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2014年7月23日水曜日

フロイトの「現勢神経症Aktualneurose」概念をめぐる現代の新しい「症状」

ここのところ一世紀ほどまえの男たちの女性ヒステリー畏怖の事例を、ジジェクの文の引用を中心に続けて投稿した(エリオットーヴィヴィアン、そしてムンクーーオスロワイン商人の娘)。ジジェク曰く、カフカにもその気があるというので、カフカーミレナをめぐってメモしようとしたが、ミレナがヒステリー症状であったかどうかは寡聞にして確かでない。カフカの女性畏怖は間違いなくあるだろうが。

・自分のなかの悲鳴に加えて、あなたの声を同時に聞くなどはできません。 [カフカ ミレナへの手紙]

・彼女が好きなのに話ができない。不意に出くわさないように、現れるのを待ち受けている。 [カフカ 創作ノート]

・それにしても、どうも私はあなたのお顔をはっきり思い出すことができません。後であなたが喫茶店のテーブルの間を遠ざかっていかれたときの様子だけが、そのあなたの姿、あなたの服、それだけが今もってまざまざと目に浮かびます。[ミレナへの手紙]

ーーだが、これらも恋に陥った内気な男のごくふつうの姿なのかもしれない。




「あなたのおっしゃる通りです。私は彼が好きなのです。でもF、あなたのことも私は好きなのです」とあなたは書いています。この文句を私は実に念を入れて読みました。一言一言です。特に「のことも」のところでは長い間立ち止りました。みんなそのとおりです。これがそのとおりでなかったら、あなたはミレナではないでしょう。そして、もしあなたがいなかったなら、一体この私は何なのでしょう。(…)しかもなお、何らかの弱さから私はこの文句と手を切ることができずに、際限もなく読みつづけています。そして、結局それをもう一度ここに写して書き、あなたがこの文句を見て下さるように、二人が一緒にそれを読むように、額に額をよせて(あなたの髪が私のこめかみに)、と望むのです。(カフカ ミレナへの手紙)


というわけで、ここではやや異なった側面から、すなわち現代におけるかつてのヒステリーの消滅という面から、ーーまたしてもヒステリーにかかわるのだが、乗りかかった舟であるーーいくらか記してみよう。

いわゆるヴィクトリア朝風の厳格なモラルが支配的だった時代には、ヒステリーは頻繁にみられたのは間違いない。われわれはその後、女性解放やら避妊革命などを経てきており、また以前ほど父権制社会でもなくなってきている。すなわち、それらの原因により、現代はヒステリー患者が少なくなってきたと一般には言われるのだが、その代りに、パニック障害、摂食障害、自傷行為などが目立つようになってきたとされる。

実際、日本でも、夏目漱石の『道草』や宇野浩二の『苦の世界』などで描かれた女性の極度のヒステリー症状は、現在ほとんど見当たらなくなったといってよいだろう。これらの小説が書かれた時代は、明治維新以後の約半世紀、いわゆる擬似一神教時代のことであり、性風俗がおおらかであった江戸時代は、武士階級は脇にやるとしても、商人階級の女性たちはどうだったのだろう。厳格なモラルのあるところにヒステリーがあるとするなら、理論的には少なかったはずなのだ。そもそも日本では、明治以降の一時期を除いて、欧米にくらべヒステリーは少なかったのではないかと憶測されないでもない。

かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。その分、母親もいくぶん超自我的であった。財政を握っている日本の母親は、生活費だけを父親から貰う最近までの欧米の母親よりも社会的存在であったと私は思う。現在も、欧米の女性が働く理由の第一は夫からの経済的自立――「自分の財布を持ちたい」ということであるらしい。

明治以後になって、第二次大戦前までの父はしばしば、擬似一神教としての天皇を背後霊として子に臨んだ。戦前の父はしばしば政府の説く道徳を代弁したものだ。そのために、父は自分の意見を示さない人であった。自分の意見はあっても、子に語ると子を社会から疎外することになるーーそういう配慮が、父を無口にし、社会の代弁者とした。日本の父が超自我として弱かったのは、そのためである。その弱さは子どもにもみえみえであった。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003 『時のしずく』2005所収)

――などと書いているわたくしは、この分野のまったくのシロウトであり、以下はそのディレッタントが、たまたまある機縁で、いくつかの論文に目を通した備忘に過ぎない。ここではベルギーのラカン派精神分析医のポール・ヴェルハーゲの見解を中心に記すが、精神医学のそれ以外の派の考え方について、多くを知るものでもない。

ヴェルハーゲの名を知ったのは、中井久夫のトラウマ論を読む傍ら、ラカン派のトラウマをめぐる考え方はどうなのだろうと思いを馳せるなかであり、三年ほどまえ、彼の『Trauma and Histeria』という小論にウェブ上でめぐり合い、いささか関心をもったことに始まる。彼は日本ではほとんど知られていないようだが、たとえばジャック=アラン・ミレールの「二十世紀の神経症から二十一世紀のふつうの精神病へ」という1998年に提出された見解における「ふつうの精神病」概念をウェブ上で英語検索すれば、オーストリアの精神科医Jonathan D. Redmondの“Contemporary perspectives on Lacanian theories of psychosis(2013)に真っ先に行き当たる。そこにはミレールの「ふつうの精神病」概念とヴェルハーゲの「theory of actualpathology」が、精神病をめぐってこの十年に提案されたふたつの傑出した概念だとされている。

…………

まず、「来るべき精神分析」座談会からの文を掲げることにしよう。この座談会は、十川幸司・原和之・立木康介の三氏によって2009年になされたもので、十川幸司の『来るべき精神分析のプログラム』(2008) 上梓後、「来るべき精神分析」の展望の試みとして、十川氏の書を中心にしつつ現在の精神分析と臨床実践の問題が検討されている。


