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2013年4月20日土曜日

トルストイと自由の条件


『アンナ・カレーニナ』における、アンナの愛人ヴロンスキーと、同じ名門出で、軍務において大抜擢を受けて彼より数段上に昇格したばかりの友人セルプホフスコイとの、権力者たちの陰謀をめぐっての会話。

「でも、いったい、なぜだい」ヴロンスキーは、権力をもっている数人の名前をあげた。「でも、なんだってこうした連中は独立心にもえていないというんだね?」「それはただ、あの連中が財政的に独立していないからさ。いや、生まれながらにして、持っていなかったからさ。まったく財産を持っていなかったんだね。われわれのように太陽に近いところで生まれなかったからさ。あの連中は金なり恩義なりで、買収することができる。だから、あの連中は自分の地位を維持するために、主義主張を考えだす必要があったわけさ。そのために、自分でも信じていない、この世に害毒を流すような思想や主義を振りまわすが、そうした主義もただ官舎とか、いくらかの俸給にありつくための手段なんだからね。あの連中のトランプの手をのぞいてみれば、それほど巧妙なものじゃない…ひょっとすると、ぼくはあの連中よりばかで、劣っているかもしれないが、しかし、ぼくがあの連中より劣っていなくちゃならんという理由も、べつに見あたらないね。ところが、ただ一つまちがいなく重大な長所は、われわれはあの連中よりずっと買収しにくいってことだよ。そういう人間が今とても必要なんだよ」(トルストイ『アンナ・カレーニナ』木村浩訳 新潮文庫 (中)p140
―――で、なにが言いたいかって? わかるだろ、今では、どこもかしこも買収しやすい奴ばかりだってことだよ。

そもそも、どこか他処で起っていることがらやら、未来に当然起るはずのカタストロフィを、あたかも自分の家族にふりかかった災難であるかのようにうけとめて、それに関しての態度の決定に自分の存在意義をぜひとも認めずにはいられない人たちの言動を真に受けることなど容易にはできはしない。金でなかったら、名誉心だね。「未来の他者」のため? 「自由」のため? 金持ったって、いまでは「合理的な守銭奴」ばかりだね

柄谷)僕が考えている「他者」は、これまでも「無関心な他者」だったと思う。そのひとのために何をやっていたとしても知らない顔をしている、猫のようなものです。未来の他者も、われわれが例えば環境問題を解決したとしても、感謝しないはずです。当たり前だと思うでしょう。実際にわれわれもそうだから。前代のひとがいかに苦労をしたとしても、われわれは別に感謝したりしない。また、それでいいのです。例えば、戦争で死んだ人間を嘲笑する者もいますし、悼むひともいる、しかし、死者がどう思うかはわからない。死者の気持ちを勝手に想定してはいけない。死者は変わりありません。たんにわれわれが変わるのです。だから、キルケゴールは「死者は狡猾である」といっている。それは、死者は変わらない、そしてまさにそのことで、われわれの態度が変わったことを暴露してしまうということです。死者はまさに他者なのです。死者との関係は、向き合う相互的な関係ではありえない、非対称的なものです。未来の他者についても同様です。だから、僕が「未来の他者」といったとき、その未来の他者がこちらを向いているなどとは思ってはいけない。われわれが彼らのためにやっても、感謝してくれるかどうかわからないのです。では、なぜやるのかといえば「自由」のためにやるわけであって、絶対的な他者に対してやるわけじゃない。(『倫理21』と『可能なるコミュニズム』シンポジウム(柄谷行人/浅田彰/坂本龍一/山城むつみ)2000、11.17)

――トルストイの登場人物は、「自由」のための条件を語っているのだろうかね。もちろん、彼らも愛する家族や愛人に不幸が訪れれば、そんなことは忘れる。《愛しているときのわたしはいたって排他的になる》(フロイト『書簡集』)

フロイトは、「お前の隣人をお前自身のように愛せ」という文化の側からの要請、つまり伝統的な西欧のキリスト教文化に対して何と語っていたか。

なぜそんなことをしなければならないのか。そんなことをして何の役に立つというのか。それに第一、そんなことはできようはずはないではないか。私の愛は私の貴重な財産なのだから。充分な理由もなしに大盤振舞いすることなど許されない。(……)

 

そんなことをすれば、私は間違いを犯すことになる。なぜなら、私の家族は私の愛を自分たちの持物だと思っているのだから。私がその他人をこれら家族の者たちと同列に置けば、私は自分の家族を不当に扱うことになる。けれども、その他人も昆虫・みみず・がらがら蛇などと同じくこの地上の生物であるという理由でどうしてもその他人を愛さなければならないとすれば、この他人に振り向けられる私の愛はごく微量だ。理性の判断にしたがうかぎり、私も私自身のために自分の愛の一定量を取っておく権利があるが、それだけの量の愛をこの赤の他人に振り向けることはとうていできない。(……)

