこといになるとは思ってもみなかった 花 でした。てっ!

ところで、《自分の国が道ならぬ道を歩むこといになるとは思ってもみなかった》という痛恨の思いに囚われている人でも、「脱原発も秘密保護法反対も集団的自衛権反対もそれなり以上に主張する意味があると思えるのに、実際に支持する人を見ると「生理的に嫌になる」なんて呟くもんだろううか?




いやいや、まだ若い人の囀りなのだ、なんのウラミもない、寡聞にして、はじめて知った名でね

《私はまったく平和的な人間だ。私の希望といえば、粗末な小屋に藁ぶき屋根、ただしベッドと食事は上等品、非常に新鮮なミルクにバター、窓の前には花、玄関先にはきれいな木が五、六本……》、犬が四匹、人間の皮をはいで肉をあたえたことはまだない








2014年4月29日火曜日

果たして「シェアすることは歓びを増す」だろうか

真の豊かさとは「この世界の豊穣さを多くの人と『分け合う』」ということだ。シェアすることは歓びを増す。美味や美観や良い音楽や藝術、知的遺産と巡り合ったときに、可能なら一人ではなく誰かと一緒に味わいたいと思うのが自然だ、と私は思う。それが実は「反貧困」ということではないのか。(佐々木中)

佐々木中氏の昨晩(2014.4.28ツイートだが、《シェアすることは歓びを増す》とある。《美味や美観や良い音楽や藝術、知的遺産と巡り合ったときに、可能なら一人ではなく誰かと一緒に味わいたいと思うのが自然だ、と私は思う》とある。

だが愛する女と巡り合ったとき、なぜシェアしたくならないのだろう、とひねくれ者のわたくしは言う。なぜ良い音楽や藝術、知的遺産が〈女〉と違うのだろう。愛する女に接するように、音楽や美味に向かうとき、ツイッターなどにその画像や音声を貼り付けたりしてシェアしたいと思うのだろうか。いやけっして。シェアしたいと思うのは、快楽の次元にあるもので、悦楽(享楽)の次元にあるものではない。

快楽plasirのテクスト。それは、満足させ、充実させ、快感を与えるもの。文化から生れ、それと縁を切らず、読書という快適な実践に結びついているもの。

悦楽jouissanceのテクスト。それは、忘我の状態に至らしめるもの、落胆させるもの(恐らく、退屈になるまでに)、読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがすもの、読者と言語活動を危機に陥れるもの。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

ストゥディウム(studium)、――《この語は、少なくともただちに≪勉学≫を意味するものではなく、あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。》

プンクトゥム(punctum)、――《ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり――しかもまた骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。》

《ストゥディウムは、好き(to like)の次元に属し、プンクトゥムは、愛する(to love)の次元には属する》(ロラン・バルト『明るい部屋』ーーベルト付きの靴と首飾り


享楽jouissanceの次元、あるいは

プンクトゥムの次元にあるものは、トラウマ的であり、冥府からの途切れがちの声として呟くほかあるまい。すぐれた作家としての佐々木中氏(たとえば古井由吉のすぐれた読み手である彼)はそんなことはとっくに知っているはずなのに、知らないふりをした発言であるように思う。


「若きパルク」も『ドゥイノの悲歌』も、『荒地』でさえも、映像も言語も成人型の記憶のように動き流れていく。断絶や飛躍を越えて連続性がある。前後関係があり遠近がある。

これに対して、二十世紀後半の詩は孤立した鋭い断片であって、成人以前の記憶が禁止を破って突き上げてきた印象がある。このタイプの映像は幼い時の記憶だけでなく、たとえ成人であっても耐えがたい心の傷を負った時には、その記憶がとる形である。

たとえばパウル・ツェランの詩が痛ましさを以て迫るのは、その内容だけでなく詩句もそれが呼び起こす映像も外傷的記憶の形をとっているからであると私は思う。それはもはや冥府下りでなく、冥府からの途切れがちの声である。(中井久夫「私の三冊」ーートラウマを飼い馴らす音楽

ひとは本当のところは、《心を寄せていた異性の名を口にできないのとおなじように、ほんとうに好きな作家、好きだった詩人の名はぜったいに明かせない》(堀江敏幸『河岸忘日抄』)であったり、《まもなく、私の二十年来の友人が須賀敦子さんを”発見”した。私たちは、少年が秘密の宝を共有するように、須賀さんの作品について、声をひそめるような感じで語り合った。ひとにはむしろ触れ回りたくなかった。》(中井久夫『須賀敦子さんの思い出』)ではないか。

われわれは、次のように書くジュネを忘れるわけにはいかない。


美には傷以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)


佐々木氏の冒頭のツイートはたんなるスローガン的言説に過ぎないのではないか、とひねくれ者のわたくしは言う。あるいは営業活動の一環でしかないのではないか、とひねくれ者のわたくしは言う。

公衆から酒手をもらうのとひきかえに、彼は己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消する。そしてついには栄光を求めて演じられるこうしたぶざまな演技を、自らを他に類例のない唯一無二の存在と感じる喜ぴーー大いなる個人的快楽ーーになぞらえるにいたるのだ。(ヴァレリー『テスト氏との一夜』ーー承認欲望と承認欲動

《のがれよ、わたしの友よ、君の孤独のなかへ。わたしは見る、君が世の有力者たちの惹き起こした喧騒によって聴覚を奪われ、世の小人たちのもつ針に刺されて、責めさいなまれていることを。(……)


のがれよ、わたしの友よ。君の孤独のなかへ。わたしは、君が毒ある蠅どもの群れに刺されているのを見る。のがれよ、強壮の風の吹くところへ。》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)


人が芸術的なよろこびを求めるのは、芸術的なよろこびがあたえる印象のためであるのに、われわれは芸術的なよろこびのなかに身を置くときでも、まさしくその印象自体を、言葉に言いあらわしえないものとして、早急に放置しようとする。また、その印象自体の快感をそんなに深く知らなくてもただなんとなく快感を感じさせてくれものとか、会ってともに語ることが可能な他の愛好者たちにぜひこの快感をつたえたいと思わせてくれるものとかに、むすびつこうとする。それというのも、われわれはどうしても他の愛好者たちと自分との双方にとっておなじ一つの事柄を話題にしようとするからで、そのために自分だけに固有の印象の個人的な根源が断たれてしまうのである。(プルースト『見出されたとき』井上究一郎訳)

再度、佐々木中氏の「愛している」はずのニーチェを引用するなら、次のように引用することもできる。

真に自己自身の所有に属しているものは、その所有者である自己自身にたいして、深くかくされている。地下に埋まっている宝のあり場所のうち自分自身の宝のあり場所は発掘されることがもっともおそい。――それは重さの霊がそうさせるのである。(……)

まことに、人間が真に自分のものとしてもっているものにも、担うのに重いものが少なくない。人間の内面にあるものの多くは、牡蠣の身に似ている。つまり嘔気をもよおさせ、ぬらぬらしていて、しっかりとつかむことがむずかしいのだーー。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳ーー
症例ドラの象徴界/現実界(フロイト、ラカン)、あるいは「ふたつの無意識」(ヴェルハーゲ)」)

ーーそれとも、やはりこうでも言っておくよりほかないのだろうか、《ヴァレリーの『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説』にあるように、それぞれ自分の器量を超えた部分は、いかにも、ないも同然である。》(中井久夫「ヴァレリーと私」

少なくとも、《美味や美観や良い音楽や藝術、知的遺産と巡り合ったときに、可能なら一人ではなく誰かと一緒に味わいたいと思うのが自然だ、と私は思う》という発話文のなかの《可能なら》という言葉は、「ほとんど可能ではないが」、と書き換えなくてはならないのではないか。


《愛しているときのわたしはいたって排他的になる》(フロイト『書簡集』)


――フロイトがそう言っている(ここでのフロイトは、正常さの典型とみなされるだろう)。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』「嫉妬」の項より)

愛の基本的モデルは、男と女の関係ではなく、母と子供の関係に求められるべきである。(『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』 Paul Verhaeghe)

《私自身、幼児が、まだ口もきけないのに、嫉妬しているのを見て、知っています。青い顔をして、きつい目で乳兄弟を睨みつけていました。》(アウグスティヌス『告白』)

われわれの出発点はやはり、われわれが理解できると思われる状況であって、それは母のかわりに知らぬ人を見つけた乳児の状況である。乳児は対象喪失の危険についての不安とわれわれに解釈される不安を示す。だがこの不安はいかにも複雑で、立ち入った検討を要する。乳児の不安についてはなんの疑いもないのだが、表情や泣くという反応は、彼が不安のほかに苦痛を感じていることを推定させる。のちには区別されるいくつかのものが、乳児では一緒になっていると思われる。一時的に見えなくなることと、つづいていなくなることが、まだ区別されていない。母が一度目の前から消えると、乳児は、母をもう二度と見られないかのように思いこんでしまう。母がこうして消えてもまだ現われるのだということを、乳児が学ぶまでには、何回も繰り返してなだめられる経験が必要である。母は、だれもが知っている遊び、顔をかくしてまた出してみせてよろこばせる遊戯「いないいないばあ」をして、この大切な知識を乳児に教えるのである。乳児は、いわば絶望をともなわぬ憧れを感ずるようになる。

《母の見えないという状況は、乳児が誤解しているせいで外傷的状況になるのであって、けっして危険の状況ではない。いやもっと正しくいうと、乳児がこの瞬間に、母によって満足〈=解消〉させてもらわねばならない欲求を感じていてはじめて、外傷的状況といえるのであり、この状況は、この欲求が当座のものでなくなると危険状況に変わるのである。》自我がみずからみちびく最初の不安条件は、対象の喪失と同じに考えられる知覚の喪失である。愛情の喪失はまだ現われていない。もっと大きくなると、対象はちゃんといるが、ときどき子供に意地悪をする、という経験をする。そしてこんどは、対象からの愛情を失うことが、新たな永続する危険と不安の条件になるのである。 (フロイト『制止、症状、不安』人文書院 旧訳からだが山括弧の個所は「翻訳正誤表」にて修正――「部分欲動と死の欲動をめぐる覚書」より)

――と引用を中心に書いてきたが、佐々木中氏の冒頭のように言いたくなるのは、ある側面からは(たとえば大きな意味での「政治的」な側面からは)、よく分かると言えないでもない。上に書かれたものは批判ではなく批評(吟味)の言葉である。

以前、《「他人が見ている青と自分が見ている青が同じかどうか確かめられない」どころか、「自分が見ている青が自分が見ている青と同じかどうかすら確かめられない」という条件を我々の感覚はもっている》(岡崎乾二郎『ルネサンス・経験の条件』「あとがき」)などをめぐってメモ書きをしたことがある(「おっかさんと蛍」)。それらは宙吊りのままである。

たとえば、宙吊りになっている問いへのヒントをわたくしは次の文に読む。

音楽を聞くには隠れなければならないと思うことがある。音楽は手袋の内と外をひっくり返すようにわたしを裏返してしまう。音楽が触れ合いの言葉、共同体の言葉となる。そんな時代がかつてあったし、いまも人によってはそんな場合があるのはもちろん知っているが、わたしの場合は、ほかの人々と一緒に音楽は聞けない。誰かと一緒に音楽を演奏するとなれば話は別だ。室内楽ならば、あらゆる意味で相手に合わせなければならない。二重奏のソナタや三重奏なら一緒に演奏することができる。それだけの謙虚な気持ちと少しばかりの愛があれば十分だ。あるいは深い知識があって、憎しみがなければできる。

だが、なぜ一緒に聞くことができないのだろう。なぜ音楽は孤独で身動きできない状態にあるときのわたしたちをとらえるのか。一緒に聞けば、他人の目の前で、そして他人とともにいながら、自己をあくまでも自分ひとりきりのものでしかない状態に投げ出してしまうことになるからなのか。それぞれの人間によってたがいに異なるはずの遠くの離れたものを共有することになるからなのか。子供時代も死も共有できはしないからなのか。

