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2014年5月21日水曜日

五月廿一日 大学人の踊る音楽「新自由主義」

大学が近代において身分社会を補完し解毒する役割を果たしてきたことは事実である。しかし、学歴社会と大学の存在価値とは本来は別個である。大学とは変人、奇人をも含めて知識人を保護し、時にそこから人類更新の契機を生み出させる点で欠かせない場ではなかろうか。学歴社会が必ずしも大学を必要としないのは前近代中国を見ればよい。そして、まさかと思いたいのだが、学歴社会は生き残って、「知識人」は消滅に近づいたのではなかろうか。知識人のほうが弱い生き物で再生しにくいからである。(中井久夫「学園紛争とは何であったのか」『家族の深淵』1995所収)

現在の大学が、奇人・変人を許容するのかどうかというのは、詳らかにしない。だが大学システムが新自由主義(ネオリベラリズム)の怒涛の波に浚われつつあるのではないかというのは十分に憶測される。新自由主義の評語とは、「成功」であり、己れに「投資すること」、そして成功者と「敗者」(負け犬)の選別と排除であろう。

生産性、競争性、革新、成長、アウトプット、プレゼンテーションーーこれらはすべて経済のディスクール、――ラカン派的に言えば「資本主義のディスクール」ーーの語彙群であるが、大学人も不可視の行政システムが奏でるこれらの評語の音楽に乗って「踊る」ことを余儀なくされているに相違ない。(参照:Paul VerhaegheIdentity, trust, commitment and the failure of contemporary universities http://gfm.statsvet.uu.se/Portals/1/UppsalaUfourdec2013.pdf


以下も冒頭の中井久夫のエッセイの断片と同様、ほぼ二十年前に書かれた文章である。

……現在、科学論文は「引用係数」などいくつかの指数で評価される。論文が引用される度に、その雑誌固有の指数(米国と英国の雑誌各一冊が最高で日本の雑誌はほとんどすべてコンマ以下に評価されている)を乗じては加算したデータベースを作っている機関が世界の某所にあって、誰でも電話一本でただちに任意の研究者の「指数」を知ることができる。

(……)

では「研究の自由」は大学にあるか。

自分の好きな研究をこつこつ独りでやるという、古典的ヨーロッパ型研究の自由があるとすれば、ひょっとすると東大かもしれない。研究費の相対的潤沢に支えられて東大には「出世しようとさえ思わなければ自由にやらせてくれる」面がある(友人の某教授談)。60年代前半の「学術振興会流動研究員」として東大の生物学研究室を経験している私は「伝票一つ書けば高価な試薬を棚から自由にとっていい」東大に驚嘆した。母校では、いかに重要な研究でいかに成果が期待されるかを上司同僚に力説して初めて貰える試薬をである。

現在、東大医学部は「引用指数」において京大の十分の一であると東大医学部長が東大医学部を叱咤しているが、そうなると東大のよさがなくなるのではないかと心配である。「引用指数」の高さはクーンのいう「優秀な通常型科学者」の程度を示すものである。「パラダイム形成科学者」が米国型の研究室から出ないことは、米国人自身が嘆くとおりである。もっとも、「なぜニュートンがアメリカから出ないか」という彼らの嘆きは、「プリンストン大学高等学術研究所」に出来上がった天才を集めても解消しないはずで、大学を変人奇人の溜まり場として数世紀を経なければなるまい。(中井久夫「医学部というところ」『家族の深淵』所収)

…………

学問はこれを身に体し、これを事に措いて、始て用をなすものである。否るものは死学問である。これは世間普通の見解である。しかし学芸を研鑽して造詣の深きを致さんとするものは、必ずしも直ちにこれを身に体せようとはしない。必ずしも径ちにこれを事に措こうとはしない。その矻々として年を閲する間には、心頭姑く用と無用とを度外に置いている。大いなる功績は此の如くにして始て贏ち得らるるものである。 この用無用を問わざる期間は、啻に年を閲するのみではない。あるいは生を終るに至るかも知れない。あるいは世を累ぬるに至るかも知れない。そしてこの期間においては、学問の生活と時務の要求とが截然として二をなしている。もし時務の要求が漸く増長し来って、強いて学者の身に薄ったなら、学者がその学問生活を抛って起つこともあろう。しかしその背面には学問のための損失がある。研鑽はここに停止してしまうからである。(森鴎外『渋江抽斎』)

わたくしはアマチュアラカン派でもなんでもないが、それでもときにラカン派の論文をかなり熱心に読むことがある(というか比較的専門的な論文を読むのはほとんどフロイトやラカン派の論文でしかない)。そのとき気づくのは、アウトプット系の研究者と考証系の研究者がいるということだ。後者はときに孔子や老子を読むように研究していると思うことがある(日本の研究者だけではない)。

わたくしは此に抽斎の修養について、少しく記述して置きたい。考証家の立脚地から観れば、経籍は批評の対象である。在来の文を取って渾侖に承認すべきものではない。是において考証家の末輩には、破壊を以て校勘の目的となし、毫もピエテエの迹を存せざるに至るものもある。支那における考証学亡国論の如きは、固より人文進化の道を蔽塞すべき陋見であるが、考証学者中に往々修養のない人物を出だしたという暗黒面は、その存在を否定すべきものではあるまい。 しかし真の学者は考証のために修養を廃するような事はしない。ただ修養の全からんことを欲するには、考証を闕くことは出来ぬと信じている。何故というに、修養には六経を窮めなくてはならない。これを窮むるには必ず考証に須つことがあるというのである。(……)

要するに迷庵も抽斎も、道に至るには考証に由って至るより外ないと信じたのである。固よりこれは捷径ではない。迷庵が精出して文字を覚えるといい、抽斎が小学に熟練するといっているこの事業は、これがために一人の生涯を費すかも知れない。幾多のジェネラションのこの間に生じ来り滅し去ることを要するかも知れない。しかし外に手段の由るべきものがないとすると、学者は此に従事せずにはいられぬのである。(同『渋江抽斎』)








2014年5月17日土曜日

五月十七日 美談家森鴎外

◆ 『伊沢蘭軒』 

最終回 その三百七十一より

わたくしの渋江抽斎、伊沢蘭軒等を伝したのが、常識なきの致す所だと云ふことは、必ずや彼書牘の言の如くであらう。そしてわたくしは常識なきがために、初より読者の心理状態を閑却したのであらう。しかしわたくしは学殖なきを憂ふる。常識なきを憂へない。天下は常識に富める人の多きに堪へない。


この文は、荷風の『濹東綺譚』にも引用されている、ーー《「言文一致でも鴎外先生のものだけは、朗吟する事ができますね。」帚葉翁は眼鏡をはずし両眼を閉じて、伊沢蘭軒が伝の末節を唱えた。「わたくしは学殖なきを憂うる。常識なきを憂えない。天下は常識に富める人の多きに堪えない。」》(『濹東綺譚』)


◆その三百七十より

……此にわたくしの自ら省みて認めざることを得ざる失錯が胚胎してゐる。即ち異例の長文が人を倦ましめたことである。(……)

人はわたくしの文の長きに倦んだ。しかし是は人の蘭軒伝を厭悪した唯一の理由では無い。蘭軒伝は初未だ篇を累ねざるに当つて、早く既に人の嘲罵に遭つた。無名の書牘はわたくしを詰責して已まなかつたのである。

書牘はわたくしの常識なきを責めた。その常識なしとするには二因がある。無用の文を作るとなすものが其一、新聞紙に載すべからざるものを載すとなすものが其二である。此二つのものは実は程度の差があるに過ぎない。新聞紙のために無用なりとすると、絶待に無用なりとするとの差である。

わたくしは今自家の文の有用無用を論ずることを忌避する。わたくしは敢て嘲を解かうとはしない。

…………

『伊沢蘭軒』を読み終わって、今度は『渋江抽斎』を読み返す。かねてからいささか奇妙に感じていた叙述がある。抽斎の嗣子である渋江保と姉や甥のあいだに十数年も付き合いがなくなってた事が書かれてる箇所だ。明治時代に姉弟の間でそんな形で疎遠になることがあるのは、よほど互いに軋轢があったのではないかと疑うのだが、鴎外の文には、そのことに触れている箇所はやはり今回も見当たらない。たとえば父母の忌日などの法事も姉と弟でそれぞれ勝手にやっていたのだろうか。

血族関係は杵屋勝久さんが姉で、保さんが弟である。この二人の同胞の間に脩という人があって、亡くなって、その子が終吉さんである。然るに勝久さんは長唄の師匠、保さんは著述家、終吉さんは図案を作ることを業とする画家であって、三軒の家は頗る生計の方向を殊にしている。そこで早く怙を失った終吉さんは伯母をたよって往来をしていても、勝久さんと保さんとはいつとなく疎遠になって、勝久さんは久しく弟の住所をだに知らずにいたそうである。(その七)
今残っている勝久さんと保さんとの姉弟、それから終吉さんの父脩、この三人の子は一つ腹で、抽斎の四人目の妻、山内氏五百の生んだのである。勝久さんは名を陸という。(その九)

鴎外の『渋江抽斎』新聞連載が機縁になって三人は漸く顔を合わせたり手紙をやりとりするようになる、《叔父甥はここに十数年を隔てて相見たのだそうである。》(その八)

あるいは杵屋勝久、すなわち保の姉陸は、母五百に溺愛され過ぎた弟保との気持ちの疎隔があって、《勝久さんと保さんとはいつとなく疎遠になって、勝久さんは久しく弟の住所をだに知らずにいた》のではないかなどと憶測したくなるときがある。

陸が生れた弘化四年には、三女棠がまだ三歳で、母の懐を離れなかったので、陸は生れ降ちるとすぐに、小柳町の大工の棟梁新八というものの家へ里子に遣られた。さて嘉永四年に棠が七歳で亡くなったので、母五百が五歳の陸を呼び返そうとすると、偶矢島氏鉄が来たのを抱いて寝なくてはならなくなって、陸を還すことを見あわせた。翌五年にようよう還った陸は、色の白い、愛らしい六歳の少女であった。しかし五百の胸をば棠を惜む情が全く占めていたので、陸は十分に母の愛に浴することが出来ずに、母に対しては頗る自ら抑遜していなくてはならなかった。

