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2014年11月8日土曜日

かつて愛し、離れてしまったものへの、疼くようなやるせない思い

粗悪な音楽を嫌悪したまえ、しかし侮ることなかれ。いい音楽以上にうまく演奏したり歌つたりすれば、音楽は徐々に夢と人の涙で満たされる。(中略)粗悪な音楽には芸術の歴史に居場所はないが、社会の情緒の歴史において、その地位は絶大なのだ。(プルースト)

カペー四重奏とプルースト」や「フォーレとヴァントゥイユ(プルースト)」にてもいくらか抜粋したが、『Anne Penesco Proust et le violon interieur (Les Editions duCerf, 2011)』の安永愛書評からここでふたたび抜きだしてみよう。

サン=サーンスのヴァイオリン・ソナタ

ヴァントゥイユのソナタの聴取の記述に最も大きなインスピレーションを与えたものと、プルーストの書簡から読み取られるのは、サン=サーンスのヴァイオリン・ソナタである。しかし奇妙なことに、プルーストはサン=サーンスについて、自分の好みではなく凡庸な作曲家だと、1915年にアントワーヌ・ビベスコ宛ての書簡で述べている。これは一体いかなることなのだろうか。アンヌ・ペネスコは、その答をボードレールについてのプルーストの評論の記述の中に見出している(p104)。それによれば、音楽が「有益な夢想」を与えてくれさえすれば、詩人の賞賛する音楽の客観的クオリティは問題ではないというのである。また、プルーストは未完の小説『ジャン・サントゥイユ』の「粗悪音楽礼賛」のくだりでこう述べているという。「粗悪な音楽を嫌悪したまえ、しかし侮ることなかれ。いい音楽以上にうまく演奏したり歌つたりすれば、音楽は徐々に夢と人の涙で満たされる。(中略)粗悪な音楽には芸術の歴史に居場所はないが、社会の情緒の歴史において、その地位は絶大なのだ」と。

サン=サーンスの音楽を「粗悪音楽」とは言い切れないだろうが、良い音楽か否かは間わず、「夢」や「涙」と結びつく音楽であればポエジーの糧になるというプルーストの考え、そして彼が必ずしも好みではない音楽家の作品を『失われた時を求めて』における音楽の記述の発想源としていたというのは、興味深い。

実は『失われた時を求めて』執筆の前にプルーストが手がけた未完の二人称小説『ジャン・サントゥイユ』の中には、主人公ジャンがサン=サーンスのヴァイオリン・ソナタに耳傾ける場面があるのだという。このことから、サン=サーンスを好まないと1915年の時点で書簡にプルーストは書いているものの、人の嗜好は変化するものであって、プルーストのサン=サーンスのヴァイオリン・ソナタに寄せる思いは、『失われた時を求めて』の語り手がジルベルトに寄せる思いと同じく、初恋のようなものではなかったか、とアンヌ・ペネスコは推測している(p108)。プルーストは、やはりサン=サーンスのヴァイオリン・ソナ夕に魅了されていたのだとペネスコは断じる。かつて愛し、離れてしまったものへの、疼くようなやるせない思いが、文学テクスト上のヴァントゥイユの音楽の創出にあずかっていたというのが、ペネスコの見立てである。

ここにベネスコが書くプルーストのサン・サースへの思い、《かつて愛し、離れてしまったものへの、疼くようなやるせない思い》とは、フロイト=ラカン派ならメランコリーの機制というだろう。それも「カール・リヒターとメランコリー」で書いた。これは「粗悪な音楽」、あるいは粗悪な芸術かどうかにはかかわりがない。ある程度齢を重ねれば、だれにでもあるはずだ。

われわれも相当の年になると、回想はたがいに複雑に交錯するから、いま考えていることや、いま読んでいる本は、もう大して重要性をもたなくなる。われわれはどこにでも自己を置いてきたから、なんでも肥沃で、なんでも危険であり、石鹸の広告のなかにも、パスカルの『パンセ』のなかに発見するのとおなじほど貴重な発見をすることができるのだ。(プルースト「逃げさる女」井上究一郎訳)

以下は、フロイトの『悲哀とメランコリー』をもとにしたジジェクのメランコリーをめぐる叙述である。

ある特定の町に住み慣れてきた人が、もしどこか別の場所に引っ越さなくてはならなくなったら、当然、新しい環境に投げ出されることを考えて、悲しくなるだろう。だが、いったい何が彼を悲しませるのか。それは長年住み慣れた場所を去ることそれ自体ではなく、その場所への愛着を失うという、もっとずっと小さな不安である。私を悲しませるのは、自分は遅かれ早かれ、自分でも気づかないうちに新しい環境に適応し、現在は自分にとってとても大事な場所を忘れ、その場所から忘れられるという、忍び寄ってくる意識である。要するに、私を悲しませるのは、私は現在の家に対する欲望を失うだろうという意識である。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)
ジョルジオ・アガンベンが強調したように、喪の対極にあるメランコリーは、喪の作業の失敗、対象のリアルへの不変の愛着であるだけでなく、そうした失敗や愛着とは正反対のものでもある。つまり、「メランコリーは、対象の喪失を見越し、喪失に先立って喪の作業を行おうというパラドクスを提示している」。ここにメランコリーの策略がある。一度も手にしたことのない対象、最初から失われていた対象を所有する唯一の方法は、しっかり所有している対象を、あたかもそれがすでに失われたものであるかのように扱うことなのだ。だから、喪の作業を成し遂げることを拒否するメランコリー者の身振りは、そうした拒否とは正反対の外観を呈する。それはつまり、対象が失われないうちから、その対象に関して過剰で余計な喪の作業を行うという偽の身振りである。(……)

いまだ失われずに目の前に存在している対象に対して喪の作業を行うというパラドクスを、どう解決すればよいだろうか。この謎を解く鍵は、メランコリー者は失われた対象において何を失ったのかを知らない、というフロイトの明確な定式にある。ここで、ラカンによる、対象と欲望の原因(-対象)との区別を導入する必要がある。欲望の対象はたんに欲望された対象にすぎないが、欲望の原因は、欲望の対象をわれわれに欲望させる特質(ふだんは気づかなかったり、時には対象を欲望する際の邪魔になっているとさえ思えたりするような或る細部や直し難い癖)である。こうした視点から見ると、メランコリー者は、失われた対象に固着し喪の作業を完遂できない主体であるばかりか、対象を欲望させる原因が消えて力をなくしたために、対象を所有していながらその対象への欲望を失ってしまった主体でもあるのだ。メランコリーは、挫かれた欲望、対象を奪われた(欲望されなくなった)対象それ自身の現前を表している。欲望された対象をついに手に入れたがその対象への欲望は失われている、そういうときにメランコリーは生じるのだ。まさしくこの意味で、メランコリー(欲望を満たすことができない対象、実定的で〔ポジティヴ〕で観察可能な対象すべてに対する失望)は事実上、哲学の始まりなのである。》(ジジェク「メランコリーと行為」2000)

2014年2月20日木曜日

フォーレとヴァントゥイユ(プルースト)






尿酸値が高く左膝のぐあいがあまりよくないのだが、フォレ(フォーレ)の曲をやるというので丈高いユーカリ並木の美しい通りにあるG音楽教授夫妻宅の内輪の音楽会に訪れる。三〇人弱の集まりで若いひとが多い。欧州で音楽活動をしているふたりのご子女のうちひとりが戻ってきていて、そのヴァイオリストの娘さんがG夫人とフォレのピアノソナタを演奏する。若い学生さんが、声は細いが美しい声で歌曲をうたう。四重奏や五重奏曲のいくつかの断片をやる。G氏のチェロのなんとすばらしいこと!






