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2013年11月18日月曜日

「人形」と「中原中也の思い出」(小林秀雄)

人形  小林秀雄

或る時、大阪行の急行の食堂車で、遅い晩飯を食べていた。四人掛けのテーブルに、私は一人で坐っていたが、やがて、前の空席に、六十恰好の、上品な老人夫婦が腰をおろした。

細君の方は、小脇に何かを抱えて這入って来て私の向いの席に着いたのだが、袖の蔭から現れたのは、横抱きにされた、おやと思う程大きな人形であった。人形は、背広を着、ネクタイをしめ、外套を羽織って、外套と同じ縞柄の鳥打帽子を被っていた。

着附の方は未だ新しかったが、顔の方は、もうすっかり垢染みてテラテラしていた。眼元もどんよりと濁り、唇の色も槌せていた。何かの拍子に、人形は帽子を落し、これも薄汚くなった丸坊主を出した。

細君が目くばせすると、夫は、床から帽子を拾い上げ、私の目が会うと、ちょっと会釈して、車窓の釘に掛けたが、それは、子供連れで失礼とでも言いたげなこなしであった。

もはや、明らかな事である。人形は息子に違いない。それも、人形の顔から判断すれば、よほど以前の事である。一人息子は戦争で死んだのであろうか。夫は妻の乱心を鎮めるために、彼女に人形を当てがったが、以来、二度と正気には還らぬのを、こうして連れて歩いている。多分そんな事か、と私は想った。

夫は旅なれた様子で、ボーイに何かと註文していたが、今は、おだやかな顔でピールを飲んでいる。妻は、はこばれたスープを一匙すくっては、まず人形の口元に持って行き、自分の口に入れる。それを繰返している。私は、手元に引寄せていたバタ皿から、バタを取って、彼女のパン皿の上に載せた。彼女は息子にかまけていて、気が附かない。「これは恐縮」と夫が代りに礼を言った。

そこへ、大学生かと思われる娘さんが、私の隣に来て坐った。表情や挙動から、若い女性の持つ鋭敏を、私は直ぐ感じたように思った。彼女は、一と目で事を悟り、この不思議な会食に、素直に順応したようであった。私は、彼女が、私の心持まで見てしまったとさえ思った。これは、私には、彼女と同じ年頃の一人娘があるためであろうか。

細君の食事は、二人分であるから、遅々として進まない。やっとスープが終ったところである。もしかしたら、彼女は、全く正気なのかも知れない。身についてしまった習慣的行為かも知れない。とすれば、これまでになるのには、周囲の浅はかな好奇心とずい分戦わねばならなかったろう。それほど彼女の悲しみは深いのか。

異様な会食は、極く当り前に、静かに、敢えて言えぱ、和やかに終ったのだが、もし、誰かが、人形について余計な発言でもしたら、どうなったであろうか。私はそんな事を思った。(朝日新聞 昭和三十七年十月六日)

ーーこの文も、前投稿「「美しい」と「おもしろい」」の文脈からいえば、たんに「名品」とか「ウツクシイ」やら、あるいはまるで志賀直哉の掌編のようだ、さらには今の作家たちにこういった文が書けるか、などと言っておらずに、どこに秘密があるのか、「要素に分解して対象をくまなく記述する」、あるいは「具体的に手にすることのできる道具や手段でそれ---その現象を産みだすにはどうすればよいのか」という態度がすくなくとも書き手には(シロウトの書き手でさえ巧く書きたいと願うなら)求められるのだろう。ーーと書いておいて、わたくしは今ここでそんなことをするつもりもなくその能力もないのだが。

この「人形」は『考えるヒント』に収められており、教科書にも載せられたことがあるそうで、比較的多くのひとに親しまれているらしい。『考えるヒント』には、同じように朝日新聞に掲載されたいくつかの短文があり、そのなかの「樅の木」というエッセイも「人形」と優劣つけがたく、とてもすばらしい(末尾に引用)。

この二つの短文の特徴で気づくのは、まずは「パラグラフ」の塊りが簡潔明快で、多くの読者をもつ新聞に載せるエッセイであるために、読み易さの工夫がなされているのか、その塊りごとに進行していくのが心地よい。

文章を書くとは次のようなことである。すなわち、頭の中の宇宙に乱舞する、言葉になりそうでならない、(……)「思想(イデア)」をつかみだし、明確な個別言語の衣を着せ、文脈に相応しつつ、文章という一次元上に建築して、それが何かの命題か物語を順当に喚起して、読み手の視野がひらけてゆき、自分以外の人にも通じるようになるかどうかをたえず吟味しつつ進むことである。いや、「思想」の前にも「もわーっ」とした何かがある。「粗描」というべきか。工作や建築で最初に鉛筆でなぐり描きされる「こういうふうなもの」に近い何かがある。

感じ方、考え方を規制するのではなく、自力で発想や感覚や事態を整理し、言葉に直して、それをしだいに高度に構成してゆくことは、スリリングな知的作業である。

この作業を阻む一因に、センテンスによって構成されるパラグラフという重要な単位を日本語が伝統的に重視しないことがある。

文法的単位はセンテンスだろうが、思考の単位はパラグラフである。この意識が乏しいために、日本語の文章の建築性は、パラグラフの手前で止まってしまう。小泉首相の発言はセンテンスが際立っている。だからスローガンのようなのだ。もっとも、それまでの政治家の発言の多くは、明確なセンテンスの態をなさなかった。武田泰淳が岩波新書の『政治家の文章』でいうとおりである。(中井久夫「日本語の対話性」 『時のしずく』所収


…………


小林秀雄「中原中也の思い出」抜粋

鎌倉比企ヶ谷妙法寺境内に、海棠の名木があった。こちらに来て、その花盛りを見て以来、私は毎日のお花見を欠かしたことがなかったが、去年枯死した。枯れたと聞いても、無残な切り株を見に行くまで、何だか信じられなかった。それほど前の年の満開は例年になくみごとなものであった。名木の名に恥じぬ堂々とした複雑な枝ぶりの、網の目のように細かく別れて行く梢の末々まで、極度の注意力をもって、とでも言いたげに、繊細な花をつけられるだけつけていた。私はF君と家内と三人で弁当を開き、酒を飲み、今年は花が小ぶりの様だが、実によく附いたものだと話し合った。傍で、見知らぬ職人風の男が、やはり感嘆して見入っていたが、後の若木の海棠の方を振り返り、若いのは、やっぱり花を急ぐから駄目だ、と独り言のように言った。蝕まれた切り株を見て、成る程、あれが俗に言う死花というものであったかと思った。中原と一緒に、花を眺めたときの情景が、鮮やかに思い出された。今年も切株を見に行った。若木の海棠は満開であった。思い出は同じであった。途轍もない花籠が空中にゆらめき、消え、中原の憔悴した黄ばんだ顔を見た。(……)

中原と会って間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人の協力の下に(人間は憎み合う事によっても協力する)、奇怪な三角関係が出来上がり、やがて彼女と私は同棲した。この忌まわしい出来事が、私と中原との間を目茶苦茶にした。言うまでもなく、中原に関する思い出は、この処を中心としなければならないのだが、悔恨の穴は、あんまり深くて暗いので、私は告白という才能も思い出という創作も信ずる気にはなれない。驚くほど筆まめだった中原も、この出来事に関しては何も書き遺していない。ただ死後、雑然たるノオトや原稿の中に、私は、「口惜しい男」という数枚の断片を見付けただけであった。夢の多過ぎる男が情人を持つとは、首根っこに沢庵石でもぶら下げて歩く様なものだ。そんな言葉ではないが、中原は、そんな意味の事を言い、そう固く信じていてにも拘らず、女が盗まれた時、突如として僕は「口惜しい男」に変った、と書いている。が、先はない。「口惜しい男」の穴も、あんまり深くて暗かったに相違ない。