<情動について>

(立木)
 そろそろ理論篇に移りたいと思います。僕が十川さんのご本でまず取り上げてみたいのは、情動の問題とセクシュアリティの問題です。十川さんは欲動が大事だというご意見ですが、最初に情動にも触れておきたい。情動の問題は前著『精神分析』でも大きく扱われていて、それを読んだとき、情動こそが十川さんの構築なさりつつある新しい精神分析の中心になるのかな、という印象をもちました。十川さんが言われる情動というのは「エモーション」のことですか。

(十川)
 いや、「アフェクト」です。

(立木)
 そうですか。それならなおいいのですが、ラカンの言う情動とは、身体がシニフィアンの媒介なしに現実界にアフェクトされることです。その状態のパラダイムは「不安」ですが、それ以外の形で情動にアプローチするのはなかなか難しい。フロイトに遡っても、欲動の代表として「情動」と「表象」が分けられていますが、いずれもきちんと扱えていない感じがします。とりわけ情動の問題をそのものとして取り出した個所がほとんどない。もっとも、不安の場合だけは別ですが。ラカンに戻れば、身体がシニフィアンの媒介なしに現実界によってアフェクトされる。現代思想的な言葉を使すなら、「触発」される。それに対して十川さんの場合は、システムとしての自己が他者のコミュニケーションに触発されるという点が重視されています。十川さんは、子供が両親の会話に耳を傾けていたり、子供が寝ているところで両親がコミュニケーションをしている状況--十川さんは「原風景」と呼んでおられます--に注目なさっていますが、子供はそこまでまさにコミュニケーションにアフェクトされ、触発されている。そこから自己のコミュニケーション回路が徐々に形作られ、情動調律というプロセスを通じて情動的なコミュニケーションが始まっていくわけですね。コミュニケーションとしての情動。そこに焦点があてられています。

ここでは、当面、《

ラカンの言う情動とは、身体がシニフィアンの媒介なしに現実界にアフェクトされること》という立木康介氏の発言に注目しておこう。そして《十川さんの場合は、システムとしての自己が他者のコミュニケーションに触発されるという点が重視》されているとある。これは、症状の身体的側面(情動、欲動、ソマティック)などを重視しつつも、言語機能による治療の有効性を捨て去るつもりはないという態度だと読むことができる(その発言については、末尾に附す)。

いまは敢えて引用しないが、この座談会で語られていることから読み取れるのは、日本でも精神分析、いやもっと大きく精神医学の領野では、現在の患者の「症状」は、旧来の言語の領域(シニフィアンの媒介による「症状」の領域)のみに重点を置く治療では対応しがたくなっているという共通の認識であるようだ。それが「情動」なのか、「欲動」への対応の必要性なのか、あるいはまた別の対応の仕方かは、治療者の視点の置き方によって、さまざまなのであろうが。

…………


以下に、仮にそのレクチャアの冒頭部分を仮に訳出したポール・ヴェルハーゲは、現在の新しい「症状」は、身体、ソマティック(流動する身体)にかかわるとしている。《the new symptoms have mainly to do with the body, and moreover with the somatic.》

ところで、この「ソマティック」は、すでに初期フロイトに現れている、”Somatisches Entgegenkommenとして。人文書院の旧訳では「身体側からの対応」と訳されている(参照:症例ドラのソマティックなフェラチオ欲動)。(岩波新訳ではどう訳されているのかは不明の身である)。

フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動にかかわる要素、――フロイトが“Somatisches Entgegenkommenと呼んだものーーだ。のちに『性欲論三篇』にて、「欲動の固着」と呼ばれるようになったものだ。この観点からは、ドラの転換性の症状は、ふたつの視点から研究することができる。象徴的なもの、すなわちシニフィアンあるいは心因性の代表象representation――抑圧されたものーー、そしてもうひとつは、現実界的なもの、すなわち欲動にかかわり、ドラのケースでは、口唇欲動ということになる。(Lacans goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq

さて、上に記したように、ポール・ヴェルハーゲの2008年のダブリンでのレクチャアの冒頭を掲げるが、以下の訳文は専門家でないものが、仮に訳したものであることを断わっておく。


三十年ほど前に、私は最初の患者に出会った。私のうけた古典的な教育と訓練は、次のような臨床的特徴に廻り会うよう想定されていた。すなわち患者は、解釈されうる症状をもっており、これらの症状は意味溢れる構築物だということ。もっとも患者は防衛メカニズムのためにこの意味に気づいていないのだが。患者はこれらの症状がライフヒストリーに関連することに気づいていた。話すことによる治療の目標は、この関連の覆いを取り除くことだった。そうするのは、その裏に潜んだ葛藤が、他のよりより解決法を導き得るようにするためだった。そのうえ、相対的には陽性転移がやがて手助けしてくれた。これは1905年にフロイトによって提唱された、精神分析治療を成功させるための、基本的規準だった。要するに、古典的な精神分析の治療とは、古典的な精神神経症psychoneurosisに向けられたものである。私はここで強調しなくてはならない、接頭辞“精神”を。