フォレはこの国にあう。二十年前この国に最初に訪れてここに居を定めるかどうかを試し住みするために、小さな殺風景なアパートを一ヶ月ほど借りた。そのときフォレばかりを聴いていたことがある。


五階建ての三階にある部屋、白く塗られた壁がくすみつつある、武骨で古くさく縦に細ながい部屋だったが、鎧戸だけは重く立派だった。朝その鎧戸の隙間――その扉は緑とクリームを混ぜたような色で塗られており瀟洒で気品があったーー、そこから光の筋が模造大理石の床に模様を眺めながら、こちらのスタイルの美味なコーヒーを入れ、フォレを聴く。路上市場のようなところで一枚50円ほどで手に入れた歌曲集やソナタ、ピアノ四重奏のCDを繰り返して聴いた。





そのとき以来、フォレはわたくしにとってはプルーストのヴァントゥイユであり、フォレを聴くと、当時かかえていた個人的な鬱屈の先から洩れるわずかな光、新しい生活へ希求の香気が蘇る。

プルーストによる精細で執拗なまでの音楽の記述は、ヴァントゥイユの「ソナタJや「七重奏」にモデルがないはずがないとの印象を与えずにはいない。実際プルーストは、アントワーヌ・ボスコとジャク・ド ラクルテルに宛てた書簡に、モデルとなつた音楽について言及しているのである。書簡によれば、ヴァントゥイユのソナタは、主にサン=サーンスのヴァイオリン・ソナタに由来し、しゃがれ声の冒頭はフランクのソナタであり、フォーレのバラードである。「トレモロの震え」はワグナーの「ローエングリーンJのプレリュードである。また、印象に残つている演奏は、ジャック=ティボーの奏するサン=サーンスのソナタであり、エネスコの演奏するフランクのソナタである。(……)

プルーストは1903年にフイガロ紙に掲載された「エドモン・ド・ポリニャッ夫人のサロン」と『失われた時を求めて』の「因われの女」の中で、フォーレのヴァイオリン・ソナタ第1番に言及している。また、フォーレの「バラード」をヴァントゥイユのソナタに「利用」した、と1915年のアンス・ビベスコ宛ての書簡で明かしている。そして翌年、ガストン・プーレ弦楽四重奏団の演奏によリフォーレのピアノ四重奏曲を聴き、それをヴァントウイユの七重奏に利用したという。また、プルーストはフォーレのピアノ五重奏曲にも興味を寄せ、オデオン座でのフォーレ・フェステイバルでこの曲を初めて聴き、ガストン・プーレ四重奏団と作曲家フォーレ自身を思い切つて自邸に招き、自分ひとりのために演奏を依頼している。この曲もヴァントゥイユの七重奏のモデルになつたことは「ここは、フォーレの弦楽四重奏曲第1番卜短調のカペーの弾くヴァオリン・パート」とプルーストの残したノートにあることから明らかである。(Anne Penesco Proust et le violon interieur (Les Editions duCerf, 2011)書評 安永愛)




最後の部分がはじまるところでスワンがきいた、ピアノとヴァイオリンの美しい対話! 人間の言語を除去したこの対話は、隅々まで幻想にゆだねられていると思われるのに、かえってそこからは幻想が排除されていた、話される言語は、けっしてこれほど頑強に必然性をおし通すことはなかったし、こんなにまで間の適切さ、答の明白さをもつことはなかった。最初に孤独なピアノが、妻の鳥に見すてられた小鳥のようになげいた、ヴァイオリンがそれをきいて、隣の木からのように答えた。それは世界のはじまりにいるようであり、地上にはまだ彼ら二人だけしかいなかったかのようであった、というよりも、創造主の論理によってつくられ、他のすべてのものにはとざされたその世界―――このソナタ―――には、永久に彼ら二人だけしかいないだろうと思われた。それは一羽の小鳥なのか、小楽節のまだ完成していない魂なのか、一人の妖精なのか、その存在が目には見えないで、なげいていて、そのなげきをピアノがすぐにやさしくくりかえしていたのであろうか? そのさけびはあまりに突然にあげられるので、ヴァイオリン奏者は、それを受けとめるためにすばやく弓にとびつかなくてはならなかった。すばらしい小鳥よ! ヴァイオリン奏者はその小鳥を魔法にかけ、手なずけ、うまくつかまえようとしているように思われた。すでにその小鳥はヴァイオリン奏者の魂のなかにとびこんでいた。すでに呼びよせられた小楽節は、ヴァイオリン奏者の完全に霊にとりつかれた肉体を、まるで霊媒のそれのようにゆり動かしていた。スワンは小楽節がいま一度話しかけようとしているのを知るのであった。(プルースト「スワン家のほうへ」井上究一郎訳)

いまは晩年の弦楽四重奏OP121をもっとも愛する。弦楽四重奏のなかでは、おそらく他の作曲家のものも含めて、ベートーヴェンOP131と同じくらいーーいやよく聴くのはフォレの方だーー愛する。第二楽章が好みだが、第三楽章もよい。昨晩は夫妻とその仲間たちの合奏による第三楽章をきいた。

ひかえめな初老の男が、少年のような音楽の悦びの表情を輝かせて、思い切りチェロで歌をうたう。そして合奏者に親しい合図を送って瞳を見交わす。演奏と同じくらい、演奏者の顔の表情に魅せられる。






エベーヌ四重奏団の面子ような生きのいい若者と愉快に会話ができて、ひさしぶりに生き返ったような気分になった。






そのまえの年、ある夜会で、彼はピアノとヴァイオリンとで演奏されたある作曲をきいたことがあった。最初彼はただ楽器からにじみでる音の物質的な性質だけしかたのしもなかった。それからヴァイオリンの、ほそくて、手ごたえのある、密度の高い、統率的な、小さな線の下から、突如としてピアノの部分の大量の音が、ざわめきながらわきたち、月光に魅惑される変記号に転調された波のモーヴ色の大ゆれのように、さまざまな形をとり、うちつづき、平にのび、ぶつかりあって、高まってこようとしているのを見たとき、それだけでもう彼は大きな快楽にひたったのであった。しかし、そのうちふとある瞬間から、スワンは、輪郭をはっきり識別することも、彼に快感をあたえているものをそれと名ざすこともできないままに、突如として魅惑された状態で、たそがれどきのしっとりした空気にただようばらの匂が鼻孔をふくらませるように、通りすがりに彼の魂を異様に大きくひらいたあの楽節かハーモニーかをーーそれが何であるかを彼自身も知らなかったがーー心のなかでまとめてみようとつとめたのだった。(……)

その楽節は、ゆるやかなリズムで、スワンをみちびき、はじめはここに、つぎはかしこに、さらにまた他のところにと、気高い、理解を越えた、そして明確な、幸福のほうに進んでいった。そしてその未知の楽節がある地点に達し、しばし休止ののち、彼がそこからその楽節についてゆこうと身構をしていたとき、突然、楽節は方向を急変し、一段と急テンポな、こまかい、憂鬱な、とぎれない、やさしい、あらたな動きで、彼を未知の遠景のかなたに連れさっていった。それから、その楽節は消えた。彼は三度目にその楽節にめぐりあいたちとはげしく望んだ。すると、はたして、その楽節がまたその姿をあらわしたが、こんどはまえほどはっきりと話しかけてくれなかったし、まえほど深い官能をわきたたせはしなかった。しかし、彼は家に帰ると、またその楽節が必要になった、あたかも彼は、行きずりにちらと目にしたある女によって生活のなかに新しい美を映像をきざみこまれた男のようであり、その名さえ知らないのにもうその女に恋をし、ふたたびめぐりあうてだてもないのに、その女の新しい美の映像がその男の感受性にこれまでにない大きな価値をもたらす場合に似ていた。(同「スワン家のほうへ」)





