同遊者の渋江六柳は抽斎である。小野抱経は富穀である。抱経と号したには笑ふべき来歴があるが、事の褻に亘るを忌んで此に記さない。(森鷗外『伊沢蘭軒』その二百五十)
榛軒は最も妻勇のために心を労してゐたらしく、柏軒に嘱して「勇の挙止に気を附けよ」と云つてゐる。又「勇をして叔母をいたはらしめよ」とも云つてゐる。(その百九十七)
しかし柏軒に与ふる幾通かの書に、動もすれば勇を信ぜずして、弟にこれが監視を託するが如き口吻があつた。榛軒が入府後幾ならずして妻を去つたものと推する所以である。(その二百一)
ここでは大田南畝(蜀山人)ーー榛軒の父蘭軒と師弟関係、いやほとんど友人関係にあったーーの狂歌を反芻しておくだけにしよう。
世の中に絶えて女のなかりせばをとこの心のどけからまし
世の中は金と女がかたきなりどふぞかたきにめぐりあひたい
「瞑想」によく集中できるように、ムダな神経を使わないことにしたい。周囲を気にかけないで、必要なら自由にマスターベーションをすることをすすめたい。腰の奥の力に押しまくられて、---もうだめだ、これ以上はガマンできない! と自分にいいながら、ベッドから這い出すようなことはないようにしたい。
なんとも心が苦しい時、いくらかでもそれをまぎらすためにマスターベーションをするならば、それはアルコール飲料に走るよりも健全だと思います。マスターベーション依存症という話はきいたことがありません。動物園の猿の話は聞いたように思うけど、すくなくとも人間でいうかぎり…… 圧力抜きをすれば、また圧力が増してくるまでは、しばらくなりと「瞑想」に集中できるでしょう。(大江健三郎『人生の親戚』)
江戸では密通はありふれたことだった。密通は不倫より意味が広い。正式な婚姻以外の男女の性交渉はすべて密通である。ただし玄人の女との性行為は密通ではない。密通と刑罰を定めたのが、吉宗の時代の「密通御仕置之事」である。処罰は厳酷で密通した男女のほとんどは死刑になった。
江戸の男と女は厳罰におびえていたのか?けっしてそんなことはない。あっけらかんとセックスを享楽していた。刑罰はあくまで建前である。というよりあまりに過酷なため、人々は訴えるのをためらった。もちろん密通で処刑された男女もいるが、これは殺傷事件にまで発展し、町奉行所の役人が乗り出さざるを得なかったからである。ひとたび町奉行所に持ち込まれると杓子定規に厳格な刑罰が適用された。
ここで大岡越前が登場する。「世事見聞録」(文化十三年)によると、世間にあまりに密通が多いため、密通御仕置之事に定められた処罰を厳格に適用すると死刑者が続出するし、奉行所も仕事に支障をきたす。そこで大岡越前が間男代を七両二分と定め、内済による穏便な解決をうながしたのだ。(永井義男『お盛んすぎる江戸の男と女』)
ーー江戸期の浮世絵作家は「黒」の扱いがすばらしい、マネ以前に「黒」を発見したのは彼らである、と加藤周一は書いている(春信の女と歌麿の女の胸)。
諸大名一年替りに御城下に詰居れば,一年はさみの旅宿也。其妻は常江戸なる故,常住の旅宿也。御旗本の武士も,常江戸にて常住の旅宿也。諸大名の家中も,大方其城下に聚り居て面々の知行所に居ざれば,皆々旅宿成上に,近年は江戸勝手の家来次第に多くなる。是凡武士といはるる程の者の旅宿ならぬは一人もなし。(荻生徂徠 「政談」)
江戸時代という時代の特性…。皆が、絶対の強者でなかった時代である。将軍も、そうではなかった。大名もそうではなかった。失態があれば、時にはなくとも、お国替えやお取り潰しになるという恐怖は、大名にも、その家臣団にものしかかっていた。農民はいうまでもない。商人層は、最下層に位置づけられた代わりに比較的に自由を享受していたとはいえ、目立つ行為はきびしく罰せられた。そして、こういう、絶対の強者を作らない点では、江戸の社会構造は一般民衆の支持を受けていたようである。伝説を信じる限りでの吉良上野介程度の傲慢ささえ、民衆の憎悪を買ったのである。こういう社会構造では、颯爽たる自己主張は不可能である。そういう社会での屈折した自己主張の一つの形として意地があり、そのあるべき起承転結があり、その際の美学さえあって、演劇においてもっとも共感される対象となるつづけたのであろう。(中井久夫「意地の場について」『記憶の肖像』所収)
ここまでの引用にしようと思ったが、やはり以下を続けよう、というのは《一九八〇年代後半になっても、いまだ江戸時代に築かれた対人関係の暗黙のルールが生きているのではないかということである》とあり、江戸期の時代の史伝を読んでいると、ときにそう思わざるをえない感慨を抱くから。二百年近くまえの話だが、人びとの人情の機微がとても近しい気がするのはそのせいかもしれない。