About 30 years ago I saw my first patient. My classic education and training meant that the following clinical characteristics were to be expected: a patient would have symptoms that can be interpreted; these symptoms are meaningful constructions, although the patient is unaware of this meaning due to defence mechanisms; the patient would be aware that these symptoms were connected with a life history. The aim of the talking cure is to uncover this connection so that the underlying conflicts may find another and better solution. Furthermore, a relatively positive transference was forthcoming. These were the basic criteria put forward by Freud in 1905 for a successful psychoanalytic treatment (Freud, 1905a). In short: a classic psychoanalytic treatment is intended for the classic psychoneurosis, and I must stress the prefix “psycho.”
現在、フロイトから百年経て、われわれはまったく異なった症状に直面している。恐怖症の構築のかわりに、パニック障害に出会う。転換症状のかわりに、身体化と摂食障害に出会う。アクティングアウトのかわりに、攻撃的な性的エンアクトメント(上演)に出会う、それはしばしば自傷行為と薬物乱用を伴っている。そのうえ、ヒストリゼーション(歴史化)等々はどこかに行ってしまった。個人のライフヒストリーのエラボレーション、そこにこれらの症状の場所や理由、意味を見出すようなものは、見つからないのだ。最後に、治療上の有効な協同関係はやってこない。その代りに、われわれは上の空の、無関心な態度に出会う。それは疑いの目と、通常は陰性転移を伴う。実際、そのような患者を、フロイトは拒絶しただろう。いささか誇張をもって言うなら、好ましく振舞う(行儀のよい)かつての精神神経症の患者はほとんどいなくなってしまった。これが、あなたがたが臨床診療の到るところで見出す現代の確信である。すなわち、われわれは新しい種類の症状、ことに、新しく取扱いが難しい患者に出会うのだ。

Today, a hundred years after Freud, we are confronted with totally different symptoms. Instead of phobic constructions, we meet with panic disorders; instead of conversion symptoms, we find somatization and eating disorders. Instead of acting-out we are confronted with aggressive and sexual enactments, often combined with self-mutilation and drug abuse. Furthermore, the aspect of “historization” is missing: i.e., the elaboration of a personal life history in which these symptoms find a place, a reason and a meaning. Finally, the development of a useful therapeutic alliance is not forthcoming. Instead, we meet with an absent-minded, indifferent attitude, together with distrust and a generally negative transference. Indeed, such a patient would have been refused by Freud. I can say, with some exaggeration, that the well-behaved psychoneurotic patient of the past has almost disappeared. Hence the contemporary conviction that you will find everywhere in clinical practice: we are meeting with new kinds of symptoms and, especially, with a new and difficult kind of patient.


こうして、新しい症状の特徴について次の三つが挙げられることになる。

①主に身体にかかわる、さらにいえばソマティックに。
②それらはふつう、パフォーマティヴな特徴がある。
③意味作用の異なったレイヤーが欠けている、ヒストリゼーションの側面の欠如とともに云々、とある。

すなわちヒステリー≒ヒストリーなら、かつてのヒステリー的な特徴が現在の患者の症状にはなくなってしまっているという捉え方なのだろう。ここでさらにヴェルハーゲのActual-pathology 」をめぐっての説明を、英文のまま抜き出すことにする。

Firstly, the new symptoms have mainly to do with the body, and moreover with the somatic. Secondly, they are usually of a performative nature. Thirdly, they lack the different layers of signification together with the aspect of historization. Moreover, these three characteristics are combined with a typical therapeutic alliance that is everything but positive and cooperative. We will now go more deeply into their differences from classic psychopathology.

Concerning the importance of the body, it is quite obvious that in the new symptoms the somatic aspect is central in a direct, unmediated way. In the classic symptoms, the reality of the body is kept outside the psychopathology; insofar as it enters the neurotic game, it is always in an imaginary fantasising manner. For example, conversion symptoms do not concern the real body in a permanent way. In contrast to this, the new symptoms imply it directly: self-mutilation and eating disorders are the most spectacular examples of putting the body in the centre, as is the case with aggressive and/or sexual enactments.

Secondly, the new symptoms are usually performative: they imply action. With the exception of obsessive-compulsive actions, the classic symptoms remain almost always within the field of the imaginary (see phobic complaints, hallucinations, obsessive thoughts, delusions), and don't give rise to actions. In cases where they do, our term for them, acting-out, implies that this action has a meaning, usually taking place at the limit of symbolisation. The classic patient has to be driven to a certain point before he crosses the threshold and acts. In cases of the new enactment, it is exactly the other way around; this form of enactment is one of the reasons why these are difficult patients, their demand from us is more coercive.

Thirdly, unlike the classic symptoms, the new ones seem to lack meaning, together with a clear-cut connection to the life history of the patient. This comes as a surprise because usually when someone consults a therapist, he or she will talk about his problems in such a way that these problems form part of his or her history, with the parents and the siblings playing important roles. By and large, this is not typical for the new clinical situation. For example, while most of these patients suffer from a combination of anxiety and depression, what in the DSM-dialect is called “mood disorders,” there is a lack of significant content. Classic depression, as described by Freud (1917e), goes back to the loss of a significant object and the ensuing (partial) loss of identity. It is not too difficult to find both losses in clinical practice, the classic ones being the loss of a love partner or a conflict in the work-place. In both cases, there is a significant loss of identity for the subject. Again, this is not the case with the new type of patient. It seems as if the depression has always been there and there is no obvious link with the loss of an object. In these times of genetics, the aetiology of such a depression will be considered as biological, something to do with “chemical imbalances,” although there is no clear-cut scientific proof for such an assumption. Clinical evidence shows that such a depression arises against a background of a general meaninglessness, where the most insignificant drawback is enough to trigger the depression that is already there. The same reasoning can be applied to the anxiety that is ever ready to materialise without the need for a specific object or situation. Finally, this group of characteristics can be linked to something also present in the idea of personality disorders. It seems as if these patients are different in matters of identity and because of this difference their way of relating to others is unusual.