 

まったくの話、あのご結構な命令が「お前の隣人がお前を愛するのと同じようにお前の隣人を愛せ」といっていたら、私はなんの異議もさしまさまないだろう。(……)

 

ところが、もっと不可解に思え、もっと激しい抵抗を感じさせる第二の命令がある。それは、「お前の敵を愛せ」というのだ。しかしよく考えて見ると、このほうがもっと不当な要求だといって退けるのは当たらない。なぜなら、これら二つの要求は、根本においては同じことをいっているのだから。(フロイト『文化への不満』)




あるいは、歯痛になれば家族や愛人のことも忘れる。

《自分の歯茎が痛めば、その狭い中に全魂が集中するのが人間であり、その瞬間ほど、たとえ地球の反対側で地震が起こるとしても、自分の歯痛ほどではないと考える(……)。結局人は、世界で戦争が起ころうとも、地球に終末が訪れようと、自分が患っている歯痛よりはひどくはないと感じる……》(フロイト)ーー『ナルシシズム入門』ななかに詩人のW・ブッシュを引用して、《歯痛に悩む詩人のことを、「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している」》と書かれる。

我思う、ゆえに我ありは、歯痛を見くびる知識人の言い草である。我感ず、ゆえに我ありは、もっとずっと一般的な効力があり、どんな生物にもかかわる真理である。私の自我は、本質的には思考によってあなたの自我と区別されるのではない。ひと多けれど、想念少なし。われわれは誰しも想念をたがいに伝達しあったり、借用しあったり、盗みあったりしながらほぼ同じことを考えている。しかし、もし誰かが私の足を踏んづけても、苦痛を感じるのは私ひとりだ。自我の根拠は思考ではなく、もっとも基本的な感情である苦しみである。(クンデラ『不滅』第四部「ホモ・センチメンタリス」)

歯痛やら心身の健康の話は脇にやるにしても、家族の未来、子供の未来の視点がない場合、ひとは聖人君子でないかぎり、いつおこるかわからない未来のカタストロフィに眼と閉じ、「終りなき日常」を生きる。つまり倒錯的否認者として振る舞う。《「(事態はきわめて深刻であり、自分たちの生存そのものがかかっているのだということを)よく知っているが、それでも……、心からそれを信じているわけではない。それは私の象徴的宇宙に組み込む心構えはできていない。だから私は、危機が私の日常生活に永続的な影響を及ぼさないかのように振舞い続けるつもりだ」》(ジジェク『斜めから見る』)

次のような話はごもっとも。だが敬して遠ざけよう、と。

過去と未来の閉じた回路である時間―未来はわれわれの過去の行為から偶然に生み出されるが、 その一方で、 われわれの行為のありかたは、未来への期待とその期待への反応によって決まるのである。

 

『大惨事は運命として未来に組みこまれている。それは確かなことだ。だが同時に、偶発的な事故でもある。つまり、たとえ前未来においては必然に見えていても、起こるはずはなかった、ということだ。……たとえば、大災害のように突出した出来事がもし起これば、それは起こるはずがなかったのに起こったのだ。にもかかわらず、起こらないうちは、その出来事は不可避なことではない。したがって、出来事が現実になること――それが起こったという事実こそが、遡及的に その必然性を生みだしているのだ(Jean=Pierre Dupuy, Petit métaphysique des tsunami, Paris, Seuil 2005, p. 19.)。』

 

 

もしも―偶然に―ある出来事が起こると、 そのことが不可避であったように見せる、 それに先立つ出来事の連鎖が生み出される。 物事の根底にひそむ必然性が、 様相の偶然の戯れによって現われる、 というような陳腐なことではなく、これこそ偶然と必然のヘーゲル的弁証法なのである。 この意味で、人間は運命に決定づけられていながらも、 おのれの運命を自由に選べるのだ。

 

環境危機に対しても、このようにアプローチすべきだと、デュピュイはいう。 大惨事の起こる可能性を 「現実的」に見積もるのではなく、 厳密にヘーゲル的な意味で<大文字の運命>として受け容れるべきである―もしも大惨事が起こったら、 実際に起こるより前にそのことは決まっていたのだと言えるように。 このように<運命> 「もし」 を阻む)自由な行為とは密接に関係している。自由とは、もっと根源的な次元において、自らの<運命>を変える自由なのだ。

 

つまりこれがデュピュイの提唱する破局への対処法である。 まずそれが運命であると、 不可避のこととして受けとめ、そしてそこへ身を置いて、 その観点から (未来から見た) 過去へ遡って、 今日のわれわれの行動についての事実と反する可能性(「これこれをしておいたら、いま陥っている破局は起こらなかっただろうに!」)を挿入することだ。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』)



