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2014年2月14日金曜日

同調圧力文体

なにがいいたいだって?

《「です、ます」調で書かれた文は、相手にそれとなく同調を迫り、相手を自分のペースに巻き込んで、うやむやのうちに同調させようという圧力を持つと私は思う。「です、ます」調の文に対しては批評意識が働かせにくい。》(中井久夫)

ですます調だけとは限らないけどさ
同調圧力文体で書くのなら
むしろ上からの目線文体のがましだぜ
ってことさ
上からの目線だったら反発できるけど
同調圧力文体は抵抗しがたいから
気色わるいぜってことだよ
オレにいわせれば諸悪の根源だね

ほかにも挫折した「アーティスト」の物語
そのメロドラマの悪臭の気配が
オレの鼻腔には臭ってきたが
これは気のせいかもな

《日本という風土にはこの不自然さを蔓延させるものが絶えず漂っている》(蓮實重彦『反=日本語論』)
だよな




《日本人は相手のことを気にしながら発言するという時、それは単に心理的なものである以上に、人間関係そのもの、言語構成そのものがそういう構造をもっているのである。》(森有正)

《日本人あるいは日本文化の特性を見ようとする場合、それを意識あるいは観念のレベルではなく、言語的なレベルで見ればよい》(柄谷行人)


《……いまさらながら、日本語の文章が相手の受け取り方を絶えず気にしていることに気づく。日本語の対話性と、それは相照らしあう。むろん、聴き手、読み手もそうであることを求めるから、日本語がそうなっていったのである。これは文を越えて、一般に発想から行動に至るまでの特徴である。文化だといってもよいだろう。》(中井久夫)


2014年2月6日木曜日

悪霊の看護婦、あるいは最も淫らな強迫観念

先日妻の郷里への小旅行に『悪霊』の文庫本を携え何年かぶりで読み返した。ドストエフスキーの作品のなかでは好みのもののひとつでたぶん四五度目くらいの再読だ。メコン河岸で椰子の林のあいだに吊られたハンモックに揺れながら、あるいは高床式の家の板の間でテト祝いの酒と馴れ鮨に舌鼓をうちながら思いのほか熱中して読む時間をもった。

ところで『悪霊』のダーリヤという女はドストエフスキーの妻がモデルではないだろうか。伝記的事実には疎いながら、そしてインターネット上ですこし調べてみてもそんな見解は見当たらないのだが、帰宅して朧な記憶を探るようにして小林秀雄の『ドストエフスキイの生活』を繙いてみると、二番目の妻アンナ・グリゴリエヴナ・スニトキナはドストエフスキーの速記者としての仕事を与えられて知り合っているのだが、結婚後ドストエフスキーの一文無しになるまでやめられない賭博癖による生活の窮迫、あるいは先妻や逝去した兄の残された家族への過剰ともいえる心配り、たとえば兄の妻の外套を受け出すために外套を質に入れるなどということまでして驚くほどの「献身さ」である。結婚披露宴での癲癇の発作の騒動のあと、旅先から友人宛の手紙にはこうある。

僕の性格は元来病的なのだから、彼女も僕の様な男と一緒になつたら、いろいろ苦労するだらうとも思つてゐた。実際彼女は僕が考へてゐたよりずつと強い女だ、深い心を持つた女だといふ事が解つて来た。随分いろいろな事に出会つて僕の守護神となつてくれた。が、同時に彼女のなかには、何しろ廿歳の女なのだから、子供らしいところが沢山ある。成る程美しいものだし、必要なものだが、僕としてはどう応対したらいいか見当がつき兼ねる。とまあさういふ様な事は出発の際考へとゐた事だ。くどい様だが、彼女は考へてゐたより遥かにしつかりした善良な女だ。併し未だ安心はならない」(1867年、8月16日、ジュネエヴよりマイコフ宛)

もちろんドストエフスキーの創造した人物は、それぞれになんらかのモデルがあるのだろうし、アンナがそのままダーリヤだということはありえない。重婚策略者、幼児強姦者のスタヴローギンの看護婦志願をするダーリヤだけでなく、ステパン氏を「献身的に」世話するワルワーラ夫人のなかにもアンナがいるのだろう。


文学者はひとたび書けば、その作中の諸人物の、身ぶり、独特のくせ、語調の、どれ一つとして、彼の記憶から彼の霊感をもたらさなかったものはないのである。つくりだされた人物の名のどれ一つとして、実地に見てきた人物の六十の名がその下敷きにされていないものはなく、実物の一人は顔をしかめるくせのモデルになり、他の一人は片めがねのモデルになり、某は発作的な憤り、某はいばった腕の動かしかた、等々のモデルになった。(プルースト「見出された時」)


以下は雑然と引用を中心にメモしたものだが、あまりにも長くなったのでひとつのまとまりのようなもの、小節ごとにのちほど節題をつけた。節題と内容があまり合致していないかもしれないが、気にしないでおこう。




【理論を通して読むことの不毛】

《人間の心理について教えてくれた最大の心理学者》とドストエスフキーを呼ぶニーチェの言葉や《ドストエフスキイは、精神分析学が発見した真理を半世紀前に語っている》(ノイフェルト)などの言葉が粗雑に濫用されて、一時期、とくに前世紀中葉前後、ドストエフスキーを心理分析の極致のテキストとして、あるいは精神分析学的観点から論ずる批評が流行したのは周知のことだが、その反動として--これはなにもドストエフスキーに対してだけでないがーー、偉大な文学者のテクストを精神分析理論によって読み解くなどという「厚顔無恥」の跳梁跋扈にうんざりしてみせるのが「文学通」の証しだった時期がある。

小説のなかでさえ、たとえばマンディアルグの『海の百合』Le Lis de mer1956年)はとても繊細な詩的なテキストであるにもかかわらず、その小説の最後に、主人公の性癖が、精神分析理論によって説かれたりすれば、その図式的な物語的落とし込みに興醒め感を覚えてしまう(いやそのようなふりをして見るだけでもいい)。そんな類の小説には、たいした小説読みではないわたくしも何度も廻り合っている。そしてここぞとばかりに書斎でひとり顔を顰めてみせたり、仲間内で仄めかして気取ってみせるのが、小説読みとしての「イキ」な振舞いだと夜郎自大な錯覚に閉じこもりえた「幸福」な時代をわたくしはもったことがある。

理論、とくに精神分析理論を通して文学を読むことを忌避する反動期には、あれらの「はしたなさ」をひとはつとめて避けるようになっていたはずだ。むしろ理論は文学によって読まれるべきだーー《批評は小説の解読装置ではない、小説こそが装置である》(蓮實重彦『闘争のエチカ』「あとがき」)――という態度がすぐれた小説への「誠実な」接し方であるとするのが二十世紀後半の「よき」読み手の、すなわちいささか聡明なふりをしたいスノッブたちの姿勢であっただろう。


【ドストエフスキー嫌いのナボコフ】

かつてとてもよく読まれたドストエフスキーだが、その神話的讃仰はいつのまにか消え失せている(もっともそれは古典文学全般にいえることかもしれない)。小林秀雄が批評家であった時代、あるいはその名残りが覚めやらない頃、すなわち大学入試の試験問題にしばしば小林秀雄のテキストが使用された時代には、小林秀雄がもっとも力を入れて批評した対象のひとりであるドストエフスキーにたいして、文学に関心のないものまでが素朴な崇拝、あるいはその心理描写の見事さに讃嘆してみせるなどということがあった。

ここですこし寄り道して、ドストエフスキーを二流の作家とするナボコフの主張を取り上げてみよう。


私たちは『感傷性』と『感受性』とを区別しなければならない。感傷的な男は暇な時間には全くの野獣になりかねない。感受性の豊かな人間は決して残酷な人間ではない。……ドストエフスキーを 感傷的な作家と呼ぶ場合、それは、読者の側に因襲的な同情の念を機械的に惹起しようと、 ありふれた感情を非芸術的に誇張する作家、という意味なのである。(ナボコフ『ロシア文学講義』)
ドストエフスキーに関する私の立場は、奇妙であり、また厄介である。この講義のすべてにおいて、 私は文学に興味のある唯一の観点から──すなわち永続する芸術と個人の才能という観点から文学を 見るのだが、そのような観点からすれば、ドストエフスキーは偉大な作家ではなくてむしろ凡庸な 作家であり、時たま絶妙なユーモアの閃きがあるとしても、悲しいかな、閃き以外の場所は大部分が文学的決り文句の荒野である。(同上)


《ナボコフはチェーホフを高く評価し、彼が他のロシア作家に与えた評価としてはトルストイのAプラスに次ぐAをプーシキンとチェーホフに与えている。他の作家の評価は、ツルゲーネフがAマイナス、ゴーゴリがB、ドストエフスキイはCマイナス(かDプラス)で、「チェーホフよりもドストエフスキイが好きな者にはロシアの生活の本質は決して理解できないだろう」とウェレズリー大学の女子学生たちに話していた》(Hannah Green, "Mister Nabokov)。

ナボコフのドストエフスキイ嫌いは、作家の繊細な詩的表現を小説の要とする彼の評論や小説からも窺われないではない。チェーホフの『犬を連れた奥さん』における恋の発端としての柄付眼鏡(ローネット)の描写を慈しんだり、アンナ・カレーニナ講義のナボコフのなんという細やかな指摘よ(参照:PDF 霜の針、蝋燭のしみ―― 『アンナ・カレーニナ』を読み直す―― 若島正 )。たしかにドストエフスキーにはこういった描写は稀にしかない。

たとえば、ナボコフの初期の作品『恩恵』の次の叙述は、ピアニッシモの音楽に耳をすますようにして読むことを促す。
電車が停まるたびに、上のほうで風にもがれたマロニエの実が屋根にあたって音を立てるのが聞こえた。コトン--そしてもう一つ、弾むように、やさしく、コトン……コトン……。路面電車は鐘を鳴らして動き出し、濡れた窓ガラスの上で街灯の光が砕け散り、ぼくは胸を刺し貫く幸福感とともに、その穏やかな高い音が繰り返されるのを待った。ブレーキの響き、停留所--そしてまた一つ、丸いマロニエの実が落ちた--つづいて二つめが落ち、屋根にぶつかり転がっていった。コトン……コトン……。(ナボコフ『恩恵』)

これらはドストエフスキーの作家の資質とは異なり、ーーすべての作品を念入りに読んだわけではないわたくしにとって、という保留はしつつもーー、まったくめぐり合ったことのない詩的描写のように感じられる。そもそもナボコフはドストエフスキーには「描写」がすくないという主張さえしている。
ここでの「描写」という語の扱いには注意を要するが(たとえばドストエフスキーには心理描写はふんだんにあるではないかという問いはすぐさま生じるだろう)、ナボコフが愛でる多くの描写は、予感や余韻の感覚であるように思う。もっともたとえばカフカの『変身』の昆虫学的叙述に偏執するナボコフは徴候感覚を愛でるのとはまったく別の「描写」を愛する側面をもっている(参照:ナボコフによるカフカ『変身』の昆虫学的分析──「それはゴキブリではありえない!」)。

そもそもわたくしはプルーストのいうようなドストエフスキーの住まいの創造の「描写」をいまだ十分に読みとっている自信はない。

ドストエフスキーがこの世界にもたらした新しい美に立ちもどっていえば、フェルメールの絵で、布地の配合や物の所在する場所について、ある独特の魂の創造、ある独特の色彩の創造があるように、ドストエフスキーでは、人物の創造があるばかりではなく、また住まいの創造があるということです。たとえば『カラマーゾフの兄弟』に出てくる殺人の家、つまり門番のいるその家は、ラゴージンがナスターシャ・フィリッポヴナを殺す、あの暗くて、長くて、天井が高くて、とらえどころがない家、ドストエフスキーに出てくる殺人の家の傑作ともいうべきあの家とおなじようにすばらしくはないですか? ある家がもつ、このぞっとするような新しい美、女のある顔がもつ、この混成された新しい美、それこそドストエフスキーがこの世界にもたらしたユニークなものなのであって……(プルースト『囚われの女』)

ナボコフはすぐれたプルースト読みだが、この指摘をどう受け止めているのだろう。予感や余韻の徴候感覚ばかりが、小説の醍醐味ではないはずだ。

予感というものは、……まさに何かはわからないが何かが確実に存在しようとして息をひそめているという感覚である。むつかしいことではない。夏のはげしい驟雨の予感のたちこめるひとときを想像していただきたい。(……)

余韻とはたしかに存在してものあるいは状態の残響、残り香にたとえられるが、存在したものが何かが問題ではない。驟雨が過ぎ去った直後の爽やかさと安堵と去った烈しさを惜しむいくばくかの思いとである。(中井久夫「世界における索引と徴候」)

またナボコフはフロイト嫌いとしても知られている。ドストエフスキーに精神分析的真理が発見されたとして、それが小説となんの関係があるだろう、とナボコフなら言うだろう。

ふたたびプルーストを引用すれば、ドストエフスキーにはプリミティヴ派のもつさきがけの美があるとしている。

ぼくはドストエフスキーのなかに、人間の魂の、度はずれに深い、だがあちこちの地点に孤立している、いくつかの井戸を見出します……あの道化役者たちも、『夜警』の人間とおなじように、照明と服装の効果でしか幻想的ではなく、ほんとうはどこにでもいる普通の人間なのかもしれません。……ただぼくをうんざりさせるのはね、人がドストエフスキーについて語ったり書いたりしているあの肩肘をいからせたいかめしさですよ。あなたは彼の諸人物の内面で演じている自尊心と誇の役割に注意したことがある? 彼にとっては、愛と過度のにくしみも、善意とうらぎりも、内気と傲岸不遜も、いわば自尊心が強くて誇が高いという一つの性質をあらわす二つの状態にすぎないのです。そんな自尊心と誇が、アグラーヤや、ナスターシャや、ミーチャが顎ひげをひっぱる大尉や、アリョーシャの敵=味方のクラソートキンに、現実のままの自分の《正体》を人に見せることを禁じているというわけなのです……ドストエフスキーといえばね、さっきはぼくはあなたが思うほど彼から一転してトルストイのことを話しているわけではなく、トルストイはじつは大いにドストエフスキーをまねているのですよ。ドストエフスキーのなかには、やがてトルストイのなかで満面のほころびを見せるものが、まだしかめっ面をした、不平そうな顔で、たくさん詰まっているのです。ドストエフスキーのなかには、やがて弟子たちによって晴れやかにされる、プリミティヴ派のもつさきがけの不機嫌さがあるのでしょうね。」(プルースト『囚われの女』井上究一郎訳)

そう、《.ただぼくをうんざりさせるのはね、人がドストエフスキーについて語ったり書いたりしているあの肩肘をいからせたいかめしさですよ。》ーーこの批評は、わたくしの敬愛する作家ではありながら、森有正の仏公費留学直前に上梓された若書き『ドストエフスキー覚書』(1950)にも当て嵌まる、--と言い得るにはその書が手元にないのであり、浅墓との謗りを免れぬだろう。

本書は、文字どおり、ドストエーフスキーの作品についての貧しい『覚書』である。専門も異なり、また原文をも解さない私が、このような『覚書』を公けにすることは、はなはだしい借越ではないかということをおそれている。もちろん、体系的なドストエーフスキー研究ではない。そこには多くの誤謬や思い違いもあるであろう。しかし、私の心はまったくかれに把えられた。神について、人間について、社会について、さらに自然についてさえも、ドストエーフスキーは、私に、まったく新しい精神的次元を開いてくれた。それは驚嘆すべき眺めであつた。私にとって、かれを批判することなぞ、まったく思いも及ばない。ただ、かれの、驚くべく巨大なる、また限りなく繊細なる、魂の深さ、に引かれて、一歩一歩貧しい歩みを辿るのみである。(森有正『ドストエフスキー覚書』「あとがき」

今のリンク先には、森有正の読解と比した専門家である亀山郁夫氏の読解批判がある。後者の読みをどう判断するのかは〈あなたがた〉にまかせる。



【心理学的読みの復活?】

ところで、ドストエフスキー熱愛者は旧世代にはもちろん生き残っており、最近では、ドストエフスキーの長大な『悪霊論』(ニコライ・スタヴローギンの帰郷ーー清水正の「悪霊論」三部作)などというものが書かれているらしく、そこではスタヴローギンの言動を「母親からの自立」などとする「心理学的な」指摘があるらしい(清水正氏は1949年生まれであり、わたくしの十年ほど上の世代の文芸評論家)。

たとえば、清水氏は、「ニコライ・スタブローギン」の数々の乱暴狼藉、つまり 「悪」について、「漫画チック」「大げさな」と書いている。「ニコライを神話化するような見え透いた作者の意図 が伺える」「わざとらしい」と言う。(……)

 そこで、清水氏は、ニコライ・スタブローギンの「悪」は、母親への犯行=反抗と読み解いている。つまり 、ニコライ・スタブローギンは母親の溺愛の元で育ち、まだその母親の呪縛 を脱しきっておらず、それ故に母親の願いを聞き入れて、故郷スクヴァレーニシキへと帰郷するわけであり、それと同時に「母親からの自立」の試みとしての数々の乱暴狼藉、反抗(悪)が繰り返すというわけだ。

最近のドストエフスキー論については無知なので、はて、たとえば山城むつみ氏の評判の高い論はなにを語っているのか(これについてはインターネット上ではたいしたものは見つからなかった)、あるいは毀誉褒貶のある亀山郁夫氏の『悪霊』解釈はどんなぐあいなのか、などとすこし調べているうちに行き当たった論評なのだが、「母親からの自立」の試みというのは別にスタヴローギンでなくてもほとんど誰にでもあるのであって、わたくしには児戯に類する指摘としてしか受け止められない、--とするのはかつてのスノッブの無残な残照としての短絡的な気取りであるには相違ない。そもそも清水正氏の書を読んだわけではないので、当然ほかの重要な示唆と絡んでの見解であるはずであり、ここでは「母親からの自立」についてだけの印象である。