音楽、それは身体と身体のぶつかりあいであり、孤独と孤独のぶつかりあいであり、交換すべきものがなにもないような場での交換である。ときにそれは愛だと思われもしよう。演奏する者の身体と聴く者の身体がすっかり肉を失い、たがいに遠く離れ、ほとんどふたつの石、ふたつの問い、ふたりの天使を思わせるものとなって、どこまでも悲しい狂おしさを抱いて顔を向き合わせたりしないならば。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド 孤独のアリア』千葉文夫訳)
人びとがあつまるとき、
行事であれ、儀式であれ、
ただ人びとが会うことの悦びのためであれ、
音楽がそこにあれば、楽しい。
それがなくても、人びとはあつまるが、
音楽は集いを、ともにあることのしあわせと、
ふかいやすらぎで飾る。
コンサートの語源は「合意にもちこむ」ということらしい。
争っていたものたちが和平を結ぶ場を想像してみれば、
そこには飲み食いがあり、唄があり、踊りがあり、
それらすべてが音楽ではなかったろうか。
いまコンサート会場には、飲み物食べ物はもちこめず、
踊る場所もなく、歩くことも、立つこともできず、
音楽家と、見物人に分かれ、区切られて、座っている。
それでも、コンサートは否定されるべきものだ、
と言うことはない。
コンサートは現実の場であり、そこに来る人たちがいる限り、観念で否定しても、なくなることはない。
それに替わるものがなければ、いくら貧しくても、
コンサートは音楽の場でありつづける。
別な場をつくりだすのは、音楽家のしごとではない。
人びとのあつまりかた、人間関係、社会が変わらなければ、
音楽の場は変わらないだろう。(高橋悠治「音楽の反方法論的序説」)

ーーとすれば、これらの言葉は実は佐々木中氏の《真の豊かさとは「この世界の豊穣さを多くの人と『分け合う』」ということだ》に限りなく近づくとも言える。

だが、たとえば、現在のツイッターという場での「人びとのあつまりかた」は、あまりにも醜悪だと感じることがある。それは、クラスタ内、小さな共感の共同体内での、湿った瞳の交わし合い、うなずき合いであり、クラスタ外の者の排除なのだ。その場を変えなければならない。肯定的に佐々木中氏のツイートを拾うことが多いわたくしではあるが、彼のツイートは場を変える力として機能していないときもある、と感じることがある。むしろその発言は、受け取り手によっては、「アーバン・トライバリズム(部族中心主義、同族意識)」を助長してしまう機能をもつと思うことがある。

…………


冒頭の佐々木中氏のツイートは次のような文脈で書かれていることを附記しておこう。

@AtaruSasaki RT@gonoi 雨宮処凛さんが「反富裕」という「贅沢は敵だ」的なスローガンを出しているが、私は「贅沢は素敵だ」派なのでまったく賛成できない。RT @karin_amamiya 今年の「自由と生存のメーデー」、熱くなりそう!「反貧困」ではなく「反富裕」!pic.twitter.com/7T9HJThq48

@AtaruSasaki @gonoi 反富裕とは……一歩間違うと「反・知的富裕」等々に雪崩れていって、行き着くところポル・ポトになりかねませんか。

‏@gonoi 肯定を禁止し続ける言説たる「反〜」以前の、スローガンを与えられた群れによる「反〜」への先祖返りが窮極的に行き着く先は、民主カンプチアでしょう。RT @AtaruSasaki 反富裕とは……一歩間違うと「反・知的富裕」等々に雪崩れていって、行き着くところポル・ポトになりかねませんか

‏@AtaruSasaki @gonoi 全くその通りだと思います。ある局面でいかに強固な「アンチ」が必要になろうとも、究極的にはこの世界とその歓びの肯定に至らなくてはなりません。

@gonoi @AtaruSasaki 今日の本務校ゼミで、歓びの肯定がなされる社会としてバタイユ『呪われた部分』のLa société de consumationについて、見田宗介を補助線に解説したばかりです。可視的に数値化された効用に回収されることのない、生命の充溢と消尽を解き放つ社会。

@AtaruSasaki @gonoi 僕、卒論バタイユだって話はしましたっけ……笑

このような頷き合いが仲間内の「知識人」の間で、平気でなされているのをみると、あきれ果てるよりほかない。反富裕が一歩間違うとどこにいくのかを語るならば、「贅沢は素敵だ」が一歩間違えばどこに行くのかを語らずにどうしよう。だがツイッターというのはおおむねこの程度の頷き合いの場である。

われわれの疑問は、たとえば「生の肯定」、「生の蕩尽」としてカーニバル的にあらわれたものが必ずファシズムに転化するのはなぜかということだ。ニーチェやベルグソンはファシストではないといってもはじまらない。もはや純粋なカーニバルなどありえないように、純粋な「生の哲学」もありえない。それはいったん歴史的な文脈に存在するやいなや、思いもよらぬ反転や置換を強いられるのだ。本当は、「暴力的なもの」は《近代》に出現するのだといってもよい。(柄谷行人『歴史と反復』)


◆追記:ジジェクと浅田彰と対談『「歴史の終わり」と世紀末の世界』より

浅田)……あなたの言われるように、ここで「北」と「南」というのは、地理的な意味とは限らないので、「北」の世界の中にも「南」の世界が入り込んでいる例は多々ありますーーたとえばアメリカの都市のスラムのように。


ジジェク)そう、そういう傾向は東西の冷戦の終結とともにいっそう強まっていると思いますね。

浅田)(……)自由民主主義と資本主義の勝利によってモダンな世界が普遍化するかに見えた瞬間、ポストモダンな「ネット」とプレモダンな「島々」への新たな分極化が生ずる。

ジジェク)そこであらためて強調しておくべきことは、そういう一見プレモダンな要素が、フクヤマの言うような過去の残滓などではなく、むしろモダンな資本主義システムの生み出したものーーいってみればポストモダンな産物だということです。それは自由主義的資本主義に内在するネガティヴな緒契機なのであり、ヘーゲル主義者として言うなら、自由主義的資本主義の勝利を語ることは同時にそういうネガティブな諸契機の露呈について語ることでもなければならないのです。そこには、内外の「第三世界」の貧困と退行、そして、そこから出てくる復古主義や原理主義といったものが、すべて含まれます。

ヘーゲル的に言って、それらが自由主義的資本主義に内在する「否定判断」、つまり自由主義的資本主義の普遍性の主張に対する内的否定にあたるとすれば、さらにラディカルな「無限判断」にあたるのは、カンボジアのクメール・ルージュやペルーのセンデロ・ルミノソでしょう。資本主義と伝統との矛盾に直面したとき、かれらは二重否定を行い、資本主義を拒否すると同時に、伝統をも解体してゼロからやりなおそうとするからです。この二重否定の逆説の中に反転した形で表現されている真実は、資本主義が前資本主義的な社会的紐帯の支えなしには存続しえないということです。言い換えれば、それは現代の資本主義に内在する矛盾を表現する激烈な症候なのであり、原始的なユートピア志向のラディカリズムの残滓などではありません。そもそも、クメール・ルージュの指導者のポル・ポトはマラルメやランボーを読み解く仏文学の教授だったし、センデロ・ルミノソの指導者のアビマエル・グスマンはカントの空間論について博士論文を書いた哲学の教授だったんですから(笑)。

そういうわけで、フクヤマに対するヘーゲル的警告は、自由民主主義と資本主義について語るとき、人権や経済成長といったポジティヴな面――「肯定判断」だけでなく、ネガティヴな面――「否定判断」や「無限判断」についても語らなければならないということです。たしかに自由民主主義は勝利したかもしれない。しかし、その勝利の瞬間は、そのラディカルな分裂の瞬間でもあるのです。

※否定判断と無限判断については、「「否定判断」と「無限判断」--カントとラカン(ジジェク『LESS THAN NOTHING』より)」を参照のこと。



2014年4月23日水曜日

「いまヘイトスピーチに反対しないで、あなたは他に何をするのか」

たとえばツイッター上には、《左派系の反差別の多くは、名詞形の民族概念による《線引き》を前提にしたうえで、「日本人」とレッテルを貼られる存在を攻撃する。――差別そのものに抵抗しているわけではなく、むしろ大っぴらに差別がやりたい、露骨に差別的な人たち。》などというたぐいのことをしきりに言い募る「ほどよく聡明な」人物がいる(このツイートとともに「しばき隊」の日本人殺害画像が貼ってある。つまりこれが左派系の反差別の象徴ということを言いたいのだろう)。

たしかに反差別運動者のなかには、どうしようもない「差別者」もいるだろうことは認めざるをえないのだろう、それが《左派系の反差別者の多く》であるのかどうかはわたくしには瞭然としないが。だが、ここでは、で、それでどうした? と反問したい。ヘイトスピーチ反対運動をする連中のある割合が「差別者」であったら、では、いまの反対運動をやめるべきなのか、と。

いや、そうではない、でもほかの回路があるとか、分析しなくてはいけないとか、技法の問題とか、を冒頭のような人物は、「回路」、「分析」、「技法」などの<名詞>を駆使して、なんらかの反論をするのだろう。これらの語彙は、その当人にとっては、「名詞」的なレッテル貼りを動詞化して「社会を改善」しようとする語彙らしいが。《擁護対象を名詞形の概念操作(「当事者」)に落とし込むスタンスは、いつの間にか差別的なマッチョ主義に陥ります》などとオッシャテもおられる。

それは「理論的」には正しいのだろう。わたくしも「分析的」であることを気取ってみたい折には、その種のことを書いてしまう。だが、ここで一歩譲って問い直すなら、マッチョ主義となにもしないこととどっちをとりたいのだろう、われわれがすぐさま行動しなければならないときに、分析している暇がないときに。

@AtaruSasaki: 知人が作家ゴイティソーロから直接聞いたユーゴ内戦の話。脱出して来た旧ユーゴの作家や学者達が慟哭し悔いていたこと。「排外主義を唱える連中はみな愚かで幼稚に見えた。何もできまい、放っておけ、三流の媒体でわめかせておけと思った。それが、このざまだ。真正面から戦わなかった我々の責任だ…」(佐々木中ツイート)

こう書いたからといって発話者が運動に参加することを強いるものではない。わたくしもこうやって参加せずに海外から指先を動かしているのみだ。だが、なにもしないことの言い訳になる言説をもっともらしく言い募るのだけはやめておくがいい(参照:「涙もろいリベラルが「ファシズムへ の道」だと非難するなら、言わせておけ!」、あるいは「剥き出しの市場原理と猖獗するネオナチ」)。

何もしないなら黙ってろ、黙ってるのが嫌なら何かしろ、という性質の話の筈。偉そうにTwitterでどっちもどっち論を繰り返し、動いているのは指先のみ。いま大学人がいかに信用失墜しているか新聞でも眺めればわかる筈なのに、そのざまか。民衆は学び、君を見ているぞ、「ケンキューシャ」諸君。(佐々木中)

《まことに、わたしはしばしばあの虚弱者たちを笑った。かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、自分を善良だと思っている。》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)

真に差別に反対したい心持をもっているなら、すぐさまやらなければならないはずの反「ヘイトスピーチ」運動の新しい「技法」なるものを提示すべきなのであり、それがないなら黙っておれ、とわたくしは彼曰くの「差別者」として、冒頭のような戯言に反吐を吐きかけたい。あのような発言は、日本のサイレントマジョリティの見て見ぬふりをする習慣を助長するだけのものだ、とわたくしは思う。すくなくとも反ヘイトスピーチ運動に関しては、冒頭のような発言は許しがたい、と「独断的に」振舞うことにする。

