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2014年3月27日木曜日

「毒サソリ」と「毒ヘビ」の戦い

私が思うに、最も傲慢な態度とは「ぼくの言ってることは無条件じゃないよ、ただの仮説さ」などという一見多面的な穏健さの姿勢だ。まったくもっともひどい傲慢さだね。誠実かつ己れを批判に晒す唯一の方法は明確に語り君がどの立場にあるのかを「独断的に」主張することだよ。


――というのは私の意訳だが、『ジジェク自身によるジジェク』は邦訳があるにはかかわらず手元にない。


I think that the most arrogant position is this apparent, multidisciplinary modesty of 'what I am saying now is not unconditional, it is just a hypothesis', and so on. It really is a most arrogant position. I think that the only way to be honest and to expose yourself to criticism is to state clearly and dogmatically where you are. You must take the risk and have a position.

ジジェクの「相対主義」批判と言ってよいだろうが、これを安易にそのまま受け取るとひどい目にあう。たとえば、すくなくとも次の文とともに読むべきだろう。

人は何かを変えるために行動するだけでなく、何かが起きるのを阻止するために、つまり何ひとつ変わらないようにするために、行動することもある。これが強迫神経症者の典型的な戦略である。現実界的なことが起きるのを阻止するために、彼は狂ったように能動的になる。たとえばある集団の内部でなんらかの緊張が爆発しそうなとき、強迫神経症者はひっきりなしにしゃべり続ける。そうしないと、気まずい沈黙が支配し、みんながあからさまに緊張に立ち向かってしまうと思うからだ。(……)

今日の進歩的な政治の多くにおいてすら、危険なのは受動性ではなく似非能動性、すなわち能動的に参加しなければならないという強迫感である。人びとは何にでも口を出し、「何かをする」ことに努め、学者たちは無意味な討論に参加する。本当に難しいのは一歩下がって身を引くことである。権力者たちはしばしば沈黙よりも危険な参加をより好む。われわれを対話に引き込み、われわれの不吉な受動性を壊すために。何も変化しないようにするために、われわれは四六時中能動的でいる。このような相互受動的な状態に対する、真の批判への第一歩は、受動性の中に引き篭もり、参加を拒否することだ。この最初の一歩が、真の能動性への、すなわち状況の座標を実際に変化させる行為への道を切り開く。(ジジェク『ラカンはこう読め!』54頁)

たとえば、ひとはツイッターで自分の立場を鮮明にして「誠実さ」を誇示するために、ある事件にたいして脊髄反応的にある立場を表明するとする、たいした「知識」もなく「情報」も収拾せず。だがジジェクの言っているのは、そんな短絡的な態度ではない。《真の批判への第一歩は、受動性の中に引き篭もり、参加を拒否することだ》。

たとえば《支配的イデオロギーと支配しているかに見えるイデオロギーとを混同しないように注意する》ことが、われわれに出来ているだろうか。

こうした状況のもとでとくに大切なことは、支配的イデオロギーと支配しているかに見えるイデオロギーとを混同しないように注意することだ。われわれは、これまで以上に、ヴァルター・ベンヤミンが遺してくれた注意事項を心に留めなければならない。その注意事項とは、ある理論(あるいは芸術)が社会闘争に関わる自分の立ち位置をどのように決定するかを訊ねるだけでは不十分であり、それが闘争においてどのようなアクチュアルな機能を発揮しているかもまた問われねばならない、というものである。 例えば、セックスで真のヘゲモニーを掌握している考え方は家父長制的な抑圧などではなく自由な乱交であり、また芸術で言えば、悪名高い「センセーショナル」展覧会と銘打ったスタイルでなされる挑発が規範に他ならなず、それは体制に完全に併合されてしまっている芸術の典型事例である。アイン・ラントは、彼女の最近のノン・フィクション作品のタイトル「資本主義──この知られざる理念」や「経営トップ──アメリカ最後の絶滅種族」に見られるように、公式イデオロギーそれ自体の強調が自己への最大の侵犯へ反転するといったある種ヘーゲル的な捻りを加味することで、こうした論理をその結論にまで押し上げている。 (ジジェク『迫り来る革命 レーニンを繰り返す』)

…………

ところで鈴木健(『なめらかな社会とその敵』の著者)の震災直後のツイートがいまでも印象に残っている。

要は専門家のもっている専門てほんとに狭くって、世界に数人〜数十人しか分かる人がいない。それでも業界外に位置づけを説明するために自分が数千人から数十万人のコミュニティに属しているように説明する。素人から期待される質問に答えようとするととたんに擬似専門家になる。

こういうことを気にしだしたら何も語れなくなってしまうということがある。真の専門家以外は無言というわけにもいかないので、まあだから逆にひとは語ってしまうということはあるのだろうが、見解を表明させる前に発酵させろ、ということなんだろうな、まずは。

ところが今はファストフード的消費者や発言者ばかりなのだ。ツイッターという場は、それをさらに育成する場であると思わざるをえないことが多いな(もちろん、いまオレが書いているブログも似たようなものだというのは自覚しているがね)。

あなたは、あなたが批評しているところの著作がどのようなものであるかを全く無視している。あなたは論争の道筋を再構成する試みを全く放棄している。その代わりに、曖昧模糊とした教科書的な通則やら、著者の立場の粗雑な歪曲、漠然とした類推、その他諸々を一緒くたにして放り投げ、そして自身の個人的な従事を論証するために、そのような深遠に見せかけた挑発的な気の利いたジョークのガラクタに、道義的な義憤というスパイスを加えているのだ(「見ろ!あの著者は新たなホロコーストを主張しているみたいだぞ!」といったように)。真実など、ここでは重要ではない。重要なのは影響力である。これこそ今日のファストフード的な知的消費者が望んでいたものだ。道義的な義憤を織り交ぜた、単純で分かりやすい定式である。人々を楽しませ、道徳的に気分を良くさせるのだ。(スラヴォイ・ジジェク:彼の批判に応答して)

…………

「チェコスロバキアの社会主義政権とプロテスタント神学の関係について」のテーマで修士論文を書き、1988年から1995年まで在ソ連・在ロシア日本国大使館に勤務した元外交官佐藤優氏――かつて「外務省のラスプーチン」と呼ばれ五一二日間独房に拘置されたことでも知られる(柄谷行人『矛盾が共存、驚嘆すべき知性の活動』)――、その佐藤氏がウクライナ問題をめぐって語っている。

日本政府の態度を、《これは日本の情報収集、分析のレベルの高さと判断の冷静さを示すもので、今回、日本の外交は非常によくやっています。いちばんよくできているのが日本で、次がドイツです。》としている。もちろんこれさえ、かつての同僚や部下への過分の評価というバイアスがかかっているのかもしれないとは疑ってみることができる。だが、ツイッター上での並み居る「似非専門家」と、なんと発言内容の質が異なることか。




邦丸: クリミア半島に今、ロシア軍が入ってきたということについて、佐藤さんは雑誌などさまざまなメディアで発信していらっしゃいますが、ことはそう簡単ではないということですね。

佐藤: そうですね。簡単なアナロジーでいうと、「毒サソリ」と「毒ヘビ」が戦いをしているわけです。それに対してオバマ大統領は、毒サソリの味方をしているわけですね。日本は、毒サソリも毒ヘビもロクなもんじゃないから距離を置かせていただこうという立場をとっているわけで、そういう安倍政権の判断は現時点において100%正しいんです。(略)これは日本の情報収集、分析のレベルの高さと判断の冷静さを示すもので、今回、日本の外交は非常によくやっています。いちばんよくできているのが日本で、次がドイツです。

(略)今回のポイントになるのは、西ウクライナのガリツィア地方というところなんです。(略)この地方は、1945年にソ連軍が入ってくるまで、ソ連領になったことは一度もないんです。北方領土と同じですね。もともと、オーストリア・ハンガリー帝国の半島なんです。

そもそもウクライナというのは、ガリツィアのオーストリア領のウクライナとロシア領のウクライナを併せて、「ウクライナ」と呼んでいたんです。このウクライナの全域でウクライナ語が使われていたんですが、19世紀に、ロシアではウクライナ語をしゃべってはいけない、ウクライナ語の雑誌や新聞を出してはいけないという政策を打ち出して、これが100年以上も続いたんです。ですから、ロシアに住んでいるウクライナ人は、ウクライナ語を忘れてしまった。