もちろん「母親からの自立」は、たとえば次のような『悪霊』の冒頭近くにある叙述から、誰でもその気配は読みとることができる。

少年は、母親が自分を溺愛していることを知っていたが、彼自身はそれほど母親を好いてはいなかった。夫人はあまり息子とは口をきかなかったし、めったに自由をしばることもなかったが、それでも少年は、たえず自分をじっと見守っている母親の視線を、病的なくらい、いつも肌に感じていた。(『悪霊』江川卓訳 新潮文庫 上 P59)

この冒頭近くの叙述以外にも、スタローギンの母へのアンビバレントな感情の揺れはいくらでも指摘できるだろう。だがそれだけでスタヴローギンという人物の奇怪さを説明されたら堪らない(重ねて書くが、清水正氏の論への短い書評を読んだだけの違和である)。




【文学とは無縁の資質】

ここは松浦寿輝の次のような文章を挿入して、スタヴローギンの一貫した性格を『悪霊』のテキストから読みとる仕草は、「文学とは無縁の資質」であるとしておこう。


たとえば漱石の小説をめぐって書かれた或る種の凡庸な論文などには、或る登場人物がこの箇所ではこんなふうに描写され、あの箇所ではあんなふうに描写されているがその間の食い違いをどう考えたらよいのかなどと、あれこれ真剣に思い悩んでいるものがあり、「文学研究」の学徒とは何と馬鹿馬鹿しいまでに律儀な人々かとわれわれを呆れさせずにおかない。もとより虚構のイメージでしかない物語の登場人物について、これは本当はいったいどういう人なんだろうと考え詰めようとする官僚的な生真面目さなど、もろん文学とはまったく無縁の資質である。(……)

『こころ』も『明暗』も要するにただの絵空事であり、その道具立てとして導入された「先生」だの「K」だの「津田」だの「小林」だのは、言語記号の組合せによって表象される想像的な人物イメージの戯れの積分的な総体に与えられた、仮の名前にすぎない。なるほど、一人一人の登場人物に一貫した自己同一性とリアルな存在感を賦与しようという意図を作家が抱いていたことは間違いなかろうが、しかしたとえそうであっても、創造の「今」において漱石は、そのつど確率論的な揺らぎの中で、むしろ“適当に”書いていたはずである。漱石の筆が運動しつつある、その「今」の現場には、過誤も思い違いも混同も意識せざる誇張も自家撞着も裏切りも、何もかもがいちどきに呼びこまれえたのであり、またそうした人間的“いい加減さ”に大胆に身を委ねることで、彼の「作品」における運動はいよいよ豊かな、また生気に満ちたものになっていったはずなのだ。漱石の文体における「当て字」の問題なども、むしろ「作品」を決定論的凝固から解き放ちたいという彼の骨がらみの欲動の表現として読み解かれるべきではないのか。(松浦寿輝「表象と確率」『官能の哲学』所収 文庫P190)

そもそも『悪霊』は、しっかりした構想の経たあとに書かれた作品ではない(おそらくドストエフスキーの多くの作品と同様に)。執筆当時、既に「無神論」、すなわち『カラマーゾフの兄弟』の構想が頭から離れなかったようだ。


彼自身「惡靈」には大した望みを掛けてゐなかつた。ただカトコフへの借財を支拂ふ爲の餘儀ない仕事と考えてゐた。當時の彼の野心はこの作には關係のない大小説にあつた。(小林秀雄『ドストエフスキーの生活』「8 ネチャエフ事件」)

すなわち、おそらく他の作品にもましていっそうのこと創造の「今」においてむしろ“適当に”書かれた小説なのであり、《その「今」の現場には、過誤も思い違いも混同も意識せざる誇張も自家撞着も裏切りも、何もかもがいちどきに呼びこまれえた》のだろう。


もちろんドストエフスキーのテクストの断片から、精神分析理論的な断片を拾うことはできるのを否定するわけではない。たとえばフロイトの破壊欲動やら享楽と似たような叙述があるな、との「発見」を楽しむことはできる。だがこれはなにもドストエフスキーに限った話ではない。それはフロイトの論文のシェイクスピアからの引用の豊富さを想い起こすだけでよい。


夜の大火は人をいらだたすと同時に、心を浮き立たせるような効果を常に生むものである。花火はこの効果を応用したものだ。しかし花火の場合は、火が優美な、規則正しい形にひろがり、しかも自分の身はまったく安全なので、ちょうどシャンパン・グラスを傾けたあとのように、遊び半分の軽やかな印象しか残さない。ほんものの火事となると、話は別である。この場合は、夜の火の心浮き立たせる効果もさることながら、恐怖心と、やはりわが身に迫るなにがしかの危機感とが、見物人との間に(もちろん、家を焼かれている当人たちの間にではない)ある種の脳震盪めいた作用を惹き起こし、彼らの内なる破壊本能を刺激するような結果になる。しかも、この破壊本能は、悲しいかな! どんな人間の心の底にも、謹厳実直そのもののような家族持ちの九等官の心の底にさえひそんでいるものなのだ……この隠微な感覚は、ほとんどの場合、人を陶酔させる傾きがある。「火事というものを多少の満足感なしに眺められるものかどうか、ぼくはあやしいと思うね」とは、かつてステパン氏が、たまたま出くわした夜の火災からの帰り道、まだその引用がなまなましかったおりに、私に語った言葉そのままの引用である。(ドストエフスキー『悪霊』 江川卓訳 新潮文庫 下 P272)


【厚顔無恥に居直り精神分析的に読むこと】

さてここでは「文学とは無縁の資質」のものの一人と敢えて居直って、フロイトのドストエフスキー論を引用してみよう。


内容豊かな人格を持ったドストエフスキーを前にして、われわれは四つのものを区別して考えたいと思う。すなわち詩人としての彼、神経症者としての彼、道徳家としての彼、および罪人としての彼である。われわれの頭を混乱させるかくも複雑な人格を統一的に把握するには、いったいどうしたらいいのであろうか。(フロイト『ドストエスフキーと父親殺し』)

この小論は1928年に書かれており、後期フロイトと呼ばれる時代、すなわち『快原則の彼岸』1920以降に書かれている。

「四つのものを区別」しているフロイトの、その最初の「詩人としての」資質をめぐって、フロイトは『カラマーゾフの兄弟』は、シェイクスピアに比較してもさして劣っていないとして、とくに「大審問官」の個所は世界文学における最高傑作のひとつとしている。《ただ残念なことに、詩人という問題を前にしては、精神分析は拱手傍観するよりほかはない》と。


これが詩人、芸術家としての作家を前にしたときの、われわれ凡人の素直な態度であろう。


ひとはそれでもなにかを言いたくなるのがわれわれの常であるのだから、神経症者、道徳家、罪人としてのドストエフスキーをめぐって書き綴らざるを得ない批評の言葉を全否定するわけではない。この機会に小林秀雄の『ドストエフスキーの生活』を読み返してみたが、小林秀雄のこの渾身の批評文でさえその類の「批評」であるといえるのかもしれない(すくなくともナボコフ的観点からは)。


さてフロイトに戻って、二番目の区分け、「道徳家」としてのドストエフスキーについてなんと書いているか。

もっとも深い罪の領域を通ったことのある者のみが、もっとも高い倫理の段階に到達するということを論拠として、彼を倫理的に高く評価しようとする態度は、重大な疑点を看過しているといわざるをえない。すなわち、倫理的な人間とは、誘惑というものに、それが心の中で感じられたとたんに直ちに反応し、しかもしれに屈服することのない人間を指していうのである。さまざまな罪を犯し、しかるのち後悔して、高い倫理的要求を掲げるにいったというような人間は、イージーな道を歩んだという非難を免れることはできない。そういう人間は、倫理性の本質的部分、すなわち断念というものを遂行することができなかったわけである。(『ドストエフスキーと父親殺し』)

「罪人として」のドストエフスキーについては、次のように書かれるーー、《彼は、あれほどまでに強く人々の愛を求めたではないか。また、たとえば最初の妻およびその情人にたいする関係においてのように、憎みかつ復讐する権利が自分にあった場合ですら、彼は愛したり援助の手を差し伸べたり、お人好しすぎる態度をする示して、人を愛する能力の大きさを証明している》のに、どうして《犯罪者の本質的特色をなす、あくことを知らぬ我欲や、強烈な破壊的傾向、――冷酷さ、つまり対象(ことに相手が人間である場合)を評価するにあたって感情の要素を交える能力の欠乏》をドストエフスキーに指摘することができるのか、とまずは予測される反論が書かれる。だがこの架空の反論への応答が引き続く。

この疑問にたいする答は、この詩人の素材選択の仕方である。すなわちドストエフスキーはその作品の素材として、乱暴者、殺人犯、我利我利亡者などを、とくに好んで取り上げており、これが、同様な傾向が彼自身の内部にも潜んでいたことを察知させるのである。それからまた、彼の生涯中の若干の事実、たとえば彼の賭博癖があげられるし、あるいはまた、未成年の少女を強姦したというあの事実(この事件については彼自身の告白がある)も、おそらくこの疑問にたいする答となるであろう。この矛盾は、彼自身をたやすく犯罪者にしかねなかったきわめて強い破壊欲動も、ドストエフスキーの現実の生活においては、主として彼自身の人格にたいして(すなわち外に向けられるかわりに内にたいして)向けられ、その結果マゾヒズムおよび罪の意識となって発現したことを見ればおのずと解消する。いずれにせよ、彼の性格の中には、サディスト的な要素も多分にあって、それは彼が愛している人々にたいしてさえ示した短気、意地悪、不寛容などに現れており、あるいはまた、作家としての彼が読者を取り扱うそのやり口にも現れている。したがって彼は、小さな事柄においては外にたいするサディストであったが、大きな事柄においては、内にたいするサディスト、すなわちマゾヒストであり、もっともお人好しな、もっとも慈悲心に富んだ人間だったのである。(同フロイト)

このフロイトの叙述は、《もっともお人好しな、もっとも慈悲心に富んだ人間》という個所以外は、『悪霊』の主人公スタヴローギンの性格や言動をほとんど彷彿させるものであり、スタヴローギンの言動を「母親からの自立」として読みとるのは児戯に類するというのは、松浦寿輝の「文学研究者」への嘲笑以外にもそういうことを含意する。フロイトはすでにそれ以上のことを書いている。

さてドストエフスキーの第四番目の区分、「神経症的」な面は、ここでは割愛する。罪人の個所で「マゾヒスト」という語が出てきているのだから。


【イントラ・フェストゥム(祭りの最中)をめぐって】

「癲癇持ち」のドストエフスキーについては木村敏によるイントラ・フェストゥムの資質の指摘を想起することもできる。木村敏は、人間の心理的時間感覚を「祭りの前(アンテ・フェストゥム)」「祭りの後(ポスト・フェストゥム)」「祭りの最中(イントラ・フェストゥム)」の三つに分類している。祭りの前が分裂病的時間感覚、祭りの後が躁鬱病的時間感覚ということだったが、前者が未知なる未来における自己の可能性の追求、後者が既知の慣習や経験への保守的な埋没とされ、両者とも時間の水平性(未来、あるいは過去)にかかわる病理だとすれば、イントラ・フェストゥムは時間の垂直方向での日常性の瓦解(非日常性の顕現)とされる。

そしてこの指摘において肝要なのは、イントラ・フェストゥムは、癲癇症者だけではなく、健康人の誰にでも訪れる非理性の瞬間(もちろん分裂病者や鬱病者においても)として、《愛の恍惚、死との直面、自然との一体感、宗教や芸術の世界における超越性の体験、災害や旅における日常的秩序からの離脱、呪術的な感応などの形で出現しうるもの》とされていることだ。

たとえば鬱病親和気質と推測される大江健三郎の「一瞬よりはいくらか長く続く間」はそのイントラ・フェストゥムと似たような刻限をいう表現に相違ないし、分裂病親和資質と想定されるニーチェの「正午」も同様。

まさに、ごくわずかなこと。ごくかすかなこと、ごく軽やかなこと、ちょろりと走るとかげ。一つの息、一つの疾駆、一つのまばたきーーまさに、わずかこそが、最善のたぐいの幸福をつくるのだ。静かに。

――わたしに何事が起ったのだろう。聞け! 時間は飛び去ってしまったのだろうか。わたしは落ちてゆくのではなかろうか。落ちたのではなかろうか、――耳をこらせ! 永遠という泉のなかに。(『ツァラトゥストラ』第四部「正午」手塚富雄訳)

「祭りの後(ポスト・フェストゥム)」「祭りの前(アンテ・フェストゥム)」「祭りの最中(イントラ・フェストゥム)」にかんして、すぐれたグールドシューマンや、プルースト論などの著者、ミシェル・シュネデール(彼は仏高級官僚でもあり、また小説家でもあり精神分析医でもある人物)の次の文を抜き出しておこう。

… ピアノを愛するというなら、そのためには、別の時代からやってきて、つねに完了形で語っているようなアルトゥーロ・べネデッティ=ミケランジェリのピアノがあるだろう。あるいはまた近年のリヒテルのようにある種の期待が告げられるようなピアノがある。期待、すなわち近頃リヒテルが登場すると、一緒にそこにあらわれるあの未来のノスタルジーだ(ドアはそのときひとりでにひらき、そこにあるのがわからなかった部屋が見える。)しかしながら現在形で演奏するグールドの姿は決定的な光をもたらし、無垢あるいは天使という使い古された語を唇にのぼらせる。(『グレン・グールド 孤独のアリア』 ミシェル・シュネーデル千葉文夫訳)

しかし、ここでミケランジェリが鬱病親和型、リヒテルが分裂病親和型、グールドが癲癇親和型などというつもりは毛頭ない。それぞれの演奏家は、それぞれの仕方でイントラ・フェストゥムの垂直に立つ時間の感覚を与えてくれるだろう。だがそれにしてもグールドの「現在性」の恍惚のなんと際立つことよ。

だがイントラ・フェストゥムの輝かしい面ばかりを強調してはならない。《祝祭はつねに死の原理によって支配されてもいる。死は、それ自体としてみれば美わしい永久調和を意味するのであろうけれども、個別的生命に執着する日常性の意識にとっては恐怖の対象以外のなにものでもないだろう。殺人や犯罪、革命や戦争はそれなりに人類の祝祭なのである。》(木村敏 P161)

この見解にはいろいろな変奏があるだろう。

戦争の論理は単純明快である。人間の奥深い生命感覚に訴える。誇りであり、万能感であり、覚悟である。戦争は躁的祝祭的な高揚観をもたらす。(中井久夫「戦争と平和についての考察」『樹をみつめて』所収)
われわれの疑問は、たとえば「生の肯定」、「生の蕩尽」としてカーニバル的にあらわれたものが必ずファシズムに転化するのはなぜかということだ。ニーチェやベルグソンはファシストではないといってもはじまらない。もはや純粋なカーニバルなどありえないように、純粋な「生の哲学」もありえない。それはいったん歴史的な文脈に存在するやいなや、思いもよらぬ反転や置換を強いられるのだ。本当は、「暴力的なもの」は《近代》に出現するのだといってもよい。(柄谷行人『歴史と反復』)

さて、ドストエフスキーののイントラ・フェストゥム性については、次のような叙述がある。
われわれはドストエフスキーから多くのことを学ぶことができる。彼の作品に登場する多数の人物は、ムイシュキンやキリーロフのような癲癇患者だけでなく、全員がこの「現在の優位性」とでもいうべき特徴をそなえている。作中の人物がすべて作家の分身であってみれば、これはちっとも不思議なことではない。一例だけをあげれば、『悪霊』に登場する美貌の令嬢リザヴェータ……彼女にとって、過去・現在・未来の一貫した流れとしての一つの人生などというものは「見たくもない」ものなのである。彼女はスタヴローギンと駆け落ちして一夜の情事を経験した翌朝、「ぼくはいま、きのうよりもきみを愛している」というスタヴローギンに向って、「なんて奇妙な愛情告白かしら!きのううだのきょうだのと、なんでそんな比較が必要なの?」(下 P281)という。彼女は「自分がほんの一瞬間しか持続できない女だとわかっているので、」思いきって決心して「全人生をあの一時間きっかり〔の情事〕に賭けてしまった」(下 P286-287)のである。

一般に、ドストエフスキーの描く人物はいずれも他人に対して、ときには自分の生命を脅かすような危険な相手に対してすら不思議に無警戒で、分裂病親和者にみられるような他者の未知性に対する恐怖感は稀薄である。また、メランコリー親和者に特徴的な、既成の型の中での役割的対人関係も、彼の作品のどこを探しても見当たらない。彼の描く対人関係は、すべて現在眼の前にいる人との現在の瞬間における直接的な深い連帯感によって支えられている。

ドストエフスキーの意識における現在のこの豊かさは、彼がアウラ体験において死の側から生を眺めたときの壮麗な光景と、どこかで深くつながっているのではあるまいか。死は、生の側から未知の可能性として眺められたときには、身を縮まる恐怖の源となるだろう。しかしもし死を現在直接に生きることができるなら、それはこの上なく輝かしいものであるに違いない。(木村敏『時間と自己』P150)

この1982年に書かれた木村敏の解釈には今でも瞠目せざるを得ないのであって、フロイトのドストエフスキーのマゾヒスト説に比べても遜色はまったくない。、---もっとも、これも木村敏の論を読み返さなかったら、フロイトの天才は、ドストエフスキーの名を挙げないままで、あたかもドストエフスキーやスタヴローギンの資質をめぐって書いているかのようだ、としてすますところだったのだが。