私が思うに、最も傲慢な態度とは「ぼくの言ってることは無条件じゃないよ、ただの仮説さ」などという一見多面的な穏健さの姿勢だ。まったくもっともひどい傲慢さだね。誠実かつ己れを批判に晒す唯一の方法は明確に語り君がどの立場にあるのかを「独断的に」主張することだよ。(「ジジェク自身によるジジェク」私訳)
私たちがますますもって必要としているのは、私たち自身に対するある種の暴力なの だということです。イデオロギー的で二重に拘束された窮状から脱出するためには、ある種の暴力的爆発が必要でしょう。これは破壊的なことです。たとえそれが身体的な暴 力ではないとしても、それは過度の象徴的な暴力であり、私たちはそれを受け入れなけ ればなりません。そしてこのレヴェルにおいて、現存の社会を本当に変えるためには、 このリベラルな寛容という観点からでは達成できないのではないかと思っています。お そらくそれはより強烈な経験として爆発してしまうでしょう。そして私は、これこそ、 つまり真の変革は苦痛に充ちたものなのだという自覚こそ、今日必要とされているので はないかと考えています 。(『ジジェク自身によるジジェク』清水知子訳)

《わたしは仔細ぶった疑いぶかい猫どもの静かさよりは、むしろ喧騒と雷鳴と荒天の呪いを好む。そして人間たちのあいだでも、わたしは最も憎むのは、忍び足で歩く者たち、中途半端な者たち、そして疑いぶかい、ためらいがちな浮動する雲に似た者たちすべてである。》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)

加藤周一はかつて《戦争に反対しないで、あなたは他に何をするのか》と語った。

だが私〔加藤〕は、戦争をなくすことができなくても、とめることができなくてもやっぱり反対する。なぜかというと、それをしないで、私は他に何をすることがあろうか、と考えてしまうのが私だからだ。他に私に何ができるのか、ということ。戦争に反対しないで、あなたは他に何をするのか?(戦争への向かい方:加藤周一から学ぶ

いま、「嫌韓・嫌中本は売れるので、国際空港であろうと目立つところに置く」などという現象さえ起こっている。

いま、ヘイトスピーチに反対しないで、あなたは他に何をするのか、と言おう。

《闘ってるやつらを皮肉な目で傍観しながら、「やれやれ」と肩をすくめてみせる、去勢されたアイロニカルな自意識ね。いまやこれがマジョリティなんだなァ。》(浅田彰)ーーこのサイレントマジョリティに加担するようにさえ見える発言を繰り返して、あなたは一体なにをしているのか、とも言おう。

…………

以下は、参考文献であるが、われわれは無意識的な差別者であり勝ちなのは、ほとんど免れがたい。それは「理論的」にはそうなのであり、それを指摘する言説を理論的に批判するものではない。いまは「実践的」に批判している(「私は何を知りうるか」、「私は何をなすべきか」、「私には何を欲しうるか」という問いが、カントの三批判のそれぞれ、真か偽かという認識的な関心(理性批判)、善か悪かという道徳的な関心(実践批判)、快か不快かという趣味判断(判断力批判)に相当する)。

ジジェク)……もちろん、一九九二年に旧東独のロストクで起こったネオ・ナチによる難民収容施設の焼き討ちのような事件そのものは、昔から何度も繰り返されてきた野蛮な暴力行為にすぎない。しかし、問題はそれが一般大衆にどう受けとめられるかです。カントは、フランス革命の世界史的意味は、パリの路上での血なまぐさい暴力行為にではなく、それが全ヨーロッパの啓蒙された公衆の内に引き起こした自由の熱狂にあるのだと言っている。それと同じように、今回も、それ自体としてはおぞましいネオ・ナチの暴力行為が、ドイツのサイレント・マジョリティの承認とは言わぬまでも暗黙の「理解」を得たことが問題なのです。実際、社会民主党の幹部の中でさえ、こうした事件を口実にドイツのリベラルな難民受け入れ政策の再検討を提唱する人たちが出てきている。こういう時代の空気の変化の中にこそ、「外国人」を国民的アイデンティティへの脅威とみなすイデオロギーがヘゲモニーをとる危険を見て取るべきだと思うのです。

厄介なのは、こうして広がりはじめた新しいレイシズムが、リベラルな外見、むしろレイシズムに反対するかのような外見を取り得るということです。この点で有効なのがエチエンヌ・バリバールの「メタ・レイシズム」(メタ人種差別)という概念だと思うのですが、どうでしょうか。(「スラヴォイ・ジジェクとの対話1993」『「歴史の終わり」と世紀末の世界』(浅田彰)所収)

この後引き続くメタ・レイシズム概念の解説は、「メタ・レイシズム(浅田彰、ジジェク)」という表題のもとに引用されているので、ここではそれを端折って、ロストク事件でメタ・レイシストとはどのように反応するのかを述べたところだけを抜き出せば次の通り。

メタ・レイシストはたとえばロストク事件にどう反応するか。もちろんかれらはまずネオ・ナチの暴力への反発を表明する。しかし、それにすぐ付け加えて、このような事件は、それ自体としては嘆かわしいものであるにせよ、それを生み出した文脈において理解されるべきものだと言う。それは、個人の生活に意味を与える民族共同体への帰属感が今日の世界において失われてしまったという真の問題の、倒錯した表現にすぎない、というわけです。

つまるところ、本当に悪いのは、「多文化主義」の名のもとに民族を混ぜ合わせ、それによって民族共同体の「自然」な自己防衛機構を発動させてしまう、コスモポリタンな普遍主義者だということになるのです。こうして、アパルヘイト(人種隔離政策)が、究極の反レイシズムとして、人種間の緊張と紛争を防止する努力として、正当化されるのです。

…………

われわれが「文化」を語る場合に陥りがちなのは、どんな「文化」であれ必然的にはらみ持っているだろう負の局面、たとえば醜かったり、滑稽であったり、貧しかったり、愚かしく思われたりする局面を、一定の時がくれば常態に復するはすの一時的な錯誤、やがては快癒して秩序へと帰従する束の間の混乱とみなして視界の外へ追いやってしまうという欠点である。こうした姿勢は、先天的であれ一時的であれ病気に冒されたものを、人間の範疇から除外して健康者のみを人間とみなそうとする差別者の視点にほかなるまいが、この無意識の差別を弄ぶ人たちの思考は、当然のことながら抽象的たらざるをえまい。(蓮實重彦 「パスカルにさからって」『反=日本語論』)



2014年4月16日水曜日

「嫌韓・嫌中本は売れるので、国際空港であろうと目立つところに置く」

@moroshigek以前つぶやいた関空の丸善の件について。https://twitter.com/moroshigeki/status/448290134216032256 … 丸善に文句を言ったら、要するに嫌韓・嫌中本は売れるので、国際空港であろうと目立つところに置く、ということらしい。こういうのを「見識を欠く」っていうんだろうな。

ーーというツイートを読んだので、いくらかメモ。


                    (出版状況クロニクル69


以下は2009年のデータでいくらか古いが次のようらしい。





2009年度、丸善は七億円強の赤字。2012年1月期の連結最終損益が24億円の赤字という記事もある。ただし、14年1月期の連結経常利益を従来予想の12億円→15.1億円の黒字とのことで、経営改善をしているようだ。まさかなりふり構わずの経営戦略の効果ではあるまいが。

だが全般的には、今後とも出版物全体の売上げ減少とともに、アマゾンなどの通販や電子書籍に食われていくのも大きいだろうし、各書店の経営は、今後ますます苦しくなるというのが大方の予想なのだろう。

「社会に貢献する文化事業」という建て前は、経営が苦しくなれば、どこかに行ってしまう。嫌韓・嫌中本がなぜ売れるのかはここでは問わないが、目先の利益獲得に必至になって売れる本を目立つところに置くというのを押し留めがたいということになる。

・歴代の経団連会長は、一応、資本の利害を国益っていうオブラートに包んで表現してきた。ところが米倉は資本の利害を剥き出しで突きつけてくる……

・野田と米倉を並べて見ただけで、民主主義という仮面がいかに薄っぺらいもので、資本主義という素顔がいかにえげつないものかが透けて見えてくる。(浅田彰 『憂国呆談』2012.8より)

さてどうしたものか? 見て見ぬふりをしていてよいものだろうか? 

次のようなツイートもある。

@hayakawa2600三省堂神保町本店の正面が「バカな壁」と化していた件: pic.twitter.com/m4PZpkA6rC




@AtaruSasaki: 知人が作家ゴイティソーロから直接聞いたユーゴ内戦の話。脱出して来た旧ユーゴの作家や学者達が慟哭し悔いていたこと。「排外主義を唱える連中はみな愚かで幼稚に見えた。何もできまい、放っておけ、三流の媒体でわめかせておけと思った。それが、このざまだ。真正面から戦わなかった我々の責任だ…」
@AtaruSasaki:何もしないなら黙ってろ、黙ってるのが嫌なら何かしろ、という性質の話の筈。偉そうにTwitterでどっちもどっち論を繰り返し、動いているのは指先のみ。いま大学人がいかに信用失墜しているか新聞でも眺めればわかる筈なのに、そのざまか。民衆は学び、君を見ているぞ、「ケンキューシャ」諸君。


次に85歳時の加藤周一の講演から(第2の戦前・今日  加藤周一 評論家2004)
www.wako.ac.jp/souken/touzai06/tz0605.pdf

聞きたいことは信じやすいのです。はっきり言われていなくても、自分が聞きたいと思っていたことを誰かが言えばそれを聞こうとするし、しかも、それを信じやすいのです。聞きたくないと思っている話はなるべく避けて聞こうとしません。あるいは、耳に入ってきてもそれを信じないという形で反応します。

――つまり、《まるで恋をしているときのように、目かくしをして》(プルースト「見出された時」)情報を読んだり聞いたりする、あるいは《見たくないものを見ない〈心の習慣〉》(丸山真男)によって。

第2次大戦が終わって、日本は降伏しました。武者小路実篤という有名な作家がいましたが、戦時中、彼は戦争をほぼ支持していたのです。ところが、戦争が終わったら、騙されていた、戦争の真実をちっとも知らなかったと言いました。南京虐殺もあれば、第一、中国で日本軍は勝利していると言っていたけれども、あんまり成功していなかった。その事実を知らなかったということで、彼は騙されていた、戦争に負けて呆然としていると言ったのです。

戦時中の彼はどうして騙されたかというと、騙されたかったから騙されたのだと私は思うのです。だから私は彼に戦争責任があると考えます。それは彼が騙されたからではありません。騙されたことで責任があるとは私は思わないけれども、騙されたいと思ったことに責任があると思うのです。彼が騙されたのは、騙されたかったからなのです。騙されたいと思っていてはだめです。武者小路実篤は代表的な文学者ですから、文学者ならば真実を見ようとしなければいけません。

八百屋のおじさんであれば、それは無理だと思います。NHK が放送して、朝日新聞がそう書けば信じるのは当たり前です。八百屋のおじさんに、ほかの新聞をもっと読めとか、日本語の新聞じゃだめだからインターナショナル・ヘラルド・トリビューンを読んだらいかがですかとは言えません。BBCは英語ですから、八百屋のおじさんに騙されてはいけないから、 BBC の短波放送を聞けと言っても、それは不可能です。

武者小路実篤の場合は立場が違います。非常に有名な作家で、だいいち、新聞社にも知人がいたでしょう、外信部に聞けば誰でも知っていることですから、いくらでも騙されない方法はあったと思います。武者小路実篤という大作家は、例えば毎日新聞社、朝日新聞社、読売新聞社、そういう大新聞の知り合いに実際はどうなっているんだということを聞けばいいのに、彼は聞かなかったから騙されたのです。なぜ聞かなかったかというと、聞きたくなかったからです。それは戦前の社会心理的状況ですが、今も変わっていないと思います。

知ろうとして、あらゆる手だてを尽くしても知ることができなければ仕方がない。しかし手だてを尽くさない。むしろ反対でした。すぐそこに情報があっても、望まないところには行かないのです。

ーーインターネットの時代に、まさか「八百屋のおじさん」はいまい?