…スワンや彼の妻はこのソナタに、明瞭にある楽節を認めるのだが、私にとってその楽節は、たとえば思いだそうとするが闇ばかりしか見出せない名前、しかし一時間も経ってそのことを考えていないときに最初はあれほどたずねあぐんだ綴がすらすらとひとりでに浮かびあがってくるあの名前のように、ソナタのなかにあって容易にそれとは見わけにくいものなのであった。また、あまりききなれないめずらしい作品をきいたときには、すぐには記憶できないばかりでなく、それらの作品から、ヴァントゥイユのソナタで私がそうであったのだが、われわれがききとるのは、それほどたいせつではない部分なのである。(……)

そればかりではない、私がソナタをはじめからおわりまできいたときでも、たとえば距離や靄にさまたげられてかすかにしか見ることのできない記念建造物のように、やはりこのソナタの全貌は、ほとんど私に見さだめられないままで残った。そこから、そうした作品の認識にメランコリーがむすびつくのであって、時間が経ってからのちにそのまったき姿をあらわすものの認識はすべてそうなのである。ヴァントゥイユのソナタのなかにもっとも奥深く秘められた美が私にあきらかになったとき、はじめに認めてたのしんだ美は、私の感受性の範囲外へ習慣によってさそわれて、私を離れ、私から逃げだしはじめた。私はこのソナタがもたらすすべてを時間をかさねてつぎつぎにでなければ好きになれなかったのであって、一度もソナタを全体として所有したことがなかった、このソナタは人生に似ていた。しかし、そうした偉大な傑作は、人生のようには幻滅をもたらすことはないが、それがもっている最上のものをはじめからわれわれにあたえはしない。ヴァントゥイユのソナタのなかで一番早く目につく美は、またあきられやすい美であり、そうした美がすでに人々に知られている美とあまりちがっていないのも、まず早く目にとまる美だからである。しかしそんな美がわれわれから遠ざかったとき、そのあとからわれわれが愛しはじめるのは、あまり新奇なのでわれわれの精神に混乱しかあたえなかったその構成が、そのときまで識別できないようにしてわれわれに手をふれさせないでいたあの楽節なのである。われわれが毎日気がつかずにそのまえを通りすぎていたので、自分から身をひいて待っていた楽節、それがいよいよ最後にわれわれのもとにやってくる、そんなふうにおそくやってくるかわりに、われわれがこの楽節から離れるのも最後のことになるだろう。われわれはそれを他のものより長く愛しつづけるだろう、なぜなら、それを愛するようになるまでには他のものよりも長い時間を費していたであろうから。それにまた、すこし奥深い作品に到達するために個人にとって必要な時間というものはーーこのソナタについて私が要した時間のようにーー公衆が真に新しい傑作を愛するようになるまでに流される数十年、数百年の縮図でしかなく、いわば象徴でしかないのである。(プルースト『花咲く乙女たちのかげに Ⅰ』 井上究一郎訳 文庫 P172-174)









2014年2月17日月曜日

カペー四重奏とプルースト

表題は「カペー四重奏とプルースト」だが、書いているうちに別のところにいってしまった。

カペークァルテットの演奏録音のいくつかを貼り付け、そこにプルーストとカペーの関係をすこし付加しようと思っただけなのだが、そのなかでプルーストの次の言葉に出遭った。


・音楽が「有益な夢想」を与えてくれさえすれば、詩人の賞賛する音楽の客観的クオリティは問題ではない

・粗悪な音楽を嫌悪したまえ、しかし侮ることなかれ。いい音楽以上にうまく演奏したり歌つたりすれば、音楽は徐々に夢と人の涙で満たされる。粗悪な音楽には芸術の歴史に居場所はないが、社会の情緒の歴史において、その地位は絶大なのだ。

すなわち隠れたテーマはこの文にかかわるが、そして重点の置き方を構成し直すべきかと思ったが、メンドウなのでそのままにする。

…………


◆カペークァルテットCapet String Quartet ラヴェル




◆エベーヌクァルテット Quatuor EBENE

ーーこの若いクァルテットのヴィオラ奏者の自己主張の強さが好みなのだが(第一ヴァイオリンの呼気がまざまざしく聞こえてきそうなその歌いようはもちろんのこと!)、第一ヴァイオリンが際立つカペー時代にはこういうことは少ない。





◆カペー ドビュッシー弦楽四重奏G





…………

◆カペー ベートーヴェン OP131





ここではあえてほかの著名な演奏楽団のものは貼り付けないが、フレージングやアーティキュレーションなどが、驚くほど「現代的」にわたくしにはきこえる(ポルタメントの古さには耳を塞ぐわけにはいかないが目を瞑ろう)。もちろん第一ヴァイオリン主導であり過ぎる当時のスタイルの翳は色濃く落ちているが、第二ヴァイオリンのなんと素晴らしいこと! それにボウイングの新鮮さ。その飄逸と清澄、高雅と峻厳。媚を排した孤高。これは、大時代的、ロマン派的な演奏スタイル以前の、すなわち第一次世界大戦以前の香気ということか? ディレッタントに過ぎないわたくしには、いわゆる現代的なアンサンブルの妙技といわれるものよりも、こういった演奏のほうがモダン(モダン? いや来るべきモダンといおう)に聞こえてしまう。いや一時期比較的熱心に聴いたアルバン・ベルク四重奏団のアンサンブルの妙技なるものに食傷しているだけなのかもしれないが。(《カペーは良いけれど、今きくと、私にはどうしてもついてゆけない古めかしさがある》(吉田秀和 ベートーヴェン作品131『私の好きな曲』--ワルカッタナ、時代錯誤的で。まあたしかに第一楽章はアンサンブルの妙の楽章だからちょっといけない、かつてここだけ聴いて続けて聴くのをやめたせいで、今までカペーに親しんでいなかった)

当時〔一九一三年から翌年〕パリ中の人々が熱狂し(とはいってもプルーストの関心はそのためにかきたてられたわけではなかったが)、最近編成しなおされたばかりのカペー四重奏団の十八番だったベートーヴェン晩年の四重奏曲に彼は熱中していた。音楽会がすんだのち、プルーストは楽屋に足を運び、率直な、しかし微妙さを欠いてはいない言葉で自分の感動をのべ、カペーを驚かすと同時に魅了した。「ベートーヴェンの天才と演奏者の技倆に関して、あれほど深い洞察を見せた評価を聞いたことはかつてなかった」--のちカペーはそう断言した。(ペインター『マルセル・プルースト』)

『この傑作では、すべてが、完璧で、必然で、変更の余地が全くない』と、この曲(ベートーヴェン 作品 131)について賛辞をおしまなかったのは、晩年の死ぬごく前の、ストラヴィンスキーであった。

ストラヴィンスキーという人は、本当におかしな芸術家だった。二十歳そこそこであの最高のバレエ音楽、特に《春の祭典》を書き上げたのち、バッハに帰ったり、ペルゴレージからチャイコフスキーに敬意を表したりした末、晩年にいたって、ヴェーベルンに「音楽の中心点」を見出すに至ったかと思うと、その後長生した数年のあと、いよいよ死ぬ時をまつばかりとみえたころになって、今度はヴェーベルンも、自分の作品も、もうききたくないと言いだし、みんな投げすててしまい、ベートーヴェンに熱烈な賛辞を呈しつつ、死んでいった。これは、どういうことだろう? もっとも、ストラヴィンスキーは、若いころだってベートーヴェンの偉大さを認めてなかったわけではないと、後年、ロバート・クラフトに述懐しているが、しかし、それもまた奇妙な事情の下で、だった。というのは、彼は、一九二二年《ルナール》の初演のあと、招かれていたパーティでマルセル・プルーストに出会った。