これに反して抽斎は陸を愛撫して、身辺におらせて使役しつつ、或時五百にこういった。「己はこんなに丈夫だから、どうもお前よりは長く生きていそうだ。それだから今の内に、こうして陸を為込んで置いて、お前に先へ死なれた時、この子を女房代りにするつもりだ。」(その八十五)
陸は翌年まで里親の許に置かれた。 棠は美しい子で、抽斎の女の中では純と棠との容姿が最も人に褒められていた。五百の兄栄次郎は棠の踊を看る度に、「食い附きたいような子だ」といった。五百も余り棠の美しさを云々するので、陸は「お母あ様の姉えさんを褒めるのを聞いていると、わたしなんぞはお化のような顔をしているとしか思われない」といい、また棠の死んだ時、「大方お母あ様はわたしを代に死なせたかったのだろう」とさえいった。(その六十九)

さらには杵屋勝久は愛する父の嗣子保に不甲斐なさを感じていたのかもと疑える痕跡ーーもちろんこれもわたくしの勝手な憶測であるがーーそう読みたくなる鴎外の保評がわずかにないでもない。

保さんは抽斎の第七子で、継嗣となったものである。(……)師範学校において、教育家として養成せられ、共立学舎、慶応義塾において英語を研究し、浜松、静岡にあっては、あるいは校長となり、あるいは教頭となり、旁新聞記者として、政治を論じた。しかし最も大いに精力を費したものは、書肆博文館のためにする著作翻訳で、その刊行する所の書が、通計約百五十部の多きに至っている。その書は随時世人を啓発した功はあるにしても、概皆時尚を追う書估の誅求に応じて筆を走らせたものである。保さんの精力は徒費せられたといわざることを得ない。(その百十二)


抽斎伝は嗣子渋江保からの聞き書きの箇所が多分にある。抽斎の四人目の妻五百をめぐる出来事の叙述は何度読んでも面白いが、この小説を史伝物とするわけにはいかない。

大岡昇平が鴎外の『堺事件』を美談に過ぎないとしたように、抽斎伝も抽斎の妻五百の「美談」の物語と言ってもよい箇所が多分にあるのではないか。五百は息子保を溺愛していた。その溺愛された渋江保の母の物語の聞き書き。とくに抽斎が死去した後の後半はその印象が強い。

保の名は成善(しげよし)であったが、明治四年、保と名を改めている。《これは母を懐うが故に改めたので、母は五百の字面の雅ならざるがために、常に伊保と署していたのだそうである。》(その九十三)

以下の加藤周一の文は『渋江抽斎』の最も有名な箇所を引用しての五百賛である。この賞賛を批判するつもりはない。おそらく殆どの読み手は、この五百が腰巻一枚で三人の不埒な侍を追い払った場面の叙述に魅惑されるだろう。だが、この加藤周一の文は五百という人物をいささか褒め過ぎているきらいがないでもないと今は思う。鴎外の聞き書き文にわずかでも「批判=吟味」があっていいのではないか、と。鴎外の小説には、大正以後の多くの日本の小説家や批評家たちに救い難くある「メロドラマ性」の嚆矢がありはしないか。

みずから進んで抽斎の妻に嫁し、思慮深く、好学心があり、しかも勇敢であった五百に鷗外は遂にみずから得なかった理想の妻の姿を見出したのではなかろうか。

作中もっとも劇的な場面の一つは、抽斎を脅迫する三人の侍を、五百が追い出した話である。三人が訪れたとき、五百は浴室にいた。三人は奥の間に通って、抽斎に金を要求し、容れられずとみるや、刀の柄(つか)に手をかけて、抽斎をかこんだ。そのにらみ合いの最中に、廊下に足音もせず、静かに障子が開く。

《刀の柄に手を掛けて立ち上った三人の客を前に控えて、四畳半の端近く坐していた抽斎は、客から目を放さずに、障子の開いた口を斜に見遣った。そして妻五百の異様な姿に驚いた。

五百は僅(わずか)に腰巻一つ身に著けたばかりの裸体であった。口には懐剣を銜(くわ)えていた。そして閾(しきい)際に身を屈めて、縁側に置いた小桶二つを両手に取り上げるところであった。小桶からは湯気が立ち升(のぼ)っている。縁側を戸口まで忍び寄って障子を開く時、持って来た小桶を下に置いたのであろう。

五百は小桶を持ったまま、つと一間に進み入って、夫を背にして立った。そして沸き返るあがり湯を盛った小桶を、右左の二人の客に投げ附け、銜えていた懐剣を把って鞘を払った。そして床の間を背にして立った一人の客を睨んで、「どろぼう」と一声叫んだ。

熱湯を浴びた二人が先に、柄に手を掛けた刀をも抜かずに、座敷から縁側へ、縁側から庭へ逃げた。跡の一人も続いて逃げた。》(森鴎外著『渋江抽斎』)

これは探偵小説の一場面ではなく、さながら映画の活劇場面であろう。腰巻一枚の方はしばらく措き、果たして今日の映画女優に、一声能(よ)く三人の侍を走らせる裂帛(れっぱく)の気合ありやなしや。私は尊敬する先学北野克氏から恵贈された五百自筆の短冊「秋雨」を居室に掲げ、それをみる度に、鴎外の描いた幕末の女の勇気を想出す。(加藤周一著「『渋江抽斎』について」)

※永井荷風、石川淳、丸谷才一などの『渋江抽斎』賛は、「一片欣々たる皇室尊崇の念(森外)」を見よ。


…………

附記:

抽斎の長男恒善が没した後の経緯を、考証家梅谷文夫氏は次のように書いている(「渋江抽斎・吉田篁・岡本況斎に関する雑記」1993)。

嫡子を失った抽斎は,当然のことながら,他の子息をもって嫡子とし,その旨を藩庁に届出ているはずである。『江戸日記』を検したところ,安政三年十二月二十八日の条に,次の一項が記録されていた。

 一 渋江道純儀,嫡子無之二付,道陸儀,嫡子,願之通被仰付之。

 分限帳には「道陸」嫡子願いを証する記事を見出し得ないが,そのほかに,弘前市立弘前図書館所蔵『江戸御家中明細帳』元治元年本に,抽斎の跡式を相続した「道陸」について,次のように記録されていた。


七代目                道純三男為嫡子渋江道陸


一 安政三丙辰年十二月廿八日嫡子願之通。○同四丁巳年三月朔日御目見。○同五戊午年十一月朔日親道純跡式御給分無相違瑛喜人被下置,小普請医被仰付之。尤道純是是迄之勤料は被差引之。


抽斎は,安政三年十二月二十八日に,三男「道陸」を嫡子とすることの允許を得たというのである。既述のように,三男八三郎は,天保十三年八月三日に生まれ,同年十一月九日に没している。四男幻香水子は,弘化三年十月十九日に死産した子である。

とすれぱ,抽斎が三男と称して嫡子とすることを願い出た「道陸」は,安政元年二月十四日に生まれた五男専六(修)でなければならない。七男成善,すなわち保は,まだ生まれていなかったのである。

 渋江家六代目道純,すなわち抽斎の後を継いだ七代目道陸は,抽斎の五男専六,すなわち図案家渋江終吉の父脩であったと考えて,誤りあるまい。

 保が脩に代わって渋江家を継いだ時期は,いまだに,これを明らかにし得ない。鴎外によれぱ,脩は,明治三年十二月二十九日に,山田源吾の養子になったというから,それ以前に,廃嫡されたのであろう。保は,抽斎の後を継いだのではなく,脩の後を継いだのであるが,当時の習慣では,このような場合,保を抽斎の嗣子と称しても,虚偽を称したことにはならなかったようである。

 抽斎の知友海保漁村は,『抽斎渋江君墓砥銘』に,「有三子。長恒善,尾島氏出。先卒。次優善,岡西氏出。出為矢島氏後。三成善,山内氏出。継。」と記述している。鴎外は,保の証言に従って,墓隅銘に言う三男「成善」を保と解し,『渋江抽斎』その八に,「勝久さんや終吉さんの亡父脩は此文に載せて無い」と書記している。しかし,抽斎の跡式を相続した「道陸」が,既述のように,五男専六,のちの脩であるならば,墓碍銘に言う三男「成善」も,また,五男専六と解するのが自然であろう。早世した三男・四男を数えぬとすれば,専六は三男ということになる。七男保を「成善」に当てるより,無理はないのである。「成善」は,保の名ではなく,専六,すなわち脩の名であったのではあるまいか。

 抽斎没後の渋江家の相続人に関する謎を解く鍵は,一家が弘前に移住した後にあると推察するが,その時期の渋江家の動静を知る資料を,いまだ見出し得ないでいるために,あと一歩のところで解決し得ないのである。

2014年5月11日日曜日

五月十一日 歴史にみる「戦後レジーム」 中井久夫

以下の「戦後レジーム」をめぐる中井久夫の文には、「首相(安倍)」とあるが、第一次安倍内閣(2007年)の時のことである。安倍総理は、今年の三月久しぶりのその言葉を発した。

安倍晋三首相は14日の参院予算委員会で「私は戦後レジームから脱却をして、(戦後)70年が経つなかで、今の世界の情勢に合わせて新しいみずみずしい日本を作っていきたい」と述べた。「戦後レジームからの脱却」は第1次政権で掲げたが、最近は控えていたフレーズだ。(久々に登場、「戦後レジームからの脱却」 安倍首相

さて中井久夫の随筆「歴史にみる「戦後レジーム」」は、一見たんたんと書かれているかにみえる文だが、隠し味がたくさんある。いや、わたくしはそのようにして読む。だが《総評のために辞を費さぬ》ことにする。《若し今事の伝ふべきを伝へ畢つて、言讚評に亘ることを敢てしたならば、是は想像の馳騁、主観の放肆を免れざる事となるであらう。わたくしは断乎としてこれを斥ける。》(森鷗外『伊沢蘭軒』)。

首相が脱却したい「戦後レジーム」とは何か、という問いが冒頭にあり、直接には書かれていないのにも拘わらず、戦後レジーム脱却の是非をめぐる中井久夫の思いが読めば自然に分かるように書かれている。ここで引用される文は、三ヶ月に一回「神戸新聞」に連載された「清陰星雨」の「「歴史にみる「戦後レジーム」」全文である。「清陰星雨」の連載は二〇一二年三月次のように書かれて休まれることになった。

《私はどこか日本の学者を信頼して、それが体験の基礎になっていた。官僚も、政界も、はてなと思うことはあっても、終戦の時と同じく、列車が走り、郵便が着くという初歩的なことで基盤にゆえなき信頼感があったのであろうか。私が20余年続けたこのコラムを休むのは、その代わりに考えきれない重しのようなものが頭の中にあるからである。》(中井久夫さん、最後の「清陰星雨」


