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2014年1月8日水曜日

戀愛について 石川淳

前投稿、「写経:石川淳『夷齋筆談』と蓮實重彦の「ボロクソ」芸」に引き続く。

…………

むかし、をとこ、かたゐなかにすみけり。をとこ、「宮づかへしに」とて、わかれをしみてゆきにけるまゝに、三とせこざりければ、まちわびたりけるに、いとねむごろにいひける人に、「こよひあはむ」とちぎりたりけるに、このをとこきたりけり。「このとあけたまへ」とたゝきけれど、あけで、うたをなんよみていだしたりける。あらたまの年のみとせをまちわびてたゞこよひこそにひまくらすれといひいだしたりければ、あづさゆみま弓つき弓年をへてわがせしがごとうるはしみせよといひて、いなむとしければ、女、あづさ弓ひけどひかねど昔より心はきみによりにし物をといひけれど、をとこかへりにけり。女、いとかなしくてしりにたちておひゆけど、えおひつかで、し水のある所にふしにけり。そこなりけるいはに、およびのちして、かきつけける。あひおもはでかれぬる人をとゞめかねわが身は今ぞきえはてぬめるとかきて、そこにいたづらになりにけり。(塗籠本伊勢物語第廿五)


女人が指の血をもつて岩に歌を書きつけるといふ仕打は、文學の目にはなにかの象のやうに見えるかも知れないが、これは戀愛の現實であり、また戀歌の骨法となる。死んでもあきらめない。ひでえ執念である。それゆゑに、戀愛の流血はただちに人閒の生活の場にそそがれる。男女を逆にしても、この力學的關係には變わりがない。ただし伊勢物語の男は足はやくさつさと行きすぎる。これはあきらめたどころか、戀愛生活の變位といふことになるのだらう。「わざせしがごとうるはしみせよ」なんぞとあぢなセリフをのこして、ドン・ファンの貫祿、一個の女の流血を踏まへつつ、死ぬやつは死ね、あとふりむかず、行くさきざきに女あり、すべての柔媚なる指を食ひつくし、食つてしまったものに未練は微塵も無いといふ氣合はけだし陽根の榮養學である。この器官はそれの構造に於てあたかも身體の他の部分から解剖學的に自由であるかのやうに見受けられる。陽根の運動は必ず倫理的に無法でなくてはならない。それゆゑに、戀愛といふ肉體の操作はただちに精神の場に乘りこむことができる。精神上のプラトニック・ラヴといふごとき陽根否定のチンピラ精神にしても、やつぱり男子の、ただし男子の心情の發明に係わるやうである。心情上のヴィジョンが鰯のあたまぐらゐの神格を現ずることは、むしろ女子の例に屬する。女子には御方便にも否定すべきなにものもあたへられてゐない。心情はことごとく女子のものである。心情ほど肉體に密着するものはない。按ずるに、こころのうつろひといふものは肉體エネルギーの微妙なる作用である。「むかしよりこころは君に」といふ女のおもひの、よく三年閒の時閒的距離に堪へたやつでさへ、たまたま「いとねんごろにいひける人」の奉仕に逢ふと、肉體がついにこれとちぎるといふ現象は、どうしても生理の必然なのだらう。浮氣といふ技巧派の策動とはちがふやうである。ドン・ファンは優越的にこの消息を見拔いてゐる。したがつて、おれが道をつけてやつたんだ、ありがたいとおもつて死んぢまへといふ見識を示すことにもなる。たつたこれだけの、むかしの物語の一節でも、事が戀愛にかかはると、肉體と心情とはてきめんに精神と生活との二重の場に於てもつれあふ。後世に至つては、世の中の仕掛とか男女のヒステリーなんぞまでここにどやどや割りこんで來るのだから、戀愛の身上相談といふやつは、事態錯綜、いつまで行列に立つてゐても解答が配給される日は無い。とても道德ごときものの口出しをする席はないだらう。死んぢやいなさいといふのが、なるほどもつとも早い、つまりもつとも親切な忠告かも知れない。精神は永遠にこの處理に手を燒く仕儀となる。といふのは、肉體と心情との結託はならびに不埒にも精神にたたかひを挑んで來るものだからである。


2014年1月7日火曜日

写経:石川淳『夷齋筆談』と蓮實重彦の「ボロクソ」芸

日本語の文学的散文を操って比類を絶するのは石川淳である。その漢文くずし短文は、語彙の豊かさにおいて、語法の気品において、また内容の緊密さにおいて、荷風を抜きほとんど鴎外の塁に迫る。・・・・・・荷風以後に文人と称し得る者はただ一人の夷斎石川である。(加藤周一『日本文学史序説』)

《おそらく日本語が到達しうる文体の極限がここにある。》(安部公房「解題」『夷齋筆談』)