それから八年経っていた。二人とも、二人の過去と何んの係わりもない女と結婚していた。忘れたい過去を具合よく忘れる為、めいめい勝手な努力を払って来た結果である。二人は、お互いの心を探り合う様な馬鹿な真似はしなかったが、共通の過去の悪夢は、二人が会った時から、又別の生を享けた様子であった。彼の顔は言っていた、彼が歌った様にーー「私は随分苦労して来た。それがどうした苦労であったか、語ろうとなぞとはつゆさえ思わぬ。またその苦労が、果して価値のあったものかなかったものか、そんな事なぞ考えてもみぬ。とにかく私は苦労して来た。苦労して来たことであった!」。しかし彼の顔は仮面に似て、平安の影さえなかった。


晩春の暮方、二人は石に腰掛け、海棠の散るのを黙って見ていた。花びらは死んだ様な空気の中を、まっ直ぐに間断なく、落ちていた。樹陰の地面は薄桃色にべっとりと染まっていた。あれは散るのじゃない、散らしているのだ、一とひら一とひたらと散らすのに、屹度順序も速度も決めているに違いない、何という注意と努力、私はそんな事を何故だかしきりに考えていた。驚くべき美術、危険な誘惑だ、俺達にはもう駄目だが、若い男や女は、どんな飛んでもない考えか、愚行を挑発されるだろう。花びらの運動は果てしなく、見入っていると切りがなく、私は急に嫌な気持ちになって来た。我慢が出来なくなってきた。その時、黙って見ていた中原が、突然「もういいよ、帰ろうよ」と言った。私はハッとして立上がり、動揺する心の中で忙し気に言葉を求めた。「お前は、相変わらずの千里眼だよ」と私は吐き出す様に応じた。彼は、いつもする道化た様な笑いをしてみせた。………(昭和二十四年八月『文芸』)




こういった文章にひとはほれ込んだのであって、それは小林・中原と親しい関係にあった吉田秀和が上の「中原中也の思い出」の最後の段落を引用して次のように書くのに代表される。

この歌舞伎の情景みたいな文章をよんで、私は私なりに、ハッとした。そうして考えた。中原は、こうやって、とうとう死んだのだ。すると、彼は、ともかく人間とは和解したのだろうな。そうして、ひさかたの春の光の中で、静心なく、散ってゆく花みたいに、彼は死んだのだ。実際、彼は死ぬずっと前から、自分の死を見ていたんだ。

私は、たしかには中原に会ったことがあるにはちがいないが、本当に彼をみ、彼の言葉をきいていたのだろうか? こういう魂と肉体については、小林秀雄のような天才だけが正確に思い出せ、大岡昇平のような無類の散文家だけが記録できるのである。私には、死んだ中原の歌う声しかきこえやしない。(吉田秀和「中原中也のこと」)

もっとも江藤淳はこう書いている、《この一節は美しい。が、おそらくあまりに美しい》、と。

中原中也自身は「日記」に、《岡田来訪。小林を誘って日本一の海棠を見にゆく。大したこともなし。しかしきれいなものなり》とだけしているのだ。


…………

私は、小林さんをお宅におたずねしたのは、ほんの数度しかない。そのうちある時、小林さんは、『私はもう演奏家で満足です。独創的な思想家などというものは……』――と言い出した。そのあとは何といったのか。はがゆいことに、どうしてもはっきり思い出せない。もう出つくしたというのだったか、自分がそうでないことがわかったというのだったか。もし後者だとすると、いつごとからか知らないが、小林さんの『自分が何々でないことがわかってきた』という文章にしばしばお目にかかるようになったのと、無関係ではないかも知れない。もちろん、それはかつて《批評家失格》という威勢のよい文章を書いた人にとって、全く予想外のことではないかも知れないが、近年のは、少し様子がちがうように感じられる。

しかし、そのことは、今はふれまい。小林さんが「演奏」という言葉で表わしたものは、創造と伝統という問題についてのある中核的な思想を指すように思われる。思想というより、ある内的な手ごたえというべきかも知れない。自分で考え、自分で感じとり、自分で動いている。その考え方、感じ方、動き方の中に、自分だけというのでなくて、ある遠くから、古くから伝えられてきた何かがあって、自分が自分になればなるほど、その何かの存在がはっきり自覚されるようになる。あるいは逆に、その何かの在り方について自覚すればするほど、自分はますます自分になる。そういう関係は、楽曲とその演奏との関係と相似的なものを含んでいる。そうして、そこには個人の解釈というものを超えた何かがある。人が全く自由に歌を歌おうとすれば、それは口からの出まかせでなく、誰かの歌を歌うことになる。それはいわば肉体的でかつ精神的なもののメカニズムに全く合致した事実なのである。しかも、その誰かの歌は、歌う人それぞれによって、ちがう音色とニュアンスと、形とを持って響いてくる。そういう事情については、この人は、もちろん、ずいぶん早くから知っており、書いたものにも出ていた、《モオツァルト》も、その一例である。だが、今、そこに何か、それまでになかったものが加わった。かりにもし、小林さんの晩年の思想というものが語られるとしたら、それは、この小林さんが「演奏」という言葉で指したものと無関係ではないだろうと、私は想像したりもする。(吉田秀和「三人――小林秀雄、伊藤整、大岡昇平」)

あまり詳しくはないのだが、ドゥルーズの「自由間接話法」や、「理解すること
ではなく使用すること」というのは、この「演奏」にかかわるはずだ。

またこういう言い方もある、《……自分のは原文のない翻訳みたいなものだと言っていたこともあります。実際に原典があったらどんなに幸せだろうと思いますよ。ただ、原典のない翻訳というものは、文学一般のことかもしれないとも思っているんです。》(古井由吉「文藝」2012年夏号)



…………

私はほんとに馬鹿だつたのかもしれない。私の女を私から奪略した男の所へ、女が行くといふ日、実は私もその日家を変へたのだが、自分の荷物だけ運送屋に渡してしまふと、女の荷物の片附けを手助けしてやり、おまけに車に載せがたいワレ物の女一人で持ちきれない分を、私の敵の男が借りて待つてゐる家まで届けてやつたりした。尤も、その男が私の親しい友であつたことゝ、私がその夕行かなければならなかつた停車場までの途中に、女の行く新しき男の家があつたことゝは、何かのために附けたして言つて置かう。(我が生活 中原中也




こうして中原は「口惜しき人」になり、小林は既にわかっていた恋愛の結果を、口一杯頬ばらされる。以来彼は小説を書きもしないし、他人の小説も信じない。彼は批評家になる。(……)

「保証」は彼女の一番ほしいもので、半ば狂った頭は不貞を犯しても棄てない保証まで、小林に求めるようになる。しかも小林がそこにいるということが、彼女の憎悪をそそるらしく、走って来る自動車の前へ、不意に突き飛ばされるに到って、同棲は障害事件の危険をはらんで来る。

五月上旬の或る夜、泰子が「出て行け」といったら、小林は出て行った。軒を廻って行くのは、いつものように間もなく謝って帰って来る後姿だったということである。しかし小林はそれっきり帰らなかった。
小林は家を出る時、ああ、自分はこの家へはこれっきり帰って来ないなと思ったそうである。……(大岡昇平『中原中也』より)


