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2014年2月17日月曜日

カペー四重奏とプルースト

表題は「カペー四重奏とプルースト」だが、書いているうちに別のところにいってしまった。

カペークァルテットの演奏録音のいくつかを貼り付け、そこにプルーストとカペーの関係をすこし付加しようと思っただけなのだが、そのなかでプルーストの次の言葉に出遭った。


・音楽が「有益な夢想」を与えてくれさえすれば、詩人の賞賛する音楽の客観的クオリティは問題ではない

・粗悪な音楽を嫌悪したまえ、しかし侮ることなかれ。いい音楽以上にうまく演奏したり歌つたりすれば、音楽は徐々に夢と人の涙で満たされる。粗悪な音楽には芸術の歴史に居場所はないが、社会の情緒の歴史において、その地位は絶大なのだ。

すなわち隠れたテーマはこの文にかかわるが、そして重点の置き方を構成し直すべきかと思ったが、メンドウなのでそのままにする。

…………


◆カペークァルテットCapet String Quartet ラヴェル




◆エベーヌクァルテット Quatuor EBENE

ーーこの若いクァルテットのヴィオラ奏者の自己主張の強さが好みなのだが(第一ヴァイオリンの呼気がまざまざしく聞こえてきそうなその歌いようはもちろんのこと!)、第一ヴァイオリンが際立つカペー時代にはこういうことは少ない。





◆カペー ドビュッシー弦楽四重奏G





…………

◆カペー ベートーヴェン OP131





ここではあえてほかの著名な演奏楽団のものは貼り付けないが、フレージングやアーティキュレーションなどが、驚くほど「現代的」にわたくしにはきこえる(ポルタメントの古さには耳を塞ぐわけにはいかないが目を瞑ろう)。もちろん第一ヴァイオリン主導であり過ぎる当時のスタイルの翳は色濃く落ちているが、第二ヴァイオリンのなんと素晴らしいこと! それにボウイングの新鮮さ。その飄逸と清澄、高雅と峻厳。媚を排した孤高。これは、大時代的、ロマン派的な演奏スタイル以前の、すなわち第一次世界大戦以前の香気ということか? ディレッタントに過ぎないわたくしには、いわゆる現代的なアンサンブルの妙技といわれるものよりも、こういった演奏のほうがモダン(モダン? いや来るべきモダンといおう)に聞こえてしまう。いや一時期比較的熱心に聴いたアルバン・ベルク四重奏団のアンサンブルの妙技なるものに食傷しているだけなのかもしれないが。(《カペーは良いけれど、今きくと、私にはどうしてもついてゆけない古めかしさがある》(吉田秀和 ベートーヴェン作品131『私の好きな曲』--ワルカッタナ、時代錯誤的で。まあたしかに第一楽章はアンサンブルの妙の楽章だからちょっといけない、かつてここだけ聴いて続けて聴くのをやめたせいで、今までカペーに親しんでいなかった)

当時〔一九一三年から翌年〕パリ中の人々が熱狂し(とはいってもプルーストの関心はそのためにかきたてられたわけではなかったが)、最近編成しなおされたばかりのカペー四重奏団の十八番だったベートーヴェン晩年の四重奏曲に彼は熱中していた。音楽会がすんだのち、プルーストは楽屋に足を運び、率直な、しかし微妙さを欠いてはいない言葉で自分の感動をのべ、カペーを驚かすと同時に魅了した。「ベートーヴェンの天才と演奏者の技倆に関して、あれほど深い洞察を見せた評価を聞いたことはかつてなかった」--のちカペーはそう断言した。(ペインター『マルセル・プルースト』)

『この傑作では、すべてが、完璧で、必然で、変更の余地が全くない』と、この曲(ベートーヴェン 作品 131)について賛辞をおしまなかったのは、晩年の死ぬごく前の、ストラヴィンスキーであった。