ーーながいあいだ見当たらなかった石川淳の『夷齋筆談』がCDの棚の奥に紛れているのが見つかったので写経。

黃入谷のいふことに、士大夫三日書を讀まなければ理義胸中にまじはらず、面貌にくむべく、ことばに味が無いとある。いつの世からのならはしか知らないが、中華の君子はよく面貌のことを氣にする。明の袁中郞に至つては、酒席の作法を立てて、つらつきのわるいやつ、ことばづかひのぞんざいなやつは寄せつけないと記してゐる。ほとんど軍令である。またこのひとは山水花竹の鑑賞法を定めて、花の顏をもつて人閒の顏を規定するやうに、自然の享受には式目あり監戒あるべきことをいつてゐる。ほとんど刑書である。按ずるに、面貌に直結するところにまで生活の美學を完成させたのはこの袁氏あたりだらう。本を讀むことは美容術の祕藥であり、これは塗ぐすりではなく、ときには山水をもつて、ときには酒をもつて内服するものとされた。詩酒徵逐といふ。この美學者たちは詩をつくつたことはいふまでもない。山水詩酒といふ自然と生活との交流現象に筋金を入れたやうに、美意識がつらぬいてゐて、それがすなわち幸福の觀念に通つた。幸福の門なるがゆゑに、そこには強制の釘が打つてある。明淸の詩人の禮法は魏晉淸言の徒の任誕には似ない。その生活の建前かれいへば、むしろ西歐のエピキュリアンといふものに他人の空似ぐらゐには似てゐる。エピキュールの智慧はあたへられた條件に於てとぼしい材料をもつていかに人生の幸福をまかなふかといふはかりごとに係つてゐるやうに見える。限度は思想の構造にもあり、生活の資材にもあり、ここが精いつぱいといふところで片隅の境を守らざることをえない。しかし、唐山の士太夫たる美學者はその居るところが天下の廣居といふけしきで、臺所はひろく、材料はいろいろ、ただ註文がやかましいために、ゆたかなものを箕でふるつて、簡素と見えるまでに細工に手がこんでゐる。世界觀に影響をあたへたのは、この緊密な生活に集中されてエネルギーの作用である。をりをり道佛の思想なんぞを採集してゐるのは、精神の榮養學だらう。仕事は詩をつくることではなく、生活をつくることであり、よつぽど風の吹きまはしがよかつたのか、精神上の假定が日日の生活の場に造型されて行くといふ幸運にめぐまれて、美學者の身のおちつきどころは神仙への變貌であつた。人閒にして神仙の孤獨を嘗めなくてはならぬいといふ憂目にも逢つたわけだらう。もつとも、人閒のたのしみは拔目なく漁つた揚句なのだから、文句もいへまい。すでに神仙である。この美學者たちが小説を書く道理は無かつた。大人の説、小人の説といふ。必ずしも人物の小大のみには係らないだらう。身分上より見れば、士太夫の文學、町人の文學といふように聞える。士大夫の文學は詩と隨筆とにほかならない。隨筆の骨法は博く書をさがしてその抄をつくることにあつた。美容術の祕訣、けだしここにきはまる。三日も本を讀まなければ、なるほど士大夫失格だろう。人相もまた變らざることをえない。町人はすなはち小人なのだから、もとより目鼻ととのはず、おかげで本なんぞは眼中に無く、詩の隨筆のとむだなものには洟もひつかけずに、せつせと掻きあつめた品物はおのが身の體驗にかぎつた。いかに小人でも、裏店の體驗相應に小ぶりの人生觀をもつてはいけないといふ法も無い。それでも、小人こぞつて、血相かへて、私小説を書き出すに至らなかつたのは、さすがに島國とはちがつた大國の貫祿と見受ける。……(石川淳「面貌について」『夷齋筆談』所収)
芝居は無筆の目學問といふ。耳目の學といへども、學問の雰圍氣の周ではあるだらう。舞臺と見物席との交歡に、よりよき生活への夢があつた。この夢に參加するものは士人あり町人あり通人あり新五左あり、芝居のみやげは文明のかけらを折に詰めたものにほかならなかつた。さいはひ、當時の芝居小屋は後世の大藝術劇場とはちがつて、見物を見物席と廊下と食堂とに分散させて、はなはだ禮儀正しく舞臺と他人行儀にさせるやうな仕掛にはなつてゐない。棧敷はすなはち置酒高會の場所であるた。舞臺が見るに堪へなければ、見物は食堂に疎開するにおよばず、ただうしろを向いて酒をのむといふ露骨な批評形式をとる權利を留保した。そのさかづきの手をとどめて、見物を舞臺のはうに向きかへさせるのは、役者の藝の力であつた。棧敷に於ける市民生活と、舞臺の藝の世界とのあひだには、理想化された文明の次元が相通じた。役者はどうしても名優になり、見物はいやでも見巧者にならざるをえない。(……)棧敷にはくせものの歡會あり、舞臺には名優の演技あり、この完全なる交流を支へたのは見物一同の文明への憧憬であつた。この芝居小屋の雰圍氣の中にある生活を何と呼ぶか。これを俗化せる風流生活と呼ぶほかない。ひとがここに來て享受する生活の充實感を何と呼ぶか。これを娯樂と呼ぶほかない。芝居は娯樂だといふことの、本質的な意味がここにある。すなはち知る、娯樂とは一般に俗化せる風流生活への民衆の參加の謂である。(「娯樂について」)

◆以下は以前写しとったもの(

『夷齋小識』より)