歴史にみる「戦後レジーム」


年金問題の陰に隠れているが、首相(安倍)が脱却したいという「戦後レジーム」とは何か。ほとんど内容が取り上げられず、また何に変わりたいのか、誰もいわない。そこで私は射程をぐっとのばして日本史全体を眺めなおしてみようと思う。

日本史上、大陸への大規模外征は三度行なわれ、悉く失敗している。その後には必ず旧敵国の優れた制度を導入して、一時の混乱はあっても、安定した平和の時代を迎えることに成功している。「戦後レジーム」もその一例であると、私は見る。

天智天皇二年(六六三年)百済王子を擁して朝鮮半島に傀儡政権樹立を試みた倭の約四百隻の艦隊は、百隻の唐艦隊に白村江河口において短時間で全滅した。古代の「ミッドウェー海戦」である。以後、日本は専守防衛に転じて半島出兵をやめ、唐の国制を取り入れて内政を整備し、半世紀かけてようやく唐との国交回復をなしとげた。

南蛮人の世界征服に刺激されたかもしれない秀吉の朝鮮出兵も、戦争目的を果たせずに終わった。後を継いだ徳川政権は朝鮮の国学である朱子学を採用し、儒教にもとづく文治政策を打ち出し、朝鮮との修好に努めた(維新の際に徳川に援軍を送ろうという提案が朝鮮政府の中に起こっている)。

江戸幕府の基本政策はどういうものであったか。刀狩り(武装解除)、布教の禁と檀家制度(政教分離)、大家族同居の禁(核家族化)、外征放棄(鎖国)、軍事の形骸化(武士の官僚化)、領主の地方公務員化(頻繁なお国替え)である。特に家康の決めた「祖法」は変更を許されなかった。その下で、江戸期の特徴は航海術、灌漑技術、道路建設、水道建設、新田開発、手工業、流通業、金融業の発達である。江戸は人口百万の世界最大都市となり、医師数(明治二年で一万人)も国民の識字率もおそらく世界最高であった。江戸期に創立された商社と百貨店と多くの老舗は明治期も商業の中核であり、問屋、手形、為替など江戸の商業慣行は戦後も行なわれて、「いまだ江戸時代だ」と感じることがたくさんあった。

「戦後レジーム」が米国から多くを学ぼうとしたのも、過去の敗戦後の日本史の法則通りであるといえそうである。米国は、科学から政治経済を経て家庭生活までが理想とされた。気恥ずかしいほどであった(貧しくなった西欧にも類似の米国賛美はあった)。

天皇が政治に関与せず、マッカーサー元帥が将軍として君臨したのも、米軍が直接統治せず、日本の官僚制度を使ったのも、江戸期の天皇、幕府、諸侯の関係に似ている。占領軍の指令は何と「勅令第何号」として天皇の名で布告され、日本政府が実施の責任を負った。

ドイツとは全然違った。ヒトラーの自殺後、ドイツは無政府状態となって軍人も市民も出会った米英仏ソ軍に降伏した。この「流れ解散」の間に十万人のドイツ人が殺されるか行方不明になった。日本の場合は「ポツダム宣言」があり、国外の軍には「勅使」が説得にあたった。

なお、敗戦後のドイツ人虐殺を遺憾としたのは数ある米将官中マッカーサー一人で、そういうところが彼にはある。日本国憲法は、当時の日本側の提出する大日本帝国憲法の焼き直しに業を煮やして米国主導で作られたので、仮に日本側草案が行なわれていたら、戦後の日本人は民主主義を享受できなかっただろう。また、日本国憲法は先に列挙した徳川幕府の祖法にもかなり似ている。軽武装・経済中心は日本人に馴染むものである。

憲法二〇条の政教分離規定は詳細を極める。当時国内外にあったキリスト教の国教化運動の道を断つ規定であることに注目したい。マッカーサー元帥の信仰はスコットランド長老教会かと思う。勤勉、節約、清潔、貯蓄を徳目とする宗教的少数派である。キリスト教の国教化と表記のローマ字化とをしなかったのは、米占領軍の「なさざるの功績」である。

白村江の戦いの前は部族間抗争が大詰めを迎えていた。昭和の敗戦の前は、明治以後敗戦までの「レジーム」であった。半世紀だった安土桃山時代と同じく「レジーム」というよりも、本質的に不安定な「移行期」で、立役者の寿命しか持たなかった。明治維新を闘った最後の元老・西園寺公望の死と敗戦への引き返し不能点である日独伊三国同盟とは、どちらも一九四〇年である。この「移行期」は維新以後七二年で終わったということができる。(中井久夫「清陰星雨」、「神戸新聞」二〇〇七年六月――『日時計の影』所収)

見事に凝縮された文章である。《思考の単位はパラグラフである》とは中井久夫が繰り返して語る言葉だが、そのパラグラフの塊ごとの進行の具合が心地よい。読み手に私見を強いたり、ことさらの強調もない。今はそんな文章ばかり読まされるなか、爽快な読後感を抱く。

善悪智愚醇醨功過、あらゆる美刺褒貶は人々の見る所に従つて自由に下すことを得る判断である。 わたくしは果して能く此の如き余地遊隙を保留して筆を行ることを得たか。若し然りと云はゞ、わたくしは成功したのである。若し然らずして、わたくしが識らず知らずの間に、人に強ふるに自家の私見を以てし、束縛し、阻礙し、誘引し、懐柔したならば、わたくしは失敗したのである。(森鴎外『伊沢蘭軒』)

アンゲプロスがモンタージュをめぐって語る《観客である人間の聡明さというものに対する信頼のなさ》を示す文章が跳梁跋扈する現在である。あるいはファストフード的読者、《道義的な義憤を織り交ぜた、単純で分かりやすい定式……。人々を楽しませ、道徳的に気分を良くさせる》(ジジェク)ような文章が著名な大学の教師によってさえも書かれる現在である。

モンタージュによる映画を見ていて私が苛立つのは、それは二つの画面の相互介入といった衝撃の上に成立しているのですが、そのとき、その画面を指差して、ほら、このイメージをよく見なさいといった押しつけの姿勢が感じられることです。つまり、強調という作業が行われているわけで、それは、私にとっては、観客である人間の聡明さというものに対する信頼のなさをしめすものであるような気がする。観客を、ちょっと子供のようなものとして扱い、さあ、これに注目しなさいといっているようなものです。(テオ・アンゲロプロス 蓮實重彦インタヴュー集『光をめぐって』所収)

さて、三つの歴史的事実が書かれていることだけ整理しておこう。それは

旧敵国からの優れた制度の導入という視点である。


・白村江との中国(唐)との戦いの後、

唐の国制の取り入れによる内政の整備

・秀吉による朝鮮出兵の失敗の後、徳川政権による

朝鮮の国学である朱子学の採用

・太平洋戦争敗戦後、米国「民主主義」の受容 



ところですこし前に引用した鴎外の文は次のように続く。


史筆の選択取舎せざること能はざるは勿論である。選択取舎は批評に須つことがある。しかし此不可避の批評は事実の批評である。価値の判断では無い。二者を限劃することは、果して操觚者の能く為す所であらうか、将為すこと能はざる所であらうか。わたくしはその為し得べきものなることを信ずる。(森鴎外『伊沢蘭軒』その三百六十九)

鴎外は、史実の選択取捨は事実の批評とする。それは価値判断ではない、としているが、どの史実を選択するのかは、やはり価値判断であることを免れない。大岡昇平の森鴎外『堺事件』批判はそのことに係わっている。そうして大岡の未完の遺作である『堺港攘夷始末』が書かれることになる。

もともと大岡昇平の憤りの由来は、代表作のひとつ『レイテ戦記』の執筆に関係するようだ。

「堺事件」の作者鴎外の位置は、レイテ戦の事実を都合よく書き替える高級将校のそれになぞらえることができる。……兵士の死をイデオロギーによって美化すること、そしてそうした作者鴎外を偶像化することは、大岡には認めがたいことだった。(吉田照生「大岡昇平の人と文学」1990)

大岡昇平の『レイテ戦記』の「あとがき」には《旧職業軍人の怠慢と粉飾された物語に対する憤懣》ともある。

だがこのように大岡昇平の鴎外批判をめぐって記したところで、中井久夫の歴史認識を批判するつもりは毛頭ない。おそらくある種の人たちは批判することもあるだろう、と憶測するだけだ。いや日本の歴史における三つの大規模外征失敗後の《旧敵国からの優れた制度の導入》による日本国の成功という認識には苛立つひとたちもいるだろう、と思うだけだ。


この中井久夫のエッセイは、「「和様化」今が好機 」と題された毎日新聞の磯崎新インタヴュー記事(2010年のものだが、元記事はウェブ上からなくなっている)とともに読んでみるとまた面白いかもしれない。中井久夫は1934年生まれ、磯崎新は1931年生まれであり、少年期を太平戦争さなかに送った世代である。

……

中国とは対照的に意気消沈する日本。磯崎さんは90年に著した「見立ての手法」(鹿島出版会)に記していた。

 <数多くの先達の仕事ぶりをみていると、「日本」に激しい憎悪をもち、それとの対立と破壊によって自らの方法を組みたて、成熟していくにつれて和解や回帰がはかられた例をいくつも挙げうる。「日本」を常に異国人(他者)の眼でみることである>

 磯崎さんは、海外で仕事をする時に「日本的なものを売り出そう」などという日本人の言葉をよく耳にしていた。だから、「日本的なものとは何か」という問いに頭をめぐらせてきた。

 「僕は歴史を通じて日本のオリジナルはどこにあったかを考えた。というのも、日本のオリジナルがあったとするならば、日本的と改めて言う必要はな いわけです。海外から『日本は特別だよ』と言われるから、日本が日本的なものを探していると思っていた。建築では、伊勢神宮などが日本的と言われるけれ ど、僕が調べると必ずしもそうではない。あの時代に日本的なものを作らなければならなかったから伊勢神宮もできた。一種のナショナリズムです」

 7世紀に白村江の戦いで唐・新羅に敗れた日本は、伊勢神宮を国家的な規模で祭ったとされる。12世紀には大胆な構造の東大寺南大門を再建した。 「伊勢神宮は唐・新羅による侵略の恐怖などに対し、国を誇示するものとして、東大寺南大門再建は13世紀後半の元寇の前に蒙古の侵攻を予感していた結果で す」