ところが、ガリツィア地方では、オーストリア・ハンガリー帝国のハプスブルク家が多言語政策を採っていましたから、ウクライナ語の本、雑誌もあるし、リボフ大学でウクライナ語の教育をやったんですね。ナショナリズムの核は、あそこ(ガリツィア地方)なんです。そこに、1945年にソ連が入ってきた。面倒臭いことに、ガリツィア地方は宗教が違う。カトリックなんです。

邦丸: カトリックとロシア正教は違うんですね。

佐藤: 1054年に分裂しているんです。われわれの目にも違いがわかりやすいところで言うと、聖職者が袈裟を被っているのはどちらも同じなんです。しかし、ロシア正教では、下級のノンキャリアのお坊さんは結婚しているんです。一方、カトリックでは、お坊さんは全員、独身なんです。こういう大きな違いがあります。

(略)ところが、ガリツィア地方の西ウクライナのお坊さんは、カトリックなのに結婚しているんです。これは特別な例外として、儀式はロシア正教のやり方に則ってもいいけれど、ローマ法王をいちばん偉いと認めなさいということで、結婚も許されている。この人たちをカトリックのなかでも独自のユニエイト教会といいます。

邦丸: ユニエイト教会?

佐藤: 正確には「東方典礼カトリック教会」といいます。ところが、スターリンがこの人たちを無理やり、ロシア正教に合同させてしまったんです。

邦丸: ははあ。

佐藤: もうひとつ面倒臭い問題があって、第二次世界大戦ではウクライナ人は、ソ連とドイツのどちらについたと思いますか?

邦丸: ナチス側についた人たちがいるんですよね。

佐藤: はい。30万人がナチス側、120万人がソ連側だったんです。このナチス側の連中というのは、ユダヤ人虐殺をめちゃくちゃやっているんです。ポーランド人、チェコ人を殺した。西ウクライナではこの勢力が強いんですよ。この人たちは、ソ連に占領された(1946年)後も1955年ぐらいまで、武装反ソ闘争をやっていたんです。

そしてソ連に支配されることを潔しとせずに亡命した人たちが、カナダに大勢いるんです。今、カナダにはウクライナ人が120万人もいます。ですから今回、カナダがソ連に対してものすごく強硬な姿勢を示しているのは、ウクライナ・ロビーが強いからなんです。

カナダでいちばん話されている言語は英語、二番目に多いのがフランス語、三番目がウクライナ語です。

(略)1980年代にゴルバチョフがペレストロイカ(意味は「再編」。ゴルバチョフ政権による改革を指す)をやっているときに、カナダのウクライナ人たちが西ウクライナのガリツィア地方の人たちにおカネを送って、それを原資に民族運動が起こった。ただ、このなかには反ユダヤ主義者、ウクライナ民族至上主義者──ウクライナ民族以外は劣等人種だと主張している──といった恐ろしい連中がいるんです。

ロシアの新聞にはこういった事情が書かれているんだけれど、アメリカや西側諸国では、これをロシアのプロパガンダだと、ロシアがウソをついているに決まっていると思っている。でも、これはウソではないんです。本当に恐ろしい連中がいるんです。


《これからきみにぼくの人生で最も悲しかった発見を話そう。それは、迫害された者が迫害する者よりましだとはかぎらない、ということだ。ぼくには彼らの役割が反対になることだって、充分考えられる。》(クンデラ『別れのワルツ』)





2013年12月7日土曜日

無責任体制の「記号」としての「安倍晋三」

             小田実に

総理大臣ひとりを責めたって無駄さ
彼は象徴にすらなれやしない
きみの大阪弁は永遠だけど
総理大臣はすぐ代る

……
(谷川俊太郎「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」)

谷川俊太郎自身のあとがきによれば、「夜中に台所で……」の詩14篇は、19725月某夜、なかば即興的に鉛筆書きしたものとのこと。


当時は、第3次佐藤改造内閣であり、佐藤栄作長期政権最後の時期にあたる。

たしかに総理大臣ひとりを責めたって無駄だ。

だが「佐藤栄作」は、戦前からの亡霊の「記号」としても己れを主張していたはずであり、人びとは、意識的であれ無意識的であれ、このいささか疚しいシーニュを、隠しておきたい恥部を刺激する不気味な異物として取り扱っていたには相違ない。もちろんフロイトがいったように、「不気味なもの( unheimlich)」とは本来「親密なもの( heimlich)」であり、自己投射の対象として機能する。

ここで戦前からの亡霊の「記号」というのは、戦前の「公」と戦後の「公」とが連続したまま繋がっており、戦前的思想・政策を戦後の<今>になってもいまだ完全に否定できていないことを否が応でも想起させる「名」ということだ。

生まれる前に何が起ころうと、それはコントロールできない。自由意志、選択の範囲はないのです。したがって戦後生まれたひと個人には、戦争中のあらゆることに対して責任はないと思います。しかし、間接の責任はあると思う。戦争と戦争犯罪を生み出したところの諸条件の中で、社会的、文化的条件の一部は存続している。その存続しているのものに対しては責任がある。もちろん、それに対しては、われわれの年齢の者にも責任がありますが、われわれだけではなく、その後に生まれた人たちにもは責任はあるのです。なぜなら、それは現在の問題だからです。(「加藤周一「今日も残る戦争責任」)

ようするに、小田実や加藤周一らの当時の「左翼知識人」たちは、無責任体制の社会的、文化的条件の存続としての「記号=佐藤栄作」の露骨な流通に、いてもたってもいられない憤りを覚えていたはずでもある。


ところで、第一次安倍政権発足のおり、中井久夫は次のように書いている。

「小泉時代が終わって安倍が首相になったね。何がどう変るのかな」

「首相が若くて貴公子然としていて未知数で名門の出で、父親が有名な政治家でありながら志を得ないで早世している点では近衛文麿を思わせるかな。しかし、近衛のように、性格は弱いのにタカ派を気取り、大言壮語して日本を深みに引きずり込むようなことはないと信じたい。総じて新任の首相に対する批判をしばらく控えるのは礼儀である」

「しかし、首相はともかく、今の日本はいやに傲慢になったね。対外的にも対内的にもだ」

「たとえば格差是認か。大企業の前会長や首相までが、それを言っているのは可愛くない。“ごくろうさま”ぐらい言え。派遣社員もだけど、正社員も過密労働と低収入で大変だ。……」(中井久夫「安部政権発足に思う」ーー2006.9.30神戸新聞「清陰星雨」初出『日時計の影』所収)

ここで中井久夫は、佐藤栄作や岸信介の名を出していない。父(晋太郎)と近衛文麿だけが言及されているが、おそらく、それは「あえて」であり、精神科医としての中井久夫は当然佐藤栄作や岸信介の名に思いを馳せているに相違ないにもかかわらず言わないままでおいたのは、多くの読者を抱える「神戸新聞」という発表の場が促す「節度」からだろう。

さて現在、第二次安倍政権のまっさかりであり、「安倍晋三」という記号は、あたかも戦前の亡霊を喚起する「名」として機能しているかのようである。そして《性格は弱いのにタカ派を気取り、大言壮語して日本を深みに引きずり込む》かのようでもあろう。

そのことに敏感なひとたちが少数であっても存在する。たとえば鈴木創士氏は、ツイッター上で次のように発話する。

あのね、秘密保護法案なんてだめに決まってるでしょうが。安倍が鬱病に再突入するのを待ってる暇はない。安倍はじいさんの元戦犯首相である岸信介と全く同じことをやろうとしている。政治はエディプスコンプレックスの原動力だろうが、それで次々法律をつくろうなんてゴロツキのキチガイがすることだ。(2013.10.29)
「不特定」秘密保護法案に賛成した議員と国民は「死んだ父」を空しく探す安倍の精神病を助長し、どっちがどっちか解らぬままに転移を繰り返し、どの仮面を剥がそうとものっぺらぼうの百面相に死化粧を施し、あまつさえ巨大なESの糞溜めの中でうれしそうにのたうち回り、病院へ直行することになる。(2013.11.27)