久保田さん。久保勘さんのむすこさんの、ぶしつけながら、久保萬さん。御當人のちかごろの句に、湯豆腐やいのちのはてのうすあかり。その豆腐に、これもお好みのトンカツ一丁。酒はけつかうそれでいける。もとより仕事はいける。ウニのコノワタのと小ざかしいやつの世話にはならない。元來さういふ氣合のひとであつた。この氣合すなわちエネルギーの使ひ方はハイカラといふものである。(石川淳「わが萬太郞」『夷齋小識』所收)
三好が詩に於てつとに萩原朔太郞を宗としたことは周知のとほりだが、その詩境をうかがふに、年をふるにしたがつて、むしろ室生さんのはうに「やや近距離に」あゆみ寄つて來たのではないかとおもふ。萩原さんの詩はちよつと引つかかるところがあるけれど、室生さんの詩のはうはすらすら受けとれると、げんに當人の口から聞いたことがあつた。萩原さんをつねに渝らず高く仰いてゐた三好として、これは揣らずもみづからの素質を語つたものだらう。ちなみに、そのときわたしは鑑賞上それと逆だと應へたおぼえがある。また三好が酣中よくはなしてゐたことに、芥川龍之介は百發九十九中、室生犀星は百發わづかに一中だが、のべつにはづれる犀星の鐵砲がたまにぶちあてたその一發は芥川にはあたらないものだといつて、これにはわたしも同感、われわれは大笑ひした。つち澄みうるほひ、石蕗の花咲き……といふ室生さんの有名な詩は三好が四十年あまりにわたつで「惚れ惚れ」としつづけたものである。「つち澄みうるほひ」はまさに犀星の一發。このみがき拔かれたことばの使ひぶりは詩人三好が痩せるほど氣に入つた呼吸にちがひない。(……)

ところで、このやさしい顏の詩人はたちまち現存の二三のひとの名をあげてするどい評語を發しはじめた。みじかいことばで、みごとに急所を突いて、びしびしいふ。名をあげられたものは今日に繁昌する學者文人諸君である。みなボロクソ。そのボロクソがぴつたり正確であつた。尋常の惡口ではない。それの正確であることがわたしは氣に入つた。今になつて、最後に逢つた故人のことを人物が素直、評語が正確だなんぞといふと、いかにも取つてつけたやうなはなしにきこえるかも知れないが、事實さうであつた。わたしは幸運にも最後の三好について爽快な印象をもつている。(石川淳「三好達治」同『夷齋小識』所收)

ーー石川淳189937 - 19871229日、三好達治1900823 - 196445日なのだが、はてここでボロクソに言われたのは誰だろう。





   ーー萩原朔太郎の末の妹の萩原アイ(「三好達治の恋」より) 


たとえば、西脇順三郎(1894120 - 198265日)は、三好達治とともに萩原朔太郎に私淑した昭和詩人の双頭としてよいだろうが、三好達治と西脇順三郎が互いを褒めあうのは寡聞にして聞いたことがない。だが下司な邪推をするのはやめにしておこう。







以下は、《なるほど彼(石川淳)は、当代きっての巧みな日本語遣いというべきで、ときには威勢よく啖呵を切り、きわどい冗談をさらりと言ってのけ、下世話な題材を繊細な比喩でもっともらしい語り口に仕立てあげてみせたあたり、その小気味よさに思わずうっとしもしてしまう》としつつの蓮實重彦の「ボロクソ」芸である。



◆附記:蓮實重彦 小説から遠く離れて


……何やら微妙な複雑さを身にまとい、理屈では解明しがたい神秘さをたたえているのが小説だとする視点は、文学に無償の価値を捏造して特権的に享受しようとする者たちの悪しき思い込みにすぎないし、その種の捉えどころのなさなど小説はいささかも必要としておらず、文学的な才能というものもその種の曖昧さによって擁護されたりはしないだろう。小説とは、漠たる曖昧さにとらえられた定義しがたい何かなのではなく、優れて厳密なものなのであり、しかも、厳密さとは、形式の問題ではなく、運動の問題にほかならないのである。小説とは、なによりもまず、厳密に作動する装置なのであり、物語があからさまなのは、それが厳密に作動することを回避し、もっぱら形式を踏みはずすことを恐れているだけの言葉だからなのだ。

われわれがあえて「小説から遠く離れ」てみたのは、装置としての厳密な作動ぶりに出会う必要を感じていたからにほかならず、批評とは何の関係もない説話論的な還元に身を投じてみたのも、形式化や意識化や中心化が解読とともに何の抵抗もなく導き出される物語のいかにもあからさまなあり方を徹底化することで、改めて批評の厳密さに回帰するという迂回が必須のものと思われたからである。あるいは、物語に似てあまりにもあからさまな姿におさまってしまう小説が、文学に対する無自覚な侮蔑をあたりに行きわたらせているという前提を確認する必要があったからだというべきかもしれない。

すでに何度も指摘したことだが、村上春樹の『羊をめぐる冒険』は、物語そのものというべきあからさまな小説であり、その限りに於てよくできているし読みやすくもあるのだが、装置としての厳密さを欠き、運動に背を向けている。同じことは、彼がその後に書いた作品についてもいえるだろう(……)。いずれも、あからさまな形式として物語を模倣することしかしておらず、先ほど要約した双生児の冒険譚の形式にあまりに似すぎてしまっている。村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』にしても、その種の形式的なあからさまさをかろうじてまぬがれているにすぎず、装置として作動する厳密さにはいささか遠いといわねばならず、おそらく、「小説から遠く離れて」いるのは、こうした長篇小説の方なのだというべきときがきている。それらのあらかさまな形式的類似に対して、いま、小説を擁護し、批評を擁護すべきなのだとさえ思うのだが、それを支えてくれるのが、類似を介して「完璧な捨子」の生成を実践してみせた大江や中上の物語に対する身のひるがえし方だという点は強調されねばならない。