これは、社会思想史を勉強されている「ケンキューシャ」の方のかなり前のツイートだが、大方の「ケンキューシャ」諸君はこんな具合なのだろうか(いま見るとさすがに恥じてかツイートが消滅しているようだが)。

・生活保護にしろ在日にしろ、つまりは「我われの問題」としてはとらえていない、ということだ。自分たちとは関係ない別世界のお話し。リアリティへの眼差し以前の、無関心と無知と無自覚。

・でも、それも仕方ないことだとも思う。例えば、就職活動で自分の人生の選択を迫られている時に遠くの土地で起こっている排外デモに気をとめるだろうか。毎日毎日夜遅くまで働かされて家庭のために頑張ってるなかで生活保護をめぐる過剰なバッシングの欺瞞と虚偽に目が向くだろうか。

・みんなみんな自分の食べることで精一杯。余裕なんてありゃしない。無関心と無知と無自覚なんて言われたら腹が立つ。だってみんな精一杯生きてるんだから。これは、生命過程の必然性(アレント)のせいではない。後期資本主義という社会制度のせいである。我われの眼差しは、胃袋からやはり社会構造へ。

ーーー「「なんのために」ーーー加藤周一『羊の歌』より」より


彼らは「生活苦」という歯痛を抱えていることになる。「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している」のだ。

器質的な痛苦や不快に苦しめられている者が外界の事物に対して、それらが自分の苦痛と無関係なものであるかぎりは関心を失うというのは周知の事実であるし、また自明のことであるように思われる。これをさらに詳しく観察してみると、病気に苦しめられているかぎりは、彼はリピドー的関心を自分の愛の対象から引きあげ、愛することをやめているのがわかる。(……)W・ブッシュは歯痛に悩む詩人のことを、「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している」と述べている。リビドーと自我への関心とがこの場合は同じ運命をもち、またしても互いに分かちがたいものになっている。周知の病人のエゴイズムなるものはこの両者をうちにふくんでいる。われわれが病人のエゴイズムを分かりきったものと考えているが、それは病気になればわれわれもまた同じように振舞うことを確信しているからである。激しく燃えあがっている恋心が、肉体上の障害のために追いはらわれ、完全な無関心が突然それにとってかわる有様は、喜劇にふさわしい好題目である。(フロイト「ナルシシズム入門」『フロイト著作集5』p117)

《松浦寿輝さんが、東大教授を退官される前に、研究室にお訪ねしたときにうかがったのだが、今や、東大大学院でフランス文学を学んでも、最初の非常勤講師の口が見つからない時代なのだという。》(城戸朱理ブログより

かりにアベノミクスが成功して景気回復があったにしても、教育業界は少子化の影響であまり期待できないに相違ない。インテリの「ケンキューシャ」諸君には、今のままの状況が続くなら、今後も期待できないということになる。

ーーーーーー日本の人口推移(総務省)

中井久夫はすでにかなり前に次のように書いている。

今あまり人気のない歴史家トインビーであるが、彼が指摘するとおり、文化の「リエゾン・オフィサー」(連絡将校)としてのインテリゲンチアへの社会的評価と報酬とは近代化の進行とともに次第に低下し、その欲求不満がついにはその文化への所属感を持たない「内なるプロレタリアート」にならしめると私は思う。(「学園紛争は何であったのか」書き下ろし『家族の深淵』1995 中井久夫)

インテリ諸子の大半が今後ますます「内なるプロレタリアート」になっていくのは避けようがない。

とすれば、ジジェクがしばしば引用するアイン・ランドの言葉を反芻しておくより致し方ないのだろうか。

お金があらゆる善の根源だと悟らない限り、あなたがたは自ら滅亡を招きます。(アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』)



2014年3月22日土曜日

「涙もろいリベラルが「ファシズムへ の道」だと非難するなら、言わせておけ!」(ジジェク)

今日では、形而上学にあらゆる軽蔑をあらかさまに示すことが、時代の好尚となってしまった。(……しかし)実際、人間の自然的本性にとって無関心でいられないような対象に関する研究に、どれほど無関心を装ったろころで無益である。自分は形而上学に対して無関心であると称する人達が、いくら学問的な用語を通俗的な調子に改めて、自分の正体をくらまそうとしたところで、とにかく何ごとかを考えるかぎり、彼等がいたく軽蔑しているところの形而上学的見解に、どうしても立ち戻らざるをえないのである。(カント『純粋理性批判』)

こう引用したからといって、たいして知っているわけでもない「形而上学的見解」に立ち戻るふりをするつもりはない。だがツイッターなどのインターネット上の書き込みを眺めていると、いまさら素朴に驚くなどとカマトトぶるつもりはないにしろ、いろんな種類のひとの呟き・見解に遭遇して感慨を新たにするということがあるわけで、フロイトやジジェクをいくらか齧り、ラカンを掠った程度のわたくしでも、なんらかの感想を書きたくなることがある。だがそれを「精神分析的見解」などとは安易にいうまい。とはいえ以下に書かれるものは、いささか「心理学的見解」の気味があるには相違ない。

…………

たとえば「貧困」や「差別」に対する姿勢である。「まったく無関心」、「嘆かわしい事態として憂慮する」、あるいは「本気で同情して声を荒立てる」という三種類のタイプがまずは目につくだろう。

……たとえば、ユダヤ人虐待のための暴動を例にとろう。そうした暴動にたいして、われわれはありとあらゆる戦略をとりうる。たとえば完全な無視。あるいは嘆かわしく恐ろしい事態として憂う(ただし本気で憂慮するわけではない。これは野蛮な儀式であって、われわれはいつでも身を引くことができるのだから)。あるいは犠牲者に「本気で同情する」。こうした戦略によって、われわれは、ユダヤ人迫害がわれわれの文明のある抑圧された真実に属しているという事実から目を背けることができる。われわれが真正な態度に達するのは、けっして比喩的ではなく「われわれはみんなユダヤ人である」という経験に到達したときである。このことは、統合に抵抗する「不可能な」核が社会的領域に闖入してくるという、あらゆる外傷的な瞬間にあてはまる。「われわれはみんなチェルノブイリで暮らしているのだ!」「われわれはみんなボートピープルなのだ」等々。(ジジェク『斜めから見る』p260)


ジジェクの指摘する四つ目のタイプはひとまず置くことにして、一見真摯な態度、「本気で同情して声を荒立てる」タイプに似たような態度を諌める発言として、すこしまえに次のような「正義欲」をめぐる簡潔なツイートにめぐりあった。


@smasuda: 「正義欲」というものがある。無関係の他人の振舞いをみて「こんな不正をしてけしからん」「こんな下劣なことをしてけしからん」と正義の怒りに身を任せる快楽に浸りたい欲望である。人々の正義欲を刺戟するビジネスを「下劣でけしからん」と思うのならば正義欲の発露はほどほどにしとくのが吉

このツイートが《軽薄な幻想の支配を告発する身振りに自足しうる軽薄さ》(蓮實重彦『物語批判序説』)でしかないかどうかは判断を保留しよう。だがインテリとは誰もがこのような一見「気の利いた」発話をしてみたくなるものだ。ときに似非インテリ・にわか知識人として振舞いたくなるわたくしももちろん例外ではない。


もっとも、繰り返すが、「正義欲」なるものは、ときに、己れ加害性を忘れるために、あるいは隠蔽するために、発露されることはあるという意味で、上のツイートの内容自体を批判するつもりは毛頭ない。


……被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。

社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・外傷・記憶』所収)

あるいはフロイトやジジェクなら、次のように指摘する。


社会的公正の意味するところは、自分も多くのことを断念するから、他の人々もそれを断念しなければならない、また、おなじことであるが他人もそれを要求することはできない、ということである。この平等の要求こそ社会的良心と義務感の根元である。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)
ラカンは、ニーチェやフロイトと同じく、平等としての正義は羨望にもとづいていると考えている。われわれがもっていない物をもち、それを楽しんでいる人びとに対する羨望である。正義への要求は、究極的には、過剰に楽しんでいる人を抑制し、誰もが平等に楽しめるようにしろという要求である。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

…………

ここでジジェクが最近の大著『LESS THAN NOTHING』で、フロイト、あるいはラカンの「政治的」態度をもふくめて批判=吟味している文を原文のまま挿入するが、これは読み飛ばしてもらっていい。

We should reject here the common‐sense view according to which, by dispelling all mystifications and illusions, psychoanalysis makes us aware of what we truly are, what we really want, and thus leaves us at the threshold of a truly free decision no longer dependent on self‐delusion. Lacan himself seems to endorse this view when he claims that “if, perhaps, the analysis makes us ready for the moral action, it ultimately leaves us at its door”: “the ethical limits of the analysis coincide with the limits of its praxis. This praxis is only a prelude to a moral action as such.”2 However, does not Lacan outline here a kind of political suspension of the ethical? Once we become aware of the radical contingency of our acts, the moral act in its opposition to the political becomes impossible, since every act involves a decision grounded only in itself, a decision which is, as such and in the most elementary sense, political. Freud himself is here too hasty: he opposes artificial crowds (the church, the army) and “regressive” primary crowds, like a wild mob engaged in passionate collective violence (lynching, pogroms). Furthermore, from his liberal perspective, the reactionary lynch mob and the leftist revolutionary crowd are treated as libidinally identical, involving the same unleashing of the destructive or unbinding death drive.3 It appears as though, for Freud, the “regressive” primary crowd, exemplarily operative in the destructive violence of a mob, is the zero‐level of the unbinding of a social link, the social “death drive” at its purest.
註3:Freud's voting preferences (in a letter, he reported that, as a rule, he did not vote—the exception occurred only when there was a liberal candidate in his district) are thus not just a private matter, they are grounded in his theory. The limits of Freudian liberal neutrality became clear in 1934, when Dolfuss took over in Austria, imposing a corporate state, and armed conflicts exploded in Vienna suburbs (especially around Karl Marx Hof, a big workers housing project which was the pride of Social Democracy). The scene was not without its surreal aspects: in central Vienna, life in the famous cafés went on as normal (with Dolfuss presenting himself as defender of this normality), while a mile or so away, soldiers were bombarding workers' blocks. In this situation, the psychoanalytic association issued a directive prohibiting its members from taking sides in the conflict—effectively siding with Dolfuss and making its own small contribution to the Nazi takeover four years later.

よく組織された集団(教会と軍隊)と退行的な原初集団という語彙が出てくることから分かるように、その言及がないにもかかわらず、フロイトの『集団心理学と自我の分析』(ヒットラーが理論書として参考にしたとも言われる)の批判(吟味)としてある。そして註には、ドルフースの名が出てくることから分かるように、フロイトたちの集団の政治的無力が書かれている。いやナチスによる占領に加担してしまった集団として。

ここでは、以下の蓮實重彦の『凡庸な芸術家の肖像』における次の文の「芸術家」の語に「知識人」、あるいは「学者」を代入して読んでみるだけにする。

芸術家とは、その内的な感性の鋭さ故に政治に背を向けるのではない。内的な繊細さが要求されてもいないときに外的な鈍感さを装う、きわめて政治的な存在なのである。それはほかでもない、制度的に深く政治に加担する存在だということだ。p315
自分には政治のことはよくわからないと公言しつつ、ほとんど無意識のうちに政治的な役割を演じてしまう人間をいやというほど目にしている(……)。学問に、あるいは芸術に専念して政治からは顔をそむけるふりをしながら彼らが演じてしまう悪質の政治的役割がどんなものかを、あえてここで列挙しようとは思わぬが、… p461
混乱に対して共感を示さずにおくことの演じうる政治性に無自覚であることの高度の政治的選択 p582

…………


さて挿入前に戻れば、正義欲など己れの怨恨の隠蔽さ!、などと安易に言い放ってしまうと、たとえばヘイトスピーチに対する怒りの表出を抑圧することにもなる。あるいは政治行動に参加しない言い訳にもなりうる。たとえば以前に、《主観的には「差別に反対する」意図を持った人たちが、これほど露骨に差別の温床になり、あるいは差別の増幅装置にすらなっていることが、あまりに放置されています》などというツイートを拾ったことがあるが、その見解に頷くにもかかわらず、これも抑圧系の呟きとして機能するだろう。

他方、作家・思想家の佐々木中氏にはこんなツイートがある。


@AtaruSasaki: 知人のプログラマによると、もうギークたちはFacebookにもTwitterにもいない、Github Gistで日記書くのもやめてリアルで会ってる。が、TwitterにはまだRSSリーダの代替としての、そして市民運動の連絡ツールとしての役割が残ってる。