ここで「ES」というのは「無意識」のことだとすればーー厳密に言えば『自我とエス』におけるフロイトの説明では、「エス」だけでなく、「自我」や「超自我」にも無意識的な部分があるーー、この「無意識」という言葉は、佐藤優氏の発言にも次のように使われる。

福島)……私は、安倍総理の頭のなかには工程表があると思っています。(……)

佐藤)ただ、本当に工程表があるということならば、それをおかしいと言って潰していく、あるいは修正させることが可能なんです。しかし、実は工程表はないのではないかと感じます。なんとなく空気で動いている、つまり集合的無意識で動いているとすると、この動きをとどめるのはなかなか難しい。(特定秘密保護法案 徹底批判(佐藤優×福島みずほ)

《巨大なESの糞溜めの中でうれしそうにのたうち回り》という詩才溢れる鈴木創士氏のセリーヌやバロウズばりの表現は、《集合的無意識で動いている》という「外務省のラスプーチン」(驚嘆すべき知性の活動家ーー柄谷行人評)の言葉に翻訳できるだろう。

あるいは現代詩ムラの他者」辺見庸氏なら次のように語る。

みなさんはいかがですか、最近、ときどき、鳥肌が立つようなことはないでしょうか? 総毛立つということがないでしょうか。いま、歴史がガラガラと音をたてて崩れていると 感じることはないでしょうか。ぼくは鳥肌が立ちます。このところ毎日が、毎日の時々 刻々、一刻一刻が、「歴史的な瞬間」だと感じることがあります。かつてはありえなかっ た、ありえようもなかったことが、いま、普通の風景として、われわれの眼前に立ち上が ってきている。ごく普通にすーっと、そら恐ろしい歴史的風景が立ちあらわれる。しかし、 日常の風景には切れ目や境目がない。何気なく歴史が、流砂のように移りかわり転換して ゆく。だが、大変なことが立ち上がっているという実感をわれわれはもたず、もたされて いない。つまり、「よく注意しなさい! これは歴史的瞬間ですよ」と叫ぶ人間がどこに もいないか、いてもごくごく少ない。しかし、思えば、毎日の一刻一刻が歴史的な瞬間で はありませんか。(辺見庸「死刑と新しいファシズム 戦後最大の危機に抗して」――2013年8月31日の講演記録)

これも、《議員と国民は「死んだ父」を空しく探す安倍の精神病を助長》している症候を敏感に察知しているひとの言葉だ。辺見庸氏の記事には、「安倍」という語が頻出するが詳しくは上のリンク先の、三時間に及ぶ講演記録全文を参照のこと。

そして講演者としての穏やかさの仮装を脱ぎ、本来の詩人としての辺見庸氏なら、その思いは次のように言葉として炸裂する。

……にしても、「戦争ハ国家ノ救済法デアル」といふ深層心理(欲動)はいつか顕在化するのだろうか。ダチュラをまた見る。「大量のトゲが密生している」。図鑑にそう書いてあったのを、目がわるひものだから、「大量のトカゲが密生している」と読んで異常に興奮したことがある。ほんたうに大量のトカゲが密生すればよひのになあ・・・とおもふ。さても、薄汚いオポチュニストたちの季節である。プロの偽善者ども、新聞、テレビ、学者、評論家・・・権力とまぐわう、おまへたち「いかがわしい従兄弟」(クィア・カズン)たちよ!われらジンミンタイシュウよ!ノッペラボウたちよ!一つ目小僧たちよ!ろくろっ首たちよ!タハラ某よ!傍系血族間に生まれし者らと、その哀しく醜い末裔よ!踊れ!うたへ!よろこべ!そして、ごくありふれたふつうの日に、なにかが、気づかれもせずにおきるのである。戦争トソノ法律ハ国家ノ救済法デアル。(辺見庸ブログ

ここにも《「戦争ハ国家ノ救済法デアル」といふ深層心理(欲動)はいつか顕在化するのだろうか》と、「深層心理(欲動)」という表現があることに注目しておこう。


ところで、逆に、自らのなかに残存する「あなたのなかにあるあなた以上のもの」としての「無責任体制」を否認したい議員や国民は、パラノイア的投射の対象として「安倍晋三」という「無能の主人」を利用していることだってありうる。

ここでの「無能の主人」とは、日本は直接選挙で国の指導者が選ばれるわけではないから、いささか事情が異なるかもしれないが、レーガン元米大統領をそう呼ぶコプチェク起源の用語法だ。

ラカン派のコプチェク(ジジェクの朋友でもある)は、《アメリカ人ヒステリー的な態度によって主人を選出すると言う。必然的に妨げられる欲望は、妨害そのものへの欲望に転化する。満たされない欲望は、決して満たされる ことのない状態への欲望に転倒される。つまりそこでは、誤りを犯すことがわかっているような無能な人物があえて主人に選ばれることになる》と言う。(暗号的民主主義──ジェファソンの遺産 | 田中純


フロイトは、パラノイア的「投射」の機制をめぐって次のように叙述している。
彼らは自分自身の中の無意識なものから注意をそらして、他人の無意識なものに注意をむけている。(フロイト『嫉妬、パラノイア、同性愛に関する二、三の神経症的機制について』)

ラカンの心的構造論によれば、ひとには「神経症」「精神病」「倒錯」のみっつの構造のどれかがあり、いかなる人もこのどれかに当てはまる。


現在は境界例や自閉症、アスペルガーなどの症状の出現でいささかの動揺はあるにしろ、”標準版”のラカン派の疾患分類とは、神経症、精神病、倒錯が3大カテゴリーであり、それぞれ抑圧、排除、否認によって規定されている。神経症の下位分類にヒステリーと強迫神経症があり、精神病の下位分類にパラノイアとスキゾフレニーとメランコリーがある。

いまはそれらを詳細に書くつもりはないが、ラカン派では、

投射Projectionとは、自身のうちにある欲望や思考、感情への防衛であり、それらの思いを立ち退かせて、他の主体に移しかえる心的メカニズムであって、精神病のカテゴリーのひとに属する症状のひとつである。

フロイトを再度引用するならば、
嫉妬ぶかい男は、自分自身の不実のかわりに、妻の不貞を思うのであって、こうして、彼は妻の不実を法外に拡大して意識し、自分の不実は意識しないままにしておくのに成功している。(同上 フロイト) 

こうであるならば、議員や国民は、自分自身のなかの「戦前の亡霊」を、首相のなかの「戦前の亡霊」に投射して、彼らのうちの「亡霊」は意識しないままにしているなどとも勘ぐることができる。

投射projection」は、ラカン派的にはパラノイア的イマジネールな症状であるが、フロイト概念を定義しなおしたラカンの厳密化以降も、他の流派では精神病(パラノイア)だけではなく神経症者の症状にもかかわってその概念が使用されているようだ。

他方、「取り込み」、あるいは「摂取」とも訳されるintrojection」が、ラカン派では、神経症のメカニズムとして説明される。投射が想像界、取り込みが象徴界に関連するメカニズムで、前者が想像的同一化(理想自我)、後者が象徴的同一化(自我理想)に関わる。言葉の意味からすれば、一見「投射」と「とりこみ」は、逆転機制かとも思われるが、ラカンはその解釈を拒絶して想像界と象徴界の審級の違いのメカニズムとしている。

Whereas projection is an imaginary mechanism, introjection is a symbolic process (Lacan Ec, 655).