 16世紀に南蛮文化の外圧にさらされ、鎖国していた日本は19世紀半ばに黒船の来航により開国して、近代国家の道を歩んだ。

 「でも僕は1990年代前半には、海外から日本に戻る多くの日本人を見て、鎖国状態になっているのを実感したんです。90年代後半に、海外で大きな事業を手掛ける日本人が2人でも3人でもいたら、この島国にも少しの可能性があるのではないかと考えたのですが……」

 だが、磯崎さんが周りを見渡した時、みんなが日本国内へ内向きになっていた。磯崎さんは「今も鎖国状態は変わらない」と言い切った。

    ■

 米軍普天間飛行場移設問題などでは米国との関係に揺れ、中国には今年にもGDP(国内総生産)で追い抜かれる。政権交代はしたものの、鳩山政権は視界不良だ。

 日本は鎖国状態でやっていけますか? 「日本は鎖国状態を恐れる必要はありませんよ。今の日本は、米国から外される、中国から追い抜かれるとビクビクしている。だけど、日本はむしろ孤立した方がいいんです」。意外な答えが返ってきた。

 「僕はこの鎖国状態の期間を『和様化の時代』と呼んでいいと思います。歴史を見れば、和様化の時代は、輸入した海外の技術を徐々に日本化していく時期にあたります。今はこの和様化、つまり『日本化』を徹底する時期だと思いますね」

 磯崎さんに言わせれば伊勢神宮もしかり。漢字とひらがなが入り交じった日本語も、外国語をいかに日本化するかを考えたことから今の形となった。戦 後で言えば、自動車やカメラだ。日本が始めた産業ではないにもかかわらず、実用化、大量化、精密化して世界の群を抜く製品化に成功した。

 「どう言ったらいいんですかね」などと言葉を探しながら語る磯崎さん。

 「歴史を振り返ると、日本人は鎖国状態の時期、非常に細かい技術を駆使して、発案した人たちを脅かすものをつくり続けてきた。そして、その時期にできた日本語や自動車などの日本的なものが、日本の文化や産業の歴史的な主流になってきています」

   ■

 一昨年秋のリーマン・ショック以後、先進国である日米欧の経済は低迷を続けているにもかかわらず、新興国の中国やインドは成長を続ける。一国の力 ではどうにもならないグローバリゼーションの渦中にあるのではないだろうか。海外で日本がどれだけ評価されたか、海外で日本人がどれだけ活躍したか--。 我々の海外への関心は高い。海外の目は日本人を相対化することができる。例えば、イチローの活躍は国民を勇気づける。多くの日本人が持つ視点だろう。

 「日本には、海外でグローバルスタンダードを作ることができる外向きの人々と、国内で和様化を洗練する内向きの人々がいます。外向きの人々は企業 でも個人でも、世界の一部分としてしか動けないから、どんどん海外へ行けばいい。日本にとって意義あることは、ダブルスタンダード、つまり役割を分担して 外向きと内向きをともに推し進めることだと思います」

 磯崎さんは一気に2時間近くも語った。「細かな芸の洗練」という美学を持つ島国、ニッポン。鎖国状態を悲観することなく、強みとなる「日本化」を進めることができるだろうか。



2014年5月5日月曜日

五月五日 「空蝉」と「現身」

まず『万葉集』から万葉仮名の原文と一般的な訓読みを三首並べる。

…………

【原文】: 空蝉之 命乎惜美 浪尓所濕 伊良虞能嶋之 玉藻苅食 (作者: 不明)

【よみ】: うつせみの、命を惜しみ、波に濡れ、伊良虞の島の、玉藻刈り食む


【原文】:高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉 (作者:中大兄 三山歌)

【よみ】:香具山は 畝傍(うねび)を善(え)しと 耳成(みみなし)と 相争ひき  神代より かくなるらし 古昔(いにしへ)も しかなれこそ  現身(うつせみ)も 嬬(つま)を 争ふらしき


【原文】: 宇都曽見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 弟世登吾将見 (作者: 大伯皇女)

【よみ】: うつそみの、人にある我れや、明日よりは、二上山を、弟背(いろせ)と我が見む
…………

「ウツセミ」は現身の意であるが、これを「空蝉」と表音的に記載した結果、理解に際してはそれが表意的のものと考へられ、従つて「空蝉の世」は、人生の義より転じて、蝉の脱殻の如き無常空虚の世の義となり、更に「空蝉の殻」のごとき語が生まれるやうになつた。(時枝誠記『国語学原論』)

この時枝誠記の『国語学原論』の文の捕捉としては、吉本隆明の『初期歌謡論』に書かれる文がいい。それを引用している柄谷行人の『日本近代文学の起源』より、柄谷氏の文もふくめて抜粋する。

ところで、和歌の韻律は「文字」の問題とどう関係しているのだろうか。国学者は、荷田在満の「国歌八論」以来、音声によって唱われた歌と、書かれた歌の差異を問題にしてきたといえる。本居宣長において、『古事記』の歌謡は唱われたものであり、歌謡の祖形だとみなされた。吉本隆明は、賀茂真淵が指摘したように、それらは祖形であるどころか、すでに“高度”なレベルにあるという。

《いま『祝詞』には、「言ひ排く」、「神直び」、「大直び」という耳なれない語が、おおくみつけられる。はじめに<いいそく>、<かむなほび>、<おおなほび>という言葉があった。成文化するとき漢音文字をかりて、「言排」、「神直備」、「大直備」と記した。これが、<言ひ排く>、<神直び>、<大直び>と読みくだされる。この過程は、なんでもないようにみえて、表意、あるいは表音につかわれた漢字の形象によって、最初の律文化がおおきな影響をこうむった一端を象徴している。<いいそく>、<かむなほび>、<おおなほび>といえば、すくなくとも『祝詞』の成立した時期までは、あるあらたまった言葉として流布されていた。「なほび」という言葉は、神事、あるいはその場所などにかかわりのある言葉としてあった。<かむ>とか<おほ>とかは尊称をあらわしていた。そのころの和語は、適宜に言葉を重ねてゆけば、かなり自在な意味をもたせることができたとみられる。しかし、これを漢字をかりて「言排」、「神直備」、「大直備」のように表記して、公式な祭式の言葉としたとき、なにか別の意味が、漢字の象形的なイメージ自体からつけ加えられた。これは和語の<聖化>のはじまりであり、<聖化>も律文、韻文化へのひとつの契機と解すれば、ここにすでに歌の発生の萌芽のようなものは、あった。

成句や成文となれば、さらに律化、韻化の契機はふかめられた。語句の配列はそのもので、ひとつの律化だからである。》(「初期歌謡論」)

この注目すべき吉本隆明の考えにしたがえば、歌の発生、あるいは韻律化はそもそも漢字を契機としている。宣長が祖形とみなすような「記」、「紀」の歌謡は、文字を媒介しなければありえないような高度な段階にある。それは音声で唱われたとしても、すでに文字によってのみ可能な構成をもっている。《たぶん、宣長は、<書かれた言葉>と<音声で発せられた言葉>との質的なちがいの認識を欠いていた。すでに書き言葉が存在するところでの音声の言葉と、書き言葉が存在する以前の音声の言葉とは、まったくちがうことを知らなかった》(「初期歌謡論」)(柄谷行人『日本文学史序説』講談社文芸文庫 P73-74)

柄谷行人は最近でも次のように語っている(日本精神分析再考(講演)(2008))。

たとえば、平安時代に、各地の人々が京都の宮廷で話されている言葉で書かれた「源氏物語」を読んで、なぜ理解できたのか。それは彼らが京都の言葉を知っていたからではありません。今だって各地の人がもろに方言で話すと通じないことがあるのに、平安時代に通じたはずがない。「源氏物語」のような和文がどこでも通じたのは、それが話されていたからではなくて、漢文の翻訳として形成された和文だったからです。紫式部という女性は司馬遷の『史記』を愛読していたような人で、漢文を熟知している。にもかかわらず、漢語を意図的にカッコに入れて『源氏物語』を書いたわけですね。

あらためていうと、日本人は漢字を受け取り、それを訓読みにして、日本語を作り上げたのです。ただ、その場合、奇妙なことがある。イタリア人はイタリア語がもともとラテン語の翻訳を通して形成されたことを忘れています。しかし、日本人は、日本語のエクリチュールが漢文に由来することを忘れてはいない。現に漢字を使っているからです。漢字だから、外来的である。しかし、外部性が感じられない。だから、日本では、韓国におけるように、漢字を外来語として排除もしないのです。ところが、日本では漢字が残りながら、同時に、その外部性が消去されているのです。そこが奇妙なのです。


なぜ日本人は漢字を使い続けているのか(沖森卓也)

漢字で言えば、もちろんいろんな要素があるんですけど、いちばん重要なのは「なんで日本人は漢字を用いてきたか」、あるいは「なんで漢字を手放せなかったか」。この視点がいちばん重要だと思うんですよ。これは言うまでもなく「訓(くん)」ができたからなんです。当たり前なんだけど、漢字には本来「音(おん)」しかないはずなんです。漢字の読み方というのは、本来中国語の発音の言語、文字体系のものなんですけど、それが日本に渡ってきて日本の固有語、「やまとことば」と言いますが、固有語に当てられて訓ができるんです。この訓が漢字と強く結びついていて、やまとことばが漢字で書けるようになってしまったということが非常に大きいと思うんですよ。本来なら、仮名ができたのなら仮名だけでやまとことばを書いても良かったはずで、当初は仮名で書いていたはずなんです。いろんな位相があるので、男性の世界では漢文を用い、女性の世界ではひらがなを用いるというなかで、仮名だけでも日本語を書けたはずなのに、漢字で書くという人も一方にいて、伝統的に漢字が勝ってしまったというのが現状なんだと思うんです。

実は訓というのは、世界の言語のなかで現在では日本にしかありません。訓を持つ漢字は「表語文字」、語をあらわす文字で、それ自体で意味を表しているわけです。言語の歴史から言うと、文字の発生というのは表語文字なんですよ。これは絵文字から発達したもので、ものを真似て作ったというところに由来しています。