そして現在の日本でも、「民主的」とは何よりもまず「絶対の強者」がいないことが条件である。「ワンマン」がすでに絶対の強者ではない。「ワンマン」には(元祖吉田茂氏のような)ユーモラスな「だだっ子」らしさがある。「ワンマン」は一種の「子ども」として免責されているところがある。
二つには、一九八〇年代後半になっても、いまだ江戸時代に築かれた対人関係の暗黙のルールが生きているのではないかということである。われわれの職場にいくらコンピューターがはいっても、職場の対人関係は、江戸時代の侍同士の対人関係や徒弟あるい丁稚の対人関係、または大奥の対人関係と変わらない面がずいぶんあるということである。政治にも、官僚機構にも、変わっていない面があるのではないか。非公式的な集まりである運動部や、社会体制に批判的な政党や運動体においても、そういう面があるのではないか。
いじめなどという現象も、非常に江戸的ではないだろうか。実際、いじめに対抗するには、意地を張り通すよりしかたがなく、周囲からこれを援助する有効な手段があまりない。たとえ親でも出来ることが限られている。意地を張り通せない弱い子は、まさに「意気地なし」と言われてさらに徹底的にいじめられる。いじめの世界においても、絶対の強者は一時的なあるくらいが関の山であるらしい。また、何にせよ目立つことがよくなくて、大勢が「なさざるの共犯者」となり、そのことを後ろめたく思いながら、自分が目立つ「槍玉」に挙がらなかったことに安堵の胸をひそかになでおろすのが、偽らない現実である。そして、いじめは、子供の社会だけでなく、成人の社会にも厳然としてある。
日本という国は住みやすい面がいくつもあるが、住みにくい面の最たるものには、意地で対抗するよりしかたがない、小権力のいじめがあり、国民はその辛いトレーニングを子供時代から受けているというのは実情ではないだろうか。(同上)
このシンポジウムで私の前に米山俊直先生が話された中で私の印象に強く残ったのは、信長が比叡山を焼いた事件の大きさである。比叡山がそれまで持っていた、たとえば「天台本覚論」という宇宙全部を論じるような哲学がそれによって燃え尽きてしまう。比叡山が仮に信長に勝っていたらチベットのような宗教政治になったかどうかはわからないが……。それ以降、秀吉と家康がした大きな改革が三点くらいある。一つは「大家族同居の禁」である。江戸時代のほうが明治以降よりも小家族であった。森鴎外の『阿倍一族』のような反乱を起こされたら困るからである。もう一つは刀狩という「武装解除」である。最後の一つは「布教の禁」で宗教は布教してはいけないということである。おそらく幕末のいろいろな宗教運動がものすごい抵抗に遭ったのは、布教の禁に真っ向から対立するからだろうと思う。布教しないということはその宗教は半分死んだようなものかもしれないが、檀家制度という、生活だけは保障する制度をする。以上の三つに付随して「宗教者医療の禁」がある。「医は仁術なり」という言葉は「お医者さんは非常に親切であれ」ということではなくて、「仁」という儒教の道徳にもとづいた非宗教人だけに医術を許すということである。ただし日蓮宗は狐憑きを治療してよいなどいくつかの例外はある。(中井久夫「山と平野のはざま」『時のしずく』所収 P. 98)
…………
さて、もう一度上に書かれた「参勤交代」に戻る。
初め抽斎は酒を飲まなかった。然るにこの年藩主がいわゆる詰越をすることになった。例に依って翌年江戸に帰らずに、二冬を弘前で過すことになったのである。そこで冬になる前に、種々の防寒法を工夫して、豕の子を取り寄せて飼養しなどした。そのうち冬が来て、江戸で父の病むのを聞いても、帰省することが出来ぬので、抽斎は酒を飲んで悶を遣った。抽斎が酒を飲み、獣肉を噉うようになったのはこの時が始である。(『渋江抽斎』 その二十七)
鷗外は,『渋江抽斎』その二十七・二十八に,抽斎は,藩主越中守信順に扈従して,天保八年七月十二日,江戸を立って弘前に行き,二冬を弘前で過して,同十年,越中守信順に随行して江戸に帰ったと記述している。