そもそもフロイトには、理想自我と自我理想の区別が不鮮明で、これはラカンのセミネール一巻(「フロイトの技法論」)で、フロイトの『ナルシシズム入門』を読み解くなかでの峻別であり、ジジェク曰くは、《ラカンが、自我理想と理想自我との「口がすべったかのような」区別から何を引き出したかを思い出してみようではないか》(『斜めから見る』)ということになる。



 たとえば「安倍晋三」が、

パラノイア的投射(想像的同一化)の対象ではなく、自我理想(象徴的同一化)として機能しているならば、自民党議員たちの症状は次のようなこととも考えられる。

同一の対象を自我理想とし、その結果おたがいの自我で同一視し合う個人の集り(フロイト『集団心理学と自我の分析』)

ここでの後半にあるおたがいの自我で同一視(同一化)し合う個人の集まりが、「理想自我」のメカニズムにかかわる。


想像的同一化(理想自我による同一視)とは、われわれが自分たちにとって好ましいように見えるイメージへの、つまり「われわれがこうなりたいと思う」ようなイメージへの、同一化である。

象徴的同一化(自我理想による同一視)とは、そこからわれわれが見られているまさにその場所への同一化、そこから自分を見るとわれわれが自分にとって好ましく、愛するに値するように見えるような場所への、同一化である。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』)


もっとも安倍晋三の存在を「自我理想」とするならば、それは萎んだファルスであり、《父権的というよりは母性的な形ですべてを包み込み、不在(無能)であるがゆえにいたるところに偏在する中心として機能としての天皇制》(浅田彰)のなれのはてのいかがわしく矮小化された男根でしかありえないだろう。冒頭の谷川俊太郎の詩句から引けば、佐藤栄作でさえ《彼は象徴にすらなれやしない》のだ。

とすれば、やはり想像的な投射に近づく(「父」の象徴的機能、「母」の想像的機能という側面から言えばということだが)。せいぜいサンブラン(見せかけ)としての「父」だ。(参照:「みせかけsemblant」の国(ラカン=藤田博史)

サンブランは自我の置き換えとして機能する。この想像的な二項関係による疑似論理が横行すれば、《微笑を浮かべたソフトな全体主義》(浅田彰『「歴史の終わり」と世紀末の世界』「メディア・ランドスケープの地質学」J・G・バラードとの対話)を生むことにもなりかねない。

もともと一神教ではない日本では「父」の象徴的機能が弱く、戦前の全体主義も浅田彰やバラードのいうような母性的なファシズムであったのではないか、という問いが、例えば柄谷行人の次のような主張をも生む。

ヒットラーが羨望したといわれる日本のファシズムは、いわば国家でも社会でもないcorporatismであって、それは今日では「会社主義」と呼ばれている。(柄谷行人「フーコーと日本」1992 『ヒューモアとしての唯物論』所収ーーいつのまにかそう成る「会社主義corporatism」

いまでも、安倍政権は「日本株式会社」を目指している、などという指摘があるのは衆知だろう。

これらの会社主義や日本株式会社とは創業社長の率いる「会社」とは異なり、次のような権力構造のことである。
事実上は、「誰か」が決定したのだが、誰もそれを決定せず、かつ誰もがそれを決定したかのようにみせかけられる。このような「生成」が、あからさまな権力や制度とは異質であったとしても、同様の、あるいはそれ以上の強制力を持っていることを忘れてはならない。(柄谷行人「差異としての場所」)

すなわち「いつのまにかそうなる」という「生成」の原理を促す権力なのだ。

いずれにせよ、これらの理由によるものかどうかは実のところ窺いしれないが、佐藤優氏が曰くの《この動きをとどめるのはなかなか難しい》という現象をいまわれわれは目の当たりに見ている。


《特定秘密保護法が参院本会議で自民、公明両与党の賛成多数で可決、成立した。》(12.06.23:23)

もちろん萎びた男根にもかかわらず比較的長期政権が予想される安倍晋三の内閣は、官僚たちが自由に裁量をふるえる願ってもない存在である。政治には疎いわたくしには、いくら「一寸先は闇」の日本の政治でも、病気以外の理由で安倍辞職などということは今のところ想像し難い。

どの国でも、官僚たちは議会を公然とあるいは暗黙に敵視している。彼らにとっては、自分たちが私的利害をこえて考えたと信ずる最善の策を議会によってねじ曲げられることは耐え難いからである。官僚が望むのは、彼らの案を実行してくれる強力且つ長期的な指導者である。また、政治家のみならず官僚をも批判するオピニオン・リーダーたちは、自分たちのいうことが真理であるのに、いつも官僚や議会といった「衆愚」によって邪魔されていると考えている。(柄谷行人『終焉をめぐって』――民主主義の中の居心地悪さ

ーーというわけで、安倍晋三という記号をめぐって雑然と書いてきたが、その「記号」の不気味さに限っていえば、それはまあ杞憂だったら杞憂でよろしい。もし「杞憂」でなければ、かりに安倍晋三退陣があって男根的なファシストまるだしの首長になったほうが、議員や国民にとっては、母性的な投射の対象になり辛く、むしろ不気味さは減るのではないか(「母」ではなく仮にも「父」であれば反発が生まれ議員たちの分裂が起る可能性だって高い)。

実際のところは、ひたすら「きなくささ」を感じる。わたくしは海外住まいで、マスコミのニュースのたぐいにもほとんど接していないから、ピントはずれの印象が多いのかもしれないけど、いくつかの記事を追っていると、どうも「NSCは戦争するかしないかを決めるところ。最近の日本政府はナチスの手口に学んでいるんじゃないかと思います(佐藤 優)」という「におい」に、わたくしの感度のわるい鼻は、収斂してゆく。

国家が「秘密」を重視した時は非常時から準戦時体制への転換点であることは歴史が示している。(岩波講座「日本通史」18卷・近代3)いまや軍産複合体だから、民間企業にまで蛸の足のように「秘密」は伸びていく。この法案とともに「武器輸出3原則」が空洞化する法案が、密かに国会に出されている。極端な例だが、「日本核武装」には、原発産業全体に「特定秘密」は拡大されていくだろう。(西島健男「特定秘密保護法」を読む


《「いつのまにかそうなる」という「生成」の原理》--いつのまにか戦争になる、なんてことはないのかね、近いうちに。

戦争の論理は単純明快である。人間の奥深い生命感覚に訴える。誇りであり、万能感であり、覚悟である。戦争は躁的祝祭的な高揚観をもたらす。戦時下で人々は(表面的には)道徳的になり、社会は改善されたかにみえる。(……)これに対し、平和とは、自己中心、弛緩、空虚、目的喪失、私利私欲むきだし、犯罪と不道徳の横行する時代である。平和の時代は戦争に比べ大事件に乏しく、人生に個人の生命を超えた(みせかけの)意義づけも、「生き甲斐」も与えない。平和は「退屈」である。(中井久夫「戦争と平和についての考察」『樹をみつめて』所収)


…………


亡霊として機能する幻想的投射の「対象a」をめぐっては、ジジェクが「ブラック・ハウス」という小説をめぐって書いている文を付記しておく(『斜めから見る』より)。

舞台はアメリカの小さな田舎町。男たちは夕方になると居酒屋に集まり、昔話に花を咲かせて郷愁に浸っている。町に伝わる伝説―――たいていは彼らの若い頃の冒険談―――はどういわけかどれも、町外れの丘に立つ廃屋と関係がある。その不気味な「ブラック・ハウス」には何か呪いがかかっているらしく、男たちの間では、誰もあの家に近づいていけないという暗黙の了解がなされている。あそこに入ると生命の危険があるとすら思われている(あの家には幽霊がいるとか、孤独な狂人が住みついていて浸入する者を片っ端から殺すとか、噂されている)のだが、同時に、男たちの青春の思い出はすべてその「ブラック・ハウス」に結びついている。そこは彼らが初めて「侵犯」、とくに性体験に係わる侵犯を経験した場所なのだ(男たちは、昔あの町でいちばんきれいな女の子と初めてセックスをしたとか、あの家で初めて煙草を吸ったとかいった話を飽きもせずに繰り返し話す)。

物語の主人公は町に引っ越してきたばかりの若い技師である。彼はそうした「ブラック・ハウス」にまつわる神話を耳にして、男たちに、明晩あの不気味な家を探索してみるつもりだと告げる。その場にいた男たちはそれを聞いて、口には出さないが、激しい非難の目で主人公を見る。翌晩、若い技師は、何か恐ろしいこと、あるいは少なくとも予期せぬことが自分の身に起こるのではないかと期待して、問題の家を訪れる。彼は期待と緊張で体をこわばらせ、暗い廃屋に入り、ぎしぎし音を立てる階段を上り、一つ一つの部屋を調べるが、朽ちかけた敷物がいくつか床に散らばっているだけで、他には何もなかった。彼はすぐ居酒屋に戻り、誇らしげに、「ブラック・ハウス」はただの汚い廃屋にすぎず、神秘的なところも魅力的なところもない、と断言する。男たちはぞっとすると同時に強烈な反感を抱く。若い技師が帰ろうとしたとき、男たちの一人が狂ったように襲いかかる。技師は運悪く仰向けに地面に倒れて頭を打ち、しばらくして死ぬ。

