このブログを検索

ラベル 武満徹 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 武満徹 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2013年10月2日水曜日

音と沈黙の「地」と「図」

音がきこえはじめたとき音楽がはじまり、
音がきこえなくなったとき音楽がおわるのだろうか。
音楽は目に見えないし、なにも語らないから、
音のはじまりが音楽のはじまりなのか、
音のおわりが音楽のおわりなのか、
音楽のどこにはじまりがあり、おわりがあるのか
さえわからない。

ーー高橋悠治『音楽の反方法論的序説』4 「めぐり」)


たとえば、音が運動によって定義されるとすれば、
音でないものも運動によって定義されるゆえに、
音が内部であり、音でないもの、それを沈黙と呼ぼうか、
それが外部にあるとは言えない。
境界はあっても境界線はなく、
沈黙は音と限りなく接していて、
音が次第に微かになり、消えていくとき、
音がすべりこんでいく沈黙はその音の一部に繰り込まれている。
逆に、音の立ち上がる前の沈黙に聴き入るとき、
ついに立ち上がった音は沈黙の一部をなし、それに含まれている。
運動に内部もなく、外部もなく、
それと同じように運動によって定義されるものは、
内部にもなく、外部にもなく、だが運動とともにある。 だから、
「音楽をつくることは、
音階やリズムのあらかじめ定められた時空間のなかで、
作曲家による設計図を演奏家が音という実体として実現することではない。
流動する心身運動の連続が、音とともに時空間をつくりだす。だが音は、
運動の残像、動きが停止すれば跡形もない幻、夢、陽炎のようなものにすぎない。
微かでかぎりなく遠く、この瞬間だけでふたたび逢うこともできないゆえに、
それはうつくしい」

ーー同16 「音の輪が回る」

高橋悠治が沈黙について語るとき、
きっと武満徹の言葉を思い出しているに違いない

私はまず音を構築するという観念を捨てたい。私たちの生きている世界には沈黙と無限の音がある。私は自分の手でその音を刻んで苦しい一つの音を得たいと思う。そして、それは沈黙と測りあえるほどに強いものでなければならない。(武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』)
私が理想とする音楽の聴かれかたは、私の音が鳴って、そのこだまする音が私にかえってくる時に、私はそこに居ない――そういう状態(同上)

もっとも
武満徹のことばはそのまま信じるには美しすぎる
との疑いを持ちながら

武満自身がことばのひとだった。スケッチブックにさまざまなことばを集めながら作品の構想を得ただけでなく、自分の音楽についてもたくさんのことばを残したために、武満を論じた他人の文章のほとんどは、それらのことばを論じているか、それらを通してかれの音楽を聴いたつもりになっている。

かれが自分の体験について語ったことばも、たいへん魅力的だが、真実であるにはあまりにうつくしい。かれが自分と自分の作品のまわりに織り上げた伝説にとらわれずに、このひとを語るためのことばは、まだ存在しない。もし、かれの音楽がこれからも忘れられずにいれば、ことばに覆われているかれの生と音楽を解き放つ考証も、いつかは可能になるだろうか。(武満徹の「うた」 高橋悠治

沈黙に耳をすます武満徹はアレグロを書けなかった

「二つの作品」、と言っても3曲の未定稿があり、いたるところで音を訂正しかけたまま放棄されている。アレグロの音楽を書こうとして苦しんでいたらしい。始め と終わりのある「音楽」らしい音楽を書こうとして、始めることはできても、終わりにたどりつけなかったのかもしれない。

「二つの小 品」、またアレグロ。すぐ終わってしまう。やはり、一つのはじまりだけでアレグロを書くことはできない。アレグロとは速度ではなく、擬似的二元性だから、 元気よく走り出すためには、元気なく取り残されるものを必要とする。これをソナタ形式と呼んでもいいが、それこそ近代的父権主義の音楽でなくてなんだろ う。武満は、幸か不幸か、アレグロを書くことができなかった。

それにつづくのは、のちに「二つのレント」の第1曲になるものの発 端。これは何回と無く書きなおされて、完成された版は、批評家の山根銀二に「音楽以前だ」と言われたほど、このフレーズのまわりをひたすらめぐる。対立を もたないことは、構成をもたないことではないが、ドイツ的音楽観は対立と闘争を絶対視する。

レントは、武満の身体が受け入れることのできた音楽の時間だった。ピアノで一つ一つの和音の響をたしかめる作曲家の身体。さまよう手がさぐりだ した響の余韻に立ち止まりながら、時には激しくぶつかる音程を打ち込んでみる。(同上)


音と沈黙は、どちらが地で図なのだろう
これが高橋悠治の問い(のひとつ)だ

そして《答がある問いは ほんとうの問いではない》

質問してはいけない
  なぜなら と師は言われないが
            わからない者がする質問は
           その水準での誤解にもとづいている
 それに応えれば その水準から出られなくなる
     そしてわかれば 質問してもむだだとわかる
 質問はなくなっても 問いはのこる
        あるいは答のない問いだけが生きつづける

ーー3月の練習  高橋悠治

《沈黙は音と限りなく接していて、 音が次第に微かになり、消えていくとき、 音がすべりこんでいく沈黙はその音の一部に繰り込まれている。 逆に、音の立ち上がる前の沈黙に聴き入るとき、 ついに立ち上がった音は沈黙の一部をなし、それに含まれている。》

ーーこの問い

だがそこに中井久夫の「記号」、「徴候」、「余韻」の問い
と近似したものをわたくしは読んでみたい誘惑に駆られる

「この世界が、はたして記号によって尽くされるのか。なぜなら、記号は存在するものの間で喚起され照合され関係づけられるものだからだ。」「世界は記号からなる」という命題にふと疑問を抱いた。

「いまだあらざるものとすでにないもの、予感と余韻と現在あるもの―――現前とこれを呼ぶとして―――そのあいだに記号論的関係はあるのであろうか。」「嘱目の世界に成立している記号論と、かりに徴候と予感や過去のインデクス(索引)と余韻を含む記号論があるとして、それを同じ一つのものというのは、概念の過剰包括ではないか。そのような記号論をほんとうに整合的意味のある内容を以って構成しうるのか。ひょっとすると、スローガン以上にでないのではないか。」

「ではどういうものがありうるのか。」「世界は記号によって織りなされているばかりではない。世界は私にとって徴候の明滅するとことでもある。それはいまだないものを予告している世界であるが、眼前に明白に存在するものはほとんど問題にならない世界である。これをプレ世界というならば、ここにおいては、もっともとおく、もっともかすかなもの、存在の地平線に明滅しているものほど、重大な価値と意味とを有するものではないだろうか。それは遠景が明るく手もとの暗い月明下の世界である。」(中井久夫「世界における索引と徴候」)

だが高橋悠治の問いからは
安易に記号を音とすることさえできない
ましてや徴候と余韻を沈黙とするなど
あまりに単純な頭脳のなせる技
だろうか?


《予感というものは、……
まさに何かはわからないが何かが確実に存在しようとして
息をひそめているという感覚である。
むつかしいことではない。
夏のはげしい驟雨の予感のたちこめるひとときを想像していただきたい。
(……)

余韻とはたしかに存在してものあるいは状態の残響、
残り香にたとえられるが、存在したものが何かが問題ではない。
驟雨が過ぎ去った直後の爽やかさと
安堵と去った烈しさを惜しむいくばくかの思いとである。》(中井久夫「世界における索引と徴候」)

音楽を聴くとき徴候と余韻を楽しむ
ということはたしかにある
それがもっとも貴重なもの
だと錯覚に閉じこもることがある

あるいは、ロラン・バルトのいう「ゆらめく閃光」

その効果は切れ味がよいのだが、しかしそれが達しているのは、私の心の漠とした地帯である。それは鋭いが覆い隠され、沈黙のなかで叫んでいる。奇妙に矛盾した言い方だが、それはゆらめく閃光なのである。(『明るい部屋』)

ただし、こう語られるのは、いわゆる「写真論」のなかである


ところでジジェクによれば
ラカンは、沈黙は「図」で
音は「地」である、と語っているらしい

"Why do we listen to music?": in order to avoid the horror of the encounter of the voice qua object. What Rilke said for beauty goes also for music: it is a lure, a screen, the last curtain, which protects us from directly confronting the horror of the (vocal) object. When the intricate musical tapestry disintegrates or collapses into a pure unarticulated scream, we approach voice qua object. In this precise sense, as Lacan points out, voice and silence relate as figure and ground: silence is not (as one would be prone to think) the ground against which the figure of a voice emerges; quite the contrary, the reverberating sound itself provides the ground that renders visible the figure of silence.

ーーSlavoj zizek, "I Hear You with My Eyes"; or, The Invisible Master

もっともこれはジジェクの「自由間接話法」であり
ラカンがどこで語っているのかは探しだせないでいる

地と図についてはいろいろ語られてきた

「地」と「図」が基礎的であるとしても、それらが相互に反転してしまうことを禁止できないところにある。最も基礎的な与件である「一つの地の上の一つの図」ということの決定不可能性が疑われないのは、現象学的方法の限界である。(柄谷行人『隠喩としての建築』)




ジジェク=ラカンの主張も、
わたくしたちの「常識」を覆すものとしてのみ捉えるべきで
つねに「地」と「図」は相互に反転する
ウィトゲンシュタイン「うさぎ─あひる図」の話を想起してもよい

ウィトゲンシュタインは言う。私たちはこの図を、うさぎの頭としても、あひるの頭としても見ることができる。つまりこの絵は、二つの(そしてそれ以上の)異なる「アスペクト」で見られうる。しかし私たちは、いま自分にその図がどのように見えているかを、その図を描いたり、模写したりすることによっては示しえない。(平倉圭「バカボンのパパたち」

音楽においてもっとも美しいものは沈黙である、とアンドラーフ・シフはいう
すぐれた音楽教育の場でしばしば言われてきたように
「間」を聴くこと、「沈黙」を図とすること?