マゾヒストは小さな、頼りない、依存した、ひとりでは生きてゆくことのできない子供、しかもとくにいたいけな子供として取り扱われることを欲している。フロイトの『マゾヒズムの経済的問題』(フロイト著作集6 P302)
マゾヒストは、運命という両親代理者による罰を挑発するために、無益なことを仕出かし、自分自身の利益に反して行動し、現実の世界の中にうちひらかれている幸福になる可能性をぶち壊し、時によれば自分自身の生命を絶つこともしかねない。(同上P308)

こうやって精神分析理論を通して読んでしまうわたくしは文学的な資質から遠く離れている。もっともそれがドストエフスキーのいう作家の精神の動きをすこしでも読む機縁になれば幸いである。

作品が作家をつくるとヴァレリーはいったが、私はやはり作家というものを切り離して作品を論ずる気にはなれない。ただし私のいう「作家」とは、作品がつくり出す作家ではなく、作品をつくり出す作家、すなわち作品を書くという過程を通してあらわれる精神の働きというようなものである。(柄谷行人)--「行間にはなにも書かれていません」(蓮實重彦)より

【看護婦志願者としてのダーリヤ】


ところで、『悪霊』の結末は、ダーリヤ・パヴァロヴナ、ーーかつてワルワーラ夫人に連れられた訪れたスイスでの滞在中、スタブローギンの看護婦になると希望したーーその彼女をスイスの山荘での寂しい生活に同行を求める手紙の示されたあとの首吊り自殺の叙述で終っている、《ニコライ・スタヴローギンが首を吊った丈夫な絹紐は、明らかにあらかじめ吟味して用意されていたものらしく、一面にべっとりと石鹸が塗られていた。すべてが覚悟の自殺であること、最後の瞬間まで意識が明晰に保たれていたことを物語っていた。》



ダーリヤは、ニコライ・スタヴローギンの母親ワルワーラ夫人の養い子であり、夫人の侍僕だった父親をもち農奴として生まれたのだが、彼女のお気に入りの娘であり、スタブローギンのスイスでのリザヴェータ・ニコファエヴナとの恋愛事件の折の「相談役」としての役割を担っている。


……リーザがいけないことしたんですの。つまり、ニコライさんにやきもちを焼かせようとして、わざとその方となれなれしくしたんです。わたくし、それをどうこう言うつもりはありませんのよ。若い娘にはありがちの、ほほえましいようなことですもの。ところがニコライさんは、やきもちを焼くどころか、かえってその青年と親密になって、何も気がついていないような、というより、そんなことなどどうでもいいような態度をお見せになったんですよ。リーザにはこれがひどくこたえましたのね。その方がじきに発っていかれると(……)、リーザは何かといえばニコライさんに突っかかっていくようになりましたの。それで、ニコライさんがときどきダーシャと話していらっしゃるのに気がついたものですから、さあ、かっとなってしまって、わたくしも、母親として、生きた空もなくなってしまいましたの。(『悪霊』 上P98)

スイスでの自らの息子とダーリヤとの親密さを危ぶんだのだろうワルワーラ夫人の疑いは「表面的には」すぐさま解消されたかにみえる。


翌朝、夫人の胸に、ダーシャに対する疑いだけは跡形もなくなっていた(……)。というより、そんな疑念はもともときざすはずもなかった、ダーシャに対する夫人の信頼はそれほどに厚かったのである。それに、わがニコラスが、こともあろうに……うちの《ダーシャ》風情に熱をあげるなどとは、夫人には考えも及ばないことであった。(……)

「ダーシャ」とワルワーラ夫人はふいに話をさえぎった。「おまえ、何かこう特別にわたしに話したいと思うようなことはないかい?」
「いいえ、なんにも」ダーシャはちょっと考えたから、その明るい目でワルワーラ夫人を見上げた。(『悪霊』上 P100-101) 

だがワルワーラ夫人は、己れが二十年来、「看護婦」の役をしていると自ら任じている、『悪霊』のもう一人の主人公ステパン・トロフィーモビッチの再婚の相手としてダーリヤを片付けようとする。


「わたしは、奥様、どうでもかまいません、どうしてもお嫁に行かなきゃならないということでしたら」ダーシャはきっぱりと言った。

「どうしてもだって? おまえ、それはなんの謎だい?」ワルワーラ夫人はきびしい目でじっと相手を見つめた。

夫人がダーシャに恥をかかすような真似をするわけがないのは、ほんとうのことだった。それどころか、いまこそ夫人は自分がこの娘の恩人なのだと考えていた。ショールを羽織りながあら、彼女の当惑げな、うさんげな眼差しが自分に注がれているのを感じたとき、彼女の心に燃えあがったのは、だれにうしろ指をさされることもない高潔な憤りの情であった。夫人はほんの子供の時分から心底ダーシャを愛してきた。(……)彼女はもの静かな、おとなしい娘で、辛抱づよく自分を犠牲にできるし、忠実で、並はずれて謙遜で、めったにないほど分別があり、そして何よりも、恩を忘れない子だと決めこんでいた。(『悪霊』上 P107)

 ステパン氏はこの結婚の策略をめぐって、スイスでの「他人の不始末」とつぶやくことになるが、ワルワーラ夫人の申し出を断わるわけではない。もっともその結婚は別の理由で不首尾に終る。

この結婚話とは別に、小説の結末近く、ステパン氏は、ワルワーラ夫人とのあいだに一悶着あったあと、夫人のもとから「家出」して放浪して消耗し、それが原因での死の間際に、枕元のワルワーラ夫人にむかって次のようにつぶやくことになる。

「ボクハ・アナタヲ・アイシテイマシタ、イッショウガイ……二十ネンカン!」
彼女はやはり黙っていたーー二分、三分。
「じゃ、どうしてダーシャと結婚する気になったんです、香水なんかふりかけて……」ふいに夫人は無気味なささやき声で言った。ステパン氏は茫然となった。
「新しいネクタイまで締めて……」
ふたたび二分の沈黙。
「あの葉巻を覚えていますか?」
「友よ」恐怖にかられて彼は口を動かした。
「あの晩の、葉巻、窓のそばの……月が照っていた晩……四阿でお会いしたあと……スクヴォレーシニキの……覚えているの、覚えているの?」彼女はまたはげしく席を立ち、彼の枕の両端をつかんで、枕ごとはげしく彼の頭を揺すった。「覚えているの、からっぽな、実のない、恥さらしな、意気地なしさん、永遠に、永遠にからっぽな人!」夫人は大声に叫びたいのをやっとこらえながら、すさまじいささやき声で言った。それから、ようやく彼をはなすと、両手で顔を覆って椅子の上に突っ伏した。「二十年は過ぎてしたったのよ。もう取り戻せないわ。わたしもばかなのよ」(『悪霊』下 P499-500)

ほとんど同じ叙述が、より突き放す調子だが、この書物の前半にもある。ステパン氏に生涯多額の年金を与えるので、――神聖な義務としてーー、別の場所で暮らしてほしいとワルワーラ夫人が要請する個所である。


「ついこの間、まったく同じあなたの口から、やはり同じように執拗で性急な調子で、まったく別の要求が伝えられたものでした」ステパン氏はゆっくりと、悲しげな、しかしはっきりした言葉づかいで言った。「ぼくはおとなしくおっしゃるとおりにして……あなたのお望みどおりコサック踊りを踊ってみせました。ソウ、コンナ・ヒカクガ・カノウデスネ。ボクハ・ジブンノ・ハカノウエデ・こさっくオドリヲ・オドル・どんノこさっくダッタ。ところが今度は……」

「お待ちになって、ステパン・トロフィーモヴィッチ。ひどく口数が多いじゃありませんか。あなたは踊りを踊ったのじゃなくて、新しいネクタイを締め、新調のシャツに手袋といういでたちで、ポマードをつけ、香水をふった、わたしのところにいらっしゃったんですよ。はっきり申しますけど、あなた自身、結婚したくてうずうずしていらしった。あなたに顔にちゃんとそう書いてありましたし、断言しますけど、それはまあ品のない表情でしたよ。」(『悪霊』上P525-526)

ここに「義務」という言葉、「神聖な義務」という語が出てくることに注目しておこう。もっともワルワーラ夫人のステパン氏への義務は、愛されたいという願い、自己愛やエゴイズムが綯い交ぜになったものであり、それは決して「神聖な義務」といえるものではない。


愛されたい欲望、それは、愛する対象objet aimant がそれとして捉えられる、対象としての自分自身の絶対的個別性のうちに鳥もちづけられ、隷属させられる欲望です。愛されることを熱望する人は、自分の美点son bien のため愛されることにはほとんど満足しません。これはよく知られています。彼の希求は、主体が個別性への完全なsubversion に行くほど愛されること、この個別性がもちうる最も不透明で最もimpensable なものにsubversion されることです。人はすべてが愛されたいのです。On veut être aimé pour tout.彼の自我のためだけではありません。デカル卜はこう言います。彼の髪の色、奇癖、弱さ、すべてのために愛されたいのです。

しかし逆に、私としては相関的にと言いますが、まさしくこのために、愛することはそう見えるものの彼岸で存在を愛することです。愛の能動的贈与は他者を、その特殊性ではなく、その存在において他者を狙います。(ラカン『フロイトの技法論』)

だが安易には言うまい。ここでラカンが語る愛の能動的贈与の側面を忘れてはならない。この発話はセミネール一巻からだが、さらには最晩年のラカンはリルケの『ドゥイノの悲歌』的愛をも語っているのだから。《愛の応答〔いらえ〕を求めての叫びかけではない、もはやそのような呼びかけではなく/おさえてもおさえきれぬ声のほとばしり、それがおまえの叫びの本性であれ。おまえは鳥のように無垢にさけびもしよう、/……》(リルケ『ドゥイノの悲歌』


【解読装置としての小説】

ラカンのそれぞれの時期における愛をめぐる発話は驚くほど揺れ動く。われわれはラカンなどの「精神分析理論」によって小説を解読する必要など毛頭ない。むしろラカンの言葉さえ小説を読むように読むべきだ、ラカンがフロイトのテキストをそのように読んだように、すなわち言い直しやいつも戻って来るところ、唐突の沈黙、躊躇いなどを問い直すことによって、フロイトの概念に新たな光を照射したように。

……精神科医は、眼前でたえず生成するテクストのようなものの中に身をおいているといってもよいであろう。

そのテクストは必ずしも言葉ではない、言葉であっても内容以上に音調である。それはフラットであるか、抑揚に富んでいるか? はずみがあるか? 繰り返しは? いつも戻ってくるところは? そして言いよどみや、にわかに雄弁になるところは? (……)

些細な形容詞の変更、時称の選択、何よりも捨てられた草稿、置き換えられた表現、思い切った削除――これらによってテクストが一変する。その前の痕跡をそれとわからぬほどにみせながらーー。これはほとんど私たちの推論そのものだ。(……)

精神科医は精読家Liseurではないが、ためらい、選び、捨て、退き、新たな局面を発見し、吟味して、そして時に棄却し、時に換骨奪胎する精神の営み、そういうテクスト生成研究の過程を身近なものに感じる。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」)

ここで、《批評は小説の解読装置ではない、小説こそが装置である》と繰り返しておこう。もっともそんな小説には稀にしか廻り合えない。

伝統的な小説が前衛的な小説にくらべてものわかりのよさそうな表情を浮かべているというのではありません。筒井康隆だって、安部公房だって、薄気味の悪いほどものわかりがよく、その点では村上春樹と変わりません。こうした一連の闘争放棄は、小説がみずから装置であることを止め、読まれるべき言葉としてあっさり解読装置に身をゆだねてしまうことからくるものです。批評家の手にしているものが解読装置であって、小説がその装置によって解読される対象でしかないようにすべてが進行してしまい、そのことに、小説家も、批評家も疑いの目を向けようとすらしていないという現状が納得しがたいものに思われたのです。

しかし、この関係は不健康に転倒している。装置であるのは、むしろ小説の方なのです。装置でありながら、何の装置だか使用法がわからないものとして小説が存在しているのでなければならない。そして批評家は、その目的や使用法を心得た人間ではないはずです。ましてや、装置を解読する装置が批評なのでもないでしょう。小説という装置は、おそらく小説家にとってさえ、それが何に役立つか見当もつかない粗暴な装置であり、であるが故に、小説は自由なのです。批評家は、使用法もわからぬままにその小説を作動させる。それが、小説を擁護するということの意味なのです。(蓮實重彦『闘争のエチカ』「あとがき」)


フロイトやラカンの理論のすぐれた解読装置としてドストエフスキーやリルケがある。ところでフロイトの小説への態度は次のようなものであった。

われわれの仲間の一人が『グラディーヴァ』に出てくる夢とその解釈可能性に関心をもった(……)。その人が当の作家に直接会って、あなたの考えに非常によく似た学問上の理論があることをご存知だったのかと尋ねれみた、はじめから予想できたことだが、これにたいして作者は知らないと返答した、しかもそこには多少不快げな調子がこもっていた。そして、自分自身の空想が『グラディーヴァ』のヒントをあたえてくれたのだ、(……)これが気に入らない人はどうかかまわないでいただきたい、と言った。(フロイト『W・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』にみられる妄想と夢』)

《作者はこのような法則や意図を知っている必要などまったくないし、だから彼がそれを否定したとしてもそこに微塵の嘘もないのである》、フロイトは続けてこのように書く。

われわれの方法の要点は、他人の異常な心的事象を意識的に観察し、それがそなえている法則を推測し、それを口に出してはっきり表現できるようにするところにある。一方作家の進む道はおそらくそれとは違っている。彼は自分自身の心に存する無意識的なものに注意を集中して、その発展可能性にそっと耳を傾け、その可能性に意識的な批判を加えて抑制するかわりに、芸術的な表現をあたえてやる。このようにして作家は、われわれが他人を観察して学ぶこと、すなわちかかる無意識的なものの活動がいかなる法則にしたがっているかということを、自分自身から聞き知るのである。(同上)

【滑空足らずのラカン】

精神分析理論、フロイトやラカンを読むとき、ニーチェの次の言葉を想起してともに読むことが必要なときがある。

《悪く考えることは、悪くすることを意味する。 ――情熱は、悪く陰険に考察されると、悪い陰険なものになる。 》(ニーチェ『曙光』76番)

それは決してニーチェを「通して」読むのではない、「ともに」読むのだ。

愛する者と一緒にいて、他のことを考える。そうすると、一番よい考えが浮かぶ。仕事に必要な着想が一番よく得られる。テクストについても同様だ。私が間接的に聞くようなことになれば、テキストは私の中に最高の快楽を生ぜしめる。読んでいて、何度も顔を挙げ、他のことに耳を傾けたい気持ちになればいいのだ。私は必ずしも快楽のテキストに捉えられているわけではない。それは移り気で、複雑で、微妙な、ほとんど落ち着きがないともいえる行為かもしれない。思いがけない顔の動き。われわれの聞いていることは何も聞かず、われわれの聞いていないことを聞いている鳥の動きのような。(バルト『テクストの快楽』)


あるいは《他者たちの生の寄生者たる彼の天性がもたらされる…大いなる天性だ…浸透し、干渉し、妨害し、どこに不一致があるか目星をつけ、そこに居座り、駆り立て、穿ち、悪化させること》

「男と女のあいだは、うまくいかんもんだよ」、ファルスは始終それを繰り返していた…これは彼の教義の隅石だった。彼はそれをいつまでも声高に主張していた…彼が自分の後で根本的動揺をいだく者がもうひとりもいないことを望んでいたのを思えば、享楽の没収、享楽は結局何にもならないということの証明…だが、それが「うまくいく」ようにできていると言った者がかつていたのだろうか? 面白いのは、そいつが時どき期待を裏切ることができるってことだ…吹っ飛んでしまう前に…もっとも、それがひと度ほんとうに期待を裏切ったとしたら、そいつはとにかく少しはうまくいっている…憎しみのこもった固着に至り着くのでなければ…でもそれだって避けることはできる…ぼくの意見では、ファルスは十分に滑空しなかったんだな…かれはそのことでまいっていたのだと思う…どんな女も彼の解剖学にしびれなかったのだろうか? そうかもしれない…実際にはちがう…気違いじみてもいなかった…後になって「うまくいっている」か、いってないかってことが彼にとってどうでもよくなるには十分じゃなかった…そこから他者たちの生の寄生者たる彼の天性がもたらされる…大いなる天性だ…浸透し、干渉し、妨害し、どこに不一致があるか目星をつけ、そこに居座り、駆り立て、穿ち、悪化させること…ファルスがぼくたちの家でぐずぐずしていたそのやり方のことをぼくはもう一度考えてみる…眼鏡越しにデボラに注がれる彼の長い眼差し…見下げ果てた野郎だ…それは痛ましかった、それだけだ…(ソレルス『女たち』p183)

ーーソレルスの小説のなかの「ファルス」なる人物は、ラカンがモデルであるのはよく知られている。


【ふたたびダーシャ】


もちろん別にワルワーラ夫人のステパン氏とダーシャとの婚姻のすすめは、リーザと似たような振る舞いとしても読めもする、《リーザがいけないことしたんですの。つまり、ニコライさんにやきもちを焼かせようとして、わざとその方となれなれしくしたんです》――いや「やきもち」ではなく、ステパン氏の愛情をたしかめるための振舞いとして。



ここでリーザが自ら進んでニコライに身をまかせた一夜のあとの嫌悪と軽蔑の入りまじった発話を抜き出しておこう。これがワルワーラ夫人の心情とも通ずる「熱烈な愛」、すなわちナルシシズム的愛の典型的な言動だと解釈することもできる(繰り返せば、そうとも見ることができるだけで、これも「安易な」一面的な見方である)。ーー《なにせ女心というやつは、今日においてさえいまだに究めつくされる深淵にほかならないのだから!》(『悪霊』上 P25)


