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2014年7月16日水曜日

女たちの「申し分のない仕返し」(ボーヴォワールと夏目鏡子)

サルトルとボーヴォワールのオープンマリッジ(開放結婚)には袋小路がある。二人の手紙を読めば、彼らの“取り決め”は事実上非対称であり、うまく働かず、ボーヴォワールに多くのトラウマを引起こした。彼女は、サルトルが一連の愛人を持っていながら、自分は「例外」の存在であり、真の愛の関係にあることを期待したのだが、サルトルのほうは、ボーヴォワールは一連のなかの”ただ一人”ではなく、まさに一連の複数の例外の一人だったのである。すなわち彼の一連とは、一連の女たち、それぞれが彼にとって例外的ななにかだったのである。(ジジェク)

――と拙く訳せば、なんのことやら分からないが、原文は次の如し。

(I owe this point to a conversation with Alenka Zupancic. To give another example: )therein also resides the deadlock of the “open marriage” relationship between Jean-Paul Sartre and Simone de Beauvoir: it is clear, from reading their letters, that their “pact” was effectively asymmetrical and did not work, causing de Beauvoir many traumas. She expected that, although Sartre had a series of other lovers, she was nonetheless the Exception, the one true love connection, while to Sartre, it was not that she was just one in the series but that she was precisely one of the exceptions—his series was a series of women, each of whom was “something exceptional” to him. (Slavoj Zizek 『THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE』)






冒頭に引用された文は次の文の注である。

in Seminar XX, when Lacan developed the logic of the “not-all” (or “not-whole”) and of the exception constitutive of the universal.The paradox of the relationship between the series (of elements belonging to the universal) and its exception does not reside merely in the fact that “the exception grounds the [universal] rule,” that is, that every universal series involves the exclusion of an exception (all men have inalienable rights, with the exception of madmen, criminals, primitives, the uneducated, children, etc.). The properly dialectical point resides, rather, in the way a series and exceptions directly coincide: the series is always the series of “exceptions,” that is, of entities that display a certain exceptional quality that qualifies them to belong to the series (of heroes, members of our community, true citizens, and so on). Recall the standard male seducer's list of female conquests: each is “an exception,” each was seduced for a particular je ne sais quoi, and the series is precisely the series of these exceptional figures.(『THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE』)

文末に、《Recall the standard male seducer's list of female conquests: each is “an exception,” each was seduced for a particular je ne sais quoi, and the series is precisely the series of these exceptional figures.》、すなわち、《想起してみたらいい、標準的な男性の誘惑者の女性征服のリストを。それぞれは”ひとつの例外”であり、それぞれの女は、”言葉では言い表わせない”特別な存在として誘惑される。そしてセリエ(シリーズ)は、これの例外的な女たちのシリーズなのである》、とある。


ジジェクは、この内容を近著『LESS THAN NOTHING』2012で、よりわかりやすく説明している。

全体という普遍性とその構成的な例外という論理は次の三段階にて展開されるべきだ。

1)最初に、普遍性への例外がある。すべての普遍性は個別的な要素――それは公式的には普遍的な領域に属しているのだがーー、普遍性のフレームにはフットせず突出している。

2)全体のどの個別的な例あるいは要素はひとつの例外である。“標準の”個別性などない。どの個別性も突出している、すなわち普遍性に関するその過剰あるいは欠如によって。(ヘーゲルが存在するどの国家も「国家」概念にフットしないと示したように)。

3)ここで弁証法的ひねりが加えられる。すなわち、例外の例外――いまだひとつの例外ではあるが、単一の普遍性としての例外、その要素であり、その例外は、普遍性自身に直接のリンクをしており、それは普遍性を直接的に表わす(ここで気づくべきなのは、この三つの段階はマルクスの価値形態論と相等しいことだ)。(私意訳)
The logic of universality and its constitutive exception should be deployed in three moments: (1) First, there is the exception to universality: every universality contains a particular element which, while formally belonging to the universal dimension, sticks out, does not fit its frame. (2) Then comes the insight that every particular example or element of a universality is an exception: there is no “normal” particularity, every particularity sticks out, is in excess and/or lacking with regard to its universality (as Hegel showed, no existing form of state fits the notion of the State). (3) Then comes the proper dialectical twist: the exception to the exception—still an exception, but the exception as singular universality, an element whose exception is its direct link to universality itself, which stands directly for the universal. (Note here the parallel with the three moments of the value‐form in Marx.)


…………

ほら、もう一冊別の本だ…シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『別れの儀式』…サルトルの晩年…またしても主体、そこから抜け出してはいない(……)それにしても、ボーヴォワールが晩年のサルトルの肉体的衰えに魅せられたとは奇妙なことだ…彼女は自分の偉大な男のしなびた肉体を発見する、彼がとんずらしようというときになって…彼女はサルトルの没落の綿密な日記をつける…申し分のない仕返し…まじめな気持ちで…彼の欠伸。サルトルはどのようにしてあっちこっちでおしっこを出すのか…(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)







男の場合の全体の論理:普遍性(欠くことのできないーー私にとって全てのーー女)、ある例外を除いて(キャリアや公的な生活という例外を除いて)。

女の場合の非-全体の論理:非-普遍性(男は女の性生活にとってすべてではない)、例外はない(すなわち性化されないものはなにもない)。

the universality (a woman who is essential, all…) with an exception (career, public life) in man's case; the non‐universality (a man is not‐all in woman's sexual life) with no exception (there is nothing which is not sexualized) in woman's case.("LESS THAN NOTHING")

男性の全体の論理、そのアンチノ ミーが〈例外〉を伴う〈不完全性〉の障害であって、他方、女性の非-全体の論理、そのアンチノミーが、境界を欠いた〈非全体〉の表層における〈矛盾(非一貫性)〉の障害だということになる。

これはカントの【男性の論理=力学的アンチノミー/女性の論理=数学的アンチノミー】としても説かれるが、後者の女性の論理とは、「無限集合」ということでもあり、「排中律」は機能しない。

排中律とは、「Aであるか、Aでないか、そのいずれかが成り立つ」というものである。それは、「Aでない」と仮定して、それが背理に陥るならば、「Aである」ことが帰結するというような証明として用いられている。ところが、有限である場合はそれを確かめられるが、無限集合の場合はそれができない。ブローウェルは、無限集合をあつかった時に生じるパラドックスは、この排中律を濫用するからだと考える。(柄谷行人『トランスクリティーク』)


《女は非-全体(無限集合)なのだから、女でない全てがどうして男だというんだね?》(ラカン)
“since woman is ‘non‐all,’ why should all that is not woman be man?”(Lacan)

※附記

It is not that man stands for logos as opposed to the feminine emphasis on emotions; it is rather that, for man, logos as the consistent and coherent universal principle of all reality relies on the constitutive exception of some mystical ineffable X (“there are things one should not talk about”), while, in the case of woman, there is no exception, “one can talk about everything,” and, for that very reason, the universe of logos becomes inconsistent, incoherent, dispersed, “non‐All.” Or, with regard to the assumption of a symbolic title, a man who tends to identify with his title absolutely, to put everything at stake for it (to die for his Cause), nonetheless relies on the myth that he is not only his title, the “social mask” he is wearing, that there is something beneath it, a “real person”; in the case of a woman, on the contrary, there is no firm, unconditional commitment, everything is ultimately a mask, and, for that very reason, there is nothing “behind the mask.” Or again, with regard to love: a man in love is ready to give everything for it, the beloved is elevated into an absolute, unconditional Object, but, for that very reason, he is compelled to sacrifice Her for the sake of his public or professional Cause; while a woman is entirely, without restraint or reserve, immersed in love, there is no dimension of her being which is not permeated by love—but, for that very reason, “love is not all” for her, it is forever accompanied by an uncanny fundamental indifference.(ZIZEK"LESS THAN NOTHING")

…………


               (左側が漱石夫妻)



「断腸亭日乗 大正十二年歳次葵亥 荷風四十五」より

昭和二年。終日雨霏霏たり。無聊の余近日発行せし『改造』十月号を開き見るに、漱石翁に関する夏目未亡人の談話をその女婿松岡某なる者の筆記したる一章あり。漱石翁は追蹤狂とやら称する精神病の患者なりしといふ。また翁が壮時の失恋に関する逸事を録したり。余この文をよみて不快の念に堪へざるものあり。縦へその事は真実なるにもせよ、その人亡き後十余年、幸にも世人の知らざりし良人の秘密をば、未亡人の身として今更これを公表するとは何たる心得違ひぞや。見す見す知れたる事にても夫の名にかかはることは、妻の身としては命にかへても包み隠すべきが女の道ならずや。然るに真実なれば誰彼の用捨なく何事に係らずこれを訐きて差閊へなしと思へるは、実に心得ちがひの甚しきものなり。女婿松岡某の未亡人と事を共になせるが如きに至つてはこれまた言語道断の至りなり。余漱石先生のことにつきては多く知る所なし。明治四十二年の秋余は『朝日新聞』掲載小説のことにつき、早稲田南町なる邸宅を訪ひ二時間あまりも談話したることありき。これ余の先生を見たりし始めにして、同時にまた最後にてありしなり。先生は世の新聞雑誌等にそが身辺及一家の事なぞとやかくと噂せらるることを甚しく厭はれたるが如し。然るに死後に及んでその夫人たりしもの良人が生前最好まざりし所のものを敢てして憚る所なし。ああ何らの大罪、何らの不貞ぞや。余は家に一人の妻妾なきを慶賀せずんばあらざるなり。この夜大雨暁に至るまで少時も歇む間なし。新寒肌を侵して堪えがたき故就眠の時掻巻の上に羽根布団を重ねたり。彼岸の頃かかる寒さ怪しむべきことなり。

仕方がありませんよ、荷風先生
やっぱり相当こたえてたんじゃあありませんか
『道草』であんなこと書かれちゃあ、
これは恨みが募ってもやむえません
それに「女の道」、「妻の道」なんていまどき通用しませんよ

彼は親類から変人扱いにされていた。しかしそれは彼に取って大した苦痛にもならなかった。

「教育が違うんだから仕方がない」 
彼の腹の中には常にこういう答弁があった。
「やっぱり手前味噌よ」 
これは何時でも細君の解釈であった。 
気の毒な事に健三はこうした細君の批評を超越する事が出来なかった。そういわれる度に気不味い顔をした。ある時は自分を理解しない細君を心から忌々しく思った。ある時は叱り付けた。またある時は頭ごなしに遣り込めた。すると彼の癇癪が細君の耳に空威張をする人の言葉のように響いた。細君は「手前味噌」の四字を「大風呂敷」の四字に訂正するに過ぎなかった。

義父の恨みもかさなっているんですよ
元貴族院書記官長中根重一さんにもこんな態度じゃあ

けれどもその次に細君の父が健三を訪問した時には、二人の関係がもう変っていた。自ら進んで母に旅費を用立った女婿は、一歩退ぞかなければならなかった。彼は比較的遠い距離に立って細君の父を眺めた。しかし彼の眼に漂よう色は冷淡でも無頓着でもなかった。むしろ黒い瞳から閃めこうとする反感の稲妻であった。力めてその稲妻を隠そうとした彼は、やむをえずこの鋭どく光るものに冷淡と無頓着の仮装を着せた。 

父は悲境にいた。まのあたり見る父は鄭寧であった。この二つのものが健三の自然に圧迫を加えた。積極的に突掛る事の出来ない彼は控えなければならなかった。単なる無愛想の程度で我慢すべく余儀なくされた彼には、相手の苦しい現状と慇懃な態度とが、かえってわが天真の流露を妨げる邪魔物になった。彼からいえば、父はこういう意味において彼を苦しめに来たと同じ事であった。父からいえば、普通の人としてさえ不都合に近い愚劣な応対ぶりを、自分の女婿に見出すのは、堪えがたい馬鹿らしさに違なかった。前後と関係のないこの場だけの光景を眺める傍観者の眼にも健三はやはり馬鹿であった。それを承知している細君にすら、夫は決して賢こい男ではなかった。

 ところで漱石先生は奥さんとちゃんとヤッていたのでしょうかね

でも子供はたくさんできていますね
熊本時代は仲がよさそうですし





幸にして自然は緩和剤としての歇私的里(ヒステリー)を細君に与えた。発作は都合好く二人の関係が緊張した間際に起った。健三は時々便所へ通う廊下に俯伏になって倒れている細君を抱き起して床の上まで連れて来た。真夜中に雨戸を一枚明けた縁側の端に蹲踞っている彼女を、後から両手で支えて、寝室へ戻って来た経験もあった。 

そんな時に限って、彼女の意識は何時でも朦朧として夢よりも分別がなかった。瞳孔が大きく開いていた。外界はただ幻影のように映るらしかった。 

枕辺に坐って彼女の顔を見詰めている健三の眼には何時でも不安が閃めいた。時としては不憫の念が凡てに打ち勝った。彼は能く気の毒な細君の乱れかかった髪に櫛を入れて遣った。汗ばんだ額を濡れ手拭で拭いて遣った。たまには気を確にするために、顔へ霧を吹き掛けたり、口移しに水を飲ませたりした。 

発作の今よりも劇しかった昔の様も健三の記憶を刺戟した。 

或時の彼は毎夜細い紐で自分の帯と細君の帯とを繋いで寐た。紐の長さを四尺ほどにして、寐返りが充分出来るように工夫されたこの用意は、細君の抗議なしに幾晩も繰り返された。
 
或時の彼は細君の鳩尾へ茶碗の糸底を宛がって、力任せに押し付けた。それでも踏ん反り返ろうとする彼女の魔力をこの一点で喰い留めなければならない彼は冷たい油汗を流した。

ーーああ失礼しました、「ヤッて」なんて下品な言葉を洩らしてしまって

でも十八世紀人のディドロもこんなこといってるじゃあありませんか


卑しい偽善者どもには私をほっといてほしいのです。荷鞍をはずした驢馬みたいに、ヤッてもらってもかまいません。ただ、私が「ヤル」という言葉を使うのは認めてもらいたいのです。行為はあなたにまかせますから、私には言葉をまかせてください。「殺す」とか、「盗む」とか、「裏切る」とかといった言葉は平気で口にするくせに、この言葉には口ごもるわけですね! 不純なことは言葉にすることが少なければ少ないほど、あなたの( vous)頭の中には残らないというわけですか? 生殖の行為はかくも自然で、かくも必要で、かくも正しいというのに、あなたは( vous)どうしてその記号を自分の会話から排除しようとしたり、自分の口や、眼や、耳がその記号で汚されることになるなどと考えるのですか? 使われることも、書かれることも、口にされることももっとも稀な表現が、もっともよく、もっとも広く知れわたっているというわけだ。だってそうでしょう。「ヤル」という言葉は、「パン」という言葉と同じくらいなじみ深いものではありませんか? この言葉は年齢に関係なく、どんな方言にも見出され、ありとあらゆる言語のうちに数え切れないほどの類義語をもっている。声も形もなく、表現されることもないにもかかわらず、誰の心にも刻みこまれているというのに、それをもっともよく実践する性が、それについてもっとも口をつぐむならわしなのです。私にはまたあなたの声が( vous)聞こえてきます。あなたは( vous)叫んでいらっしゃいますね。(ディドロ Denis Diderot, OEuvres complètes, t. XXIII)

「発作に故意だろうという疑の掛からない以上、
また余りに肝癪が強過ぎて、
どうでも勝手にしろという気にならない」なんて
ヒステリーの発作のとき以外は
故意と思ってたりどうでも勝手にしろだったんでしょうしねえ

細君の発作は健三に取っての大いなる不安であった。しかし大抵の場合にはその不安の上に、より大いなる慈愛の雲が靉靆いていた。彼は心配よりも可哀想になった。弱い憐れなものの前に頭を下げて、出来得る限り機嫌を取った。細君も嬉しそうな顔をした。 

だから発作に故意だろうという疑の掛からない以上、また余りに肝癪が強過ぎて、どうでも勝手にしろという気にならない以上、最後にその度数が自然の同情を妨げて、何でそう己を苦しめるのかという不平が高まらない以上、細君の病気は二人の仲を和らげる方法として、健三に必要であった。

美しい晩年じゃあないですか
漱石が早死にしてくれてよかったんでしょうねえ





《肉体をうしなって/あなたは一層 あなたになった/純粋の原酒(モルト)になって/一層わたしを酔わしめる》(茨木のり子『歳月』)