ストラヴィンスキーという人は、本当におかしな芸術家だった。二十歳そこそこであの最高のバレエ音楽、特に《春の祭典》を書き上げたのち、バッハに帰ったり、ペルゴレージからチャイコフスキーに敬意を表したりした末、晩年にいたって、ヴェーベルンに「音楽の中心点」を見出すに至ったかと思うと、その後長生した数年のあと、いよいよ死ぬ時をまつばかりとみえたころになって、今度はヴェーベルンも、自分の作品も、もうききたくないと言いだし、みんな投げすててしまい、ベートーヴェンに熱烈な賛辞を呈しつつ、死んでいった。これは、どういうことだろう? もっとも、ストラヴィンスキーは、若いころだってベートーヴェンの偉大さを認めてなかったわけではないと、後年、ロバート・クラフトに述懐しているが、しかし、それもまた奇妙な事情の下で、だった。というのは、彼は、一九二二年《ルナール》の初演のあと、招かれていたパーティでマルセル・プルーストに出会った。

『プルーストは、ストラヴィンスキーとは戦前〔第一次大戦〕すでに知りあいになっていたが、〔このパーティで〕最初に口をきいた時、荒れ模様の初演を終えたばかりの大作曲家に呈する質問としては、もっとも無器用な質問を彼にむけたのだった。―― 「ベートーヴェンはお好きですか?」 ――「大嫌いですよ」――「しかし晩年の四重奏曲などは ……」とプルーストは抗議した。「彼が書いたもののなかで最悪の作品ですよ」とストラヴィンスキーはどなった』(ペインター、岩崎力訳《マルセル・プルースト》)

晩年になって、この時の様子を改めてクラフトにきかれると、こう弁解したのだ。『プルーストは、直接彼のベッドから、例によって、夕方おそく起きて、やってきたのだった。まっさおな顔をして、こったフランス式の服装に、手袋をはめ、ステッキをもっていた。彼は、私に音楽の話をしかけてきて、ベートーヴェンの後期の四重奏曲に対する感激を吐露していた。これは、当時のインテリ文士のきまり文句で、音楽的判断というより、文学的ポーズになっていた。そうでなければ、私も、大いに共鳴するところだったのだ』(ストラヴィンスキー、ロバート・クラフト、吉田秀和訳《百十八の質問に答える》)

本当に、そうかしら? いや、そうだったとしておこう。
だが、彼がプルーストの音楽についての真剣な関心を全くみそこなったのは、これはもう釈明の余地がないのではないかしら。

――― 吉田秀和『私の好きな曲』上  P15-16

プルーストが自宅に呼んで己れのためにのみ演奏させたのは、プルーストの年譜(吉田城作製)によればプーレ四重奏団でとされているが(ガストン・プーレはドビュッシーと親交があった)、これはセレスト(家政婦フランソワーズのモデル)の証言もある。だがAnne Penesco Proust et le violon interieur 書評 安永愛)によれば、《プルーストは、ガストン・プーレ弦楽四重奏団の他に、 リュシアン・カペー弦楽四重奏団にも自邸での演奏を依頼している》とある。ただしセレストは否定しているとする情報もあり、ひょっとして「演奏を依頼している」だけで実現しなかったのかもしれないが判然としない。


この安永愛氏の書評は、プルーストの小説に頻繁にその名が出てくる架空の音楽家ヴァントゥイユ、そのソナタや七重奏曲のモデルをめぐって実に興味ふかいことが書かれており、一読の価値あり。ir.lib.shizuoka.ac.jp/bitstream/10297/7321/1/8-0101.pdf

引用してもいいのだが、断片では誤解を招きそうな個所がある。すなわち今まで一般にはサンサースがモデルとされたり、いやフランクやフォーレだとされたりしてきたが、プルーストは後年サンサースは凡庸な音楽家だと言っているらしい。だが、そのあたりが微妙なのだ。ラヴェルやフォーレの記述個所は除き、サンサースをめぐる個所だけ引用しよう。