ここではあえて「間」と「徴候」「余韻」の作家
ヴェーベルンについては触れない
とくに何度か引き合いに出した初期のOP.5については

だれかが、吉田秀和やブーレーズが、似たようなことを語ったから
《それらを通してかれの音楽を聴いたつもりになっている》のかもしれない
ウェーベルンはOP.5を後年オーケストラ用に編曲しているが
わたくしにはその長びく余韻、切れ味のなさにほとんど耐えられない
指揮者、演奏にもよるのだろうが、耳をすます態勢が殺がれてしまう


齢を重ねるにしたがって
大きな音に耐えられなくなり
アンダンテやアダージョ、レントの曲を
好んで聴くようになっている


もっともあるいは爆音かつアレグロの曲を聴いても
ホワイト・ノイズを聴く瞬間がひとにはあるだろう

60年代のミニマル・ミュージックは、
西洋楽器や民俗楽器で単純な音形を反復し、
それらの重ね合わせがモワレ効果で
意識をトリップに誘い込むといった
「知覚の現象学」を追求したが、
テクノミニマル・ミュージックは、
正弦波や白色雑音[ホワイト・ノイズ]といった
もっと基本的な要素を反復し、
正弦波同士が相殺しあって無音に聴こえるといった
「知覚の機械学」を追求する。
それは20世紀音楽が最後に到達した文字通りの零度なのだ。》(浅田彰

《砂や頁岩を洗い、
流木や防波堤に砕ける水の無限の変奏を捉えるためには、
思考速度を落とさなければならない。
それぞれのしずくはどれも違った音高で響き、
尽きることなく供給されるホワイトノイズに、
波がそれぞれ異なったフィルターをかける。
断続的な音もあれば、連続的な音もある。
海では、両者が原始の調和の中に融和している。》
マリー・シェーファー:作曲家、サウンドスケープの創始者、鳥越けい子他訳)


 

……たとえば、幻聴であるが、まず、幻聴はふしぎなものであるといっても、人間の神経系には幻聴を起こす能力が備わっている。たとえば、ほぼ一定の間隔で同じ音をボツボツボツと聞かせると、ただの音に聞えては次には言葉に聞こえ、またただの音に聞こえるということを繰り返す。また、外からの音がなくても、頭の中には血の流れる音が本来はやかましく聞こえているのを、フィルターをかけて消しているので、非常に静かな環境ではこの音が聞こえる。年をとってフィルターの力が弱まると、これはドクドクという耳鳴りとして聞こえるようになる。それが時々声になることは多くの老人が経験している。

しかし、こういう幻聴は「大丈夫ですよ」でお終いになる。幻聴が恐怖や不安を生むのは、それが不思議だからだけではない。何に対する警戒かわからないでしかも警戒心が高まっている状態が土台になっているからである。そういう時はすべての感覚が鋭敏になっているので、舌の先に赤いブツブツが見えたりする。これは味覚が鋭敏になっているのである。しかし、特に聴覚が敏感になるのは、聴覚が元来ウサギのように警戒のための感覚だからである。そうすると低い完全雑音(ホワイトノイズ)を拾って言葉として聞いてしまうのは、上に述べた幻聴を起こす能力による。実際、無意味な音を無意味なまま聞き流すほうが脳には無理なのである。深夜の静かさを無数の音がひしめいているように聞いてしまう、アレである。この場合、頭の中なのか頭の外なのか、区別がそもそもつかない。人間の精神は起こる感覚が内のものか外のものかを区別するようにしているが、いつも間違わないとは限らない。特に完全雑音の場合は内外の区別が難しい。それがどういう言葉になるかは、多分、その時に考えるともなく考えていた事柄と関係があるのだろう。深刻な幻聴もそうでない幻聴もあり、暗い内容もあるが明るい内容もあるのはそのためであろう。(中井久夫「症状というもの」『アリアドネからの糸』所収)


シューマンの幻肢としての音もある

《人間の足 でも手でもいんですけど、
事故や戦闘などで切断したあとで、
幻肢痛というのがあって、(……)幻肢痛というのは、
存在しない身体器官の先端が痛 んだり疼いたりするという感覚のことで、
ベトナム戦争の戦闘で身体器官を失った人が、
もう無いはずの左足の先端が痛いといったようなことがよく書かれていました。
これは、つまり人間の身体が外形的な物理的存在として、
自分の頭脳なり感覚のなかで統合されている、
という考え自体が実は幻想に過ぎないのかもしれない、
ということを考えさせます。
身体とは、存在しない自分の肉体をも
同時に引きずっているようななにかだ、ということ》



痛みはつねに内部を語る。しかしながら、あたかも痛みは手の届かないところにあり、感じえないというかのようである。身の回りの動物のように、てなづけて可愛がることができるのは苦しみだけだ。おそらく痛みはただ次のこと、つまり遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもないだろう。

この遠くのもの、シューマンはそれを「幻影音」と呼んでいた。ちょうど切断された身体の一部がなくなってしまったはずなのに現実の痛みの原因となる場合に「幻影肢」という表現が用いられるのに似ている。もはや存在しないはずのものがもたらす疼痛である。切断された部分は、苦しむ者から離れて遠くには行けないのだ。

音楽はこれと同じだ。内側に無限があり、核の部分に外側がある。

ーーミシェル・シュネデール『シューマン 黄昏のアリア』(千葉文夫 訳) 


シューマン研究者でもあるチェリスト
スティーヴン・イッサーリスのバッハ・サラバンド





数々の名演はある
ロストロポーヴィチ
など

わたくしは少年時代、最初にフルニエで聴いたのだが
このサラバンドに関してはもう聴くことは難しい

ロシア人たちの演奏は素晴らしいが
響かせすぎるところがあると最近は感じる

ヨーヨーマは練習風景の映像で
より優れたものがあったはずだが
いまは探しだせないでいる


岡崎氏は言う。《だからぼくの立場はやはり形式主義ということになります。そんな得体の知れないものが対象としてあるように見えて、実際は掴むこともできないのはわかっている。よってそれを捉まえるよりも、具体的に手にすることのできる道具や手段でそれ---その現象を産みだすにはどうすればよいのか、そういうレヴェルでしか技術は展開しない。》

これは決して「得体の知れないもの」を軽視しているのではなく、逆に得体の知れないものの「得体の知れなさ」を熟知しているからこその態度なのだ。「得体の知れないもの」の「得体の知れなさ」を固定化してそれにに溺れてしまうことは、その「得体の知れないもの」に触れている時の「経験」の本質を取り逃がしてしまうことでしかないのだ。《だからイメージに取り憑かれて、つまりそう見えてから分析をはじめていてはすでに手後れであると僕は思います。いわば、そう見えなかったものが、そう見えるようになったこの転換こそを、記憶術たらしめるいわば想起の問題として捉まえなければならないと思うのです。》(岡崎乾二郎に関するテキスト 古谷利裕


上で問われた得体の知れないものは、もちろん「沈黙」である



そして厄介なのは「得体のしれないもの」生み出す技術を獲得したにしろ
受け手がそれを感じとる耳をもっているかどうかはまったく別の問題であり
人びとは驚くほど馬鹿になっています」の時代ならば
そんな「得体のしれないもの」はうっちゃって
次のように叫びたいヤツがほとんどだということだ

聴衆は言う。「何という個性、何という大胆さ、何という芸術家、何というピアニストなんだろう!」。ソナタの演奏がへたくそなことは言わずもがなだが、誰もそんなことは気にもしない。そもそも、ほとんど曲を聴いてはいないのだ。(アファナシエフーー青空のさなかで耐えること

もちろん以前もそうだったのだろう
だが現在はいっそうじっくり聴くことが少なくなって、
「名前」でのみ語るようになってきているはずだ

いわゆる文化の大衆化現象は、たんなる量的な変化をいうのではなく、芸術的な記号の流通形態の変化なのである。(……)そのとき流通するのは、記号そのものではなく、記号の記号でしかない。(……)読まれる以前にすでに記号の記号として交換されているのである。(大衆が芸術作品を讃美するのは)みずからも、記号の記号としての固有名詞の流通に加担したいという意志にほかならない。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

オレもひとのことは言えないが叫ばないようにだけはしているつもりだ

彼らは、芸術作品に関することになると、真の芸術家以上に高揚する、というのも、彼らにとって、その高揚は、深い究明へのつらい労苦を対象とする高揚ではなく、外部にひろがり、彼らの会話に熱をあたえ、彼らの顔面を紅潮させるものだからである。そんな彼らは、自分たちが愛する作品の演奏がおわると、「ブラヴォー、ブラヴォー」と声をつぶすほどわめきながら、一役はたしたような気になる。しかしそれらの意志表示も、彼らの愛の本性をあきらかにすることを彼らにせまるものではない、彼らは自分たちの愛の本性を知らない。しかしながら、その愛、正しく役立つルートを通りえなかったその愛は、彼らのもっとも平静な会話にさえも逆流して、話が芸術のことになると、彼らに大げさなジェスチュアをさせ、しかめ顔をさせ、かぶりをふらせるのだ。(プルースト「見出された時」)

…………


《ソレルスによれば、何年か前あるフランスの若者のグループが、わざとランボーの「イリュミナシオン」をコンピュータで打ち直し平凡な作者名をつけてフランスの幾つかの主要な出版社に原稿を送りつけたらしい。新人の詩人が出版の是非を打診したみたいに。結果は予想どおりすぐに出た。全員が「拒否」!》(鈴木創士)





2013年9月26日木曜日

ピアノを弾くこと

長生きしたカザルスは、最晩年、次のように語ったそうだ。《これまでの 80年間、私は毎日毎日、その日を、同じように始めてきた。ピアノで、バッハの平均律から、プレリュードとフーガを、 2曲ずつ弾く。》

ーーまねしてみたこともあったが、オレには続かないな





カザルスと同じくカタルーニャ生まれのモンポウの「沈黙の音楽」第一曲。

◆高橋悠治のもの




◆モンポウ自身のもの




ーーオレがやってみると、次のフレーズに入るのが、速くなりすぎたり、待ちすぎて曲の流れが途絶えてしまったり、あるいはフレーズの最初の音に力が入ってしまうだよな。YouTubeに他の演奏家のものもあるが、専門家でも下手くそなやつのを聴くと安心するよ 響きに耳をすます才能がないぜ おまえら


どこを押しても 決った音だけなら

慣れた平均律の耳は 

共鳴のちがいをききとれないか

どこを押しても 揃った響が返るだけなら


鍵盤に固定された音階は

音の抑揚ではなく

ない色を一つだけのねいろに映し

不揃いな指 抑えたひびき

ずらしたリズム 崩した和音

すれあう余韻 逸れるふしまわし

かすめ取るふち 息づく空間


弱さに引き込まれ

揺れうごく余地を残した


窪みの陰 翳る



ーーピアノという  高橋悠治




この曲を作ったころ、武満はメシアンの楽譜をみたり、あるいはシェーンベルクやヴェーベルンの曲を学んだそうだ。響きはメシアンであり、音型は、ヴェーベルンの後期の作品(OP.27だったか?)を思い出させないでもない。

…………


昨年はブゾーニとモンポウを録音し

今年はアキといっしょに石田秀実のピアノ曲集を録音した

ブゾーニは夢のように変わりつづける音の流れに

モンポウは遠いざわめきのこだまに

石田は山水画のなかの空間に歩み去る後ろ姿に惹かれて

(……)