最古の文字はシュメール文字で、これが表語文字なんですが、このシュメール文字をまったく別系統のアッカド語という言語が借りたときに固有語をあてているんです。つまり「訓」ですね。漢字が生まれる以前にすでに訓があったんです。訓というのは表語文字を違う言語で借りたときに必ず発生するものだと言ってもいいくらいです。日本では、もともとの中国語の意味で用いているときには中国語の発音で漢字を読んだのでしょうが、日本語にその意味に当たる語があった場合には、その漢字の読みにその語を使ってしまったということなんです。中国の漢字を借りた朝鮮半島にも本来訓はあったんですが、中国に距離的に近いものだから、そういう変な使い方はやめようとやめちゃったから音だけしかない形になってしまった。

日本は中国からはるか離れていたから、漢字をより自由に使えたということで、訓が定着したと。ひらがなの「やま」と書くこともできるけど、漢字で「山」と書くこともできる。そうすると、表語文字のほうが意味の識別がよりたやすいんですよね。一字一字音を読んでイメージを思い浮かべるよりも、字を見て「これはこういう意味だ」とわかるわけだから。速読をする方法として「漢字だけ見ていけばいい」ということがよく言われるけど、それと同じことで、訓というのは非常に便利だったので、べったり定着してしまったんです。平安時代以降定着していって、江戸時代にはだんだんと庶民が教育を受けるようになり、さらに明治になると義務教育になり、当時は西洋化と同時に漢文的な文章が良いとされていましたから、より多く漢語を使うようになっちゃった。江戸時代までは文章に和語も多く使っていたんですけどね、それが漢語に置き換わってしまったというわけです。それでいっそう漢字が手放せなくなったということでしょうね。


◆蓮實重彦『反=日本語論』より

 日本語と中国語とが、いわゆる祖語を共有することのない全く系統の異なる言語だということ(……)。この事実の確認は、多くのヨーロッパ人が、そしてときには日本の大学生までが、文字と語彙の貸借関係があるというだけの理由で、日本語が中国語から分かれた言葉だと信じきっている現状にあっては、まず第一に強調されねばならない。(……)

ここで見落としえない点は、(……)一つの漢字が中国語として持っていた音声的価値も、文法的機能も日本語としての漢字の訓の中にはいっさい残存してはおらず、まさにそのことによって、日本語の構文法を支えることになるという点であろう。あながち中国語と日本語とが、ラテン語と英語という親族関係を持っておらず、かえって異質な系統にある言語であったが故に、借用された漢字によって、意味と音声と表記法との自由な戯れが日本語として可能になったという点こそを強調すべきなのである。

たしかにわれわれは、日本語の漢字に、訓読みと音読みと二つ、あるいそれ以上の読み方があるといった言葉を口にしている。そしてその不用意な言葉が、日本語に接近しようとする外国人たちを、必要以上に混乱させることになるのだ。おそらく、ヨーロッパ的精神にとってこの上なくわかりにくいのは、その事実にあるのではない。一つの漢字が、いかなる日本語の意味と結びつき、その意味が日本語で何と発音され、その発音表意的に借用された漢字と、漢字の標音的側面から創始された仮名とによってどのように表記されるかという点を順に追って説明すれば、その難解さはある程度は緩和されうるものである。つまり「急」の一字は、「急行」の場合はキュウ、「急ぐ」の場合はイソグと発音されると説明すべきではなく、「急」の字に接したら、それがまず「いそぐ」ことを意味し、「イソグ」には、現在の送り仮名の規則によるなら、「急ぐ」と表記すると説明すべきなのだ。(……)

そもそも、訓とは、ほんらいが読み方の問題ではなく、意味の問題ではなかったか。「明」は「明暗」の場合はメイと読まれ、「明るい」の場合はアカるいと読まれると解説しはじめるのではなく、「明」はまず「あかるい」ことを意味し、そして「アカルイ」は「明るい」と表記されうると続けるのが、論理的な筋道というものではないか。その過程を納得した上でなら、一つの漢字の幾つかの読み方が語られても混乱は起るまいと思う。(蓮實重彦『反=日本語論』「萌野と空蝉」 P221-223ーー黒字強調は原文では傍点)

たとえば時枝誠記の『国語学原論』に引かれている名高い「ウツセミ」の例を想起してみよう。時枝博士は、その「文学論」を構成する「文学の記載法と語の変遷」の項目に、次のような書かれた。

「ウツセミ」は現身の意であるが、これを「空蝉」と表音的に記載した結果、理解に際してはそれが表意的のものと考へられ、従つて「空蝉の世」は、人生の義より転じて、蝉の脱殻の如き無常空虚の世の義となり、更に「空蝉の殻」のごとき語が生まれるやうになつた。

日本語を語ろうとするものの必読文献にみられる文章だから、何もいまさら説明めいたものは必要あるまいと思われるが、ここに無知と誤解から生じた日本語の豊かな増殖ぶりの跡を認めうる点に誰も異存はあるまい。現身(うつしみ)なる語の意味と音声との表記法との多様な戯れが、一方で日本神話の構造的理解に通じ、また他方で、西欧形而上学の今日的崩壊過程へと向けるわれわれの視線を鍛えうる役割をも担っているというきわめて啓発的な論文が、坂部恵氏の『仮面の解釈学』におさめられているから、興味のある方はそれを参照されたい。ここではただ、『万葉集』の「うつせみ」が「空蝉」「虚蝉」の現身と誤って表意的に解釈され、奈良時代にはこの語に含まれていなかった「はかなさ」の意味が、平安朝以後の日本語の定着したという『岩波古語辞典』の説明を繰返し、誤解が発揮しうる言語的活力と、文化的創造性の一面を指摘するにとどめておこう。……(同上p226-227)

…………

※附記

漢詩文だけでなく、候文にてもほとんど漢字ばかりが目立つ森鴎外の『伊沢蘭軒』の登場人物たちの書き物だが、次のようなこともあったようだ。

文中に見えてゐる蘭軒は平頭三十であつた。わたくしは是に由つて「伊沢長安様」と呼ばれた信階が、倅蘭軒ほど茶山に親しくはないまでも、折々は書信の往復をもしたと云ふことを知る。茶山の仮名文字を用ゐること常よりも稍多かつたのは、老人の読み易きやうにとの心しらひではなからうか。(森鷗外『伊沢蘭軒』 その百八十九)


この書信の宛先である蘭軒の父信階は教養のない人物ではけっしてない、《原来伊沢の家では、父信階の時より、毎旦孝経を誦する例になつてゐた》(その百五十二)



2014年5月2日金曜日

五月初二 砂「両」の蟻塚、あるい『渋江抽斎』記述への疑義

羽蟻大量発生する。雨季の初期には毎年そうなのだが、既に雨季が始まって二度ほど発生したので、油断して常夜灯を点けっぱなしにしておいたのだが――羽蟻は光と水を求めて閉ざされた窓や戸の狭い隙間からでさえ入り込むーー、朝起きると炊事場の流しに死骸が蝟集、いや蟻集している。

これは我が家の流しの写真ではないが、この量よりは二倍ほどはある。





これでも少なくなったほうで、十数年前家が建て込んでいなかった折は、あたりに発生した羽蟻が我が家の光をめがけて風呂場に山盛りになったことがある。あれは砂金の山とでもいうべきものだった。





いま鴎外の史伝を読みつつ、江戸時代の一両の価値に頭をひねっている最中であるのだが。




…………

俸禄としては知行取り1石=米1俵、現米35石=100俵、1人扶持=米5俵で換算されていた。つまり、知行取り100石=蔵米100俵=現米35石=20人扶持=金35両(名目レート:現米1石=1両換算)となる。(wiki/蔵米

梅谷文夫氏の「渋江抽斎・吉田篁墩・岡本況斎に関する雑記」1993 http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/8925/1/gengo0002900030.pdf には、次のような記述がある。

《江戸においては同年八月十七日に,家中に下達された永の御定めによれぱ,以後,知行は三ツ五分物成として金子で支給された》と。すなわち石高の35パーセントが金子で支給された。

たとえば《高三百石十人扶持を受けていたのであれぱ,平年の文政六年の給与所得は,米一石金一両とするならぱ,百二十二両三歩弱》となる、と。

これをもうすこし分けて計算すると、三百石の35パーセントである百五石、一両=一石として、百五両となる。

そして十人扶持というのは、年によって異なるが、たとえば平年の文政六年では十七石七斗であり(1石=10斗)、十七両三歩弱(1両=4分)となる(これは上のwikiの記述にも、現米35石=20人扶持=金35両とあり、これからも10人扶持とは、17両2歩となり、ほぼ等しい)。

こういった具合で、百五両と十七両三歩弱をあわせて百二十二両三歩弱となる。


◆梅谷文夫「渋江抽斎・吉田篁墩・岡本況斎に関する雑記」より

鴎外は,『渋江抽斎』その一に,抽斎の「知行は三百石である。」と書記している。また,その十一には,抽斎の父道陸允成について,「三百石十人扶持の世禄の外に,寛政十二年から勤料五人扶持を給せられ,文化四年に更に五人扶持を加へ,八年に又五人扶持を加へられて,とうとう三百石と二十五人扶持を受けることとなった。」とも書記している。鴎外は,文政五年八月朔日,家督相続を允許された抽斎は,道陸允成が受けてきた世禄三百石十人扶持を父に替わって受けることになったと思いこんでいたようである。

『江戸日記』の文政五年分は散逸してしまったが,藩庁日記『御国日記』同年八月三十日の条に,抽斎の家督相続を,次のように記録している。

一 去ル朔日,渋江道陸儀,隠居,願之通御給分無相違伜道純江被下置候。尤親道陸是迄之勤料は被差引候。

御給分」は給与として支給する扶持米の意である。知行を相続したのであれば,「御給分」ではなく,「高三百石十人扶持」と書記されるはずである。前項に引用した『江戸日記』の抽斎嫡子道陸某(脩)の跡式相続の記録においても,「高三百石十人扶持」ではなく,「御給分」と書記されている。抽斎は,弘前藩から知行を受けていたのではなく,実は扶持米を受けていたのである。