では、「小説から遠く離れ」ることで擁護さるべき小説が厳密に作動する装置であるとするなら、何のために作動する装置だというのか。それを明らかにする前提として、物語を模倣するあからさまな小説の典型的な例をいま一つ見てみなければなるまい。典型的というからには、村上春樹や丸谷才一、あるいは井上ひさしよりも文学的な意味でより高い評価を受けている作家に登場してもらう必要があり、それには、石川淳の長篇でも読んでみるに限る。というのも、はたして石川淳が小説家であろうかという疑問はつとに口にされていながら、孤高の文人といった文学とは無縁のイメージによって事態が曖昧に見過され、とりわけ晩年の彼が、言葉の真の意味でのあからさまな小説しか書かなかったことがあまり話題にならなかったからである。

いうまでもなかろうが、石川淳が才能を欠いた作家だと主張する意図など毛頭持ってはいない。ただ、小説家として、とりわけ長篇小説の作家としての彼にしかるべき才能がそなわっていたか否かは、大いに疑問の残るところで、とりわけ、晩年の彼が何かに憑かれたかのように長篇ばかりを書きまくっていたとき、われわれとしてはむしろ痛ましい思いでその言葉を読み続けていたのである。なるほど彼は、当代きっての巧みな日本語遣いというべきで、ときには威勢よく啖呵を切り、きわどい冗談をさらりと言ってのけ、下世話な題材を繊細な比喩でもっともらしい語り口に仕立てあげてみせたあたり、その小気味よさに思わずうっとしもしてしまう。にもかかわらず、これは小説ではないとつぶやずにいられなかったことが、一度や二度ではないと素直に告白すべきときがきている。

もちろん、小説の理想像を想定し、たとえば晩年の『狂風記』といった長篇がその理想像を大きく踏みはずしているという理由で、そうつぶやいたわけではない。たしかにこれは、小説にほどよく似たものとして読むことができる作品だし、その文体的な水準をとってみるなら、掛け値なしの一流品だということさえできるのだが、巧みな日本語遣いがみごとな文体を駆使したものがそのまま小説になるわけでもなかろうし、そもそも『狂風記』のテクストは、あまりにも容易に説話論的な還元をうけいれてしまう筋立てからなりたっているのである。

ことによると、人は、江戸戯作の伝統などを持ち出し、たやすく形式化されやすいその物語的な側面を、石川淳が意図的に小説に活用し、御都合主義による筋立てを介して、意識化と中心化にさからう雑多な力を擁護しているのだと主張するかもしれないし、またそうした姿勢を、日本の近代小説には稀なゴシック・ロマンス的なものへの執着として高く評価する論者もいるとは思う。実はわれわれもまた、そうであってくれたらならとさえ願っているのだが、にもかかわらず、いったん説話論的な還元をうけいれた『狂風記』のテクストは、中心化や意識化に逆らう愚鈍な細部を誇示することなく、きわめて従順かつ聡明に均衡のとれた形式におさまってしまう。しかもその際、説話論的な還元をまぬがれた言葉は、ただ申し分のない日本語として、構造のほどよい装飾品たること以上の自分を主張しようとはせず、運動としての厳密さを誇示することのない巧妙で精緻な言葉遣いの日本語が、あとに残されるばかりなのだ。

では、巧妙で精緻な言葉遣いの日本語が物語の形式のかたわらに残されただけではなぜ小説たりえないのか。やがて語られることになろうその理由に先立ち、『狂風記』と呼ばれる執筆に十年もの時間が費やされた長篇小説の説話論的な構造が、まるで絵に描いたようにこれまでにみた物語的な典型と重なり合っていることを確かめておくべきだろう。というのも、おびただしい数の人影が定かならぬ空間を右往左往し、そこにつむぎあえられる関係の錯綜しきったさま故に、波瀾万丈の筋立てが思いもかけぬ展開を示すかにみえるこの長篇小説が、実は波瀾万丈とはおよそ対照的な単純きわまりない図式におさまってしまうさまを立証することほど容易なはなしもまたとないからである。しかもその図式が、われわれの馴れ親しんできた双生児の冒険譚であることはいうまでもない。P252-256

ここで「双生児」の冒険譚といわれるものは、「宝探し」の物語などとも言い換えられておりその図式とは次のようなものだ。

どこかに一人の男がいて、誰かから何かを「依頼」されることから物語が始まっている。その「依頼」は、いま視界から隠されている貴重な何かを発見することを男に求める。それ故に、男は発見の旅へと出発しなければならない。それが「宝探し」である。ところが何かがその冒険を妨害しにかかる。多くの場合、妨害者はしかるべき権力を握った年上の権力者であり、その権力維持のために、さまざまな儀式を演出する。儀式はある共同体内部での「権力の譲渡」にかかわるものであり、そこで譲渡されべき権力と発見される貴重品とは、深い関係にあるものらしい。そのため、依頼された冒険ははかばかしく進展しなくなるのも明白だろう。発見は、とうぜんのことながら遅れざるをえない。その遅延ぶりを促進すべく予期せぬ協力者が現われ、ともすれば気落ちしそうになる男を勇気づける。協力者は、同性であるなら分身のような存在だし、異性であれば妹に似た血縁者である。二人の協力者は、どこかしら近親相姦的な愛か、倒錯的な関係を物語に導入し、純粋な恋愛の成立をはばみつつ、貴重品の発見へと向けてもろもろの妨害を乗りこえることになるだろう。P250