休止符と小節線を書かない楽譜にしてみる

拍を数えない 同期しない

それぞれの音が それぞれの時間で明滅する空間

断片を入れ替えて 流れを断ち切る

音をはずして つながりにくくする


書きながら時間をかけてためしているやりかたを

身体に染み付けて 演奏を解体していく

自然にうごいてしまうことから距離をとる

わずかな変化に注意を向けると ありきたりのうごきはしずまる

ほどけ ばらばらになっていく

こんなことで いいのだろうか


くりかえすたびに変化する

二度とおなじうごきはなく

はじまりの地点からはなれて 二度ともどることはない



ーー冷えとひらき  高橋悠治

高橋悠治が(……)体制に迎合するのでもなければ、反体制運動の前衛としてそれと真っ向からぶつかるのでもない、別な形のコミュニケーションの技法を模索している姿は、われわれにとってもきわめて示唆的だ。前衛音楽が退潮し、ありとあらゆる音楽を並列したマーケットがインターネットに乗って世界を覆ったかに見えるいま、そこに回収されない「別な音楽」は、そのような技法によって辛うじて生き延びていくのかもしれない。(浅田彰「高橋悠治 with 波多野睦美」
かつて触れた2011年の神戸でのコンサートを思い出せば、このディスクのようなレパートリーなら高橋悠治(ケージの傑作「プリペアード・ピアノのためのソナタとインタールード」は今もって彼の録音がベストだろう)と波多野睦美でずっといい録音ができるはずだ。日本にそういうことのやれるプロデューサーはもういないのだろうか…。(同「ラーンキ夫妻のドビュッシー」)

高橋悠治の水牛のエッセイを、日記のようにして読んでいくと(まずは2004年から一年ごとに2013年のものまでPDFファイルにしてiPadの画面で線を引きながら読んだのだが、そこから今度は逆に、逆行して2003→2000という読み方をした)、2008年前後に高橋悠治は変わったのではないか、と感じる。批判の舌峰鋭さが消えてゆき、模索の態度が前面に出るようになっている。2008年といえば、1938年生まれの高橋悠治は70歳。もっとも、その切りのいい年齢はとくには関係ないのかもしれないし、変わったというのも錯覚かもしれない。






《2012 年はケージ生誕 100 年で、ヨーロッパやアメ リカでは多くの記念行事がある。最近の作曲家は自 分の作品より長く生きて、晩年は忘 れられ、有名なだけで作品は演奏されないこともある。ストラヴィンスキーは最晩年にニ ューヨークのホテルで暮ら していた。入院したが酸素テントの下でロシア語しか話さず、 聞き取れるのはヴェラ夫人とバランシンだけだったと言われる。亡くなって1年間はすべ ての作品が演奏された。次の年には『春の祭典』と『兵士の物語』だけになった。武満の 最後 10 年間は、日本では演奏されなくなり、委嘱はアメリカ とヨーロッパだけだった。 亡くなって1年間はあらゆる作品が演奏され、それ以後は他の現代作品を演奏しないで済 むために、ポップソングばかりが演 奏されるようになった。クセナキスの最晩年もフランスでは演奏されず、委嘱はドイツとイギリスから来た。音楽は商品で、作曲家の名前は ブランドに なったようだ。音楽への興味や発見のためではなく、業界のアリバイのために使われるのだろうか。

ケージやクセナキスはいまでは研究者たちに解剖される死んだ音楽標本になっていく。で きあがった作品の細部まで分析しても、残された繭の構造のみ ごとさからは、飛び去っ た蝶の姿は見えないだろう。短い 20 世紀と言われる。1914 年までは 19 世紀ヨーロッパ の長い終わりだった。その後は戦 争と革命の時代で、伝統は破壊され、新しさを求めた 試行錯誤が続いたが、1920 年代の終わりから、実験の行き詰まりから引き返し、機械文 明への 素朴な信仰をもったままで「バッハ」や「原典に帰る」新しい権威主義が支配し、 1960 年代の終わりには失速したが、まったく崩壊するまでには 1990 年を待たなければな らなかった。その後の、先の見えない賭博経済と民族紛争しかないこんな時代の音楽の現 実からは、固定したカテゴリーや システムや方法を論じたり、すぎてしまった新しさに 価値や展望を求める態度には、縁遠いものを感じる。過去は技術だけではないだろう。規 則や定義 や理論としてはっきり限定されないままに、世代を越えて受け継がれる文化伝 統、音楽的身体や感情は、歴史の可能性とも言えるし、音楽的ふるまいの 環境でもあり、 呼吸する空気でもあるだろう。》(だれ、どこ     高橋悠治


ピアノを弾くこと  高橋悠治

ピアノは生活の手段だった。オペラの練習や歌の伴奏から、前衛音楽の演奏家になり、そこにバッハのようなクラシックのレパートリーを入れてきたので、ピアニストとしての教育は受けなかった。家が貧しかったのでピアニストとしての教育を継続して受けることはできなかったこともある。19世紀的な名人芸はできもしないし、やる気もなかった。1950年代の前衛音楽では点としての音のタイミングと強度を指定された通りに区別するのがすべ てだったのか。それに対してオペラ的なものは身振りとしてのパターンを過剰に提示すればよかったのか。必要な身体技術を身につけるだけでピアノを弾くことはできる。作曲家だから作品を分析することができて、その知識の上で演奏を構成していると思われているかもしれないが、演奏している時に考えることは妨げにしかならない。同じメロディーが再現するからと言って同じ演奏はできないどころか、時間が経てば同じ音符もちがう響きがするのでなければ、演奏する意味がない。

書かれた音符のちがいをはっきり聞かせるだけの楽譜に忠実な演奏は、1930年代から数十年続いた演奏スタイルにすぎなかった。そうだからと言っ てそれ以前の個性的な表現や技術や感情に支配された演奏スタイルに帰るわけではない。

ピアニストとみなされると、人が聞きたがるものを弾くことになる。バッハを弾いているとそればかり求められるが、日本では数十年前のグレン・グー ルドの代用品にすぎないから、弾くだけむだと最近は思うようになった。19世紀音楽はだれでも弾くから競争になるだけだし、音楽がもう死んでいて、経済的価値しか残っていない

20世紀の構成主義や技術主義的な音楽観はバッハやベートーヴェンからシェーンベルクまでのエリートのものだった。音楽が制度であるかぎり、作曲 や作品の権威はなくならないのかもしれない。でも、何を弾くかが問題であるうちは、音楽の歴史は作曲家の歴史で、楽譜に書けるようなピッチや時間 の長さといった数量が中心である音楽は、市場経済の一部になっていくのだろう。

ピアノを弾くのがいやだった時期が長かった。シンセサイザーやコンピュータ、アジアの伝統楽器に惹かれていたこともあった。電子音には自発的変化がない、擬似ランダムな操作で変化を加えてもそれはほんとうの偶然ではなく、発見がない。伝統楽器は伝統のなかに入らなければ何もできない。残っ たのはピアノだけだった。この19世紀の音楽機械、力と速度と量を操作する技術の楽器を異化することができないだろうか。

ちがう原理による音楽を作ることはできる。だが、「何」の限界にとらわれないためには、「どのように」からはじめるのがよいかもしれない。

音楽は音が聞こえるという「聞こえ」がすべてだ。聞こえるものの背後に音楽の本質があるというベートーヴェン的思い込みは耳の現実ではないように 思える。音は聞こえたときは消えていて。音の記憶にすぎない。『印象がすでに表現だ(馬にとってのように)』(クラリセ・リスペクトール)。『見 えること、それこそあることかもしれない、そのように、太陽は見えているなにか、そのものである』(ウォレス・スティーヴンス)。楽譜の上で左と 右に見える模様は、右から左へ見ていくことはない。時間を横軸とし音の高さを縦軸とする格子のなかの模様を耳は聞いていない。音はすぎていき、次 の音は前の音とはちがって聞こえるのを時間と呼ぶなら、時間は規則的に区切られた線のように連続してはいないだろう。記憶される音楽は録音された音楽とはちがう。

ピアノを弾くときは低く座る。ほとんどのピアニストは鍵盤を見下ろす位置に高く座り、背を前に倒しているが、これでは背だけでなく肩や腕にむだな力がかかるし、タッチが浅くなるような気がする。キーを見ながら弾くと、手や指の位置に関する固有感覚がにぶくなる。ピアノを弾いて疲れるのはま ともではない。弾けば弾くほど身体から余分な力がぬけてらくになるはずなのに。と言っても身体は静止してはいない。静止させた身体から手や指だけを動かすのは部分的な運動でストレスが大きくなる。じっさいには、身体が静止しているときはない。いつもうごいているからうごかすこともできる。 全身がいつも円を描くように運動しているから、それにのせて力を分散させれば、わずかな動きだけで大きな変化を作ることができる。聴覚神経も固有振動があるから音がきこえるのと似ている。

メロディーはさまざまな粒子の相互干渉の流れを無視して、音楽を一本の連続線に均す。近代和声は連続を求心性の周期に翻訳していた。ところが演奏 はメロディーを音色の時差のグループに断片化し、和声を点滅する響きの距離空間に解体する。音色、音質、リズムの揺らぎは楽譜に書くことはむつか しいし、あらかじめ決めることができないから、指定することには意味がない。廃墟に残された道標のように何ものも指していない無意味な指定は、無 視することができるばかりか、構造主義的な音楽観に特徴的な二項対立のように、取り除くことによって音楽は解放されるだろう。同時性、周期性は見 かけの要約だから、乾物をもどすように指のうごきがこわばりを取り除いてしなやかさをとりもどす誘い水になる。ピアノの均質な音色は、強弱の差異 を小さくしながらタイミングをすこしずらすことによって翳りを帯びる

ここに書いていることには個人的な好みもあるが、時代のスタイルの現われでもある。その有効性ははじめから限られている。表現や構成や綜合をめざ してはいないし、それらからはむしろ解放された方向にひらいたものでありたいとは思うが、じっさいそうなっているかどうかはわからない。こうあり たいと努力するようなことではなく、努力やよけいな緊張のない、なにかちがうものであろうとするストレスのない、うごいている身体がそれ自体とそ れを撹乱する外側の両方に注意を向けている夢の持続のようなありかた。それはことばの本来の意味で練習とも言えるが、楽器の練習と言うときによく ある反復ではなく、いつもちがうやりかたの実験でありつづけるという意味の練習と言ってもよいだろう。

ピアノ練習には音はあまり必要ない。聞くことに連動する身体のうごきを意識すればよいのだから。次の音の位置にあらかじめ手があるように、見ないでその位置を感じ、それからそれを音にする、そしてそこから離れる、それをグループごとに沈黙で区切りながらためしてみる、それだけのこと。音はすでに記憶だから、音のイメージはあり、じっさいの音にすこしさきだってあり、音をみちびいていく。知覚は感覚に約半秒遅れて起こるといわれる が、イメージは音を作る身体運動の半秒先を行くように思われる。それが楽譜を読む眼のうごきでもあり、初見の方法でもある。