…………

小林秀雄(1902年 - 1983年)は、若い頃から次のように書いている。

一体論文といふものが、論理的に正しいか正しくないかといふ事は、それほどの大事ではない、その議論が人を動かすか動かさないかが、常に遥に困難な重要な問題なのだ。(「アシルと亀の子 」昭和 5 年28歳)

大岡昇平が書く、中原中也と長谷川泰子と小林の間の奇妙な三角関係の結果、《以来彼は小説を書きもしないし、他人の小説も信じない。彼は批評家になる》という文を信用するなら、本来、小説家になるべきひとが批評家になったとすることもできるかもしれない。

ーーなどと書けば、多くの批評家とは小説家になりたかったがどこかで諦めた種族であり、それゆえ小林秀雄の文章に小説に未練たたっぷりの臭いを嗅ぎつけ、強い反感を覚えるのではないかと勘繰ることさえできるだろう。

われわれはすでにフロイトやプルーストなどから他者非難のメカニズムを学んでいる。

…他人に対する一連の非難は、同様な内容をもった、一連の自己非難の存在を予想させるのである。個々の非難を、それを語った当人に戻してみることこそ、必要なのである。自己非難から自分を守るために、他人に対して同じ非難をあびせるこのやり方は、何かこばみがたい自動的なものがある。その典型は、子供の「しっぺい返し」にみられる。すなわち、子供を嘘つきとして責めると、即座に、「お前こそ嘘つきだ」という答が返ってくる。大人なら、相手の非難をいい返そうとする場合、相手の本当の弱点を探し求めており、同一の内容を繰り返すことには主眼をおかないであろう。パラノイアでは、このような他人への非難の投影は、内容を変更することなく行われ、したがってまた現実から遊離しており、妄想形成の過程として顕にされるのである。

ドラの自分の父に対する非難も、後で個々についてしめすように、ぜんぜん同一の内容をもった自己非難に「裏打ちされ」、「二重にされ」ていた。……(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』(症例ドラ))

自己を語る一つの遠まわしの方法であるかのように、人が語るのはつねにそうした他人の欠点で、それは罪がゆるされるよろこびに告白するよろこびを加えるものなのだ。それにまた、われわれの性格を示す特徴につねに注意を向けているわれわれは、ほかの何にも増して、その点の注意を他人の中に向けるように思われる。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに Ⅱ」井上究一郎訳)
人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! 感受性の強い人で、自分自身がおさえている涙を他人の目に見てやりきれなくなる人がいるものだ。愛情があっても、またときには愛情が大きければ大きいほど、分裂が家族を支配することになるのは、あまりにも類似点が大きすぎるせいである。(プルースト「囚われの女」井上訳)



いずれにせよ批評家としての小林秀雄批判は、前投稿で、多くの資料を挙げたが、その批判の多くは正鵠を射ているとしても、文章家として捉えるなら、その魅力は消えない。

兎も角、批評文がただ批評文であることに、だんだん不満を感じて来た。批評文も創作でなければならぬ。批評文も亦一つのたしかな美の形式として現われるようにならねばならぬ。そういう要求をだんだん強く感じて来たのだね。うまい分析とうまい結論、そんなものだけでは退屈になって来たのだ。 (「座談/コメディリテレーレ 小林秀雄を囲んで 」昭和21年)

小林秀雄の文には、すくなくともわたくしには次のような力がある。

震災後の世界で、詩がそれほど役に立つとは思っていない。詩は無駄なもの、役立たずの言葉。書き始めた頃から言語を疑い、詩を疑ってきた。震災後、みんなが言葉を求めていると聞いて意外。僕の作品を読んだ人が力づけられたと聞くと、うれしいですが。

詩という言語のエネルギーは素粒子のそれのように微細。政治の力や経済の力と比べようがない。でも、素粒子がなければ、世界は成り立たない。詩を読んで人が心動かされるのは、言葉の持つ微少な力が繊細に働いているから。古典は長い年月をかけ、その微少な力で人間を変えてきた。(谷川俊太郎 ーー「芸術」「詩」の役割をめぐって

…………


「樅の木」に魅惑されるひとつの理由は、「中原中也の思い出」と同じように、古木の枯死といなせな職人とがでてくることだ。小林秀雄は、海棠の切株を思い浮かべながら(つまり中原のことを思い浮かべながら)、このエッセイを書いたに違いない。

樅の木 小林秀雄

私が今住んでいる家は、鎌倉八幡宮の裏山の上にあって、こんもりと繁った山々に取巻かれ、山の切れ目に、海に浮かんだ大島が見えるという大変見晴しのよいところにある。終戦直後、知人からこの家を譲り受けた時、私は、家などろくに見もしなかった。山の上に住む不便も、住んでみてから、いろいろ解って来た事で、その時は考えてもみなかった。それほど見晴しが気に入って、直ぐ決めてしまったのである。

狭い庭は、芝を植えたという他に、何の風情もないのだが、樅の木が一本あって、もし周囲の森と海も庭つづきに見立てれば、造園上、庭樹は、ここにこれ一本と決る、そういう姿で育っていた。樹齢何百年という大木である。無論、八幡宮の有名な銀杏のような名木ではないが、当時、ふと、参謀本部の地図で調べたら、独立樹として出ているのが解った。

目の前にあるのだから、毎日いやでもその姿を眺めるのだが、大木というものは、手入れもした事がないのだろうが、どうしてこうも姿のいいものかと思う。老醜という言葉がある。人間のみならず、私の家の犬も、老醜を現わすに至っているが、大木には、これが全く当てはまらず、老いていよいよ美しいとはどうしたわけか。いろんな鳥がやって来るが、夏の夜、梟が来て鳴くのが一番楽しみであった。

ところが、ある時、今年は何となく元気のない様子だ、と気附いた。その頃、毛虫で鎌倉中の松がひどくやられたので、虫であろうと思い、植木屋に相談したら、これは虫ではない、やはり、木の弱りだと言う。弱りと言っても、自分の意見では、原因は病気ではない、風だと思う、仲間と一緒で生えていればいいが、一本立ちでいては、辛い事だと言う。

樅の木のてっぺんは、古く雷にでもやられたらしく枯れていたが、植木屋は、それを見上げて、あの頭を切ってやれば、木も大分楽になるだろうと言うので、上を三間ほど切って、ブリキの蓋をして貰った。寸がつまっても、それなりに、やっぱり立派な姿に見えた。だが、やはり助からず、二年後に枯死した。

私は切り倒す気にはならなかった。そのままにして置いて見ていた。枯木は枯木で、また、なかなか美しかったのであるが、そのうちに、強い風だと枝が折れて飛ぶようになったので、仕方なく切る事にした。植木屋を呼んで、仕様がない、もう切る、と言うと、彼は、仕様がない、切るには切るが、ついては何とかいうお宮さんに行って、お伺いを立てて、水を貰って来ると言う。そんな習慣があるならあるでもっともな事と思えたから、彼にまかすと、二三日して一升瓶に水を持って来て、米と塩と一緒に供えて欲しいと言うので承知した。一昨年の事である。

恰好が附かないので、樅の木の後に、裏にあった、かなり大きなモチの木を、大騒ぎして移した。まだ丸太が取れないが、根附いてくれた様子である。モチの木も好きな木で、眺めていると随分いいが、未だ樅の木を忘れ兼ねている。(朝日新聞 昭和三十七年十月十三日)