ヤッテも・ヤラなくても、それぞれに懐かしさがあって、
ふたつはそうたいしたちがいじゃないと、回想する年齢
になったんでしょうねえ

――……ずっと若い頃に、かなり直接的に誘われながらヤラなかったことが、二、三人にういてあったんだね。後からずっと悔やんだものだから、ある時から、ともかくヤルということにした時期があったけれども…… いまはヤッテも・ヤラなくても、それぞれに懐かしさがあって、ふたつはそうたいしたちがいじゃないと、回想する年齢だね。(大江健三郎『人生の親戚』)




2014年4月28日月曜日

四月廿八日 「蝉未鳴かざるに早く蜩をきゝたり」

早朝蝉の声。今年になってはじめて聴く。形状や鳴声はニイニイゼミなのだが、今こうやって書こうとして調べてみると、《北海道から九州・対馬・沖縄本島以北の南西諸島、台湾・中国・朝鮮半島まで分布する。ただし喜界島・沖永良部島・与論島には分布しない》とWikipediaにあり、この記述からすれば南方には生息しないということになる。たぶん異なった種類なのかもしれない。もともと蝉は、当国の北部に多く南部には少ないなどと言われるが、たしかにこの南部の土地にはニイニイゼミ状のセミしか見たことがない。妻や息子になんというセミだ、と訊ねてみても、セミはセミよ、というだけだ。





ところで大正七戊午年の荷風の日記に奇妙な記述がある。

七月十五日。去十二日より引つゞきて天気猶定まらず風冷なること秋の如し。四十雀羣をなして庭樹に鳴く。唖ゝ子の談に本郷辺にては蝉未鳴かざるに早く蜩をきゝたりといふ。昨日赤蜻虫の庭に飛ぶを見たり。是亦奇といふべし。

蜩は蝉ではないと読める。だがすくなくとも現在、蜩はセミ種に分類されており、かつてはこういう区別をしたということなのだろうか。ではツクツクボウシは蝉の分類内だったのか、それとも分類外だったのか。ーーいずれにせよ、蜩とツクツクボウシは、わたくしの知っている限りでのほかの蝉の鳴声とは区別してもいい声音をもっている、という印象はもたないでもない。

ひぐらしの鳴き声3時間版などというものがYoutubeにあるが、この鳴声の「ゆらぎ」を愛惜しむひとがいるのはよく分かる。





……この夜、昼の工事の音と夜更けの蒸し返しのために鈍磨の極みに至ったこの耳に、ひょっとしたら、往古の声がようやく聞えてきたのか、と耳を遠くへやると、窓のすぐ外からけたたましく、蜩の声が立った。

夜半に街灯の明るさに欺れてか、いきなり嗚咽を洩らすように鳴き出し、すぐに間違いに気がついたらしく、ふた声と立てなかった。狂って笑い出したようにも聞こえた。声に異臭を思った。

異臭は幼年の記憶のようだった。蜩というものを初めて手にした時のことだ。空襲がまだ本格には本土に及ばなかった、おそらく最後の夏のことになるか。蜩は用心深くて滅多に捕まらぬものなので、命が尽きて地に落ちたのを拾ったのだろう。ツクツク法師と似たり寄ったりの大きさで、おなじく透明な翅にくっきり翅脈が浮き出て、胴体の緑と黒の斑紋の涼しさもおなじだったが、地肌が茶から赤味を帯びて、その赤味が子供の眼に妖しいように染みた。箱に仕舞って一夜置いた。そして翌朝取り出して眺めると、赤味はひときわ彩やかさをましたように見えたが、厭な臭いがしてきた。残暑の頃のことで虫もさずがに腐敗を来たしていたのか、子供には美しい色彩そのものの発する異臭と感じられた。すぐに土に埋めて手を洗ったが、異臭は指先にしばらく遺った。

箪笥に仕舞われた着物から、樟脳のにおいにまじってえ立ち昇ってくる、知らぬ人のにおいにも似ていた。(古井由吉『蜩の声』)

…………

自分のやる事をあらゆる角度から徹底的に研究するのは、野蛮人と農民と田舎者だけである。それゆえ、彼らが思考から事実に到るとき、その仕事は完全無欠である。(H・ド・バルザック「骨董屋」)

これは、レヴィ=ストロースの『野生の思考』のエピグラフであるが、冒頭の「第一章 具体の科学」は、こう書き始められる。


動植物の種や変種の名を詳細に書き出すために必要な単語はすべて揃っているにもかかわらず、「樹木」とか「動物」というような概念を表現する用語をもたない言語のことは、昔から好んで話の種にされてきた。(『野生の思考』)

これはなにも「未開人」の言語の話ではない。たとえば日本には“waterという語がない。水であり、お湯であり、熱湯である、ということはしばしば指摘されてきた。反対に、わたくしの住んでいる国の言葉では、waterにあたるnướcは、より高い抽象性があり、水であり、液体であり、ジュースである。カフェやお茶という言葉はもちろんあるが、たとえば仕事を終えた働き手に労働賃以外にチップを渡すとき、これでnướcを飲んで!、という言い方をする。これは、渇きを癒して! ということで、すなわち日本語の「お疲れ様!」にほぼ相当する。この”nước“は、カフェでもお茶でも水でもジュース、ビールでもよいということで、いかにも暑い国の言い方である。ヌックマム(”nước mm“)でさえ水という語を使う。 ”mm“は蝦・魚などを塩漬けにした食物のことで、直訳すれば「魚を塩漬けした水」となる。あるいは外人は、"nước ngoài"、ーー"ngoài"は漢語の「外」なのだが、これも直訳すれば「外の水」ということになる。

用語の抽象度の差異は知的能力によって左右されるものではなく、一民族社会の中に含まれる個別社会のそれぞれが、細部の事実に対して示す関心の差によってきまるのである。(……)「カシワ」、「ブナ」、「カバノキ」などが抽象語であることは、「樹木」が抽象語であるのと同じである。二つの言語があって、その一方には「樹木」という語だけしかなく、他方には「樹木」にあたる語がなくて樹木の種や変種を指す語が何十何百となるとしたら、いま述べた観点からすれば概念が豊富なのは前者の言語ではなく後者の方である。(『野生の思考』)

この意味で、つまり”waterに関して、日本人はwaterという大きな分類ではなく、より細かい「水」「お湯」の区別があるという意味で、その概念が豊富であるということができる。お風呂と茶道の国である。他方、当国では近親者の呼び方の種類が驚くほど豊富である。国の文化によって、それぞれ概念の豊富さの多寡があるのはあらためて言うまでもないことかもしれないが、それでも住み始めた当初は驚いた。


業語の場合がそうであるように、概念が豊富であるということは、現実のもつ諸特性にどれだけ綿密な注意を払い、そこに導入しうる弁別に対してどれだけ目覚めた関心をもっているかを示すものである。このような客観的知識に対する意欲は、われわれが「未開人」と呼んでいる人びとの思考についてもっとも軽視されてきた面の一つである。それが近代科学の対象と同一レベルの事実に対して向けられることは稀であるにしても、その知的操作と観察方法は同種のものである。どちらにおいても世界は、欲求充足の手段であるとともに、少なくともそれと同じ程度に、思考の対象なのである。

どの文明も、自己の思考の客観性志向を過大評価する傾向をもつ。それはすなわち、この志向がどの文明にも必ず存在するということである。われわれが、野蛮人はもっぱら生理的経済的欲求に支配されていると思い込む誤ちを犯すとき、われわれは、野蛮人の方も同じ批判をわれわれに向けていることや、また野蛮人にとっては彼らの知識欲の方がわれわれの知識欲より均衡のとれたものだと思われていることに注意をしていない。(同上)


2014年4月11日金曜日

四月十一日夕 大雨沛然たり

今夕六時すぎ、《薄暮大雨沛然たり》。だが須臾にして歇む》、ーーとは言葉の綾であり、半時ほどでやむ。この雨をもって今年の雨季の始まりとしよう。

私は一度も日記をつけたことがない。――というよりも、むしろ、日記をつけるのがいいのかどうか、わからなかったのだ。時折、始めてみる。そして、すぐやめるーーしかし、少し経つと、またつけ始める。それは間歇的にちょっと書いてみたくなるだけで、重大な意味もなければ、主義主張といった定見があるわけでもない。私はこの日記《病》に診断を下すことができるように思う。つまり、それは日記を書く事柄の価値についての解きがたい疑念なのだ。(ロラン・バルト「省察」ーー痛みやすい果実

……私は私の「日記」のいくページかが《私が視線を向けている者》の視線のもとに、あるいは《私が話しかけている者》の沈黙のもとに置かれていると想像するのである。――これはすべてのテクストの状況ではなかろうかーー。いや、そうではない。テクストは匿名である。あるいは、少なくとも、一種の「ペンネーム」、作家のペンネームによって生み出される。日記は全然違う(たとえ日記の《私》が偽名であったとしても)。「日記」は《ディスクール》(特殊なコードに従って《writeされた》一種のパロール)であって、テクストではない。《日記をつけるべきか》という、私が自分に課す問いに対して、ただちに、頭の中で、無愛想な答えが返ってくる。《知ったことか》、あるいは、もう少し精神分析的に、《それはあなたの問題ですよ》。

後はもう私の懐疑の理由を分析するしかない。なぜ私は「イメージ」の観点から「日記」のエクリチュールを疑うのか。それはこのエクリチュールが、私の眼には、油断のならない病気のように、否定的なーーはぐらかすようなーー性格に冒されているようにみえるからだと思う。これらの性格について、以下に述べてみよう。

日記はいかなる使命にも応えない。この語を軽んじてはいけない。ダンテからマラルメ、プルースト、サルトルに至る文学は、つねに、それらを書いた者にとって、いわば、社会的、神学的、神話的、美学的、倫理的等々の目的を持っていた。(……)「日記」は「書物」には(「作品」には)到達し得ない。マラルメの区別を借りれば、それは「アルバム」でしかない(……)。「アルバム」はとじてあるページを取り替えられるだけでなく(そんなことはまだたいしたことではない)、とりわけ、無限に除去できるのである。私は自分の「日記」を読み返して、《私の気に入らない》という口実で、次から次へと書いたことを消し、「アルバム」を完全に消去させることもできる。(……)――しかし、「日記」は、まさに、世界の非本質的なものを、非本質的なものとしての世界を本質的に表現する形式として考えられ、実践されることができないだろうか。――そのためには、「日記」の主題は世界であって、私ではないことが必要である。そうでなければ、言表されるのは、世界とエクリチュールとの間の隔壁となる一種のエゴティスムである。私はどう努力しても、凝着していない世界を前にして凝着してしまう。エゴティスムなしに、どうして「日記」がつけられようか。これが、まさに、私に「日記」をつけることを思いとどまらせる問いなのである(……)。

非本質的なものである「日記」はまた必要不可欠なものでもない。私は気違いじみた欲望が私に書かせる唯一の記念碑的作品に打ち込むように「日記」に打ち込むことはできない。「日記」を書くという、生理的機能のように毎日の規則正しい行為は、おそらく、快楽や快適さを伴うが、情熱は伴わない。それはほんの書き癖のようなものであり、その必要性は生産から再読へと至る道程で失われる。《私は、これまで自分の書いたことが特に貴重だとも、きっぱりと屑籠に棄ててしまった方がいいとも思わなかった》(カフカ)。……(ロラン・バルト「省察」『テクストの出口』所収)

《日記も、読まれることを予想して書かれることがしばしばある。永井荷風の『断腸亭日乗』やジッドの『日記』は明らかにそうであろう。精神医学史家エランベルジェは、日記を熱心に書きつづける人には独立した「日記人格」が生まれてくると言っている。日記をつける人も読む人も、このことは念頭に置くほうがよいだろう。》(中井久夫「伝記の読み方、愉しみ方」『日時計の影』所収)


…………

◆「半藤一利と新藤兼人、そして松本哉の語る永井荷風 」より

終戦となって、荷風は大島五叟一家が疎開していた熱海へ身を寄せます。そこも仮りの宿で、千葉の市川へ大島一家と共に引越して行きます。独り暮らしで気儘に生きてきた荷風は他人との同居生活にしばしばトラブルを起こします。

そこで、近くの小西茂也(フランス文学の翻訳家)の一室を借りますが、ここでも荷風は奇行ががすぎて同居できません。

新藤は「奇行がすぎて同居でき」ないと書いているが具体的なことは何も書かれない。何があったかは半藤一利が教えてくれる。

「復讐がこはいから僕は何も云ひません。その代り荷風が死ねば洗ひざらひぶちまけますよ」と言っていたのに、小西氏は荷風よりも早く逝ってしまった。ゆえに小西氏に代わってと、佐藤春夫氏がバラしている巷説--それもありそうでなさそうな噂話であるが、フム、フム、なるほど、と納得させられるところもある。

「……小西夫妻の寝室の障子には毎晩、廊下ざかひの障子に新しい破れ穴ができて荷風がのぞきに来るらしいといふので、小西の細君がノイローゼ気味になつたのが、小西の荷風に退去を求めた理由であつたと説く者もある」

荷風の小西宅での同居生活は昭和二十二年から二十三年にかけて。

《昭和廿二年、一月初四。(……)一日も腹痛の治するを待って、小西氏邸内に移居したし》とあり、 四日後の日記一月初八には、《小西氏の家水道なく炊爨盥嗽共に吹きさらしの井戸端にてこれをなす困苦言ふべからず》とあるので、この間に移居しているようだ(わたくしの手元にあるのは岩波文庫版の『断腸亭日乗』摘録であり、この四日から八日の間の日記は省かれている)。

そして昭和二十三年の年末、次の記述があり、これが荷風の覗き見があったのならば、そのわずかな痕跡であるだろう。

昭和二十三年戊子 荷風散人年七十

十二月廿八日。密雲散ぜず。天候を気遣ひつつ荷造りをなす。門前の小林氏つづいて中央公論社の高梨氏同社の給仕を伴ひて来る。あらかじめ頼み置きたる荷車も来る。小西氏主人主婦に暇を告げて去らむと思ひしが二人ともその姿見えざればそのまま荷車と共に二年ほど起伏したる家を去りぬ。転宅の始末思の外にはかどり高梨氏等午後二時近くに辞して去れり。独弁当箱の飯くひ終わりて一睡す。目覚むれば天晴れ夕陽窓に映ず。あたり取片付くる中夜になりしが電燈の光暗きこと燭火の如く物見ることを得ず。隣家の人にきくにこの近辺は電力薄弱のため毎夜かくの如くラヂオもかけられませぬと言へり。憂愁禁じがたし。夜具引伸べ溜息つきつつ眠に就きぬ。







四月十一日 リケジョの園

学生時代、女友達からこんな話を聞いたことがある。

国立女子大学の寮でのこと。タイからの留学生二人が部屋で食事を作る、そのニュックマッムの臭いが廊下まで漂い、他の部屋の日本人寮生たちがその臭いに堪えられないと言い出し、寮会で不服を申し立てる。そして結局、寮生たちがアパートを探し、引越しの費用なども負担し、出て行ってもらった、と。部屋の賃貸料の差額も、たとえば寮費が一万円でアパート代が五万円であったら、その差額も寮生たちが負担することになったらしい。といっても二、三百人を越えるだろう寮生であるから、一人の負担は月に一杯の珈琲代程度であろうが。しかしながら、やはりあれはレイシズムや差別の一種というべきものなのだろう。とすれば、われわれのほとんど誰にでもそれはある。

――ということを今想いだして書いているのは、この女友達が所属するゼミ担当教師が、今話題の理化学研究所のどこかの支所の所長だったか副所長だったからだ。これはその当時だったかその後だったかはあまり記憶にない。ただこの教師が余技で書いた岩波書店出版の「オリガミ」の本を貰ったことがある。この女友達が理研に勤めたわけではない。彼女は院生時代に軽い分裂症状に襲われ、精神分析医にかかったが、そのままその医師と親しくなり、京王線の八幡だったか上北沢にある精神医学の研究所でアルバイトをすることになり、そのフロイト派の先生の「秘書」として、執筆された論に図表作成などの手伝いをしていた。その論が掲載されている、これも岩波書店の講座『精神の科学』の一巻を貰ったが、論文の「あとがき」には彼女の名も記載されている。わたくしの母はかつて「精神分裂病」と診断されたことがあるのだが、学生時代は『夢判断』と『ドラ』ぐらいは読んでいた程度で、「精神医学」なるものに関心をやや深めたのはそれ以降にすぎない。