音のイメージとじっさいの音との落差あるいは乖離は知覚の時差がある限りなくならない。音には思い通りに操作できない部分が残る。それは偶然でも あり時間を遡って修正することはできないから、それに応じて次の音のイメージが修正され、さらなる乖離が続く。完全な方法はありえない。演奏は不 安定なもので、いままで書いたこともガイドラインにすぎないし、それだって保証されたものではない。

それなのに、確信をもっていつも同じ演奏をくりかえす演奏家がいる。この確信は現実の音を聞くことを妨げる障害になるのではないかと思うが、感性のにぶさと同時に芸の傲慢さをしめしているのだろう。演奏が商品でありスポーツ化している時代には、演奏家の生命は短い。市場に使い捨てられない ためには、いつも成長や拡大を求められているストレスがあるのかもしれない。

…………

最後に、ちょっとした長男の悪戯(オレに誰の演奏か当てろ、という)。三人の演奏家によるショパンの最後のマズルカ。演奏家不記載だが、最初のポーランドの女流演奏家は、「あなたたち、マズルカは、あたしの国の民族舞踊なのよ、そんなに気取って演奏しないで!」と語っているかのようだ。とはいっても、19世紀、ポーランド貴族(シュラフタ)のあいだで流行した踊りらしい。だが、シュラフタの数は西欧の貴族と比較すると多いため、時に日本の武士との対比で「士族」と訳されることもあるそうだ。













2013年9月25日水曜日

音楽と「ま」ヌケな若い精神科医

・木村敏がよく言う「合奏しているときに、自分と他人はともに〈あいだ〉としか呼びようのないものになっていて、そこに自他の区別はない」みたいな話、ものすごくヘタクソなミュージシャンな感じがするのだが、これは私だけだろうか?

・例えばギタリストの場合、ほんとに上手い人は、弾いてからシールドを介してアンプから空気振動に至るまでの数〜数十msの遅れを意識してものすごく自己反省的に弾いているという人にしか出会ったことがないし、その遅れに対する反省性がないアンサンブルとかクソとしか思えないのだが。

・これは別に音楽の話にかぎるわけではなく、木村敏的な生命論に対するラカン的な対立軸(すなわち、言語の壁は不可避でありそれを無視してはいけない)という話とパラレル。

などと相対的には聡明な若い精神科医が、インテリのパチンコをしているのを見てしまったな

パチンコもときにはよい。中井久夫はこう書いている。

ある程度本格的な企画の場合に、初期高揚だけで完成することは決してと言ってよいほどない。しかし、この時期に「パレット」をできるだけ充実させておくことがずっと後で生きてくる。「パレット」の充実には、聞き手がいるとずっと楽である。独りでは限界がある。ここにも一つ、編集者の「治療」の有用性がある。

これは、「自由連想」をさせて、「抵抗」を破って、「徹底操作」をして「洞察」に到達せしめる精神分析治療に似た過程であると私は思う。「自由連想」とは編集者との駄べりである。

「自由連想」は、主題やキーワードの持つ意外な側面を明らかにし、新しい可能性を開く。著作というものは、発端に立った時に終点まで見通せる直線道路のようなものではない。そういうものであれば、おおよそ詰まらないものだろう、予期外の転回に引かれて読者は読み進むものである。「自由連想」によってこれから書く領域の思わぬ複雑なひだひだが見えてくれば成功である。

「抵抗」にはいろいろある。怖い批評家の言葉の先取りもある。従来の自説が足を引っ張ることもある。ある箇所がとうてい越せない難所に見えることもある。ある部分についての知識が絶望的に欠如していると思うこともある。これらは、みな「抵抗」である。しかし、対話のうちに、難所もさしたるものでないようにみえてくる。ある部分は回避してもよいことがわかる。あるいは違った接近法がよいと知れる。このように「抵抗」を言語化し吟味することが「徹底操作」である。そうすると、この課題でこのようなものなら著者にもできるという、「現実原則」に則った「洞察」が生まれる。この手続きなしで、編集者が「ま、よろしくお願いします」で引き下るとロクなものができない。

編集者は地方にはいないが、その代わり、さいわい、私は大学教師で、周囲に若い人がいる立場にあるので彼らを大いに利用させてもらっている。私のほうが聞き役になることもむろんある。(中井久夫「執筆過程の生理学」)

いまでは、そんな律儀な編集者やリアルな仲間のたぐいは稀にしか存在しないのだろうから、SNS上で「自由連想」の聞き役を求めたらいいのであろう。ただ「パチンコ」の玉を真に受ける相対的には聡明さの劣るひとたちがいるのであって、冒頭のツイートの「<あいだ>抜け」の思考、「あいだ」、つまり「ま」なのだから、ここでは「まヌケ」と呼ばせてもらうが、それを短絡的にマに受けたらまずいだろう。


高橋悠治の音楽をめぐる掠れ書きは、その多くが「身体」論であり、その多くは「あいだ」論であるとしてもよいのではないか。


音楽は「あいだ」のものだから 地図のない道 全体のない部分 座をつなぎ 場をつくるもの 即興とその記録のあいだで どっちつかずにゆれている(高橋悠治「冬のなかで2009年」)
聞こえる音のなかから、いくつかの音のかたちをききとる。それらの音を指先でなぞりな がら、音のうごきを身体運動と内部感覚に移し替える。そのよ うな経験からはじめて、 そこからちがう軌道に踏み出してみる。停まりそうになったら、どこかにもどってやりな おす。このプロセスは即興でもあり、 作曲でもある。即興はその場の聴き手の共感が感 じられるあいだはつづく。聴いているひとたちの自発性が、じっさいはその即興に干渉し、 その道筋を つけている。失速しないうちに、完結しないように、音を中断して、想像力だけがまだしばらくはうごきつづけて、どこともなく消えていくように誘う のはむつか しい。

作曲は、計画された即興とも言える。楽譜に書かれた音のかたちは、一定の意味や情報と 言うよりは、さまざまに見えるインクのしみのようだ。演奏は 一つの見かたにはちがい ないが、それがまたさまざまな聞こえかたや聴きかたにひらかれている。聴き手の主体性 をスペクタクルで惑わしたり、反復パ ターンで麻痺させれば、演奏は支配の道具になっ てしまう。聴くよりどころになる回帰するパターンは、筋感覚的運動イメージと同時に起 こる。それは 個人の内側のもの、一人称的表象と言われているらしいが、むしろ無人称 の視覚像にならない感覚ではないだろうか。回帰はただの反復ではなく、もと もと隠れ ていた逸脱の芽、わずかな歪みが、回帰のたびにちがう回路をひらくように仕組まれてい る、それはベンヤミンが書いていたカーペットの模様 のほころび、あるいは ラドクリフ =ブラウンの注目した籠の編み残した目、「魂の出入り口」。(掠れ書き
演奏によって死んだかたちをふたたび生かすのは、まだやさしい。再現や解釈ではなく、 と言って、まったくの即興でもなく、反復でもなく、循環しな がら即興的に変化し、伝 承されたかたちを崩しながら、卵の殻からちがう運動を呼び覚ます、そんな演奏のありか たを思い描くことはできなくはない。 響きが消えるまでの短い時間のなかに生きる音楽 にとっては、演奏こそが本来のありかたで、作曲は補足的なもの、演奏への指示と結果の 記録が、その 分を越えて、それだけが創造であるようにふるまっているのだとも言える。

音楽の変化が現場からはじまるとすれば、それは歴史的身体の必要に応じて変化するだろ うし、指示や記録方法の不適切は、後になって気づくこと、つ まり作曲法の変化は、演 奏の場の変化にいつも遅れて起こることになる。20 世紀音楽史は、そうしてみれば転倒 しているのではないか。それなら、そ こに登場する作曲家や作品をエリート主義として かたづけられるのか。ポップミュージックまで視野をひろげてみれば、実験とそのデザイ ン的な応用と の相互作用は、コマーシャリズムや音楽ビジネスというだけではなく、表 層文化の両輪が噛み合いながら回っていく。この音楽装置のなかで、相対的に 自律でき る場があるのか、そんな可能性は思い込みでしかないのか。(掠れ書き (2010.6-2013.6) )

あまりにもたくさんあるので、ここでは三つだけの抜き書きにするが、高橋悠治だけでなく、武満徹をつけ加えよう。

私が理想とする音楽の聴かれかたは、私の音が鳴って、そのこだまする音が私にかえってくる時に、私はそこに居ない――そういう状態(『音、沈黙と測りあえるほどに』)

もっとも、これらが木村敏の「あいだ」とほとんど同じことを言っているのかどうかは、木村敏のよい読者ではないわたくしには分らない。しかし冒頭のツイートの演奏の場での「自己反省的」などという語句が通用しない世界のことを語っているには相違ない。



表現と間(前) ―精神医学に学ぶ音楽教育論吉野秀幸」 という木村敏の音楽論に依拠した論によれば、木村は、「ある程度の水準をもった演奏者同士が合奏する場合、三つの段階が想定できる」としているそうだ。


詳しくは論をみてもらうことにして、最後の第三段階はつぎの如し。


初歩段階の正確さにとらわれた 緊張はもちろん,楽譜や相手に合わせようとする意識すら消え去り,各演奏者が外部的規 準に拘束されず,純粋に自発的で主体的なノエシス・ノエマ的創造行為を遂行している段 階である。この段階では,各自がそれぞれの力量や技術を発揮して自らの行為を瞬間ごと に実現し,しかもその結果として一つのまとまった自然な流れとしての合奏が成立する。 このような境地に達することはなかなかないことかもしれぬが,ときに瞬間的に実現する ことがあることをわれわれは確かに知っている。

《ギタリストの場合、ほんとに上手い人は、弾いてからシールドを介してアンプから空気振動に至るまでの数〜数十msの遅れを意識してものすごく自己反省的に弾いているという人にしか出会ったことがない》などとパチンコをする人物は、おそらく「このような境地」が実現することがあるのを知らない人物ということなのだろう。まあ、それはそれでよい。世間にはいろいろな種族がいる。だが「自己反省的」などという語句を書いてしまうのは、いかにパチンコであろうと、まずいのではないか。ベンジャミン・リベットの論を知らないわけでもあるまい。そもそも音楽演奏の場が自己反省的な心持だけで対応できるなどとは、初心者の場合だって考えにくい。