晩年、奥さんが買い物にいけなくなったので下に移ったそうだ


…………


あゝ、死んだ中原
僕にどんなお別れの言葉が言えようか
君に取返しのつかぬ事をして了ったあの日から
僕は君を慰める一切の言葉をうっちゃった

あゝ、死んだ中原
例えばあの赤茶けた雲に乗って行け
何んの不思議な事があるものか
僕達が見て来たあの悪夢に比べれば

ーー小林秀雄『死んだ中原』


…………


ここまで書いた(引用した)ままでのみ終えると、小林秀雄の抒情的な(感傷的な)讃美だけに終わってしまうのを怖れるので、ーーそれは、わたくしの悪い癖だがーー、以下に前投稿で敢えて割愛した二つの小林秀雄批判をここに附記しておこう。


・小林秀雄は「所詮、鎖国経済下の骨董屋の議論に過ぎない」(岡崎乾二郎


次は小林秀雄のエッセイ「ランボオ Ⅲ」(昭和二十二年三月『展望』初出)への批評家高橋英夫氏の顕揚文に対する蓮實重彦の徹底的な批判の断片であるが、もちろんその批判の矛先は小林秀雄にいっそう強烈に届く。

……高橋氏が引用するのは、いうまでもなく、「僕が、はじめてランボオに、出くはしたのは、廿三歳の春であった。その時、僕は、神田をぶらぶら歩いてい た、と書いてもよい。向こうからやって来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである」で始まる一節である。だがそれにしても、これが「一種の狂暴 な<出会い>として一挙に起こったのだ」という点に注意すべきだとする高橋氏が、すかさず「精神が精神に触れ合う危機」を語り始めるとき、ここで小林氏が 嘘をついているという事実になぜ気づこうとしないのだろう。というより、小林氏は嘘をつくべく強いられているのだ。「神田をぶらぶら歩いていた、と“書い てもよい”」の、動詞「書く」がフランス語の譲歩による語調緩和の「条件法」に置かれている点を見逃してはなるまい。それに続く瞬間的な衝撃性の比喩とし ての「見知らぬ男」の殴打、「偶然見付けたメルキュウル版」に「仕掛けられてて」いた「爆薬」、「敏感」な「発光装置」、「炸裂」などの比喩は、事件とし てあったはずのランボー体験を青春の邂逅の光景としてしか語りえない「貧しさ」に苛立っていた言葉が、「書いてもよい」を恰好な口実として一挙に溢れだし て小林氏を裏切り、ほとんど無償に近い修辞学と戯れさせてしまったが結果なのであり、問題の一節にあって「条件法」的語調緩和の余韻をわずかにまぬがれて いる文章は、最後に記される「僕は、数年の間、ランボオといふ事件の渦中にあった」という一行のみである。つまり、真の小林的ランボー体験は、その装われ た性急さにもかかわらず、徐々に、ゆっくりと引き伸ばされ、時間をかけて進行した事件だったのである。わざわざ「『地獄の季節』の見すぼらしい豆本」とこ とわっている小林氏は、書物の言葉をかいくぐって一挙に「精神が精神に触れ合う危機」などを演じてしまうほどに、「精神」を信用してはおらぬ、それとも高 橋英夫は、小林氏が言葉にもまして「精神」を尊重していたとする確かな証拠でも握っているのであろうか。(……)

……だが、多少とも具体 的な夢へと立ち戻りうる者になら、人が「未知」の何かと「偶然」に遭遇したりはしないという点が素直に理解できるだろうし、そればかりか、むしろ「出会 い」を準備しうる環境と徐々に馴れ合い、それを通じて出会うべき対象をかりに無意識であるにせよ引き寄せ始めていない限り、遭遇などありえはしないとさえ 察知しうるはずだ。つまり、小林秀雄は、大学における専攻領域の選択、交遊関係などにおいて、詩人ランボーの書物と「出会い」を演じて決して不思議ではな い環境にあらかじめ住まっていた「制度」的存在なのであり、そのときすでに、ボードレールもパルナシアンの何たるかも知らされてしまっていたのだ。そうで なければ、「メルキュウル版の『地獄の季節』の見すぼらしい豆本」を「ある本屋の店頭で、偶然見付け」るといったペダンチックなメロドラマは起こったりし まい。いずれにせよ、こちらがそれらしい顔でもしていない限り、「見知らぬ男」が都合よく「僕を叩きのめし」てくれるはずがなく、だからあらゆる「出会 い」は「制度」的に位置づけられ準備され組織された遭遇なのであって、その位置づけられ組織されたさまを隠蔽するために、人は「出会い」を擬似冒険的な色 調に塗りこめ「文学」と「青春」との妥協に役立てずにはいられないのだ。(蓮實重彦「言葉の夢と批評」『表層批判宣言』所収)

蓮實重彦による「小林秀雄殺し」とでもいうべきものだが、氏は「大江健三郎殺し」をしておいて、その後、別の側面から光を当てて大江健三郎を顕揚しているのだが、小林秀雄にたいしては「殺し」た後の、顕揚の痕跡は見られない。






2013年11月3日日曜日

一瞬よりはいくらか長く続く間

昨日から大気の肌触り爽やかになり漸く乾季の訪れか。光の風合まで翻然と異なる。

昨年の日記(ウェブ上からは削除してしまったが)を探しだせば、十一月二十三日に同じようなことを書いており、もしこのままぶり返しがなければ、今年は昨年より早く乾季が訪れたことになる。そう、さきほども中原中也の「さらさらと」を想い起こしたところだ。

小林秀雄が、中原中也の「最も美しい遺品」と書いた「一つのメルヘン」、すなわち「さらさらと」ーー、《陽といっても、まるで珪石か何かのようで、/非常な個体の粉末のようで、/さればこそ、さらさらと/かすかな音を立ててもいるのでした》--は、中也の友人吉田秀和が次のように書いているのを想い起こしもする。《ある時刻における小さな宇宙が自分の中にも目覚めてくる》(吉田秀和「中也のことを書くのは、もうよさなければ……」(『ユリイカ』1970.9)。

時間が別の次元に変貌する瞬間がある。時間が濃密な密林の液体のようにゆるやかに、淀みながら流れていくのではなく、微粒子の粒がひとつひとつ際立ってすべての要素がそれぞれに異なった自分をわれがちに主張しあって流れてゆく刻限。

それは盛夏の光の波ではなく、光の粒子の季節でもある。
私が思うに、男を光の波とすれば、女性は光の粒子の集まりなのです。少女のフィルムをスローモーションで見てみると、互いに異なった百個の世界が見えてきます。少女が笑ったと思っていると、その十二コマ先では完全な悲劇が展開されるのです。(“ゴダール全てを語る”―宇野邦一『風のアポカリプス』より)

…………



2012年11月23日


ようやく乾季の訪れか。台所のテーブルに坐って珈琲を啜りつつ開け放たれた窓のむこうの前庭をぼんやり見やれば、花崗岩で組まれた塀のでこぼこした表に、細かく拡がった梢の末の翳を柔らかく描くのは、少し前とは違っておだやかで懐かしい陽射しだ。かすかな風にゆらぐその梢の模様とこがね色の陽光は粘つかず、さらさらと、……《小石ばかりの、河原があって、/それに陽は、さらさらと/さらさらと射しているのでありました》(中也)