ヴァントゥイユのソナタの聴取の記述に最も大きなインスピレーションを与えたものと、プルーストの書簡から読み取られるのは、サン=サーンスのヴァイオリン・ソナタである。しかし奇妙なことに、プルーストはサン=サーンスについて、自分の好みではなく凡庸な作曲家だと、1915年にアントワーヌ・ビベスコ宛ての書簡で述べている。これは一体いかなることなのだろうか。アンヌ・ペネスコは、その答をボードレールについてのプルーストの評論の記述の中に見出している。それによれば、音楽が「有益な夢想」を与えてくれさえすれば、詩人の賞賛する音楽の客観的クオリティは問題ではないというのである。また、プルーストは未完の小説『ジャン・サントゥイユ』の「粗悪音楽礼賛」のくだりでこう述べているという。「粗悪な音楽を嫌悪したまえ、しかし侮ることなかれ。いい音楽以上にうまく演奏したり歌つたりすれば、音楽は徐々に夢と人の涙で満たされる。(中略)粗悪な音楽には芸術の歴史に居場所はないが、社会の情緒の歴史において、その地位は絶大なのだ」と。

サン=サーンスの音楽を「粗悪音楽」とは言い切れないだろうが、良い音楽か否かは間わず、「夢」や「涙」と結びつく音楽であればポエジーの糧になるというプルーストの考え、そして彼が必ずしも好みではない音楽家の作品を『失われた時を求めて』における音楽の記述の発想源としていたというのは、興味深い。

《音楽が「有益な夢想」を与えてくれさえすれば、詩人の賞賛する音楽の客観的クオリティは問題ではない》とは、プルーストの小説のなかで、このブログでもしばしば引用しているとても示唆的な次の文と似たような見解を感じる。

われわれも相当の年になると、回想はたがいに複雑に交錯するから、いま考えていることや、いま読んでいる本は、もう大して重要性をもたなくなる。われわれはどこにでも自己を置いてきたから、なんでも肥沃で、なんでも危険であり、石鹸の広告のなかにも、パスカルの『パンセ』のなかに発見するのとおなじほど貴重な発見をすることができるのだ。(プルースト「逃げさる女」井上究一郎訳)

安永愛氏によれば、ベネスコはプルーストのサンサースの評価を次のように書いている。

プルーストのサン=サーンスのヴァイオリン・ソナタに寄せる思いは、『失われた時を求めて』の語り手がジルベルトに寄せる思いと同じく、初恋のようなものではなかったか、とアンヌ・ペネスコは推測している。プルーストは、やはりサン=サーンスのヴァイオリン・ソナ夕に魅了されていたのだとペネスコは断じる。かつて愛し、離れてしまったものへの、疼くようなやるせない思いが、文学テクスト上のヴァントゥイユの音楽の創出にあずかっていたというのが、ペネスコの見立てである。

音楽だけでなく芸術作品一般において(あるいは男女の愛の対象においてさえも?)、「石鹸の広告」のような作品を愛していても恥じることなかれ! と宣言するつもりはないが、《粗悪な音楽には芸術の歴史に居場所はないが、社会の情緒の歴史において、その地位は絶大なのだ》には相違ない。「社会の」? いや「個人の情緒の歴史」でももちろんよい。これは<対象a>にかかわるのだ。→ 「人間的主観性のパラドックス」覚書

それは、「好き」の次元に属するのではなく、「愛する」の次元には属するものであり、ロラン・バルト用語のプンクトゥムのことと言ってもよい、――刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目、または骰子であり、「私」を突き刺すばかりか、「私」にあざをつけ胸をしめつける偶然。


たいていの場合、プンクトゥムは《細部》である。つまり、部分的な対象である。それゆえ、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる。(ロラン・バルト『明るい部屋』ーーベルト付きの靴と首飾り (ロラン・バルト)

サンサースの作品は、プルーストにとって、己を引き渡すことになってしまうものだったのかもしれない。ひとは己を引き渡すものについて語るときはアンビバレントな愛憎の仮装によってしか語れない。ロラン・バルトは彼の至高のプンクトゥムの写真(母の幼年時代の「温室の写真」)を写真論でもある『明るい部屋』に掲載することを拒む。《「温室の写真」をここに掲げることはできない。それは私にとってしか存在しないのである。読者にとっては、それは関心=差異のない一枚の写真、《任意のもの》の何千という表われの一つにすぎないであろう》(『明るい部屋』)

心を寄せていた異性の名を口にできないのとおなじように、ほんとうに好きな作家、好きだった詩人の名はぜったいに明かせない。(堀江敏幸『河岸忘日抄』)

ーー本来、そうであるはずだ。

ところで、<あなた>はそういう作品をもっているか?