八十歳を越える高齢になってから最近にわかに脚光を浴びているベンジャミン・リベットの仕事によれば、意識はせいぜい二〇~四〇ビットの情報で理性的・倫理的判断を行うのであり、これが「エゴ」であって、エゴはそれに〇・五秒先行する一〇の七乗ビットの「セルフ(私のいう〈メタ私〉か)の判断を受けて、あたかもおのれが今リアルタイムで行っているかのように判断するという。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって――プルースト/テクスト生成研究/精神医学」より)

意識と複雑性との関連は、「意識は、事物があまりに複雑になると、這入り込まねばならなくなる」といった事実にではなく、その反対に、意識は複雑性の根源的な<単純化>の媒体であるという事実に、存在しているのである。意識は、優れて「抽象」の、一対の単純な形象へのその対象の還元の、媒体なのだ。
.
ベンジャミン・リベットの(正当にも)有名な実験は、これと同様の方向性を有してはいないだろうか? 彼の実験を興味深くしているのは、その結果が明白であるとはいえ、それが<何にとっての>議論なのかが明白でない、という点にある。次のように論ずることができるだろう。リベットの実験は、どのような意味で自由な意思が存在しないのかを証明する、と。すなわち、私たちが(例えば、指を動かすといったように)意識的に決断する前に、すでに適切な神経過程が動き始めており、〔その意味で〕私たちの意識決定とは、すでに進行していることに気づくこと(すでに為されたことへの余計な権威づけをおこなうということ)に他ならない、と。(ジジェク『身体なき器官』)


あるいは、スポーツ論における伊藤正男の「無意識」や、オートポイエーシスをめぐる河本英夫の「気づき」を知らないわけではあるまい。

河本英夫は、《「気づき」は行為に伴う調整機構であって、自己意識(自己反省・自己言及)」とは異なる(そこを混同するな)ということが書かれている。これは重要だと思う。自己意識は行為を滞らせるが、気づきは行為のなかにある》(偽日記)としているそうだ。

荒川修作の《意識とは「躊躇」の別名》という名言だってある。自己反省=躊躇などしていたら、どんな演奏を聞かされることになるというのだろう。

ラカンならこう言う。

意識にかんして、前意識を構成するもの、世界をわれわれの思考によって緊密に織り上げられたものにするものにたいして、意識は主体の中心であるものが外部から自らの思考、自らのディスクールを受け取る表面であると言える。意識はむしろ無意識が前意識から来るものを拒否するため、もしくは無意識が意識において十分の必要なものを詳細に選択するためにあるのである。(『同一化セミネール』)

すくなくとも「自己反省的」ではなく「身体反応的」と書くべきではないかね、ラカン派のひどく優秀な<きみ>よ

ーーここではあえて二人称代名詞や隠された一人称を使って、イマジネールかつパラノイア的な投壜通信としよう。

人称代名詞と呼ばれている代名詞。すべてがここで演じられるのだ。私は永久に、代名詞の競技場の中に閉じこめられている。「私〔je〕」は想像界を発動し、「君〔vous〕」と「彼〔il〕」は偏執病を発動する。……『彼自身によるロラン・バルト』)

パラノイア、すなわち「自己非難」に裏打ちされているということだ(すくなくとも、そろそろ、こういった時間の無駄遣いはやめなければならない)。

……他人に対する一連の非難は、同様な内容をもった、一連の自己非難の存在を予想させるのである。個々の非難を、それを語った当人に戻してみることこそ、必要なのである。自己非難から自分を守るために、他人に対して同じ非難をあびせるこのやり方は、何かこばみがたい自動的なものがある。その典型は、子供の「しっぺい返し」にみられる。すなわち、子供を嘘つきとして責めると、即座に、「お前こそ嘘つきだ」という答が返ってくる。大人なら、相手の非難をいい返そうとする場合、相手の本当の弱点を探し求めており、同一の内容を繰り返すことには主眼をおかないであろう。パラノイアでは、このような他人への非難の投影は、内容を変更することなく行われ、したがってまた現実から遊離しており、妄想形成の過程として顕にされるのである。

ドラの自分の父に対する非難も、後で個々についてしめすように、ぜんぜん同一の内容をもった自己非難に「裏打ちされ」、「二重にされ」ていた。……(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』(症例ドラ))



さて、木村の音楽論をめぐる小論に戻れば、次のように木村から引用されて説明が加えられている。


「最後の理想的な段階では,それぞれの演奏者がすべて各自のパートを独自に 演奏しているという確実な意識を持っているだけでなく,他の演奏者すべての演奏をまと めた合奏音楽の全体すら,まるでそれが自分自身のノエシス的自発性によって生み出され た音楽であるかのように,一種の自己帰属性をもって各自の場所で体験している。しかし その次の瞬間には,音楽全体の鳴っている場所がまったく自然に自分以外の演奏者の場所 に移って,演奏者の存在意識がこの場所に完全に吸収されるということもありうる。音楽 のありかがこのようにして各演奏者の間を自由に移動しうるということは,別の言い方を すれば,音楽の成立している場所はだれのもとでもない,一種の「虚の空間」だというこ とになる」 (木村敏『躁鬱病と文化/ポスト・フェストム論』2001)


《 「虚の空間」とは,木村によれば「あいだ」である。しかし, 「虚」と言われる以上,そ れは単なる空白の隙間ではなく,もちろん視覚的に捉えられる空間でもなく,それと指し 示すこともできない。すなわち「虚の空間」とは,実体としては( 「もの」としては)知 覚し得ないけれども,にもかかわらず演奏者にとっては確かに存在すると実感できる場所 である。このことを木村は, 「ずっしりと重みのある,実質的な力の場」 26)と言い表して いる。一体それはどこにあると言えばよいのであろうか。  木村は述べる。 「そういう状態の時に[第三段階において] ,音楽がどこで鳴っているか というと四人の間[カルテットの場合]で鳴ってるんじゃないか」 27) 。あるいはこの場所 のことを「自分と相手のあいだのだれもいないところ」 28)とも言っている。だが一方,彼 はつぎのようにも語っている。 「…音楽が鳴る「あいだ」とは,各自の内部にあって,同 時に各自のあいだにもあるという,不思議な場所だということですね」 29) 。つまり,こう いうことなのである。 「実在の物理的空間に定位不可能なこの「虚の空間」は,いわばす べての演奏者がそこから「等距離」にあるような場所である。合奏全体を一つの閉じたシ ステムと見なせば, それは各演奏者の「あいだ」であると言ってよい。だがこの「あいだ」 は,ノエマ的な空間の内部で個々の演奏家を隔てている間隔とは違って,決して各自の外 部に定位されるものではない。この「あいだ」には明瞭なノエシス的自己帰属感が伴って いる。各演奏者はそれをむしろ,各自の行為的自己の「内部」として体験している。それ は,各自の内部に見出されながら各自のあいだにも見出されるという不思議な場所なので あって,この不思議さは,それが本来ノエシス的な現象であるのにノエマ的にしか意識さ れないという,その二重構造から来ている」30)》



これらを読むと、武満徹や高橋悠治とほぼ同じようなことを語っているという錯覚に閉じこもってしまう。


精神科医でもあるグールド論の著者シュネデールは次のように書いている。

……音楽は遠ざかろうとするなにかであり、人がつかまえたと思っても、どこかへ行ってしまうようななにかである。留まるものと逃れ去るもののあいだに張られた絆。逃れ去る女。北の茫漠とした風景にたれこめる灰色の霧がすぐに包み隠してしまう太陽光線のはかなさ。光が死に絶えても、なおあとに残る不定形のうごめき。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド PAINO SOLO』)

聴取だけであっても、こういった経験はクラッシック音楽だけのものではないのではないか。


冒頭の一連のツイートのあと、しばらく置いて、若い精神科医はつぎのように呟いている。

木村敏はこのあいだ「フロイトの死の欲動は小文字の死しか扱ってない。俺が扱うのは大文字の死」って言ってるのをみて末代まで呪うことを決めた。

つまりは「自己反省的」ではなく、「身体反応的」に書かれたツイートであることを白状しているのだろう。


ラカンが「大文字の死」を扱っていないかどうかは、わたくしの知るとろこではないが、S・シュナイダーマンの『ラカンの《死》』によれば、ラカンは精神分析理論の中心軸を、フロイトの「性」から、「死」へとずらしたい願望を密かに抱いていたとされる。

なんらかの事情があって(シュナイダーマン曰く、トラブルを回避すべく)、「死」ではなく「享楽jouissance」にすり替えるという妥協の道を選んだらしい(伊藤正博「ラカンの《第二の死》の概念について」による)。

この見解に従えば、現実界的(リアル)な「死」は、扱っていることになる。

木村敏の「死」をめぐる議論については、いま唯一手元にある小さな本の「あとがき」に次のように書かれている。

私はつねづね、人間に関するいかなる思索も、死を真正面から見つめたものでなければ、生きた現実を捉えた思索にはなりえないのではないかと思っている。もちろん、この死というのは個人個人の有限な生と相対的に考えられた、個別的生の終焉としての死のことではない。生の源泉としての死、生が一定の軌跡を描いたのちに再びそこへ戻って行く故郷としての死、私たちの生にこれほどまでの輝かしさと、同時にまたこれほどまでの陰鬱さを与えている包括者としての死のことである。私たちの生は、その一刻一刻がすべて、この大いなる死との絶えまない関わりとして生きられているのであろう。

私たちは自分自身の人生を自分の手で生きていると思っている。しかし実のところは、私たちが自分の人生と思っているものは、だれかによって見られている夢ではないのだろうか。夢を見ている人が夢の中でときどきわれに返るように、私たちも人生の真只中で、ときとしてふとこの「だれか」に返ることができるのではないか。このような実感を抱いたことのある人は、おそらく私だけではないだろう。

夜、異郷、祭、狂気、そういった非日常のときどきに、私たちはこの「だれか」をいつも以上に身近に感じとっているはずである。夜半に訪れる今日と明日のあいだ、昨日と今日のあいだ、大晦日の夜の今年と来年のあいだ、そういった「時と時とのあいだ」のすきまを、じっと視線をこらして覗きこんでみるといい。そこに見えてくる一つの顔があるだろう。その顔の持主が夢を見はじめたときに、私はこの世に生まれてきたのだろう。そして、その「だれか」が夢から醒めるとき、私の人生はどこかへ消え失せているのだろう。この夢の主は、死という名をもっているのではないか。(木村敏『時間と自己』)