どうして男たちは新来者の行動にこれほど激しい反感をおぼえたのであろうか。現実と幻想空間という「もうひとつの光景」との差異に注目すれば、彼らの憤りが理解できる。男たちが「ブラック・ハウス」に近づくことを自分たち自身に禁じていたのは、そこが、彼らが自分たちの郷愁にみちた欲望、すなわち歪曲された思い出を投射できる、からっぽの空間だったからである。闖入者たちは、「ブラック・ハウス」はただの廃屋にすぎないと公言することによって、男たちの幻想空間を陳腐な日常空間へと貶めたのである。彼は現実と幻想空間の差異をなくしてしまい、男たちから、彼らが自分たちの欲望を表現できるような場所を奪ってしまったのである。


(ラカン):幻想とは不可能な視線のことである。幻想の「対象」は、幻想の光景そのもの、つまりその内容ではなく、それを目撃している不可能な視線である。

…………


※附記


以上の内容とは、いささか文脈が違うが、イデオロギー的幻想(投射)ideological fantasy (projection),と、ラカンの「現実界のかたわれ」little bit of the Realを序す次のジジェクの文を参考にしてこの記事は書かれている。

A statement is attributed to Hitler: “We have to kill the Jew within us.” A. B. Yehoshua has provided an adequate commentary: “This devastating portrayal of the Jew as a kind of amorphous entity that can invade the identity of a non‐Jew without his being able to detect or control it stems from the feeling that Jewish identity is extremely flexible, precisely because it is structured like a sort of atom whose core is surrounded by virtual electrons in a changing orbit.” In this sense, Jews are effectively the objet petit a of the Gentiles: what is “in the Gentiles more than the Gentiles themselves,” not another subject that I encounter in front of me but an alien, a foreigner, within me, what Lacan called the lamella, an amorphous intruder of infinite plasticity, an undead “alien” monster which can never be pinned down to a determinate form. In this sense, Hitler's statement says more than it wants to say: against its intended sense, it confirms that the Gentiles need the anti‐Semitic figure of the “Jew” in order to maintain their identity. It is thus not only that “the Jew is within us”—what Hitler fatefully forgot to add is that he, the anti‐Semite, his identity, is also in the Jew. Here we can again locate the difference between Kantian transcendentalism and Hegel: what they both see is, of course, that the anti‐Semitic figure of the Jew is not to be reified (to put it naïvely, it does not fit “‘real Jews”), but is an ideological fantasy (“projection”), it is “in my eye.” What Hegel adds is that the subject who fantasizes the Jew is itself “in the picture,” that its very existence hinges on the fantasy of the Jew as the “little bit of the Real” which sustains the consistency of its identity: take away the anti‐Semitic fantasy, and the subject whose fantasy it is itself disintegrates. What matters is not the location of the Self in objective reality, the impossible‐real of “what I am objectively,” but how I am located in my own fantasy, how my own fantasy sustains my being as subject.(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』)


以下も同じ『LESS THAN NOTHING』からだが、ここに書かれる側面は、叙述が複雑化するため敢えて省いた。

It is again anti‐Semitism, anti‐Semitic paranoia, which reveals in an exemplary way this radically intersubjective character of fantasy: the social fantasy of the Jewish plot is an attempt to provide an answer to the question “What does society want from me?” to unearth the meaning of the murky events in which I am forced to participate. For that reason, the standard theory of “projection,” according to which the anti‐Semite “projects” onto the figure of the Jew the disavowed part of himself, is inadequate—the figure of “conceptual Jew” cannot be reduced to being an externalization of the anti‐Semite's “inner conflict”; on the contrary, it bears witness to (and tries to cope with) the fact that the subject is originally decentered, part of an opaque network whose meaning and logic elude its control. On that account, the question of la traversée du fantasme (of how to gain a minimal distance from the fantasmatic frame which organizes one's enjoyment, of how to suspend its efficacy) is not only crucial for the psychoanalytic cure and its conclusion—in our era of renewed racist tension, of universalized anti‐Semitism, it is perhaps also the foremost political question. The impotence of the traditional Enlightenment attitude is best exemplified by the anti‐racist who, at the level of rational argumentation, produces a series of convincing reasons for rejecting the racist Other but is nonetheless clearly fascinated by the object of his critique.

※ジジェクはここで標準的な投射の理論の説明のなかで、《the figure of the Jew the disavowed part of himself》としている。disavowedとは「否認された」と訳される語で、通常、この語が使われるときには「倒錯」の症候を表す。他方、「投射」は上に見たように、パラノイア(精神病)の症候を表す。

「否認」という語が使用されたとき、単純にラカン的な「倒錯」として理解するのは慎まねばならない。すくなくともジジェクは、つねにこの語をラカン的な意味で厳密に使っているわけではない。

さらに言えば、二〇世紀の神経症の時代から二一世紀の「ふつうの精神病」の時代へ(ミレール派)、いや「倒錯」の時代へ(メルマン派)などと言われるように、この見解の相違は、ラカン派のなかでも、精神病と倒錯の区別がつきがたいことを示しているのではないか。


最後に、ジジェクは同書で、ラカンの「エクリ」から引用して、次のようにフェティッシュ(倒錯の一症状)の実態をフロイトに反して指摘していることを追記しておこう。

As Lacan puts it on the very last page of his Écrits: “the lack of penis in the mother is ‘where the nature of the phallus is revealed.' We must give all its importance to this indication, which distinguishes precisely the function of the phallus and its nature.” And it is here that we should rehabilitate Freud's deceptively “naïve” notion of the fetish as the last thing the subject sees before it sees the lack of a penis in a woman: what a fetish covers up is not simply the absence of a penis in a woman (in contrast to its presence in a man), but the fact that this very structure of presence/absence is differential in the strict “structuralist” sense.(資料:フェティシズムと対象選択






2013年12月6日金曜日

アテネの衆愚政治と現代の似非能動性

以下、資料の列記。

…………


だれも、ひとりひとりみると

かなり賢く、ものわかりがよい

だが、一緒になると

すぐ、馬鹿になってしまう(シラー)


集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる(……)。彼の情緒は異常にたかまり、彼の知的活動はいちじるしく制限される。そして情緒と知的活動と二つながら、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な衝動の抑制が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原始的集団における情緒の昂揚と思考の制止という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)



当時のアテナイは地中海交易の中心地の1つでした。焼き物の壷を開発するという小規模な産業革命が起こり、それを周辺諸国に売り、アテナイはポリスのなかでは極めて豊かな国でした。海外の植民地から渡航してきた人びともみなアテナイに集まるから文化的にも多彩ですし、ペリクレスという有能な指導者が出て、ペリクレス時代と呼ばれる黄金時代を現出しました。

 とはいえ、アテナイではひどい衆愚政治がまかり通っていたんです。1人のデマゴーグが出てきて、議会で調子のいいことを言えば、みんながワーッと同調して、ひどいこともしました。ペロポンネーソス戦争のあいだにも、メロス島事件と呼ばれる大虐殺をおこなっています。メロス島はミロのヴィーナスが発見された小さな島ですが、戦争中にはっきりとスパルタがわについたために、圧倒的に優勢なアテナイ軍が占領しました。その時アテナイの議会では、メロス島の男の市民は全部死刑にし、女や子どもなどはみんな奴隷にしてしまえなんて提案が出されて、しかも、喝采をもって可決されてしまいました。すぐ命令書をもった使いが船で出発したのですが、1晩寝て冷静に考えるとやっぱりあれはひどい決定だったと思いあたり、もう1度その命令を中止するための使いの船を追いかけて出したものの、もう間に合いません。ついに、メロス島の男の市民は全員殺されてしまいました。