この女友達はいわゆる「リケジョ」の典型で、というかわたくしのイメージとしてはそれであって、高校の化学教師の娘であり、整理整頓の巧みさが際立ち、記憶力と数学に秀でる。そして割り切りがはやく、あっけらかんとしている。常識のあまりないわたくしでも「常識はずれ」の印象を覚えた。実は中学生時代の同級生で、たいして勉強しているようにみえないのに、当時は県内一斉テストでも指折りの位置を占め、《朝礼で整列している時に、隣りにいるまぶしいばかりの少女に少年が覚えるような羞恥と憧憬と、近しさと距離との同時感覚》(中井久夫)を抱いたものだ。中学生時代、彼女にまわりのものがことごとく乞うたのは、試験前の出題予測で、それが驚くほどよく当たる。それだけでなくいっそう驚いたのは、彼女が教科書を絵のようにして暗記していることだ。「ええと、その次のページの、そこよ」という具合で、あれは、今思えば「エイデティカー」(Eidetiker 直観像素質者)だったのではないか。

彼女も上であげたタイの留学生の住んでいた女子寮とは別の寮住いだったのだが、池袋から東武線で何駅目かにあったその寮は、村上春樹が短篇「蛍」で書くような寮だった。

寮は見晴しの良い文京区の高台にあった。敷地は広く、まわりを高いコンクリートの塀に囲まれていた。門をくぐると正面には巨大なけやきの木がそびえ立っている。樹齢は百五十年、あるいはもっと経っているかもしれない。(……)

コンクリートの舗道はそのけやきの巨木を迂回するように曲り、それから再び長い直線となって中庭を横切っている。中庭の両側には鉄筋コンクリートの三階建ての棟がふたつ、平行に並んでいる。大きな建物だ。開け放しになった窓からはラジオのディスク・ジョッキーが聞えている。窓のカーテンはどの部屋も同じクリーム色――日焼けがいちばん目立たない色だ。

ただ「蛍」で描かれる部屋は《原則として一、二年生が二人部屋、三、四年生が一人部屋ということになっている》のだが、その女子寮は四人部屋だった。ドアを開けると、二段ベッドが左右にふたつ並んでいる。廊下側の壁際と窓際の左右に机と椅子とロッカー。殺風景な部屋だ。

――ということを知っているのは、夏休みのお盆の最中、寮がガラガラになったとき二泊ほど泊ったことがあるから、と書けば自慢話めいてくる。デートの帰り彼女を寮まで送り届け、それでも名残り惜しく、彼女は「今はだれもいないわよ」と言う。

きみの肩が
骨をむきだしにしてうたいだし
さかりのついた猫が
ここかしこに
きみと声をあわせて啼いて
あたいを狂気じみておどかすんだ

ーー富岡多恵子「草でつくられた狗」より

彼女が先に寮に戻り部屋の窓から合図する。誰もいないといっても、別の棟や上の階にはだれかいるはずだから、寮の鉄門を開けるのは目立ちすぎる。木立に隠れた箇所のコンクリート塀をよじ登って、そこから中庭を走り抜ける。そして一階にある日焼けたカーテンのかかった彼女の部屋の窓枠に足をかけて入り込む。あれは夜間だったはずだが、記憶ではなぜかまわりが明るい。トイレに行くのに困った。洗面器を差し出されるが、ちょっとそれはやりづらい。彼女のガウンをかりて女装をしたつもりになり、廊下の先にあるトイレまで早足で行った。これも馴れてしまえばへいっちゃらだ。


まだもうひとつ「冒険」があるのだが、それは後年、彼女が茗荷谷のアパートに移り住んでから。医学生の妹と一緒に住んでいた。その妹が出払ったときに部屋に潜り込む。だがある日、予定より早く帰ってきた。部屋には内から鍵はかかっているのだが、そうはいっても着るものも着る暇がなく、散乱している服を抱えてベランダに出る。そこでどうしたかと言うと隣のベランダに飛び移った。その隣りの部屋は「幸いにも」少女が在宅中で、「ちょっと事情があって、……ごめんなさい」と言ってその部屋に入り込んだ。女友達と同じ大学学部の一年下の女の子だ。互いによく知っているらしい。にやにやして、「まあ珈琲でも飲んできなさいよ」と言う。いやに馴れ馴れしい。一年年下の少女のはずだが、女というのは男の弱味を握れば、そうなりやすいのだろうか、と後から思い返したものだ。「ダイジョウブよ、安心して。……あたしのクラスメートなんか彼氏の部屋を訪ねていなかったものだから、隣の彼の友人の部屋で待たせてもらったのだけれど、待ってるあいだにデキチャッタのよ、そのあと大変だったわ」、……。この子はいまは芥川賞作家である自宅通いの女性と友人関係で、当時から小説を書いていた彼女を「あの子トロイのよ、実験なんてぜんぜんだめ」などとおっしゃっるのをかしこまって聞いていた。わたくしは女友達とともに一度喫茶店でこの未来の芥川賞作家と「お話」させてもらったことがあるが、妖艶なところのあるなかなかの美少女だった。


…………

ははあ、下手な小説の図式のようだねえ、じつはこの隣室の少女との話はもうすこしあるのだが、このへんでやめておこう、いっそう三文小説のようになりそうだから。


わたくしは春水に倣って、ここに剰語を加える。読者は初めて路傍で逢った此女が、わたくしを遇する態度の馴々し過るのを怪しむかも知れない。然しこれは実地の遭遇を潤色せずに、そのまま記述したのに過ぎない。何の作意も無いのである。驟雨雷鳴から事件の起ったのを見て、これまた作者常套の筆法だと笑う人もあるだろうが、わたくしは之を慮るがために、わざわざ事を他に設けることを欲しない。夕立が手引をした此夜の出来事が、全く伝統的に、お誂通りであったのを、わたくしは却て面白く思い、実はそれが書いて見たいために、この一篇に筆を執り初めたわけである。(濹東綺譚  永井 荷風)


《たとえば、“事実は小説より奇なり”とかいう言い方があるけれども、その場合、「事実」は、小説を前提しているんですね。そして、小説の約束からずれたものが、「事実」とよばれているわけです。リアリズムの小説であれば、たとえば偶然性ということがまず排除されている。たまたま道で遇って、事態が一瞬のうちに解決したとか、そういうことは小説では許されないわけですが、現実ではしょっちゅう起こっている。そういうのが出てくると大衆文学とか物語とかいわれるんですね。かりに実際にあったことでも、それを書くと、リアリズムの小説の世界では、これはつくりものだといわれる。いちばん現実的な部分が小説においてはフィクションにされてしまうわけですね。》(柄谷行人『闘争のエチカ』)






2014年4月10日木曜日

四月十日 雨ふらず

四月十日 昨日に引き続き雨ふる気配なし。一昨日の雨は雨季のはしりの雨なり。昼飯近処の山羊焼肉料理屋を妻と訪ねる。昨年来尿酸値高きが続き、一年ぶりの訪問なり。ハノイ出身の主人病臥すると聞きしため見舞いも兼ねる。かつて我家の鯛の酢漬けを愛でしため、妻それをいくらか持参す。主人肝臓を腫らし黄疸で濁った眼で愛想笑いを浮かべるがそれも弱々しき哉。美味な料理を出す店だが、主人と知合のため海馬を漬けた米焼酎を振舞われること重なり、訪れる度にひどく酩酊す。本日はそれもなく、電話で呼び寄せた庭球仲間とともに穏やかに食す。主人の娘がそれでも年季物の黄色く濁った焼酎を持参す。長身断髪で優美な姿態をもちマリ出身のロキア・トラオレRokia Traoréによく似ている。ただしハノイ語は濁音が響きサイゴン娘ほど言語雅馴ならず。例えばao daiは北部はアオザイと発音し南部はアオヤイと発するなり。




断腸亭日乗 大正十二年 荷風四十五


六月十八日 雨ふる。市兵衛町二丁目丹波谷といふ窪地に中村芳五郎といふ門札を出せし家あり。囲者素人の女を世話する由兼ねてより聞きゐたれば、或人の名刺を示して案内を請ひしに、四十ばかりなる品好き主婦取次に出で二階に導き、女の写真など見せ、それより一時間ばかりにして一人の女を連れ来れり。年は二十四、五。髪はハイカラにて顔立は女優音羽兼子によく似て、身体はやや小づくりなり。秋田生れにて言語雅馴ならず。灯ともし頃まで遊びて祝儀は拾円なり。この女のはなしにこの家の主婦はもと仙台の或女学校の教師なりし由。今は定る夫なく娘は女子大学に通ひ、男の子は早稲田の中学生なりとの事なり。


2014年4月9日水曜日

しいんと切ない心地

以下は、古井由吉の『東京物語考』からの抜粋が主であり、もともとは《昭和五十七(一九八二)年七月から翌年八月にかけて十四回にわたり、岩波書店の小冊子「図書」に連載された随筆》とある。十回目までは、德田秋聲、正宗白鳥、葛西善藏、宇野浩二、嘉村礒多の作品をめぐって書かれ、十一回目に古井由吉自らの東京住いの略歴ーーここには近作『蜩の声』や初期長篇『女たちの家』と重なる叙述がふんだんにあるーー、そして最後の三つの章が荷風と谷崎をめぐる。「あとがき」には、《どうやらこの仕事のスタートの時から、私はこの両大家をアンカーとして頼みにしていたようだった。戦災中および戦後を映す鏡として、荷風の「罹災日録」と谷崎の「瘋癲老人日記」と、そしてまた荷風の短篇小説「買出し」が、早くから私の念頭にあった》、と。

おそらく、老婆の遺体を後に捨てて、死物狂いに松林の丘陵を越えた、境を越して気分の一変した買出しの女の姿が、私の随筆を発端から引っ張っていたと思われる。今の世にある者にとって、こちらへ向かって来る姿であるはずなのに、なぜか後姿ばかりが目に染みてならない。(『東京物語考』岩波同時代ライブラリー「あとかぎ」) 
彼処まで行つてしまひさへすれば、松林一ツ越してさへしまへば、何の訳もなく境がちがつて、死人の物を横取りして来た場所からは関係なく遠ざかつたやうな気がするだらうと思つたのだ。行き合ふ人や後から来る人に顔を見られても、彼処まで行つてしまへば何処から来たのだか分るまいと云ふやうな気がするのである。(永井荷風『買出し』

死者の物を掠めて五貫目半(二十一キロ)の荷の重みを背負って岡ひとつ越える。そしてその境の向こうで換金して身軽になって去る。おそらく、荷風によるこの買出しの女の闇雲な逞しさの叙述が、むしろ共感をもって、『東京物語考』という随筆の通奏低音となっているということなのだろう。たとえば三十七歳で往った嘉村礒多の章「幼少の砌の」の最後には《死期を知るがごとくに、寿命をくっきりと生きる、奔放に見える自己表白が結局は予言に近いものとなって成就する、これが昔の人間の、われわれには敵わぬところだ。くらべれば現代の人間は総じて、涯のよほどぼけた人生を送っている、つまり、その点ではるかに幼いということだ》とあり、古井由吉はこれが書かれた80年代の初頭、すなわち「軽さ」の時代風潮のなかで書かれた随筆で、ひとの、あるいはとくに時代変遷のなかでの「日本人」のあり様を問い直していると言ってよい。さらにはまた、同じ「幼少の砌の」にはこうもある、《現代の都市生活者はやはり芯がいつまでも幼い。それは人の、葬式などの機会にしばしば露呈する。傷つきやすい、傷ついたらそれきりになりやすい。世馴れているようでも、難事に対処する能力はよほど衰弱した。親となっても小児に留まり、保護者責任者の立場に置かれても、一身の苦にかまけ、振りまわされる。人を殺してもまず自身のことを訴える》、と。

もっともそれはこの随筆だけでなく、氏の小説作品において常に問われているのだろうし、たとえば最近のインタビューでも《行き詰まりが前方にみえれば、ただ生きて暮らすことに緊張がよみがえり、かえって衰弱から守られ活力がでると思う。腹を据えて生きるということでしょうか》と。あるいは別のインタビューでは、


「安泰が続くとみんなが同じ現実を共有していると思い込んで意思疎通も短い言葉ですませてしまう。自然、言葉は切れ切れになっていく。これでは危機が迫ったときに言葉が追いつかない」。一方で「震災で味わわされた言葉の無力感をじっくりかみしめ、緊張感を意識の底に持ち続ければ事態は変わる」と。

「例えば、(津波がきたとき)最後まで避難を呼びかけて命を失った人がいたが、それらはこの国の人のどんな美徳から来ているのか。失われたものを考えるだけでなく、逆に何が失われていなかったのかを考えるのも一つの方法でしょう」

わたくしはこの言葉に触れてかどうかはさだかではないが、震災後、ツイッターに書き込むのをやめたり、アカンウントを削除したりした。だがやはり唯一と言っていい日本に住む方々の生の発話への名残り惜しさに思い余って再開しはしたが、それ以降はいわゆるメンションという形式で《同じ現実を共有していると思い込んでいる》他人と「仲良く」湿った瞳を交わし合い頷きあうのはやめた。それは今この古井由吉の文を読み返せば、《言葉の無力感をじっくりかみしめ、緊張感を意識の底に持ち続け》ることの反映であると、いささか気取ってみてもよいのかもしれない。

いずれにせよ、いわゆる「私小説」系譜の作家たちも含んで俎上に載せられるこの随筆は、その通念としての「女々しい」私小説作家のイメージとは異なり、《それにしてもこれらの小説は、あらためて読めば、じつに強い文章の骨格を供えている》のがよく知れる。《その骨格に拠り、心身を賭けて、豪気なように苦悩している。これもまた古い精神のなごりなのかもしれない》。

『買出し』とほぼ同じ頃書かれたと思われる荷風の日記には、《今の世に生きんとするには寒気をおそれず重き物を背負ふ体力あらば足るなり。つくづく学問道徳の無用なるを知る》(『断腸亭日乗』 昭和二十二年一月廿二日)とある。


さて古井由吉の『東京物語考』本文から、荷風をめぐる箇所をいくらか抜き出すが、最後の三章が、「命なりけり」、「肉体の専制」、「境を越えて」という章題をもっており、それぞれ荷風、谷崎、荷風をめぐって書かれている。しかしながら、谷崎の章「肉体の専制」も、冒頭は次の荷風をめぐる叙述で始まっている。

昭和四十年頃に私は或る同人誌に加わっていたが、その同人の一人で戦中にお年頃を迎えた女性がこんな話をしていた。終戦直後、その女性は千葉県のほうにいたらしいのだが、或る日総武線の電車に乗っていたら市川の駅から、荷風散人が乗りこんできた。例の風体をしていて、まず車内をじわりと物色する。それからやおらその女性の席の前に寄ってくると、吊り皮につかまって、身を乗り出すようにして、しばし脇目もふらずに顔をのぞきこむ。

色白の細面、目鼻立ちも爽やかな、往年の令嬢の美貌は拝察された。それにしても荷風さん陣こそ、いかに文豪いかに老人、いかに敗戦後の空気の中とはいえ、白昼また傍若無人な、機嫌を悪くした行きずりの客に撲られる危険はさて措くとしても、当時の日本人としては何と言っても懸け離れた振舞いである。

「昭和四十年頃、同人誌に加わっていた」とあるが、古井由吉は1964年~1969年、高橋たか子らと同人雑誌『白描』に加わっていたとはウェブ上から拾うことができる(『乱読すれど乱心せず: ヤスケンがえらぶ名作50選』安原顯)。この《色白の細面、目鼻立ちも爽やかな、往年の令嬢》は、高橋たか子かと初めは思ったが、彼女の生年を確めてみると1932年でありーーああ、わたくしの母と同年生まれなのだーー、終戦直後はまだ十代前半であり、年齢があわない。




            (ありし日の偏奇館)

さて荷風の二つの章の叙述を順不同に抜きだす。まずは最終章の「境を越えて」から。

《寧ろ一思に藏書を賣拂ひ身輕になりアパートの一室に死を待つにしかじと思ふ事もあるやうになり居たりしなり》と、これは(……)昭和二十年三月十日の麻布市兵衛町偏奇館炎上の記の内、罹災前の心境を語った言葉である。それに続いて、《昨夜火に遭ひて無一物となりては却て老後安心の基なるや亦知るべからず》とある。

さしあたっては老後の安心どころか、五月末には東中野のアパートをまた焼け出され、六月末には逃げた先の岡山で、すでに火炎の照る中を寝床から跳ね起きて振分け荷物で宿屋の梯子を駆け降り、橋を押し渡って田の間にうずくまり(なぜだが「斷腸亭日乘」のほうではこの辺の詳細が省かれ、しかも《伏して九死に一生を得た》という場所がやや違うようなのだが)、戦争の終った時には恐怖に取り残されたかたちで土地に身の置きどころもなくなりかけ、八月の末日に復員軍人と一緒に列車に押しこまれて東京にもどればここにも住処はなく、熱海の知人の別荘に身を寄せて翌二十一年六十八歳の元旦の「斷腸亭日乘」に、