『江戸御家中明細帳』元治元年本には,抽斎の家督相続を,次のように記録している。

O同年(文政五年)八月朔日,親道陸隠居,願之通御給分無相違二十人扶持被下置。尤道陸是迄之勤料は被差引之。

また,『分限元帳 文化二年八月改』第七上冊,医者の条には,次のように記録している。

一 弐拾人扶持  親御習医者道陸跡無足  江戸渋江道純

抽斎は,無足,すなわち無給から,親道陸允成の後を継いで,二十人扶持を受けることになったというのである。

抽斎が相続したのは,高三百石十人扶持であったのではなく,二十人扶持であったのである。

いささか横道にそれるが,国元においては安永三年七月二十八日に,江戸においては同年八月十七日に,家中に下達された永の御定めによれぱ,以後,知行は三ツ五分物成として金子で支給されたはずである。高三百石であれぱ,米百五石相当の金子を受けたはずということになる。扶持米は,年によって年間日数が異なるので,一定の額は示し得ないが,抽斎が家督相続した文政五年は,正月に閏月があったから,年間日数は三百八十四日,十人扶持であれぱ十九石二斗を受けたはずである。平年の翌六年の年間日数は三百五十四日であったから,十人扶持は十七石七斗ということになる。鴎外が言うように,抽斎が高三百石十人扶持を受けていたのであれぱ,平年の文政六年の給与所得は,米一石金一両とするならぱ,百二十二両三歩弱であったことになる。これだけでは,高三百石の体面を保つには,少々不足であったかもしれないが,ほかに,診療・調剤等による副収入があったはずであるから,ことさら貧を嘆くにはあたらぬほどの暮らしを営み得ていたはずである。しかし,実際に抽斎が受けた二十人扶持は,平年の文政六年の場合,三十五両二歩弱に過ぎなかったのである。以上の計算は,天保十一年二月付で家中に申し渡された歩引を無視したものである。
なぜ鴎外は,渋江家が代々三百石十人扶持を受けてきた家柄であるかのように記述して,はぱからなかったのであろうか。渋江保の証言を無批判に信じたのであろうか。それとも,保が虚偽の証言をしていることに気づいていて,虚偽の証言を申し立てる保の心根を汲んで,あえて事実に反する記述を行なったのであろうか。今,にわかには,結論を出し得ない。

渋江保氏は抽斎の嗣子であり、鴎外が抽斎伝の新聞連載中に知り合い、資料提供などにより、『渋江抽斎』を書き進めるのに大きく貢献した人物である。

鴎外は,『渋江抽斎』その十一に,道陸允成が「文化十一年に一粒金丹を調製することを許された。これは世に聞えた津軽家の秘方で,毎月百両以上の所得になったのである。」と記述している。これは,『抽斎年譜』文化九年の条に,保が年時を誤って書き入れた記事,「一粒金丹は(中略),三十粒入一包金一歩,十五粒入半包金二朱にて広く全国へ配布す。保の少時実験する所に拠るに,毎月四五百包づつ需要者ありたり。」に拠って書記したのであろうが,到底,信じられぬ内容である。毎月百両以上,年間千二百両以上と言えば,当時の町人社会においては,長者番付に名を連ねる最も富裕な層の次順の層の所得水準に匹敵する所得である。それだけの所得があれば,抽斎が述志の詩に,「安楽換銭不患貧」などと作るわけがないのである。

1朱は、その貨幣価値は、1/16両、また1/4分に相当する。上に《金一歩》とあるのは金一分ということだろう。一袋金一分のものが五百包売れれば、五百分、すなわち百両以上になる。


梅谷文夫は『狩谷棭斎』の著書で著名な考証家であるが(一橋大学名誉教授)、上の記述も額面通り受け取る必要はないだろう。文政五年家督相続した抽斎は当時十八歳だった。抽斎が父道陸允成の石高は何処にいってしまうのだろう。梅谷氏の考証によれば、允成の三百石ではなく百石ではないか、ともされている。

渋江の当主で三百石十人扶持を受けたのは二代目道陸輔之までで,三代目玄瑳為隣は,二百石を減ぜられて,百石を相続した。鴎外は,「富士川游蔵抽斎手記抄」に,次のように書きとめている。

・元文六年辛酉正月十一日,玄春家督被仰付,亡父道陸知行三百石之内,当分家業修業之間,百石被下置。

《当分家業修業之間,百石被下置》とあり、その後三百石に戻った形跡が文献にはないということなのだろうが、逆に抽斎の家督相続は、《当分家業修業之間》のみ二十人扶持であり、その後、百石高、あるいは三百石が付加されたと憶測もできる。だがその文献は見当たらない、という考証家の態度は正しい。


たとえば、渋江保氏からの聞き書きであろう次のような話が『渋江抽斎』にはある。ここにでてくる五百は、抽斎の妻であり保氏の母である。

藤堂家でも他家と同じように、中臈は三室位に分たれた部屋に住んで、女二人を使った。食事は自弁であった。それに他家では年給三十両内外であるのに、藤堂家では九両であった。当時の武家奉公をする女は、多く俸銭を得ようと思っていたのではない。今の女が女学校に往くように、修行をしに往くのである。風儀の好さそうな家を択んで仕えようとした五百なぞには、給料の多寡は初より問う所でなかった。 修行は金を使ってする業で、金を取る道は修行ではない。五百なぞも屋敷住いをして、役人に物を献じ、傍輩に饗応し、衣服調度を調え、下女を使って暮すには、父忠兵衛は年に四百両を費したそうである。給料は三十両貰っても九両貰っても、格別の利害を感ぜなかったはずである。(その三十二)

このとき五百は十五歳になっている。藤堂家の《殿様は伊勢国安濃郡津の城主、三十二万三千九百五十石の藤堂和泉守高猷である。官位は従四位侍従になっていた。奥方は藤堂主殿頭高崧の女である。》(その三十二)

藤堂家に奉公するのは九両とあるが、他家では年給三十両内外とあり、藩医として仕える十八歳の抽斎が年給三十五両二歩弱とは、若輩でありながらも、いかにも抽斎の給料は少なすぎる。もっとも《五百が十五歳になったのは、天保元年である》(その三十一)。抽斎が家督相続した十八歳の折は文政五年(1822)である。天保元年は1830年であり八年の懸隔はあるが、ここでは物価の変動がなかったものとしての比較である。

とはいえ抽斎家に金の余裕がなかったのは、将軍家慶に謁見した嘉永二年(1849)、すなわちすでに四十五歳時のとき妻五百が着物を質に入れて借金していることからも窺われる。もちろんこれらさえ、渋江保氏からの聞き取りをベースにして書かれているのだろうから、疑ってかからねばならないだろうが。

目見をしたものは、先ず盛宴を開くのが例になっていた。そしてこれに招くべき賓客の数もほぼ定まっていた。然るに抽斎の居宅には多く客を延くべき広間がないので、新築しなくてはならなかった。五百の兄忠兵衛が来て、三十両の見積を以て建築に着手した。抽斎は銭穀の事に疎いことを自知していたので、商人たる忠兵衛の言うがままに、これに経営を一任した。しかし忠兵衛は大家の若檀那上りで、金を擲つことにこそ長じていたが、靳んでこれを使うことを解せなかった。工事いまだ半ならざるに、費す所は既に百数十両に及んだ。

平生金銭に無頓着であった抽斎も、これには頗る当惑して、鋸の音槌の響のする中で、顔色は次第に蒼くなるばかりであった。五百は初から兄の指図を危みつつ見ていたが、この時夫に向っていった。「わたくしがこう申すと、ひどく出過ぎた口をきくようではございますが、御一代に幾度というおめでたい事のある中で、金銭の事位で御心配なさるのを、黙って見ていることは出来ませぬ。どうぞ費用の事はわたくしにお任せなすって下さいまし。」 抽斎は目を睜った。「お前そんな事を言うが、何百両という金は容易に調達せられるものではない。お前は何か当があってそういうのか。」
五百はにっこり笑った。「はい。幾らわたくしが痴でも、当なしには申しませぬ。」(その三十八)

こうして五百は質屋を呼ぶ。

ほどなく光徳の店の手代が来た。五百は箪笥長持から二百数十枚の衣類寝具を出して見せて、金を借らんことを求めた。手代は一枚一両の平均を以て貸そうといった。しかし五百は抗争した末に、遂に三百両を借ることが出来た。 三百両は建築の費を弁ずるには余ある金であった。しかし目見に伴う飲醼贈遺一切の費は莫大であったので、五百は終に豊芥子に託して、主なる首飾類を売ってこれに充てた。その状当に行うべき所を行う如くであったので、抽斎はとかくの意見をその間に挟むことを得なかった。しかし中心には深くこれを徳とした。(その三十九)

一両が現在のどのくらいの金額か、五万円から十万円などといわれたりもするが、もし十万円としたら、武家奉公の一年の給金が三百万円、新居の見積が同じ三百万円だったのが、《工事いまだ半ならざるに、費す所は既に百数十両》、すなわち一千万円強となってしまう。五百は着物一枚十万円強で質にいれ三千万円手にする、ということになるのだが、この半額ぐらい、すなわち一両五万円が適当か。

ここで『伊沢蘭軒』の記述をみてみよう、天保六年(1835)、この年狩谷棭斎が逝くのだが、棭斎の息子懐之が経営する津軽家用達として世に聞えていた湯島の店にかんして次のようにある。

湯島の津軽屋は大い店で、留蔵、音三郎、梅蔵三人の支配人即通番頭が各年給百五十両であつた。渋江保さんの話に、渋江氏の若党柴田清助の身元引請人利兵衛は、本町四丁目の薬店大坂屋の通番頭で、年給二十両であつた。大坂屋では是が最高の給額で、利兵衛一人がこれを受け、傍輩に羨まれてゐた。渋江抽斎の妻五百の姉夫塗物問屋会津屋宗右衛門方の通番頭は首席を庄太郎と云つて、年給四十両であつた。五百の里親神田紺屋町の鉄物問屋日野屋忠兵衛方には、年給百両の通番頭二人があつて、善助、為助と云つた。此日野屋すら相応の大賈であつた。此等より推せば、通番頭三人に各年に百五十両を給した、津軽屋の大さが想見せられる。且津軽家は狩谷に千石の禄を与へた。次年五月は廩米中より糯米三俵を取つて柏餅を製し、津軽藩士と親戚故旧とに貽るを例としてゐたさうである。(『伊沢蘭軒』 その二百十三)

年給二十両で傍輩に羨まれてゐた、となると、どうもやはり一両五万円とするわけにはいかない。一両十万円でも年給二百万円である。


最後に蘭軒伝の巳巳年(明治2年)の記述である。この時期はすでに幕末の急激なインフレ後のことのはずだが、銀相場について書かれているので、ここに記載する。

「十一日。(七月。)晴。吉津へ行、家作大工に為積。飯島金五郎引請に而、銀札三貫目、月一歩二之利足を加へ、当暮迄借用、養竹証人也。」当時の銀相場金一両銀十八匁を以てすれば、三貫目は百六十六両余である。是が関西地方当時の家屋建築費である。しかしわたくしは此の如き計算に慣れぬから、此数字には誤なきを保し難い。