「ぼくを苦しめてくれ、ぼくを罰してくれ、ぼくに憎悪をぶつけてくれ」彼は絶望にかきくれて叫んだ。「きみには十分にその権利がある! きみを愛していないくせに、きみを破滅させたことを、ぼくは知っているんだ。そうだよ、『ぼくは瞬間を自分の手に残しておいた』んだ。ぼくは希望をもっていた……ずっと以前から……最後の希望をもっていた……きみがきのう自分から、一人で、進んでぼくの部屋にはいってきたとき、ぼくは、自分の心を照らし出した光明にさからうことができなかった。ぼくはふいに信じてしまった……ことによると、いまでも信じているのかもしれない」

「そんなふうに潔く打明けてくださるのなら、わたしもお返しをしなければならないわね、ーーわたしはあなたの看護婦になるのはごめんです。もしかして、きょううまい具合に死ねなかったら、ほんとうに看護婦になるかもしれないけど、たとえそうなっても、あなたの看護婦にはなりません。あなたにしたって、むろん、そこらの手なしや足なしと同じようなものですけどね。わたしはいつもこんな気がしていたんです、きっとあなたはわたしを、人間の背丈ほどもある巨大な毒蜘蛛のすんでいるようなところへ連れていくのにちがいない、そこでわたしたちは、生涯、その蜘蛛を眺めながら、びくびくして暮らすことになるんだろうって。そんななかでわたしたちの愛情も消えてしまうんです。ダーシェンカにお話しなさいな、あの人なら、どこへでもあなたにういていってくれるでしょうよ」

「こんなときにも、きみはあれのことを思い出さずにいられないの?」

「かわいそうな小犬さん! あの人によろしく。あなたがもうスイスであの人を老後のお守役に決めてしまったのを、あの人は知っているのかしら? ずいぶん用意周到な方ね! 先の先まで見通していらっしゃる! ……」(『悪霊』下 P288-289)


「義務としての愛」という言葉を使うなら、ダーシャ、ニコライ・スタヴローギンの看護婦になることに決めてしまったダーシャの愛こそその「神聖な愛」として読むことができるかもしれない。

ニコライの決闘、すなわちここでもまた「はしたなく」精神分析概念を適用するならば、彼のマゾヒズム的衝動ともいえるその場面の後、次のようなダーシャとの面会がある。


「ぼくは前からきみと会うのをやめようと思っていてね、ダーシャ……ここのところ……当分は。きみから手紙をもらったけれど、ゆうべはきみに来てもらえなかった。ぼくのほうからも手紙をしたかったんあが、手紙は苦手なのでね」彼はいまいましげに、というよりむしろいまわしげにこうつけ加えた。

「わたしも、お会いするのはやめなければと思っていました。ワルワーラさまが、わたくしたちの仲をひどく疑っていらっしゃいます」
「なあに、疑るのは勝手さ」
「ご心配をかけるのはいけません。では、今度は最後のときまでですのね?」
「まだその最後のときを当てにしなくちゃいられないのかい?」
「ええ、わたしは信じているのです」
「この世の中には終りのあるものなんてないさ」
「これには終りがあります。その最後のときに声をかえてくだされば、わたし、参ります。いまはお別れです」
(……)
「あなたはもう一人の……気の違った方を破滅させはなさらないでしょうね?」
「気違い娘は破滅させないさ、あれも、もう一人もね。しかし正気な娘は、破滅させるかもしれない。ぼくはね、ダーシャ、おそろしく卑劣で醜悪だから、ひょっとしたら、きみが言うように、『最後のおしまいのときに』、ほんとにきみを呼ぶかもしれない。そしてきみも、そんなに賢いくせに、やってくるだろうね。どうしてきみは自分で自分を滅ぼすんだい?」

「最後にはわたし一人があなたのおそばに残ることになるのがわかっていますから……それを待っているんです」(『悪霊』上 P458-460)


【マゾヒストあるいは癲癇症者のドストエフスキー】

すこし前に戻って、スタヴローギンの決闘が、マゾヒズムの顕現とするのはいささか性急すぎるかもしれない。そしてここでふたたび木村敏のドストエフスキーのイントラ・フェストゥム性の指摘をも想起しておこおう。

『悪霊』のなかでももっとも有名なスタヴローギンの告白の章にはつぎのように書かれている。


これまでの生涯にすでに何度かあったことであるが、私は、極度に不名誉な、並はずれて屈辱的で、卑劣で、とくに、滑稽な立場に立たされるたびに、きまっていつも、度はずれな怒りと同時に信じられないほどの快感をかきたれらててきた。これは犯罪の瞬間にも、また生命の危険の迫ったときにもそうなのである。かりに私が何か盗みを働くとしたら、私はその盗みの瞬間、自分の卑劣さの底深さを意識することによって、陶酔を感じることだろう。私は卑劣さを愛するのではない(この点、私の理性は完全に全きものとしてあった)、ではなくて、その下劣さを苦しいほど意識する陶酔感が私にはたまらなかったのである。同様に、決闘の場に立って、相手の発射を待ち受ける瞬間にも、私はいつもそれと同じ恥辱的な、矢も盾もたまらぬ感覚を味わっていた。とくに一度はそれがことのほか強烈であった。白状すると、私はしばしば自分から進んでこの感覚を追い求めたこともある、というのは、それが私にとってはその種のもののなかでももっとも強烈に感じられたからである。(『悪霊』下 P550-551)

こういった文は、ドストエフスキーが同様の衝動(=享楽)を抱いていなかったならば、書けるはずはないと凡庸な「わたくし」は呟いてみる。そもそもペトラシェフスキイ事件による芝居としての死刑の判決、直前まで死刑判決がニコライ皇帝によって却下されていたことを知らされていなかった有名な出来事の折にも、ドストエフスキイは平静な様子だったらしい。

ペトラシェフスキイ、モンペリ、グリゴリエフの三人が、先ず柱に縛され、一二人の兵士が銃を上げた時、赦免のハンカチが翻つた。縛を解かれた時、グリゴリエフは発狂してゐた。或る目撃者の言ふところによれば、ドストエフスキイはまことに平静な様子だつた。断頭台を登る足どりも乱れてゐなかつたし、顔色も蒼ざめてゐなかつたさうである。(小林秀雄『ドストエフスキイの生活』)

もっとも小林秀雄はこのあと、《だがそんな事が一体何を意味するのだらう。発狂の一歩手前にゐる人間が平静に見えないとも限らない》としている。

不思議なことにこの、まさに最後の瞬間に気絶することはめったにないのです! それどころか、頭はひどく生き生きして、機械が動くように力強く、力強く、力強く働いているにちがいありま せん。僕の想像では、その時さまざまな考えがぶつかっているのです、みんな完結しない、そしてもしか したら、ばかげた、無関係なこんな考えです。『ほら、あそこで見ている。あの額にはいぼがあるし、 ほら、処刑人の下のほうのボタンが一つさびている・・・』で、その間もすべてを認識し、すべてを記憶し ています。決して忘れることのできないある一点があって、気絶することもできず、すべてがその近 くを、この点の近くを動き、回転しているのです。そして考えると、それは最後の四分の一秒までそのま まで、その時にはもう頭を断頭台にのせて、そして待っている、そして・・・知っているのです、 と、突然上に聞こえる、鉄が滑ってきた!これは間違いなく聞こえます!僕なら、もしもそうなったら、僕 はわざわざ耳を澄まして聞くでしょう!それは、もしかしたらほんの一瞬間の十分の一かもしれません が、間違いなく聞こえます!(ドストエフスキイ『白痴』

いずれにせよ、この芝居としての死刑執行の瞬間の心的外傷性記憶がドストエフスキイの小説のなかで繰り返されることになる。木村敏のいうドストエフスキーのアウラ体験とはこのことである。


【義務としての愛】

さていささか寄り道ををしてしまったが、「義務としての愛」に戻ろう。

ダーシャのニコライへの「義務」、ワルワーラ夫人のステパン氏への「義務」、――『悪霊』はこれが繰り返されるテキストでもある。そしてニコライ・スタブローギンもステパン・ヴェルホーヴェンスキーもそれを望むとともにうとましくも思う二律背反した感情に囚われている。

ところで、ドストエフスキーの二番目の妻が夫の破廉恥な振舞いにおどろくほど耐える女性だったことが知られている。


アンナは、賭博生活の一喜一憂を仔細に日記に認めてゐる。賭博を呪ひ、自ら悪漢と罵りつつ、一日もかゝさず火事のに通つてゐる日記に描かれた彼の姿は、確かに正気ではないが、彼女の忍従にも何か異様なものが感じられる。(小林秀雄『ドストエフスキーの生活』「7 結婚・賭博」)

ひとはこういった愛の対象となった場合、ときにそれをひどい重荷とするのではないか。ーーと書いてしまったら、清水正氏の「母親からの自立」とどう違うというのだろう。上に児戯に類すると批判したが、わたくしの読みもやはり児戯に類する。


逆にどんな孤独者でもひとりの愛する人が必要だ、とする中井久夫の言葉をドストエフスキーやらスタブローギンに適用するのなら、繰り返される「義務としての愛」は、ダーシャのスタヴローギンへの無私の愛の叙述を借りた妻への感謝の「意図せざる表現」としても読むことができないではない。

創作の全過程は精神分裂病(統合失調症)の発病過程にも、神秘家の完成過程にも、恋愛過程にも似ている。これらにおいても権力欲あるいはキリスト教に言う傲慢(ヒュプリス)は最大の陥穽である。逆に、ある種の無私な友情は保護的である。作家の伝記における孤独の強調にもかかわらず、完全な孤独で創造的たりえた作家を私は知らない。もっとも不毛な時に彼を「白紙委任状」を以て信頼する同性あるいは異性の友人はほとんど不可欠である。多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している。逆に、それだけの人間的魅力を持ちえない、持ちつづけえない人はこの時期を通り抜けることができない。(中井久夫「創造と癒し序説」——創作の生理学に向けて)

『悪霊』の第二部第八章の『イワン皇子』のすぐあとにつづく章として書かれた「スタブローギンの告白ーーチホンものとにて」、--結局『ロシア報知』の編集長カトコフが雑誌掲載を断わったために陽の目を見ず、後年(1921年)ドストエフスキーの死後、公表されるのだが、ドストエフスキー自身の校正版とアンナの手による筆写版がある。その二つを見比べてみると、妻アンナがいかに校正版の核心部分を「改竄」し、夫の幼児強姦をめぐる「破廉恥な」テクストを隠蔽しようと試みたのかがわかる。だが、これについては研究者の新しい見解もあまたあるのだろうし、それを知らない者がなんらかの感想めいた書くのはやめにしておこう。

ただダーシャにかかわる部分だけを抜き出しておく。

二ヵ月後、スイスで、私は、かつて初期のころにのみ見られたのと同じような狂暴な衝動の一つにともなわれた、はげしい情欲の発作を感じた。私は新しい犯罪に対する恐ろしい誘惑を、すなわち、重婚を行おうという誘惑を感じたのである(私はすでに妻帯者であるから)。しかし私は、もう一人の若い娘の忠告をいれて逃げだした。そしてその若い娘にほとんどすべてを告白し、それほどまで私が自分のものにしたいと望んでいる女性を、実はまったく愛していないこと、今後もうだれを愛することもできないだろうことまで打ち明けた。それにこの新しい犯罪も、なんら私をマトリョーシャから救ってくれることにはならなかっただろう。(『罪と罰』下 P574)

フロイトの『マゾヒズムの経済的問題』(1924)や『ドストエフスキーと父親殺し』(1928)は、このスタブローギンの告白を読んだ後ーーあるいはひょっとしてその衝撃によりーー書かれたものだと推測する。


【宙吊りを楽しむこと】


ドストエフスキーのテキストはいろんな個所に注目することができる。わたくしが今回の再読で、ことさら注目したのは、ときおり閃くダーシャの名を借りて書かれるテキストの断片だった。

そして上に書かれたようにダーシャの看護婦としての義務を受け入れる態度は、至高の愛のひとつなのか、それとも愛される人にひどい重みとなるかもしれない「淫らな愛」なのか、あるいはそれらとはまた別のものなのかは、「宙吊り」のままである。いまはその「小説の知恵」を楽しんでこのような文を書いている、としておく。

アンナ・カレーニナが狭量の暴君の犠牲者なのか、それともカレーニンが不道徳な妻の犠牲者なのか、あるいはまた、無実なヨーゼフ・Kが不正な裁判で破滅してしまうのか、それとも裁判の背後には神の正義が隠されていてKには罪があるからなのか、…どちらが正しくてどちらが間違っているか。エンマ・ボヴァリーは我慢のならない女なのか、あるいは勇敢で人の心をうつ女なのか。ウェルテルはどうか。彼は多感で気高いのか。あるいは、のぼせ上がった攻撃的な感情家なのか。小説を注意ぶかく読めば読むほど答えることはできなくなる。(……)小説の<真実>は隠されており、表ざたにされず、また表ざたにされ得ないものなのである。(クンデラ『小説の精神』)
人間は、善と悪とが明確に判別されうるような世界を望んでいます。といいますのも、人間には理解する前に判断したいという欲望 ――生得的で御しがたい欲望があるからです。さまざまな宗教やイデオロギーのよって立つ基礎は、この欲望であります。宗教やイデオロギーは、相対的で両義的な小説の言語を、その必然的で独断的な言説のなかに移しかえることがないかぎり、小説と両立することはできません。宗教やイデオロギーは、だれかが正しいことを要求します。たとえば、アンナ・カレーニナが狭量の暴君の犠牲者なのか、それともカレーニンが不道徳な妻の犠牲者なのかいずれかでなければならず、あるいはまた、無実なヨーゼフ・Kが不正な裁判で破滅してしまうのか、それとも裁判の背後には神の正義が隠されていてKには罪があるからなのか、いずれかでなければならないのです。

この<あれかこれか>のなかには、人間的事象の本質的相対性に耐えることのできない無能性が、至高の「審判者」の不在を直視することのできない無能性が含まれています。小説の知恵(不確実性の知恵)を受け入れ、そしてそれを理解することが困難なのは、この無能性のゆえなのです。(クンデラ『小説の精神』 P7-9)

あるいは、プルーストを読むロラン・バルトならこう書く、《コタールは《偉大》でも《卑小》でもない。仮に真実があるとすれば、その真実は「他者」の言葉が彼に与える動揺全体にいきわたる言述の真実である。》
バルベック行きの軽便鉄道の中で、連れのなり婦人が『両世界評論』を読んでいる。彼女は美人でなく、俗悪である。「話者」は彼女を娼家の女将だろうと考える。ところが、次の旅行の際、列車に乗り込んできた一群の客が「話者」に、あの婦人はシェルバトフ大公妃だ、高貴な生まれで、ヴェルヂュラン家のサロンの花だ、と教えてくれる。

まったく対立する二つの状態を同一の対象の中で結びつけ、外見を根底からくつがえし、その反対物へと変える、こうしたスケッチは『失われた時をもとめて』の中によく出てくる。最初のいく巻かから、読む順序に沿って、いくつかの例を挙げると、

一、ゲルマント家の二人のいとこのうち、陽気な方が、実は、横柄(公爵)で、冷淡な方が謙虚な人(大公)である。

二、オデット・スワンは周囲の人の判断ではすぐれた女性であるが、ヴェルデュラン家ではばか者扱いにされている。

三、ノルポワは「話者」の家族を怖気づかせ、彼らの息子には才能がないと説得するほど偉そうにしているが、ベルゴットには、一言でこきおろされる(《あれは間抜け爺いだ》)。

四、同じノルポワは、貴族で、王党派なのに、急進党内閣の特派外交使節を引き受けるが、《ただの反動的なブルジョワでもそんな内閣に仕えるのは拒否したであろうし、ノルポワ氏の過去や係累や考えを知ったら、内閣の方でも心配になったにちがいない。》

五、スワンとオデットは「話者」に対して細かく気を使っているが、ある時、「話者」が書いた、《あれほど説得的で、完璧な》手紙に返事を書こうとさえしないことがあった。(……)

六、ヴェルデュラン氏はコタールについて二通りのいい方をする。コタール教授のことを相手があまり知らないと見てとると、コタールのことを褒めそやす。しかし、相手が知っている時は、逆の方法を取り、コタールの医学上の才能について、ごく素気ない態度を示す。

七、発汗は腎臓に害があるということをある立派な学者の本で読んだばかりの時、「話者」はE博士に会う。すると、彼は、《汗が大量に出るこの暑い季節の利点は、それだけ腎臓の負担が軽減されるという点である》と断言する。以下、同様。(ロラン・バルト「研究の構想」『テクストの出口』所収)

ここでロラン・バルトは第一巻「スワン家のほうに」にあるわたくしにはもっとも印象的なルグランダンの例を挙げていない。スノビズムに火のような毒舌を吐く、憂愁を知った青い眼をもつ、物思わしげな、高尚で繊細なルグランダンが、貴族との挨拶に「異常なまでの活気と熱烈をあらわす」ひどい俗物であることを。だがこのような例はプルーストの小説には枚挙のいとまがない。



【最も淫らな強迫観念】


最後に「厚顔無恥「を恐れず、重ねて精神分析理論から「最も淫らな強迫観念」、義務としての愛を語る比較的若い時に書かれたジジェクの文を引用しておこう。


……無条件の義務の哲学者であるカントが知らなかったものを、通俗的でセンチメンタルな文学、今日のキッチュはよく知っている。このことは別に驚くにあたらない。というのも、〈意中の婦人〉への愛を至高の義務と見なす「宮廷恋愛(騎士道恋愛)」の伝統が今なお生きているのは、まさしくそうした文学の世界なのである。コリーン・マッカロウの『淫らな強迫観念』には、宮廷恋愛ジャンルの典型的な例が見られる。この小説はまったく読むに耐えないもので、そのためにフランスでは叢書「ジェ・リュ(私はもう読んでしまった)」の一冊として出版された。この小説の時代は第二次世界大戦の末期、主人公は、太平洋岸にある小さな病院で精神病者の世話をしている看護婦である。彼女は職業上の義務と、ひとりの患者への愛との葛藤に引き裂かれている。小説の結末で、彼女は自分の欲望を理解し、愛を断念して、義務へと戻る。一見すると、なんの面白みもまにモラリズムのように見える。義務が恋愛感情に打ち勝ち、義務のために「病的な」恋愛が断念されるのだから。しかしながら、この断念にいたる動機の描写はもう少し複雑で微妙である。小説の結びは次のようになっているーー