……六十前後に死せざりしは此上もなき不幸なりき、老朽餓死の行末思へば身の毛もよだつばかりなり。

株の配当もなくなったので今年からは筆一本でしのがなくてはならない。それに食糧事情が逼迫して、元旦から朝飯を抜くために寝床の中で本を読んで空腹を紛らし、正午近くに起き出て葱と人参を煮て麦飯の粥を炊き、食後には炭火がないのでまた寝床に入って鉛筆で売文の草稿をつくる。

進駐軍の缶詰を開けては彼我の生活を較べて、《人間も動物なれば其高下善悪は食料によりて決せらるべし、近年余の筆にする著作の如きも恐らくは見るに足るべきものには非ざるべし》と歎く。また一方で、二十年の九月の中頃には、荷風の無事を知った知人たちから、戦争からの解放を喜ぶ手紙の来るのを、《一點眞率の氣味なし》と、国の荒廃を思い併わせて憂えている。また、文芸出版復興の兆しもすでにあり雑誌や新聞の記者たちが熱海まで荷風を訪れてくるのを、《さしたる用事でもなきに、東京より乗りがたき汽車に乗りて人を訪問する此の人達の生活も、亦奇ならずや》と訝る。(古井由吉「境を越えて」『東京物語考』)

次は、「命なりけり」からだが、ふたりの大文豪の対面場面がことさら見事に描写されており、《しいんと切ない心地に引きこまれる》永井荷風、明治十二年生の昭和三十四年没、谷崎潤一、明治十九年生の昭和四十年没。

その岡山でもわずか二週間あまりして市内壊滅の空襲に遭っている。そのあいだ荷風は人の周旋により銀行預金の一部をようやく引出して旅館に住まい、日ごとに岡山の街を散策して一種明視の感をもって市中の風景を「日錄」に綴っている。たとえば船着場の黄昏の風景を、

橋下に小舟を泛べ篝火を焚き大なる四手網をおろして魚を漁るものあり。橋をわたりて色里を歩む。娼家皆二級飲食店の木札掲ぐ。燈火ほのぐらき納簾のかげに女の仲居二三人づつ立ちて人を呼留む。されど登樓の客殆ど無きが如く街路寂然たり。店口に寫眞を掲ぐるものと然らざるものとの別あり。掲ぐるものは小店なるが如し。たまたま門口に立出る娼妓を見るに紅染の浴衣にしごきを巾びろに締め髪をちぢらしたるさま玉の井の女に異らず。青樓櫛比の間に寺また淫祠あり。……

春水の人情本の絵のごとくに眺める。ひき比べる玉の井あたりはすでに猛火に焼き払われた。命を落とした女たちもいるだろう。麻布偏奇館も焼け落ちた。東京はほぼ全滅し大阪神戸も同じ運命をたどったらしい。しかし岡山の市民はそれまでに戸障子を震わせるほどの爆音も耳にしたことがなかったという。この閑静な中で、絵のごとくに眺めるのはおそらく、終末の近さを感じる目である。一地方都市の壊滅といえども、そこからさしあたり逃れるすべのない人間には、世の終末に等しい。近々敵はかならずここをも襲う、その時にはのどかな城下町はよけいに凄惨なことになるだろう、と空襲を重ねて体験してきた者ならそう思う。思うよりも先に、不思議なような街の静けさを眺める。

六月二十八日の未明二時にこの街もまた警報なしに襲われた。焼失家屋二万五千戸、死者一六七八人という。《夢裏急雨の濺来るがと如き怪音に驚き覺むるに、中庭の明るさ既に晝の如く》荷風は洋服を着込み枕元の行李と風呂敷包みを振分けにして宿屋の梯子を駆け降り表へ飛び出す。《逃走の男女を見るに、多くは寢間着一枚にて手にする荷物もなし》とある。まず市の東を流れる旭川の橋のたもとまで走って対岸の後楽園の林の間から焔のあがるのを見たが構わず橋を押し渡って田園地帯へ逃げこむ。初体験の市民たちよりも老人ながらはるかに迅速沈着な退避だったのだろう。心得のない避難者たちはどうかして、燃える市内をただ炎に怖じてぐるぐると逃げ惑ったりするものらしい。その中をひとりまっしぐらに町の外へ落ちていく大柄の老人の姿は、人目に際立たなかっただろうか。

ところが田圃のあるあたりまで来て、前方の農家数軒がおそらく零れ弾を受けて炎上し牛馬が走り出て水に陥るのを見るや、《予は死を覺悟し路傍の樹下に蹲踞して徐に四方の火を觀望す》とある。死を云々とは偏奇館炎上の際にも、身の危険のかなり迫ったはずの東中野罹災の際にも見えない。わずかに二月二十五日の空襲の直前、取って置きのコーヒーに砂糖をたっぷり入れてパイプをふかし、この世に思い残すこと云々の言葉が見えるが、あれとこれとの隔りを思うべきだ。習うほどに剥出しになる、意気地のなくなるのが恐怖である。前方の農家はやがて焼け落ちて火は麦畑を焼きつつおのずから煙となったとある。

爆音が引いて川の堤の上にもどり対岸の市街のいまや酣の炎上を眺めた時には、空がようやく明けて、また雨が俄に降りはじめる。近くの家の軒下に罹災者と一緒にしばらく雨を避けて、火の衰えた市中にもどり、さらに知人を頼って岡山市の西端の田園地帯まで、振分けの荷を肩に雨中一、二里の道を歩む。知人の世話によって野宿を免れたことを、《其恩義終忘るべきにあらず》と書いている。終生ずいぶん身勝手な人だったとも聞いたが。

七月三日に同じ岡山の西はずれの三門町に人の邸の二階を借り、乏しい自炊暮しをして終戦まで至っている。この頃にも周辺をよく歩いたようで、裏山あたりから近辺の風光を望んで心鬱々として楽しまぬことを歎いたり、西へ田舎道を二里半も隔った人の家を訪ねたり、これはおそらく所在なさを紛らわすためであったのだろうが、どこかしらに食糧か住居か、安堵のたよりを求める心が忍んでいたかと思われる。戦後の散歩にもその習い性の、影が残ったのではないか。生きながらえるために歩いている、と言っても大袈裟ではないのかもしれない。

七月二十五日には東京から杵屋五叟(従弟:引用者)の手紙が来て、荷風の惨状を見かねてすぐに帰京するように切符も宿所も手配するとの旨に、《周章狼狽殆ど為すところを知らず。纔に亂筆數行。卽座には歸りがたき旨書き送にぬ》とある。二十六日には同じ岡山県の奥の勝山に難を避けている谷崎潤一郎から小包みが岡山駅留めで届き、《鋏、小刀、朱肉、半紙千餘枚、浴衣一枚、角帶一本、其他なり。感淚禁じがたし》とある。

八月二日には数日続いた下痢の後、暮れに井戸水で冷水摩擦をしている。感冒予防の為であるが、この際病気への恐怖が心についたのに違いない。夜にはすぐに寝つくようになった、とやや自嘲的に記されている。

八月九日に《赤軍滿州に寇すと云》と見え、翌十日には《數日前廣島市燒滅以後、岡山の人々再び戰々兢々。流言蜚語百出す》とあり、その早朝に勝山行の切符を買いに行っている。



ーーー谷崎が当時勝山の借りたと云われるもと酒楼の離れ「小野はるさん」の住居。


二日置いて十三日の未明にまた岡山駅に並び、徹夜の人に混って四時半の出札を待ち、途中諦めかけたが切符は手に入り、いったん朝食を摂りに家へ帰って十時前の汽車で発つ。伯備線で新見、姫新線に乗換えて勝山までの、隧道また隧道の深い谷を縫う旅である。車中坐り合わせた老婆からジャガイモとメリケン粉とカボチャを煮てつきまぜたようなものを貰って案外美味と思ったり、窓外の狭い渓谷を眺めて一歩一歩嚢中に追い込まれて行くが如き心地がしたりして、一時半に勝山に着く。谷崎はもと酒楼の離れの二階二間を書斎として、階下には疎開してきた親戚たちが大勢住まっている。その谷崎宅で佃煮とむすびと、風呂を貰って、谷崎に案内されて三軒ほど先の旅館に落着く。米は谷崎宅から届けられる。宿の夕飯は豆腐汁に渓流の小魚三尾に胡瓜もみで、《目下容易には口にしがたき珍味なり》。


ーーーー谷崎に案内されて荷風が宿泊した三軒ほど先の元赤岩旅館。

翌日の昼飯は谷崎宅で小豆餅米の東京風赤飯を振舞われる。その席で谷崎から勝山滞在を、断わられるかたちになる。山陽諸都市の罹災につれてこの土地も日に日に食料が逼迫して避難者たちはろくに喰えぬありさまだという。初めに手紙で誘ったのは谷崎のほうであったらしいのだが、事情すでにかくの如くなれば長く氏の厄介にもなり難し、と翌朝すぐに岡山へ帰る決心をする。駅に行って切符のことを訊くと朝五時に来なくては駄目だろうと言われて、それに備えて宿にもどって午睡にかかる。ところが暮れ方に谷崎から使いがあり、牛肉が手に入ったのですぐに来るようにと言われて駆けつけると、酒も暖められている。谷崎夫人も一緒で、上機嫌に呑んだようで、九時過ぎに宿へ帰っている。

翌八月十五日、宿の朝飯は卵に玉葱の味噌汁にハヤの付焼に茄子の糠漬、《これも今の世にては八百膳の料理を食する心地なり》とある。食後谷崎宅に寄ると、切符はすでに手に入れられてある。十一時二十分の汽車で、いくらも時間がない。前日の昼からここまでの荷風、潤一郎の心のやりとりの機微は、読者の想像にまかせるべきだろう。身の寄せどころを失いかけた荷風にはやはりこの土地への未練が最後まであったはずだ。谷崎も谷崎なりにこれが精一杯のもてなしだったのだろう。一夜二夜の客ならば肉でも馳走できようが長逗留の罹災者には団子ひとつも分けにくい。切符一枚にも誰かが早朝から駅前に立たなくてはならない。やむを得ず追い帰したり追い帰されたり、その侘びしさを体験した人なら、向かい合う両文豪の姿を浮べて、しいんと切ない心地に引きこまれることだろう。

新見での乗換えを済ましたところで夫人から贈られた弁当をひらき、《白米の握飯、昆布佃煮に牛肉を添へたり。欣喜名狀すべからず》。ほんとうに、着のみ着のままの年寄りが、端の乗客が覘いたら吃驚するような弁当だ。満腹して睡るうちに西総社倉敷も過ぎて二時に岡山到着、上伊福町というところの焼跡を通りかかり道端の水道で顔を洗って汗を拭い、休み休み三門町の寓居へ帰ったという。そちらもすでに罹災者たちが多くて居づらくなっていたらしい。

夏の焼跡の水道でよれよれの荷風散人が顔を洗っている。戦争の終ったこともまだ知らない。

谷崎潤一郎の実質的な文壇デビューは、明治四十一年、三十歳の荷風が二十四歳の谷崎を「谷崎潤一郎氏の作品」(「三田文学」11月号)で強力に推賞したことによる(「永井荷風と谷崎潤一郎の交友関係」より)。

痩躯長身に黒っぽい背広を着、長い頭髪を後ろの方へなでつけた、二十八、九の瀟洒たる紳士」が会場戸口に入ってくる。「『永井さんだ』と、誰かが私の耳の端で言った。私も一と目ですぐそう悟った。そして一瞬間、息の詰まるような気がした。(……)

最後に私は思い切って荷風先生の前へ行き、『先生! 僕は実に先生が好きなんです。僕は先生を崇拝しております! 先生のお書きになるものはみな読んでおります!』と言いながら、ピョコンと一つお辞儀をした。(谷崎潤一郎『青春物語』)

 荷風の日記から、両大文豪の「歴史的」邂逅の前と直後の二つの記述を抜きだしておこう。


大正八年八月四日。谷崎潤一郎氏来訪。其著近代情癡集の序詞を需めらる。
昭和二十一年四月初四。雨。新生社主人青山氏谷崎氏が上京を機會に、同氏と余とを招飮したき趣、昨日社員酒井氏を遣はされしかど、病後のつかれ猶痊えざれば、江戸川の堤に近き郵便局に至り電報にて辭意を報ず。

晩年の荷風をめぐっては、「春本『濡ズロ草紙』を草す(荷風『断腸亭日乗』)」などにいくらかのメモがある。






2014年4月8日火曜日

四月八日 再び雨降る

再び雨降る。昨日の半年ぶりの小雨よりやや雨量多し。おそらく黄昏に羽蟻乱飛する。毎年雨季の最初の雨でおびただしい羽蟻が湧き出て、日没時、光と水を求めて飛散する。昨日はどうかなと思ったが、あの程度の雨では発生しなかった。一度など不用心に風呂場の電灯を点けて一夜を明かしたら、次の朝バスタブに二十センチほどの高さの死骸の山ができたことがある。窓を閉めても僅かな隙間から光をもとめて押し入ってくる。それも年々畑地が住宅地に変わっていくに連れ数は少なくなったが、いまでも次の日の掃除の手間を省くため、中庭の小卓の上に水を数センチほど入れた馬穴を置き、脇に蝋燭を点して呼び寄せると、翌朝には死骸で満杯となっている。どこから湧き出るのかはよく分からないが、荷風の日記を読むと、かつての東京山の手(麻布)でも羽蟻発生があったようだ。

大正十二年五月十八日。快晴。気候順調となる。玄関の軒裏より羽蟻おびただしく湧出ず。(永井荷風『断腸亭日乗』)

2014年4月4日金曜日

蕾の割れた梅の林

たとえば、《瑞香の花満開なり。夜外より帰来つて門を開くや、香風脉として面を撲つ。俗塵を一洗し得たるの思あり》と、断腸亭日乗大正十年三月三十日にある。荷風四十歳のおりの日記だが、こうやって荷風の日記を繙くのは季節の変わり目のことが多い。ああ梅の季節が過ぎいまは桜の季節なのだな、と日本に住まうひとたちの言葉を目にして荷風の文を読み返すということもある。《四月四日。天気定まらず風烈し。梅花落尽して桜未開かず》。
                                        
荷風の日記には花や樹木の記述がふんだんにある。《五月廿六日。庭に椎の大木あり。蟻多くつきて枝葉勢なし。除虫粉を購来り、幹の洞穴に濺ぎ蟻の巣を除く。病衰の老人日庭に出で、老樹の病を治せむとす》と読めば、庭木の木蓮三株のうちの一株が葉がことごとく落ちてしまってあれはなんのせいなのだろうと思いを馳せることになる。


この時期の荷風は自ら雑草を抜いていたようだ。


四月十九日。風冷なり。庭の雑草を除く。花壇の薔薇花将に開かむとす。
五月三日。半日庭に出でゝ雑草を除く。
六月廿六日。雨の晴れ間に庭の雑草を除く。

いまこの大正十年の日記からのみを無作為に抜き出しても、次の如く如何に荷風が自然の風物を愛でていたかが瞭然とする。


去年栽えたる球根悉く芽を発す。
細雨糸の如し。風暖にして花壇の土は軟に潤ひ、草の芽青きこと染めたる如し。
毎朝鶯語窗外に滑なり。
雨中芝山内を過ぐ。花落ちて樹は烟の如く草は蓐の如し。
四月十五日。崖の草生茂りて午後の樹影夏らしくなりぬ。
新樹書窗を蔽ふ。チユリツプ花開く。
五月九日。日比谷公園の躑躅花を看る。深夜雨ふる。
五月二十日。夕刻雷鳴驟雨。須臾にして歇む。
五月廿五日。曇りて風冷なり。小日向より赤城早稲田のあたりを歩む。山の手の青葉を見れば、さすがに東京も猶去りがたき心地す。
六月六日。正午頃大雨沛然たり。薄暮に至るも歇まず。
清夜月明かにして、階前の香草馥郁たり。
桐花ひらく。
松葉牡丹始めて花さく。
門前の百日紅蟻つきて花開かず。
石蕗花ひらく。
久雨のため菊花香しからず。
暮雨瀟瀟たり。
夜、雨ふりしきりて門巷寂寞。下駄の音犬の声も聞えず。山間の旅亭に在るが如し。


もっともここで坂口安吾の「通俗作家 荷風」から引用しておくべきだろう。

荷風の人物は男は女好きであり女は男好きであり、これは当然の話であるが、然し妖しい思ひや優しい心になつてふと関係を結ぶかと思ふと、忽ち風景に逃避して、心を風景に托し、嗟嘆したり、大悟したり、諦観したり荷風の心の「深度」は常にたゞそれだけだ。