さて名人石川淳の代表作のひとつ『狂風記』は、この物語の構造にぴったり当てはまることをめぐって書き継がれていく。《誰もが知っている物語を語ってみせながら、なお人を惹きつけてしまう術を心得た人間を、われわれは名人と呼ぶ。》

……こうした物語を読み進める者が捉えられるのは、すべてが既知の要素からなりたっているという既視感にほかならない。細部にしかるべき代置や交換が見られるとはいえ、物語の構造として、『狂風記』は、村上春樹や、井上ひさしや、丸谷才一の長篇とほぼ同じ要素からなりたっており、そこに狂った風が吹き募っているとはとても思えないからである。正直なところ、『狂風記』を読むには『羊をめぐる冒険』を読むのと同じ退屈さを要請される。何かがテクストとともに作動し、その機能ぶりが厳密きわまりないことに圧倒されたりすることはなく、形式が快い文体をまとって投げ出されているだけだといった印象をいだくしかないからである。少なくとも、説話論的な水準においては何の驚きもなく、これを波瀾万丈の物語として読む者がいたとするなら、それは物語というものを甘く見積もっているか、波瀾万丈という言葉の意味を誤解しているかのどちらかだろう。いずれにせよ、晩年の石川淳を融通無碍な自在さという点から評価するのは決定的な間違いだというほかはなく、彼に可能なことは、せいぜい典型的な物語を律儀に語ってみせることにつきており、その形式そのものを解読する装置さえ円滑に機能しているなら、息をのんだりわれを忘れたりする瞬間など訪れようもない。

誰もが知っている物語を語ってみせながら、なお人を惹きつけてしまう術を心得た人間を、われわれは名人と呼ぶ。だが、小説には名人など存在しない。語り口の魅力とは、もっぱら物語について口にさるべき誉め言葉だからである。石川淳がはたして優れた小説家かどうか疑わしいというのは、そうした理由による。彼は、何度でもその巧みな語りを再現してみせることができるだろう。だが、小説が再現されることなど必要としているはずがない。小説とはもっぱら反復されるべきものであり、反復が可能なのは、同じでないことが明らかな場合に限られている。われわれが擁護してみたいのは、再現ではなく、反復の対象としての小説なのである。(P260-261)

波瀾万丈の物語とは一つの語義矛盾である。あらゆる物語は構造化されうるもので、思ってもみないことが起るのは、その構造に弛みが生じ、物語がふと前面から撤退したときに限られる。挿話の連鎖に有効にかかわらない細部がときならぬ肥大化を見せるような場合に、かろうじて事態は波瀾万丈と呼びうる様相を呈するにいたる。物語を見捨てた言葉の独走といったことが起るとき、構造の支配が遠ざかって小説が装置として作動し始めるといったらいいだろうか。

そのとき言葉は、形式に奉仕する快い装飾品であることをやめる。大江健三郎の、あるいは中上健次の長編をめぐってしばしば口にされる読みにくさとは、そのような言葉の独走によるものにほかならず、石川淳が駆使する上質の日本語には、そうした波瀾万丈が本質的にかけているというべきだろう。どれほど多彩な顔ぶれが登場し、筋立てに複雑な屈折が認められようと、その種の雑多さはきまって単純な要素の組み合わせからなっており、説話論的な還元にたやすく屈服し、波瀾万丈とはまるで異質の驚きのなさにおさまるしかないものなのだ。『狂風記』の場合、そのほとんどの挿話は、未知の人物の登場によって新たな展開をみせるかに思われながら、その機能は、マゴとヒメという一組の男女の目論みつつある企ての実現を「妨害」するか「助長」するかのどちらかにすぎず、その意味で、個々の説話論的な役割はことごとく単純きわまりない既知のものだといってよい。無数の既知がいかがわしい仮面のもとにうごめいていても、その総和が驚きを誘発する既知の記号とはなりがたいからである。

だから、物語とは、原理として単調さを生きるしかないものなのだ。あらかじめ体系化された細部の結合によっては統御されがたい何かが到来するとき、人は初めて驚く権利を持つのだが、その驚きが物語によってもたらされるものではなく、物語の撤退によるしかなかろうということは当然なのである。波瀾万丈とは、本来、そうした驚きの構造化されがたい衝突を意味しているはずなのだが、言葉が独走するときに起るその種の衝突は、必ずしも迅速さの印象を与えるとは限らない。それは停滞としても、迂回としても、無方向な横滑りとしても起りうるもので、長篇小説とは言葉の独走による衝突を数多く体験することで終りそびれるしかない物語にほかならず、それがかろうじて下しうる長篇小説の定義なのである。