彼女にはそこに義務があった。(……)それはたんなる仕事ではなかった。そこには彼女の心がこもっていた。しかも奥深く。それが彼女が本当に願っていたことだった。(……)看護婦ラングトリーはふたたび歩きはじめた。颯爽と、恐れることなく、彼女はついに自分自身を理解した。そして、義務こそ、最も淫らな強迫観念であり、愛の別名であることを理解した。

このように、ここにあるのは真に弁証法的・ヘーゲル的反転である。義務そのものを「愛の別名にすぎない」と感じたとき、愛と義務の対立が「止揚される」。このどんでん返しーー「否定の否定」――によって、最初は愛の否定であった義務が、世俗的な対象に対する他のすべての「病的な」愛を廃棄する至高の愛と合致し、ラカンの用語を使えば、他のすべての「ふつうの」愛の〈クッションの綴じ目 point de caption〉として機能する。義務そのものが根源的に猥褻なのだということを経験した瞬間、義務と愛との拮抗、すなわち義務の純粋性と恋愛感情の病的な猥褻性あるいは淫乱性との拮抗は解消する。

小説の最初のほうでは、義務は純粋で普遍的であり、恋愛感情は病的で、個別的で、淫らである。ところが最後のほうになると、義務こそが「最も淫らな強迫観念」であることが明らかになる。ラカンのテーゼ、すなわち、〈善〉とは根源的・絶対的〈悪〉の仮面にすぎない、〈物自体 das Ding〉、つまり残虐で猥褻な〈物自体〉による「淫らな強迫観念」の仮面にすぎない、というテーゼは、そのように理解しなければならないのである。〈善〉の背後には根源的な〈悪〉があり、〈善〉とは「〈悪〉の別名」である。〈悪〉は特定の「病的な」位置をもたないのである。〈物自体 das Ding〉、が淫らな形でわれわれに取り巻き、事物の通常の進行を乱す外傷的な異物として機能しているおかげで、われわれは自身を統一し、特定の現世的対象への「病的な」愛着から逃れることができるのである。「善」は、この邪悪な〈物自体〉に対して一定の距離を保つための唯一の方法であり、その距離のおかげでわれわれは〈物自体〉に耐えられるのである。(ジジェク『斜めから見る』P299-300)

《いや、きみ(ダーシャ)の望みが何か、ついぞ察しがつかなかったよ。きみがぼく(スタヴローギン)に関心をもつのは、ちょうど年とった看護婦が、なぜかある一人の患者に、ほかの患者よりもよけいに関心をもつことがあるだろう、いや、もっとうまく言えば、あちこちの葬式に立ち会ってきた巡礼の婆さんが、遺体はいろいろあるのに、どれか一つの遺体を妙に好くような、そんなものだと思っていたよ。なぜそんな目でぼくを見るんだい?》(『悪霊』 上 P461)



 …………

※附記

【小林秀雄『ドストエフスキーの生活』】



《ある人は他のある人に対する特定の人間関係において、善人となり、また悪人となる。》(森有正『ドストエフスキー覚書』)

「この潔癖な哲学者(ストラアホフ)は、ドストエフスキイの性格の「奇妙な分裂」には、余程手を焼いたらしい。彼はトルストイに宛てて次の様に書いている。

「拙著『ドストエフスキイ伝』、お受け取り下さったと思います。お暇の折、御一読、御意見をお洩しくだされば幸甚に存じますが、これについて一言私から申し上げて置きたい事があります。私はこの伝記を執筆しながら、胸中に湧き上がる嫌悪の情と戦いました、どうかしてこの嫌な感情に打ち勝ちたいと努めました。(中略)ドストエフスキイは、意地の悪い、嫉妬深い、癖の悪い男でした。苛立たしい興奮のうちに一生を過ごしてしまったと思えば、滑稽でもあり憐れでもあるが、あの意地の悪さと利口さを思えば、その気にもなれません。(中略)スイスにいた時、私は、彼が、下男を虐待する様を、眼のあたりに見ましたが、下男は堪えかねて、『私だって人間だ』と大声を出しました。(中略)これと似た様な場面は、絶えず繰返されました。それというのも、彼には、自分の意地の悪さを抑えつける力がなかったからです。・・・・ある日、ヴィスコヴァトフが来て話した事ですが、或る女の家庭教師の手引きで、或る少女に浴室で暴行を加えた話を、彼に自慢そうに語ったそうです。動物の様な肉欲を持ちながら、女の美に関して、彼が何も趣味も感情も持っていなかった事に注意願いたい。・・・・長い間付き合っているうちには、一切を許してしまえる様な人柄を、相手に見つけ出す事も出来るのです。心からの善意の動きとか、悔悟の一瞬とかいうものは、凡てを水に流すものです。フョオドル・ミハエイロヴィッチについて、そういう或る思い出でもあったら、私は彼を許したでしょうし、彼に対して私は愉快な男にもなれたでしょう。頭で作り上げた愛、文章の上の愛しか持たぬ人間を、偉人だと人に信じさせる事は、一体何という嫌なことでしょうか。」(1883年12月)

 これを書いた人間は、この小説家の臨終を看取るまで、二十年間のドストエフスキーの友であった事を思う時、誰の心のうちにも、冷たい風が通るであろう。ここにあるのは、凡庸な一思想家と天才との間にある埋める事の出来ない単なる隔りか。ストラアホフの眺めたものは、ドストエフスキーの或る反面だろうか。例えば、トルストイに、良人の性格を質問された時に、ドストエフスキーの妻が答えた様に、「良人は人間の理想というものの体現者でした。凡そ人間の飾りとなる様な、精神上、思想上の美質を、彼は最高度に備えていました。個人としても、気の好い、寛大な、慈悲深い、正しい、無欲な、細かい思いやりを持った人でした」(1885年)という言葉も嘘ではないのだろうか。人は好んで或る人の反面という言葉を使いたがる。妙な言葉だ。ドストエフスキーも親友と妻とに、巧く反面づつ見せたものである。ヴィスコヴァトフが、ストラアホフに語った話は、この事件をドストエフスキー自身、ツルゲネフの許で懺悔したという同形の逸話が伝えられているほど有名なもので、事の真偽を調べ上げようと、いろいろ努めている評家もあるが、無論わからない。わかったところで何になろう。単なる事実が逸話より真実だとは限らない。・・・・・・それにしても、この文学創造の魔神に憑かれたこの作家にとって、実生活の上での自分の性格の真相なぞというものが、一体何を意味したろう。彼の伝記を読むものは、その生活の余りの乱脈に眼を見張るのではあるが、乱脈を平然と生きて、何等これを統制しようとも試みなかった様に見えるのも、恐らく文学創造の上での秩序が信じられたが為である。若し彼が秩序だった欠点のない実生活者であったなら、彼の文学は、あれほど力強いものとはならなかったろう。芸術の創造には、悪魔の協力を必要とするとは、恐らく彼には自明の理であった。若しそうなら、ストラアホフは自分の仕事を嫌悪すべき仕事と言っているが、ドストエフスキイは、遥かに嫌悪すべき仕事を仕遂げて死んだとも言えよう。」(小林秀雄『ドストエフスキイの生活』「6恋愛」)

この小林秀雄の文章は、驚くほど多くのことを語ってしまっている。もちろんここにフロイトの言葉、ドストエフスキーは《小さな事柄においては外にたいするサディストであったが、大きな事柄においては、内にたいするサディスト、すなわちマゾヒストであり、もっともお人好しな、もっとも慈悲心に富んだ人間だったのである》の巧みな翻訳を読むこともできよう。あるいはニーチェの言葉の翻訳を。

わたしは君があらゆる悪をなしうることを信ずる。それゆえにわたしは君から善を期待するのだ。

まことに、わたしはしばしばあの虚弱者たちを笑った。かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、自分を善良だと思っている。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)

小林秀雄は『ドストエフスキイの生活」を書くために十年近くかかっている。わたくしの如き何年かぶりの再読をしただけの散漫な読者が数日後になにやら書けば、感想文のようなことしかいえないのに決っている。スタヴローギンの一貫した性格を『悪霊』から読みとるのは「文学とは無縁の資質」としたが、わたくしもダーシャの一貫した性格を読みとろうとする同じはしたない真似をしているのは十分に自覚している。


…………

断片的に引用したスタヴローギンの決闘のあとのダーシャとの会話をもう少し長く付記しておく。


「ぼくは前からきみと会うのをやめようと思っていてね、ダーシャ……ここのところ……当分は。きみから手紙をもらったけれど、ゆうべはきみに来てもらえなかった。ぼくのほうからも手紙をしたかったんあが、手紙は苦手なのでね」彼はいまいましげに、というよりむしろいまわしげにこうつけ加えた。

「わたしも、お会いするのはやめなければと思っていました。ワルワーラさまが、わたくしたちの仲をひどく疑っていらっしゃいます」

「なあに、疑るのは勝手さ」

「ご心配をかけるのはいけません。では、今度は最後のときまでですのね?」

「まだその最後のときを当てにしなくちゃいられないのかい?」

「ええ、わたしは信じているのです」

「この世の中には終りのあるものなんてないさ」

「これには終りがあります。その最後のときに声をかえてくだされば、わたし、参ります。いまはお別れです」

(……)

「あなたはもう一人の……気の違った方を破滅させはなさらないでしょうね?」

「気違い娘は破滅させないさ、あれも、もう一人もね。しかし正気な娘は、破滅させるかもしれない。ぼくはね、ダーシャ、おそろしく卑劣で醜悪だから、ひょっとしたら、きみが言うように、『最後のおしまいのときに』、ほんとにきみを呼ぶかもしれない。そしてきみも、そんなに賢いくせに、やってくるだろうね。どうしてきみは自分で自分を滅ぼすんだい?」

「最後にはわたし一人があなたのおそばに残ることになるのがわかっていますから……それを待っているんです」

「でも、もし結局ぼくがきみを呼ばないで、きみから逃げてしまったら?」

「そんなことはありません、呼んでくださいます」

「ずいぶんぼくを軽蔑した言い方だな」

「軽蔑だけでないことをご存じのくせに」

「してみると、軽蔑もやはりあるわけか?」

「わたしはそんなつもりでは言いませんでした。神さまがご存じです。あなたがけっしてわたしなど必要に感じられないよう、心から願っています」

「言葉には言葉のお返しをしなくちゃな。ぼくも、きみを破滅させることのないように願っているよ」

「あなたがわたしを破滅させるなんて、どうしたってできるはずはありません、それはあなたご自身がだれよりもよくご存じのはずです」ダーリヤは早口に、きっぱりと言った。「もしあなたのところへ参れなければ、わたしは看護婦に、付添い看護婦になって、病人の世話をするか、本売りになって、福音書を売って歩くかします。わたしはそう決めたんです。わたしはだれの妻になることもできませんし、こういう家に住むこともできません。わたしの望みはちがうんです……あなたは何もかもご存じのくせに……」

「いや、きみの望みが何か、ついぞ察しがつかなかったよ。きみがぼくに関心をもつのは、ちょうど年とった看護婦が、なぜかある一人の患者に、ほかの患者よりもよけいに関心をもつことがあるだろう、いや、もっとうまく言えば、あちこちの葬式に立ち会ってきた巡礼の婆さんが、遺体はいろいろあるのに、どれか一つの遺体を妙に好くような、そんなものだと思っていたよ。なぜそんな目でぼくを見るんだい?」

「ひどくお加減が悪いんですのね?」なぜかまじまじと彼の顔をのぞきこみながら、同情をこめて彼女はたずねた。「ああ! それだのにこの人は、わたしがいなくてもいいだなんて!」

「いいかい、ダーシャ、ぼくはこのごろよく幻覚をも見るんだよ。きのうも小さな悪魔めが、橋の上で、レビャートキンとマリヤを殺して、正式の結婚になんぞけりをつけてしまえ、後ぐされのないようにしろ、とぼくに勧めるのさ。その手つけとして銀三ルーブリ請求されたがね、この荒療治はすくなくとも千五百にはつくと、あからさまに匂わしたよ。えらく勘定高い悪魔でね! 帳簿係さ! は、は!」

「でも、それが幻覚だったと、はっきり信じていらっしゃいますの?」

「いやいや、幻覚でもなんでもありゃしない! そいつは懲役人フェージカなのさ、徒刑から逃げだした強盗だよ。しかし、そんなことが問題なのじゃない。そこでぼくがどうしたと思うね? ぼくは紙入れにあっただけの金をやつにくれてやったのさ、だからやつは、ぼくから手つけをもらったものと思いこんでいるだろうさ!……」

「あなたは夜中にその男とお会いになって、そんなことを勧められたんですね? あなたにはおわかりにならないんですか、あの人たちの張った網にあなたがすっかり取りこまれているのが?」

「なに、好きなようなさせておくさ。ところで、きみの舌の先は何かぼくに聞きたいことがあって、むずむずしているようじゃないか、目を見ればわかるよ」いらだたしげな毒々しい笑いを浮かべて、彼はこうつけ加えた。

ダーシャはぎくりとなった。

「聞きたいことなんてありません、疑問に思うこともなんにもありません、それより黙っていてください!」彼女は、その聞きたいことを払いのけようとでもするように、不安げな声で叫んだ。

「というと、ぼくがフェージカに会いに居酒屋へなんぞ行かないと信じているんだね?」

「ああ、なんてことを!」彼女は両手を拍ち鳴らした。「なんでわたしをそんなにお苦しめになるんです?」

「いや、たちの悪い冗談を言って悪かった、きっと、あの連中から悪い癖がうつったんだね。実は、ゆうべからやたらと笑いたくてね、休みなしで長いこと大笑いをしてみたいんだ。まるで笑いを体に仕掛けられたみたいさ……ちょっ! おふくろが帰ってきたな、おふくろの馬車が玄関に止ると、音だけでもうわかるんだ」

ダーシャは彼の手をつかんだ。

「神さまがあなたを悪魔からお救いくださいますように、そして呼んでください、すこしも早くわたしを呼んでください!」

「ふん、ぼくの悪魔がなんだ! ほんのちっぽけな、きたならしい、瘰癧やみの小悪魔で、おまけに鼻風邪までひいたできそこないさ。だけど、ダーシャ、きみはまた何か言いだしかねているね?」

彼女は苦痛と非難をこめて彼を見つめ、戸口のほうを向いた。

「待てよ!」毒々しい笑いに顔をゆがめて、そのうしろから彼が叫んだ。「もしも……いや、要するにもしもさ……わかるだろう、つまり、もしもぼくが居酒屋へ出かけて、そのあとできみを呼んだとしたら、きみは居酒屋のそのあとでも来てくれるかい?」

彼女は振返りもせず、答えようともせず、顔を両手で覆って出ていった。

「居酒屋のあとでも来るな!」ちょっと思案してこうつぶやいた彼の顔に、いとわしげな軽蔑の表情が浮んだ。「付添い看護婦か! ふむ!……もっとも、おれに必要なのはそれなのかもしれん」(『悪霊』上 P458-463)








2013年12月19日木曜日

生命の稚い日に露われる一つの生涯(森有正)

《一つの生涯というものは、その過程を営む生命の稚い日に、すでにその本質において、残るところなく、露われているのではないだろうか》(森有正)

森有正は、渡辺一夫門下の東大仏文系の優秀な弟子の一人だったのだが、40歳前後にフランス留学(戦後官費留学第1号)し、結局、日本に帰ってくるのはやめてしまって、日本の職を投げ捨てた。日本に残っていた妻とも離婚した(渡辺一夫が激怒したらしい)。その森有正のパリ滞在記でもある日記風文章に10代のわたくしはひどくいかれてしまった、あたかも聖書のようなにして読んだといっていいかもしれない。加藤周一や木下順二、あるいは大江健三郎にもいくつかの森有正讃がある。

木下はどこかで次のようなことを語っている、《森有正と加藤周一を比較して、森には読者を包み込む愛がある》、と。

反面、こういう話もある。
辻邦生が森のデカルト研究の草稿が死後、何も残されてないと驚いたが、あれは驚く方がかまととで、間違いだ。因みに、渡辺格氏は『ももんが』の平成15 年5月号で晩年の父君(森有礼の三男:※引用者)は森が帰国し自宅を訪問しても頑として会わなかったこともその理由も引用するに忍びないほどあけすけに書いている。(平川祐弘

まあ辻邦生が「かまとと」であってもそれはどうでもよろしい。《距離の遠さが、わたしに蛇の汚さと悪臭を隠していたのだ。奸智にたけたとかげがみだらな気持でそこを匍いまわっていたことを隠していた》(ニーチェ「無垢な認識」『ツァラトゥストラ』としてもよい。

だがニーチェのこの言葉は本来、森有正向けではなく、「観照の者たち」向けだ。《おまえたち臆病者よ……おまえたちはおまえたちの去勢された「ながし目」を「観照」と呼ぼうとする。そして、臆病な目で撫でまわしたものを、美と名づけたがる。(……)おまえたちは欺瞞者だ、「観照の者たち」よ。ツァラトゥストラも、かつてはおまえたちの神々しい外観に心酔した。そのなかにつまっている蛇のとぐろを見抜くことができなかったのだ》--この言葉は、平川祐弘氏は東京名誉教授だかなんだかしらないが、たかだか凡庸な大学教師の平川氏にふさわしく、森有正にはふさわしくない。《生を、欲念なしに、また犬のように舌をたらすことなしに、観照する》者たちよ、森有正は犬のように女を追い回した。だがそれでなにがわるい? 《無邪気さはどこにあるか。生殖への意志があるところにある。》