Based on my contemporary reading of Freud, I believe it is possible to bring these new symptoms together under one heading, and to put forward a common diagnostic difference from the classic group. The best label for the first group is psychopathology; the name for the new group is actual-pathology. Psychopathology means that the psychological part is in the foreground, i.e., psychological symptoms, with a meaning and with a history. Actual-pathology means that the actual - the here and now - fills the scene, together with the body, and apparently without a link to the life history. These two groups should be understood as two poles of the same continuum. This is what Freud discovered quite early in his clinical practice.

この文は、ヴェルハーゲが初期フロイト用語の変奏である”Actual-pathology”を現在の症状の名とする理由が書かれている。こうして、ヴェルハーゲは、DSM批判の急先鋒でありつつ、ジャック=アラン・ミレールの「ふつうの精神病」概念にも異議を唱えることになる(参照:ラカン派の「ふつうの精神病」概念をめぐって)。

Actual-pathology”は、邦訳でどうのように訳すべきかは判然としないが、これはもともと1890年代のフロイトの著作に現れた ”Aktualneurose”(actual neurosis)を起源としており(そこでは「精神神経症」と対比されて語られている)、 ”Aktualneurose”は「現勢神経症」やら「現実神経症」と訳されているので、ここで仮に「現勢病理」としておく。すなわち旧来の「精神病理」(精神神経症に起源を発する)に対する概念である。

なぜ「現勢病理Actual-pathology」が、この何十年間のあいだに顕著になってきたのかについては、通常、ジジェクなどによってしきりに主張される「エディプスの斜陽」(父性的な象徴権威の弱体化)の文脈からの憶測が可能だが、ヴェルハーゲは、冒頭に掲げた2008年のダブリンレクチャーの一年まえに、同じダブリンで次のような説明をしている。

◆“Chronicle of a death foretold”: the end of psychotherapy. Paul Verhaeghe – Dublin, September 2007 – Health4Lifeconfererence – DCU.(敢えて訳出するが、重ねて繰り返せば、英文を充分に参照のこと)

ラカン派のタームであるなら、鏡像段階のあいだに何かがうまく行っていないのです。鏡像段階、すなわち、アイデンティティの形成が欲動の規制と共同して始まる時期です。まるで現代の〈大他者〉――その意味するところは、両親だけではなく、また象徴的秩序ですがーー彼/彼女の鏡像的機能を果たすことにますます失敗しているかのようです。その結果は、子供は心理的に発達しないのです、すなわち、欲動やそれに伴う興奮を取り扱う表象的な方法に欠けているのです。さらにアイデンティティ自体の形成さえも狂わされています。結果として、欲動の処理はソマティック(身体的な)レベル、すなわち原初の現実界のレベルに立ち往生してしまっています。

To put it in Lacanian terms, something went wrong during the mirror stage, that is, the period where the identity formation starts in combination with the drive regulation. It seems as if the contemporary Other – meaning the parents, but also the symbolic order – is failing more and more in taking on his/her mirroring function. The result is that the child does not develop a psychological, meaning a representational way of handling his drives and the accompanying arousal. Moreover, the identity formation as such is hampered as well. Consequently, the processing of the drives remains stuck at the somatic level, that is, the original level of the Real.
これが、なぜ症状が、なにものにも介入されない、さらにはパフォーマティヴな仕方で身体に呼びかけるのかを説明してくれます。同様に意味の欠如をも説明してくれます。それらは、防衛メカニズムのたぐいではなく、意味のない「解除反応Abreaction」により接近しています。私の考え方の道筋では、これはフロイトが命名した「現勢神経症」ものへと導いてくれます。時間がないので、フロイト理論の現代的解釈を詳しく述べることはしませんが、こういうだけで充分でしょう、すなわち。「現勢神経症」の主な特徴とは、表象を通しての欲動興奮を処理することの失敗である、と。

This explains why the symptoms address the body in an unmediated and even in a performative way. It explains their lack of meaning as well, they are much closer to a meaningless “Abreaction” than to whatever kind of defense mechanism. In my reasoning, this leads to what Freud has called actual neurosis. For lack of time, I can't elaborate on our contemporary interpretation of Freud's theory; suffice it to say that the main characteristic of actual neurosis is the failure to process the drive arousal via representations.
ラカンの鏡像段階の理論とフロイトのアイデンティティ発達の理論の光の下では、表象能力の失敗とは、原初の〈大他者〉との関係における失敗として理解されなければなりません。ごく一般的には、そうなのです。古典的な精神神経症では、欲動興奮は表象的なオブラートがあり、意味溢れる古典的に分析され得る症状を通して、象徴的な表現を見出せます。

In the light of Lacan's theory on the mirror stage and Freud's theory on identity development, this failure of the representational capacity has to be understood via a failure in the relationship with the primordial Other. Normally, that is: in classic psychoneurosis the drive arousal obtains a representational coating and finds a symbolic expression via meaningful and classically analyzable symptoms.
現勢神経症の場合では、この表象の処理がひどく妨げられています。臨床像に関する結果は、“意味溢れる”症状の不在です。そこにはソマティックな現象にかかわるパニックな攻撃と不安が伴っています。不安とは原初の興奮arousalの表現なのです。結果として、興奮状態excitationが過剰な割合を占めてしまいます。そして行動をとおした捌け口が見出されるのです。それは自らの身体に向けてであったり、他者に向けてであったりします。

In case of actual neurosis this representational process is seriously hampered. The effect with regard to the clinical picture is an absence of ‘meaningful' symptoms combined with the preponderance of panic attacks and anxiety related somatic phenomena, the latter being expressions of the original arousal. Consequently, the excitation obtains excessive proportions and finds an outlet via actions that are either directed towards the own body or towards the other.