◆ツキジデス『戦史』と歴史認識より www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ss/sansharonshu/371pdf/matuba.pdf
「・・・そこでアテーナイ側使節はおよそ次のごとく言った。
『われらは市民大衆に語りかける機会を与えられていない。その明白なる理由は,大衆は立て続けに話されると,巧みな口舌に惑わされ,事の理非を糾す暇もないままに,一度かぎりのわれらの言辞に欺かれるやも知れぬとの恐れ(これが少数者との会談を誘致した諸君の真意であることは,われらも承知だ),されば,ここに列席の諸君には,さらに万全を期しうる方便をお教えしよう。つまり,諸君も一度限りの答弁に終らぬよう,一つの論には一つの弁で答える,またわれらの口上に不都合なりと覚える点があれば,ただちに遮って理非を糾して貰いたい。さて最初に,このわれらの申出が諸君には満足かどうか,答えて貰いたい。』


メーロス側の出席者は答えて言った。『冷静に互いに意志を疎通させる,といえば正道に反するものではなく,したがって誹謗の余地はない。しかし,これから戦が起るやも知れぬという場合であればさこそあれ,戦がすでに目下の現実であるこの場所で唯今の諸君の論は空疎としか思われぬ。じじつわれらの見うけるところ,諸君自身はあたかも裁判官としてこの会談の席に臨むがごときであり,またこの会談の結末は二者択一であることも先ずは間違いない。われらの主張が勝ち,故にわれらが譲らぬことになれば戦,われらの論が破れれば隷属に甘んじる他はないからだ。』

アテーナイ側,『よろしい,若し諸君がメーロスの浮沈を議するに際して,未来の可能性を論拠にするとか,それに類する思惑だけを頼りに,現実を度外視し,目前の事実に眼を塞ぐ,という態度で此処に集っておられるなら,この議論を打ち切りたい。現実的解決を求めておられるなら,続けてもよい。』

メーロス側,『かくの如き立場におかれた人間が,さまざまに言を練り想を構えることは当然の理でもあり,人情の恕するところと申したい。だがもとより,この会談は他ならずわれらの浮沈を議する席ゆえ,その会談の形式も,宜しければ,諸君が提案される形ですすめて貰いたい。』

アテーナイ側,『よろしい,もとよりわれらも言辞を飾って,ペルシアを破って得たわれらの支配圏を正当化したり,侵されたが故に報復の兵を進めるなどと言い張って,誰も信用しない話を長々とする気持は毛頭ない。また諸君も,ラケダイモーン〔=スパルタ〕の植民地であるからわれらの陣営に加わらなかったとか,アテーナイに対しては何ら危害を加えなかったとか,そう言ってわれらを説得できるなどと考えないで貰いたい。われら双方は各々の胸にある現実的なわきまえをもとに,可能な解決策をとるよう努力すべきだ。諸君も承知,われらも知っているように,この世で通ずる理屈によれば正義か否かは彼我の勢力伯仲のとき定めがつくもの。強者と弱者の間では,強きがいかに大をなし得,弱きがいかに小なる譲歩をもって脱し得るか,その可能性しか問題となり得ないのだ。』

メーロス側,『しかし,われらの考え及ぶ限りでは,諸君にとっての利益とは(この際損得など問題になるかどうか知らぬが,諸君が正邪を度外視し,得失の尺度をもって判断の基準とするというからには,われらもそのように議論をすすめねばならぬ),とりもなおさず相見互いの益を絶やさぬことではないか。つまり人が死地に陥ったときには,情状に訴え正義に訴えることを許し,たとえその釈明が厳正な規尺に欠けるところがあろうとも,一分の理を認め見逃してやるべきではないか。しこうしてこれは諸君にとっては一そう大なる益,諸君の没落は必らずや諸国あげての報復を招き,諸君が末世への見せしめにされる日もやがては来ることを思えば。』

アテーナイ側,『支配の座から落ちる日が来るものなら,来てもよい。われらはその終りを思い恐れる者ではない。なぜなら,他を支配し君臨した者,たとえばラケダイモーン人もその一例であるが,これらの者は敗者にとってはさして恐れることはない(断っておくが,われらの争いの相手はラケダイモーン人ではない),真に恐るべきは,被支配者が自発的に謀叛をたくらみ,旧支配者を打倒したときだ。しかしその危険もわれらにまかせておいて貰いたい。さて今回やって来た目的は,われらの支配圏に益をはかり,かさねてこの会談に託して諸君の国を浮沈の際から救うこと,この主旨の説明をつくしたい。われらの望みは労せずして諸君をわれらの支配下に置き,そして両国たがいに利益を頒ちあう形で,諸君を救うことなのだ。』

メーロス側,『これは不審な。諸君がわれらの支配者となることの利はわかる,しかし諸君の奴隷となれば,われらもそれに比すべき利がえられるとでも言われるのか。』

アテーナイ側,『然り,その理由は,諸君は最悪の事態に陥ることなくして従属の地位を得られるし,われらは諸君を殺戮から救えば,搾取できるからだ。』

メーロス側,『われらを敵ではなく味方と見做し,平和と中立を維持させる,という条件は受け入れて貰えないものであろうか。』

アテーナイ側,『諸君から憎悪を買っても,われらはさしたる痛痒を感じないが,逆に諸君からの好意がわれらの弱体を意味すると属領諸国に思われてはそれこそ迷惑,憎悪されてこそ,強力な支配者としての示しがつく。』

メーロス側,『とは言え,諸君の属領諸国から見れば,諸君とは何らのつながりのないわれらの場合と,その殆んどが諸君の植民地であり,しかも幾つかは叛乱し鎮圧されたかれらの場合とは,各々異なる道理によって律せられるべきだ,と思えるのではないか。』

アテーナイ側,『道理を言い立てるなら,どちらの場合にも理屈は立つと思うだろう,そして独立を維持するものがあれば,その者が強いからだと思い,われらが攻めなければかれを恐れるからだと考える。したがって,版図を拡げることもさりながら,それとはべつに,諸君の降伏はわれらの不動の地位を確認させることになる。とりわけ諸君のごとき島住民にして,しかも他より弱小なる者たちが,海の支配者たる者の向うを張るのを止めて頂ければ,だ。』
・・・〔中略〕・・・

メーロス側,『それなればなおのこと,こう言えるのではないか,諸君が支配者の座を失うまいとし,すでに奴隷たるかれらが支配者から脱しようと,それほどの危険をおかしあっているのであれば,われらのごとく今なお自由を保持する者が奴隷化を拒み,必死の抵抗をつくすのは当然のこと,さもなくば見さげはてた卑劣さ,卑怯さとさげすまれよう。』

アテーナイ側,『いや,冷静に協議すればあながちそうではない。なぜなら諸君は今,勇を競い名を惜しむ彼我互角の争いにのぞんでいるわけではない。圧倒的な強者を前にして,鉾を引き身を全うすべき判断の場に立っているのだ。』

メーロス側,『ともあれ,われらにも心得があること,勝敗の帰趨は敵味方の数の多寡どおりには定まらず,往々にして彼我公平に偶然の左右するところとなる。さればわれらにとって,今降伏することは今絶望を自白するに等しい,だが戦えば戦っている間だけでも勝ち抜く希望がのこされている。』

アテーナイ側,『希望とは死地の慰め,それも余力を残しながら希望にすがる者ならば,損をしても破滅にまで落ちることはない。だが,手の中にあるものを最後の一物まで希望に賭ける者たちは(希望は金を喰うものだ),夢破れてから希望の何たるかを知るが,いったんその本性を悟ったうえでなお用心しようとしても,もはや希望はどこにもない。諸君は微力,あまつさえ機会は一度しかないのだから,そのような愚かな眼にあおうとせぬがよい。また人間として取りうる手段にすがれば助かるものを,困窮のはてついに眼にみえるものに希望をつなぎきれず,神託,予言,その他同様の希望によって人を亡ぼす諸々の,眼に見えぬものを頼りにする輩は多いが,諸君はかれらの真似をしないで貰いたい。』

メーロス側,『諸君の兵力と幸運とに匹敵する条件を持たぬ限り,これと争うことの至難たるはもちろんわれらにも判っている,と考えていただきたい。だがわれらは罪なき者,敵こそ正義に反する者であれば,神明のはからいの欠くるところなきを信じ,軍兵の不足はラケダイモーンとの同盟が補いうると信じている。たとえ他に何の理由がなくともただ血族の誼と廉恥を重んじる心から,かれらはきっと救援にやってくる。されば,諸君が言うほどに全く何の根拠もなくして希望をかかげているわけではない。』