実際、「読書」とはあくまで変化にむけてのあられもない秘儀にほかならず、読みつつある文章の著者の名前や題名を思わず他人の目から隠さずにはいられない淫靡さを示唆することのない読書など、いくら読もうと人は変化したりはしない。(蓮實重彦『随想』)

堀江敏幸がいうような「ぜったいに明かせない」というのは極論だろう。長い生涯において、ふとその名を口に洩らすことがあるだろう、少年が秘密の宝を親しい友と共有するようにして声をひそめてつぶやくことが。だがおおやけの作品にはめったにその名がでてこない。作家や芸術家たちの秘密、場合によっては作家の核心はそこにある。

書物はまさに、人が手もとにかくまっているものを隠すためにこそ、書かれるのではないか。( ……)すべての哲学はさらに一つの哲学を隠している。すべての意見はまた一つの隠れ家であり、すべてのことばはまた一つの仮面である。(ニーチェ『善悪の彼岸』 289番)










2014年1月1日水曜日

あけましておめでとう

あけましておめでとうございます、ーーということで本日はごたごた書かずに好きな文章を引用するだけにしよう。


                   (杉本邸宅)




暮れの二十四、五日頃に、隣家から餅つきの音が聞こえてくる。台所のたたきに臼を据えて搗いている。こちらの台所にまで、地響きが伝わってくる。裏庭にまわると、地響きに代わって、杵音が聞こえる。隣家の餅つきの気配だけで、こちらも気分がゆったりするのはありがたい。

わたしの家では、正月に、輪取りという形式の鏡餅を祖先にお供えする習慣がある。輪取りというのは、径二寸五分のまんまるい檜のたがをはめた、厚さ一寸の餅で、これを三つ重ねにしたものを左右一対、三方に載せて仏壇に供えるのである。この輪取りを承知している餅屋は、いまではほとんどないが、蛸薬師通りの新町東入ル鳴海餅という店だけは、いまでもきちんと作ってくれる。年の暮れに輪取りをこの店に注文するのは、順照寺という真宗西本願寺派のお寺と私のところと、二口だけになったそうである。私の家は西の門徒である。輪取りは、この筋からきているしきたりのようである。

序でながら、門松というものを、私の家では昔から立てたことがない。子どもの時分、どの家にの門口にも、根引きの小松が水引で結わえて柱の袖に掛けてあるのに、うちにはそれがないのがさびしく、父にわけをたずねたことがある。
「門徒物知らず、というてな。諸事簡素にするのがしきたりになっている」
と父が応じたような記憶がある。そういえば、他宗でするような盆のお精霊さんの行事もなければ、歳徳棚や荒神松も、うちには見当たらなかった。大晦日の夜のおけら参りというものさえしなかった。柳田国男が浄土真宗を目の敵に、いやむしろ眼中にも置かなかったのはもっともである。

したがって、正月の用意といっても、さして煩雑ではない。テレビが普及するにつれて恐るべき勢いで流行し、いつのまにやらあらゆる家庭が正月の準備の中心みたいになったおせちというものも、私のところでは従来作らなかった。年始のあいさつにきた人は、玄関で応々と呼ばわり、はきものを脱ぐことはせず、その場であいさつして、さっさと帰っていくのがしきたりだったからである。店の間に、ひつじ草の池沼を描いた時代屏風を立てかけ、そのまえに名刺受けをととのえておくと、名刺を投じただけでそのまま去ってゆく人を少なくなかった。年始の客は数が多いということくらい、だれも心得ていたから、あいさつ以外の冗語は互いに遠慮しながら、年始の往来をとり交わしたのだ。これを水くさいというなかれ。礼節は、形式的であればあるほど虚礼から遠ざかるものである。砕けた付合いがもてはやされる時代は、かえって虚礼がはびこる時代であろう。