そこで、われわれは次のように宣言することができる。すなわち、大江健三郎の『同時代ゲーム』は長篇小説だが、村上春樹の『羊をめぐる冒険』は長篇小説ではないように、中上健次の『枯木灘』は長篇小説だが、石川淳の『狂風記』は長篇小説ではない、と。このような定義が作品の具体的な長さとは無縁のであろうことはいうまでもなかろう。説話論的な構造としてはごく単純な図式に還元されるはずの『羊をめぐる冒険』が、小説として比較的長いのは、そこでの語りが停滞も迂回も横滑りも示すことなく、いわば同義反復的に引きのばされているからにすぎない。村上春樹における言葉は、個々の挿話に形式的な変容を導入することのないかたちで、もっぱら同方向を目ざして付加され、だから、結果的に長い小説となるほかはないのだが、その長さが付加的である限りはいつでも要約可能なものなのである。(P262-264)

2013年11月9日土曜日

装われた洒脱さ

佐藤氏は芥川氏を窮屈なチョッキがぬげぬ人と評したが、芥川氏は佐藤氏を、あんまり浴衣がけだと評したそうだ。僕としては佐藤氏の浴衣がけにしばしば涼風が訪れたとは信じないのである。(小林秀雄「佐藤春夫論」『作家の顔』所収)

わかるかい、この感じ? 
誤読かもしれないがね、たぶんこうだね
洒脱さを装って「オレ」などという一人称単数を使う奴がいるだろ?
おそらくそういった手合いのことだな
ここにもいるぜ

柄にも似合わず鹿爪らしい文章書いていて
それに照れくさくなり一息いれるために
「オレ」とするのだが
オレという浴衣はたいして涼しくないんだよな
修業が足りないね

いまさら江戸っ子風の粋な石川淳の文体模倣してもラチが明かないからな

久保田さん。久保勘さんのむすこさんの、ぶしつけながら、久保万さん。御當人のちかごろの句に、湯豆腐やいのちのはてのうすあかり。その豆腐に、これもお好みのトンカツ一丁。酒はけつかうそれでいける。もとより仕事はいける。ウニのコノワタのと小ざかしいやつの世話にはならない。元来さういふ気合のひとであつた。この気合すなわちエネルギーの使ひ方はハイカラといふものである。(石川淳「わが万太郎」『夷斎小識』所収)

《日本語の文学的散文を操って比類を絶するのは石川淳である。その漢文くずし短文は、語彙の豊かさにおいて、語法の気品において、また内容の緊密さにおいて、荷風を抜きほとんど鴎外の塁に迫る。・・・・・・荷風以後に文人と称し得る者はただ一人の夷斎石川である。》(加藤周一『日本文学史序説』)

ーーところで石川淳の浴衣がけは涼しそうかね?
それだって疑わなくちゃあいけない


セリーヌの文体は、「激しく下品で汚い言葉、破綻した文法、ありえない文体…」などとされるが、下品な言葉でなくても、突如、日常語が混じりこんでくるときのあの驚き、ーー《私ばっかり、歴史家ばっかり、継ぎ接ぎやっちゃいけないってのか?》(セリーヌ『北』)。

ってな具合には石川淳でもなかなかいかないのさ

いずれにせよそのあたりにいる修業の足りない手合いには

「おまえは今いったいどこにいるつもりなんだい

人と人のつくる網目にすっぽりとはまりこんで

洒脱さを気取った浴衣姿で余裕たっぷりのふりして」

って皮肉ってやらないとな

もっと滲まなくちゃ





もっと滲んで  谷川俊太郎


そんなに笑いながら喋らないでほしいなと僕は思う

こいつは若いころはこんなに笑わなかった

たまに笑ってくれると嬉しかったもんだ


おまえは今いったいどこにいるつもりなんだい

人と人のつくる網目にすっぽりとはまりこんで

いい仕立てのスーツで輪郭もくっきり


昔おまえはもっと滲んでいたよ

雨降りの午後なんかぼうっとかすんでいた

分からないことがいっぱいあるってことがよく分かった


今おまえは応えてばかりいる

取り囲む人々への善意に満ちて

少しばかり傲慢に笑いながら


おまえはいつの間にか愛想のいい本になった

みんな我勝ちにおまえを読もうとする

でもそこには精密な言葉しかないんだ


青空にも夜の闇にも愛にも犯されず

いつか無数の管で医療機械につながれて

おまえはこの文明の輝かしい部分品のひとつとなるだろう



          (『世間知ラズ』より)


2013年5月26日日曜日

マチネ・ポエティック運動


遠い心の洞のなか

扉のひらく時を待ち

乱れて眠る赤はだか

緑の髪の娘たち


白い泉の畔りには

しじまを染めて立昇る

炎 記憶の燃える岩

仄かに明日は透きとほる

……  

ーー中村真一郎「真昼の乙女たち」より



頭韻が「と」「と」「み」「み」、「し」「し」「ほ」「ほ」とありAABBの形式。
脚韻が「か」「ち」「か」「ち」、「は」「る」「は」「る」とありABABの形式。

これが戦後まもなく結成された福永武彦、中村真一郎、加藤周一、窪田啓作、白井健三郎などの詩運動『マチネ・ポエティック』の詩の試みのひとつであり、すべてソネット(十四行詩)である。