 男と女とのこの宿命のつながり、肉慾と魂の宿命、つながり、葛藤は、かく安直に風景に通じ風景に結び得るものではない。荷風はその風景の安直さ、空虚なセンチメンタリズムにはいさゝかの内容もなくたゞ日本千年の歴史的常識的な惰性的風景観に身をまかせ、人の子たる自らの真実の魂を見究めようとするやうな悲しい願ひはもたないのだ。

 風景も人間も同じやうにたゞ眺めてゐる荷風であり、風景は恋をせず、人間は恋をするだけの違ひであり、人間の眺めに疲れたときに風景の眺めに心をやすめる荷風であつた。情緒と道楽と諦観があるのみで、真実人間の苦悩の魂は影もない。たゞ通俗な戯作の筆と踊る好色な人形と尤もらしい風景とが模様を織つてゐるだけである。

だがすこしは容赦してもらおう、そもそも安吾は志賀直哉も夏目漱石も貶しているのだから(「志賀直哉に文学の問題はない」)。

志賀直哉の一生には、生死を賭したアガキや脱出などはない。彼の小説はひとつの我慾を構成して示したものだが、この我慾には哲学がない。
夏目漱石も、その博識にも拘らず、その思惟の根は、わが周囲を肯定し、それを合理化して安定をもとめる以上に深まることが出来なかった。然し、ともかく漱石には、小さな悲しいものながら、脱出の希いはあった。彼の最後の作「明暗」には、悲しい祈りが溢れている。志賀直哉には、一身をかけたかゝる祈りは翳すらもない。

…………

荷風を繙くきっかけになったのは直接には暁方ミセイの《蕾の割れた梅の林から、糸のように漂いやってくる、》という詩行だった。糸のように漂いやってくるのは、次の行に、《五百年前の我が兄子、千年前の我が妹子、》とあるので、過去の記憶だと「誤読」することもできるだろう。

…………

蕾の割れた梅の林、――今からほぼ三十年前から十年ほどのあいだ、京都の西にある梅宮大社の近処に住んでおり、そこには手入れのわるい寂れた梅園があった。散歩がてら、あるいは煙草を買いにいくついでに、お社の傍らの道を通り抜ける。梅の季節であれば境内にはいって、梅園の入口に一株ある形のよい白梅の蕾が綻びかけたのを愛でる。そもそもそれ以前は梅などに目もくれない不粋な人間だったが、これ以来桜よりも梅を愛す。

もっとも梅の木を観賞するために境内に入ったといったら嘘になる。お社に奉納された酒がほとんどつねに枡酒で飲めその無料の冷酒が目当てだったが、日本酒の芳香と梅の香との記憶がいまでも、《糸のように漂いやってくる》。ああ、アリアドネの糸! 《迷路の人間は、決して真実を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ》(ニーチェ) 当時なんの迷路に嵌っていたかは敢えて書くことはしない。

京都のふたつの梅の名所の一処とはいうが、北野神社の整備された梅園とは段違いであり、社そのものも慎ましい住宅街のなかにあり、観光客も梅の季節になってさえまばらで、神主一家は、鳥居と楼門のあいだの駐車場の賃貸収入で、生計を立てているとしか思えなかった。

もっとも由緒は正しく檀林皇后、いつの時代の皇后かといえば、延暦5年(786年) - 嘉祥354日(850617日)などとあるその皇后が梅宮大社の砂を産屋に敷きつめて仁明天皇を産んだらしく、子授け・安産の神として、「またげ石」なるものがあり、男女のカップルが訪れ、その石をまたげば子が授かるということになっている。あるいは古来から酒造の神として名高く、すぐそばの桂川にかかった松尾橋を渡って正面にある著名な松尾神社の酒造の神よりも、由緒が正しいと聞いたことがある。松尾神社にはただ酒はなく、お社も味気ない。湧き水を汲んでその効験を尊ぶ習慣はあるが、わたくしはそれを飲んでお腹をこわした。

《蕾の割れた梅の林から、糸のように漂いやってくる、》とはエロスの詩行としても読めるだろう。少女の割れ目から糸が引く、などと書くまでもなく。

もし私がここで
ロンサールの“朱色の割れ目”とか
レミ・ベローの“緋色の筋のまわりにひろがる繊細な苔におおわれた丘”
などと引用したら<あなた>はなんというだろうか

――とはナボコフ『ロリータ』のほぼパクリである。

「ただ この子の花弁がもうちょっと
まくれ上がってたりら いうことはないんだがね」(ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』)

――というのは、わが国至高の少女愛詩人吉岡実からの孫引きだ。

またぎ石とすれば吉岡実の詩句を想い起こさずにはいられない。

《一人は川へ魚の姿で女中の股をのぞきにゆく》

《大股びらきの洗濯女を抱えた》

《夏草へながながとねて
ブルーの毛の股をつつましく見せる》

《紅顔の少女は大きな西瓜をまたぎ》

《姦淫された少女のほそい股が見せる焼かれた屋根》

…………


半病人の少女の支那服のすそから
かがやき現われる血の石(〈珈琲〉)

ぼくがクワイがすきだといったら
ひとりの少女が笑った
それはぼくが二十才のとき
死なせたシナの少女に似ている(〈恋する絵〉)

コルクの木のながい林の道を
雨傘さしたシナの母娘
美しい脚を四つたらして行く
下からまる見え(同上)

吉岡実のエロティック・グロテクスな詩は次のような起源があるようだ。

或る別の部落へ行った。兵隊たちは馬を樹や垣根につなぐと、土造りの暗い家に入って、チャンチュウや卵を求めて飲む。或るものは、木のかげで博打をす る。豚の奇妙な屠殺方法に感心する。わたしは、暗いオンドルのかげに黒衣の少女をみた。老いた父へ粥をつくっている。わたしに対して、礼をとるのでもなけ れば、憎悪の眼を向けるでもなく、ただ粟粥をつくる少女に、この世のものとは思われぬ美を感じた。その帰り豪雨にあい、曠野をわたしたちは馬賊のように疾 走する。ときどき草の中の地に真紅の一むら吾亦紅が咲いていた。満人の少女と吾亦紅の花が、今日でも鮮やかにわたしの眼に見える。〔……〕反抗的でも従順 でもない彼ら満人たちにいつも、わたしたちはある種の恐れを抱いていたのではないだろうか。〔……〕彼らは今、誰に向って「陰惨な刑罰」を加えつつあるのか。

わたしの詩の中に、大変エロティックでかつグロテスクな双貌があるとしたら、人間への愛と不信をつねに感じているからである。(吉岡実『わたしの作詩法?』――小林一郎氏「吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈」から)。

…………

北野大社の梅園は整然としすぎていて好みではなかったが、京都で最も美しいお社であるのは、杉本秀太郎の書くとおり(『洛中生息』)。

北野天満宮 杉本秀太郎


京都で最もうつくしいお社は北野神社である。屠蘇の酔いにまぎれていうのではない。けれども私の酔眼には、北野のお社は猶いっそう美しい。

あの長い石だたみの、白い参道がいい。参道のつきるところで石段の上に見上げる門は、お参りにきた人をいかにも迎える様子をしていて、すこしも威圧的でない。

門をぬけると、すぐ左のほうにいって絵馬堂の下に立たずにはいられない。あごをつき出して、高い絵馬を見上げる。話に聞くと、仰ぐような姿勢になって酒杯を傾けると、酔いがたちまち回るそうだ。ふり仰ぐとき、われわれは自然と息を大きく吸いこむから、杯から立ちのぼる酒精が胸の深くに染みとおって、酔いつぶれるのである。なるほど、そうかもしれない。しかし、絵馬堂で天井をふり仰ぐときの私には、冷静に絵の出来具合を判定しようというつもりはまったくなくて、ただ絵馬の奉献の日付けや奉納者の名、また絵師の名が、ぼんやりと目にうつるのを楽しむつもりしかないのだから、天井の絵馬から降ってくる埃のおかげで、ますます楽しくなるだけだ。いま吹きさらしの絵馬は、古くてせいぜい明治も二〇年代のものだが、それでも、もうほとんど剝げて、図柄さえ定かではない。

それがいいのだ、ここでは裁きをつけるのは、くり返される四季の自然力であって、流行の美学ではない。しかし、剝げてしまえば絵馬はおしまいではなくて、のこったわずかな岩絵具と板の木目との偶然から生まれる古色が、北野のお社の、あの苔むす回廊の屋根や本殿の造作の一切と、わけもなく溶け合っている。

銅製や石彫りの幾頭かの牛の目が柔和に光っているのを見ながら、本殿に近づいて高い敷居をまたぎ、一気に鏡のまえに行く。この間合いが、よその神社では、ちょっと味わえないほど爽快である。ここには、逆立ちで歩いても、とんぼ返りをしながら横切っても、いっこう咎めがなさそうなほど、気楽な、くつろいだ広がりがある、しかも決してそういう曲芸をやるわけにはゆかず、歩幅ただしく、さっさと歩かねば恰好がつかないような、なんともいえない品位をそなえた空間の味わいがある。

回廊をひとめぐりして、次は本殿の外まわりを歩く。檜皮葺のこのお社の屋根の美しさは、視覚的というよりも味覚的なものだ。まるで京菓子のように、舌でこの屋根を味わいつつ、建築をなめまわして、何べんもぐるぐると歩く。格子の窓や軒端の彩色は、あでやかで、しかも渋い。この色がまさに京都の色だ、と正月の礼者にありがちな屠蘇の酔いをいいことにして、私も少し大胆につぶやく。

私は北野のお社を飽かずながめつつ、遠いイタリアの、フィレンツェの町を思い出すことがある。そして、なつかしさに気もそぞろ、文子天神の横から、北のほうへ抜けてゆく。

2014年4月2日水曜日

備忘:Adam Magyarの「人間の彫刻」映像

少し前、《ホームで待つ人々のスーパースローモーション映像作品「Stainless」》としてAdam Magyarの作品がツイッター上で紹介されていたが、そこには日本(新宿)、ニューヨーク、ベルリンの映像があった。印象的な作品で昨晩再度鑑賞していたら、韓国の映像が追加アップロードされているようだ。→ Adam Magyar, Stainless - Sindorim (excerpt)




※新宿







これらの「人間の彫刻」たちは、同じ日本でも、たとえば東京と大阪では、かなり違うのだろうな、と思う。

神戸の町を歩いていますと、人間と人間の間隔が広いということを感じます。元町通りなんていう繁華街でも、人間と人間とのあいだが透けて見えるんです。神戸にも多少のラッシュアワーはありますが、東京のようなラッシュアワーではない。みな次の電車を待ちます。無理して乗らない。

都市それぞれには定数のようなものがあって、大阪に行けば、大阪ってなんて人が多いんだろうとぼくらは思うし、東京に来ると、さらにさらにそう思います。ぼくは東京で神戸にいるときのように行動するかというと、そうではないですね。定数に応じて行動形態が違ってきます。東京では雑踏のなかに身をゆだねます。しかし、神戸なら、誰もそういうゆだね方をしないし、私ももとよりです。こういう混み合いのかたち、あるいはどの程度の混み合いとするかというのは、場所によって違うんですね。私は、それぞれの町によって、自分が変身する、群れのなかで自分が変身していくということを感じますね。私だけではないでしょう。(中井久夫「微視的群れ論」『精神科医がものを書くとき』〔Ⅰ〕所収)
 
人の顔や仕草を眺めていて飽きることの少ない映像に廻り合い、断腸亭日記の戦後一年目、貸間同居人のラジオの音に苦しめられ、耳に綿を詰めてしのいだり、近くのお社の境内で日の暮れまで読書していた荷風が、夜にまた鳴り出して家を追い出され、駅の待合室のベンチに腰掛けて客の顔を眺めながら過ごし、思いの外退屈しなかった様が記された文を想い起こすことになる。

荷風散人年六十八 昭和二十一年
八月十六日。

晴。殘暑甚し。夜初更屋内のラヂオに追出されしが行くべき處もなければ市川驛省線の待合室に入り腰掛に時間を空費す。怪し氣なる洋裝の女の米兵を待合すあり。町の男女の連立ち來りて凉むもあり。良人の東京より歸來るを待つらしく見ゆるもあり。案外早く時間を消し得たり。驛の時計十時を告げあたりの露店も漸く灯を消さんとす。二十日頃の月歸途を照す。蟲の聲亦更に多し。(『断腸亭日乗』)


…………

たいして多くの映像作品を鑑賞するほうではないが、Adam Magyarの作品には、若き日のヴィム・ヴェンダースやジム・ジャームッシュがいる、と私は感じる。








ヴェンダースの『都会のアリス』は、最近(今年の一月)、YouTubeで全篇通してみれるようになっている。上の映像は、1;30;00前後から始まるが、そのあたりからが、ことさら素晴らしい。









※『ベルリン・天使の詩』でお馴染みのブルーノ・ガンツ、あるいは映画監督のダニエル・シュミットの出てくる『アメリカの友人』の地下鉄場面(この映画にはほかに、ニコラス・レイ、サミュエル・フラー、ジャン・ユスタッシュなども登場する)。








2014年4月1日火曜日

四月朔

炎熱限りなし。書斎の寒暖計三十九度を指し示す。例年をはるかに上回る異常な暑さに襲われ忍難し。本日早朝米国から訪れし近縁の女が帰国せしが空港まで送るのは妻にまかせ門前にて惜別の挨拶を送るのみ。名残り惜しきかな。《けやきの木の小路を/よこぎる女のひとの/またのはこびの/青白い/終りを》(西脇順三郎) 昨深更奇事あり。

《余一睡して後厠に徃かむとて廊下に出で、過つて百合子の臥したる室の襖を開くに、百合子は褥中に在りて新聞をよみ居たり。家人は眠りの最中にて楼内寂として音なし。この後の事はこゝに記しがたし。》(永井荷風『断腸亭日記巻之五大正十年歳次辛酉 』)



                  (荒木経惟)


ナオミさんが先頭で乗り込む。鉄パイプのタラップを二段ずつあがるナオミさんの、膝からぐっと太くなる腿の奥に、半透明な布をまといつかせ性器のぼってりした肉ひだが睾丸のようにつき出しているのが見えた。地面からの照りかえしも強い、熱帯の晴れわたった高い空のもと、僕の頭はクラクラした。(大江健三郎「グルート島のレントゲン画法」『いかに木を殺すか』所収)



《丘のうなじがまるで光つたやうではないか/灌木の葉がいつせいにひるがへつたにすぎないのに》(大岡信)




                (Bibiana Nwobilo


《水べを渉る鷭の声に変化した女の声を聴く》(吉岡実)



2013年12月11日水曜日

コビトの国の王様

……現実はむしろ夢魔に似ていたのかもしれない。GHQに挨拶に出かけた天皇が、マッカーサーと並んで立っている写真は、まるでコビトの国の王様のようであった。かと思うと、そのマッカーサー司令部のある皇居と向い合せのビルの前で、釈放された共産党員その他の政治犯たちが、「マッカーサー万歳」を唱えたというような記事が新聞に出ていた。(安岡章太郎『僕の昭和史 Ⅱ』 講談社文庫 P24)




「コビトの国の王様」は、戦後日本において「抑圧されたもの」としてよいだろう。もちろんマッカーサーとの会見の約一年後に米国からいわゆる「押しつけられた」とされる現行憲法もその影を大きく背負っている。

経済発展期や議会運営などがまがりなりにも上手くいっているときは、抑圧されたものはある意味で忘れ去ることができた。なにかが上手くいかなくなったとき、ーーたとえば国内に大きな事故や消費税値上げ、あるいは財政逼迫、少子化などの将来にわたっての「引き返せない道」の苦難が瞭然とすれば、さらには二大大国の狭間で「見栄えのしない課題」に汲々とせざるをえないのならば、ーー「天皇」が直接回帰するだけでなく(天皇制論)、その隠喩としての「現行憲法」も否応なしに回帰する。

……われわれはこういうことができようーー要するに被分析者は忘れられたもの、抑圧されたものからは何物も「思い出す」erinnernわけではなく、むしろそれを「行為にあらわす」 agierenのである、と。彼はそれを(言語的な)記憶として再生するのではなく、行為として再現する。彼はもちろん、自分がそれを反復していることを知らずに(行動的に)反復wiederholenしているのである。

たとえば、被分析者は、「私は両親の権威にたいして反抗的であり、不信を抱いていたことを想い出しました」とはいわないで、(その代わりに)分析医にたいしてそのような反抗的、不信的な態度をとってみせるのである。(フロイト『想起・反復・徹底操作』)

コビトの国の王様にとっての、権威としての親への反撥は、米国だけではないだろう。今後、かつて土足で上がりこんだ本来の「親」の家、中国への気遣いもますます増してゆく。