@AtaruSasaki: おっと、もうひとつ役割がありました。それは「市民運動を斜に構えてヘラヘラ見下し仲間内で冷笑する社交場」としての機能です。どっちもどっち論者、そこまでやらなくても論者、内容はいいがやってる人間が気に食わない論者。内心にあるのは既得権益を失いたくないという自己保身。東電か。

@AtaruSasaki: 繰り返しますが、人種差別などの歴とした不正が目前で行われているのに、客観中立を装ったり党派的に日和見をしたりするのは、そのような不正に積極的に加担していることになります。その理由が狭い業界での保身ともなれば、思っているより遙かにあなたはあなたの敵だと思っていたものに酷似している。

@AtaruSasaki: 自分の信念を貫くこと、しかしこの社会で生き延びること。この二つをなんとか両立するために、ネゴシエーションというものがある。ギリギリの交渉はストレスフルで疲れます。が、いつも逃げ回っていれば、信念や既得権どころか、正義も生命もすべて失うことになる。

ネット上の「市民運動を斜に構えてヘラヘラ見下し仲間内で冷笑する社交場」にて、佐々木中氏をマッチョ系だと嘲弄するような発言を垣間見たことがあるが、彼の態度は、やはりいまあるべき「模範的」な態度のひとつである、とわたくしは思う。


仮に反差別運動が差別の温床になろうが、己れの加害性の隠蔽になろうが、あるいはまたときによっては速断による誤解や勇み足のはしたなさを晒そうが、場合によっては売名行為などの「偽善」であろうが、それらの批判(自己吟味)を頭の片隅にとどめながら即座に「行動」を起さねばならない対象というものがある。


@AtaruSasaki: 知人が作家ゴイティソーロから直接聞いたユーゴ内戦の話。脱出して来た旧ユーゴの作家や学者達が慟哭し悔いていたこと。「排外主義を唱える連中はみな愚かで幼稚に見えた。何もできまい、放っておけ、三流の媒体でわめかせておけと思った。それが、このざまだ。真正面から戦わなかった我々の責任だ…」

たとえば、われわれは二一世紀に入ってから、仏国のルペン父娘の率いる反EU、移民反対などを唱える極右政党国民戦線の躍進、ーーいつのまにか若者を中心に瞠目せざるをえない支持を集めてしまっているのを知っている。あるいはドイツ? いまだいくらかはナチスの記憶のトラウマが抑制効果の名残りをとどめているのだろうが、それも予断を許さない。

…………

さてここで冒頭近くのジジェクの発言に戻れば、その第四番目の差別、排外主義に対する態度、「われわれはみんなユダヤ人である」、「われわれはみんなチェルノブイリで暮らしているのだ!」というのは、次の浅田彰の発言、「自分も別の次元ではマイノリティーだ」に想到しないでもないが、それは近似した態度と言えるのだろうか。


 浅田 「逃走」とは簡単に言うと「マイノリティーになること」。在日韓国・朝鮮人へのヘイトスピーチのように、自分を「日本人」というマジョリティーに同化しようとすることで、激烈な排除が生まれる。しかし、自分も別の次元ではマイノリティーだと気づけば、対話や合意なしでも共存は可能になる。

 そこで、「優等生」は、ネットを使って声なき声を拾い上げ対話を密にするなど、民主主義のバージョンアップを目指す。それはそれでいい。しかし、「優等生」が「マイノリティーの声に耳を傾けよう」と熱弁をふるっているとき、そんな議論自体に耐えられなくて黙って出て行くのが真のマイノリティーたる「不良」でしょう。「切断」の思想は、そうやって対話から逃げる自由を重視する「不良」のすすめだと思います。

 千葉 そうですね。「不良」というのは、社会の多様性の別名ですから。対話を工夫することは必要だとしても、そもそも必要なのは、誰だって様々な面で「不良」でありうる、マイノリティーでありうるという自覚を活性化することである、と。「優等生」の良かれと思っての接続拡大の訴えからも「切断」される自由を認めなければ、「優等生」のその「良かれ」は機能しないということになるでしょう。多様な「不良」を擁護する、それが「切断」の哲学ですね。(「つながりすぎ社会を生きる 浅田彰さん×千葉雅也さん」)

発言内容はジジェクと類似しているに相違ない。だがその態度が似ているにしろ、--たとえば、われわれはみな被差別者である!としてみようーー、ジジェクと浅田彰のその態度を受けての政治的な言動はまったく相反するようにみえる。

二十一世紀初頭に書かれた浅田彰によるジジェク吟味の文がある。

ローティに代表されるポストモダン相対主義が政治固有の次元を部分的社会工学へと解消してしまっているという批判は正しい。また、ラカン=アルチュセール主義過激派(観念論との闘争において唯物論の立場に立つことが哲学の任務である)に抵抗して、より重層的な判断の必要性を説いていたデリダ(第一のフェーズでは観念論と唯物論の優劣を逆転する必要があるが、第二のフェーズでは観念論と唯物論の対立の基盤そのものを脱構築する必要がある)も、今となってみれば、実際面ではとりあえず社会民主主義的な漸進的改良を支持する一方、理論面ではアポリアに直面しての不可能な決断といったものを神秘化するばかりという両極分解の様相を呈し、政治固有の次元を取り逃がしていると言えるかもしれない。そのような相対主義や(事実上の)オブスキュランティズムに対し、悪役の責めを負うことを覚悟してあえてドグマティックな現実への介入を行なわなければならないというジジェクの立場は、分かりすぎるほどよく分かる。しかし、それが60年代のヨーロッパのマオイズムと同じ極端な主観主義のネガなのではないか、あるいは、現在支配的なポストモダン相対主義のネガなのではないかという疑いを、われわれはどうしても払拭することができないのである。(パウロ=レーニン的ドグマティズムの復活?

この文は、この記事の表題に掲げられた《涙もろいリベラルが「ファシズムへ の道」だと非難するなら、言わせておけ!》の吟味としてもある。ジジェク批判として今も十分に生きているだろう。ではどうしたらいいのか、というのは宙吊りのままにしろ。

ところで浅田彰はかつて次のように発言している。

資本主義的な現実が矛盾をきたしたときに、それを根底から批判しないまま、ある種の人間主資義的モラリズムで彌縫する機能しか果たしていない。上からの計画というのは、つまり構成的理念というのは、もうありえないので、私的所有と自由競争にもとづいた市場に任すほかない。しかし、弱肉強食であまりむちゃくちゃになっても困るから、例えば社会民主主義で「セイフティ・ネット」を整えておかないといかない。(浅田彰 シンポジウム「『倫理21』と『可能なるコミュニズム』」2000.11.27)

すなわち、資本主義的な現実を根底から批判する、そのシステムの暴力を、というのが浅田彰の姿勢なのだろう。浅田氏は、たとえばベーシックインカム導入に比較的積極的な態度をとっているには違いない。これは田中康夫の発言だが、《前から言ってるけど、人口構造も逆ピラミッド状態で、制度をいくらいじったって、年金制度が維持できる訳もない今、ベーシック・インカムのようなドラスティックな方法を取る必要があると改めて痛感するね》に対して、ほぼ同調する態度であるように思える(「憂国呆談」)。だがその新しいシステムの導入に積極的に加担する様子は、わたくしの知るうるかぎり、あまり見えてこない。


※いくつかのベーシック・インカムの議論を垣間見たなかでは、なんと「財務省」内での議論、《「ベーシック・インカムと財源の選択‐Atkinson教授の考察を中心に‐」2010年11月12日(金)》 、ーーそこには財源として「シニョリッジ」(貨幣の発行者が貨幣の発行によって手に入れる利益)を利用することが検討されており、参加者の淺川副財務官からは異議は呈されているのだがーーこれは今までの経済学の「通念」を越えた提案なのだろう。いずれにせよ、わたくしのようなシロウトには判断しがたいにしろ、財務省でも打開策のひとつとしてBI制度が検討されていることが窺われる。シニョリッジを財源にするという考え方は、早稲田大学の若い経済学者井上智洋氏の「過激な」--すなわち思いがけないーー提案にもつながるが、以前ネット上にあったいささか難解な論文「貨幣レジームとベーシックインカムの持続可能性」は消えてなくなっているようだ。


ベーシックインカム制度の是非は別にして、田中康夫の認識、少子超高齢化社会が極まりつつある今、社会保障制度は維持できるはずはない、という議論は、大和総研の「超高齢日本の 30 年展望 持続可能な社会保障システムを目指し挑戦する日本―未来への責任」(理事長 武藤敏郎 監修 調査本部)に詳しい。
高齢化先進国の日本の場合、老年人口指数で言えば、既に 2010 年時点で 100 人の現役世代が 35 人の高齢者を支えており、2020 年には 48 人、2050 年には 70 人を支える必要があると予想される(いずれも国連推計であり、社人研推計ではより厳しい)
賃金対比でみた給付水準 (=所得代替率) は、 現役世代と引退世代の格差―老若格差―と言い換えることが可能である。この老若格差をどうコントロールするかが、社会保障給付をどれだけ減らすか(あるいは増やすか)ということの意味と言ってよい。少子高齢化の傾向がこのまま続けば、いずれは就業者ほぼ 1 人で高齢者を 1 人、つまりマンツーマンで 65 歳以上人口を支えなければならなくなる。これまで 15~64 歳の生産年齢人口何人で 65 歳以上人口を支えてきたかといえば、1970 年頃は 9 人程度、90 年頃は 4 人程度、現在は 2 人程度である。医療や年金の給付が拡充され、1973 年は「福祉元年」といわれた。現行制度の基本的な発想は 9 人程度で高齢者を支えていた時代に作られたものであることを改めて踏まえるべきだ。

※ジジェクのベーシックインカムに対する態度は次の通り。
……popularised in Europe and latin America, of basic income. I like it as an idea but I think it's too much of an ideological utopia. For structural reasons, it can't work. It's the last desperate attempt to make capitalism work for socialist ends. The guy who developed it, Robert Van Parijs, openly says that this is the only way to legitimise capitalism. Apart from these two, I don't see anything else.(Interview with Slavoj Zizek




他方、千葉雅也氏との対談における《「優等生」が「マイノリティーの声に耳を傾けよう」と熱弁をふるっているとき、そんな議論自体に耐えられなくて黙って出て行く》という態度は、佐々木中氏の立場からみたら、<この今>の「行動拒否」「逃げ」の態度として腹立たしいということはありうるだろうと推測する。

大江健三郎はその親友伊丹十三を主要登場人物「吾良」のモデルにした『取り替え子』で、吾良がヤクザに襲われた事件に直面して、インテリや学生は、《これを社会と文化への脅威としてデモで抗議する元気を持っていないと思う》と書いている。

おそらく佐々木中氏のツイッター上での挑発的発話は、若い人たちのひとりでも多くが「怒り」の表出としての行動をすることを刺激しようとする試みであろうと憶測する。そしてその「マッチョ性」に顔を顰めてみせる連中、すなわち「市民運動を斜に構えてヘラヘラ見下し仲間内で冷笑する社交場」の機能の場としてもSNSはある、という指摘は正しい。だが不思議なのは、反ヘイトスピーチに積極的な言動を顕示している種族のなかにも、党派性のためなのか、彼に顔を顰めてみせる手合いがいることだが、そのツイートをここで晒してみせることは当面遠慮しておこう。わたくしが僅かな情報にて、佐々木中氏の姿勢を過分に肯定的評価している可能性もあるのだから。

吾良が、関西の暴力団からテロの使命をあたえられて上京したヤクザに刺された時、(……)古義人はシカゴ大学二百年祭の行事に、アジア関係の学部から招かれていた。

(映画研究会の)学生たちは、……東京で映画関係者や学生たちの抗議デモが計画されていると思うが、その日程と時間を確かめてもらえば、自分らも十四時間の時差を見込んで、シカゴで呼応する学内集会を組織する、今日のうちに計画を発表したい、といった。