アテーナイ側,『その神明のはからいとやらについて言えば,われらにも欠くるところないであろうと思っている。なぜなら,われらの主張も行為も,人間が神なるものについて抱く考えに外れたものではないし,人間社会の慾求に反するものでもない。もとより神は想念によってとらえられ,人の行為は事実によって判断されるという違いはあるが,しかしいずれもつねに各々の本質を規定する法則に操られている。つまり,神も人間も強きが弱きを従えるものだ,とわれらは考えている。したがってこういうわれらがこの法則を人に強いるため作ったのではなく,また古くからあるものを初めて己が用に立てるのでもない。すでに世に遍在するものを継承し,未来末世への遺産たるべく己の用に供しているにすぎぬ。なぜなら諸君とても,また他の如何なる者とても,われらが如き権勢の座につけば必ずや同じ轍を踏むだろう。さればこれが真実ゆえ,われらにも神明のはからいに欠くるところがあろうなどと,思い恐れるいわれは見当らぬ。・・・』
・・・〔中略〕・・・

アテーナイ側,『・・・不面目な結果が明白に予知されるような危機に立ったとき,人間にとってもっとも警戒すべきは,安易な己れの名誉感に訴えること,諸君も心して貰いたい。往々にして人間は,行きつく先がよく見えておりながら,廉恥とやらいう耳ざわりのよい言葉の暗示にかかり,ただ言葉だけの罠にかかってみすみす足をとられ,自分から好んで,癒しようもない惨禍に身を投ずる。そうなれば,不運だけならまだしも,不面目の上塗りに不明の譏りを蒙るのだ。諸君は,充分に協議すれば,この過ちから免れえよう。また,最大の国が寛大な条件で降伏を呼びかけているとき,これに従うことを何ら不名誉と恥じる要はない。諸君は従来どおり此処に住み,年賦金を収めれば,われらの同盟者となれるのだ。それのみか,戦争か安寧か,という選択さえ与えられているとき,頑迷にも,より愚かな道をえらぼうとはせぬがよい。相手が互角ならば退かず,強ければ相手の意を尊重し,弱ければ寛容に接する,という柔軟な態度を保てば,繁栄はまず間違いない。われらが退席したのち,以上の諸点をよく考えて貰いたい。そして諸君の決定は諸君の祖国の浮沈にかかわることゆえ,充分に考えを尽して貰いたい,諸君の祖国はただ一つしかなく,しかもその浮沈はこの一回限りの協議にかかっているのだ。』・・・ ・・・」(ツキジデス『戦史』(岩波文庫)中巻,pp.352-362.)

 …………


どの国でも、官僚たちは議会を公然とあるいは暗黙に敵視している。彼らにとっては、自分たちが私的利害をこえて考えたと信ずる最善の策を議会によってねじ曲げられることは耐え難いからである。官僚が望むのは、彼らの案を実行してくれる強力且つ長期的な指導者である。また、政治家のみならず官僚をも批判するオピニオン・リーダーたちは、自分たちのいうことが真理であるのに、いつも官僚や議会といった「衆愚」によって邪魔されていると考えている。だが、「真理」は得体の知れない均衡によって実現されるというのが自由主義なのだ。(柄谷行人『終焉をめぐって』――民主主義の中の居心地悪さ

……議会と大統領との差異は、たんに選挙形態の差異ではない。カール・シュミットがいうように、議会制は、討論を通じての支配という意味において自由主義的であり、大統領は一般意志(ルソー)を代表するという意味において民主主義的である。シュミットによれば、独裁形態は自由主義に背反するが民主主義に背反するものではない。《ボルシェヴィズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的であるが、しかし、必ずしも反民主主義的ではない》。《人民の意志は半世紀以来極めて綿密に作り上げられた統計的な装置よりも喝采によって、すなわち反論の余地を許さない自明なものによる方が、いっそうよく民主主義的に表現されうるのである》(シュミット『現代議会主義の精神史的位置』)。


この問題は、すでにルソーにおいて明確に出現していた。彼はイギリスにおける議会(代表制)を嘲笑的に批判していた。《主権は譲りわたされえない、これと同じ理由によって、主権は代表されえない。主権は本質上、一般意志のなかに存する。しかも、一般意志は決して代表されるものではない》。《人民は代表者をもつやいなや、もはや自由ではなくなる。もはや人民はいなくなる》(『社会契約論』)。ルソーはギリシャの直接民主主義を範とし代表性を否定した。しかし、それは「一般意志」を議会とは違った行政権力(官僚)に見いだすヘーゲルの考えか、または、国民投票の「直接性」によって議会の代表性を否定することに帰結するだろう。(『トランスクリティーク』p226~)

『戦前の思考』 柄谷行人 (1994年2月 文芸春秋)より

シュミットは、ナチの理論家です。もちろん、彼の考えは、一般的にナチを特徴づけていた「人種主義」のようなものと異質だし、そのために彼は途中失脚しています。戦後、彼はそのことをもって自己弁護しているのですが、それは見苦しいだけで、とうてい彼を免罪するものにはなりません。しかし、シュミットには、われわれが無視てきないような洞察があります。それは、彼がつねに例外状況から出発し、それによって通常科学ではけっして見えないようなものを見いだしたからです。そして、彼が思考のある極端さを実現しているかぎりにかいて、それを無視することはできません。

 しかし、ここで、注意しなければならないことがあります。われわれが例外状況から出発するのは、それが本来的だからだという意味ではないのです。それは、先にいったように、むしろノーマルな状態がいかにあいまいで複雑かを理解するためです。ある種の人間、ロマン主義的人間にとっては、例外状態のほうがなじみやすく、日常的な状態のほうが耐え難い。明らかに、シュミットはロマン主義的です。彼は『政治的ロマン主義』という本を書きロマン主義者を鋭く批判していますが、それは自己分析というべきもので、彼自身がまさにそのようにふるまっているのです。

 たとえば、自由・民主主義という言葉があります。自由主義と民主主義はほとんど区別なしにあいまいに使われています。これを明確に区別したのがシュミットです。彼は、『現代議会主義の精神史的地位』(みすず書房)において、こういうことをいっています。普通、民主主義というと、議会制民主主義だと考えられていますが、シュミットは、現代の議会制は、根本的に自由主義であり、これは民主主義とは異質なものだというのです。いいかえると、議会制でなくても、民主主義的であることは可能だというわけです。

 民主主義(デモクラシー)とは、大衆の支配ということです。これは現実の政体とは関係ありません。たとえば、マキャヴェリは、どのような権力も大衆の支持なしに成立しえないといっています。これはすでに民主主義的な考え方です。彼はたしかに『君主論』を書いた人ですが、もともと共和主義者でした。しかし、問題は、どのようにして、大衆の意志が最もよく「代表」されるのかということにあります。
 
 デモクラシーにおいて重要なのは、人民の意志が基底にありながら、それが何であるのかを誰もいえないことにあるのです。なぜなら、現実に存在する人々は、さまざまな利害の対立のなかにあるからです。議会とは、それらを調整する場所だといってもいいでしょう。そして、そこでは公開的な討論を経て多数決によって「人民の意志」が実現されることになっています。しかし、ここに問題があります。それは、多数だからといって、それが真に人民の意志を実現するとはいえないということです。むしろ、少数者のほうがそれをあらわすということがありえます。
 
 これはプラトン以来の難問です。それは、真理は、多数決で決定できるのかという問題です。すなわち、真理はいつも少数の者によって把握されるのではないのか、多数の同意は真理を保証しないのではないか、しばしば真理は多数が同意するものに反しているのではないか、というような問題です。プラトンは、政治形態にかんしてもそれを拡張し、議会制に反対して、哲学者=王こそ真理を代表すると考えました。(……)

シュミットは、共産主義的な独裁形態が民主主義と反するものではないといっています。もちろん、彼はヒットラー総統の独裁は民主主義的であるというのです。《ボルシェヴィズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的ではあるが、しかし、必ずしも反民主主義的であるわけではない》。実際、ヒットラーはクーデターではなく、議会的選挙を経て合法的に権力を握ったのです。そして、その政策は、基本的に官僚による統制経済です。それはワイマール体制(議会民主主義)においてなすすべもなかった失業問題を一挙に解決して、「大衆の支持」を獲得したわけです。


ハイパーメディア社会における自己・視線・権力(浅田彰/大澤真幸/柄谷行人/黒崎政男)

柄谷――「朝まで生テレビ」にしても何にしても,TV でディスカッションをしながら,その内容に関して視聴者からファックスで意見を聞いたり世論調査をしたりするけれど,それは非常に曖昧かつ流動的で,誰かが強力にしゃべると,サーッとそちらに変わったりして,一定しないんですね.