いま訳出した文の冒頭近くにある、《現代の〈大他者〉――その意味するところは、両親だけではなく、また象徴的秩序ですがーー彼/彼女の鏡像的機能を果たすことにますます失敗している》とは、「鰐の口のつっかえ棒」が機能していないということであり、それが《エディプスの斜陽》(父性的な象徴権威の弱体化)やら「父なき世代」と言われる内実であるだろう。

漫画に恐ろしいワニの口から逃れるために、つっかえ棒をするシーンがある。ラカンはそれに倣って、このワニの恐ろしい口の中で子どもが生きるには、口の中につっかえ棒をすればよいと言う。ファルスとは実はつっかえ棒のようなもので、父親はこのファルスを持つ者である。そして父親のファルスは子供の小さいファルス(φ)ではなく、大きなファルス(Φ)である。つまり正義の騎士が万能の剣をたずさえて現れるように、父親がファルスを持って子供を助けてくれるのだ。

これは何を意味するのであろう。子供が母親の前にいるとき母親の目が子供だけに向き、欲望の対象が子どもだけであれば子どもはその貪欲な口の中で押しつぶされてしまう。このときに子供の外にも母親の関心を引くものがあれば、母親の欲望が「他のもの」(Autre)にも向いていれば、子供は母親のファルスに全面的に同一化する必要ななくなり、母親に飲み込まれることを逃れることができる。その「他のもの」が子どもを救ってくれるのだ。この「他のもの」が父親である。だがこの父親は現実に存在する父親ではない。ひとつの隠喩である。(向井雅明「精神分析と心理学」2002)

さて、すこしまえに戻って、ポール・ヴェルハーゲは、ジャック=アラン・ミレールの「ふつうの精神病」概念批判をしているとしたが、--すなわち、その概念に対して”Actual-pathology”(現勢病理)を前面に押し立てているのだがーー、ラカン派における新しい対応法のひとつ「サントームの臨床」をめぐっては、ミレールの立場と大きく異なることはないようにみえる。

◆ミレールの2008年のセミネールから

・新たな精神分析臨床はラカンの最後期の教育から切り出されたものですが、これは古い臨床より圧倒的に優れているものです。それは、構造論的臨床と対立するボロメオの臨床であると言われます。構造論的臨床は神経症と精神病の断絶を前面に出してきます、より完璧を期すなら神経症、精神病、倒錯です。
・この第二の臨床は正常性やメンタルヘルスに範をとる基礎を葬り、次の公式をその原則とします「ひとは皆狂人でありTout le monde est fou言い換えれば妄想的délirantである」。これは一度ラカンが副次的なテクストのなかで書いたものですが、私は昨年これを広めました。
・第2の精神分析臨床は、症状symptômeの概念を、この〔「終わりのない分析」で示される症状の〕残余のモデルに基づいて再構成するものです。こうしてラカンはそれを古い綴り方でサントームsinthomeと呼びました。サントームとは、治癒不可能なものの名前なのです。

ヴェルハーゲの2001年に上梓された書にも、既にほぼ同じような見解を見ることができる。

フロイトとラカンのふたりとも見出していた、まさに、この現実界における症状の根には治療効果を妨害するものがあることを。分析は、無意識の抑圧された部分、すなわち表象されたファリックシステムにねらいをつける。しかし〈他者の享楽〉に直面したとき無力である。現在のまさに事実とは、われわれは、抑圧などほとんど現れない患者に直面することだ。これは、精神分析にとってまったく新しいチャレンジを意味する。(Paul Verhaeghe『BEYOND GENDER』ーー二種類の「症状symptom」(象徴界と現実界)と「サントームsinthome」

そもそも「サントーム sinthome」とは、ラカンによる「症状symptom」の新しいヴァージョンなのであり、旧来の「象徴界の症状」に対して、「サントーム」とは「現実界 réelの症状symptom」としてよい。とすれば、ヴェルハーゲの「Actual-pathology」(現勢病理)は、「現実界病理」とか「リアル病理」と 呼ぶこともできよう。ヴェルハーゲはあえて「サントーム」というラカン派ジャーゴンを使用せず、初期フロイトの「現勢神経症Aktualneurose」起源の用語遣いをしたのだろう。実際、1890年代のフロイト論文は、トラウマに関わった、すなわちラカン文脈では現実界にかかわった用語がそれ以外にもみられる。たとえば「Fremdkörper」(異物としての身体)や、上にも挙げた 「Somatisches Entgegenkommen」(身体からの対応)など。ヴェルハーゲはこれらの用語を取り出しつつ、フロイトは初期から二種類の症状を考えていたのだとしている(参照:二種類の「症状symptom」(象徴界と現実界)と「サントームsinthome」)。


さていずれにせよ、ミレールの「ふつうの精神病」概念は仮称であるだろうし、ラカンの「サントーム」概念も、ラカン派以外は通用しがたい。精神医学に携わる方は、ラカンジャーゴンを耳にしただけで抵抗がある口もいるだろう。そのとき初期フロイトの「現勢神経症Aktualneurose」起源の”Actual-pathology”「現勢病理」概念は、いまでは熱心に読まれることの稀になっているはずのフロイトへの再度の回帰を促し、しかもラカン派内部のしがらみを超えた親しみやすい言葉遣いであるには相違ない。ラカン派とされる斎藤環氏からもこんな発言が出るくらいなのだから、やはり「ふつうの精神病」は仮称にしてもいただけない。

@pentaxxx: しかし今日のコロックでつくづく思ったが、こう「普通精神病」や「普通倒錯」が一般化したというのなら「普通境界例」とか「普通自閉症」なんてのも出てきそうな気が。そして私が10分間の「普通精神分析」で治療をする、と。いやマジでね。(2014.3.9)