《戦後日本の知的ヒーローだった「渡辺先生」以下の仏文出身者の正体は何だったのか。》(平川祐弘)だと? まあ氏は伊文研究者らしく日陰の身にながらく耐えていたのだろうし、敢えて文句はいうまい。


◆森有正氏の思い出――丸山真男氏に聞く」
「非常に広 く読まれた『バビロンの流れのほとりにて』なども含めて、けっきょく森さんは、自分の 哲学を周辺の部分しかのべないで終ってしまった、と思うんです。むしろある種の文学的 な受けとられ方をして愛読者をもったことで、本当の思想的影響を与えることが少なかっ た、とさえいえるのじゃないですか。森さんにいちばん期待していたことが果せないで終った。だから森哲学というのは、周辺から窺う以外にないんです」 。 「森有正をめぐるノー ト12」 、全集12付録、十九頁。

◆加藤周一著作集第7巻「単純な経験と複雑な経験」より

外国において詩人であった森有正氏は、まさに日本において哲学者になろうとする直前に亡くなったのかもしれない。

◆大岡昇平「加藤さんの印象」
私は復員して1948年まで、明石の疎開先を動けなかったので、『1946・文学的考察』や『マチネ・ポエティク詩集』など、敗戦直後の加藤さんの活躍は知らない。はじめてお眼にかかったのは、1954年、パリにおいてである。彼は当時、医者としてソルポンヌに留学中だった。やはりパリ在住の森有正さんに紹介されたと思う。パリのどこにお住いだったか。私はサン・ミシェル通りがリュクサンブール公園にぶつかるあたりの、リュ・ロアイエ・コラールという横丁の安ホテルにいた。森さんはそれよりもう少し南の、アべ・ド・レペという横丁の、たしか「オテル・ド・フランス」にいた。名前が大きくいかめしくなれば、それだけ汚なくなるのは日本とは反対で、森さんはそういう安ホテルに下宿して、ソルボンヌに提出するのだとかいう、パスカルに関する厖大な未整理原稿をかかえていた。それは見せてもらえなかったが、フランス文化を理解するためには、フランス人と同じくらいその伝統に沈潜しなければならない、という意見で、フランスの田舎をこまめに廻っていた。/私はそれはとてもできない相談だから、いい加減にして、東京の教壇に復帰することをすすめてみたが、てんで受け付けて貰えなかった。しかし私はそういう森さんの頑固さ、30歳(ママ)を越えても自分の思想形成のために、清貧に甘んずる態度を、尊敬した。彼のパスカル研究はその後どうなったか知らないが、1957年からその滞仏記録『バビロンの流れのほとりにて』などを日本で発表しはじめた。独自の体験の哲学を打ち立てた。/森さんのことばかり書くようだが、当時、私が加藤さんから受けた印象は、極めて森さんに似ていたからである。/加藤さん、森さんから、私の学んだことは、へんに身なりを飾らないこと、余分の金を稼ごうとしないことである。外国語をやること、教養を大事にすること――これは戦争のため欧米との文化的格差がひどくなっていた1954年頃では、不可欠なことであったが、そこに金持へこびる、成上り者みたいな生活態度が加わると、鼻持ちならなくなる。知識人は貧乏でなければならない――これが加藤さんから学んだ第一の教訓である。/加藤さんは1957年に『雑種文化』を出した。森さんと同じ講談社の「ミリオン・ブックス」だったのは、変な縁だが、加藤さんの方が少し先だったはずである。これは帰国してから書いたものだが、外国滞在の成果であることは共通している。

 「私は西洋見物の途中で日本文化のことを考え、日本人は西洋のことを研究するよりも日本のことを研究し、その研究から仕事をすすめていった方が学問芸術の上で生産的になるだろうと考えた」「ところが日本へかえってきてみて、日本的なものは他のアジアの諸国とのちがい、つまり日本の西洋化が深いところへ入っているという事実そのものにももとめなければならないと考えるようになった」。

その結果、加藤さんは日本文化を「雑種文化」と規定した。このあまりに有名になり、多くの人の手に渡って俗化してしまった概念が、以上のような体験と考察の末に出たものであることに注意を喚起しておきたい。」(加藤周一著作集「月報」ーー大岡昇平「加藤さんの印象」

◆中村雄二郎《森有正のこと》
およそどの書物も、書き出しの一節が、その作品のトーンを奏でる。稚拙なこと ばで始まれば、聴くに耐えない曲に似て、ページをめくる気にもなれない。だが <バビロン>は感動的である。1976年パリで客死した思索家・森有正。その翌年 秋、朝日新聞に彼を想う記事が載った。「去るものは日々に疎しといわれるが、 およそ森さんほど亡くなってからも私たちの心に棲みつづけている人も少ない。 このところ私なども、よく意外な人たちから、間もなく森さんの一周忌になりま すね、といわれておやっと思うことがある。そのたびに、ああこの人の心のうち にも森さんが棲んでいたのか、と思う。森さんは亡くなってから私たちの心に棲 みつづけている、といまいったが、あるいはむしろ、亡くなってからいっそう私 たちの心に棲むようになった、というべきかも知れない。これは尋常ならぬこと である。(考える愉しみ 中村雄二郎エッセー集1《森有正のこと》所収」 )


以下は、森有正の『バビロンの流れのほとりにて』の冒頭。読む年齢やそのとき置かれた環境によって、ときにひどく共鳴したり、ときに強く反撥を感じたこともあるが(たとえば野心の時代、三十歳前後には、ひどく反撥ししばらく森有正から遠ざかっていた)、いまは最近の心的外傷理論とともに読むこともできると敢えてしておこう。すなわち幼児期誰もが抱かざるをえない言語化不可能な三つの問い(女性性、父性、性関係)やら幼児型記憶などにかかわる根源的幻想(あるいは原抑圧)は、原トラウマとして(欲動衝拍として)ひとの生涯を決定的に左右するというものだ。

一つの生涯というものは、その過程を営む生命の稚い日に、すでにその本質において、残るところなく、露われているのではないだろうか。僕は現在を反省し、また幼年時代を回顧するとき、そう信じざるをえない。この確からしい事柄は、「悲痛」であると同時に、限りなく「慰め」に充ちている。君はこのことをどう考えるだろうか。ヨーロッパの精神が、その行き尽くしたはてに、いつもそこに立ちかえる、ギリシアの神話や旧約聖書の中では、神殿の巫女たちや予言者たちが、将来栄光をうけたり、悲劇的な運命を辿ったりする人々について、予言をしていることを君も知っていることと思う。稚い生命の中に、ある本質的な意味で、すでにその人の生涯全部が含まれ、さらに顕わされてさえいるのでないとしたら、どうしてこういうことが可能だったのだろうか。またそれが古い記録を綴った人々の心をなぜ惹いたのだろうか。社会における地位やそれを支配する掟、それらへの不可避の配慮、家庭、恋愛、交友、それらから醸し出される曲折した経緯、そのほか様々なことで、この運命は覆われている。しかしそのことはやがて、秘かに、あるいは明らかに、露われるだろう。いな露われざるをえないだろう。そして人はその人自身の死を死ぬことができるだろう。またその時、人は死を恐れない。

たくさんの若い人々が、まだ余り遠くない過去何年かの間に、世界を覆う大きな災いのなかに死んでいった。君は、その人々の書簡を集めた本について僕が書いた感想を、まだ記憶していることと思う。そのささやかな本の中で僕の心を深く打ったのは、やがて死ぬこれらの若い魂を透きとおして、裸の自然がそこに、そのまま、表われていることだった。暗黒のクリークに降り注ぐ豪雨、冴え渡る月夜に、遥かに空高く、鳴きながら渡ってゆく一群の鳥、焼きつくような太陽の光の下に、たった一羽、濁った大河の洲に立っている鷲、嵐を孕(はら)む大空の下に、暗く、荒々しく、見渡すかぎり拡がっている広野、そういうものだけが印象に今も鮮やかにのこっている。そこには若い魂たちの辿ったあとが全部露われている。しかもかれらの姿はそこには見えないのだ。このことは僕に一つの境涯を啓いてくれる。そこには喜びもないのだ。悲しみもないのだ。叫びもなければ、坤きもないのだ。ただあらゆる形容を絶した Desolation(絶望)とConsolation (慰め)とが、そしてこの二つのものが二つのものとしてではなく、ただ一つの現実として在るのだ。もう今は、僕の心には、かれらが若くて死んだことを悲しむ気持はない。この現実を見、それを感じ、そこから無限の彼方まで、感情が細かく、千々に別れながら、静かに流れてゆくのを識るだけだ。これは少しも不思議なことではない。極めてあたり前のことなのだ。ただたくさんのものが、静かに漲り流れる光の波を乱して、人生の軽薄さを作っているのだ。人間というものが軽薄でさえなかったら ……。

僕を驚かすものが一つそこにある。いま言ったことは、人間が宇宙の生命に瞑合するとか、無に帰するとか、仏教や神秘哲学がいうしかじかのこととはまるで違うのだ。もっと直接で素朴なことなのだ。ライプニッツというドイツの哲学者が単子説に托して言っているように、この限りない彼方まで拡がってゆく光の波は一人一人の人間の魂の中に、さらにまたそれに深く照応する一つ一つの個物の中に、その全量があるものなので、あるいはそういうものが人間の魂そのものと言ってもよいかも知れない。しかしもうこういう議論めいたことは止めよう。つまり一人の人間があくまで一人の在りのままの人間であって、それ以上でも、それ以下でもない、ということが大切だ。

紗のテュールを篏めた部屋の窓からは、昨日までの青空にひきかえて、灰色がかった雲が低く垂れこめる夕暮の暗い空が、その空の一隅が、石畳の道の向う側にある黒ずんだ石造のアパートの屋根の上に見える。パリの秋はもう冬のはじまりだ。すこしはなれたところにあるゲーリュサック街を通る乗用車やトラックの音が時々響いてくる。小さいホテルの中は、何の物音もしない。本やノートを堆く重ねた机の前に僕はこれを坐って、書いている。これがすくなくとも意識的には虚偽の証言にならないように、ただそれだけを、念じながら。

人間が軽薄である限り、何をしても、何を書いても、どんな立派に見える仕事を完成しても、どんなに立派に見える人間になっても、それは虚偽にすぎないのだ。その人は水の枯れた泉のようなもので、そこからは光の波も射し出さず、他の光の波と交錯して、美しい輝きを発することもないのだ。自分の中の軽薄さを殺しつくすこと、そんなことができるものかどうか知らない。その反証ばかりを僕は毎日見ているのだから。それでも進んでゆかなければならない。

考えてみると、僕はもう三十年も前から旅に出ていたようだ。僕が十三の時、父が死んで東京の西郊にある墓地に葬られた。二月の曇った寒い日だった。墓石には「 M家の墓」と刻んであって、その下にある石の室に骨壷を入れるようになっている。その頃はまだ現在のように木が茂っていなかった。僕は、一週間ほどして、もう一度一人でそこに行った。人影もなく、鳥の鳴く声もきこえてこなかった。僕は墓の土を見ながら、僕もいつかはかならずここに入るのだということを感じた。そしてその日まで、ここに入るために決定的にここにかえって来る日まで、ここから歩いて行こうと思った。その日からもう三十年、僕は歩いて来た。それをふりかえると、フランス文学をやったことも、今こうして遠く異郷に来てしまったことも、その長い道のりの部分として、あそこから出て、あそこに還ってゆく道のりの途上の出来ごととして、同じ色の中に融けこんでしまうようだ。

たくさんの問題を背負って僕は旅に立つ。この旅は、本当に、いつ果てるともしれない。ただ僕は、稚い日から、僕の中に露われていたであろう僕自身の運命に、自分自ら撞着し、そこに深く立つ日まで、止まらないだろう。(森有正『バビロンの流れのほとりにて』)

加藤周一が森有正は哲学者としては失格だ、詩人であったというのは、この文章はもとより、後年の「経験」の哲学もあきらかにリルケの影響が窺われるからだ。詩人としての森有正はリルケの人としての森有正ということだ。

だが詩というものは、若いころに書いたものにろくなものはない。それには待つということが大切だ。そうして一生かかって、それもたぶん長い一生を倦まずたゆまず意味と甘味とを集めねばならない。その果てにようやくたぶん十行の良い詩を書くことができるのであろう。なぜなら、詩はひとの言うように感情ではない(感情ならはじめから十分あるわけだ)、 ――それは経験なのだ。一行の詩句を得るためには、たくさんの都会を、人間を、物を見なければならない。けものたちを知り、鳥の飛び方を感じ取り、朝小さな草花のひらく身ぶりを知らなければならない。はじめての土地の、なじみない道のことを、思いがけない出会いや、もう久しくその近づいてくるのが見えていた別れを思い出すことができねばならない、 ――まだよく意味が明らかにされていない幼年時代のことを、また、両親がぼくたちをよろこばせようとして持って来たものが、ぼくたちにはなんのことかわからず(それはほかの子どもならよろこぶにちがいないものだった)、両親の心を傷つける破目になってしまった思い出や、じつに奇妙な始まり方をして、思いがけない深い重い変化を伴う子どもの病気のことや、ひっそりとつつましい部屋のなかですごす日々のことを、海辺の朝を、海そのものを、多くの海のことを、高い天空をざわめきながら、星々とともに飛び去って行った旅の幾夜さのことを、―― そしてたとえ幸いにも、そういう一切のことを思い出すことができても、それはまだ十分ではない。ひとはまた、どの一夜も他の夜に似ることのなかった多くの恋の夜の思い出を持ち、陣痛にあえぐ女たちの叫びと、産み終えてかろやかに、しろじろとして眠っている女たちの思い出を持たねばならない。しかしまた、死んで行く人々の枕辺にはべり、死んだ人とひとつの部屋にすわって、あけた窓から高くなり低くなりしながらきこえてくる外の物音に耳傾けた経験がなくてはならない。そして思い出を持つだけでも、まだ十分ではない。思い出が多くなれば、それを忘れることもまたできなければならない。忘れられた思い出がいつかふたたび戻ってくる日を、辛抱強く待たねばならない。なんとなれば、思い出はそれだけでは、まだ何物でもないのだ。それがぼくたちの内部で血となり、まなざしとなり、身のこなしとなり、名もないものとなって、もうぼくたち自身と見分けがつかなくなってはじめて、いつかあるきわめてまれな時刻に、ひとつの詩の最初の言葉が、それらの思い出のただなかから立ちあがって、そこから出て行くということが考えられるのだ。(リルケ『マルテの手記』)


(Rilke with Lou Andreas-Salomé (1897) On the balcony of the summer house)


この写真から一年あとの四月、リルケはフィレンツェに滞在して、ルー・アンドレアス・サロメに書簡を送りはじめる。
これからあなたに宛てて日記を書き始めることができるほど、自分が十分に落ち着きを得、成熟の域に達したかどうかーーそういうことはわたくしには一切判らない。ただわたくしは、あなたが、あなたのものとなるこの一冊の本の中で、すくなくともわたくしが内密に、秘密に書きとめるものを通して、わたくしの告白をうけて下さらないうちは、いつまでもわたくしのよろこびは自分に縁の遠い、孤独のままでとどまるだろうということを感じるばかりである。それで、わたくしは書き始める。そして、かつて、あなたこそわたくしが優しい願いで自分を準備したその成就であることをまた知らずに、そこはかとない同じ郷愁にかられていたその日々をまる一年の歳月が隔てる今日この頃になって、わたくしの欲望のあかしをすることができる萌しが出て来たことを、わたくしは、喜んで承認するのである。(『フィレンツェだより』1898.4.15)

この『フィレンツェだより』の「あとがき」には、訳者森有正の「リルケのレゾナンス」という文が附されている。

こうして私はリルケの刻印を受けた。それは私自身のある姿でもあった。私の歩みがどういうものであるか、それは「バビロンの流れのほとりにて」の中に私は誌した。私は、リルケのではなく、私の歩みを続ける外はなかった。私のうけた刻印は、私の歩みに従って、苦痛や歓喜や感動や、さまざまの反応を起した。私はそれに耐えて行く外はなかった。(……)

そのようなわけで、リルケは、殆ど対蹠的に見えるアランと共に、ヨーロッパにおける私の生活と仕事との二本の支柱のようなものとなった。そしてこの二人によって代表される二つの思想傾向が本当は異質のものではない、ということを、長い時間をかけて読んだプルーストは私に教えてくれた。(森有正「リルケのレゾナンス」)

いま、わたくしの手元には『バビロンの流れのほとりにて』と、エッセイー集二冊、それにリルケの『フィレンツェだより』だけしかない。


◆J.S. Bach - BWV 653 - バビロンの流れのほとりにて





森有正は、パリ滞在では先輩格にあたる彫刻家高田博厚から次のような不評のことばをも貰っているし、製本家栃折久美子との奇妙な恋愛などもある(「四足の靴を抱えて、小間使いのように扱われている栃折さん」『森有正先生のこと』)。

〈世渡り〉の面で彼には矛盾を感ぜず、一見不器用そうなのに、むしろ得意になる点があるのを私は以前から見ていた。結局、有正は孤独な魂の所有者ではなかったのか?しかし、彼は私にはそういう点は一切見せず、パリの日本学生会館館長に二期もなり、その上、パリ日本人会会長になろうと奔走したことも言わなかった。(高田博厚「回想」『森有正全集7』、月報)

森有正はそのエッセイ「木々は光を浴びて」(1972年)で、フランス人女性の言葉として「3発目の原爆が落とされるのも日本だと思う」と書いた。この言葉を大江健三郎はエッセイで何度か引用してきた。少し調べてみると、森有正の文はこのような消息があるらしい。