2013年9月24日火曜日

9月24日

ジャズの映像を断続的にみつづける

◆Miles Davis Sextet and Gil Evans


「モード・ジャズなんていうコンセプトは、最初から頭の中になかった。オレが考えていたのは、少ない音で多くのことが語れるフォームのことだ。当時のジャズはどんどんハードになっていったが、その逆の演奏をしたかったんだ。パワーではなくて、情緒を表現したかったんだ。そのためには、リズムやハーモニーに手を加える必要がある。そんな話をギルと話したことがあった。おそらくヤツは、それをヒントにアレンジを組み立てたんだろう。オレたちは「マイルス・アヘッド」を吹き込むにあたって、それほど多くの話をしたわけじゃない。けれどスタジオに行ったら、オレが考えた通りのサウンドが出来上がっていた。そこがギルのギルたるところだ。あとは、吹きたいように吹けばいいだけになっていた」

レコーディングに望んだギル・エヴァンス曰く、「マイルスはスタジオでオーケストラのサウンドを聴くなり、ベストと思われるフレーズを次々に吹いてみせた。しかもソロ・パートでは、通常のコード進行から離れて、オーケストレーションにフィットする音を選びながら演奏してみせたんだから驚いた」
(50年代ジャズの遺産たち)

上の演奏や文を読めば、マイルスの畢竟の名作カインド・オブ・ブルーの生みの親(の少なくともひとり)が、ギル・エヴァンスであったことが判然とするだろう。

◆武満徹ジャズ語録

《サキソフォンを吹いている男がいた。彼の吹くという行為は、生の挙動そのものだった。そして、いつか彼をとり囲むすべてのものと結びついていた。彼と僕の距りはほんとうに近いものになった。僕たちに、言葉はなかった。》-武満徹





《ジャズでは、よく The try ということがいわれる。これは字義通り、新曲を演奏するためのこころみを云うのだが、この The try が、彼らジャズマンにとって、もっとも充足した瞬間であるし、これをみごとにやりおおせるということが誇りだ。その誇りが彼らの人生を形づくって行く。》-武満徹

《ジャズを聴き始めた頃からいつか現代音楽を聴いてみようと思っていました。『現代音楽』か『前衛ジャズ』かを問うことは虚しくなって止めましたが。》-武満徹

《ルイ・アームストロングが、シカゴでかれの口にトランペットをもちあげると、そこにいるひとびとは幸福を感ずるのでした。かれがブルースをうたうと、ひとびとはどうじに悲しくもあり幸福をも感ずるのでした。そしてルイがスキャット・スタイル(自由に即興的に意味をもたない言葉で演奏されるジャズのうた)をうたうと ー「スキー・ダットル・ド・ディー・ダットル」何の意味もないのですー ひとびとはほとんど横腹がさけるまで笑いました》

と、ラングストン・ヒューズは書いている。どんなに深い悲しみをうたっても、ジャズはバイタルな力を失わない。それは観念ではとらえられない肉体のものだからだ。だからルイ・アームストロングのスキャットは、あくびのようにユーモラスであり、またそれは嗚咽のように深い悲しみにもみちている。ルイのスキャットは、音楽的行為とよぶよりはるかに素朴な生命の挙動なのだ。そして、かれの吹きならすトランペットが、またなんとそのスキャットに似ていることか。(武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』)

《個人的なことだが、私が生まれた一九三〇年に、デューク・エリントンの《Mood Indigo》が生まれている。エリントンは、今世紀の最も偉大な音楽家のひとりに数えられていい存在だが、ジャズという音楽への偏見が現在もかなりそれを妨げている。》-武満徹






いささか許しがたいな
アームストロングのwhat wonderful worldを
ベトナム戦争兵士士気高揚に使うなんて
まあそれもたまにはいいさ

でもきみたちには熱帯雨林のざわめきと驟雨の音
死者たちのうめき声や残されたものたちの祈りの声も必要だ






さて、芸術と生とを分離したとすれば、あるいはこういってしまいましょうか、つまり、もしその光に着目し│光は闇よりも善く、闇よりも明るい│、それを〈芸術〉と呼ぶとすれば、‥‥‥人はその明るさだけを手にすることになります。ところが、私達が必要としているのは、闇の周りを手探りすることです。なぜかといえば、(いつでもではないにせよ、少なくともあるとき、殊に、私達にとって生が不確かになったとき)、そこが私達の生きる場となるからです:闇の中、あるいはキリスト教でいわれるように「魂の暗い夜」。〈芸術〉が働くのは、こうした状況の中なのです。そしてそのとき、それは只〈芸術〉であるのではなく、私達の生にとって有用なものとなるでしょう。(ジョン・ケージ)


素朴な生命の挙動の音楽がジェノサイドに終わることもある

からだの中を血液のように流れつづける言葉を行わけにしようとすると
言葉が身を固くするのが分かる
ぼくの心に触れられるのを言葉はいやがっているみたいだ

(……)

憎んでいると思ったこともない代わりに
言葉を好きだと思ったこともない
恥ずかしさの余り総毛立つ言葉があるし
透き通って言葉であることを忘れさせる言葉がある
そしてまた考え抜かれた言葉がジェノサイドに終わることもある

ぼくらの見栄が言葉を化粧する
言葉の素顔を見たい
そのアルカイック・スマイルを(谷川俊太郎「鷹繋山」『世間知ラズ』より)

《音楽は 社会的芸術であり 複数の人間をつなぐという意味で 政治的であることは避けられない》(反システム音楽論断片   高橋悠治

われわれの疑問は、たとえば「生の肯定」、「生の蕩尽」としてカーニバル的にあらわれたものが必ずファシズムに転化するのはなぜかということだ。ニーチェやベルグソンはファシストではないといってもはじまらない。もはや純粋なカーニバルなどありえないように、純粋な「生の哲学」もありえない。それはいったん歴史的な文脈に存在するやいなや、思いもよらぬ反転や置換を強いられるのだ。本当は、「暴力的なもの」は《近代》に出現するのだといってもよい。(柄谷行人『歴史と反復』)


このあたりが、ロラン・バルトが、「私」よりも「私たち」について表現する集団的で大衆的な激しい音楽(マーラーやブルックナーをあげている)を敬遠する理由のひとつなんだろうがね

そして、《シューマンの「私」に向かう音楽表現 を「反時代性」の哲学》として顕揚

ドゥルーズしかり
高橋悠治しかり

「まずしいものの芸術。手にある最小の材料でできているもの。音楽に必要なものは、わずかだ。よけいなものをはぎとり、そこにあるものではなく、ないものから音楽を定義する。」(高橋悠治)

シューマン--「はるかな解放へのあこがれが、抑圧されたものの素朴なゆめへの共感としてあらわれる」(同)





ただ一度だけ、写真が、思い出と同じくらい確実な感情を私の心に呼びさましたのだ。それはプルーストが経験した感情と同じものである。彼はある日、靴を脱ごうとして身をかがめたとき、とつぜん記憶のなかに祖母の本当の顔を認め、《完璧な無意志的記憶によって、初めて、祖母の生き生きした実在を見出した》のである。シュヌヴィエール=シュル=マルヌの町の名も知れぬ写真家が、自分の母親(あるいは、よくわからないが、自分の妻)の世にも見事な一枚の写真を遺したナダールと同じように、真実の媒介者となったのだ。その写真家は、職業上の義務を超える写真を撮ったのであり、その写真は、写真の技術的実体)から当然期待しうる以上のものをとらえていたのだ。さらに言うなら(というのも、私はその真実が何であるかを言おうとつとめているのだから、この「温室の写真」は、私にとって、シューマンが発狂する前に書いた最後の楽曲、あの『朝の歌』の第一曲のようなものだった。それは母の実体とも一致するし、また、母の死を悼む私の悲しみとも一致する。この一致について語るためには、形容詞を無限に連ねていくしかないだろう。(ロラン・バルト『明るい部屋』)




…………


武満徹の「うた」

高橋悠治


1.ことば

この巻には「うた」(ポップ・ソング)、テープ作品、舞台や放送のために書かれた音楽、初期の未完のスケッチなどが収められる。これまでの4巻がまずオーケストラ曲、次に室内楽という「純音楽作品」からはじまり次に2巻にわかれた映画音楽画がつづくという順序で、作曲家としての武満の中心的な領域をカバーしていたのに対して、これはどちらかというと周辺領域と考えられるもの、しかも作曲家自身がその時々に置き去りにしたものを集めている。

これらの音楽をききながら、それぞれの作品をどう思うかとは別に、ひとはどのようにして音楽をこころざし、作曲家となっていくか、そして作曲家として認知されたあと、最初の志はどうなったかを考えてみることも、なにかの意味があるかもしれない。

武満徹は後から見れば、たいへん幸運な作曲家だったということになるだろう。「現代音楽」という西洋的音楽のフロンティア、つまり最先端にして未知の辺境にいながら、日本のオーケストラ定期演奏会の保守的な聴衆や「音楽愛好家」にも知られている唯一の名であり、死後数年たってもいまだに演奏されていること自体が、例外的な現象と言える。

かれの死後、文章や対話を集めた5巻の「著作集」と、ほとんどすべての音楽作品の録音を集めたこの「全集」5巻が出版されたのも、武満が現代日本を代表する世界的な作曲家だという、一般的な認識にもとづいている。すでに武満を論じたたくさんの文章があるが、この現象がいつまで続くのかはわからない。

武満自身がことばのひとだった。スケッチブックにさまざまなことばを集めながら作品の構想を得ただけでなく、自分の音楽についてもたくさんのことばを残したために、武満を論じた他人の文章のほとんどは、それらのことばを論じているか、それらを通してかれの音楽を聴いたつもりになっている。

かれが自分の体験について語ったことばも、たいへん魅力的だが、真実であるにはあまりにうつくしい。かれが自分と自分の作品のまわりに織り上げた伝説にとらわれずに、このひとを語るためのことばは、まだ存在しない。もし、かれの音楽がこれからも忘れられずにいれば、ことばに覆われているかれの生と音楽を解き放つ考証も、いつかは可能になるだろうか。

2.身体

さて、15歳の武満は、戦時下の学生動員で働かされているとき、ある兵隊がもっていたシャンソンのレコードをきいて、音楽にめざめた、とされている。
多くの学生たちにとって、戦時下に禁じられた「外」の音楽は、ことばよりももっと切ないあこがれを、こころのなかに刻んだ。

敗戦後に生き残った少年たちは、まだひろい世界から切り離されたままで、占領軍のラジオからきこえてくる音楽をきいていた。武満は独学で音楽を志したというが、かれだけではなく、ほとんどみんながそういう環境に置かれていた。音楽の理論書があれば、借り出して読み、楽譜を借りて手で写した。ピアノがある場所をたずねて弾かせてもらった。貧しい時代は、人の行き来はさかんだった。訪ねてくる見知らぬ他人を拒む人はすくなかった。人のつながり、とくにおなじ道を志す友人たちが、修行のほとんどすべてだった。鈴木博義や福島和夫、それから一柳慧、湯浅譲二、秋山邦晴、谷川俊太郎、音楽家たち、詩人たち。ほとんどおなじ頃、出発した芸術家の世代。