傍らの古びていかめしい樹幹をもつプルメリアは湿気と寒さに弱く、雨季のおわりから乾季の始まり一、二ケ月のもっとも涼しくなるこの時節には、葉も落ちほとんどまる裸になって、いまだ花があるわけではないが(この樹は乾季終りの暑さのさかり、三月から四月にかけて薫り高い白い花をおびただしく咲かせてから新しい葉が出る)、庭隅のジャスミンやら日本名は知らないが当地ではクエと呼ぶーーこのクエの名が今年わかった、月橘というーー、これも白い小さな花の甘酸っぱい香りがかすかに漂っている。なにはともあれ、当地のこの乾季の始まりは、日本のいくつかの季節の感覚をもっともしばしば呼び醒ます時期であって、たとえば「かすかな」「ゆらぐ」としたことから、こんな文を引っ張り出してみよう。

京都の花便りは何と云っても最も気にかかるので、毎年四月の七、八日になると電話で聞き糺すのであった。平安神宮のお花見のことは「細雪」で余りにも知られ近年は雑踏のために花見らしい情趣も酌めなくなってしまったが、「細雪」を執筆しはじめたころは、内苑の池の汀に床几をもうけ緋毛氈を敷いて、蒔絵のお重に塗盃でお酒を酌み交し、微醺を帯びて枝垂を見上げ、そよともふく風のないのに梢の末(うれ)が幽かにゆらぐのが此の世のものとも覚えぬ風情で、私たちは花の精が集うていると云い合った。全く花に酔い痴れて花の下で何を語り何を考えたかそれも思い出せない。

夫と世を隔てて翌年の春、平安神宮の桜を思い起こさないではなかったが、あの花を独りで見る悲しさに堪えきれるものではなく、花に誘われて遠い遠い雲の彼方へ魂は連れ去られ、此の身だけが嫋々としだれる花にそと触れられながら横たわっている。そんな空想をしながら家に籠っていた。(谷崎松子『倚松庵の夢』)

あるいは「梢の模様」としたことから、次の文を。 

一年を通じて、この店の間がもっともあかるいのは、十一月の中、下旬、陰暦十月の小春と呼ばれている時期、および冬至をなかにして、これと対応する二月の中、下旬である。そのころ、京格子は上から下までいっぱいに、陽ざしを浴びている。格子の内側の障子をあけ放つと、たたみの上には規則正しい縞柄の日陰が横たわる。障子をしめていると、表の軒近くをとおる人影が、あらかじめ障子にえがき出された格子の縞のなかを通過する。そういう影のたわむれが、ふと目をうばうようなとき、ヴァレリーの一節が、私には思い出される。

木立の枝にとらわれた  かりそめの虜囚
並行する この細い鉄柵を ゆらめかせる入海……

「かりそめの虜囚」である人影は、たやすくこの格子の影、質量をもたないこの牢獄の柵からすり抜ける。「細い鉄柵」は、ヴァレリーにとっては睫毛の隠喩であった。それなら、京格子のつくる影は、カメラの暗箱にとりつけられた美しい人工の睫毛というべきかもしれない。そして南面に格子をもっている店の間こそあかるいが、間仕切りの襖のむこう、さらにもう一枚の襖をあけると奥座敷に通じる中の間は、四季を通じて暗箱のように暗いのが、京都の町のなかの住居の特色である。(杉本秀太郎『洛中生息』)

こうしてかつて十年ほど住んだふたつの「京都」の描写を抜き出したからといって、ことさらノスタルジーに囚われているのではなく、《一瞬よりいくらか長く続く間》(大江健三郎)の感覚、その過去と現在の印象が唐突に重なるのが尊いのであって、《まさに、ごくわずかなこと。ごくかすかなこと、ごく軽やかなこと、ちょろりと走るとかげ。一つの息、一つの疾駆、一つのまばたきーーまさに、わずかこそが、最善のたぐいの幸福をつくるのだ。静かに。》(ニーチェ)

豌豆のさや  (谷川俊太郎)


寝床の中で目を覚ますと
まずしなければいけないことが心に浮かぶ
しなければいけないことはしたいこととは違うが
自分が本当に何をしたいのかはよく分らない
そう思いながら手紙を書き
自転車で銀行へ行って金を振り込む

何もせずに一日を過ごしたことがないのを
恥じる必要はないかもしれないが
自慢することも出来ないような気がする

夕刻
屑籠の中に散らばった豌豆のさやが美しい
どうしてそんな些細なことに気をとられるのか
今日も人は死んでいるのに殺されているのに

この世にはあらゆる種類の事実しかない
その連鎖にはどんな法則もないように見えるが
多分そこに詩と呼ばれるものが隠されている


―――といいつつ、京都町中の季節のいい折の散策途上のお決まりの休憩場所であったイノダコーヒー三条店のカウンターに坐ってあのミルクコーヒーを(あれはけっしてカフェ・オーレと呼ぶにふさわしくない)啜ってみたいということはあるな


…………

などと昨年は書いている。このあとイノダ珈琲三条店やら本店のことをぐだぐだ書いているが、それはいまはどうでもよろしい。

いまは、大江健三郎の《一瞬よりいくらか長く続く間》をメモしたものがあり、投稿せずにいるので、それをここに抜き出す。


――……この一瞬よりはいくらか長く続く間、という言葉に私が出会ったのはね、ハイスクールの前でバスを降りて、大きい舗道を渡って山側へ行く、その信号を待つ間で…… 向こう側のバス・ストップの脇にシュガー・メイプルの大きい木が一本あったんだよ。その時、バークレイはいろんな種類のメイプルが紅葉してくる季節でさ。シュガー・メイプルの木には、紅葉時期のちがう三種類ほどの葉が混在するものなんだ。真紅といいたいほどの赤いのと、黄色のと、そしてまが明るい緑の葉と…… それらが混り合って、海から吹きあげて来る風にヒラヒラしているのを私は見ていた。そして信号は青になったのに、高校生の私が、はっきり言葉にして、それも日本語で、こう自分にいったんだよ。もう一度、赤から青になるまで待とう、その一瞬よりはいくらか長く続く間、このシュガー・メイプルの茂りを見ていることが大切だと。生まれて初めて感じるような、深ぶかとした気持で、全身に決意をみなぎらせるようにしてそう思ったんだ……

それからは、自分を訓練するようにして、人生のある時々にさ、その一瞬よりはいくらか長く続く間をね、じっくりあじわうようにしてきたと思う。それでも人生を誤まつことはあったけれど、それはまた別の問題でね。このように自分を訓練していると、たびたびではないけれどもね、この一瞬よりはいくらか長く続く間にさ、自分が永遠に近く生きるとして、それをつうじて感じえるだけのことは受けとめた、と思うことがあった。カジね、そしてそれはただそう思う、というだけのことじゃないと私は信じる。

それはこういうことが考えられるからだよ。もう一度、ほとんど永遠に近いくらい永く生きた人間を想像してみよう。それこそ大変な老人になって、皺だらけで縮こまっているだろうけれどもさ。その老人が、とうとう永い生涯を終えることになるんだ。そしてこう回想する。自分がこれだけ生きてきた人生で、本当に生きたしるしとしてなにがきざまれているか? そうやって一所懸命思い出そうとするならば、かれに思い浮ぶのはね、幾つかの、一瞬よりはいくらか長く続く間の光景なのじゃないか? そうすればね、カジ、きみがたとえ十四年間しか生きないとしても、そのような人生と、永遠マイナスn年の人生とは、本質的には違わないのじゃないだろうか?   