ブルジョワ的民主国家においては、国民が主権者であり、政府がその代表であるとされている。絶対主義的王=主権者などは、すでに嘲笑すべき観念である。しかし、ワイマール体制において考えたカール・シュミットは、国家の内部において考えるかぎり、主権者は不可視であるが、例外状況(戦争)において、決断者としての主権者が露出するのだといっている(『政治神学』)。シュミットはのちにこの理論によって、決断する主権者としてのヒトラーを正当化したのだが、それは単純に否定できない問題をはらんでいる。たとえば、マルクスは、絶対主義王権の名残をとどめた王政を倒した一八四八年の革命のあとに、ルイ・ボナパルドが決断する主権者としてあらわれた過程を分析している。マルクスが『ブリュメール一八日』で明らかにしたのは、代表制議会や資本制経済の危機において、「国家そのもの」が出現するということである。皇帝やヒューラーや天皇はその「人格的担い手」であり、「抑圧されたもの(絶対主義王権)の回帰」にほかならない。(柄谷行人『トランスクリティーク』p418)

武藤国務大臣 (……)

 そのオーストラリアへ参りましたときに、オーストラリアの当時のキーティング首相から言われた一つの言葉が、日本はもうつぶれるのじゃないかと。実は、この間中国の李鵬首相と会ったら、李鵬首相いわく、君、オーストラリアは日本を大変頼りにしているようだけれども、まああと三十年もしたら大体あの国はつぶれるだろう、こういうことを李鵬首相がキーティングさんに言ったと。非常にキーティングさんはショックを受けながらも、私がちょうど行ったものですから、おまえはどう思うか、こういう話だったのです。私は、それはまあ、何と李鵬さんが言ったか知らないけれども、これは日本の国の政治家としてつぶれますよなんて言えっこないじゃないか、確かに今の状況から見れば非常に問題があることは事実だけれども、必ず立ち直るから心配するなと言って、実は帰ってまいりました。(第140回国会 行政改革に関する特別委員会 第4号 平成九年五月九日
『断腸亭日乗』昭和二十(1945)年 荷風散人年六十七


昭和二十年九月廿八日。 昨夜襲来りし風雨、今朝十時ごろに至つてしづまりしが空なほ霽れやらず、海原も山の頂もくもりて暗し、昼飯かしぐ時、窓外の芋畠に隣の人の語り合へるをきくに、昨朝天皇陛下モーニングコートを着侍従数人を従へ目立たぬ自動車にて、赤坂霊南坂下米軍の本営に至りマカサ元帥に会見せられしといふ事なり。戦敗国の運命も天子蒙塵の悲報をきくに至つては其悲惨も亦極れりと謂ふ可し。南宋趙氏の滅ぶる時、其天子金の陣営に至り和を請はむとして其儘俘虜となりし支那歴史の一頁も思ひ出されて哀なり。数年前日米戦争の初まりしころ、独逸摸擬政体の成立して、賄賂公行の世となりしを憤りし人々、寄りあつまれば各自遣るか たなき憤惻の情を慰めむとて、この頃のやうな奇々怪々の世の中見やうとて見られるものではなし、人の頤を解くこと浅草のレヴユウも能く及ぶところにあらず、角ある馬、雞冠ある烏を目にする時の来るも遠きにあらざるべし。是太平の民の知らざるところ、配給米に空腹を忍ぶ吾等日本人の特権ならむと笑ひ興ぜし ことありしが、事実は予想よりも更に大なりけり。我らは今日まで夢にだに日本の天子が米国の陣営に微行して和を請ひ罪を謝するが如き事のあり得べきを知ら ざらりしなり。此を思へば幕府滅亡の際、将軍徳川慶喜の取り得たる態度は今日の陛下より遥に名誉ありしものならずや。今日此事のこゝに及びし理由は何ぞ や。幕府瓦解の時には幕府の家臣に身命を犠牲にせんとする真の忠臣ありしがこれに反して、昭和の現代には軍人官吏中一人の勝海舟に比すべき智勇兼備の良臣 なかりしが為なるべし。我日本の滅亡すべき兆候は大正十二年東京震災の前後より社会の各方面に於て顕著たりしに非ずや。余は別に世の所謂愛国者と云ふ者に もあらず、また英米崇拝者にもあらず。惟虐げられらるゝ者を見て悲しむものなり。強者を抑へ弱者を救けたき心を禁ずること能ざるものたるに過ぎざるのみ。 これこゝに無用の贅言を記して、穂先の切れたる筆の更に一層かきにくくなるを顧ざる所以なりとす。

…………

だいたい僕は天皇個人に同情を持っているのだ。原因はいろいろにある。しかし気の毒だという感じが常に先立っている。むかしあの天皇が、僕らの少年期の終りイギリスへ行ったことがあった。あるイギリス人画家のかいた絵、これを日本で絵ハガキにして売ったことがあったが、ひと目見て感じた焼けるような恥かしさ、情なさ、自分にたいする気の毒なという感じを今におき僕は忘れられぬ。おちついた黒が全画面を支配していた。フロックとか燕尾服とかいうものの色で、それを縫ってカラーの白と顔面のピンク色とがぽつぽつと置いてあった。そして前景中央部に腰をまげたカアキー色の軍服型があり、襟の上の部分へぽつんとセピアが置いてあった。水彩で造作はわからなかったが、そのセピアがまわりの背の高い人種を見あげているところ、大人に囲まれた迷子かのようで、「何か言っとりますな」「こんなことを言っとるようですよ」「かわいもんですな」、そんな会話が――もっと上品な言葉で、手にとるように聞こえるようで僕は手で隠した。精神は別だ。ただそれは、スケッチにすぎなかったが描かれた精神だった。そこに僕自身がさらされていた。(中野重治『五勺の酒』)
これは文芸時評ではないが無関係ではない─天皇の生まれてはじめての記者会見というテレビ番組を見て実に形容しようもない天皇個人への怒りを感じた。哀れ、ミジメという平生の感情より先にきた。いかに『作られたから』と言って、あれでは人間であるとは言えぬ。天皇制の『被害者』とだけ言ってすまされてはたまらないと思った。動物園のボロボロの駝鳥を見て『もはやこれは駝鳥ではない』と絶叫した高村光太郎が生きていてみたら何と思ったろうと想像して痛ましく感じた。三十代の人は何とも思わなかったかも知れぬ。私は正月がくると六十八歳になる。誰か、あの状態を悲劇にもせず喜劇にもせず糞リアリズムで表現してくれる人はいないか。冥土の土産に読んで行きたい。(藤枝静男(「東京新聞」「中日新聞」文芸時評 昭和五十年十一月二十八日夕刊)
志賀氏が、天皇を天皇制の犠牲者として、自由にものを云うことを奪われた、残念ではあるが気が弱い、人間的には好い人と…見ていたことは…明白である。中野氏の『五尺の酒』を読めば…あの繰り人形さながらの動作とテープ録音そっくりのセリフを棒たらに繰り返す天皇への憐れさへの何とも処理しがたい心持ちと焦立ちを…描いていることもまた明白である。(藤枝静男、「志賀直哉・天皇・中野重治」昭和五十年「文藝」七月号)
今度の戦争で天子様に責任があるとは思はれない。 然し天皇制には責任があると思ふ。‥‥  天子様と国民との古い関係をこの際捨て去つて了ふ 事は淋しい。今度の憲法が国民のさういふ色々な不安 を一掃してくれるものだと一番嬉しい事である。  (志賀直哉  「昭和21. 4.『婦人公論』)
…………

日本は天皇によつて終戦の混乱から救はれたといふが常識であるが、之は嘘だ。日本人は内心厭なことでも大義名分らしきものがないと厭だと言へないところがあり、いはゞ大義名分といふものはさういふ意味で利用せられてきたのであるが、今度の戦争でも天皇の名によつて矛をすてたといふのは狡猾な表面にすぎず、なんとかうまく戦争をやめたいと内々誰しも考へてをり、政治家がそれを利用し、人民が又さらにそれを利用したゞけにすぎない。

日本人の生活に残存する封建的偽瞞は根強いもので、ともかく旧来の一切の権威に懐疑や否定を行ふことは重要でこの敗戦は絶好の機会であつたが、かういふ単純な偽瞞が尚無意識に持続せられるのみならず、社会主義政党が選挙戦術のために之を利用し天皇制を支持するに至つては、日本の悲劇、文化的貧困、これより大なるはない。(坂口安吾『天皇小論』)
たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、朕の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、外ならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けよう、と言う。嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!

我々国民は戦争をやめたくて仕方がなかったのではないか。竹槍をしごいて戦車に立ちむかい、土人形のごとくにバタバタ死ぬのが厭でたまらなかったのではないか。戦争の終わることを最も切に欲していた。そのくせ、それが言えないのだ。そして大義名分と云い、また、天皇の命令という。忍びがたきを忍ぶという。何というカラクリだろう。惨めともまたなさけない歴史的大欺瞞ではないか。しかも我等はその欺瞞を知らぬ。天皇の停戦命令がなければ、実際戦車に体当たりをし、厭々ながら勇壮に土人形となってバタバタ死んだのだ。最も天皇を冒涜する軍人が天皇を崇拝するがごとくに、我々国民はさのみ天皇を崇拝しないが、天皇を利用することには狎れており、その自らの狡猾さ、大義名分というずるい看板をさとらずに、天皇の尊厳の御利益を謳歌している。何たるカラクリ、また、狡猾さであろうか。我々はこの歴史的カラクリに憑かれ、そして、人間の、人性の、正しい姿を失ったのである。(坂口安吾 「続堕落論」)
我々は靖国神社の下を電車が曲がるたびに頭を下げさせられる馬鹿らしさには閉口したが、ある種の人々にとっては、そうすることによってしか自分を感じることが出来ないので、我々は靖国神社についてはその馬鹿らしさを笑うけれども、外の事柄にについて、同じような馬鹿げたことを自分自身でやっている。そして自分の馬鹿らしさには気がつかないだけのことだ。(坂口安吾 「堕落論」)

…………

昭和63年、昭和天皇が病床に就かれ、多くの人が陛下のご平癒を祈って宮城を訪れ、記帳した。その光景を見た浅田彰曰く、『連日ニュースで皇居前で土下座する連中を見せられて、自分はなんという「土人」の国にいるんだろうと思ってゾッとするばかりです(「文学界 平成元年二月号)』)
さて、高度成長と、それによる高度大衆社会の形成は、共同幻想の希薄化をもたらした。 いいかえれば、国家のレヴェルが後退し、家族のレヴェルが、それ自体解体しつつも、前 面に露呈されてきたのだ。......そもそも対幻想を対幻想たらしめていた抜き差しならぬ他 者との「関係の絶対性」の契機がそれ自体著しく希薄化し、対幻想は拡大された 自己幻想に限りなく近付いていく。そうなれば、そのような幻想の共振によって共同体を構成することも不可能ではなくなる。公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語 的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがた い力で束縛する不可視の牢獄と化している。それがハードな国家幻想に収束していく可 能性はたしかに小さくなったかもしれないとしても、だからといってソフトな閉塞に陥らない という保証はどこにもないのである。」浅田彰「むずかしい批評」(『すばる』1988 年 7 月号)


◆『柄谷行人 中上健次全対話』(講談社文芸文庫)より


中上)…しかし、西洋史のあなた達柄谷さんと浅田彰さんが、対談(「昭和の終焉に」・文学界1989年2月号)して、天皇が崩御した日に人々が皇居の前で土下座しているのを、「なんという”土人”の国にいるんだろう」と思った、と言う。

柄谷)でも、あの”土人”というのは北一輝の言葉なんだよ。(笑)

…だから天皇って何かというと、…女文字・女文学と切り離せない。つまり母系制の問題というところにいくと思う。

中上)…何故ここで被差別部落のような形で差別が存在するか、被差別部落が存在するか、と問うのと、なぜここに天皇が存在するのかと問うのとは、同じ作業ですよ。

柄谷)…あれは、あの対談の前に僕が北一輝の話をしていたんですよ。北一輝は、明治天皇をドイツ皇帝のような立憲君主国の君主だと考えていた。それ以前の天皇は土人の酋長だ、と言っているわけす。

《実のところ、私は最低限綱領のひとつとしての天皇制廃止を当時も今も公言しているし、裕仁が死んだ日に発売された『文學界』に掲載された柄谷行人との対談で、「自粛」ムードに包まれた日本を「土人の国」と呼んでいる。それで脅迫の類があったかどうかは想像に任せよう。……》(図像学というアリバイ 浅田彰


北一輝は、明治以前の天皇は「土人の酋長」と変わらないといっている。事実、先にのべたように、元号も明治までは自然を動かす呪術的な機能であった。「一世一元」とはそれを否定することであり、天皇を近代国家の主権者とみなすことである。北一輝にとって、明治天皇は立憲君主であり「機関」としてある。つまり、天皇個人もその儀礼的本質も、彼にとっては本質的にはどうでもよかったのである。ヘーゲルもいっている。≪君主に対し客観的な諸性質を要求するのは正当ではない。君主はただ「イエス」といって最後の決定を与えるべきなのだ。そもそも頂点とは、性格の特殊性が重要でなくなるようにあるべきものだからである≫(『法哲学』280補遺)。(柄谷行人「一九七〇年=昭和四十五年」『終焉をめぐって』所収P27-28)

◆柄谷行人『倫理21』より抜粋
1970年天皇をかついだクーデターを訴えて自決した三島由紀夫のような人は、死ぬ前のインタビューでも、昭和天皇に対する嫌悪と軽蔑を隠していません。また、天皇の戦争責任を認めて右翼から襲撃された長崎市長本島等は、左翼どころか、どちらかといえば「右翼的」な人物です。総じて、天皇の戦争責任を認める者は、蜷川新のように「明治気質」の人間です。日本国家の戦争責任を認めるならば、天皇の責任を認めるべきであり、そうでないなら、戦争責任を全面的に否定すべきだ、その二つに一つしかありません。
今日において史料的に明らかなことは、戦争期において、天皇がたんなる繰り人形でもなく、平和を愛好する立憲君主でもなく、戦争の過程に相当積極的に加担していたということです。さらに、天皇自身がその地位の保全のために画策したということです。戦争末期にそれは「国体の維持」という言い方をされたのですが、つまりは天皇制および天皇個人の地位の護持ということが、当時の権力の最大の目的でした。
イタリアはいうまでもなく、ナチス・ドイツが降伏した後でさえ日本が戦争を続けたのは、なんら勝算や展望があったからではなく、降伏の条件として天皇制の「護持」をはかって手間取ったのです。その結果として、何百万人の兵士、市民が戦場や都市爆撃、さらに二度の原子爆弾によって死ぬことになりました。
にもかかわらず、敗戦の決定は、天皇自身の「御聖断」によってなされたという神話ができています。そのような神話づくりには、占領軍のマッカーサー将軍も加担しています。彼は「国民が救われるなら、自分はどうなってもいい」と語った天皇に感動したということを伝記に書いていますが、これは明らかに虚構です。「自分はどうなってもいい」のなら、もっと前に終戦をいうべきだったし、もし「立憲君主」のためにそのような介入ができない立場にあるなら、敗戦においてもそれはできなかったはずです。
実際には、天皇制を保持し天皇を免責することを決めたのは、ソ連あるいはコミュニズムの浸透をおそれたアメリカ政府です。また、マッカーサーは、東京裁判のあと天皇が退位することを当然とする日本の識者の意見に対して、それを抑えました。

※参考:三島由紀夫の天皇論


浅田彰の共感の共同体批判、《公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語 的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがた い力で束縛する不可視の牢獄と化している》という文章は、ラカン用語で仮装されているが、丸山真男や、あるいは加藤周一らのモダニスト系譜のものだろう。


◆加藤周一『日本文化における時間と空間』より

日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係において定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。(……)