古義人は、あくまでそれがいま東京から離れた場所にいる自分の憶測で、むしろ誤っていることを望むのだが、と断った上で次のように答えたのだ。

――吾良よりいくらか年長の世代から、同年代の監督たちが、いま日本の映画界の中心だが、かれらはこれを日本映画界へのテロとは見なさないだろう。かれらはこれが吾良個人の災難だとだけ考えるだろう。つまり映画人のデモはありえないし、いま、日本の学生たちは、これを社会と文化への脅威としてデモで抗議する元気を持っていないと思う。(大江健三郎『取り替え子』)

ところで、浅田彰は、NAM運動をめぐるシンポジウム(2000.11.27)で「政治化する以上だれかを傷つける」と語っている。

すべての「他者」に対して優しくありたいと願い、「他者」を傷つけることを恐れて何もできなくなるという、最近よくあるポリティカル・コレクトな態度(……)そのように脱―政治化されたモラルを、柄谷さんはもう一度政治化しようとしている。政治化する以上、どうせ悪いこともやるわけだから、だれかを傷つけるし、自分も傷つく。それでもしょうがないからやるしかないというのが、柄谷さんのいう倫理=政治だと思う。(『NAM生成』所収 シンポジウム「『倫理21』と『可能なるコミュニズム』」における浅田彰発言)

浅田彰はこの柄谷行人の倫理=政治を十分に引き受けなかっただろうし、実際、NAM運動は無残な結果に終わった。東浩紀氏との最近の対談では、《柄谷さんはナイーブに行き過ぎたと思う》などという発言もあるようだ。

そもそも、ひとは「政治化」すれば小ファシストであることを免れるのは、とても困難なのだ。それが佐々木中氏が「冷笑者」たちからマッチョと批判されることにもなる理由のひとつだろう。

あらゆる言葉のパフォーマンスとしての言語は、反動的でもなければ、進歩主義的でもない。それはたんにファシストなのだ。なぜなら、ファシズムとは、なにかを言うことを妨げるものではなく、なにかを言わざるを得なく強いるものだからである。(ロラン・バルト『文学の記号学』)

―――バルトはこう語る。68年前後の言葉の暴風雨に辟易して? だかもちろんそれだけではない。

政治的な主張の繰り返しには、もうたくさんだ! という嫌厭感が生じてしまうことがあるのを否定はしまい。そこには同意を強制する声があるのだ。声、--すなわち<正義>という名のもとの破廉恥な同調圧力。

…………

けだし政治的意味をもたない文化というものはない。獄中のグラムシも書いていたように、文化は権力の道具であるか、権力を批判する道具であるか、どちらかでしかないだろう」(加藤周一「野上弥生子日記私註」1987)
私は政治を好まない。しかし戦争とともに政治の方が、いわば土足で私の世界のなかに踏みこんできた」(加藤周一「現代の政治的意味」あとがき 1979)

そう、たとえ政治が嫌いでも(おそらく多くの人がそうであるように)、政治が「土足」でむこうからやってきたら、どうしたらいいというのか。

ブレヒトからR・Bへの非難(『彼自身によるロラン・バルト』より)


R・Bはいつも政治を《限定し》たがっているように見える。彼は知らないのだろうか? ブレヒトがわざわざ彼のために書いてくれたと思われる考えかたを。

「私は、たとえば、ほんの少量の政治とともに生きたいのだ。その意味は、私は政治の主体でありたいとはのぞまない、ということだ。ただし、多量の政治の客体ないし対象でありたいという意味ではない。ところが、政治の客体であるか主体であるか、そのどちらかでないわけにはいかない。ほかの選択法はない。そのどちらでもないとか、あるいは両者まとめてどちらでもあるなどということは、問題外だ。それゆえ私が政治にかかわるということは避けられないらしいのだが、しかも、どこまでかかわるというその量を決める権利すら、私にはない。そうだとすれば、私の生活全体が政治に捧げられなければならないという可能性も十分にある。それどころか、政治のいけにえにされるべきだという可能性さえ、十分にあるのだ。」(『政治・社会論集』)

彼の場所(彼にとっての《環境》)、それは言語活動である。その場所で、彼は選び取ったり、拒絶したりするのだ。彼の身体にとって何かが《可能で》あったり、《不可能で》あったりするのも、その場所においてである。彼の言語生活を政治的言述のいけにえに捧げるべきなのか? 彼は喜んで政治的《主体》になってもいいと思う。が、政治的《話し手》はご免だ(《話し手》とは、自分の弁説をよどみなく繰り出し、述べ立て、同時にそれが彼の言述であることを告示し、それに署名しておく人間のことだ。)そして、自分の《反復される》一般的な言述から政治の現実をはがし取ることが彼にはどうしてもできないから、けっきょく政治性から彼は排除されているのだ。しかし彼は、少なくとも、排除されているという事実を、自分が書くものの《政治的》意味につくり変えることができる。さながら彼は、ある矛盾現象を体現する歴史的な証人であるとでもいうかのように。それは、《敏感で、貪欲で、沈黙した》政治的主体(これらの修飾語群を分離させてはいけない)、という矛盾現象である。

政治的な言述ばかりが、反復され、一般化し、疲弊するわけではない。どこかに言述の突然変異がひとつ生じると、たちまちそこに、いわば公認ラテン語訳聖書が成立し、そのあとに、動きを失った文がぞろぞろお供について、うんざりさせる行列ができるものときまっている。その現象は珍しくもないが、それが政治的言述に現れたとき、とりわけ彼にとって許しがたいものと思われるのだ。なぜかというと、政治的言述における反復は、《もうたくさんだ》という感じを与えるからである。政治的な言述は、自分こそ現実に対する根本的な知識あるは科学であるという主張を押しつけるので、私たちのほうでは、幻想のあやかしによって、その政治的言述に最終的な権力を認めてしまう。それは、言語活動をつや消しに見せ、すべての討論をその実質の残滓に還元してしまうという権力である。そうだとすれば、政治的なものまでがことばづかいという地位に割りこみ、“おしゃべり”に変身するのを、どうしても歎かずに黙認しておけるだろうか?

(政治的な言述が反復におちいらずにすむ、いくつかのまれな条件がある。すなわち、第一は、政治的言述がみずから言述性のひとつの新しい方式を打ち立てる場合である。マルクスがそうであった。さもなければ、第二はもっと控えめな場合で、著述者が、ことばづかいというものについて単に《知的理解》さえもっているなら―――みずからの生む効果についての知識によって―――厳密でありながら同時に自由な政治的テクストを生み出せばいい。そういうテクストは、すでに言われていることをあらためて発明し変容させるかのように働き、自身の美的な特異性のしるしについて責任をもつことになる。それが、『政治・社会論集』におけるブレヒトの場合である。さらに第三の場合を考えてみるなら、それは政治的なものが、暗い、ほとんど信じられぬほどの深みにおいて、言語活動の材質そのものに武装をほどこし変形させてしまうときである。それが“テクスト”、たとえば“法”のテクストである。)

ロラン・バルトの姿勢も、自らブレヒトを引用して吟味するように、いま直面する世界的な「排外主義」への傾きに抵抗するには無力だろう。これは浅田彰と千葉雅也の対談を読むかぎり、この二人も類似した姿勢だと言ってよいのではないか。《誰だって様々な面で…マイノリティーでありうるという自覚を活性化すること》。理論的には、こういう立場があるのを批判するつもりはない。だが日本の場合、これは悪くすれば、大勢順応主義的な「政治的無関心」あるいは「逃げ」の姿勢を是認する言い訳になってしまうのではないか、とわたくしは思う。

資本主義社会では、主観的暴力((犯罪、テロ、市民による暴動、国家観の紛争、など)以外にも、主観的な暴力の零度である「正常」状態を支える「客観的暴力」(システム的暴力)がある。(……)暴力と闘い、寛容をうながすわれわれの努力自体が、暴力によって支えられている。(ジジェク『暴力』)

浅田彰×千葉雅也の二者の対話には、現在のシステム的暴力への目配りがあまり感じられないように見えるのは、わたくしの思い過ごしかもしれない。たかだか新著の紹介対談なのだから、そこまで期待するのは無理というものなのだろう。

だがこの記事の最後に附記するが、浅田彰には《早すぎる断念は卑怯な逃避として否定されるべきか》という己れに問う発言もあり、その文脈上読めるのは、《早すぎる断念》、あるいはニーチェの「最後の人間」的態度もやむえないとする諦念がある(すくなくともその発言の時期には)。

すこし前に「政治的無関心」としたが、その日本的特徴と韓国の特徴を対比させて書く柄谷行人の言葉を抜き出してみる。韓国では《知行合一という考え方が伝統的に強調されてきた》とある。「即刻運動」の気質の指摘もある。だがそれが韓国人にとっては墓穴を掘る、と。

私から見ると、韓国にあるような大胆な活動性が望ましいが、キム教授から見ると、むしろそのことが墓穴を掘る結果に終わることが多かった。韓国では激しい行動をしない者が非難されるが、それはなぜか、という新聞記者の問いに対して、教授は、つぎのように応えている。《知行合一という考え方が伝統的に強調されてきたからだと思う。知っているなら即刻行動に移さなければならないとされていた。行動が人生の全てを決定するわけではない。文明社会では行動とは別に、思考の伝統も必要だ》。日本と対照的に、韓国ではむしろ、もっと慎重に「空気」を読みながら行動すべきだということになるのかもしれない。(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」

中井久夫にも《堅固な意志と非妥協的な誠実さ》の韓国人と《曖昧模糊とした春のような気質》の日本人とを対比させる文章がある(京城の深く青く凛として透明な空)。「空気」を読みながら行動することの甚だしい国民には、《堅固な意志と非妥協的な誠実さ》を鼓舞する態度を、「知識人」というものがかりに今でも存在するならば、彼らはもっと強く押し出すべきではないだろうか、それが「偽善」であっても少しもかまわない。それは2011年春以来、ことさら際立った大江健三郎や柄谷行人の態度でもある。

すこしややこしい言回しをしたが、柄谷行人の知識人の定義(知識人とは知識人を批判するひと)を想起したためである。

われわれは今日ある種の言葉を使えなくなっている。厳密にいえば、それらは死語ではなく、今でも使われているが、あるためらいや留保の感じなしに使えないだけである。その一つは知識人という語である。知識人と名乗る人はほとんどないし、いたところで誰も彼らを相手にしない。にもかかわらず、知識人を攻撃し嘲笑する言葉だけはあいかわらず続いている。むしろいまや知識人批判者が現在の典型的な知識人だというべきである。しかし、実は、知識人、intelligentzia intellectualtという語が使われ実際にそのような者があらわれた時点から、すでにそうであったのではないだろうか。“知識人”をどこかに想定しそれを批判することで自らを意味あらしめようとするようなタイプ、それが知識人なのである。(柄谷行人「死語をめぐって」『終焉をめぐって』1990所収)

最後にジジェクのいささか極右をめぐる発言(ルペンを中心にした)と、ジジェクの政治的態度を象徴する過激な発言を並べておこう。

私が思うに、極右 が力を得ている原因の一つは、左翼 が今や直接に労働者階級 に自らの参照点を置くことに消極的になっていることにある。左翼 は自らを労働者階級 として語ることにほとんど恥を抱いており、極右 が民衆の側にあると主張することを許している!左翼 がそれをするときは、民族 的な参照点を用いることで自らを正当化 する必要性を感じているようだ。「貧困に悩むメキシコ 人」とか「移民 」云々で。極右 は特別のそして結束力のある役割を演じている。「民主主義 者たち」の大部分の反応は見るとよい。彼らは、ル・ペンについて、受け入れがたい思想 を流布する者だと言いながら、「しかし...」とことばを継ぐ。こうやって、ル・ペンが「ほんとうの問題」を提起していると言外に述べようとする。そうしてそのことによってル・ペンの提起した問題を自分たちがとりあげることを可能にする。中道リベラル は、根本 的には、人間の顔をしたル・ペン主義だ。こうした右翼 は、ル・ペンを必要としている。みっともない行き過ぎに対し距離をとることで自らを穏健派と見せるために。私が、2002年 [大統領選挙 ]の第2回投票 の際の対ルペン連帯について不愉快に思ったのは、それが理由だ。そしていまや少しでも左に位置しようとすると、すぐさま極右 を利用しようとしていると非難される。それが示しているのは、ポスト ・ポリティックの中道リベラル が極右 の幽霊 を利用し、その想像 上の危険を公的な敵に仕立て上げようとしていることだ。偽りの政治 対立の格好の例がここにあると私は思う。ジジェク『資本主義の論理は自由の制限を導く』2006)