――僕としてもね、永遠マイナスn年とまではいいませんよ。しかし、やはり八十年間生きる方が、十四年よりは望ましいと思いますねえ、とカジは伸びのびといった。

――私もカジがそれだけ生きることを望むよ、というギー兄さんの方では、苦痛そのもののような遺憾の情を表していたが。……しかしそうゆかないとすれば、もし十四年間といくらかしか生きられないとすれば、カジね、私としてはきみにこういうことをすすめたいんだよ。これからはできるだけしばしば、一瞬よりはいくらか長く続く間の眺めに集中するようにつとめてはどうだろうか? 自分が死んでしまった後の、この世界の永遠に近いほどの永さの時、というようなことを思い煩うのはやめにしてさ。(大江健三郎『燃え上がる緑の木 第一部』p148-150)

――私は、総領事の最初の結婚を破棄して、自分と再婚させたわけだけど、それまでの後悔を引っくり返すほどの喜びをあたえたとは思わない、と弓子さんはいって、もう一度嗚咽され、鼻をかんだハンカチをまるめて握った手をまたK伯父さんの手の上に戻された。

――総領事と弓子さんをブリュセルに訪ねて、泊めてもらった時ね。翌朝、食堂に降りて行くと、きみたちは中庭のorme pleureurをじっと眺めていた。そこへ声をかけると、ふたりが共通の夢からさめたようにこちらを振り返ってね。ああいう時、総領事は、隆君の言葉を使えばさ、一瞬よりはいくらか長く続く間、弓子さんと喜び〔ジョイ〕を共有していたんじゃないの? しかも、そういうことは、しばしばあったんじゃないか?

イェーツの、ふたつの極の間の生というのはね、僕の解釈だと、……総領事のそれとはくいちがうかも知れないけれどもさ、なにより両極が共存しているということが大切なんだよ。愛と憎しみという両極であれ、善と悪という両極であれ…… それを時間についていえば、一瞬と永遠とが共存しているということでしょう? ある一瞬、永遠をとらえたという確信が、つまり喜び〔じょい〕なんだね。

じつはいまさっき、総領事の身の周りのものがまとめてあるなかに、イェーツの詩集があって、開いて見たんだけど、第四節はこういうふうなんだよ。《店先で街路を見わたしていた時/突然おれの身体が燃えさかった、/二十分間の余も/おれは感じていたのだ、あまりに倖せが大きいので、/祝福されておりみずから祝福もなしえるほどだと。》五十歳のイェーツの感慨なんだ、総領事が到達した年齢や、僕がいま生きている年齢より若い折の詩人の……

結婚したてのきみたちは、やはりロンドンから、この二十分間の余を現に体験していると、そういっている絵葉書をくれたじゃないか? きみたちは喜び〔ジョイ〕を共有していたぜ、あの時。それは一瞬のうちに永遠へ入り込んでいたことでね、失われようがない。……弓子さんがこれから休暇をとって、メリー・ウィドウの気分で、ロンドンの喫茶店を再訪でもすればさ、も一度その一瞬にめぐりあって永遠に戻ることになるよ!

――それがあったとしてもね、新しい一瞬を、このように死んでしまっている総領事と一緒に経験できるとは思えない……

弓子さんは老成した不機嫌さの躱し方だったが、その底に稚いような素直さの響きもあったからだろう、めずらしくK伯父さんはヘコタレなかった。

――バラバラの個ならば、そう。それにあわせて、全体のなかにふくまれる個ということも考えられるんじゃないの? とくにわれわれが一瞬の永遠を感じとるというような時、それは全体のなかの個としての経験だと思うよ。この場合、全体には死んで行った人の個もふくまれているはずね、実感としても…… それがあるからこそ、自分が祝福されるばかりじゃなく、他人を祝福することもできそうだというんだと思うよ。(同『燃え上がる緑の木 第二部』 P227-229)




※附記:大江健三郎「「涙を流す人」の楡」より(『僕が本当に若かった頃』所収)

――朝食の間、沈みこんでいるものだから、気がかりだったわ、と妻が声をかけていたのである。中庭の奥の大きい木を見ないように、身体を斜めにしているのも不自然だったし…… あなたが木が好きだということで、奥様はあの不思議な木を特別な御馳走のおつもりだったはずなのに。

――そこで話題が樹木の方向に進むようにとマロニエの花へ誘導してくれたのか…… しかし、沈みがちだったのはNさんじゃなかったかい? それでもホストとしてしっかりつきあってくれていて…… むしろそれをむりに笑わせるのもと、冗談をいわないようにしていただけだよ。……中庭の大きい木はチラリと見たように思うけど、つまりはNさんの鬱屈と思いこんだものに気をとられていたから。

――あなたが、あれだけめずらしい樹木をチラリとなり見て、そのままにしてしまうというのは、自然じゃないでしょう? いつもなら、すぐさま中庭へ廻らせていただいて、幹にさわってみるなりしたはずよ。そうやってあなたが楽しむのを、大使たちは期待されていたと思うわ。

――そういわれればね。昔きみには話したけれども、ある特別なかたちの大きい樹木で、それを見たり思い出したりすると、近年は鬱屈というほどでもなくなったけれど、気の滅入るやつがあるわけだ…… 

 

(……)朝食を始めた頃にはただ真青だった空に急速に雲がひろがって、しだれにしだれた枝のこまかな葉の茂りが凶々しいほどに翳ってゆく。僕はつい溜め息をついて、整えられたベッドのカヴァーの上へ横になり、これからすくなくとも一日二日は沈んだ気分においてつきまとうはずの、幼年時の記憶に面とむかった。海外にいることもあり、いくらかは進んでこちらからそれをかきよせるようだったと思う。そのうち僕は当の記憶の光景が、今朝早くからの気分を裏側でコントロールしていたことを認めるほかなかったのである。昨夜、月明りのなかの広大な前庭を大使の車で廻り込んだ時か、今朝の起きがけの散歩で、、僕はねじ曲げられた梢をチラリと見かけ、すぐ眼をそむけて見なかったふりをし、意識の表面ではそれに成功していたのだったろう……
(……)幼年時のひとつの光景の記憶という主題は、やはり夢のように淡い不定形なものなのだった。大使がその公的生活にはまぎれこむことがないにちがいない、こうした小説家の個人的な話に寛大な、またとない聴き手であったことをしみじみ思う。沈黙してこちらを穏やかに見まもっている沈着かつ機敏なかれの眼を、すでに現世ではもう再び見ることができぬことになったいま、さらに色濃く…… そしてあの最後の話合いはなにか自分らを越えたもののはからいではなかったかとすら疑うのだ。

われわれの座っている居間の大きいガラス仕切りの向こうには、全体に総毛立つふうなorme-pleureurが、斜め下方の谷あいから夕陽を受けて濃いワインカラーに燃えあがりもした。あの梢を押しひしいでいた見えない力と、つながっているところのものが、どこかでとりはからってくれていたのではなかったかと……

――確か五、六歳の頃の記憶なんですが、背景の樹木をふくめて画像としてくっきり頭にきざまれているのに、その光景を構成している人びとがすべてあいまいな、そういう記憶にね、永年とりつかれているんです。さらにこの光景につづいての出来事に、ぼんやりした罪障感があるんですね、自分自身と父親とに関わって…… しかし自分や父親が実際になにをしたか、ということは霧に包まれています。そういうわけで小説にも書くこともできない記憶なんです。ところが、きっかけがあってその記憶が表層の方へ浮びあがってくると、いつでも気持が沈んでしまう。それが一、二日は続く。とくに学生の頃、罪障感として意識するようになって、ずっとそうなんです。