ところで、八坂神社におけら参りをし、知恩院の除夜の鐘を聞いて帰れば、もう真夜中ということになるが、私の家でおけら参りをしなかった理由は、元旦が一年を通じてもっとも早起きしなければならない朝だったからだ。戦後も、これは当分そのとおりだった。夜ふかし朝寝坊のくせがついた学生時代には、早朝五時に叩き起こされるというだけで正月がいやだった。六時前にはもう来訪する分家の家族を仏間に迎え入れ、仏壇を正面にして左右に分かれて対面し、家族すべて顔をそろえて新年のあいさつを交すーーーこれが中京の多くが、心学の教訓にのっとった家訓にもとづき、長いあいだ実行してきた元旦のしきたりである。

集合の時間が、いつの間にか七時になった。やがて七時半にまで繰り下がった。こうなれば、廃絶までは時間の問題だ。三年まえ、分家の家族ふくめての参集のしきたりは絶えた。

いまでは八時頃、お雑煮を祝うまえに、私の家だけの親子三代が仏間に顔をそろえる。そしていささか堅苦しく「あけましておめどうとうございます。旧年中は……」と型通りのあいさつを表白する。小学生の娘がくすくす笑っている。

正月三ガ日のお雑煮は白味噌、七日は七草粥、十五日は小豆粥というしきたりは、いまもつづいている。食事というものが儀式の一端であるとすれば、この点では、正月は猶かすかに節を保ち、時の折り目の名ごりを、暮しの中にとどめている。(杉本秀太郎『洛中生息』1976)

…………

除夜の鐘がきけない海外に住んでいるのだが、 知り合いがそれを癒してくれる素晴らしい演奏をアップしてくれた。





すばらしい素材のシャツだが、シルク入りかな、演奏もビロードの肌触りとしておこう。

《音が遠くからやってくればくるほど、音は近くからわたしに触れる》

沈黙とスカンシオン(どもるかのような)を綯い混ぜたこの演奏は、コルトーでもリヒテルなどの著名な演奏ともまた異なる、ちょっとビックリさせるものだね


ああ遠くからやってくる鐘の音を聴きながら
異国の屠蘇を飲もう
美容師の妻の妹が肴をもってきた
さて痛風のぐあいはダイジョウブか

詩人は葡萄畑へ出かけて
こい葡萄酒をただでのむだろう
クレーの夜の庭で満月をみながら
美容師と女あんまは愛らしいひようたんを
かたむけてシェリー酒をのんでいる
ああ無限の淋しさはつまらないもの
からほとばしり出るのだ
お寺の庭の池のそばにはもう
クコの実が真赤になってぶらさがる
ダンテの翻訳者はクコ酒をつくる季節だ(西脇順三郎『失われた時』から)

実はあの曲は、宴のときのオレのレパートリーのひとつだった。





「おめでたう」はお正月の専用語になつたが、実は二度の藪入りに、子と名のつく者即子分・子方が、親分・親方の家へ出て言うた語なのである。上は一天万乗の天子も、上皇・皇太后の内に到られた。公家・武家・庶民を通じて、常々目上と頼む人の家に「おめでたう」を言ひに行つたなごりである。「おめでたくおはしませ」の意で、御同慶の春を欣ぶのではない。「おめでたう」をかけられた目上の人の魂は、其にかぶれてめでたくなるのだ。此が奉公人・嫁壻の藪入りに固定して、「おめでたう」は生徒にかけられると、先生からでも言ふやうになつて了うた。此は間違ひで、昔なら大変である。一気に其目下の者の下につく誓ひをしたことになる。盆に「おめでたう」を言うてゐる地方は、あるかなきかになつた。でも生盆・生御霊と言ふ語は御存じであらう。聖霊迎への盆前に、生御魂を鎮めに行くのであつた。室町頃からは「おめでたごと」と言うた様であるから、盆でも「おめでたう」を唱へたのである。正月の「おめでたう」は年頭の祝儀として、本義は忘れられ、盆だけは変な風習として行はれて来たのだ。(折口信夫『若水の話』)