『プルーストは、ストラヴィンスキーとは戦前〔第一次大戦〕すでに知りあいになっていたが、〔このパーティで〕最初に口をきいた時、荒れ模様の初演を終えたばかりの大作曲家に呈する質問としては、もっとも無器用な質問を彼にむけたのだった。―― 「ベートーヴェンはお好きですか?」 ――「大嫌いですよ」――「しかし晩年の四重奏曲などは ……」とプルーストは抗議した。「彼が書いたもののなかで最悪の作品ですよ」とストラヴィンスキーはどなった』(ペインター、岩崎力訳《マルセル・プルースト》)

晩年になって、この時の様子を改めてクラフトにきかれると、こう弁解したのだ。『プルーストは、直接彼のベッドから、例によって、夕方おそく起きて、やってきたのだった。まっさおな顔をして、こったフランス式の服装に、手袋をはめ、ステッキをもっていた。彼は、私に音楽の話をしかけてきて、ベートーヴェンの後期の四重奏曲に対する感激を吐露していた。これは、当時のインテリ文士のきまり文句で、音楽的判断というより、文学的ポーズになっていた。そうでなければ、私も、大いに共鳴するところだったのだ』(ストラヴィンスキー、ロバート・クラフト、吉田秀和訳《百十八の質問に答える》)

本当に、そうかしら? いや、そうだったとしておこう。
だが、彼がプルーストの音楽についての真剣な関心を全くみそこなったのは、これはもう釈明の余地がないのではないかしら。

――― 吉田秀和『私の好きな曲』上  P15-16

プルーストが自宅に呼んで己れのためにのみ演奏させたのは、プルーストの年譜(吉田城作製)によればプーレ四重奏団でとされているが(ガストン・プーレはドビュッシーと親交があった)、これはセレスト(家政婦フランソワーズのモデル)の証言もある。だがAnne Penesco Proust et le violon interieur 書評 安永愛)によれば、《プルーストは、ガストン・プーレ弦楽四重奏団の他に、 リュシアン・カペー弦楽四重奏団にも自邸での演奏を依頼している》とある。ただしセレストは否定しているとする情報もあり、ひょっとして「演奏を依頼している」だけで実現しなかったのかもしれないが判然としない。


この安永愛氏の書評は、プルーストの小説に頻繁にその名が出てくる架空の音楽家ヴァントゥイユ、そのソナタや七重奏曲のモデルをめぐって実に興味ふかいことが書かれており、一読の価値あり。ir.lib.shizuoka.ac.jp/bitstream/10297/7321/1/8-0101.pdf

引用してもいいのだが、断片では誤解を招きそうな個所がある。すなわち今まで一般にはサンサースがモデルとされたり、いやフランクやフォーレだとされたりしてきたが、プルーストは後年サンサースは凡庸な音楽家だと言っているらしい。だが、そのあたりが微妙なのだ。ラヴェルやフォーレの記述個所は除き、サンサースをめぐる個所だけ引用しよう。

ヴァントゥイユのソナタの聴取の記述に最も大きなインスピレーションを与えたものと、プルーストの書簡から読み取られるのは、サン=サーンスのヴァイオリン・ソナタである。しかし奇妙なことに、プルーストはサン=サーンスについて、自分の好みではなく凡庸な作曲家だと、1915年にアントワーヌ・ビベスコ宛ての書簡で述べている。これは一体いかなることなのだろうか。アンヌ・ペネスコは、その答をボードレールについてのプルーストの評論の記述の中に見出している。それによれば、音楽が「有益な夢想」を与えてくれさえすれば、詩人の賞賛する音楽の客観的クオリティは問題ではないというのである。また、プルーストは未完の小説『ジャン・サントゥイユ』の「粗悪音楽礼賛」のくだりでこう述べているという。「粗悪な音楽を嫌悪したまえ、しかし侮ることなかれ。いい音楽以上にうまく演奏したり歌つたりすれば、音楽は徐々に夢と人の涙で満たされる。(中略)粗悪な音楽には芸術の歴史に居場所はないが、社会の情緒の歴史において、その地位は絶大なのだ」と。

サン=サーンスの音楽を「粗悪音楽」とは言い切れないだろうが、良い音楽か否かは間わず、「夢」や「涙」と結びつく音楽であればポエジーの糧になるというプルーストの考え、そして彼が必ずしも好みではない音楽家の作品を『失われた時を求めて』における音楽の記述の発想源としていたというのは、興味深い。

《音楽が「有益な夢想」を与えてくれさえすれば、詩人の賞賛する音楽の客観的クオリティは問題ではない》とは、プルーストの小説のなかで、このブログでもしばしば引用しているとても示唆的な次の文と似たような見解を感じる。

われわれも相当の年になると、回想はたがいに複雑に交錯するから、いま考えていることや、いま読んでいる本は、もう大して重要性をもたなくなる。われわれはどこにでも自己を置いてきたから、なんでも肥沃で、なんでも危険であり、石鹸の広告のなかにも、パスカルの『パンセ』のなかに発見するのとおなじほど貴重な発見をすることができるのだ。(プルースト「逃げさる女」井上究一郎訳)

安永愛氏によれば、ベネスコはプルーストのサンサースの評価を次のように書いている。

プルーストのサン=サーンスのヴァイオリン・ソナタに寄せる思いは、『失われた時を求めて』の語り手がジルベルトに寄せる思いと同じく、初恋のようなものではなかったか、とアンヌ・ペネスコは推測している。プルーストは、やはりサン=サーンスのヴァイオリン・ソナ夕に魅了されていたのだとペネスコは断じる。かつて愛し、離れてしまったものへの、疼くようなやるせない思いが、文学テクスト上のヴァントゥイユの音楽の創出にあずかっていたというのが、ペネスコの見立てである。

音楽だけでなく芸術作品一般において(あるいは男女の愛の対象においてさえも?)、「石鹸の広告」のような作品を愛していても恥じることなかれ! と宣言するつもりはないが、《粗悪な音楽には芸術の歴史に居場所はないが、社会の情緒の歴史において、その地位は絶大なのだ》には相違ない。「社会の」? いや「個人の情緒の歴史」でももちろんよい。これは<対象a>にかかわるのだ。→ 「人間的主観性のパラドックス」覚書

それは、「好き」の次元に属するのではなく、「愛する」の次元には属するものであり、ロラン・バルト用語のプンクトゥムのことと言ってもよい、――刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目、または骰子であり、「私」を突き刺すばかりか、「私」にあざをつけ胸をしめつける偶然。


たいていの場合、プンクトゥムは《細部》である。つまり、部分的な対象である。それゆえ、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる。(ロラン・バルト『明るい部屋』ーーベルト付きの靴と首飾り (ロラン・バルト)

サンサースの作品は、プルーストにとって、己を引き渡すことになってしまうものだったのかもしれない。ひとは己を引き渡すものについて語るときはアンビバレントな愛憎の仮装によってしか語れない。ロラン・バルトは彼の至高のプンクトゥムの写真(母の幼年時代の「温室の写真」)を写真論でもある『明るい部屋』に掲載することを拒む。《「温室の写真」をここに掲げることはできない。それは私にとってしか存在しないのである。読者にとっては、それは関心=差異のない一枚の写真、《任意のもの》の何千という表われの一つにすぎないであろう》(『明るい部屋』)

心を寄せていた異性の名を口にできないのとおなじように、ほんとうに好きな作家、好きだった詩人の名はぜったいに明かせない。(堀江敏幸『河岸忘日抄』)

ーー本来、そうであるはずだ。

ところで、<あなた>はそういう作品をもっているか?