ところで,天保十年五月十六日,越中守信順の隠居と左近将監順徳の襲封を公儀が允許したことが諸書に記録されている。鴎外が言うように,越中守信順が,詰越をして,この年に江戸に戻ったのであれぱ,参府の時期は,五月十六日以前であったということになる。武鑑には三月参府と記載されているので,そのこと自体は異例とするには当たらないが,参府の直後に,病気を理由に,公儀に隠居を願い出たということになる点が,以前から,少々,気になっていた。詰越をした理由は何であったのか,病気が理由であったとすると,詰越を決めたのは,鷗外によれば,天保八年であったというから,かなりの長患いをしていたことになる。参府の直後に隠居を願い出たとすると,本復しなかったのであろう。そういう状態の越中守信順が,まだ雪が残っていたはずのこの時期に,江戸まで百八十二里の旅に出ることを,他の家臣はともかく,医者である抽斎が,それをよしとしたということになる点が,特に気になったのである。
『江戸日記』を検したところ,越中守信順は,鷗外が言う通り,天保八年七月十二日申刻に藩邸を発駕して弘前に向かっている。着城の日を鷗外は明らかにしていないが,八月七日であった。八月五日着城の予定が二日遅延したのである。『御国日記』を検したところ,越中守信順が,この年,詰越を決意したとか,詰越せざるを得ないような病患に見舞われたというような記事は,何も見出だせなかった。それどころか,越中守信順は,翌九年十月十五日に弘前城を発駕して,十一月九日に着府していることが確認されたのである。鴎外が,「此年(天保八年)藩主が所謂詰越をすることになった。例に依って翌年江戸に帰らずに,二冬を弘前で過すことになったのである。」と記述しているのは,全く事実に反することであったことが明らかになったのである。また,越中守信順の代に,詰越を例としたことがないことも,あわせて確認し得たのである。証拠の引用は,すべて省略する。抽斎もまた,天保十年にではなく,天保九年十一月九日に江戸に戻っているのである。
これより先,抽斎は,天保四年四月六日,越中守信順に扈従して江戸を立ち,四月二十七日,弘前に着き,一冬を弘前で過して,翌五年十月十七日,弘前を立ち,十一月十五日に江戸に戻っている。
二冬を弘前で過したというのは,この両度の弘前行を合わせれば,そういうことになるということと混同したのであろう。誤記の責めは,鷗外ではなく,鷗外に材料を提供した渋江保が負うべきもののようである。
抽斎が初めて弘前で冬を越すことになった天保四年は大凶作の年であった。弘前藩の収納は皆無であったという。その前年三年も違作の年で,公儀に対し,損毛五分六厘七毛と届出ている。また,抽斎が再び弘前で冬を越すことになった天保八年も違作の年で,損毛四分九厘と公儀に届出ている。その前年七年も凶作で,損毛九分一厘であったという。天保三年から続いていた冷害のため,遂に四万五千人余の餓死者を出した天保八年の冬を,抽斎は,弘前で過したのである。
鷗外は,抽斎が二度目の越冬に備えて,「種々の防寒法を工夫して,家の子を取り寄せて飼養しなどした。」と記述し,また,「江戸で父の病むのを聞いても,帰省することが出来ぬので,抽斎は酒を飲んで悶を遣った。」とも記述している。しかし,二度目の弘前行は,事前に国元の惨状を知り得ていて,旅立ったのである。抽斎が,この時,獣肉を食らい,酒を飲むことを覚えたのは,鷗外が記述するような個人的事情が因であったとばかりは言えぬこと,くだくだしく論ずるまでもあるまい。
一般的に学者たちの論文は、考察してしてしまったことを書く、あるいは《自分のパロールを活字にし、公表する者である》(ロラン・バルト(「作家、知識人、教師」)。他方、鷗外の晩年の作品は、ドゥルーズのいう如く書かれている、《自分が知らないこと、あるいは適切に知っていないことについて書くのではないとしたら、いったいどのようにして書けばよいのだろうか。》(『差異と反復』)
さらには、こう言ってもよい、学者たちの論文は言説化のための分析しか行われていないが、鷗外の作品は分析の言説化がなされている、と。あるいはまた《挿話の連鎖に有効にかかわらない細部がときならぬ肥大化を見せる》のだ。
波瀾万丈の物語とは一つの語義矛盾である。あらゆる物語は構造化されうるもので、思ってもみないことが起るのは、その構造に弛みが生じ、物語がふと前面から撤退したときに限られる。挿話の連鎖に有効にかかわらない細部がときならぬ肥大化を見せるような場合に、かろうじて事態は波瀾万丈と呼びうる様相を呈するにいたる。物語を見捨てた言葉の独走といったことが起るとき、構造の支配が遠ざかって小説が装置として作動し始めるといったらいいだろうか。(蓮實重彦『小説から遠く離れて』)