《江戸時代平均 金 1 両 = 約 6.6万円 = 銀 60 匁 = 銭 4千文(16.5円/文)》などという記述があるが、上の文には、《銀相場金一両銀十八匁》となっている。

鴎外の計算は正しいのだろうか。1貫は1000匁であり、3貫は3000匁。

3000÷18 = 166.7


…………


さて梅谷文夫氏が指摘するなかで、すくなくとも鴎外の一粒金丹の記述は明らかにおかしい。《到底,信じられぬ内容である。》と梅谷氏が書くのは当然だ。だが、いままで梅谷氏以外の誰かが指摘しているのを寡聞にしてか聞いたことがない。史伝でなく小説であっても、この記述にはひどい落度がある。

文化十一年に一粒金丹を調製することを許された。これは世に聞えた津軽家の秘方で,毎月百両以上の所得になったのである。(『渋江抽斎』その十一)

一両十万円としたら、毎月一千万円の収入である。もし百両の収入が毎月あるなら、新築の見積三十両が、《工事いまだ半ならざるに、費す所は既に百数十両》になっても、抽斎が《何百両という金は容易に調達せられるものではない》などと言うことはあり得ない、またどうして妻の五百が着物を質入する必要があろう。

砂金と一両小判の話で始めたのだ、鴎外の抽斎伝は、金銭の観点からは、砂両の楼閣である、と言っておこう。




2014年5月1日木曜日

五月朔 「旅宿の境界」

総じて大名の第一とすべきことは、家中の治、民の治を善して、身帯を磨切らず、武備を不失、末永く参勤交代を勤て、上を守護し奉ること也。(荻生徂徠『政談』)

とする徂徠の政談は徳川八代将軍吉宗の諮問に応えて、1726(享保11)年頃に書かれたわけだが、前回の鷗外による史伝の「参勤交代」の時期より一世紀ほど前のことになる。


だが西鶴が1688(貞享5)年に次のように書いてからは、すでに半世紀ほど経っている。


一生一大事身を過ぐるの業、士農工商の外、出家・神職にかぎらず、始末大明神の御託宣にまかせ、金銀を溜むべし。これ、二親の外に命の親なり。人間、長く見れば朝をしらず、短くおもへば夕におどろく。されば、天地は万物の逆旅、光陰は百代の過客、浮世は夢幻といふ。時の間の煙、死すれば、何ぞ金銀瓦石にはおとれり。黄泉の用には立ちがたし。しかりといへども、残して子孫のためとはなりぬ。ひそかに思ふに、世にある程の願ひ、何によらず銀徳にて叶はざる事、天の下に五つあり。それより外はなかりき。これにましたる宝船のあるべきや。(井原西鶴『日本永代蔵』)

すなわち徂徠は参勤交代の基本政策については冒頭に引かれたように擁護するが、《兎角金なければならぬ世界となり極まりたり》(『政談』)の時代である。


昔は大名に物をつかはする事上策なれ共、今は諸大名の困窮至極に成たれば、身上をよくたもちて永々参勤交替のなる様にする事、是当時の良策成べし。 (『政談』)

前回引用した鷗外の記述によれば、福山から江戸に至るには約二十日ほど掛かる。《二月六日福山発、二十五六日頃入府の予定》(『伊沢蘭軒』)。

また梅谷文夫氏の記述では、「越中守信順は、天保八年七月十二日申刻に藩邸を発駕して、着城は八月七日であった。翌九年十月十五日に弘前城を発駕して,十一月九日に着府」とあり、これも弘前―江戸間は、二五日ほど掛かっている。もっとも津軽信順は、歴代一のダメ藩主、「夜鷹殿様」などと称されることもあるらしく、《参勤交代で宿泊した所で、夜中は女と酒に入りびたりであった。しかも信順は昼頃に起きるという不健全な生活を繰り返した。そのため、参勤交代の行列の進み具合は遅れる一方であった》とウィキペディアにはあるので多少は日数を割引く必要がある。《信順は頗る華美を好み、動もすれば夜宴を催しなどして、財政の窮迫を馴致し、遂に引退したのだそうである》と鷗外の抽斎伝にはあっさり書かれているだけだが。


いずれにせよ遠方の藩であればひと月以上かかることになる。参勤交代の費用としては足軽給金、馬代、食費や土産物、運賃、宿泊費などがある。街道沿線の宿場町はさぞ潤ったことだろう。


・武家御城下に聚居るは旅宿也。諸大名の家来も其城下に居るを、江戸に対して在所といへ共、是又己が知行所に非ざれば旅宿也。其子細は,衣食住を初め箸一本も買調ねばならぬ故旅宿なり。故に武家を御城下に差置時は、一年の知行米を売り払ふてそれにて物を買調え、一年中に使切る故、精を出して上へする奉公は、皆御城下の町人の為になる也。

・元来旅宿の境界に制度なき故、世界の商人盛に成より事起て、種々の事を取まぜて、次第次第に物の直段高く成たる上に、元禄に金銀ふゑたるより、人の奢益々盛になり、田舎までも商人行渡り、諸色を用ゆる人ますます多くなる故、ますます高直に成たる也。左様に成たる世の有様をば其儘に仕置きて、当時金銀斗を半減になしたる故、世界みな半身代に成て、金銀引はりたらず。是によりて世界困窮したる事明らか也。

・是によりて御城下の町人盛になりて、世界次第に悪敷なり、物の直段次第に高直に成て、武家の困窮当時に至りては、もはや可為様なく成たり。(荻生徂徠『政談』)

さて、以上は前置きであり、次の図表をウェブ上で見つけたので、ここではそれを備忘として貼り付けるのが目的である。([江戸時代が長く続いた理由を説明しよう]http://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/91885.pdf)




ほかにも、

 水谷文俊神戸大学大学院経営学研究科教授による随筆「参勤交代」の記述を附記しておく。

ある資料によれば, 安政6年 (1859年) の鳥取藩池田家の場合には鳥取・江戸の行程約720kmを21泊22日 で移動し ている.1日平均で約33kmを移動し ている こ とになる.10時間歩く とすると時速3kmのスピー ドとなる. 途中には坂もあったであろう し,大人数の行列でしかも大名の駕籠を担ぎながら移動するこ と を考えると結構なスピー ドで移動し ている こ とになる. 加賀百万石の前田家の場合には, 行列は1,969人に達し ていたと記録されているから, 大大名になればなるほど大変だったであろ う. それにしても, 1年のう ちの1ヶ月 弱を費やし ての移動は大変だったであろ う .

それでは, 参勤交代には一体どれく らいの費用がかかったのであろうか?鳥取藩池田家の場合, 江戸から鳥取までの21泊22日の行程で総額1957両かかったとの記録が残っ ている. 内訳は,足軽給金, 馬代, 諸品購入費, 運賃, 宿泊費などである. 当時の貨幣価値は1両十数万円と言われているので, 現在の価格に換算する と, 江戸・鳥取間の1行程で, 総額約2億9千万円かかったという計算になる. 一行の行列規模を500人程度とする と, 1日 ・1人当り約2万7千円程度の費用という こ とになるので, あながちおかしな数字ではない. しかし, 32万石の藩で総額約3億円の参勤交代の費用がかかるのであるから, よ り遠方の藩にと っ ては大変な出費となったであろう こ とは想像に難く ない. しかも街道沿いには人々の目 もあ り, 諸藩が家格を競っ て行列が華美になったと言われているので, 参勤交代の費用を簡単には削減できなかったのではないか.

参勤交代の際の従者数に関し ては, 享保6年(1721年) に出された幕府指針によれば, 10万石の藩においては足軽・人足を含めて230~240人となっ ている. 実際には幕府の指針は守られずに指針以上の規模の行列となっ ていたそうである.


参勤交代という制度は, 徳川幕府の維持のため始められた制度で, なんという無駄使いをさせたものだという意見もあるが,他方で江戸の文化・上方の文化を地方に, また地方の文化を江戸・上方にもたら した恩恵も大きい. そし て, 街道沿線の宿場町に経済的な潤いを もたら し, 様々な文化を生み出す源泉となった.現在ある全国の特産物の多く が江戸時代に生まれたそう である.

ただし《当時の貨幣価値は1両十数万円と言われている》とあるのは、たとえば次の資料とともに読んでおくべきだろう。

江戸時代の一両は今のいくら?」という日本銀行金融研究所貨幣博物館の資料によれば、そこには、《江戸時代のお米の値段 米1石(約150kg)=1両とすると……18世紀》という記述があり、《一両が今のいくらかは、簡単には言えません》となっている(そして米との比較だけでは判断できないとして、大工の賃金、そばの代金などとの比較がある)。

そして米についてだけ言えば、

江戸の各時期に1両で買えた量をみると、目安としては江戸初期で約350kg、中~後期で約150kg、幕末の1867(慶応3年)頃で約15~30kgとなり、それぞれ現在の値段に仮に計算すると、おおよその目安として、江戸初期で約10万円前後、中~後期で約4~6万円、幕末で約4千円~1万円程になります。

とあるのだが、これもどう一石高と一両を関連させたらよいのか、ちょっと分からない。単純に計算すれば、江戸初期1両で350kg(2.3石高)ならば、この時期の1石高は0.43両、江戸中期~後期は150kg1石高=1両、幕末は15kg(0.1石高)としたら1石高10両(30kgであったら5両)となるはず(だが、ここでは幕末の急激なハイパーインフレは考慮の外にしよう)。ーー計算が間違っていないかどうかあやしいので、信用しないように(二日酔いで、いまは数字は御免蒙る、そのうち訂正するかも。すなわち未定稿と胡麻化しておく)。

武士階級の給料は石高でもらっていたと言われるので、この江戸中期~後期の石高1両を基準として、後期にかけてのインフレも加味して一両十数万円とされるのだろうか。日本銀行金融研究所貨幣博物館の資料には次のような記載もあり、わたくしの頭はいっそう混乱する。


■三貨制度

江戸時代は金・銀・銅(銭)の貨幣が使われ(三貨制度)、それぞれの交換レートとして幕府による公定相場がありましたが、実際には毎日変動しました。仮に、そば1杯16文としても、1両が何文であるかによって、1両でそばを何杯食べられるかは変わってくるため、そばで換算する1両の現在価格も異なってきます。