実際、「読書」とはあくまで変化にむけてのあられもない秘儀にほかならず、読みつつある文章の著者の名前や題名を思わず他人の目から隠さずにはいられない淫靡さを示唆することのない読書など、いくら読もうと人は変化したりはしない。(蓮實重彦『随想』)

堀江敏幸がいうような「ぜったいに明かせない」というのは極論だろう。長い生涯において、ふとその名を口に洩らすことがあるだろう、少年が秘密の宝を親しい友と共有するようにして声をひそめてつぶやくことが。だがおおやけの作品にはめったにその名がでてこない。作家や芸術家たちの秘密、場合によっては作家の核心はそこにある。

書物はまさに、人が手もとにかくまっているものを隠すためにこそ、書かれるのではないか。( ……)すべての哲学はさらに一つの哲学を隠している。すべての意見はまた一つの隠れ家であり、すべてのことばはまた一つの仮面である。(ニーチェ『善悪の彼岸』 289番)










2013年7月9日火曜日

知的スノッブたち、あるいは音楽のユートピア (ロラン・バルト)

クラシック音楽の演奏会を聴きに行くひとたちのカテゴリーとして、

①専門家、あるいは専門家を夢見る人たち(教師、学習者、その家族、友人を含め)

②素朴な(古典的な)スノッブたち(ようするにクラシック音楽を好むのが良家の子女の嗜みだと思っているひとたち)

③知的スノッブたち

④非スノッブたち(ロラン・バルトのいう「アマチュア」、あるいは浅田彰のいう孤独な「蛮人」など)

このように今、思いついたが、ほかにもたくさんカテゴリー分けができるかもしれない。


③については、かつて吉本隆明が、浅田彰、柄谷行人や蓮實重彦に対して、他者や外部としての「大衆」をもたず、知の頂を登りっぱなしで降りてこられない(親鸞でいうところの「還相」の過程がない)「知の密教主義者」として、「知的スノッブの三バカ」「知的スターリニスト」と評したことを思い出しておこう。

まあ彼ら三人が、三バカのスノッブかどうかは保留しても、彼らの言うところを批判なしに素直にきいてしまう、ーーすくなくともかつての、そして今でもあやしい<わたくし>のようなーー連中が、③のカテゴリーに属する。《田舎者のひとつの定義は『蓮實重彦に幻惑される人間』だ》(浅田彰)

というわけで、旧世代の知的スノッブを自認するわたくしは、柄谷行人の言葉を素直にきいておこう(いまは別の「知的スノッブの三バカ」がいるのかどうか、知るところではない)。
日本的スノビズムとは、歴史的理念も知的・道徳的な内容もなしに、空虚な形式的ゲームに命をかけるような生活様式を意味します。それは、伝統指向でも内部指向でもなく、他人指向の極端な形態なのです。そこには他者に承認されたいという欲望しかありません。たとえば、他人がどう思うかということしか考えていないにもかかわらず、他人のことをすこしも考えたことがない、強い自意識があるのに、まるで内面性がない、そういうタイプの人が多い。最近の若手批評家などは、そういう人ばかりです。(『近代文学の終り』柄谷行人)

④の非スノッブについては、バルトのアマチュアの定義を掲げよう(バルトを好むなど典型的な「知的スノッブ」であるだろう)。

「「好家アマチュア」(amateur)」(絵や音楽やスポーツや学問を嗜みながら、名人の域をねらうとか勝ち抜こうなどという魂胆はない人)。「愛好家」は、自分の享楽に連れ添って行く(「amator」とは、愛し、そして愛しつづける人、ということだ)。それは決して英雄(創作の、業績の、ヒーロー)ではない。彼は、記号表現の中に「優雅に」(無報酬で)腰を据えている。音楽や絵画の、そのまま決定的な材質の中に落ち着いている。彼の実践には、通常「ルバート」(属性のために物を搾取すること)は一切含まれない。彼は、反ブルジョワ芸術家である―たぶん、いずれそうなるはずである。(「ロラン・バルトと音楽のユートピア   安永 URL http://hdl.handle.net/10297/5471より)

浅田彰の<孤独な「蛮人」>については、以前にも引用したが、次の通り。

シネフィルに代表されるような限定された興味と趣味の共同体の内部で、最新流行の「センスのいい映画の見方」(蓮實重彦経由の古い映画の見方も含めて)を、あるいは「天皇の語り方」を追いかけていこうとするスノビスムが、作品に負のバイアスをかけているということ、むしろ、作家はそういうスノッブであることをやめ、孤独な「蛮人」になるべきだということである。金井美恵子がこう言った、浅田彰がそれにこう反応した、などという根も葉もない下らぬ噂話にうつつをぬかすのは、閉ざされたスノッブ村の「土人」でしかない。

この発言の変奏として、いくつかの文をここに付け加えよう。

・ギュスターブ(フローベール)のように書くことの無根拠と戯れる愚鈍さ。無知に徹することで物語を宙に迷わせること。この凡庸な時代に文学たりうる言葉は、何らかの意味でその種の愚鈍さを体現している。(蓮實重彦)

・フローベールは、カテゴリー的認識の崩壊を代償とすることで初めて得られるこうした無媒介的な官能の豊かさ(松浦寿輝)

・フローベールによると、小説家とはその作品の背後に身を隠したいと思っている者のことです。(クンデラ)

・私が理想とする音楽の聴かれかたは、私の音が鳴って、そのこだまする音が私にかえってくる時に、私はそこに居ない――そういう状態。(武満徹』)


グールドは同類とのコミュニケーションを拒否したが、 それはただコミュニケーションではないもの、「コミュニケーションの時代」 という名のもとに売られるあの空虚な文句に対する拒否反応だったのだ。 彼の孤独は、 個々の人間とその孤独において結合するための手段だった。 グールドがわれわれに示したのは、 彼を聴こうとするとき、 もはやそこに彼はいないという恥じらい、あるいは友愛だった。(シュネデール)

ーーもっとも、この類の「芸術家」の孤独の称揚については、そのまま信じ込むのではなく、ときには疑いをもったほうがいいだろう。


創作の全過程は精神分裂病(統合失調症)の発病過程にも、神秘家の完成過程にも、恋愛過程にも似ている。これらにおいても権力欲あるいはキリスト教に言う傲慢(ヒュプリス)は最大の陥穽である。逆に、ある種の無私な友情は保護的である。作家の伝記における孤独の強調にもかかわらず、完全な孤独で創造的たりえた作家を私は知らない。もっとも不毛な時に彼を「白紙委任状」を以て信頼する同性あるいは異性の友人はほとんど不可欠である。多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している。逆に、それだけの人間的魅力を持ちえない、持ちつづけえない人はこの時期を通り抜けることができない。(中井久夫「創造と癒し序説」——創作の生理学に向けて)


ヴァレリーが次のように書いたのは、フィクションのなかの話である(もとより示唆は多いが)。



すぐれた人と呼ぱれる人は自分を欺いた人である。その人に驚くためにはその人を見なければならない――そして、見られるためには姿を現わさなけれぱならない。かくしてその人は自分の名前に対する愚かな偏執にとりつかれていることをわたしに示すのだ。そのように、偉人などといわれる人はすぺて一つの過誤に身を染めた人である。世にそのカが認められるような精神はすぺて己れを人に知らせるという誤ちから出発する。公衆から酒手をもらうのとひきかえに、彼ぱ己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消する。そしてついには栄光を求めて演じられるこうしたぶざまな演技を、自らを他に類例のない唯一無二の存在と感じる喜ぴ――大いなる個人的快楽―――になぞらえるにいたるのだ。