浅田――ルソーが一般意志というけれど,具体的なモデルとしては小さい共同体を考えているわけで,それを無視して直接民主主義を乱暴に拡大すると,ファシズムと限りなく近いものになってしまうわけです.

たとえば,リンツで「アルス・エレクトロニカ」というのをやっているんだけれど,あそこはヒトラーが生まれた所だから,ヒトラーが演説した広場があって,前回は,そこに巨大なスクリーンを立てて,インタラクティヴなゲームをやったんですね.みんなに赤と緑の反射板を持たせて,全員でTVゲームをやったりね. そこで,市長の人気投票とか,直接民主主義制のゲームもやったんですが,まさに柄谷さんがおっしゃったような感じで,みんながそのつど結果を見て補正するから,およそ一定しないわけです.

…………



知性が欲動生活に比べて無力だということをいくら強調しようと、またそれがいかに正しいことであろうと――この知性の弱さは一種独特のものなのだ。なるほど、知性の声は弱々しい。けれども、この知性の声は、聞き入れられるまではつぶやきを止めないのであり、しかも、何度か黙殺されたあと、結局は聞き入れられるのである。これは、われわれが人類の将来について楽観的でありうる数少ない理由の一つであるが、このこと自体も少なからぬ意味を持っている。なぜなら、これを手がかりに、われわれはそのほかにもいろいろの希望を持ちうるのだから。なるほど、知性の優位は遠い遠い未来にしか実現しないであろうが、しかしそれも、無限の未来のことというわけではないらしい。(フロイト『ある幻想の未来』)


二〇一一年の春の事故から、二年九ヶ月たって、多くの人が<あれ>を忘れ去っている。いま騒いでいることを三年後の次の衆議院選挙まで忘れないでいられるであろうか。


みなさんはいかがですか、最近、ときどき、鳥肌が立つようなことはないでしょうか? 総毛立つということがないでしょうか。いま、歴史がガラガラと音をたてて崩れていると 感じることはないでしょうか。ぼくは鳥肌が立ちます。このところ毎日が、毎日の時々 刻々、一刻一刻が、「歴史的な瞬間」だと感じることがあります。かつてはありえなかっ た、ありえようもなかったことが、いま、普通の風景として、われわれの眼前に立ち上が ってきている。ごく普通にすーっと、そら恐ろしい歴史的風景が立ちあらわれる。しかし、 日常の風景には切れ目や境目がない。何気なく歴史が、流砂のように移りかわり転換して ゆく。だが、大変なことが立ち上がっているという実感をわれわれはもたず、もたされて いない。つまり、「よく注意しなさい! これは歴史的瞬間ですよ」と叫ぶ人間がどこに もいないか、いてもごくごく少ない。しかし、思えば、毎日の一刻一刻が歴史的な瞬間で はありませんか。東京電力福島原発の汚染水拡大はいま現在も世界史的瞬間を刻んでいま す。しかし、われわれは未曾有の歴史的な瞬間に見あう日常を送ってはいません。未曾有 の歴史的な瞬間に見あう内省をしてはいません。3.11 は、私がそのときに予感したとおり、 深刻に、痛烈に反省されはしなかった。人の世のありようを根本から考え直してみるきっ かけにはなりえていない。生きるに値する、存在するに値する社会とはなにかについて、 立ち止まって考えをめぐらす契機にはかならずしもなりえていない。私たちはもう痛さを 忘れている。歴史の流砂の上で、それと知らず、人びとは浮かれはじめている。


インターネットに事件のたびごとに、のべつまくなしに<悲嘆>の感想を書き込んでいる手合いよ、まさかフロイトのいうようにネット村社会内で、《情緒は異常にたかまり、知的活動はいちじるしく制限される》わけではないだろうな。

あなたがたのそれが、似非能動性でないことを祈る。

人は何かを変えるために行動するだけでなく、何かが起きるのを阻止するために、つまり何ひとつ変わらないようにするために、行動することもある。これが強迫神経症者の典型的な戦略である。現実界的なことが起きるのを阻止するために、彼は狂ったように能動的になる。たとえばある集団の内部でなんらかの緊張が爆発しそうなとき、強迫神経症者はひっきりなしにしゃべり続ける。そうしないと、気まずい沈黙が支配し、みんながあからさまに緊張に立ち向かってしまうと思うからだ。(……)

今日の進歩的な政治の多くにおいてすら、危険なのは受動性ではなく似非能動性、すなわち能動的に参加しなければならないという強迫感である。人びとは何にでも口を出し、「何かをする」ことに努め、学者たちは無意味な討論に参加する。本当に難しいのは一歩下がって身を引くことである。権力者たちはしばしば沈黙よりも危険な参加をより好む。われわれを対話に引き込み、われわれの不吉な受動性を壊すために。何も変化しないようにするために、われわれは四六時中能動的でいる。このような相互受動的な状態に対する、真の批判への第一歩は、受動性の中に引き篭もり、参加を拒否することだ。この最初の一歩が、真の能動性への、すなわち状況の座標を実際に変化させる行為への道を切り開く。(ジジェク『ラカンはこう読め!』54頁)

《「ひとり」でいましょう。みんなといても「ひ とり」を意識しましょう。「ひとり」でやれることをやる。じっとイヤな奴を睨む。おか しな指示には従わない。結局それしかないのです。われわれはひとりひとり例外になる。 孤立する。例外でありつづけ、悩み、敗北を覚悟して戦いつづけること。これが、じつは 深い自由だと私は思わざるをえません。》(辺見庸)


今、《状況の座標を実際に変化させる行為への道》とはなんだろうか。選挙投票者は、インターネット情報などに無関心な層のものが大半を占めるのだ。


知識人の弱さ、あるいは卑劣さは致命的であった。日本人に真の知識人は存在し ないと思わせる。知識人は、考える自由と、思想の完全性を守るために、強く、かつ勇敢 でなければならない。(渡辺一夫『敗戦日記』1945 年 3 月 15 日)

ところで「緑の党」の中沢新一はいまなにをやってるんだろう。オウム事件の記憶で彼がきらいな人もいるだろうから、そうであるなら、別の影響力のある党結成が三年後のために<いま>必要だぜ。


特定秘密保護法案 徹底批判(佐藤優×福島みずほ)

福島)……私は、安倍総理の頭のなかには工程表があると思っています。(……)

佐藤)ただ、本当に工程表があるということならば、それをおかしいと言って潰していく、あるいは修正させることが可能なんです。しかし、実は工程表はないのではないかと感じます。なんとなく空気で動いている、つまり集合的無意識で動いているとすると、この動きをとどめるのはなかなか難しい。

まさか、《何も変化しないようにするために、四六時中能動的でいる》わけじゃあないだろうな。


私は、たとえば、ほんの少量の政治とともに生きたいのだ。その意味は、私は政治の主体でありたいとはのぞまない、ということだ。ただし、多量の政治の客体ないし対象でありたいという意味ではない。ところが、政治の客体であるか主体であるか、そのどちらかでないわけにはいかない。ほかの選択法はない。そのどちらでもないとか、あるいは両者まとめてどちらでもあるなどということは、問題外だ。それゆえ私が政治にかかわるということは避けられないらしいのだが、しかも、どこまでかかわるというその量を決める権利すら、私にはない。そうだとすれば、私の生活全体が政治に捧げられなければならないという可能性も十分にある。それどころか、政治のいけにえにされるべきだという可能性さえ、十分にあるのだ。(ブレヒト『政治・社会論集』)