新聞の随筆に話を戻すと、大江は森に尋ねたいことがあった。それは森の「木々は光を浴びて」において、森とフランス人女性の話についてである。インタビューをうまくすすめるために、大江は前もってその質問を森へレジュメで送っていた。森とフランス人女性との間で日本についての会話がなされる。日本をよく知るフランス人女性は独り言のように「3発目の原爆が落とされるのも日本だと思う」と言葉にする。それを聞いた森はそのことばに全く反駁する気持ちが起きなかったという。「胸を掻きむしられるような思い」であったという。

この逸話について大江はその後、そのフランス人女性と森との間にどんな対話があったのか、という質問を持っていた。

日本滞在時、ICUのチャペルで森は朝パイプオルガンを弾くことが日課であった。その日は重い感じのするバッハの単調の前奏曲とフーガを何度も運指の練習を弾いていたと大江は記している。

結局、そのあと朝食を共にするという約束を森が違えて、裏口から森は出て行ってしまう。

その日の夜に大江に速達が届き、①フランス人女性に人種的差別感を持たないでほしい ②あの件はもともと自分の思いついたことであったが、そのままの表現にすることに編集者が抵抗して、そのアドバイスに森自身が乗ったことが書かれていたとのことだ。(森有正と大江健三郎

◆BWV 564 Adagio





森有正の『バビロンの流れのほとりにて』は、性愛、その官能とエゴイズムが、哲学的あるいは芸術的の仮装の衣の下に生生しく蠢いており、十代の少年がなによりも魅了されたのは、女を感覚的に愛し、「ヤリマクレ」との御達し(?)を読んだせいでもあるだろう。たかだか萎びて抑圧された生涯を送ったに違いない大学教師たちが、森有正の哲学的な書き物のすくなさに驚く辻邦生を「かまとと」と嘲笑しても、それは彼らの「かまとと」ぶりを露くだけだ。

世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …(……)

恐るべき家族の神秘…おびえて、疲れ果てて、のべつ調子外れで、女性化され、虚弱化され、干からびて、女々しく、飼い馴らされ、母性化された男たちの眼差し、ぶよぶよのオッパイ(……)

ぼくは、いつも連中が自分の女房を前にして震え上がっているのを見た。あれらの哲学者たち、あれらの革命家たちが、あたかもそのことによって真の神性がそこに存在するのを自分から認めるかのように …彼らが「大衆」というとき、彼らは自分の女房のことを言わんとしている ……実際どこでも同じことだ …犬小屋の犬… 自分の家でふんづかまって …ベッドで監視され…(ソレルス『女たち』)

◆森有正『バビロンの流れのほとりにて』
青いブルーズを来たアルジェリアの男が三人(……)かれらの体全体は気安さと、そこはかとないかなしみを表している。削げたようにやせこけた体、日に焼けた皺の多い皮膚、黒目がちの鈍い眼はどこを見ているのか判らない。かれらの体全体は、再びかえらぬ時、あるいは、花咲くことなく朽ち枯れてゆくと時の嘆きを発散している。(……)僕はこういうアルジェリア人を見るのが大すきだ。かれらは思想をもっていない、精神さえもっていないのかも知れない。かれらは輝く太陽の降り注ぐ、まっ青な地中海に切り立つイベリアやアフリカ、あるいはコルシカの岩壁に生えている香り高いジュネヴリやミルトの潅木のようだ。(……)かれらを見ていると一種のノスタルジー、感覚のノスタルジーが湧いてくる。それはかくされていて表面には出ていないが、恋というものをする宿命をもった人間の淡い本能的な憧れの一つの極限をなしている。かれらの恋は感覚の興奮と同じ長さの持続性しと同じ程度の強度しかもたない。激しく短いこと、そして次第に衰えてゆくこと、これがかれらの恋の姿だ。マイヨ門の白じらとして広場を背景にしたかれらの影絵姿は、鉄の柵にもたれたまま、じっとしている。それは感覚と神経と反射中枢とだけでできた人間だ。愛情も歓喜も悲哀も、この反射組織を、ダンスと女と音楽と食物と咲けとに結びつける機能にすぎない。かれらにとって賭は、思考の作用ではなく、かれら自身の存在を抽象化してみる本能の動きだ。この透明な人間たちは、人が恋をする時の理想、意識されない理想ではなかったのか。かれらはメトロの硬い鉄柵にもたれて何を待ち何を考えているのか。、愛ということで人が求めているものの、ぎりぎりの、裸の真実、もうそのうしろには何もかくされてはいない。それ自体で全部である愛欲の裸の姿。愛ということは、二つの人間が合わさることだと誰かが言っているが、かれらは女に対して合わさることしか考えない。P10
およそ人間でも、ものごとでも、恋愛関係としてでなければ考えられない型の人間があるものだ。(……)リールケがそうだった、ゴッホがそうだった、ドストエフスキーがそうだった。しかしその人たちの運命は悲劇に充ちている。殆どすべての場合、孤独の中に終るのだ。P16
仕事は心をもって愛し尊敬する人に見せ、よろこんでもらうためだ。それ以外の理由はすべて嘘だ。中世の人々は神を愛し敬うが故に、あのすばらしい大芸術を作るのに全生涯を費やすことができたのだ。しかし仕事の対象となるこの存在はいったい何なのだろう。何でなければならないのだろう。それでこの人の仕事の質が決定してくるのだ。実に恐ろしい問題だ。僕はたえずこの問題を考えている。P43
ミケランジェロの彫刻の肌は、実に深く、またこまかく、それが生れたトスカナの柔らかい空気を思わせる。パリやシャルトルやランスのカテドラルの肌がイール・ド・フランスの豊かな自然を思わせる様に。しかしここに否定することのできないことがある。それはこの宇宙的、あるいは全人生的なミケランジェロの芸術は、我々に一つのノルムを提供しているということだ。その作品の前に我々の存在の全機能は吟味されてしまう。これは実に辛く、苦しい道だ。その中で自己を破壊しないようにしつつ、この吟味に耐えてゆかねばならない。バッハ、ドストエフスキーに出会ってこの方、僕ははじめて、ここに三度目に僕の全存在を上げて向う対象に出あったという感じがする。(……)自分をどこまでもどこまでも引きずりこむ、底の知れない程深い対象にゆき会うということは人生の最大のよろこびの一つである。しかもそれは同時に最大の責任の一つなのだ。僕がこの吟味を通りこすことができるかどうか、その重みに耐え切れるかどうか。いまや一切はそこにかかっている。P45-46
ありのままの人間をぎりぎりに追いつめて見た時、それは一つの享楽の意志をもった肉体の塊以上のものだろうか。(……)本当の享楽は、自分と同じように意志をもった他の肉体と相互の享楽関係に入ることではないだろうか。これは議論ではなくて事実だ。P61
人は、愛の対象となる人は、その相手の自分に対する愛が利己的であるばあるほど満足を覚えるのではないだろうか、愛は徹底的にエゴイスティックになった時、はじめて相手を満足させるのではないだろうか、。そうに相違ない。僕は殆どすべての友人を喪ってしまった。しかしそれはそれでよい、僕は後悔しない。そんなことは人間の本当の価値とは何の関係もないことなのだ。P73

《真の女は愛が芽生える瞬間がどのようなものであるかを知っている。女はおびえた心を外へ呼び出そうとする声に抵抗できない。男は自分の声を女の心がこのように意識することに抗うことはできない。真の男は愛の魅力からは逃れられない。》(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』p185からだがいくらか変更)

フランツは強いけど、あの人の力はただ外側に向かっている。あの人が好きな人たち、一緒に生活している人たちが相手だと弱くなる。フランツの弱さは善良さと呼ばれている。フランツはサビナに一度も命令することはないであろう。かつてトマーシュはサビナに床に鏡を置き、その上を裸で歩くように命じたが、そのような命令をすることはないであろう。彼が色好みでないのではなく、それを命令する強さに欠けている。世の中には、ただ暴力によってのみ実現することのできるものがある。肉体的な愛は暴力なしには考えられないのである。(……)

サビナはメランコリックな黙想を続けた。(……)
「で、なぜときにはその力を私にふるわないの?」
「なぜって愛とは力をふるわないことだもの」と、フランツは静かにいった。

サビナは二つのことを意識した。第一にその科白は素晴らしいもので、真実であること。第二に、この科白によりフランツは彼女のセクシャル・ライフから失格するということである。(同p131-132)
真の愛とは一人の男あるいは一人の女をその自我から引きはなす、そういう愛である。そして他の者の意志がそれにとってかわるのである。愛の行為とは相手をその自我から引きはなし、それを吸収することである。つまり、相手にとってかわるのである。相手は己れから決定的に引き離されてしまうのである。究極の行為はだから暴力である。しかしそれは、同意し同意された暴力だ。僕は何も、肉体に基づく行為のことを言っているのではない。ただ愛のもつ意義について語っているのである。(森有正『語彙集』

森有正はラカン、あるいはラカン派の言説は読んでいないはずだが、ここでは原初の「母」なるものとの共生symbiosis、享楽の愛が語られているとしてよいだろう。クンデラのいう女の「不安」は享楽の条件であるエゴの消滅の深淵を覗く瞬間を表している。だがほとんどの男はそんなものからは逃げ出し、ファリックな快楽に耽るのみなのだ。だが、そこにはエロスではなくタナトス、Tristis post Coitum(性交後の悲しみ)しかない。

原始的淋しさは存在という情念から来る。
Tristis post Coitumの類で原始的だ。
孤独、絶望、は根本的なパンセだ。
生命の根本的情念である。
またこれは美の情念でもある。
                                    
――西脇順三郎『梨の女「詩の幽玄」』より


◆THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE(Paul Verhaeghe)
woman, jouissance and anxiety are part of Eros; man, phallic pleasure and sadness are part of Thanatos. The affect indicates the break where pleasure results in too great a loss: anxiety relates to the disappearance of the ego that is a condition for jouissance. Sadness relates to the loss of symbiosis as a result of phallic pleasure. In this respect, the opposition between man and woman is extremely relative and should be interpreted more as an active versus a passive position, which any subject can adopt vis-a-vis the other. This explains why sexuality, no matter how satisfying it may be, always contains the seeds of dissatisfaction—the pleasure of one direction detracts from that of the other tendency. Freud anticipated this when he wrote in 1896 that sexuality itself contained a source of displeasure. The two directions are clearly sex-related. Eros and jouissance belong on the side of the woman, Thanatos and phallic pleasure on the side of the man. Each has within itself the potential, or even the aspiration, for the other. The female orgasm is also phallic—she is even multi-orgasmic. However, she needs it less and does not feel it to be essential. Sometimes it can even diminish her potential for gaining pleasure from the other, the lasting aspect of symbiosis in which the original bond is restored. The man is all too familiar with jouissance and is constantly seeking it, though he also flees from it in the short-circuiting of his phallic pleasure, because this other enjoyment turns him into an object without a will, part of a larger whole.




2013年9月4日水曜日

どうやって耐えることができるだろう



スタジオ録音に比べて、かなり速い演奏。コントロールできていない音があるという人がいるかもしれない。だがシューベルトは(ひょっとして他も)、ライヴ録音がいい。

スタジオ録音が絶対的にすぐれているとするグールドの主張は間違っていた。ストックホルムでのピアノ・ソナタ作品110の実況録音には厚みがある。時間に対してどこか緊張したところ、なにか奪われたもの、最後のシカゴ・コンサートで同じ曲も退くの演奏がどのようなものだったかを想像させるに足るなにかが存在する。時間の切迫が動作を鋭くし思考の速度をはやめるチェスの勝負のように、ある種の絶対的必然性があるのだ。スタジオの場合、時間はじゅうぶんにある。あらゆる方向で時間をたどりなおすことができる。自由だともいえるが、それなりの代価を払わねばならない。(シュネデール)

さらに、ここではアファナシエフとともにこう言おう。

《それに私も、どうすればこのソナタ(D.960)の心理的な重みに耐えることができるだろう。たとえウィークデーの夜、小さなホールで演奏するだけとしても。このソナタをわが家で弾いたら何が起こるだろう? 大文字の「他者」がそのまったき光輝と恐怖とともに出現する。ある意味において、このソナタは私の不俱戴天の敵なのだ。弾けば弾くほど、私は具合が悪くなる。私を傷つけ、私の苦痛をいつまでも引きのばすことを知りながら―――今回も、とどめの一撃を与えてはくれないのだ―――私はこの他者を抱きしめ、接吻する。日常生活の中でなら、こんなにひどいカタストロフに襲われれば命を落としていただろう。》

…………

連中は何もいうことがないので、名前だけでものをいうのです。テレビは、対話というか、そうした話題をめぐって話をする能力を確かに高めはしました。だが、見る能力、聴く能力の進歩に関しては何ももたらしていない。私が『リア王』にクレジット・タイトルをつけなかったのはそのこととも関係を持っています。

ふと、知らないメロディを聞いて、ああ、これは何だろうと惹きつけられることがあるでしょう。それと同じように、美しい映像に惹きつけられて、ああ、これは何だろうと人びとに思ってもらえるような映画を作ってみたいのです。しかし、名前がわからないということは人を不安におとしいれます。新聞やテレビも、一年間ぐらい絶対に固有名を使わず、たんに、彼、彼女、彼らという主語で事件を語ってみるといい。人びとは名前を発音できないために不安にもなるでしょうが、題名も作曲者もわからないメロディにふと惹きつけられるように、事件に対して別の接し方ができるかもしれません。

いま、人びとは驚くほど馬鹿になっています。彼らにわからないことを説明するにはものすごく時間がかかる。だから、生活のリズムもきわめてゆっくりしたものになっていきます。しかし、いまの私には、他人の悪口をいうことは許されません。ますます孤立して映画が撮れなくなってしまうからです。馬鹿馬鹿しいことを笑うにしても、最低二人の人間は必要でしょう(笑)。(ゴダール「憎しみの時代は終り、愛の時代が始まったと確信したい」(1987年8月15日、於スイス・ロール村――『光をめぐって』所収)


…………


それは相手に対する何の顧慮も打算もなしに、僕の中に、愛の一つの原型が出来てしまったことを意味する。それはもう彼女ではなく僕だけの原型なのだ。しかし、これは僕に不幸をもたらすとともに、僕に自分自身に対する誇りをあたえてくれた。そういう女と同時に海の遥か向うを見ていた自分を想い出す。どこまでも遥かに行って決して止らないこと、そして愛の親密の中に自分を完全に打ちこむこと、こういう物騒な形が僕の中に出来ていたのだ。

肉体は成長し、成熟し、老衰して死んでゆく。ただ一回だけ。だから本当の愛も唯一つしかない。それにすべてを注ぎ尽くすことのできた人は幸福である。唯一つと言ったが、本当の人生を生きる人間にとって、愛は一つ以上あってはかえって余計で、愛そのものを破壊してしまうのだ。しかしその唯一つはどうしてもなければ、その人の全人生は他に何があっても「無意味」なのだ。その代りそれ一つがあれば、他に何もなくても全部的に充実しているのだ。

魂の深さの差が、愛のすがたが一つであるに限らずあるいは正にその故に、徹底的に露われる。しかしこの深さの度合は、本当は思考の深さの度合の基準にならなければならないものである。何となればそれは、本質的には純粋さの度合だからである。自分を超えるものがそこにある、というのとある意味で同じことだからである。

真の愛とは一人の男あるいは一人の女をその自我から引きはなす、そういう愛である。そして他の者の意志がそれにとってかわるのである。愛の行為とは相手をその自我から引きはなし、それを吸収することである。つまり、相手にとってかわるのである。相手は己れから決定的に引き離されてしまうのである。究極の行為はだから暴力である。しかしそれは、同意し同意された暴力だ。僕は何も、肉体に基づく行為のことを言っているのではない。ただ愛のもつ意義について語っているのである。


愛はそのもの自体としては存在しない。しかし、だからといって、愛が存在する凡てのものよりも強いことに変りはない。死についても同じ事が言える。死は存在しない。が、それが我々の存在にとって本質的であることに変りはない。愛することと死ぬること、この生の二面が、恐るべきある瞬間に合体する。愛は死を鎮め、また、死がなければ愛には何の意味もない。……僕が死のみを待つとするなら、それは愛しか待たないということだ。


ーーここにはリルケがいるだろう、『ドゥイノの悲歌』の、あるいは『マルテの手記』のリルケもいる。

ひょっとして最晩年のラカンさえいるかもしれない。
最晩年のラカン? そのまま信じる必要はない、枯淡のラカンかも。

《「枯淡」は衰えの美称にすぎず、「老成円熟」は積年の習慣の言い換えにすぎないだろう。》(加藤周一「老年について」 1997


The standard notion of love in psychoanalysis is reductionist: there is no pure love, love is just “sublimated” sexual lust. Until his late teaching, Lacan also insisted on thenarcissistic character of love: in loving an Other, I love myself in the Other; even if the Other is more to me than myself, even if I am ready to sacrifice myself for the Other, what I love in the Other is my idealized perfected Ego, my Supreme Good—but still my Good. The surprise here is that Lacan inverts the usual opposition of love versus desire as ethics versus pathological lust: he locates the ethical dimension not in love but in desire—ethics is for him the ethics of desire, of the fidelity to desire, of not compromising on one’s desire.