そこでわたしは夢想した。もっとも強靱な頭脳、もっとも明敏な発明家、思考のなんたるかをもっとも正確に認識している人々はすべからく無名の人であり、己れを惜しみ、己れを語ることなく死んでゆく人でなくてはならい、と。そうした人々の存在にわたしの目が啓かれたのは、ほかならぬ、やや志操の堅固さに欠けるがゆえに、名声が赫々として世に現われた人々の存在そのものによってである。(ポール・ヴァレリー『テスト氏との一夜』




「知的スノッブ」については、プルーストの「ソドムとゴモラ」の巻に、カンブルメール夫人をめぐってのすばらしい素描がある。

カンブルメール=ルグランダン夫人は海をながめて会話にそっぽを向いた。彼女は姑が愛しているような音楽は音楽ではないと考え、姑の才能を、実際には世間が認めているもっとも顕著なものであったのに、自己流のものであると解し、興味のない妙技にすぎないと考えていた。現存するただひとりのショパンの弟子である老婦人が、師の演奏法、師の「感情」は、自分を通して、嫁のカンブルメール夫人にしかつたえられなかった、と公言していたのはもっともであったが、ショパンの通りに演奏するということは、このポーランドの作曲家を誰よりも軽蔑しているルグランダンの妹には、参考とすべきことからは遠かった。(プルースト「ソドムとゴモラ Ⅰ」井上究一郎訳 p365-366)
そのドビュッシーは、彼女自身が数年経ってからもそう考えていたほどそんなにワグナーからとびはなれていたわけではなかった、それというのも、われわれが一時的に征服されていた相手から自由になって、これを完全に凌駕するには、やはり相手が征服に使った武器をふたたびとってやるよりほかないからなのである、しかしそれにしてもドビュッシーは、表現の十全な、あまりにも完成された作品にたいして、人々が飽きはじめていた時期のあとで、それまでとは反対のある欲求を満足させようとつとめていたのであったが、カンブルメール若夫人はそういう事情を認識していなかったのだ。p367
私はわざわざ彼女の姑に話しかけながら、ショパンは流行おくれになっているどころか、ドビュッシーがとくに好んでいる作曲家であると告げた。「おや、それはおもしろいじゃありませんか」と嫁は微妙な笑顔で私にいった、そんなことは、『ペレアス』の作者が投げつけた逆説でしかない、とでもいうように。それでも、もういまからは、彼女は尊敬のみか快楽をさえ抱いてショパンをきくであろうことはたしかだった。だから、私の言葉は、未亡人にとっては解放の鐘を鳴らしたことになり、彼女の顔に、私への感謝と、とりわけ歓喜とのまじった、一種の表情を浮かべさせた。p368
……『ペレアス』がひきおこした賞賛によって恩恵を受けながら、ショパンの作品は、ふたたび新しいかがやきを見出したのであった、そして、それをききなおさないでいた人たちまでが、どうしてもそれを好きになりたくなり、自分の自由意志からではなかったのに、そうであったような幻想にとらえられて、それを好きになるのであった。(プルースト「ソドムとゴモラ Ⅰ」 p368-369)

――最後の文については、これだけ抜き出しただけではすこし分りにくいので末尾にもう少し長く引用する。

あるいは「見出された時」には、こうある。

……カンブルメール夫人が、「再読すべきだわ、ショーペンハウアーが音楽について述べていることを」といっているのを耳にはさむと、彼女ははげしい口調でこう言いながらその文句に私たちの注意をうながした「再・読とは傑作ねえ! 何よ! そんなもの、とんでもない、だまそうとしたってだめなの、私たちを」老アルボンはゲルマントの才気の形式の一つを認めてにっこりした。(プルースト「見出された時」井上究一郎訳 文庫 P532

クラシックの演奏家が戦略的に振舞うのなら(売れることを目指すなら)、こういった「知的スノッブ」を相手にするかどうかで、その「レパートリー」や「スタイル」が変ってくるだろう。声の大きいのは彼らであるには相違ない。ということは戦略的に振舞うのであれば、彼らが一番重要だ。

たとえば④の「アマチュア」を顕揚するバルトは、「不思議なことに、演奏会の経験を語らない。彼が語るのは、自らピアノの鍵盤に触れた経験か、音盤に耳傾けた経験か、あるいは声楽の師パンゼラのことである。」(安永愛)

①②のカテゴリーのひとの発話は、仲間内へ向けてなされることが多く、影響力がすくない。


…………

さて、さきほどバルトの「アマチュア」の定義を安永愛「ロラン・バルトと音楽のユートピア  」から引用したが、安永愛さんは、地道なヴァレリーの研究者でありつつ、裏社会の日本史 フィリップ ポンス、Philippe Ponsなどの地味な翻訳もあり、あるいはロラン・バルト、クンデラをめぐる小論、あるいはヴァレリーに絡んで中井久夫の著作にも言及がある。つまり、わたくしのスノビッシュな感性を刺激する女性であり、結婚前の黒田愛名の論文からひそかに読んでいるのだが、ここでその彼女の言葉に耳を傾けてみよう。

バルトは1954年に発表された『神話作用』の中で、フランスを代表するバリトン歌手であるジェラール・スゼーの歌唱について「ブルジョワ的声楽の芸術」の称号を奉ったことがある。バルトは、スゼーの歌唱について、「感情ではなく、感情のしるしをたえず押しつける」という言葉使いで断じている。バルトによれば「ブルジョワ芸術」の特徴とは、聴衆を洗練されない馬鹿正直者としてとらえ、理解されないことを恐れ、表現を噛み砕き意図を過剰なまでに指し示す、というところにあり、スゼーの歌唱は、まさしく「ブルジョワ芸術」の典型である。

ここにある「感情ではなく、感情のしるしをたえず押しつける」は、クンデラの「ホモ・センチメンタリス」の定義を想起させる。

ホモ・センチメンタリスは、さまざまな感情を感じる人格としてではなく(なぜなら、われわれは誰しもさまざまな感情を感じる能力があるのだから)、それを価値に仕立てた人格として定義されなければならない。感情が価値とみなされるようになると、誰もが皆それをつよく感じたいと思うことになる。そしてわれわれは誰しも自分の価値を誇らしく思うものであるからして、感情をひけらかそうとする誘惑は大きい。(『不滅』――ホモ・ヒステリクス(クンデラ、ロラン・バルト)

あるいは、「聴衆を洗練されない馬鹿正直者としてとらえ、理解されないことを恐れ、表現を噛み砕き意図を過剰なまでに指し示す」などすれば、すぐさまカンブルメール夫人の苦りきった嘲笑の顔が浮んでくる。つまり「知的スノッブ」たちの格好の餌食となってしまう。

ここでロングショットの作家として知られるアンゲプロスが「モンタージュ」について語る部分を挿入しよう。《観客である人間の聡明さというものに対する信頼のなさをしめす》と語る彼の言葉を。



モンタージュによる映画を見ていて私が苛立つのは、それは二つの画面の相互介入といった衝撃の上に成立しているのですが、そのとき、その画面を指差して、ほら、このイメージをよく見なさいといった押しつけの姿勢が感じられることです。つまり、強調という作業が行われているわけで、それは、私にとっては、観客である人間の聡明さというものに対する信頼のなさをしめすものであるような気がする。観客を、ちょっと子供のようなものとして扱い、さあ、これに注目しなさいといっているようなものです。ワンシーン・ワンショットの映画では、見る人間の知性と感性とにより多くの自由を残そうとしています、ひとつの画面にあって、観客は、そのしかるべき要素を自分で発見し、自分でそれを組織だててゆく。その時間的推移は、モンタージュにおけるよりはるかに現実の時間に近い。そうすることで、死んだ時間、停滞する時間に対する観客の感性を豊かなものにすることも可能になります。
……
───そのことはとてもよくわかり、まさにそうした点においてあなたの映画に興奮するわけですが、そうした場合、あなたは、観客を全面的に信頼しておられるのですか。