(……)しかし、困るなあ、あはは! あなたにそんなベソをかいたような顔をされては! ……あのしだれた楡は、家内もいったとおりorme-pleureurで、pleureurというのは、枝がしだれにしだれているということですね、しかし、言葉の表面の意味としては「涙を流す人」の楡であるわけで、あの木の確かにベソをかいているような雰囲気が、あなたのみならずね、われわれみなを影響づけているかも知れないけれど……
この夏の終り、N大使は癌にもとづく肝不全で急逝された。自分の弔辞で、この樹木を思出についてのべたところを引用したい。

《ブリュッセルの朝から東京の夕暮に向けて、かつて聞いたことのない夫人の悲しみの声が大使の死をつたえる国際電話を受けてから、私はこの夏の終り、暗く茂っているはずのorme-pleureurの影に覆われるようにして時を過してきました。

あの秀れた異分野の友人は去った、かれと共にあることでのみ開かれたこの世界の独自の側面は自分から捥ぎとられた。そのことを私は繰りかえし思っています。現実と、あるいはその外部との関わりにおいて、こちらとは比較にならぬ経験をかさねた人物に、しばしば私は自分の自閉的な思い込みを越える展望を開いてもらいました。それが自分にとってかならずしもすべて受け入れやすかったのではない。しかしある時がたつと、私はその展望を介してはじめて可能な、積極的なものをかちえていることにつねに気づいたのです。

そのあれこれを思い出していると、いま自分がいくらかなりとタフな成熟をなしえているとすれば、しばしば対立しながら豊かな談論を楽しむことのできた、大使との交遊の日々にそれがもたらされていることをさとらずにはいられません。

N大使、私はいまもなおあなたがまさにそのようにタフな成熟と純粋さをあわせもつ眼で、微笑しつつ、わずかなイロニーも漂わせて、私を見おろしていられることを感じます。残された生の時、それを感じつづけもすることでしょう。》









2013年8月16日金曜日

私はいかなるテクストも暗記できません


ところで日本の詩人で最初に感心したのは中原中也です。中也の詩のリズムは、私が詩を訳したりするときの基本になっているのではないかと思います。(……)

ちょうどそのころカフカ全集が出始めたころでした。私は一時カフカ全集ばかり読んでいた時期がありました。まるで自分のことが書いてあるような気がしたことがあります。そのころ同人雑誌にカフカ論を載せたのです。……(中井久夫「私の影響を与えた人たちのこと」『精神科医がものを書くときⅠ』広栄社)

ほかにもヴァレリーやヴィトゲンシュタイン、デカルトなどという名は出てくるが、それらの名やカフカは別にして、中原中也をめぐっては、中井久夫の書き物に滅多に出てこない(わたくしの知るかぎり)。

――何が言いたいわけでもない。中井久夫の訳詩の中原中也のリズムに気づいていたといいたいわけでもない。

このところ中井久夫訳のカヴァフィスをしばしば引用しているが、さらにこうやって引用しても、ある親しさの感は覚えるが、ことさら中也の詩の影響をみることができるほどに中原の詩が「肉体化」しているわけではない(わたくしにとって)。

ーー《傾倒は、決して、その思想ゆえでなく「言語の肉体」獲得のためでなければならない。そうでなければ、その人はたかだか作家の〔取り巻き〕に終わるであろう。》

「カフェに坐りつづけた、十時半から/あれがいつ何どきドアを開けてはいってくるか/真夜中はとうに過ぎたが、なお待ちに待つ/一時半も過ぎてカフェに人影もまばら/機械的に読み返す新聞にもうんざり/……/長い長い待ちびと。心がずたずたに破れてゆくなあ/こう何時間でも独りでいると/道徳に背く自分の人生を/彼とて悩み出しもする。//だが友がきた。みえたとたん、疲れも悩みも退屈もあっという間に消えた/友の知らせ。何という棚ボタ/六十ポンド儲けた。カードでだ。//さあ、何もかも歓喜、生命、官能、魅惑。//ふたりは出掛けた。たがいのご立派なご家族の家なんかじゃなくて/(どうせもう歓迎される身じゃなかったし)/馴染みの家に行った。非常に特殊な淪落の家へ。/寝室を一つ頼み、高い飲み物をとって飲みなおした。//高い飲み物を飲み干した時/もう朝の四時に近かったけれど/ふたりはとてもしあわせに愛に溺れた」(カヴァフィス「二十三、四歳の青年ふたり」)

まあ言われてみれば、いくつかの中原中也の断片が浮んでこないわけでもないが。しかし断片だけだ。そもそもわたくしは少年時代、詩を暗記をするのが苦手だった。いまでも最後まで口をついてくるのは「朝の歌」ぐらいだ。バルトが次のようにいうのに、慰めを見いだしているぐらいだ。

「私はいかなるテクストも暗記できません。いうまでもなく、自分自身のテクストさえ、暗記できないのです」。高校時代の朗読の試験がどれほど彼を脅えさせたかを語ったあとで、それでも、そんな自分を修正しみようとはしたのだという。

私は思い出すのですが、ある日、バイヨンヌからの自動車での帰途、私はひとりぼっちだったし、距離もかなり長かったので(私はそっくりそらんじている道路を、十二時間もの時間をかけて走破するのです)、自分自身にこういいきかせました。よし、何かを暗記することで時間をやりすごしてやろう、と。私は、紙切れにラシーヌのある段落を書き写しておきました。フェードルの死の場面だったと思います。こうして、十二時間の間、私はこのフェードルの死を暗記しようと試みました。ところが、うまく行かなかったのです。パリに着いたとき、私は、このフェードルの死をすっかり忘れていました。(「スリジー」)

中原中也の詩は引用しにくいものだ、あまりにも人口に膾炙しすぎているようで。

《誰の影響を受けたのか、(……)心を寄せていた異性の名を口にできないのとおなじように、ほんとうに好きな作家、好きだった詩人の名はぜったいに明かせない》(堀江敏幸『河岸忘日抄』)


…………



一つのメルヘン  中原中也

秋の夜は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があって、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射しているのでありました。

陽といっても、まるで珪石か何かのようで、
非常な個体の粉末のようで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもいるのでした。

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでいてくっきりとした
影を落としているのでした。

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもいなかった川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れているのでありました……

ここには宮澤賢治の影響、殊に「やまなし」の翳をみるひともいるようだ。

さる研究者によれば、母音あ音の多用(79個)による開かれた空間性の感覚、という。


中井久夫には訳詩だけでなく、散文においても、a音の多用や、音韻の極度の工夫をみることができる。たとえば「世界における索引と徴候」『徴候・記憶・外傷』所収)の冒頭。

韻がわかりやすいように敢えて行わけをして引用する。


ふたたび私は
そのかおりのなかにいた。かすかに
腐敗臭のまじる
甘く重たく崩れた香り――、
それと気づけば
にわかにきつい匂いである。


それは、ニセアカシアの花の
ふさのたわわに垂れる
木立からきていた。
雨上りの、まだ足早に走る
黒雲を背に、
樹はふんだんに匂いを
ふりこぼしていた。



Fu音の韻: ふたたび 腐敗臭 ふさ ふりこぼしていた 

a音の韻: 私は かおり なか かすか まじる 甘く 香り 花 たわわ 垂れる 雨上り  …

i音の韻: 気づけば にわかに きつい 匂い ニセアカシア きていた 樹は …

ーーー「かおり」、「かすか」、「香り」のka音の連続があり(漢字とひらがなの「カオリ」の混淆は文字面の美を考慮してのことであろう)、「にわかに」、「きつい」のi音の後に、「香り」ではなく「匂い」があることから、意識的な工夫であることが明らかだ。