わたしが言いたいのはもちろん、現代の「狂気のダンス」、多様で移動するアイデンティティの爆発的氾濫もまた、新たなテロルによる解決を待っていると言うことだ。唯一「現実的」な見通しは、不可能を 選ぶことで新たな政治的普遍性を基礎づけること、まったき例外の場を引き受け、タブーもアプリオリな規範(「人権」、「民主主義」)もなく、テロルを、権 力の容赦ない行使を、犠牲の精神を「意味づけなおす」のを妨害するものを尊重すること……もしこのラディカルな選択を、涙もろいリベラルが「ファシズムへ の道」だと非難するなら、言わせておけ! (バトラー、ラクラウ、ジジェク『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』


《私たちがますますもって必要としているのは、私たち自身に対するある種の暴力なの だということです。イデオロギー的で二重に拘束された窮状から脱出するためには、ある種の暴力的爆発が必要でしょう。これは破壊的なことです。たとえそれが身体的な暴 力ではないとしても、それは過度の象徴的な暴力であり、私たちはそれを受け入れなけ ればなりません。そしてこのレヴェルにおいて、現存の社会を本当に変えるためには、 このリベラルな寛容という観点からでは達成できないのではないかと思っています。お そらくそれはより強烈な経験として爆発してしまうでしょう。そして私は、これこそ、 つまり真の変革は苦痛に充ちたものなのだという自覚こそ、今日必要とされているので はないかと考えています 》(『ジジェク自身によるジジェク』--「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」より)





…………



※附記:以前、浅田彰が珍しく自らの立場を語った文を拾ったことがある。いまは引用先の記事がなくなってしまっており、どこでいつ語ったのかもはっきりしないが、ここで参考文献として附記しておくことにする。


子どもの頃、『ツァラトゥストラはこう言った』でニーチェが侮蔑を込めて描いている「最後の人間(末人)」の像に触れて、「これはまさに自分のことだ」と思ったのを覚えている。もはや想像と破壊の ドラマは終わり、すべてが平準化された中にあって、「最後の人間」たちは退屈な幸福を生きるだろう。

あらゆる情報を記録したテープがリミックスを加えて反復されるのを瞬きして眺めながら、(後の章に出てくる「小人」のように)「およそすべては円環をなして回帰する」などと小賢しく呟いてみせもするだろう・・・。

『早稲田文学』11月号に出た鎌田哲哉の私に宛てた公開書簡は、そのような「最後の人間」であることに居直る私に対し、「安直なニヒリズムを捨て、人間としてまともに生きよ」と呼びかけるものである と言ってよい。
その書簡は石川啄木の日記にならってローマ字で綴られている。 「僕は啄木のようにまともに生きる、あなたもまともに生きるべきだ」ということだろう。

その純粋な熱意は(ありがた迷惑とはいえ)ありがたいと思うし、そこに書かれた私への批判も(いくつかの点で異論があるとはいえ)おおむね受け入れる。

だが、残念ながら、私はその呼びかけに動かされることがなかった。

ひとつだけ、私の言葉に対する誤解と思われる部分に触れておこう。鎌田哲哉が部分的に引用している通り、西部すすむに「浅田さんがほとんど 書かなくなったのは世界や人類を馬鹿にしてのことですか」と問われて、私は「いや単純に怠惰ゆえにです。しいていえば、矮小な範囲で物事が明晰に見えてしまう小利口かつ小器用な人間なので、おおいなる盲目をもてず、したがってどうしても書きたいという欲望ももてない。要するに、本当の才能がないということですね。書くことに選ばれる人間と、選ばれない人間がいるんで、僕は選ばれなかっただけですよ。と、今言ったことすべてが逃げ口上にすぎないということも、明晰に認識していますけど」と答えている (『批評空間』Ⅱ-16)。

これは、私が本格的なものを書く力がないということ(私の「弱さ」)を、私が明晰に意識しているという意味ではない。書こうとする努力もせずに自分には書けないのだと前もって居直ってしまうことが逃げ口上にすぎないということを、明晰に意識しているという意味だ。
その意味で、私の立場に論理的な問題はないと思う。
では、倫理的な問題としてはどうか。

そのような早すぎる断念は卑怯な逃避として否定されるべきか
むろん、私は、自分自身がそうできないだけにいっそう、断念を拒否してなんとか努力しようとする人(鎌田哲哉を含めて)を眩しく見上げ、可能なら助力しようとしてきたが、断念したい人に対して断念するなと言う気はさらさなないし、自分に対してそう言われたくもない。
努力したい人は努力し、断念したい人は断念する。
それでいいではないか。

ここで飛躍を厭わずフランシス・フクヤマが『人間の終り』で論じるバイオテクノロジーの問題ともからめて言えば、20世紀が限りない延命を目指した世紀だったのに対し、21世紀の課題はそれへの反省であり、具体的にいって、たとえば安楽死施設、さらには自殺(幇助)施設の合法化であると思う。

生きたい人は生き、死にたい人は死ぬ。それでいいではないか。
ニーチェは「最後の人間」について「少量の毒をときどき飲む。それで気持ちのいい夢が見られる。そして最後には多くの毒を。それによって気持ちよく死んでいく」と書いている。
かれの侮蔑にもかかわらず、私はそれも悪くない選択肢だと思わずにはいられないのだ。

もちろん、私はいますぐ死にたいというのではない。大江健三郎の『憂い顔の童子』で「母親が生きている間は自殺できない」という主人公の強迫観念が主題化されていたが、これはすでに父を喪った私にも大変よくわかる。
幸い、私はきわめて凡庸な常識人なので、倫理と言うより礼節の問題として。母より先に自殺するつもりはない。

そうやって生き延びている間は、「最後の人間」を気取って暇つぶしをしながら「i-modeかなにかでくだらないお喋りを続けること」があってもいいのではないか。
また生きて努力しようとする人々にささやかながら助力することがあってもいいのではないか。

だが、鎌田哲哉が、そのようなおせっかいは生の意思を死の病毒で汚染するだけだというのなら、私はそれを断念し、彼の後姿にむけて静かに幸運を祈るばかりである。




2014年1月13日月曜日

ヴァレリーのカイエと中井久夫

ヴァレリーの「カイエ」には次のような文がある。

人は他者と意志の伝達をはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない。それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか自らとも通じ合えないということである。

かれは、わたしがひとまず「他者」と呼ぶところのものを中継にしてーー自分自身に語りかけることを覚えたのだ。

自分と自分との間をとりもつもの、それは「他者」である。

(ポール・ヴァレリー『カイエ』二三・七九〇 ― 九一、恒川邦夫訳、「現代詩手帖」九、一九七九年)

このヴァレリーの断章は、中井久夫の「感銘を受けた言葉」からの孫引きであり、こうして引用されたあと、次のように続けられる。

訳者によれば、この手段は「言語」であるそうだが、ヴァレリーがそう考えていたにせよ、それは言語に限ったことではないと考えてもよさそうである。私は、このアフォリズムを広く解して「私が自分と折り合いをつけられる尺度は私が他者と折り合いをつけられる、その程度である」というふうにした。

こういう眼で人をみているとなかなか面白い。ひとが自分とどれほど折り合いをつけているかは内心の問題で、それを眼で直接見ることはできないが、そのひと以外の人間との折り合いをつけうる程度というものは、眼に見えるものから多少推し量ることができる。

私は精神科医をもう長年やってきたが、その領域から例を持ち出すのはいくらでもできるし、実際、ほとんど絶対に他者と通じ合えないようにみえる患者は何よりもまず自分と通じ合えていない。私が思い合わせるのは分裂病の一時期――決して全時期ではない!――にかんしてのものである。しかし、ここでは、そういう職業的な体験を持ち出すのはフェアではああるまい。それに、この命題はもっと一般的なものであり、ひょっとすると倫理というものの基本の一つであるかもしれない。

非常にありふれた例として、荒れている少年とか、些細な違反を咎めてとめどなくなる教師の内部をかりに覗き込むことができるとすれば、自分との折り合いが非常に難しく、自分と通じ合えなくなっているはずだと私は思う。

性というものにかんしてもそういうことができる。自分のセクシュアリティと「通じ合う」、すなわち折り合いをつけられるのは、他者のセクシュアリティを認め、それとのやさしいコミュニケーションができる限度においてである。「片思い」の全部とはいわないが、その多くは自分と自分の肥大した幻想とが通じ合えなくて実はみずから「片思い」を選んでいるのである。さいわい多くの場合、それは一時的な通過体験であるが、もっとも「純粋」な片思いも「ストーカー」と紙一重の危ない面がある。

一人でできる食事や睡眠はどうであろうか。食欲の異常が現れるよりずっと先に、まず、食卓をひとと共にすることができなくなっているのではなかろうか。睡眠でも、睡眠を護るものとしての夢があるならば、夢には多く他者が登場する(そうでない夢の多くは生理的なものである。たとえば尿意や鐘の音に触発された夢、あるいは、眠り入る時の横紋筋の緊張解除がもたらす飛行や墜落の夢がそれである)。悪夢とは内容の悪い夢ではなく、はじめはよくとも、だんだん険悪になってついには内容が夢に盛りきれなくなって冷や汗とともに夢から放り出される場合である。それは「何か」との折り合いがかなり悪い徴候であると考えてもよいのではないか。ここで「何か」というのは夢の場合には自分と他者との区別ははっきりしないからであるがーー。

では家族、社会は? 私が「折り合い」という言葉を選んだのは、家族と社会とを視野の中に収めようとしてのことである。ここで、私のよく引用するもう一つの言葉がある。それはプロイセンの戦術家クラウセヴィッツの言葉である。私はリデル=ハート大将の『戦略論』の引用で知り、その本も地震のせいか今見つからないが、「ある目標を徹底的に追求するならば、その過程で生じる反作用によって、その過程が足どめを食らい、結局目標を達成できないであろう」というものである。これは、治療においてはしばしば必要な金言である。この「徹底的追及」が目的の達成を妨げるという逆理は殲滅戦思想の持ち主として知られるクラウセヴィッツの言であるだけにいっそう重みを帯びている。


上に抜き出された文章には、

《ひとが自分とどれほど折り合いをつけているかは内心の問題で、それを眼で直接見ることはできないが、そのひと以外の人間との折り合いをつけうる程度というものは、眼に見えるものから多少推し量ることができる》

《ほとんど絶対に他者と通じ合えないようにみえる患者は何よりもまず自分と通じ合えていない》

《荒れている少年とか、些細な違反を咎めてとめどなくなる教師の内部をかりに覗き込むことができるとすれば、自分との折り合いが非常に難しく、自分と通じ合えなくなっているはずだと私は思う》

《自分のセクシュアリティと「通じ合う」、すなわち折り合いをつけられるのは、他者のセクシュアリティを認め、それとのやさしいコミュニケーションができる限度においてである》

ーー等々、ある。


これらの文から理解できるのは、他者との折り合いの様子をみて、自己との折り合いの具合がわかるということだ。

ところで、作家の佐々木中氏は昨晩(2014.1.12)、《ひとは自分と折り合える程度にしか、他人と折り合えない》(ポール・ヴァレリー)とツイートしている。


これはおそらく、上に引用した《私は、この(ヴァレリー)を広く解して「私が自分と折り合いをつけられる尺度は私が他者と折り合いをつけられる、その程度である」というふうにした 》と書く中井久夫の言葉をヴァレリーのそれと錯覚して引用されたものだろう。

錯覚そのものはこの際どうでもよろしい。

だが、中井久夫の言葉やヴァレリーの《人は他者と意志の伝達をはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない》には、他者が先にある。