1948年から49年にかけて書かれたピアノのための習作の楽譜が何曲か残されている。こういう書きかけの楽譜が発見されて、全集に収められることは、生前の作者は予想していなかっただろう。

「二つのメロディー」と題して書きはじめても、1曲をやっと終えただけで、2曲目はない。この第1曲は「筧」と題されていたらしい。単純なメロディーはわずかに変奏され、はじまった場所に回帰する。このメロディーはどことなく早坂文雄を思わせる。他の曲もみんなどこかにあったような楽譜の姿を見せている。

独学でしかも自己流にならないためには、基礎理論を勉強するよりは、他人の楽譜を見て、それに似たものを書いてみること、それに似た響をピアノでためしてみることのほうが効率的な学習法と言えるだろう。若い武満は、他人の音楽に敏感で、影響をうけやすかった。

「二つの作品」、と言っても3曲の未定稿があり、いたるところで音を訂正しかけたまま放棄されている。アレグロの音楽を書こうとして苦しんでいたらしい。始めと終わりのある「音楽」らしい音楽を書こうとして、始めることはできても、終わりにたどりつけなかったのかもしれない。

「二つの小品」、またアレグロ。すぐ終わってしまう。やはり、一つのはじまりだけでアレグロを書くことはできない。アレグロとは速度ではなく、擬似的二元性だから、元気よく走り出すためには、元気なく取り残されるものを必要とする。これをソナタ形式と呼んでもいいが、それこそ近代的父権主義の音楽でなくてなんだろう。武満は、幸か不幸か、アレグロを書くことができなかった。

それにつづくのは、のちに「二つのレント」の第1曲になるものの発端。これは何回と無く書きなおされて、完成された版は、批評家の山根銀二に「音楽以前だ」と言われたほど、このフレーズのまわりをひたすらめぐる。対立をもたないことは、構成をもたないことではないが、ドイツ的音楽観は対立と闘争を絶対視する。

レントは、武満の身体が受け入れることのできた音楽の時間だった。ピアノで一つ一つの和音の響をたしかめる作曲家の身体。さまよう手がさぐりだした響の余韻に立ち止まりながら、時には激しくぶつかる音程を打ち込んでみる。

二つのレント」の第1曲になった一つのフレーズは、そうした音の身体の隙間からふと浮かび上がってくる。だが、それがどこへ行くのか見まもる忍耐は、この身体にはまだそなわっていない。忍耐は技法であっても、いわゆる作曲技法とはちがう、音がおのずから行くべきところに向かうのを待てずに手を出さないでいられる、抑制の身体技法と言ったらいいのだろうか。

おなじ頃のピアノ曲「ロマンス」もそうだが、5音組織にこだわり、しかも半音を含む江戸的な「陰」旋法によって、それを構成する音程を組み換えながら、統一原理を、あるいは作曲技法をさぐっていたらしい。

その頃知り合った清瀬保二や早坂文雄たち戦前に出発した世代も、チェレプニンの影響からか、ペンタトニック(5音音階)にこだわった。それは日本独自のものであるどころか、東アジアと東南アジアに存在する無数の音組織のほんの一部にすぎないが、近代の民族主義者たちは日本の民族性がここにあると決めていた。武満はそれにことばでは反発しつつも、その皮膚感覚を生きた。

シェーンベルクやヴェーベルンが12音技法とはいいながら、ロマン主義的3度と半音のたった二つの音程を組み合わせた貧しい響に閉じこもり、反転したロマン主義を微分的に凝縮したように、武満のレントも、4度と半音の組み替えのなかで江戸町人の屈折した情緒を温存していたようだ。

第二の「レント」では、ちがう空気が流れる。これを書く直前にメシアンの「前奏曲集」の楽譜を見たらしい。ここでは、初期メシアンの和音や音形をためしているが、、似合わない新しい服を鏡の前でためしているこどものように、いくらかためらいながら、時にはもとの貧しくやせた響が表面に出てくるのを抑えられないでいる。ところが、1年後の「妖精の距離」や「遮られない休息」第1曲では、そのような不器用さはなくなって、自分の音楽のように身についている。独学者の学習はすばやい。

3.現場

1950年代の東京には、いまのようにたくさんの若い作曲家はいなかった。音楽を必要とする場はあって、きっかけさえあれば、映画や舞台、あるいはラジオドラマの音楽を書くしごとがあった。武満は1952年から早坂文雄の映画音楽の助手をしている。そのほかにバレー音楽を書いたり、編曲の仕事もしている。こうして音楽の現場で、楽器の使い方や演奏家とのつきあい、画面に音をつけるやりかたをまなんだ。のちには、かれ自身の映画音楽を手伝ってくれる若い作曲家と工房を作って、しごとをした。

その頃の日本では、映画や放送局のような商業メディア専門の作曲家たちはまだいなかった。コンサート音楽をめざす作曲家も、生活のためにこういう場でしごとをしていた。当時内幸町のNHKの向かいにあった喫茶店には、しごとを求める作曲家たちが出入りしていた。新しい映画の企画がすすんでいるときくと、偶然のようにプロダクションに顔を出したりもした。

放送局では磁気テープが録音に使われはじめた。フランスではラジオドラマの効果音からミュジック・コンクレートの技法が編み出された。それは1950年代はじめには日本に輸入されて、実験的音楽作品としてよりは、ラジオドラマや詩劇のなかに使われた。テープを切り張りし、速度を変え、逆回転させる、といった操作は、作曲家がやるより、音響技術者がいて、効果音のライブラリーや、新しい効果の実験をしてくれたし、声は俳優を雇い、台本は詩人が書き、そこに演出家までいるといった工房の集団作業で創られた当時の作品は、演劇的・心理的な表現がおおかった。NHKではケルンの放送局で開発した電子音楽の実験もはじまっていたので、発振器の音を組み合わせることもできた。

1950年代の武満はテープ音楽の作曲家として知られていた。当時の技術水準でできることはすべてやっているし、現実音の思いがけない使い方のくふうがある。40年後の今きくと、ディジタルのなめらかな響に慣れた耳には、当時の音はかえって生々しい起伏がある。古くなったのは、過剰にエコーのかかった響と翻訳舞台劇の誇張された心理表現を思いださせる俳優のわざとらしい声だ。

全体に叙情性がつきまとっている。声をつかうことの背後に「うた」と官能的な「愛」への屈折した思いが感じられる。

武満はもとから映画が好きで、暇さえあれば映画館に行っていたが、当時の日本映画の音楽には映画会社の商業的な規制がきびしかったので、1950年代はラジオや舞台のほうが、いろいろな試みができた。テープ音楽のような実験的な試みも、番組のなかに使われれば、コンサートよりもたくさんの人がきくことになる。また、ジャズやポピュラーソングのスタイルで主題歌を書くこともあった。

オペラがかつてそうであったように、映画やラジオドラマは20世紀では音楽・現実音・主題歌・会話を取り込んで、総合的なメディア制度になっている。武満はサウンドトラックの最終的なミックスに立ち会って、音楽だけでなく、それぞれのシーンにつけられる音のすべての配分を慎重に決めていた。

ここでは創造性は、コンサート音楽の場合のように色彩や手法のような表面的次元ではなく、どの場面にどのような音をつけるか、あるいはつけないか、というもっと知的なレベルで表現される。音楽の構造は、音列やソナタ形式のように使い古されたものではなく、編集の背後にある技術的・社会的な世界観のかたちで潜在する。

このような場での音楽の役割は、それだけを切り離して聴いてみる時とはちがう「うつくしさ」をもっている。だが、それはそれとして、じっさいには、ある音楽は切り離されて、別な場で別な編集をほどこして使えるかもしれない。バッハの時代には、ある音楽を宗教的な場から世俗の場に転用することがおこなわれていた。原曲を変奏しつつ、個人的な感情をそこに忍ばせることもおこなわれた。それをバロック的と見ることもできるだろうし、啓蒙主義の兆しを読みとることもできるだろうが、表現はつねになにかを顕すことによって別なものを隠す。表現者の、そのバランスのとりかたに歴史のシステムがはたらいている。

舞台音楽からテープ音楽としてのちにまとめられた作品がいくつかある。「ルリエフ・スタティク」はラジオドラマの音楽だった。「ユリディス」は舞台音楽だった。

オーケストラ作品に組み込まれたものもある。「弦楽のためのレクイエム」は劇音楽に使ったメロディーにもとづいている。「地平線のドーリア」には、「砂の女」の映画音楽の一部を転用している。

4.職業

個々の作品は完結しても、作曲家のしごとが完成することはない。それはいつも途上にある。

1960年代のなかばまで、武満は実験していた。5音組織の音列的展開の貧しい響から、メシアンにまなんだ和音の堆積や過剰な装飾、ベリオの「セクェンツァ」の無拍記譜法、ルトスワフスキの周期の異なるフレーズの反復の堆積、リゲティの絡み合う多数の声部の「ミクロポリフォニー」、ペンデレツキのグリッサンドやクラスター、ケージの図形楽譜、グラフィック・デザイナー杉浦幸平とのコラボレーションによる多色刷り円環図形楽譜など。

1967年の「地平線のドーリア」について武満はharmonicpitchによる音組織とpulsationによるリズムという自分の技法に触れている。pulsation(脈拍)いうことばとは反対に、かれの音楽には固定した拍は感じられない。呼吸のようにたえず変化するフレーズの長さと音の密度による周期があり、呼吸のように絡まる音はすべて円環の時間のなかに溶けこんでいる。ここには多元的な時間はない。

harmonicpitch(倍音を含むピッチ)は5音組織やそのさまざまな変形をそれ自身の上にかけあわせ、鏡のように上下反転させて音程関係の網を織り、それをそのまま提示するよりは、それをめぐり、たえずそこに回帰する線や音の束を制御する隠れた中心として作用する。「地平線のドーリア」や雅楽のための「秋庭歌」では、それは前景に位置する楽器群の名でもあり、それに対してエコーと呼ばれる楽器群が背後に置かれて、前景の和音をからまる線でひきのばし、陰影と余韻をあたえる。見かけの上では多層空間だが、平面的な印象をあたえる。

武満自身が自分の和声的語法について語ったのは1984年の「夢と数」と題する講演のなかだった。1980年代にはかれの語法は確立し、多くのオーケストラ作品を書き、アメリカ、フランス、イギリスで演奏されるようになった。かれの音楽はシェーンベルク、メシアン、それにのちにはますますドビュッシーの影響を見せていた。東洋的な色彩を表面にちりばめた西洋音楽、あるいは西洋から見た「東洋」を提供してくれるジャパネスクとして、グローバルな音楽制度のなかで作品を創り、国際的な音楽市場に受け入れられた、とかれ自身は思っていなかったし、思いたくもなかっただろう。