で、なんだって? 自由とは、もっと根源的な次元において、自らの運命を変える自由であるならば、最初に戻って、やっぱり買収されない奴がわずかでも欲しいよな。

買収されなくても、工学的素養ばかりで、哲学的素養のまったくなさそうな連中だけでは、いくら彼らが清廉潔白でも、困るよな。


繰り返すが、ヴィリリオを引くまでもなく科学技術の問題はきわめて重要だし、「あくまで現実的に何が可能かを見極めようとする工学的な思考」はとことん徹底されなければならない。しかし、それがすべてだ、それ以外のいわゆる哲学的(あるいはもっと広く人文学的)な思惟などと いうのはノンセンスな夢想に過ぎない、という実証主義的批判は、それ自体、大昔から繰り返されてきた紋切型に過ぎず、受け入れることができない。必要なのは、すべてを工学的思考に還元することではなく、人文学的なものを工学的に思考すると同時に工学的なものを人文学的に思考することなのだ。私は「事故の博物館」の頃から(いや、もっと以前から)現在にいたるまで、そのような立場を一貫して維持してきたつもりである。そして、それが最初に示唆するのは、地球環境問題が、もとより主観的な良心の問題(「やるだけやったし、まいっか」)ではないと同時に、客観的な工学の問題に尽きるものでもなく(現在をはるかに 凌ぐ計算力をもったシミュレータが出現しても、最終的にすべてを明確な因果関係によって把握することはできないだろうが、問題は、むしろ、そうした不完全情報の下でいかに判断するかということなのだ)、文明のあり方そのものにかかわる思想的・政治的・社会的な問題だということなのである。浅田彰「山形浩生の批判に答えて」

2013年4月16日火曜日

合理的な守銭奴


たとえば自らの所属する共同体が倫理的に許しがたい行為をしていると思う。だが、それを批判することで職を失うかもしれない。明日の生活が脅かされる。一人ならまだしも家族がいれば守らなければならない。だからひとは止むえず黙り込む選択をする。背に腹はかえられない(所属する共同体が下り坂の道を歩んでいるならいっそうのことだ)。

功成り名遂げて生活に困らない資産家ならどうだろう。自らの所属する共同体は国家であってもいい。そのとき批判する自由があるはずだ、とふつう考えられる。もしそうでないなら何を怖れるのか。共同体での名誉・名声を失うことか。

すぐれた人と呼ぱれる人は自分を欺いた人である。その人に驚くためにはその人を見なければならない――そして、見られるためには姿を現わさなけれぱならない。かくしてその人は自分の名前に対する愚かな偏執にとりつかれていることをわたしに示すのだ。そのように、偉人などといわれる人はすぺて一つの過誤に身を染めた人である。世にそのカが認められるような精神はすぺて己れを人に知らせるという誤ちから出発する。公衆から酒手をもらうのとひきかえに、彼ぱ己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消する。そしてついには栄光を求めて演じられるこうしたぶざまな演技を、自らを他に類例のない唯一無二の存在と感じる喜ぴ――大いなる個人的快楽―――になぞらえるにいたるのだ。(ヴァレリー『テスト氏との一夜』)

いやそれだけではないのをわれわれは知っている。富というものはわれわれをつよくとらえる。われわれはこれを羨望し、その奴隷になってしまう。われわれが富をもつとなると、富はさらにいっそうよくわれわれをとらえる。それゆえ、われわれはなにかにつけかせぎたくなる。いいかえれば、より少なくあたえたり、より多く受けとったりしたくなる。シェイクスピアに学ぶなら、ときにひとは自分の金よりも自分の命のほうをいっそう無造作にあたえてしまうなどということもおこる。


マルクスが資本の考察を守銭奴から始めたことに注意すべきである。守銭奴がもつのは、物(使用価値)への欲望ではなくて、等価形態に在る物への欲動――私はそれを欲望と区別するためにフロイトにならってそう呼ぶことにしたいーーなのだ。別の言い方をすれば、守銭奴の欲動は、物への欲望ではなくて、それを犠牲にしても、等価形態という「場」(ポジション)に立とうとする欲動である、この欲動はマルクスがいったように、神学的・形而上的なものをはらんでいる。守銭奴はいわば「天国に宝を積む」のだから。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

富者はこの守銭奴としての「場」を失うことを怖れる。そして資本家は愚かなる貨幣蓄蔵者ではなく、合理的な守銭奴である。


使用価値は、けっして資本家の直接目的として取り扱われるべきではない。個々の利得もまたそうであって、資本家の直接目的として取り扱われるべきものは、利得の休みなき運動でしかないのだ。