…………

※附記:冒頭に掲げた「来るべき精神分析」座談会で十川氏はヒステリーをめぐり次のように発言していることをここにつけ加えておこう。

(原)
 言語を介して情動のレベルに働きかけるというテーゼは、ご本の中に繰り返し出てきますが、それがなぜ可能なのかについては、どうなんでしょうか? 二つの切り離されたものがあって、一方が他方に働きかけるイメージにどうしてもなってしまうのですが。

(十川)
 どうして可能なのかと聞かれると、なかなか答えるのは難しい(笑)。言語と情動が最も緊密に結びついているのは、ヒステリー患者です。ヒステリー患者は、みずからの無意識を自由連想によって物語る驚くべき能力をもっています。そして、その話に対して解釈を加えると、その解釈が情動を巻き込んだ形で患者の症状にまで届く。フロイトが『ヒステリー研究』で取り上げているのも、ヒステリーのこのようなメカニズムです。ヒステリー患者が少なくなってきたという話はよく聞きますが、実際少なくなったのは派手な症状を呈するヒステリー患者であって、ほとんど無症状で、一見ありきたりの悩みを抱えているヒステリー患者は今でも数多くいます。そういう人の治療では、言葉の力というものを明確な手ごたえをもって実感できます。




2014年3月8日土曜日

ラカン派の「ふつうの精神病」概念をめぐって

ツイッターにてラカン派による、あるいはそれに関心があるらしい人による「情報」を拾っていると、耳慣れない概念、たとえば「普通の精神病」なる概念に行き当たる。
              
すこしは関心のあるひとなら、なんのことだと調べてみるのが人情というものだろう。わたくしはその「すこしは関心のあるひと」の一員である。たしか一年半ほど前だったが、「ふつうの精神病」という語をグーグル検索をしてみたのだが、立木康介氏が次のように発言しているのが知れた。

DSM-IIIで神経症概念が解体されたあと、それに取って代わるかのように、一方では、症状がより局在化された形で現れる摂食障害のようなトラブルが増えてくる。他方、1980年代には特にボーダーライン(境界性人格障害)が大きかったと思いますが、各種の人格障害が目立ってきた。北米では同じ時期に多重人格障害がよく報告されるようになりました。それは北米に限った現象で、ヨーロッパの臨床家は1990年半ば頃までほとんど多重人格障害を見たことがない、少なくともフランスの精神分析家たちは多重人格障害の患者にまるでお目にかかったことがない、という状況でした。ですから、ECFの分析家たちは、その時期まで、しばしばこういう言い方をしていました。「多重人格障害はDSM-IIIを中心とするアメリカの精神医学界が抑圧したヒステリーの回帰だ」と。エリック・ローランあたりまでが冗談めかしてそんなことを言っていたように記憶しています。

 ところが、1990年代後半になると状況が変わってきて、フランスの分析家たちも自分たちが臨床で相手にしている患者さんが今までと違ってきているのではないか、という感触を持ち始める。それがはっきりとした形で出てきたのが、1998年にECFの大きな会合で精神病の問題が扱われた時でした。ジャック=アラン・ミレールが「普通の精神病(psychose ordinaire)」というタームを掲げて、それがまたたくまにECFの中で広まり、今では普通名詞のように、あるいは診断名のように使われています。明らかに神経症ではない構造をもつ主体なのに、はっきりと発症した精神病にも見えない。シュレーバーのようなパラノイアや古典的な統合失調症(分裂病)のタイプにもあてはまらない緩い形、精神病の状態がいわば「普通に」生きられているように見える主体の問題は、妄想や幻覚といった具体的な病理現象というより、おうおうにして、ある種の社会的不適応、つまり社会の中に場所をもてないという形で現れてきます。こうした患者さんに分析家が接する機会が増え、たちまち臨床の前景を占めるようになってきた。20世紀から今日まで、ずっとそれが続いています。実はECFでは今世紀初頭から、制度の中での精神分析の実践を見直そうという動きが始まったのですが、それと呼応し合う形で現在の臨床の中に「普通の精神病」が踊り出てきたというのは興味深いですね。非定型とは言わないまでも、古典的な神経症と精神病の構造的な差異を揺るがすような現象だと思いますが、「普通の精神病」はポスト神経症時代の臨床の中心的な概念になってきたと思います。

 ただ、フランス全体、ラカン派全体の状況で言うと、ECFが「普通の精神病」という形でポスト神経症時代の臨床の中心に精神病をもってくるのに対して、シャルル・メルマンらのALI(国際ラカン協会)は「倒錯」という概念を前面に出してきました。最近では、ジャン=ピエール・ルブランという分析家がミレールの二番煎じで『普通の倒錯』(2007)という本を出した。彼らは心的経済全体が以前と同じようには動いておらず、抑圧の経済から享楽中心の、享楽を見せびらかすような経済へ移った、という議論をしています。このようにポスト神経症時代の主体の支配的な構造を精神病と見るか倒錯と見るかによって、フランスの二大ラカン学派の主張が分かれているのは注目に値します。(来るべき精神分析のために

 
ここでさらに関心のある人なら、“psychose ordinaire”で検索してみるのが、人情というものだろう。シロウトのわたくしはそんなことはしない。仏語を読めない。ラカンの構造論(神経症、精神病、倒錯、それぞれ抑圧、排除、否認という用語に係わる)が機能しづらくなってきたのだな、という感慨を抱いたぐらいで、しばらくはそのまま放ってあった。