労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。

加藤周一が89歳でとうとう亡くなったね。全共闘以後、「朝日・岩波文化人」はもう古いなんて言われたけど、若い世代が好きなことを言えたのも、基準となる文化人がいてのことだった。最後の大知識人だった加藤周一の死で、そういう基準がなくなったことをあらためて痛感させられる。実際、もはや「朝日・岩波文化人」と呼ぶに足る人なんて朝日を見ても岩波を見てもほとんどいないもん。戦前・戦中の日本が情緒に引きずられたことへの反省から、加藤周一はとことん論理的であろうとした。老境の文化人がややもすれば心情的なエッセーに傾斜する日本で、彼だけは最後まで明確なロジックと鮮やかなレトリックを貫いた。晩年になっても、日本料理よりは西洋料理や中華料理、それも血のソーセージみたいなものを選ぶわけ。で、食べてる間はボーッとしてるようでも、いざ食後の会話となると、脳にスイッチが入って、一分の隙もない論理を展開してみせる。彼と宮脇愛子と高橋悠治は約10年ずつ違うけれど、誕生日が並んでるんで何度か合同パーティをした、そんなときでも彼がいちばん元気なくらいだったよ。とくに国際シンポジウムのような場では、彼がいてくれるとずいぶん心強かった。英語もフランス語もそんなに流暢ではないものの、言うべきことを明晰に言う、しかも、年齢相応に威厳をもって話すんで海外の参加者からも一目置かれる、当たり前のことのようで実はそういう人って日本にほとんどいないんだよ。むろん、ポスト全共闘世代のぼくらからすると、加藤周一は最初から過去の人ではあった。でも、先月号(2009年1月号/talk13)で触れた筑紫哲也の場合と同様、死なれてみるとやっぱり貴重な存在だったと思うな。(加藤周一の死

2013年11月23日土曜日

一片欣々たる皇室尊崇の念(森鷗外)


断腸亭日乗 大正七年戊午 荷風歳四十

正月廿四日。鴎外先生の書に接す。先生宮内省に入り帝室博物館長に任ぜられてより而後全く文筆に遠ざかるべしとのことなり。何とも知れず悲しき心地して堪えがたし。

荷風の日記には、鴎外にたいして殆ど崇拝の念を感じさせる記述ばかりが目立つが、上の文はその稀な例外である。

もっとも鴎外は、この大正七年前後、完全に執筆活動をやめていたわけではなく、遅々として進まぬながら『北條霞亭』を書いていたようだ。

「北條霞亭」は森鴎外史伝三部作の最後の作品であるとともに、彼の著作活動の絶筆ともなった作品である。大正五年十月に新聞紙上に連載を開始して以来、長い中断を置いて、大正十年雑誌「あららぎ」誌上で連載を終了するまで、実に五年余の歳月を要している。しかしてその八ヵ月後に鴎外は世を去るのである。

この作品の完結にかくも長い期間を要したのは、世間がこの作品を喜ばなかったからである。最初この作品の連載を載せた新聞(東京日日新聞)は、開始後二か月で連載を中止した。本編165回分のうち57回分を終えたところだった。1年以上の中断を経て今度は雑誌(帝国文学)に続編を発表したが、これも遅々として進まず、大正9年1月には雑誌社そのものが廃刊してしまう。最後に連載を引き受けた「あららぎ」は創刊したばかりで、創始者の齋藤茂吉は鴎外に尊敬の念を抱いていたから、いわばご祝儀のようなつもりだったのだろう。連載中作品そのものが世間の話題を呼ぶことは殆どなかった。(森鴎外「北條霞亭」:文化文政時代の精神を描く

《大正5年(1916)1月13日から鴎外「渋江抽斎」を「東京日日新聞(毎日新聞)」に連載開始。同年、3月28日、鴎外の母死す。その1ヶ月後、「渋江抽斎」完結。それから10日もたたぬうちに漱石が「明暗」を「朝日新聞」に連載開始。その年、12月9日、漱石死す(50才)。鷗外(55才)も漱石の葬儀には参列している。

鷗外と漱石は、お互いに「見た」ことはあるが交流はなかった。

「実際には漱石は鴎外が同時代の小説家の中でただ一人尊敬していた人です。尊敬というか、好敵手と見ていた人です。」

鷗外の「ヰタ・セクスアリス」には、「夏目金之助君が小説を書き出した、金井君(主人公の鴎外)は非常な興味を以て読んだ。そして技癢を感じた。」》(鴎外と漱石 江藤淳 要約


ーー漱石の「朝日新聞」における新聞小説の人気に対抗するようにして、鴎外は「

東京日日新聞」で執筆することになったのだろうが、最初の歴史物『渋江抽斎』はまだしも、その後、だんだんと読まれなくなったということなのだろう。

鷗外にとって、「自己」は実体的ななにかではなく、「あらゆる方角から引つ張つてゐる糸の湊合してゐる」(『妄想』)ものであり、マルクスの言葉でいえば「諸関係の総体」(「ドイツ・イデオロギー」)にほかならなかった。いいかえれば、鷗外は「自己」を西洋人のように直接的・実体的にみる幻想をもちえないことを逆に「苦痛」にしていたのである。

したがって、鷗外の本領は、「侍」的人間を書いた歴史小説で発揮されている。そこでは、鷗外は「心理的なもの」を徹底的に排除しようとした。この姿勢は、午前中に小説を書き、午後には漢詩や山水画の世界に浸っていた晩年の夏目漱石と共通している。おそらく、彼らは「文学」とけっしてなじめないものをもっていたのであり、また「表現」を拒絶する視点をもっていたのである。(柄谷行人『日本近代文学の起源』P93)


柄谷行人は鷗外と漱石の共通性を言うが、漱石は「心理的なもの」をその新聞小説では書き、鷗外が「非心理的な」歴史物を書いて、公衆に受けが悪かったということは言いうるのではないか。そして、もし鷗外が「諸関係の総体」としての人物を書いたのなら、今、鷗外の新しさはそこにあるともいえる。

なぜなら、人工知能のパイオニアのミンスキーの、「心というのは多数のモジュールないしエージェントが統一的なプログラムなしに並列して走っているようなもので、その中には意識としてドミナントになるものもあるが、それとは別のリズムで意識には上らないまま動いているものもある、その総体が心なんだ」やら、あるいはヒュームの、「自己というのは多数の知覚の束だ、いわば蚊柱のようなものだ」とする「解離」「多重人格」としての「自己」を描いた、つまり「自閉症」と並び、現在、注目される課題のひとつでもある「自己」のあり方を書いた、ということになるわけだから。

精神医学の領域では、解離というメカニズムが、現代的な主体においては、抑圧よりもよく見られる防衛システムとして捉えられる傾向にある(座談会「来るべき精神分析のために」 十川幸司発言

実際、鷗外の叙す抽斎は、抽斎自身が解離的だとはどうみても読めないが、「解離的な」友人たちに翻弄・困惑されながらもその頓才・奇才を愛したひとのようには読める。ーー《人と交るには、その長を取って、その短を咎めぬが好い》(『渋江抽斎』)


ところで、冒頭の荷風の日記が書かれた大正七年とは米騒動の年であり、鴎外は当時の社会の激動に無關心で、歴史物を書くのに専念していた、という批判もあるようだ。


荷風の大正七年の日記には、「既に切迫し来れるの感」とあり、翌年には「朝鮮人盛に独立運動をなし」あるいは「新聞紙連日支那人排日運動の事を報ず」などとあり、文人趣味を横溢させる荷風にも、社会的な動乱への関心があるのが知れる。



わたくしは、鴎外の『渋江抽斎』は四五度は読んでいるが、『伊沢蘭軒』はどうもいけない(わたくしには漢文が多過ぎる)。『北条霞亭』は掠ったこともない。青空文庫にもない。が、いまインターネット上をみると、横書きにて打ち込んだものがあるようだ。

ここでは読んでいない小説のことをとやかく言わずに、またすでに多く語られた『渋江抽斎』の感想などを記すことも遠慮し、緒家の『抽斎』賛を掲げておこう。

大正十二年歳次 葵亥 荷風年四十五

五月十七日。 曇りて寒し。午後東光閣書房主人来談。夜森先生の『渋江抽斎伝』を読み覚えず深更に至る。先生の文この伝記に至り更に一新機軸を出せるものゝ如し。叙事細 密、気魄雄勁なるのみに非らず、文致高達蒼古にして一字一句含蓄の妙あり。言文一致の文体もこゝに至つて品致自ら具備し、始めて古文と頡頑(けつかう)す ることを得べし。

『抽斎』と『霞亭』といずれを取るかといえば、どうでもよい質問のごとくであろう。だが、わたしは無意味なことはいわないつもりである。この二篇を措いて鷗外にはもっと傑作があると思っているようなひとびとを、わたしは信用しない。(……)『抽斎』と『霞亭』と、双方とも結構だとか、選択は読者の趣味に依るとか、漫然とそう答えるかも知れぬひとびとを、わたしは信用しない。(……)では、おまえはどうだときかれるであろう。ただちに答える。『抽斎』第一だと。(石川淳「鷗外覚書」)
出来上がった作品としては「蘭軒」は「抽斎」に及ばない。うっとりした部分、遣瀬ない部分、眼が見えなくなった部分、心さびしい部分をもって、しかも「抽斎」はその弱いところから崩れ出して行かない世界像を築いている。いわば、作者のうつくしい逆上がこの世界を成就したのであろう。そういううつくしい逆上の代わりに今「蘭軒」には沈静がある。世界像が築かれるに至らないとしても、蘭軒という人間像をめぐって整理された素材の粛粛たる行列がある。(石川淳『森鴎外』)


丸谷才一は、『霞亭』ではなく、『抽斎』と『蘭軒』派のようだ。

日本の近代文学で誰が偉い作家かといえば、夏目漱石と谷崎潤一郎、そして森鷗外の3人だと相場はほぼ決まっています。戦前の文壇筋では、谷崎はともかく、漱石や鴎外を褒めるのは素人で、一番偉いのは志賀直哉だと評価が定まっていましたが、ここにきてやっと妥当なところに落ちつきました。

一般的に漱石や谷崎の作品はよく読まれているはずなので、あらためて触れる必要はないでしょう。問題なのは森鴎外です。だいたい、鴎外の小説は美談主義でたいしたことはない。それでも、国語の教科書で『高瀬舟』なんかを無理矢理読まされるものだから、みんなうんざりしてしまう。そもそも教科書にはつまらないものが載るので、教師の教え方も下手に決まっているから、印象が悪くなるのは当たり前。鴎外の作品で本当に価値があるのは、晩年の50代に書いた3つの伝記なのです。

その3作とは、書かれた順に『渋江抽斎』『伊沢蘭軒』『北条霞亭』。いずれも江戸後期の医官でたいへんな読書家だった。鷗外は古本屋で彼らが売った本に出合い、「いったいどんな人がこれほど立派な蔵書を持っていたのだろう」と好奇心を抱いて探り出す。そこから話が始まります。(……)

先に挙げた3作の中では、僕は『渋江抽斎』と『伊沢蘭軒』がいいと思う。この2作品は近代日本文学の最高峰といえるでしょう。なぜそれほど素晴らしいのか。この2作は続けて書かれたものですが、謎解きの構造がたいへん大仕掛けになっていて、『伊沢蘭軒』の中で、前作で解決されなかった謎がすっかり解けるのです。(文壇の重鎮 丸谷才一が語る「不朽の名作」

みずから進んで抽斎の妻に嫁し、思慮深く、好学心があり、しかも勇敢であった五百に鷗外は遂にみずから得なかった理想の妻の姿を見出したのではなかろうか。

作中もっとも劇的な場面の一つは、抽斎を脅迫する三人の侍を、五百が追い出した話である。三人が訪れたとき、五百は浴室にいた。三人は奥の間に通って、抽斎に金を要求し、容れられずとみるや、刀の柄(つか)に手をかけて、抽斎をかこんだ。そのにらみ合いの最中に、廊下に足音もせず、静かに障子が開く。

《刀の柄に手を掛けて立ち上った三人の客を前に控えて、四畳半の端近く坐していた抽斎は、客から目を放さずに、障子の開いた口を斜に見遣った。そして妻五百の異様な姿に驚いた。

五百は僅(わずか)に腰巻一つ身に著けたばかりの裸体であった。口には懐剣を銜(くわ)えていた。そして閾(しきい)際に身を屈めて、縁側に置いた小桶二つを両手に取り上げるところであった。小桶からは湯気が立ち升(のぼ)っている。縁側を戸口まで忍び寄って障子を開く時、持って来た小桶を下に置いたのであろう。

五百は小桶を持ったまま、つと一間に進み入って、夫を背にして立った。そして沸き返るあがり湯を盛った小桶を、右左の二人の客に投げ附け、銜えていた懐剣を把って鞘を払った。そして床の間を背にして立った一人の客を睨んで、「どろぼう」と一声叫んだ。

熱湯を浴びた二人が先に、柄に手を掛けた刀をも抜かずに、座敷から縁側へ、縁側から庭へ逃げた。跡の一人も続いて逃げた。》(森鴎外著『渋江抽斎』)

これは探偵小説の一場面ではなく、さながら映画の活劇場面であろう。腰巻一枚の方はしばらく措き、果たして今日の映画女優に、一声能(よ)く三人の侍を走らせる裂帛(れっぱく)の気合ありやなしや。私は尊敬する先学北野克氏から恵贈された五百自筆の短冊「秋雨」を居室に掲げ、それをみる度に、鴎外の描いた幕末の女の勇気を想出す。(加藤周一著「『渋江抽斎』について」)


『渋江抽斎』賛ではないが、三島由紀夫の鷗外賛。

鴎外とは何か?(……)

鴎外は、あらゆる伝説と、プチ・ブウルジョアの盲目的崇拝を失った今、言葉の芸術家として真に復活すべき人なのだ。言文一致の創生期にかくまで完璧で典雅な現代日本語を創りあげてしまったその天才を称揚すべきなのだ。どんな時代になろうと、文学が、気品乃至品格という点から評価されるべきなら、鴎外はおそらく近代一の気品の高い芸術家であり、その作品には、量的には大作はないが、その集積は、純良な檜のみで築かれた建築のように、一つの建築的精華なのだ。(三島由紀夫「作家論」―森鷗外)

…………



◆「史伝に見られる森鴎外の歴史観」(古賀勝次郎)より

鴎外は、「わたくしが渋江抽斎のために長文を書いたのを見て、無用の人を伝したと云ひ、これを老人が骨董を掘り出すに比した学者」云々としている(『伊沢蘭軒』)。この学者とは和辻哲郎である。

私は部分的にしか読まなかった『渋江抽斎』をここで批判しようとは思はない。にもかかはらず私は先生の態度に対する失望をいはないではゐられない気持ちがする。……しかもあの頭のよさと確乎した物の掴み方とは、ともすれば小さいくだらない物の興味に支配されるのではなからうか。……私は『渋江抽斎』にあれだけの力を注いだ先生の意を解し兼ねる。私の憶測し得る唯一の理由は、『掘り出し物の興味』である。しかし埋没されてゐたといふことは、好奇心をそそりはしても、その物の本来の価値を高めはしない。その物の価値は『掘り出された』ことと独立して判定せられねばならない。……例へば中央アジアで発掘された仏像は珍奇な発掘品である故に価値があるのではなく、ある時代の文化を象徴する少数の遺物である故に芸術的価値以外に更に尊さを加へるのである。抽斎の伝記にはそれがない。彼の個人としての偉大さも文化の象徴としての意義も、先生のあれだけの労作に価するとは思へない。(和辻哲郎「文化と文化史と歴史小説」)


漱石派/鴎外派の対立ということもあるのだろう。

森先生の歴史小説は、その心理観察の鋭さと、描写の簡素と、文体の晴朗とで以て、われわれを驚嘆せしめる。例へば、『寒山捨得』では、……俗人の心理や真の宗教的心境の暗示や人間の楽天的な無知などが、いかにも楽々と、急所急所を抑へて描いてあるのに感服した。しかし私は何となく、本質へ迫る力の薄さを感じないではゐられない。先生の人格はあらゆる行に沁み出てるるが、それは理想の情熱に燃えてない、傍観者らしい、あくまで頭の理解で押し通さうとする人格のやうに思はれる。そこへ行くと夏目先生は、口では徹底欲を笑ふやうなことをいってゐるが、真実は烈しい理想の情熱で、力限り最後の扉を押し開けようとしてゐる。夏目先生の取り扱ふ題目は、自分の内生を最も力強く揺り動かしてゐる問題である。あくまで心の理解で貫かうとする欲求も見える(同和辻)
ーー和辻は、「夏目先生の長所と森先生の短所との比較」としているが、これは己れの文の、鴎外批判(吟味)と漱石顕揚の対照の甚だしいことを韜晦する為につけ加えた但し書きに過ぎないだろう。