死の馬車のゆらぎ行く日はめぐる

旅のはて いにしへの美に通ひ

花と香料と夜とは眠る

不可思議な遠い風土の憩ひ



漆黒の森の無窮をとざし

夢をこえ樹樹はみどりを歌ふ

約束を染める微笑の日射

この生の長いわだちを洗ふ


……

ーー福永武彦「火の鳥」より


こちらは脚韻だけの試み(だろうか? 一部頭韻がないでもない)。


福永は三好達治の追悼文で「戦後、私が友人たちと定型詩を試み「マチネ・ポエチック詩集」を出した時に、三好さんは鋭い批評を下された。好意的悪評といったものだが、三好さんの位置が、その発言に権威あらしめたために、この批評は決定的に私たちを敗北させた。」と振り返っている。その三好の批評文とは「マチネ・ポエテイクの試作に就いて」である。ここで三好はマチネの詩作が「つまらない」と表明する。

《奥歯にもののはさかつた辞令は、性分でないから、最初にごめんを蒙つて、失礼なことをいはしてもらはう。まづ、同人諸君の作品は、例外なく、甚だ、つまらないといふこと。諸君が危惧してゐられるやうに、決してそれは難解ではないが、私にはいつかうつまらなかつたといふこと。詩に於ける難解といふことはその詩の魅力と並立してこそ、はじめて成立ちうる性質の難解であつて、魅力を欠いた孤立した難解といふやうなものは、昼まのお化けで、ありつこない。》(三好達治)

その上で三好は日本語においてなぜ押韻定型詩が不可能なのかを、理由を三点挙げ説明する。一つは「脚韻の効果」が薄いこと、つまり「日本語の声韻的性質」である「常に均等の一子音一母音の組合せで、フィルムの一コマ一コマのやうに正しく寸法がきまつて、それが無限に単調に連続する」ために、押韻は「読者の注意を喚起」しない。二つめは「命題の末尾(原則として脚韻の位置)を占める動詞の数は、中国語や欧羅波語の場合当然その位置を占めるべき名詞の数に比して、比較にもならぬ位その語彙は少数」となるために、「窮屈な貧しさ」を露呈すること。最後にマチネの詩作に「文章語脈ないしは翻訳口調の、入り乱れて混在する」ことを指摘し、そこに「いかにも不熟で、ぎこちなく、支離滅裂で、不自然」な点があるとし、この背景には「文章語脈」の形式性が「我々の今日の領分」に相応しいように「きり崩されて」いないこと、「現在の口語脈」の未成熟、「翻訳語脈」の日常生活への不適応性があるとしている。(「マチネ・ポエティクと『草の花』」西田一豊)mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/irwg10/Jinbun37-06.pdf



もっとも彼らの試みは誤っていず、彼らが詩人でなかっただけだなどと評する人もいる。

…………



三好達治は、ほかにも星菫派の名残りがないでもない大岡信の第一詩集『記憶と現在』の中の「六月」について、次のように批判しているようだ。

国文畑の出身と聞く作者が、「鳥たち」「花々」などといふのは、もと、変てこな語感に違いない。意味のアイマイなだけ、音調においてはするすると滑りのよい、それらの比喩、...それらは、かんじんの「詩」の犠牲に於て、その「突貫工事」を突貫しようとするのであらうかと…


あわせて、吉本隆明による加藤周一の雑種文化論への批判を記しておこう。

《さしずめ、西欧乞食が洋食残飯を食いちらしたあげく、伝統詩形に珍味を見出しているにすぎない》(吉本隆明「三種の詩器」1958)


ーー加藤周一は吉本隆明を、《日本人特有の『いまとここ』主義から生まれる際限の無い現状肯定の見本》(出典不明)と批判しているようだ。


…………

つち澄みうるほひ

石蕗〔つわぶき〕の花さき
       
あはれ知るわが育ちに

鐘の鳴る寺の庭


――室生犀星「寺の庭」

…………

…三好が詩に於てつとに萩原朔太郎を宗としたことは周知のとほりだが、その詩境をうかがふに、年をふるにしたがつて、むしろ室生さんのはうに「やや近距離に」あゆみ寄つて来たのではないかとおもふ。萩原さんの詩はちよつと引つかかるところがあるけれど、室生さんの詩のはうはすらすら受けとれると、げんに當人の口から聞いたことがあつた。萩原さんをつねに渝らず高く仰いてゐた三好として、これは揣らずもみづからの素質を語つたものだらう。ちなみに、そのときわたしは鑑賞上それと逆だと應へたおぼえがある。また三好が酣中よくはなしてゐたことに、芥川龍之介は百發九十九中、室生犀星は百發わづかに一中だが、のべつにはづれる犀星の鐵砲がたまにぶちあてたその一發は芥川にはあたらないものだといつて、これにはわたしも同感、われわれは大笑ひした。つち澄みうるほひ、石蕗の花咲き……といふ室生さんの有名な詩は三好が四十年あまりにわたつで「惚れ惚れ」としつづけたものである。「つち澄みうるほひ」はまさに犀星の一發。このみがき抜かれたことばの使ひぶりは詩人三好が痩せるほど氣に入つた呼吸にちがひない。(石川淳「三好達治」『夷斎小識』所収)

…………
                   
褐色(かちいろ)の

根府川石(ねぶかはいし)に

白き花はたと落ちたり、

ありとしも靑葉がくれに

見えざりし さらの木の花。 


ーー森鴎外「沙羅(さら)の木」


この鴎外の詩をめぐって、中井久夫は次のようにいう、《押韻もさることながら、「褐色の根府川石」「石に白き花はたと」「たり/ありしとも青葉がくれに/みえざりし」に代表される遠韻、中間韻の美は交錯して、日本詩のなかで稀有な全き音楽性を持っている》。さらにこの詩がボードレールの詩句の巧みな換骨奪胎であるとする。(『分裂病と人類』)