こういう絶対的な到富衝動、こういう情熱的な価値追求は、資本家にも貨幣蓄蔵者にも共通のものではあるが、しかし貨幣蓄蔵者が狂気の資本家でしかないのに対して、資本家のほうは合理的な貨幣蓄蔵者である。貨幣蓄蔵者は、価値の休みなき増殖を、貨幣の流通から救いだそうとすることによって追求するが、より賢明な資本家は、貨幣をつねに新たに流通にゆだねることによって達成するわけである。(マルクス『資本論』)


「合理的な」とされつつも、この資本の運動(蓄積欲動)そのものは、実際には合理的な動機ではないだろう、それは一種の「反復強迫」なのだから。


マルクスは、資本の源泉にまさしく貨幣のフェティシズムに固執する守銭奴(貨幣蓄蔵者)を見いだしている。貨幣をもつことは、いつどこでもいかなるものとも直接的に交換しうるという「社会的質権」をもつことである。貨幣蓄蔵者とは、この「権利」ゆえに、実際の使用価値を断念する者の謂である。貨幣を媒体ではなく自己目的とすること、つまり「黄金欲」や「到富衝動」は、けっして物(使用価値)に対する必要や欲望からくるのではない。守銭奴は、皮肉なことに、物質的に無欲なのである。ちょうど「天国に宝を積む」ために、この世において無欲な信仰者のように。守銭奴には、宗教的倒錯と類似したものがある。事実、世界宗教も、流通が一定の「世界性」――諸共同体の「間」に形成されやがて諸共同体にも内面化されるーーをもちえたときにあらわれたのである。もし宗教的な倒錯に崇高なものを見いだすのならば、守銭奴にもそうすべきだろう。守銭奴に下劣な心情(ルサンチマン)を見いだすならば、宗教的な倒錯にもそうすべきだろう。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

古人は四つの徳を教えた、――勇気、節制、正義、叡智。つまり四つの敵をみとめたということだ、――恐怖、快楽、不正(盗み)、愚昧。

だが、最初の三つの徳は「叡智」の影のようなものに過ぎないといえる、《問題なのはつねに、欺かれぬことであり、自分の明晰な精神を保持すること。情念の第一の作用とは、われわれを盲目にすることえあり、徳とは、よく判断すること、よく判別すること、自分になにがもとめられているか、なにが約束されているか、自分にとって何が重要なのか、自分はなにを欲し、なにを欲していないかを知ることである》(アラン 「プロポ」より)

――つまりは、自己自身をまえにした精神の自由な態度に尽きる。

カントが、自由は義務(命令)に対する服従であるといったが、ここでの服従するものは決して共同体の義務ではなく、「自由であれ」という命令である。

《到達された自由のしるしとは何か? ――もはや自己自身に対して恥ないこと。》(ニーチェ『悦ばしき知識』)

――で、どうだって? ひとは自由など求めていないよな

《ドストエフスキーは人々は「自由」など望んでいないといったが、同様に、“精神”であることを人は望んでいない。自分はめざめて、現実を直視し、ほかの人は幻想に支配されていると説く[あの]連中のように、夢をみていることを望むのである。》(「探求Ⅱ」)

…………

スピノザのいうようにわれわれには自由意志などない。《定理48 精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意思は存しない。むしろ精神はこのことまたはかのことを意志するように原因によって決定され、この原因も同様に他の原因によって決定され、さらにこの後者もまた他のの原因によって決定され、このようにして無限に進む。》(スピノザ『エチカ』)

カントならこう書く。

――私は私の行為する時点において、決して自由ではないのである。それどころかたとえ私が自分の現実的存在の全体は、なんらかの外来の原因(神のような) にまったくかかわりがないと思いなしたところで、従ってまた私の原因性の規定根拠はおろか私の全実在の規定根拠すら、私のそとにあるのではないと考えてみ たところで、そのようなことは自然必然性を転じて自由とするわけにはいかないだろう。私はいかなる時点においても、依然として〔自然〕必然性に支配され、 私の自由にならないものによって、行為を規定されているからである。それにまた私は、すでに予定されている〔自然必然的な〕秩序に従って出来事の無限の系列――  すなわち<a parte priori(その前にあるものから)>つぎつぎに連続する系列をひたすら追っていくだけで、私自身が或る時点にみずから出来事を始めるというわけにいか ないのである。要するに一切の出来事のこういう無際限な系列は、自然における不断の連鎖であり、従ってまた私の原因性は決して自由ではないのである。 (『実践理性批判』、波多野精一他訳、岩波文庫)
だが、柄谷行人曰く、このとき初めて「自由」が始まる、《われわれが自由な選択だと考えるものは、原因に規定されていることが十分にわからないからにすぎない。そう考えたとき、はじめて「自由」はいかに可能かということが問われる。》

ラカン派のカント読み、アレンカ・ジュパンチッチ(『リアルの倫理』)ならこう言う、
《汝を生み出した行為の内なる死の欲動を、決してしらばくれることなしに汝自身のものんと認めよ》