観客にはいろいろ種類があります。アンドレ・マルローが「映画の心理学」でいっているように、映画にとっての障壁が産業であるなら、それによってわれわれは条件づけられてしまう。それはよかろう。だとするなら、選択しなければならない。その一つは、映画を撮りはするが、いつか沈黙におしやられはしないかという危険をいつでも身に感じながら撮り続けるという姿勢をとるか、それとも、いま一つの姿勢として、他の誰もが撮るようなやり方で、つまりモンタージュの映画か、説話論的有効性の映画、等々もつくってゆくことにするか、その二つに一つしかない。つまり、沈黙に向かうか、金銭に向かうか、その選択ということ以外にありえないわけですが、どうでしょうか、ある作家たちは、こうした二つの方向を厳密に選択することなく、複雑な経路をへながらも、みごとな作品を撮り続けることができる。おそらく、私には、そうしたことはできないと思う。しかし、私はそれで他人を批判しようとは思いません。あらゆる批判は自分自身にむけられます。(蓮實重彦『光をめぐって』の「二十世紀の夢を批判的に考察したかった」より)

ーー引用者注:ここでの「ある作家たち」のなかのひとりに、ゴダールが念頭におかれているのは間違いないだろう。日本でいえば、この「ある作家」のカテゴリーに、詩人の谷川俊太郎が間違いなく入る。


もっとも、現在、アンゲプロスの態度は通用しない時代なのかもしれない。

北野:うん。結局今の時代ってさ、テレビを観てても、お笑いの奴が喋ってる言葉がわざわざ吹き出しテロップで出てくるじゃない? 耳の不自由な方は別だけどさ、「え? そこまで丁寧なの?」っていう感じがあるんだよね。そういう時代だから、後姿や背中でものを言うなんて時代じゃないのかな、って思うよね。

―なるほど。

北野:登場人物が相手をじっと睨んでて、映画を観てる人に「あ、こいつ絶対復讐を考えてんだな」なんて思わせるような間を作ることができなくなってきてる。「てめえ、殺すぞ」って言った方がいい。特に『アウトレイジ ビヨンド』では登場人物も多いし、ストーリーも入れ込んでるから、喋らせないと映画が長くなって収まり切らないし。これまでのような間を作ってると、前編・後編にしないとちょっと収まらないかなっていう。(北野武が語る「暴力の時代」


さて、安永愛論文の引用に戻る。

 

 
バルトにとって、音楽のアマチュアであるということは、プロフェッショナルか、アマチュアかという二項対立の社会的・職業的カテゴリーと必ずしも一致するものではない。事実バルトは、歴とした職業的ピアニストの演奏に「アマチュア」芸術を見出している。「アマチュア」芸術とは、バルトにとっては、究極といってよい賛辞なのであり、「アマチュア」芸術の名に値するのは、彼が師事した声楽家のシャルル・パンゼラや、若くして亡くなったルーマニアのピアニストのリパッティらに限られている。バルトによれば、表現の素材(音楽においては音)に沈潜し、その素材との戯れの只中から僥倖のように「表現」をもたらしてしまうといった演奏家のみが「アマチュア」芸術家の名を冠しうるのである。しかし、弾く者と聴く者とが分断され、「プロフェッショナル」が聴き手を圧倒することが当然とされてしまった現代においては、そうしたタイプの演奏家は非常に希少な存在になってくる。
バルトが「アマチュア」を「反ブルジョワ的芸術家」として捉えるのは、演奏と聴取の行為が分断され、音楽が受動的に消費されるものになってしまった現代社会において、演奏と聴取の両者に携わり、受動的消費に留まらない音楽との関係性を持ち続ける存在であると見たからであろう。現代フランスを代表する作曲家であるピエール・ブーレーズは、バルトのこの「アマチュア」に関する思考を、現代の音楽の置かれた状況を考えるにあたって見過ごせない視点であると見て、『クリティック』誌のバルト追悼特集に寄せ、「アマチュアの位置15」と題する短い論考を残している。
15)Pierre Boulez « Le statut de lʼamateur », Critique, août-septembre 423-424, Edition du Chêne, pp.662-665.
 バルトは、フランス文化省の肝入りで創設され、ピエール・ブーレーズを中心として組織された現代音楽センターであるIRCAMの活動に、ミシェル・フーコーやジル・ドゥルーズと共に参与し、現代音楽を考えるにあたってのテーマのリストに「現代音楽における「アマチュア」の位置」の問題を取り上げるようにと提案していた。この視角は、ブーレーズにとって、全く虚をつかれるものであったという。ブーレーズは、現代音楽は高度な専門的・技術的達成を前提としているものであり、バルト的な「アマチュア」的な愉楽と容易に馴れ合えるものではないとの見解を持しているが、そうであるからこそ、バルトの指摘にインパクトを受けたのであろう。このブーレーズの小論は、バルトの見解を単に稚拙として嘲弄するものではなく、思いもかけない視角からの問題提起をしたバルトへの一種の畏敬の思いがにじみ出た追悼の一編となっている。

こうして安永愛は、ロラン・バルトの「音楽のユートピア」を次のようにまとめている。


① 勝ち抜こうとか、極めようとかいう魂胆とは無縁に、芸術の素材との接触の歓びのままに導かれるアマチュア性の重視。資本や名誉のゲームと無縁な営みへの共感。

② 孤独と内面性の重視。

③ 性役割や家族幻想からの解放への欲求。

④ コード化された社交空間の軽視。

⑤ 真率なる愛の空間への欲求。



いずれにせよ、《

昨今の西洋音楽のコンサート形式はもうすぐ終焉を遂げるだろうという、漠然とした予感を抱いている。名匠に憧れる素朴な愛好家たちも、もうすぐ消滅してしまうだろう》「音楽のアマチュア」四方田犬彦)とされるとき、ーーこの類の見解は、高橋悠治が三十年以上前から語っているのだが、--そのとき演奏家が戦略的に振舞うとはどういうことなのか(明日の飯のためではなく、十年後、二十年後に音楽のユートピアにすこしでも近づく戦略として)。やはり従来のコンサート形式とは異なった形式にまなざしを向けることが必要なのだろう。

音楽なんか聴かなくても生きていける。メッセージがあるとすれば、そういうことだ。クラッシク音楽が、聴き手にとってはとっくに死んだものであることに気づかずに、または気づかぬふりをして、まじめな音楽家たちは今日もしのぎをけずり、おたがいをけおとしあい、権力欲にうごかされて、はしりつづけている。音楽産業はどうしようもない不況で、大資本や国家が手をださなければなりたたないというのに、音楽市場はけっこう繁栄している。これほどのからさわぎも、そのななから、人びとにとって意味のあるあたらしい音楽文化をうみだすことに成功してはいない。(高橋悠治「讀賣新聞 1982年10月21日付け夕刊のグールド追悼記事」)

東京に暮していて 音楽を語ることはない
こんなにたくさんの音楽家がいて
音楽することに何の意味があるのか
だれも知らない
それとも言いたくないのか
若い音楽家たちとなら
いっしょに音楽することができると思ったのも
幻想に過ぎなかった
若いのは外見だけでほとんどは
いまなおヨーロッパの規範に追随して技術をみがき
洗練されたうつろな響を
特殊奏法やめずらしい音色や道化芝居でかざりたてて
利益と地位だけが目当てのものたちばかりだった
いまコンサート会場に音楽はない
きそいあう技術や書法や確信にみちた態度
持てるものがもっと持ちたいという欲望
そのための神経症的な努力  

ーー高橋悠治「音の静寂静寂の音(2000)」より



観客を最終的にヴィルトゥオーシテによって魅了するというコ ンサートやレコーディングによる一種の最終目的は、近代スポーツにあてはめればちょうど勝利という感覚によって対応するようなものになる。
たとえば「音楽家」という職業がどういうふうに 人々の間に生きてるかといえば、まさにいま悠治さんが言われたような、人々が親密に集まってくるような場にふと現われてひとしきり密度の濃い音楽をやるよ うな人のことですよね。
「音楽の時間」―高橋悠治・今福龍太 音楽を句読点とした対話―


もしかりにこれらの発言をする高橋悠治が、現在の「知的スノッブ」の信奉する対象だとすれば(いまではそういうことは少ないのであろうが)、従来型のコンサート形式に拘りつづけている演奏家や客は、カンブルメールの嘲笑の餌食であり、カマンベールのように臭う対象である。(まあ、そうはいっても高橋悠治は、最近でも従来型のコンサートで演奏することもあるのではなかったか?)