つまり《ひとは自分と折り合える程度にしか、他人と折り合えない》(佐々木中)ではなく、「ひとは他人と折り合える程度にしか、自分と折り合えない」とすべきところだ。

佐々木中氏はおそらくヴァレリーだと錯覚した中井久夫の言葉の変奏、《ひとは自分と折り合える程度にしか、他人と折り合えない》を引用したあと、次のようにつぶやいている。

これ淡々したさりげない言葉だけど、本当に真実を突いてると思うな。他人を全肯定したかと思うと全否定したりする人って、自分にもそうしてるのよ。自分はこれで行くしか仕方ないな、他にできることもないしな、と劣等感なく感じることができてから、他人を肯定できるようになるんじゃないかな。

これだけみると、誤読であるように思える。佐々木中氏の変奏を逆転させ、「ひとは他人と折り合える程度にしか、自分と折り合えない」とすれば、たとえば中井久夫の別の書に於ける、次の言葉とも繋がってくる。

他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。(中井久夫「世界における徴候と索引」より)
※「メタ私」は、中井久夫のフロイトより広い「無意識」概念である。

あるいはさらに別の論から引用するなら、《万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きているのである(Human being cannot endure very much reality ---T.S.Eliot)》(中井久夫「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』P264)とは、中井久夫のエリオット『四つの四重奏』の詩句の超訳であり、逐語訳なら「人というものはあまりに大きな現実には堪えられない」だろう。

他人像には批判のまなざしを向けることはやさしいが、自分像には眼がいかない。あるいは、われわれは、他人の「メタ私」には気づくが、自分の「メタ私」には耐えられないで眼を逸らす。


佐々木中氏の誤読(おそらく?)は、別にどうでもよろしい。ツイッターでの発話はその程度のものだということだ。「ツイッターとはインテリのパチンコだ」という名言があるではないか。もし敢えて言えば、すぐれた資質をもっていることが明らかな佐々木中氏は、なぜかなりの時間をパチンコなどに費やしているのか、ということだ。おそらくやむ得ぬ「営業活動」なのだろうが、読み手に媚びた彼のツイートは、ときに「みぐるしい」。

公衆から酒手をもらうのとひきかえに、彼ぱ己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消する。そしてついには栄光を求めて演じられるこうしたぶざまな演技を、自らを他に類例のない唯一無二の存在と感じる喜ぴ――大いなる個人的快楽―――になぞらえるにいたるのだ。(ヴァレリー『テスト氏との一夜』)

彼はすばらしい「美文」の中井久夫賛を書いている(ツイッターで拾ったので、パラグラフ分けは適当)。この文は、中井久夫ファンには掛け替えのないものだ。





知っていた。知っていた、筈、だった。そうだ-中井久夫がこういう男だということを、われわれはすでに仄かに、彼自身の文章から感じ取っていたのではなかったか。彼の文体は時にあわい甘やかさを香らせて読む者をゆくりなく蕩(とろ)かせる。 陶然とも唖然ともさせてくれる。が、彼の文章は一文たりともそのくっきりと真明(まさや)かな輪郭を張り詰めた抑制を失わない。常に簡潔で静謐であり、叫ばず声を嗄らすことなくゆるやかにまた慄然とその歩みを進める。

この日本精神医学最大の理論家にして雅趣と叡智を併せ持つ随筆家は、類ない語学力に支えられて文学や歴史に通暁する碩学でもあり、さらに詩と論文とを問わぬその翻訳の質の高さとそこでも発揮される文体の気品はわれわれを驚嘆させ続けてきた。

まず第一にその文字の流れの面にうつろい映える所作の優雅において。だが。ここにいるのは楡林達夫という、三十歳にもならぬ一人の医師である。然るべき理由あってこの筆名で自らを隠した中井久夫である。その情熱、その反骨、その孤高、その闘争の意思たるや。

それは長く長く中井久夫を読みその軌跡に同伴するを歓びとしてきた者すらをも瞠目させ狼狽させ得る。しかし、繰り返す。われわれはあの高雅なる中井久夫の姿に、密やかにこの若き楡林達夫の燃え立つ瞋恚を感じ取っていたのではないのか。 この、ふつふつと静かに熱さを底に秘めて揺らぐ水面のような、執拗な反抗を止めない微かに慄える怒りを、そしてこの世の正を求めるゆらぎなき意思を。 ―――「胸打たれて絶句する他ない抵抗と闘争の継続」―『日本の医者』中井久夫を読む。『アナレクタ3』佐々木中より)




「文体」とは何であるか。古くからそれは「言語の肉体」であるといわれてきた。「言語の肉体」とは何であるか。それは、言語のコノテーションとデノテーションとの重層だけではない。歴史的重層性だけでもない。均整とその破れ、調和とその超出だけでもない。言語の喚起するイメージであり、音の聴覚的快感だけではない。文字面の美であり、音の喚起する色彩であり、発声筋の、口腔粘膜の感覚であり、その他、その他である。(中井久夫「創造と癒し序説」)

佐々木中この中井久夫の文章を見事に翻訳している(上の中井久夫オマージュはそのすぐれた実践だろう、とくに冒頭の読点の使用法を見よ)。


言語は形式ではない。口ずさまれる詩の言葉の色彩であり、文体の奇妙な軋みであり、一文のなかに置かれた言葉の匂いが発する齟齬であり、声のトーンであり、訛りであり、口籠もりであり、吃音であり、間であり、発すると同時に採られる挙措であり、言葉が放たれると同時に吊り上げられる片眉であり見開かれる瞳であり、その奇妙にテンポを失ったリズムであり、言い損ないであり、駄洒落であり、吐息であり、話の接ぎ穂であり、その言葉の色であり、口腔の感覚であり、八重歯に当たる舌先であり、声ならぬ音であり、軋みであり、歯ぎしりであり、あえかな口臭であり、涎の微かな匂いであり、唇の端につい浮かんだ泡であり、痙攣的に歪められる唇であり、その唇にひく糸をすすり込む音であり、筆先に込められた力であり、その力の圧迫で白くなった指先であり、拭いがたい筆跡の癖であり、繰り返される幾つかの文句であり、使ってみたいと思いながらもどうも自分の文章に上手く嵌め込めない語彙の歪みであり、新しいインクの匂いと爪のあいだに入り込んだその染みであり、万年筆の書き味によって揺れる文章の流れであり、モニタに映し出されるフォントの好悪であり、あるいは愛用のキーボードの上で踊る変則的な指遣いであり、そのカタカタと調子外れのリズムを刻む音ですらある。だから、言語とは文体である。語り-口である。書き-方である。言語は言語ではない。(……)言語は言語ではないものに滲み、言語は自らの身体に溶け出した言語の外を含む。言語は、滲んで溶ける水溶性の染みでできた、斑の身体を持つのだ。(「ララング、神に恋する女性の言葉」より)


…………


※参考:プルースト「花咲く乙女たちのかげに 第二部」より
われわれの友人は、各自に多くの欠点をもっているから、そんな友人を愛しつづけるにはーーその才能、その善意、そのやさしい気立てを考えてーーその欠点をあきらめるようにするか、またはむしろ、積極的にわれわれの善意を出しきってその欠点をのんでしまうようにつとめなくてはならない。不幸にも、友人の欠点を見まいとするわれわれの親切な根気は、相手が盲目のために、それとも相手が他人を盲目だと思いこんでいるために、あくまでその欠点をすてないので、その頑固さにうちまかされてしまう。相手は、なかなか自分の欠点に気がつかず、また自分では他人に欠点を気づかれないと思いこんでいるのだ。他人のきげんをそこなう危険は、何よりも物事がそのまま通ったか気づかれなかったかを見わけることの困難から生じるのだから、われわれは用心して、すくなくとも自己のことはけっして語らないがいいだろう、なぜなら、自己の問題では、他人の見解とわれわれ自身のそれとがけっして一致しないことは確実だといえるからだ。他人の生活の真相、つまり見かけの世界のうらにある真の実在の世界を発見するときのおどろきは、見かけはなんの変哲もない家を、その内部にはいってしらべてみると、財宝や、盗賊の使う鉄梃〔かなてこ〕や、屍体に満ちている、といったときのおどろきに劣らないとすれば、われわれが他人のさまざまにいった言葉からつくりあげたわれわれ自身の像にくらべて、他人がわれわれのいないところでわれわれについてしゃべっている言葉から、他人がわれわれについて、またわれわれの生活について、どんなにちがった像を心に抱いているかを知るときも、またわれわれのおどろきは大きい。そんなわけで、われわれが自分のことについて語るたびに、こちらは、あたりさわりのない控目な言葉をつかい、相手は表面はうやうやしく、いかにもごもっともという顔をしてきいてかえるのだが、やがてその控目な言葉が、ひどく腹立たしげな、またはひどく上調子な、いずれにしてもはなはだこちらには不都合な解釈を生んだということは、われわれの経験からでも確実だといってよい。一番危険率がすくない場合でも、自己についてわれわれがもっている観念とわれわれが口にする言葉とのあいだにあるもどかしい食違によって、相手をいらいらさせるのであって、そうした食違は、人が自分について語るその話を概してこっけいに感じさせるもので、音楽の愛好家を装う男が、自分の好きなアリアをうたおうとして、その節まわしのあやしさを、さかんな身ぶりと、一方的な感嘆のようすとで補いながら、しきりに試みるあのおぼつかないうたいぶりに似ているだろう。なお自己と自己の欠点とを語ろうとするわるい習慣に、それと一体をなすものとして、自分がもっているものとまったくよく似た欠点が他人にあるのを指摘するあのもう一つのわるい習慣をつけくわえなくてはならない。

ところで、自己を語る一つの遠まわしの方法であるかのように、人が語るのはつねにそうした他人の欠点で、それは罪がゆるされるよろこびに告白するよろこびを加えるものなのだ。それにまた、われわれの性格を示す特徴につねに注意を向けているわれわれは、ほかの何にも増して、その点の注意を他人のなかに向けるように思われる。近視の男は他人の近視のことをこういう、「だってあれはほとんど目があけられないくらいですよ。」胸部疾患の人間は、この上もなく頑丈な人間の健康な肺臓にも種々の疑念をもつし、不潔な男は、他人がお湯や水を浴びないことばかりを口にするし、悪臭を放つ人間は、誰でもいやな匂がすると言いはる、だまされた亭主は、いたるところにだまされた亭主たちを、浮気な女房はいたるところに浮気な女房たちを、スノッブはいたるところにスノッブたちを見出す。それからまた、各自の悪徳は、それぞれの職業とおなじように、専門の知識を要求し、それをひろくきわめさせる、各自はそんな知識を得々と人まえで弁じたてずにはいられない。倒錯者は倒錯者たちを嗅ぎだし、社交界に招かれたデザイナーは、まだこちらと話をまじえないのに、もうこちらの服地に目をつけ、その指は生地のよしあしをさわってみたくていらいらしているし、歯科医を訪ねて、しばらく話をまじえたのちに、こちらについて忌憚のない意見をきいてみると、彼はこちらの虫歯の数をいうだろう。彼にはこれよりも重大に見えることはないのだが、そういう彼自身の虫歯に気がついたこちらにとっては、これほどこっけいなことはない。そして、われわれが他人を盲目だと思うのは、われわれが自分のことを話しているときばかりではない。われわれはいつも他人が盲目であるかのようにふるまっている。われわれには、一人一人に、特別の神がついていて、その神が、われわれの欠点にかくれ蓑をかけてわれわれからかくし、他人には見えないという保証をしてくれているのであって、同様に、その神は、からだを洗わない人々にたいして、耳にためた垢の筋や、腋の下から発する汗の匂に、目をとじ鼻腔をふさがせ、誰もそれと気づかないであろう社交界へ、それぞれその垢の筋や汗の匂をもちこんでも平気だという確信をあたえるのだ。そしてイミテーションの真珠を身につけたり、贈物にしたりする人は、それがほんものに見られるだろうと想像するのである。(プルースト「花咲く乙女たちのかげにⅡ」 井上究一郎訳)