だがその後も「ふつうの精神病」という概念が流通しているのをときおり見かける。見かけるがたいしたことを語っているようには思えない。上の立木氏の発言の範囲をあまり出ない。

語りたいならもうすこし調べろよな、と言ってみたくなる。概念だけCMコンセプトのように流通させる輩は80年代の再来のようだぜ、と言ってみたくなる。まあでも他人の趣味だ、文句はいうまい。

というわけで“Ordnary Psychosis”を自分でグーグル検索してみる。これはいつ頃のことだったか、半年前かそれよりもうすこし前だ。


そのなかで、オーストリアの精神科医Jonathan D. Redmondの“Contemporary perspectives on Lacanian theories of psychosisに当たった。見慣れない名の人の論文であり通常だったらやり過ごしたかもしれない(未知の名であっても、Lacan.comにある論文だったら読むことにしているのだが)。


だがRedmondの論文の冒頭にはこうある。
In contemporary Lacanian psychoanalysis, Verhaeghe's theory of actualpathology psychopathology in psychosis and the Millerian idea of “ordinary psychosis” provide diverging conceptual approaches to psychosis.

Verhaegheの名はわたくしには親しい。かなり以前、中井久夫のトラウマ論を読んでいるとき、ラカン派はトラウマについてどう語っているのだろうと思い、これもグーグル検索をしてみたところ、Paul Verhaegheの“ Trauma and hysteria within Freud and Lacan”に当たって比較的熱心に読んだからだ。その後、インターネット上にある彼の無料で手に入る英語論文は、すべてではないがかなり読んでいる。日本では名が知られていないようで、なんと読むのかさだかではないが、“ポール・ヴェルハーゲ”とわたくしは呼んでいる。


「ふつうの精神病」の話に戻れば、日本の精神分析の専門家なら当然この程度のことはやっているだろう。それにもかかわらず「ヴェルハーゲ」の名は出てこないのは奇妙なことだ。


上に掲げたJonathan D. Redmondの“Contemporary perspectives on Lacanian theories of psychosis”は、ジャック=アラン・ミレール(ラカンの娘婿)の「ふつうの精神病」概念/ヴェルハーゲのactualpathology理論を対比させ、ミレールの「ふつうの精神病」概念がヴェルハーゲ理論より広範な射程をもつ概念であることを論述するミレールよりの論だが、ヴェルハーゲ理論の功績も讃えている。


ラカン派におけるサントームや換喩/隠喩の扱いなども書かれており、Redmondの主張の論拠となる症例もある。この論がどのように評価されているのかは知るところではないが、現代のラカン理論をめぐる臨床家よりの概説としてもすぐれている、――と、(たいして知っているわけではないが)言っておくことにしよう。


ただし「ふつうの精神病」をめぐるものであり、「ふつうの倒錯」についての説明はない。註にこうあるだけだ。


A third clinical structure, perversion, is also utilized in Lacanian theory (Dor, 1997) but will not be discussed here due to its marginal status in the clinical field (Fink, 1997) and ongoing doubt over its nosological status (Miller, 2009).

二十世紀には、ラカン派により「われわれはみな神経症だ」とされ、二一世紀になって「われわれはみな妄想的(精神病)だ」とされる。あるいはフロイトは「性欲論」で、われわれはみな倒錯だというふうに取れる発言をしているし、晩年のラカンはひとの本質は倒錯的だとオッシャル。

“Freud n'a jamais réussi à concevoir ladite sexualité autrement que perverse. ... la perversion est l'essence de l'homme.” J. Lacan, Le Séminaire XXIII, Le Sinthome, Ornicar ?, 11, 1977


ミレール自身、次の論を読むとひどく揺れ動いているようにみえる(いまは動揺を読みとれる箇所は引用せず、”everyone is mad, delusional”の個所を引く)。

The Name of the Father, this famous key function of Lacan’s first teaching, is, one could say, a function now recognised across the entire analytic field, whether Lacanian or not. This key function, the Name of the Father, has been discounted by Lacan himself, depreciated in the course of his teaching, ending up being no more than a sinthome, that is, a supplement for a hole. One could say in this ambit, in this assembly, one could say as a short cut that this hole filled by the symptom name of the father is the non-existence of the sexual proportion in the human species, the species of living beings that speak. And the depreciation of the name of the name of the father in the clinic introduces an unprecedented perspective, which Lacan expresses by saying everyone is mad, delusional. This is not a joke, it translates the extension of the category of madness to everyone who speaks; that everyone suffers from the same lack of knowing what to do about sexuality. This phrase, this aphorism, indicates that which the so-called clinical structures have in common: neurosis, psychosis, perversion. And of course it shakes, undermines, the difference between neurosis and psychosis, which has until now been the basis of psychoanalytic diagnosis and an inexhaustible theme of the teachings.(The real in the 21st century by Jacques-Alain Miller

ーーということでこの記事も「ふつうの精神病」について何かを語っているわけではない。ただそのまわりをめぐったメモである。ただ「ふつうの精神病」概念を安易に流通させるな、とは暗に仄めかしているはずだが、逆効果でないことを祈る。これは批判、すなわち自己吟味でもあるのはもちろんのことである。

私がなそうとしたのは、カントとマルクスに共通する「批判(批評)」の意味を取り戻すことである。いうまでもなく、「批判」とは相手を非難することではなく、吟味であり、むしろ自己吟味である。(柄谷行人『トランスクリティーク』「序文」)

ヴェルハーゲへのインタヴュー(2011)より。

I would formulate it differently. Post-Lacanians indeed came to understand this with the term ‘ordinary psychosis’ — I do not like this, for two reasons. This has little if anything to do with psychosis in the classical Lacanian sense. Furthermore it brings about even greater confusion and a breakdown of communication with non-psychoanalytically trained colleagues in the discipline.http://www.lineofbeauty.org/index.php/s/article/view/60/121