…………



最後に、上に一部を引用したプルーストを約束どおり、もうすこし長く引用する。

証券取引所で一部の値あがりの動きが起きると、その株をもっているグループの全体がそれによって利益を受けるように、これまで無視されていた何人かの作曲家たちが、この反動の恩恵を受けるのであった、それは彼らがそのような無視に値しなかったからでもあるし、また単にーーそんな彼らを激賞することが新しいといえるのであればーーただ彼らがそのような無視を受けたからでもあった。さらにまた人々は、孤立した過去のなかに、何人かの不羈独立の才能を求めにさえ行くのであった、現在の芸術運動がそれらの才能の声価に影響しているはずはないように思われたのに、新しい巨匠の一人が熱心に過去のその才能ある人の名を挙げるといわれていたからであった。それはつまり、一般に、誰でもいい、どんな排他的な流派であってもいい、ある巨匠が、彼独自の感情から判断し、自分の現在の立場を問わずにどこにでも才能を認めるということ、また才能とまでは行かなくても、彼の青春の最愛のひとときにむすびつくような、彼がかつてたのしんだ、ある快い霊感といったものを認めるということ、しばしばそういうことによるのであった。またあるときは、自分でやりたかったと思ったことにあとでその巨匠が次第に気づくようになった、そんな仕事に似た何かを、べつの時代のある芸術家たちが、何気ない小品のなかですでに実現していた、ということにもよるのである。そんなとき、その巨匠は、古い人のなかに先覚者を見るのであって、巨匠は、べつの形による一つの努力、一時的、部分的に自分と一心同体の関係にある努力を、古い人のなかで愛するのである。プッサンの作品のなかにはターナーのいくつかの部分があるし、モンテスキューのなかにはフローベールの一句がある。そしてときにはまた、その巨匠の好みが誰それであるといううわさは、どこから出たとも知れずその流派のなかにつたえられた一つのまちがいから生まれたのだ。しかし、挙げられた名がたまたまその流派の商号とちょうどうまくだきあわされてその恩恵を受けることができたのは、巨匠の選択には、まだいくらかの自由意志があり、もっともらしい趣味もあったのに、流派となると、そのほうはもう理論一辺倒に走るからなのである。そのようにして、あるときはある方向に、つぎには反対の方向に傾きながら。脱線しそうになって進むというそんな通例のコースをたどることによって、時代の精神は、いくつかの作品の上に天来の光を回復させたのであって、そうした諸作品にショパンの作品が加えられたのも、正当な認識への欲求、または復活への欲求、またはドビュッシーの好み、または彼の気まぐれ、またはおそらく彼が語ったのではなかった話によるのである。人々が全面的に信頼感を抱いていた正しい審判者たちによって激賞され、『ペレアス』がひきおこした賞賛によって恩恵を受けながら、ショパンの作品は、ふたたび新しいかがやきを見出したのであった、そして、それをききなおさないでいた人たちまでが、どうしてもそれを好きになりたくなり、自分の自由意志かれではなかったのに、そうであったような幻想にとらえられて、それを好きになるのであった。(プルースト「ソドムとゴモラ Ⅰ」 p368-369


 ーーすこしこの「スノッブ」にかかわる投稿を断続的に重ねたが、とうめん、これで打ち切りにするつもり。



追記:カンブルメール=ルグランダン夫人の叔父であるスノッブの鑑のようなルグランダンの描写もつけ加えておこう。
「もう何度も奥方さまを訪ねてお見えになった例のかたでございます。」(……)うるさがられている先刻の訪問客がはいってきて、無邪気さと熱意のこもったようすでヴィルパリジ夫人のほうにまっすぐあゆみよった、それはルグランダンであった。p202
私はすぐにルグランダンに挨拶の言葉をかけに行きたかった、しかし彼は私からできるだけ離れた位置をずっとまもりつづけているのであった、察するところ、大いに凝った表現でヴィルパリジ夫人にやたらにふりまいているお追従を私にきかれたくなかったのであろう。(……)

……私はルグランダンのほうにあゆみよった、そして彼がヴィルパリジ夫人のところに顔を出しているのをすこしも罪悪と思わなかった私は、自分がどんなに彼を傷つけようとしているかを知らず、またどんなに傷つける意図があるように彼を思いこませるおそれがあるかをも知らずに、こういった、「これはこれは、あなたをサロンでお見かけするからには、ぼくがサロンに顔を出すのはゆるされていいというのも同然ですね。」ルグランダン氏は私のこの文句から結論したのだった(すくなくとも数日後に私の上にくだした彼の判断はそうだった)、私が悪にたいしてしかよろこびを感じない心底からいじわるのちんぴらであると。

「こんにちはの挨拶からはじめる礼儀ぐらいは心得ていてもらいたいものですね」と彼は手もさしのべず、腹立たしげな下品な声で私に答えた、その声はいままでの彼からは想像もつかない声であり、ふだんの彼の口調との合理的関係は何もなく、彼がいま身に感じている何物かとの、いっそう直接的な、いっそう切実なべつの関係につながっていたのだ。それというのも、われわれが身に感じている事柄をあくまで人にかくそうときめるとき、われわれはまずそれをどんな方法で人に言いあらわそうか、などと考えることはなかったからだ。だから、突如として、われわれの内部に、醜悪な見知らぬ獣が声をあげ、その語調が、無意識に出てくる告白を受けとる相手に、恐怖をあたえることにもなりかねないのであった、そのような告白は、多くは自分の欠点や悪徳の、省略化された、ほとんど抗しがたい、無意識のあらわれで、あたかも殺人犯が、犯行を知らない人に、罪を告白せずにはいられなくなり、急に間接的な奇妙なやりかたでしゃべりだす、そんな自白とおなじような恐怖を、きく人にあたえるのだ。むろん私は、観念論、いかに主観的な観念論も、大哲学者に、美食家で通すさまたげをしないし、執拗にアカデミーに立候補するさまたげをしないことをよく知っていた。それにしてもルグランダンは、憤りやお愛想にひきつれる彼の運動神経のすべてが、この地上でよい地位を占めたいという欲望にあやつられていたのであってみれば、自分はべつの遊星に属する人間だなどとあんなにしばしば人のまえで念をおす必要はまったくなかったのである。

「そりゃね、私のように、どこそこにこいとつづけざまに二十度もうるさくせめたてられたら」と彼は低い声でつづけた、「たとえ自分の自由をまもる権利はあっても、やっぱり無作法な田舎者のようなふるまいはできませんからね。」(プルースト「ゲルマントのほう Ⅰ」p264~)