ちょうどその頃は、ヴェーベルン的音列技法の可能性を使いつくし、メシアンが発見したストラヴィンスキーの「春の祭典」のリズム細胞の変化もアカデミックな技法に退化させてしまったあとで、ブーレーズが再発見したドビュッシーの音色が、このヨーロッパ前衛の旗手を19世紀音楽の守護者に変えていった時期だった。武満の音楽は、ドビュッシーやメシアンのオリエンタリズムを問題にしたことのないヨーロッパで、かれらの音楽の正統性とグローバル性を保証したようなものだった。

オーケストラはかつては宮廷に雇われていた。作曲家たちもそうだった。いまは文化国家の助成金か、アメリカのような軍事国家ではそれにかわる財団にささえられなければ、やっていけない。

それでもオーケストラは国民国家のなかの一つの文化制度でありつづける。新作を委嘱し、初演するのは、一人の指揮者が情報を管理する軍隊式集団で、その情報は背後にいる集団、楽譜の使用料を取り立てる出版社や、レコード産業やヨーロッパの国営放送局でなければ、ニューヨークから世界の音楽市場を支配するマネージメントの見えない手で操作される。

この闘技場で非ヨーロッパ人が活動を継続するためには、個人的スタイルが商標の役割をはたし、その上にナショナル・アイデンティティーを要求される。作曲家は守りの姿勢にはいる。うつりかわる現実は、さまざまな影響は、磨かれたスタイルの表面に映る淡い影のようなものになっていく。

5.うた

コンサート音楽作品が映画音楽より一段高いものとされるのは、音楽の制度内のことにすぎない。どんな音楽ジャンルにも価値の上下はないといって批判する人びとは、制度が政治的・社会的なものであることをしばしば忘れる。

国際的な音楽市場では、作曲家はわりあてられた役割で個人ゲームを演じている。映画では、作家と技術者チームの一員として別なうごきかたをする。映画会社の商業主義は、社会から排除された人びとの夢と現実のあいだで起こるドラマを、メロドラマに変えてかれら自身に売りつけようとする。その作業を現場で担当しながら、そこにちがう意味をそっと添付すること、それが映画作家のバランスのとりかただろう。映画の音楽家もおなじだ。社会的。文化的戦略にもとづいて、多様なスタイル、多彩な手段が流用される。そこでは、作曲家の個性のように固定されるものは障害でしかない。このように使われた音楽を、その場面から切り離して「音楽」として評価することにはあまり意味がない。

ハリウッド映画音楽やブロードウェイ・ミュージカルの音楽の基礎は、1940年代に中央ヨーロッパから亡命した音楽家たちによって創られた。1950年代のジャズのコードは、スクリャービンのようなロシア象徴主義の語法を引き継いでいた。第2次世界大戦後のチャーリー・パーカーのように社会に押しつぶされた個人の自由の表現が、朝鮮戦争の終わりとともにモダンジャズの空虚な名人芸に回収されていったとき、残されたのは白人たちのポピュラー・ソングに肥大したコードチェンジを貼り付けた人工的な音楽だった。

そこで、あらためて問うてみる。武満の「うた」とは、なんだったのだろうか。戦時下のシャンソン、占領下のジャズソング、それらは遠いうただった。外にある自由の夢。

そのうたを自分のうたとして書くことが、1950年代から映画やラジオドラマに「主題歌」として書いてきたあれらの「うた」だったのか。

軽く、口笛で吹きたくなるようなメロディーと、甘く重い1950年代のコード進行。ことば以前にメロディーがあり、さらにそれ以前にスタイルがある。ジャズ風、シャンソン風、クルト・ヴァイル風、などなど。最初の一節はことばと結びついて印象的でもある。それから後はメロディーがことばを追い越していく。それは劇音楽の場での必要であり、個人的にはたのしみだった。生活であり、生計でもあった。

1980年代になって、30年前の「うた」を合唱に編曲してみる。ギター曲やポップソングを書く。1950年代のハーモニーがハリウッド的アメリカの夢を思いださせる。それは意図的に古いやりかたをとりあげたのか。安定した生活のなかで貧しさをふりかえる。あたえられた場、あるいは獲得した場のなかで、失われた愛をかえりみる

ピアソラの流行、演奏スタイルの一つとしてのモダンジャズの復活、60年代や70年代のリメイク、時がたって無害な音楽に変わってしまった過去の冒険をとりあげることは、他の領域でも起こっている。武満の「うたふたたび」も、時代の表面を流れる傾向の一部かもしれない。オリジナルよりなめらかで、だから速度も速めになっている。時代の深いメランコリー。対立軸を見つけられず、力で創り出すよりない一極グローバリズム。

1960年、日米安保条約締結に反対する「若い日本の会」のメンバーたち、江藤淳、石原慎太郎、浅利慶太、谷川俊太郎、大江健三郎、そして武満徹、林光、間宮芳生、1990年にかれらはどこにいた。

武満の演奏者たち、ピーター・サーキンは1967年にはヒッピーのように生きていた。鶴田錦史や横山勝也は邦楽の世界ではアウトサイダーだった。かれらはその後どうなった。

むかしむかしどこかにわたしがいた
いまここにわたしがいる

「系図」(1995年)のなかの谷川俊太郎の詩。わたしとおもうこともなかったはだかのこどもと、いまわたしであるしかないいまのわたし。


[武満徹全集小学館第5巻のために]


…………

高橋悠治はなにを語っているのか
《あたえられた場、あるいは獲得した場のなかで、失われた愛をかえりみる。》

武満徹の「うた」は感傷的なノスタルジーではなかったのではないか
という言外の批判(吟味)を読みとることもできよう


雨の朝きみは武満徹を思い出している。
かれが亡くなって一月たった。
きみはかれのピアニストだった。
作曲の助手だったこともある。そこできみは
細かく書き込まれたスケッチから
映画のためのオーケストラ・スコアを作り、
楽器について、映画と音楽の関係についてまなんだ。
ながいあいだのように思っていたが、それは
ただ3年ほどの、しかし密度のある時間だった。
それからかれの友人となり、つぎに批判者となった。
そのことでかれはきずついた。
だが、きみとちがって、かれは
きみのことを悪くいうことはなかった。
きみは別な道を行った。
しばらく会うこともなかった。(「作曲家の生活」)


そしてジャズはどうだろう ーーノスタルジーでないことを祈るばかりだ

誰もがたやすく絶望しようとはしない現実への深い絶望、それは、特権的な輝きを欠いた現在という曖昧な中間地帯をのがれ、いま、ここではない世界に不在の理想郷を、きまって夢想せずにはおれない。そしてその理想郷が、未来であるか過去にあるのかどちらかでしかないという事実が、文学の制度性とみごとに一致する。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

「文学」だけではない、「芸術」の制度性とみごとに一致する、--のかもしれない

なあマルサリス
きみはどう思う?







もっと滲んで  谷川俊太郎

そんなに笑いながら喋らないでほしいなと僕は思う
こいつは若いころはこんなに笑わなかった
たまに笑ってくれると嬉しかったもんだ

おまえは今いったいどこにいるつもりなんだい
人と人のつくる網目にすっぽりとはまりこんで
いい仕立てのスーツで輪郭もくっきり

昔おまえはもっと滲んでいたよ
雨降りの午後なんかぼうっとかすんでいた
分からないことがいっぱいあるってことがよく分かった

今おまえは応えてばかりいる
取り囲む人々への善意に満ちて
少しばかり傲慢に笑いながら

おまえはいつの間にか愛想のいい本になった
みんな我勝ちにおまえを読もうとする
でもそこには精密な言葉しかないんだ

青空にも夜の闇にも愛にも犯されず
いつか無数の管で医療機械につながれて
おまえはこの文明の輝かしい部分品のひとつとなるだろう

          (『世間知ラズ』より)


なあマルサリス
きみのデビュー当時は驚いたんだがな
1980年、18歳だったな(オレより三年下だ)
ラジオから流れてきたあの輝かしい音
アート・ブレイキーのメンバーだったな
それからわずかのあいだにもう
ハーバードで講義なんかやってるのかい
スーツ姿でさ ユーモアたっぷりで


連動するリズムの織物が 自由にうごけるように
余白を残しながら 
周期からはずれた位置から入って 
語りかける 単純な線が 通り抜ける
リズムが急に断ち切られ 
支えをなくした線は しばらく漂ってから
落ちていく マイルス・デイヴィス

ーーー反システム音楽論断片   高橋悠治

  …………





『谷川俊太郎が聞く 武満徹の素顔』より

谷川――(……)何かいかに生きるべきかということを考えないですむパーソナリティーがあると思う、僕の印象としてはね。

武満(娘・真樹)――それはそうかもしれない。

だから、言ってみれば何でそれですんでいるのか、というのはちょっと不思議なのね。だから、ほんとうに悩みが見えない人なんだよね。何かで悩んでいるということを感じたことある。

武満(娘・真樹)――ないですね。というか、もちろん作曲するときはあるんだろうけれども、それは一種喜びでしょう。決してそれを嫌がっている悩みではないから、・・・(……)

僕なんか、中年になれば中年のクライシスや男女の心理の本読んだり、老人の心理の本読んだりするけど、武満は一切そういうのなかったからね。「いや、この人悩みがないんだなあ」と(笑)。ほかに悩みはあったかもしれないけれど、現実生活の上では悩みっていうのはなかったかもしれない。もっと違う次元を生きていた人かもしれないって気がする。
でも、彼が浮き世離れした変人であったかと言えば、そんなことはありません。駄洒落も言うし、けっこうミーハーなところもあったし、家庭にあっても友人としてもまっとうな男だったことは、この本でぼくの相手をして下さったかたがたの証言をお読み下されば分かります。つき合っていて気がおけない楽しい人でした。けれどぼくはどこかでほんの少しですが、彼に遠慮していたような気がします。彼には自分でも気づいていないかもしれない秘密がある、そこに踏み込んではいけない・・・ときどきそんなふうに感じることがあったからです。その秘密はもしかすると、彼個人の秘密というより音楽の秘密そのものだったのかもしれませんが。(谷川俊太郎 あとがき)

『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』より

武満徹に

飲んでいるんだろうね今夜もどこかで
氷がグラスにあたる音が聞える
きみはよく喋り時にふっと黙りこむんだろ
ぼくらの苦しみのわけはひとつなのに
それをまぎらわす方法は別々だな
きみは女房をなぐるかい?






谷川知子に

きみが怒るのも無理はないさ
ぼくはいちばん醜いぼくを愛せと言っている
しかもしらふで
にっちもさっちもいかないんだよ