まだまだいくらでもある、たとえば、「その」、「それと」 「それは」、に気づくこともできよう。「甘く重たく崩れた」の押韻、「まだ足早に走る」、a音の連続の心地よさ、そこに、足、走る、のshi音が絡むなどなど(i音とすれば「に」であり、足、に、走る、と三つ続くことになる)…

私は匿名で二十代に三冊の本を書いているが、この時の文体は現在でも私の基本文体である、その名残りは、私の文章にアリテレーション(頭韻)が比較的多いことにもあるといえそうである。英語は詩はもちろん、散文にもこれが目立つ。 Free and fairとか、 sane and sober societyというたぐいである。(中井久夫「執筆過程の生理学」)


…………

さて中也に戻れば、小林秀雄が、中原中也の「最も美しい遺品」と書いた「一つのメルヘン」。

吉田秀和が、「ある時刻における小さな宇宙が自分の中にも目覚めてくる」と書いた中也の詩の一つ。こう書く吉田秀和の文は「中也のことを書くのは、もうよさなければ……」(「ユリイカ」1970.9)という表題をもっており、たしかに著名な友人たちが書き過ぎた。


秋の夜であるのに陽が射す、それが珪石の固体の粉末のよう、蝶の去ったあとの水の流れ、「さらさら」の繰り返し…

ひとは《この詩にあるこれだけの不条理を読みながら、殆んど矛盾を感じていない。さらさらということばは、連を改める度に、その意味を変えるが、しかし、ぼくらはそれすら気づかずに美しいひびきとして聞いてしまう》(北川透)


大岡昇平は、文学研究者の解釈に苛立っている。

亡友中原中也の「狂死説」を、私は機会あるごとに、打ち消すのに努めて来たが、荷風先生まで弟子によって脳梅毒にされる世の中では、いつ異論が飛び出すかわからない。いや、そのおそれはかなりあるので、この際はっきりさせておく。

先日NHKテレビの教養番組で中原中也が取り上げられた時、私は友人の資格で出席したが、解説担当の吉田精一氏と彼の死因について、少し話した(番組中ではない、あとの雑談の時である)。

……死の真相となると、事実問題であるから、吉田氏のような文学史家にかかると、噂も隈なく採集されるであろうし、どんな判定を下されるかもはかり難い。

(……)入院の半月ぐらい前から、片足に歩行困難があり、ステッキを突いて歩いていたことには、多くの証言がある。

これらは狂気より脳腫瘍の症状なのである。脳腫瘍というのは、文字通り脳におできができる病気である。原因はいろいろあり、梅毒性のものもあるが、(……)結核種と見てよいのであろう。(……)

小林秀雄や中村光夫は鎌倉にいたから、入院した中原があばれているところを見ている。私が東京から駆けつけた時には、割合に落ち着いていて、ベッドの仰臥していた、青山二郎がそばから、
「大岡だよ。大岡が来たんだよ」
と言うと、首を少しもたげて、
「ああ、ああ、ああ」
とうなずくように言った。「論争の時、もう一丁上の意見を出す前に、相手の意見はすっかり吞み込んだというしるしに見せる表情」と私は以前書いたことがある。

しかしどうも中原は私がわからなかったような気がしている、きいてみたわけじゃないが。

顔をしかめて、少し横を向き、枕の上に首を落した。それは今考えると、「痛い」という表情であった。私を認めることができないのが悲しいのではなく、首をもたげたので、頭が痛くなったのではないかと思う。脳腫瘍はたいていひどい頭痛を伴うものである。

中原はその二日後死んだのだが、私は臨終に立ち会っていない。或いは小林の書いているように、「狂死」という状態だったかも知れない。腫瘍が転移して、譫妄状態のまま死んだとしてもごく自然である、特に脳梅毒を推定する根拠はない。

こんなにくどく書くので、変に思う人もいるかも知れないが、吉田精一氏をはじめ、この頃の国文学史の研究は精緻を極めていて、これくらいくどく書いておかないと、彼らを説得することはできないのである。

(……)
一旦狂気を信じると、下手にこじつけて考えるのが、学者の通弊である。

(……)

教科書的に有名な「一つのメルヘン」だが、テレビ番組で吉田精一氏のつけた解説は、大体次の通りである。

これはたぶん作者が実際経験したところでありまして、陽がまるで水のようにさらさらとさすと錯覚し、いもしない蝶が中原には見えたのであります(彼はその前に、中原は文也の死後、文也を喰い殺した白い蛇が来ると言って、屋根に上ってあばれたおいうようなことを話した。この挿話も、誇張されて吉田氏に届いているので、安原喜弘の証言によれば、その頃の中原には屋根なんかに上る力はなく、座敷の中から蛇が屋根にいると言っただけである)。そして、乾いた川床に、見えもしない水が、流れはじめる、そういう経験をそのまま歌ったところに、この詩のうすきみの悪い実感があります。中原中也というデカダンスの詩人の本領はここにあります」

私は少しむっとして、よほど抗議しようと思ったが、大勢の視聴者の前で、解説担当者に喰ってかかるのもどうかと思い、我慢した。あとで、
「中原が実際そんな経験があったかどうかなんて、あまり重要ではないと思いますがね」
と指摘するに止めておいた、もっともテレビを見てくれた友人の話では、吉田氏が喋っている間、私は実に渋い顔をしていたそうだから、私の気持は案外一般に伝わっているかも知れない。

心理学や精神病理学は最近の流行であるが、作品と病理学的事実は蓋然的関係にあるだけで、厳密な因果関係はないと知らなければならない。

こういう教科書的鑑賞講座を俗耳に入り易く、青少年に文学に興味を持たせる効用はあるが、同時に間違った道へ迷い込ませてもいるので、教育上の問題である。中原の「一つのメルヘン」の詩的価値は全然別の次元に属している。私はむろん彼は幻の蝶なんか見たことはなかったと信じている。(大岡昇平「文士梅毒説批判」「新潮」1961年11月号初出『中原中也』所収 1979 角川文庫)


「ひとつのメルヘン」

を読むと、小林秀雄の次の文をすぐさま想い起こすということはある。

晩春の暮方、二人は石に腰掛け、海棠の散るのを黙って見ていた。花びらは死んだ様な空気の中を、まっ直ぐに間断なく、落ちていた。樹陰の地面は薄桃色にべっとりと染まっていた。あれは散るのじゃない、散らしているのだ、一とひら一とひたらと散らすのに、屹度順序も速度も決めているに違いない、何という注意と努力、私はそんな事を何故だかしきりに考えていた。

驚くべき美術、危険な誘惑だ、俺達にはもう駄目だが、若い男や女は、どんな飛んでもない考えか、愚行を挑発されるだろう。

花びらの運動は果てしなく、見入っていると切りがなく、私は急に嫌な気持ちになって来た。我慢が出来なくなってきた。その時、黙って見ていた中原が、突然「もういいよ、帰ろうよ」と言った。私はハッとして立上がり、動揺する心の中で忙し気に言葉を求めた。

「お前は、相変わらずの千里眼だよ」と私は吐き出す様に応じた。彼は、いつもする道化た様な笑いをしてみせた。(「中原中也の思出」)