…………

中井久夫は現代ギリシャ詩について次のように書いている。

突然、現代ギリシャの詩が私を捉えた。「古代」の間違いではない。現代ギリシャが、二人のノーベル賞詩人セフェリスとエリティスを初めとする優れた詩の源泉であるという知識はかねてよりあった。だが遠い世界だった。第一、私は詩人ではない。

若い友人の結婚式のスピーチを考えていた。甘美で格調のある祝婚の詩はめったにない。たまたま英訳エリティス詩集が書架にあった。たちまち冒頭の「エーゲ海」に吸いこまれた。なんとか日本語にした。結婚式のスピーチ代わりにはなる程度のものができた。

次のページをめくった。次も。私は魅了された。空と海と鷗と白い島と。乾いた夏と湿った冬と。太陽と裸体とセミと星明りの夜ときつく匂う草と。独特の漁船と生乾きの海藻の香と。そして何よりも風。庭を吹き荒れ、樹を揺るがせ、平原をこうこうと吹く風があった。舞い、ひるがえり、一瞬停止し、どっど駆け出す風のリズムがあった。

原文を少し入手した。現代ギリシャ語。鋭い言葉である。母音は短いアイウエオだけ、それもイ、エが多いから。そして我が国語純化論者なら嘆くだろう “乱れ” 。文語が現存し、口語は江戸弁のままという粗さで、しかも両方が混じる。生まの方言で論説や科学論文を書くとすれば、雅語や漢語を加えねばならぬ。そこに生じる混乱、この荒さ、鋭さ、変化が、例えばエリティスの傑作「狂ったザクロの木」になるのだろう。

私の訳で紹介しても甲斐ないことだが、歌い出しは「南の風が白い中庭から中庭へと笛の音をたてて/円天井のアーチを吹き抜けている。おお、あれが狂ったザクロの木か、/光の中で跳ね、しつこい風に揺すられながら、果の実りに満ちた笑いを/あたりにふりまいているのは?/おお、あれが狂ったザクロの木か、/今朝生まれた葉の群れとともにそよぎながら、勝利にふるえて高くすべての旗を掲げるのは?」である。全六連の最後までザクロの木を歌っているのか風なのか定かならぬままにしばしの陶酔を私に与えてくれる。(中井久夫「ギリシャ詩に狂う」)

中井久夫は日本語も捨てたものじゃないと語っているようにも見える、ただ工夫が足らないだけだと。


ここで、現代日本の詩に特有のことかもしれないが、押韻や定型を云々する以前に、詩は音読されねばならないかどうかが問題である。詩は必ずしも音読する必要はないかもしれない。これは、その人がどういう感覚によって詩を作りあるいは味わっているかという問題があって、当否で答える問題ではないと思う。ここで、音読とは、聴覚だけの問題ではないことを言っておくにとどめよう。たとえば、舌と喉頭の筋肉感覚があり、口腔の触覚を始めとする綜合感覚もある。私は、リッツォスの「三幅対」の第三において「接吻の直後にその余韻を舌を動かしながら味わっているひとの口腔感覚」を、音読する者の口腔に再現しようとしたことがある。

きみの舌の裏には、カレイの稚魚がいる。
ブドウの種がある。桃の繊維がある。
きみの睫毛の投げかける影には
暖かい南国がある……

(リッツォス『括弧Ⅰ』「三幅対」三「このままではいけない?」)

もし、音読を詩の必要条件の一つとするならば、いや、詩は時に読まれるべきものだとするなら、改行とは音読をガイドする働きを持っているかもしれないという仮説が生まれる。私は、改行とは、第一に、読む速度をそれとなく規定するものであると考える。長い行ほど早口で読むようにと自然に人を誘導すると私は思う。

視覚的言語が二つの要請を音声に与える。一シラブル(正確には一モーラ)をほぼ同じ速度で読ませようとする「文字」と、一行全体がほぼ同じ時間内に読まれる権利を主張する「行」とのせめぎあいである。これはシラブル数が不定な詩においては特に著しい。その結果として、読後の緩急が決ってくる。この緩急は、行の末端が作り出す上り下りによって、読者にあらかじめ示唆されている。
(……)

私の訳詩は思い入れをこめた緩急な朗読を予想していない。私は、現代日本語の美の可能性の一つは、速い速度で読まれることによる、母音と母音、子音と子音、あるいは母音と子音の響き合いにあるのではないかと思っている。(……)日本語のやや湿った母音は単独ではさほど美しくなくとも、その融け合いと響き合いとが素晴らしい美を醸成することを、私は信じている。
(……)

私は、詩の読まれる速さが、単純に一行の字数で決まるといっているのではない。まず、わが国においては、詩のたいていは漢字かな混じり文である。複雑な漢字は、その存在そのものが一字で二音以上である可能性を示唆し、読む者に、ゆるやかに読もうという姿勢を取らせる。また、漢字の多い行は、当然短くなる。これも、短い行はゆるやかに、という示唆のために、ゆるやかに読む姿勢を強化するだろう。

(中井久夫「詩の音読可能な翻訳について」『精神科医がものを書くとき Ⅱ』広栄社 所収)