◆鴎外文学に対する三つの視点(井村紹快)より

この人たち(谷崎潤一郎、永井荷風、志賀直哉、等)ををさきの二人(漱石、鴎外) の人に比べてみると、大きい小さい、うまい・まずいということとは別に、今日のこの人たちが、すくなくともあの二人と同じ意味で偉大だとは義理にもいえないと思うということが自然に出てくる。(中野重治「漱石と鴎外との位置と役割」)
しかしそこに、古いものに対する鴎外の屈伏、あるいは妥協ということも私はあったと思います。必ずしも家族制度と限る必要はありません。家庭生活、官吏生活、それから政治生活、すべてを貫いて結局のところ鴎外は、古いものに屈伏しています。従順にそれに従っています。生涯をつらぬいて鴎外は、古いものを守ろうとする立場を守っています。むろんそこに、いろいろの、またなかなかはげしい内部衝突かおりますが、この衝突を、行きつくところまで行きつかせることを鴎外はしません・(中野重治「鴎外位置づけのために」)
そこで、鴎外で目立つ第二の問題ですが、それは、古い権威を維持するため彼がいかにも奮闘しているということだと思います。これは、話が多少面倒になりますが、森茉莉さんの言葉をかりれば、鴎外の思想の根底に『一片耿々たる皇室尊崇の念が確乎として存在』したということに関係があります。やはり必ずしも、皇室とか天皇とかいうものには限りませんが、徳川時代から引きつづいて来た日本の封建的なもの、明治になって再編成された封建的専制的なもの、これを維持しようため、鴎外がいかに奮闘したか、いかに五人前も八人前も働いたかという問題であります。

このことでは、鴎外はさまざまの改革をもやっています。宮内省ないし帝室博物館の問題、陸軍軍医団の編成の問題、東京医学会ないし日本医学会の組織の問題、政府の文芸政策ないし芸術作品にたいする検閲の問題、革命運動にたいする弾圧政策の問題、こういう問題で、鴎外は、広い知識と高い見識とを働かして、なかなか立派な意見を出し、またそれが実行されるよう舞台裏で事を運んでいます。文部次官に手紙をかく。山県有朋に特別に会って話をする。そういうことをやり、またそのため、人と衝突したり、陸軍次官から叱られたりなどもしています。では何のために鴎外がそれほど働いたか。日本の民主化をおさえるため、日本の民主主義革命にブレーキをかけようとして五人前も八人前も仕事をしています。民主主義革命への日本内部の動きと活力、それをおさえるには、上からの力をふんだんに強め、不断に新しくせねばなりまぜん。この上からの力を、粗末なものから精密なものに、低級なものから高級なものに改めて行かねばなりませんが、この支配する力を思想的哲学的に裏づけ高めること、ここに鴎外の五人前も八人前もの力が発揮されたということ、これが第二の問題、また非常に大事な問題だと私は考えます。(中野重治「鴎外位置づけのために」)
労働者階級の成長を明らかに勘定に入れて、さまざまの社会政策を改良主義的に考え、その結果、改良主義から天皇制社会主義( ? )へ行き、排外・全体主義の極右政策に出ようとした一人の人によって近代日本文学が最も高く代表されているという事実、これを日本の労働者階級とその文学的選手団とから隠そうとするのはよくないことであって悪いことである。(「鴎外と自然主義との関係の一面」)
天皇を天皇制の中心として残そうという試みと、同時に天皇をいくらかでも人間的ものとしようという試みとの、分かり切つた空しい統一のための鴎外の努力は、今となっては同情をもって眺められるべきものかも知れない。ここでも古い意味での『忠義』という言葉をつかえば、鴎外は、明治・大正の全期間を通じて、その『忠義』のために金、位、爵位などを得たすべての人よりももっと純粋な意味で『忠義』であったとも言えよう。これは、強かった鴎外の弱点としての美点であった。(「小説十二篇について」)

ここに書かれる鴎外の態度は、いろいろ語られ過ぎた三島由紀夫の天皇にたいする態度と同じものというつもりはないが、すくなくとも「春の雪」の月修寺門跡の態度と驚くほど似通っている。

あの朝、聰子からすべてを聴かされたとき、門跡は聰子を得度させるほかには道がないことを即座にさとられた。宮門跡の傳統ある寺を預る身として、何よりお上を大切に思はれる門跡は、かうして一時的にはお上に逆らふやうな成行になつても、それ以外にお上をお護りする法はないと思ひ定め、聰子を強つて御附弟に申し受けたのである。

お上をあざむき奉るやうな企てを知つて、それを放置することは門跡にはできなかつた。美々しく飾り立てられた不忠を知つて、それを看過することはできなかつた。

かうして、ふだんはあれほどつつしみ深くなよやかな老門跡が、威武も屈することのできない覺悟を固められた。現世のすべてを敵に廻し、お上の神聖を默ってお護りするために、お上の命にさへ逆らふ決心をされたのである。(三島由紀夫「春の雪」『豊饒の海』第一巻 319-320頁)



◆「大岡昇平『堺港攘夷始末』論 : 単一の「物語」への回収を拒否する歴史」(尾添陽平)より

大岡の『堺事件』批判は、大岡自身によつて以下のようにまとめられている。

・全体として、鴎外の美談作りの意図が露骨で、歴史小説の方法として疑間がある。

・一方には無法な洋夷としてのフランス人がおり、他方これを排除せんと決意し、皇国意識に目醒めた土佐藩士がいる。彼等は洋夷の圧力によって切腹しなければならなかったが、正にその切腹によって洋夷を遁走せしめた。洋夷に対して謝罪はしないが、切腹の場に臨み、無言のうちに、彼等の不幸を見守る、天皇家があった。封建的土佐藩は助命された九士を流罪にしたが、天皇制は幼帝即位を機に特赦する仁慈と権威を持っている。鴎外が捏造したこの構図ほど山県体制に役立つものはなかったであろう。(大岡昇平「『堺事件』の構図――森鴎外における切盛と捏造――」)


吉田熙生は、大岡の『堺事件』批判の動機を、「『レイテ戦記』の執筆と完成にあった」と指摘、『「堺事件」の作者鴎外の位置は、レイテ戦の事実を都合よく書き替える高級将校のそれになぞらえることができる」「兵士の死をイデオロギーによって美化すること、そしてそうした作者鴎外を偶像化することは、大岡には認めがたいことだつた」と述べている。大岡は、『レイテ戦記』のあとがきにおいて「旧職業軍人の怠慢と粉飾された物語に対する憤懣」があった、と述べる。大岡は、旧軍人たちによるレイテ戦の記述が、レイテ戦を美化する「物語」を立ち上げ、レイテ戦を、その「物語」の構図に回収する記述であることを批判している。そして『堺事件』が、旧軍人たちによって記されたレイテ戦と同様に「全体として、鴎外の美談作りの意図が露骨」であり、『堺事件』の歴史記述は、無法な洋夷としてのフランス人」を「皇国意識に目醒めた土佐藩士」が、「切腹」という命を代償にした行為によって遁走せしめ、天皇家は、「切腹」した土佐藩士の「不幸を見守」り、「助命された」土佐藩士を「特赦する仁慈と権威を持っている」〉という殉国の「物語」を立ち上げ、堺事件を、その「物語」の構図に回収する記述である、と批判するのである。


…………

戦後以降も、作家、芸術家批判というものがくり返されてきた。彼らがその「現在」、政治にいかにかかわっているか、あるいは体制批判の有無が、鴎外への批判と同じようなものを生む。美学的にいかにすぐれていようと、そのひとの体制へのかかわり方によって「凡俗」という評言が与えられる場合がある。ましてや思想家、批評家ならいっそうのこと。

中野重治や大岡昇平の批判は、本質的なことにかかわっている。そして中野や大岡の指摘する側面からいえば、最も鴎外のその態度に批判的であるべきはずの加藤周一(戦後体制が旧体制からの継続であるのを激しく批判する加藤)が、中野重治や大岡昇平の論点を外してひたすら鴎外顕揚の立場であるのは、加藤周一の「弱さ」、すくなくともある側面に於いて美学的過ぎることによる「脇の甘さ」をみるべきか、それとも別の見方をしていたのかは知るところではない。

いずれにせよ「さらば川端康成」を書いた加藤周一だが、鴎外にたいしては絶賛で終始した。

……私は昔からの読者の一人として、その著作に現代の日本文学をよむことの大きなよろこびを見出してきたのである。その川端康成の死後今日まで、私には容易に消えない感慨がある。さらば川端康成。これは私の知っていた川端さんへの「さらば」であるばかりでなく、私の内なる「川端的」なものへの「さらば」でもある。前者は死別の事実に係る。後者は――決別の願望である、おそらく容易に実現されないであろうところの、しかし断乎としてその実現に向うべきところの。(加藤周一「さらば川端康成」)

もっとも加藤周一の『日本文学史序説』の文脈からいえば、近代の文人として鴎外が至高の位置を占めるのは、止む得ない。

あるいはまた、《漢文学は国学者のプロテストにもかかわらず、日本の文学の正統であった。吉本隆明が強調しているように、万葉集でさえ漢文学あるいは漢字のもたらした衝撃において成立したのである(「初期歌謡論」)。花鳥風月はいうまでもなく、国学者が想定するような純粋土着的なものも、漢文学による「意識」において存在しえたのだ。古代の日本人が「叙景」をはじめたとき、つまり風景をみいだしたとき、すでに漢文学の意識が存在したのである。》(柄谷行人『日本近代文学の起源』)であるのだから、柄谷行人の文脈からいっても漱石・鴎外が顕揚されることになる。そして柄谷行人は、明らかに和辻、中野、大岡と同じように漱石派である。

柄谷行人が鴎外ではなく、漱石をとるのは、和辻が書くように《夏目先生の取り扱ふ題目は、自分の内生を最も力強く揺り動かしてみる問題》であるからであり、それは「心的外傷」(トラウマ)にかかわるからといってもいい。
漱石は幼児に養子にやられ、ある年齢まで養父母を本当の両親と思って育っている。彼は「とりかえ」られたのである。漱石にとって、親子関係はけっして自然ではなく、とりかえ可能なものにほかならなかった。ひとがもし自らの血統〔アイデンティティ〕に充足するならば、それはそこにある残酷なたわむれをみないことになる。しかし、漱石の疑問は、たとえそうだとしても、なぜ自分はここにいてあそこにいないかというところにあった。すでにとりかえ不可能なものとして存在するからだ。おそらく、こうした疑問の上に、彼の創作活動がある。(『日本近代文学の起源』)

加藤周一の『日本文学史序説』からいくらか引用しよう。

・比喩的にいえば、日本では哲学の役割まで文学が代行し、中国では文学さえも哲学的になったのである。

・散文家としての日蓮は、一種の天才であった。その散文には、舌鋒火を吐く激しい気性がよくあらわれている。気性と信念。論戦的な日本語の散文は、早くも13世紀に、日蓮において、殊にその若干の消息文において、ほとんど最高の水準に達していた。

・(道元の)『正法眼蔵』の文章は、13世紀日本語散文の傑作の一つである。

・散文家としての(新井)白石の面目は、『藩翰譜』にみることができる。(……)けだし『藩翰譜』は、元禄期前後の、またおそらくは徳川時代を通じての日本語散文文学の傑作の一つであろう。(加藤周一『日本文学史序説』)

ーーこの流れから、「文人」としての鴎外・荷風・石川淳が顕揚されることになる。

日本語の文学的散文を操って比類を絶するのは石川淳である。その漢文くずし短文は、語彙の豊かさにおいて、語法の気品において、また内容の緊密さにおいて、荷風を抜きほとんど鴎外の塁に迫る。・・・・・・荷風以後に文人と称し得る者はただ一人の夷斎石川である。(同『日本文学史序説』)

もっとも永井荷風や石川淳が、《哲学の役割まで文学が代行》した作家であるかどうかは議論の余地が大いにあるだろう。ただし、二〇世紀前半までの日本において、《哲学の役割まで文学が代行》したのは、否定しがたい説ではないだろうか。

そして二〇世紀後半のある時期からの文学の衰退により、いささか断定的すぎる嫌いもないではない柄谷行人の絶望の嘆きが生れることになる。

文学の地位が高くなることと、文学が道徳的課題を背負うこととは同じことだからです。その課題から解放されて自由になったら、文学はただの娯楽になるのです。それでもよければ、それでいいでしょう。どうぞ、そうしてください。それに、そもそも私は、倫理的であること、政治的であることを、無理に文学に求めるべきでないと考えています。はっきりいって、文学より大事なことがあると私は思っています。それと同時に、近代文学を作った小説という形式は、歴史的なものであって、すでにその役割を果たし尽くしたと思っているのです。(……)

いや、今も文学はある、という人がいます。しかし、そういうことをいうのが、孤立を覚悟してやっている少数の作家ならいいんですよ。実際、私はそのような人たちを励ますためにいろいろ書いてきたし、今後もそうするかもしれません。しかし、今、文学は健在であるというような人たちは、そういう人たちではない。その逆に、その存在が文学の死の歴然たる証明でしかないような連中がそのようにいうのです。(『近代文学の終り』柄谷行人)

…………

さてここで、《旧職業軍人の怠慢と粉飾された物語に対する憤懣》とする大岡昇平の、たとえば《旧職業軍人》に別の言葉を代入すれば、、2011年春以降ことさら《怠慢と粉飾された物語》に汚染されているのが瞭然としているにもかかわらず、それに憤懣・苛立ちを垣間見せさえしない作家や芸術家たちーー、思想家、批評家はもちろんのことーー、彼らに対して、いかに小粒で歪んだ「鴎外」でしかないひとが多いだろうか、などといまさらもっともらしく嘆くふりをするつもりはない、ーーと書くのは、いささか「逆言法」であるのが以下に示される。

芸術家を自称するもののほとんどは、痛みを内面化することこそが自分の役割だと思い込んでいる。その思い込みは、当然のことながら表層的な鈍感さで芸術家を保護することにもなるだろう。だから、芸術家とは、その内的な感性の鋭さ故に政治に背を向けるのではない。内的な繊細さが要求されてもいないときに外的な鈍感さを装う、きわめて政治的な存在なのである。それはほかでもない、制度的に深く政治に加担する存在だということだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

この「芸術家」は「知識人」でもある。そして仮に批判的な言葉を呟こうしても、制度は、権力は、すでにその言葉を取り込む「装置」としてある。

われわれは、ここで、いわゆる第二帝政期が、それに批判的であろうとする姿勢そのものが規格化された言葉しか生み落とさないという悪循環を萌芽的に含んだ一時期であると認めざるをえまい。それは、いわゆる知識人や芸術家たちを積極的にとりこむ力学的な装置のようなものだ。顔をしかめて距離をとろうとする一群の人びとを排除するのではなく、彼らの否定的な反応をいわば必須の条件として成立する秩序なのだといいかえてもよい。というのも、知識人や芸術家たちの反応は決して思いもかけぬものではなく、そのとき口にされる言葉のおさまる文脈そのものが、きまって予測可能なものだからである。そして、その文脈の予測さるべき一貫性が、いわゆる大衆化現象と呼ぶべきものなのだ。(同)

このことが、「装置の罠」といわれるものなのだ。

酒井直樹の「共感の共同体批判」に対し、『思想としての3.11』(河出書房新社)において、小泉義之が、「この類の批判は正当で必須であるにしても」(『思想としての3.11』124頁)と前置いたうえで、「共感の共同体への批判と原発産業や政府機関への批判とがワンセットになる構図こそが何度も繰り返されてきたことであって、そこにこそ何か得体のしれない罠が仕掛けられているという気がする」(東日本大震災、福島原発事故における言説の諸関係について

…………

しかし制度の力学的装置の罠に陥らないようにしつつ、次のようでなければならないのは間違いない(美学者や自己愛者を除いて?ーーとしたらそんな人間は存在するだろうか)。

作家というものはその職業上、しかじかの意見に媚びへつらわなければならないのであろうか? 作家は、個人的な意見を述べるのではなく、自分の才能と心のふたつを頼りに、それらが命じるところに従って書かなければならない。だとすれば、作家が万人から好かれるなどということはありえない。むしろこう言うべきだろう。「流行におもねり、支配的な党派のご機嫌をうかがって、自然から授かったエネルギーを捨てて、提灯持ちばかりやっている、卑しいごますり作家どもに災いあれ」。世論の馬鹿げた潮流が自分の生きている世紀を泥沼に引きずりこむなどということはしょっちゅうなのに、あのように自説を時流に合わせて曲げている哀れな輩は、世紀を泥沼から引き上げる勇気など決して持たないだろう。(マルキ・ド・サド「文学的覚書」、『ガンジュ侯爵夫人』)
「哲学は何の役に立つのか?」と問う人には、次のように答えなければならない。自由な人間の姿を作ること。権力を安定させるために神話と魂の動揺を必要とするすべての者を告発すること、たったそれだけのこととはいえ、いったい他の何がそれに関心をもつというのか。(ドゥルーズ『意味の論理学』)

鴎外は比較的後年の随筆「沈黙の塔」で次のように書いていることをも付け加えておこう。
芸術の認める価値は、因襲を破る処にある。因襲の圏内にうろついている作は凡作である。(……)学問も因襲を破って進んで行く。一国の一時代の風尚に肘を掣せられていては、学問は死ぬる。