Furthermore, the late Lacan surprisingly reasserts the possibility of another, authentic or pure love of the Other, of the Other as such, not my imaginary other. He refers here to medieval and early modern theology (Fénélon) which distinguished between physical” love and pure “ecstatic” love. In the first (developed by Aristotle and Aquinas), one can only love another if he is my good, so we love God as our supreme Good. In the second, the loving subject enacts a complete selferasure, a complete dedication to the Other in its alterity, without return, without benefice, whose exemplary case is mystical selferasure. Here Lacan engages in an extreme theological speculation, imagining an impossible situation: “the peak of the love for God should have been to tell him ‘if this is thy will, condemn me,’ that is to say, the exact opposite of the aspiration to the supreme good.” Even if there is no mercy from God, even if God were to damn me completely to external suffering, my love for Him is so great that I would still fully love him. This would be love, if love is to have le moindre sens. François Balmès here asks the right question: where is God in all this, why theology? As he perceptively notes, pure love must be distinguished from pure desire: the latter implies the murder of its object, it is a desire purified of all pathological objects, as desire for the void or lack itself, while pure love needs a radical Other to refer to.This is why the radical Other (as one of the names of the divine) is a necessary correlate of pure love.(ZIZEK"LESS THAN NOTHING")





2013年9月2日月曜日

日本語と下からの目線

「~って、どうなんでしょう」
「~って、~じゃないですか」
「~って、~ですよね」

あるいは、「~なんですよね」、「そうでしょうね」、「かもしれないですね」、等々、相手にそれとなく同調を迫り、相手を自分のペースに巻き込んで、うやむやのうちに同調させようという圧力を持つ語尾表現というものがある。

オレは寒いぼ立つんだな
このたぐいの表現で絡まれると
いや絡まれなくても眺めただけでもだな
きみたちは平気なのかね

(オレの長い海外住いが、
居心地の悪さを感じる原因のひとつであるのは自覚しているよ)

「上からの目線」じゃなくて
「下からの目線」のつもりなんだろうがね
葛藤を避けて偽の安堵感を共有するってわけかい?

そもそも「下からの目線」というのは覗きだからな
からみついてくるんだよな、湿った瞳が
なにを覗くのかはいろいろあるがね

ナオミさんが先頭で乗り込む。鉄パイプのタラップを二段ずつあがるナオミさんの、膝からぐっと太くなる腿の奥に、半透明な布をまといつかせ性器のぼってりした肉ひだが睾丸のようにつき出しているのが見えた。地面からの照りかえしも強い、熱帯の晴れわたった高い空のもと、僕の頭はクラクラした。(大江健三郎「グルート島のレントゲン画法」『いかに木を殺すか』所収)

日本語ってのは、とくにその会話文は、本質的に「敬語的」で、対等の表現が難しいのであるなら、上からの目線のほうがまだましさ


谷川俊太郎の「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」って詩は、語尾にとてつもない工夫があって、なんとか日本語の発話文で、上からでもなく下からでもなく、対等にしようという稀有な挑戦だな。


過去をふり返るとめまいがするよ
人間があんまりいろいろ考えるんで
正直言ってめんどくさいよ
そのくせい自分じゃ何ひとつ考えられない
ぼくは自分を鉛筆の落ちた音のように感ずる
カチャンコロコロ……
過去がないから未来もない音だね

それでとーー
ちょっともう続けようがないなこの先は(谷川俊太郎「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」)
ーー「一九七二年五月某夜、なかば即興的に鉛筆書き」だそうで、この調子のが十四篇あるんだけどね。しかも十四番目だけが、です調で書かれている。




上からの目線ってのは、小羊くんたちにとってリンチが怖いんだろうな

・「ドヤ顔」だとか「上から目線」みたいな言葉が、あっという間に市民権を得たのは、2010年代の日本人が、雁首を揃えて出る杭を打ちたがるモードの人間になっているからだと思います。

・今月の「新潮45」にも書いたけど、「ドヤ顔」「上から目線」がきらわれる理由は、21世紀の主要な時代思潮が嫉妬(ねたみそねみひがみやっかみ)になっているからだということです。

・ 個人的にはネットによってリンチ言論が可視化されからだと考えています。(小田嶋隆ツイート)



いまさらヴァレリーみたいにややこしいことはいわないさ、
《急いでいて何を食べているのかもわからずにいる人が食べたり飲みこんだりするような調子で、文句を無意識に書くのでない人が作家》

反射的・反応的に書かれた文ってのは、読み手側からしたらそれなりに楽しみがあるからな

夢でなくても、いい直しで削除された箇所ってのは、その人物の、そのときの考えの臍だろうからね

いや、そういう錯覚に閉じこもることがときには出来るとだけしておこう。

私は患者相手の夢分析にさいして、つぎのようなことをやってみるのがつねであるが、これは必ず成功している。すなわちある夢の報告が最初どうもわかりにくいような場合には、私は相手にその夢の報告をもう一度繰返させる。すると二度目の報告が最初の報告と同じ文句で行われることはまずまずないといってもいい。二度目の報告にさいして文句の変更された箇所こそは、夢の偽装の成功しなかった箇所なのである。つまりそういう箇所は私にとっては、ニーベルンゲン伝説中のハーゲンにとって、ジークフィリートの着物の背中に縫いつけられた目印のような意味を持つのである。そういう箇所から夢判断を開始すればいいのである。相手は、私の(もう一度話してみてくれという)要求によって、私がその夢解きに特別の努力をしようとしているのだと気づいて、抵抗衝動の下に、夢偽装の手薄な箇所を、私から怪しまれるような粗漏な言い回しではなしに、もっとさりげない巧妙な言い回しに変えることによって急いで補強しようとする。その結果かえって私をして、彼らが削りとったその言い回しに注意させるようなことになってしまうのである。夢の解釈を阻止しようとするその努力から、その夢の本音を包み隠す着物を織り上げたさいの慎重さも推知されるのである。(フロイト『夢判断』)

まあなんでもいいが
それなりに聡明なはずのインテリくんたちよ
「~なんですよね」、「そうでしょうね」、「かもしれないですね」
などと呟いてばかりおらずに
日本語を救えよ


この二一世紀の言語的抑圧は言語の恐ろしい単純化である。もはやわれわれは書いていない。つついているのである。携帯電話によるメールをみよ。書字とワープロの相違は書き文字とタイプライターの相違である。書字との間にはまだ往復性がある。(中略)コンピュータ以後はこの往復はない。携帯電話に至っては、これは肉体をほとんど失ってほとんど骨まで単純化された形での、会話言語への一種の回帰である。》(中井久夫「言語と文字の起源について」「図書」2009年1月号

…………


《日本人は相手のことを気にしながら発言するという時、それは単に心理的なものである以上に、人間関係そのもの、言語構成そのものがそういう構造をもっているのである。》(森有正全集12 P86-87 )

言語は集団的なものです。だから、個人は言語の習得を通して、集団的な経験を継承するということができる。つまり、言語の経験から出発すれば、集団心理学と個人心理学の関係という厄介な問題を免れるのです。ラカンは、人が言語を習得することを、ある決定的な飛躍として、つまり、「象徴界」に入ることとしてとらえました。その場合、言語が集団的な経験であり、過去から連綿と受け継がれているとすれば、個人に、集団的なものが存在するということができます。

このことは、たとえば、日本人あるいは日本文化の特性を見ようとする場合、それを意識あるいは観念のレベルではなく、言語的なレベルで見ればよい、ということを示唆します。(柄谷行人「日本精神分析再考(講演)(2008)」)


《日本語を見ておりますと、日本語で何か言うわけです。「私は生徒です」とか「これは本です」とか言っているわけですが、よく考えて見ますと、「です」というのはいったい何だろうか。「です」というのは話しことばですから「私」しかそれを言わない。あなたがそれを言う時にそれを私から見る場合に「です」と言うのはぜんぜん意味をなさないわけでしょう。「これは時計です」というのは、私が時計ですということを言うわけです。と同時に「です」の中に「あなた」が入っている。もし、目の前に非常に偉い、白いひげの生えたおじいさんが来たら、「これは時計でございます」と無意識に言ってしまう。それから前に弟とか息子が出てくると、「これは時計だ」と言うわけでしょう。すると「です」とか「でございます」とか「だ」とことになっている。(……)これは一人称的な性格を持っていると同時に、二人称の如何がそれに影響しているわけです。ですから、「だ」とか「です」とか「ございます」とかいう、いわゆる敬語というものは(……)実は私、日本語全体がこういう意味で敬語だと思うのです。(……)


だから何か日本語でひとこと言った場合に、必ずその中には自分と相手とが同時に意識されている。と同時に自分も相手によって同じように意識されている。だから「私」と言った場合に、あくまで特定の「私」が話しかけている相手にとっての相手の「あなた」になっている。(……)私も実はあなたのあなたになって、ふたりとも「あなた」になってしまうわけです。これを私は日本語の二人称的性格と言います。ですから、私は日本語には根本的には一人称も三人称もないと思うんです」》(森有正「経験と思想」1974)


前島密がまず「ツカマツル」や「ゴザル」といった語尾を問題にしたことに注意すべきである。「言文一致」が当初からまるで語尾の問題であるかのようになっていったのは、日本語の性質からくる必然だった。日本語は、つねに語尾において、話し手と聞き手の「関係」を指示せずにおかないからであり、またそれによって「主語」がなくても誰のことをさすかを理解することができる。それはたんなる語としての敬語の問題ではない。時枝誠記がいうように、日本語は本質的に「敬語的」なのである。この場合、前島は「ツカマツル」とか「ゴザル」を用いるように提言しているが、それは武士という身分またはそのような「関係」と切りはなすことはできない。(……)

二葉亭四迷は「敬語なし」の「だ調」を試みたというが、「だ」はやはり相手に対する関係を示しているのだから、広義の“敬語”であることにかわりはない。われわれが話し言葉で「だ」を用いるとき、ふつう同格まはた目下の者との関係においてである。「です」であっても、「だ」であっても、本当は同じことで、関係を超越したニュートラルな表現ではない。にもかかわらず、「だ」調が支配的になっていったのは、それがいわば「敬語なし」に近くみえたからだと思われる。(柄谷行人「内面の発見」『日本近代文学の起源』所収)


《……いまさらながら、日本語の文章が相手の受け取り方を絶えず気にしていることに気づく。日本語の対話性と、それは相照らしあう。むろん、聴き手、読み手もそうであることを求めるから、日本語がそうなっていったのである。これは文を越えて、一般に発想から行動に至るまでの特徴である。文化だといってもよいだろう。》(中井久夫「日本語の対話性」2002初出 『時のしずく』所収)


日本語の敬語もよく考えると単に丁寧さの程度だけではない。われわれは同じ対象に向って「です、ます」調で講演し、「である」調で文を綴る。

「です、ます」調が講演や会話で選ばれるのは、接続がやさしいからである。実際、「です」「ございます」は、文から独立して、喚起的な間投詞(というのであろうか)として使用されている。「あのですね、実はですね、昨日のことでございますが、あのう、お電話をさしあげたんですがね、いらっしゃいませんでしたですね。それでですね……」。こういう用法は、顔が見えない電話での会話で頻用される。

「である」にこの作用をもたせると、政治演説になる。「のであるんである」は政治家の演説を嘲笑するのに恰好である。しかし、予想外に多くの批評家の文に「のである」の頻用を発見する。「だ」の間投詞的用法は某政治家が愛用して「それでだ、日本はだ、再軍備してだ……」とやっていたが、「突っぱねるような調子」と批評され、不人気の一因となった。

「のである」を、私は「ここで一度立ち止まっていままでの立論を振り返れ」というしるしと見る。どうしてもなくてはかなわぬ場合以外に使用すると相手をむやみに立ち止まらせ、相手の頭にこちらの考えを押し込もうとする印象の文になり。品が下る。

「です、ます」調で書かれた文は、相手にそれとなく同調を迫り、相手を自分のペースに巻き込んで、うやむやのうちに同調させようという圧力を持つと私は思う。「です、ます」調の文に対しては批評意識が働かせにくい。京都学派がかつて頻用した「なかろうか」にも同じ傷害を感じる。

日本文の弱点は語尾が単調になることで、語尾を豊かにしようと誰も苦心するはずだ。動詞で終ることを多くする。体言止めにする。時に倒置法を使う。いずれもわるくない工夫である。(中井久夫「日本語を書く」1985初出『記憶の肖像』所収)




…………


附記:


時枝は、英語を天秤に喩えた。主語と述語とが支点の双方にあって釣り合っている。それに対して日本語は「風呂敷」である。中心にあるのは「述語」である。それを包んで「補語」がある。「主語」も「補語」の一種類である! (私はこの指摘を知って雷に打たれたごとく感じた)。「行く」という行為、「美しい」という形容が同心円の中心にある。対人関係や前後の事情によって「誰が?」「どこへ?」「何が?」「どのように?」が明確にされていない時にのみ、これを明言する。(中井久夫「一つの日本語観」『記憶の肖像』所収)







続けて、《どの言語でも、発話には、既知部分(known message)と未知部分(New message)を含む。日本語は「主語」がないのではなく、それが既知メッセージである場合には省略するか、「は」を使用することが多い。「が」は新規メッセージである場合に使用することが多い。他に色々な「補語」も、状況や対人関係に応じて省略する》、と。ただ、一つの言語における未知部分と既知部分の比はほぼ一定であり、この比が最大であるのは日本語であるとする、さる英語学者の見解を付記しつつ、《「時枝の風呂敷」を最大限に使用するのは特別の場合だけであり、既知を共有するに従って風呂敷はどんどん廃棄される》とする。すなわち「述語」のみになるということだ。

とにかく述語が中心にしっかりあればよいというのが日本語の構造であろう。「あとは何を言うか言わないかは、主に対人関係、ひろくは状況の関数である」というと、多くの欧米人は納得する。(同上)

…………

※参照

私は、「日本人」において「経験」は複数を、更に端的には二人の人間(あるいはその関係)を定義する、と言った。(……)二人の人間を定義するということは、我々の経験と呼ぶものが、自分一個の経験にまで分析されえない、ということである。(……)肉体的に見る限り、一人一人の人間は離れている。常識的にはそこに一人の主体、すなわち自己というものを考えようとする誘惑を感ずるが、事態はそのように簡単ではない。(……)本質的な点だけに限っていうと、「日本人」においては、「汝」に対立するものは「我」ではないということ、対立するものも相手にとっての「汝」なのだ、ということである。(……)親子の場合をとってみると、親を「汝」として取ると、子が「我」であるのは自明のことのように思われる。しかし、それはそうではない。子は自分の中に存在の根拠をもつ「我」ではなく、当面「汝」である親の「汝」として自分を経験しているのである。(……)肯定的であるか、否定的であるかに関係なく、凡ては「我と汝」とではなく、「汝と汝」との関係に推移するのである。(森全集12 P64-65) 

……相互篏入性とは、関係が対等者間の水平な関係ではなく、上下的な垂直的な関係だという点である。(……)親子、上役と下のもの、先生と生徒、師匠と弟子、など一定の社会秩序を内容とするものである。(……)したがって、二項関係の直接性は、本当の直接性、すなわち独立の個人の間の接触ではなく、すでにある限定を受けた者同士が、その限定の框の中で、その限定そのものを内容として起る直接性なのである。(森全集12 P74-75)


《夫人同伴でパリ滞在中の高田氏(彫刻家高田博厚:引用者)を訪れる。ソルボンヌ広場で一緒に昼食。

僕はある種の態度に我慢できない。自分が三人称になれないこと、そして話し相手が三人称になることを認められないこと。換言するなら、話し相手と相互に二人称の関係に入り、融合してしまい、自分自身及び話し相手が主観性を取り戻すことを認められないこと、このような態度が僕には我慢できない。

次の二つの態度を分つ本質的な相違について。一人称で話すこと、一人称で話すことは話すのだが一人称を二人称の中に流し込んで話すこと。》(森全集14  P162



 ーー森有正は、もし高田氏とフランス語で話せば、そういうことはないだろう、と語っている。





※追記:上に引用された中井久夫の文のほぼ同様の叙述

日本語にはーーどの言語にでもーー「改まり -くだけ方」の水準がいくつかある。「である」「です・ます」「だ」調はそのもっとも大まかなものである。そのどれを使うかはアイドリングをしているうちにおのずと決まる。むろん、後に訂正することもある。きまらなければ、「です」で書き流して、後に改める。「です」調は論理を追うことを曖昧にして、なし崩しに意見への同調を迫る嫌いがある。私はあまり使いたくないが、講演速記ではやむをえないこともある。しかし、講演速記でも、初めと最後のパラグラフだけを「ですます」調に残して後は「である」調に変えることもある。これは「講演ですよ」という記号を全文の前と後に引用符のように付けているのである。「だろう」はなるべく少なくする。「でなかろうか」は慇懃無礼である。京都学派の「なければならない」は強要である。「であるまいか」のほうがましである。

もっとも、私は「ではないか」を外国語の直叙文の翻訳に使用することがある。内容が強調的な時である。日本語の欠点の一つは文末の単調さにあるからである。「ではないか」は「ある!!」ということである。

逆に、ふつう強調に使われる「のだ」は「ここで立ち止まってもう一度これまでの展開を振り返って下さい」という記号としてしか用いない。「のだ」の多い文章は、自分でも自信が持てないのを覆い隠そうとして、まず自分に一所懸命言い聞かせているという印象を持つ。「いかかがものであろうか」は政治家が頻繁に使うようになってから使わないようにしている。(中井久夫「執筆過程の生理学」『家族の深淵』所収 p366)



かつて中村光夫などの例外はあるが(小林秀雄などの「である」調への抵抗だったのだろう)、今のよい子は、「です・ます」調はやめとけ! ネット上に腐るほどあるのだから。   


わが国が歴史時代に踏入った時期 は、必ずしも古くありませんが、二千年ちかくのあいだ、外国から全面 的な侵略や永続する征服をうけたことは、此度の敗戦まで一度もなかっ たためか、民族の生活の連続性、一貫性では、他に比類を見ないようで す。アジアやヨーロッパ大陸の多くの国々に見られるように、異なった 宗教を持つ異民族が新たな征服者として或る時期からその国の歴史と文 化を全く別物にしてしまうような変動は見られなかったので、源平の合戦も、応仁の乱も、みな同じ言葉を話す人間同士の争いです。 (中村光夫『知識階級』