…………

※附記:

わたくしは、「ふつうの倒錯」概念を前面にして「露出」を語る立木康介氏の『露出せよと現代文明は言う』を読んでいないが、次の書評には次のような文がある。

否認とは、母子一体的想像的万能感を断念する「去勢」を否認することを意味する。フロイトの「去勢コンプレクス」は、ラカン派によれば「象徴界への参入」つまり言語習得と切っても切れない関係にある。つまり、(男性)幼児は母親のファルスの欠如をトラウマとして経験する。同時に母親の欲望の謎に直面する主体はそれを、ファルスを欠いているがゆえにファルスを欲望するものと(短絡的に)解釈することによって、このトラウマを乗り越えるとともに、象徴界への参入を果たすのである。なぜなら、主体はトラウマを抑圧するために、ただちにその欠如を一種の換喩(メトニミー)によって、別の欲望対象に置き換えるのであり、このようにして次々にシニフィアンを言語的象徴として主体に表象することを可能にしてゆく。つまり、主体を言語世界に導く。ちょうどパズルの一種で、多くの四角のピースを縦横にスライドさせていくことによって、すべてのピースを求められた順に並び変えるゲームがある。それらのピースが縦横に動くことができるのは、それらのうち一か所が空所として空いているからである。それと同じように事物の中に一つの欠如(ファルスの欠如)を生みだすことによって、シニフィアン全体の構造化が可能になるのである。ファルスの欠如という解剖学的事実は、母の欲望というシニフィアンに置き換わることによって、「父の名」のもとにあるシニフィアンの体系への欲望として理解されることになるのである。欠如から欲望への置き換えこそが、原初のシニフィアンを欠如のシニフィアンとして成立させることになる。これをラカンは「父の名」のメタファーと呼ぶ。

ここにあるパズルの表現はポール・ヴェルハーゲの論にもあり、以前面白く読んだものだ。ひょっとして立木氏はヴェルハーゲを読んでいるのかもしれず、あるいはただラカン派内では標準的に流通している言い方なのかもしれない。

This can be explained logically in terms of Gödel's paradox. But there is a far easier way to understand this: just think of a child's toy like those sliding puzzles. This mini symbolic system works on one condition: that there is a gap. One compartment has to be empty, thus permitting the necessary displacements in the system itself. (Verhaeghe, P. (2001). Subject and Body. Lacan's Struggle with the Real. In: Verhaeghe, P. Beyond Gender. From Subject to Drive. New York: Other Press, pp. 65-97.)

…………

追記:上の文で「CMコンセプト」という語を使ったが、それはニュー・アカデミズム批判の文脈で語られる蓮實重彦・浅田彰が使用する意味である。

蓮實)……そこで、まさに概念は署名と不可分だということになる。それで、ドゥルーズという署名の問題が出てくるんだけれども、彼がガタリと創造した概念を、あたかもそれがCMでいうコンセプトであるかのようにして流通させている人は、まさに固有名を背後に感じていながらもこれを切断しているという、悪しき流通形態に陥ってしまう。それに対してドゥルーズは非常に厳しく批判していますね。

浅田)たとえば「スキゾ」という概念が80年代の日本で結果的にCMのコンセプトのようなものとして流通したことは事実だし、その責任の一端は感じますけど……。

蓮實)ありますよ、それは(笑)。(『批評空間』1996Ⅱー9共同討議「ドゥルーズと哲学」(財津理/蓮實重彦/前田英樹/浅田彰/柄谷行人)_

ジジェクならファストフード的消費者のやり口というだろう。

あなたは、あなたが批評しているところの著作がどのようなものであるかを全く無視している。あなたは論争の道筋を再構成する試みを全く放棄している。その代わりに、曖昧模糊とした教科書的な通則やら、著者の立場の粗雑な歪曲、漠然とした類推、その他諸々を一緒くたにして放り投げ、そして自身の個人的な従事を論証するために、そのような深遠に見せかけた挑発的な気の利いたジョークのガラクタに、道義的な義憤というスパイスを加えているのだ(「見ろ!あの著者は新たなホロコーストを主張しているみたいだぞ!」といったように)。真実など、ここでは重要ではない。重要なのは影響力である。これこそ今日のファストフード的な知的消費者が望んでいたものだ。道義的な義憤を織り交ぜた、単純で分かりやすい定式である。人々を楽しませ、道徳的に気分を良くさせるのだ。(スラヴォイ・ジジェク:彼の批判に応答して)


《著者は正当にも、迂回うかいや遅延を拒絶してストレートに心の闇に接近しようとする、結果優先の実利的な認知行動療法に大きな疑問を投げかける。それはまさにファストフードと同じ発想で、画一化と平均化をもたらすだけだ。硬派の文明批評がここに産声を上げている。》
岡田温司書評:『露出せよ、と現代文明は言う』 立木康介著


ーーあらためてつけ加えるまでもないが、やはりつけ加えておこう、こうやって引用しているのは「ふつうの倒錯」概念がCMコンセプトにならないだろうな、まさか、という杞憂からである。



※参考:by Jacques-Alain Miller IV Congress of the WAP - 2004 でのミレールの発言は文明論、三つの無意識の指摘などとても面白いが、わたしにはいささかやけくそ気味のようにも読めてしまう箇所がある。
There you have what my fantasy leads up to. I cannot do otherwise but follow it, which makes me think that the hypermodern discourse has the structure of the analyst’s discourse! It is an extremely surprising result.