 参 考 ) 三 貨 公 定 相 場
・ 江 戸 初 期 ( 1 6 0 9 年 ~ ) 1 両 = 銀 5 0 匁 = 銭 4 0 0 0 文
・ 中 期 ( 1 7 0 0 年 ~ ) 1 両 = 銀 6 0 匁 = 銭 4 0 0 0 文
・ 後 期 ( 1 8 4 2 年 ~ ) 1 両 = 銀 6 0 匁 = 銭 6 5 0 0 文


※ 幕末の実勢相場は1両が8000文を上回る状況でした。

ここで岩井克人のエッセイ「西鶴の大晦日」(『二十一世紀の資本主義論』所収)から三貨制度をめぐる叙述を抜き出しておこう。

三貨制度は、三貨制度とよばれてはいるが、その実、それを構成する金貨、銀貨、銅銭の金属貨幣は、それぞれ貨幣としての用いられかたも、その流通範囲も大きく異なっている。

金貨である小判や一分判、および銅銭である寛永通宝は、「定位貨幣」として流通していた。(……)一両小判の場合は、それにふくまれている金の重さとは独立に表に刻印された一両という価値をもつ貨幣として流通し、一文銭の場合も、それにふくまれる銅の重さとは独立に表に刻印された一文という価値をもつ貨幣として流通していたのである。

これにたいして、丁銀や豆板銀といった銀貨は、「秤量貨幣」としてもちいられていた。一貫目の重さをもつ丁銀はつねい一貫目の価値をもつ貨幣として流通し、一匁の重さをもつ豆板銀はつねに一分の価値をもつ貨幣として流通していたのである。それゆえ、丁銀や豆板銀を取り引きの支払いとして受け取るときには、ひとびとはその重さをいちいち秤ではからなければならなかったのである。

(……)関東では定位貨幣である金貨をもちい、関西では秤量貨幣である銀貨をもちいるという、二つの貨幣圏が並存することになったのである。「関東の金づかい、上方の銀づかい」というわけである。ただし、銅銭にかんしては、小額取り引き用の貨幣として、関東であるか関西であるかを問わずひろく全国に流通していた。

「銀つかい」の大坂においては丁銀や豆板銀がもちいられ、商売の支払いのためにはいちいちその品位を吟味し秤で重さをはからなければなかなかった(……)。もちろん、これはひどく不便なことである。そこで、この不便さをとりのぞくために大坂で考えだされたのが、「預り手形」や「振り手形」といった手形による支払い方法である。

(……)銀そのものの代わりに手形を廻すーー「銀づかい」といわれた大坂では、結局、銀を使わないというかたちで「貨幣の論理」を貫徹させていたというわけである。いや、いくら「かるきをとれば、又そのままにさきへわたし」たといっても、実際の金そのものを廻していた「金づかい」の江戸よりも、たんなる紙切れである手形を廻してしまう「銀づかい」の大坂のほうが、「貨幣の論理」のはたらきをはるかに徹底して作動させていたというわけである。

こうして堂島には世界に先駆けた「先物市場」が整備される。

柄谷行人)江戸初期の体制はともかくとして、元禄(1688年から1704年)のころは、完全に大阪の商人が全国のコメの流通を握っていまして……

岩井克人)そうですよ。江戸の大名は参勤交代があって、一年に一回江戸に出てこなくちゃならない。しかも正妻と子供は江戸に残さなくちゃならないから、どうしてもお金が必要なんですね。領地でコメを収穫してもそれを大阪に回して、堂島のコメ市場で現金にかえて、さらにたりないぶんは両替屋にどんどん借金するんだけど、それでも収入が足りなくて、特産品を奨励するわけです。(……)(コメは)生産する側にとってみればたんなる食べ物ではなかったわけですよ。食べるものではなく、流通するものとして、ほとんどお金同然だったわけですね。

だから、大阪の堂島にはじつに整備された大規模なコメ市場が成立したわけです。たとえば、現代資本主義のシンボルとして、シカゴの商品取引所の先物市場がよくあげられるけれども、堂島にもちゃんと先物市場があったんですね。「張合い」といって、将来に収穫されるコメをいま売り買いするわけです。と言うか、堂島の張合い取引が世界最初の整備された先物市場であったという説さえある。(『終りなき世界』1990)





2014年4月30日水曜日

四月卅日 妻の「挙止に気を附けよ」

同遊者の渋江六柳は抽斎である。小野抱経は富穀である。抱経と号したには笑ふべき来歴があるが、事の褻に亘るを忌んで此に記さない。(森鷗外『伊沢蘭軒』その二百五十)

《事の褻(せつ)に亘るを忌んで此に記さない》とある。卑しくなるので書かないという節度にこの作品は全篇領されていると言ってよい。だが僅かな例外がないではない。

《此年(天保元年 1830年)十月に榛軒は正寧に扈随して福山に往くこととなつた。》(森外『伊沢蘭軒』 その百九十五)


伊沢蘭軒死後、長子榛軒が江戸に住んでいた阿部正寧に扈随して福山に戻る。福山藩主阿部氏が戻ったのは、おそらく参勤交代によるものだろう。


《此年天保元年十月二十一日は、福山へ立つた榛軒が始て留守に寄する書を作つた日である。宇津の山輿中にあつて筆を把ると云つてある。》とある。


この留守宅の弟柏軒に寄せる手紙の内容が面白い。


榛軒は最も妻勇のために心を労してゐたらしく、柏軒に嘱して「勇の挙止に気を附けよ」と云つてゐる。又「勇をして叔母をいたはらしめよ」とも云つてゐる。(その百九十七)

妻勇のことを気遣っている。なにを気遣ったのかと言えば、おそらく独り江戸に過ごす妻の大きな意味での「不義」ではないか。どうも夫の不在中の、叔母にたいして不遜な態度をすることのみを憚っただけではないように憶測する。


次の年もまだ榛軒は福山にある。どうやら早く江戸に戻りたいらしい。


《天保二年は蘭軒歿後第二年である。榛軒は猶福山にあつて歳を迎へた。榛軒は阿部正寧の参勤の日割を記してゐる。「二月六日福山発、二十五六日頃入府の予定」と云ふのである。》


 《わたくしは榛軒が初の妻横田氏勇を去つて、後の妻を納れたのが、前年暮春より此年天保三年に至る間に於てせられたかと推する。榛軒は前年二月の末に福山より江戸に帰つた。その福山にあつた時、留守に勇がゐたことは、荏薇問答に由つて証せられる。》


しかし柏軒に与ふる幾通かの書に、動もすれば勇を信ぜずして、弟にこれが監視を託するが如き口吻があつた。榛軒が入府後幾ならずして妻を去つたものと推する所以である。(その二百一)

ーーこれ以上は書かれていない。事が褻(せつ)に亘っているわけではない。だが『伊沢蘭軒』の気品と沈静に貫かれた文章のなかでは、例外的にある種の「想像力」を刺激させてくれる箇所ではある。もっとも、《勇の挙止に気を附けよ》を、勇の「腰」に気を附けよ、などと読んでしまう褻に亘ってはいけない。

ここでは大田南畝(蜀山人)ーー榛軒の父蘭軒と師弟関係、いやほとんど友人関係にあったーーの狂歌を反芻しておくだけにしよう。

世の中に絶えて女のなかりせばをとこの心のどけからまし  
世の中は金と女がかたきなりどふぞかたきにめぐりあひたい


「瞑想」によく集中できるように、ムダな神経を使わないことにしたい。周囲を気にかけないで、必要なら自由にマスターベーションをすることをすすめたい。腰の奥の力に押しまくられて、---もうだめだ、これ以上はガマンできない! と自分にいいながら、ベッドから這い出すようなことはないようにしたい。

なんとも心が苦しい時、いくらかでもそれをまぎらすためにマスターベーションをするならば、それはアルコール飲料に走るよりも健全だと思います。マスターベーション依存症という話はきいたことがありません。動物園の猿の話は聞いたように思うけど、すくなくとも人間でいうかぎり…… 圧力抜きをすれば、また圧力が増してくるまでは、しばらくなりと「瞑想」に集中できるでしょう。(大江健三郎『人生の親戚』)

かたい奥  さてはりかたは  よく売れる
小間物屋  よっきよっきと  出して見せ
いぼ付きは    切らしましたと    小間物屋
ずいきは皆な    かえと    女房たずね  (諧風末摘花」より)


ところで、当時「間男」は建て前上は死刑であったらしい。「女敵討」などいう言葉もあったようだ。《人妻が他の男と関係を持った場合…夫が武士 である場合、妻と相手の男を斬り殺す「女敵討」(めがたきうち)が認 められていた。参勤交代で夫が江戸に行っている間、出入りの男と関係を 持ってしまった妻がいた。夫は帰郷して事実を知り激怒。妻と相手の男を 斬り捨ててしまった。こういう事件もけっこうあったようだ。》

江戸では密通はありふれたことだった。密通は不倫より意味が広い。正式な婚姻以外の男女の性交渉はすべて密通である。ただし玄人の女との性行為は密通ではない。密通と刑罰を定めたのが、吉宗の時代の「密通御仕置之事」である。処罰は厳酷で密通した男女のほとんどは死刑になった。

江戸の男と女は厳罰におびえていたのか?けっしてそんなことはない。あっけらかんとセックスを享楽していた。刑罰はあくまで建前である。というよりあまりに過酷なため、人々は訴えるのをためらった。もちろん密通で処刑された男女もいるが、これは殺傷事件にまで発展し、町奉行所の役人が乗り出さざるを得なかったからである。ひとたび町奉行所に持ち込まれると杓子定規に厳格な刑罰が適用された。

ここで大岡越前が登場する。「世事見聞録」(文化十三年)によると、世間にあまりに密通が多いため、密通御仕置之事に定められた処罰を厳格に適用すると死刑者が続出するし、奉行所も仕事に支障をきたす。そこで大岡越前が間男代を七両二分と定め、内済による穏便な解決をうながしたのだ。(永井義男『お盛んすぎる江戸の男と女』)




ーー江戸期の浮世絵作家は「黒」の扱いがすばらしい、マネ以前に「黒」を発見したのは彼らである、と加藤周一は書いている(春信の女と歌麿の女の胸)。



とここまで書いて、上に《榛軒は正寧に扈随して福山に往くこととなつた》のは参勤交代だろうとしたが、よく読むと、天保元年十月出発、天保二年二月十五六日頃入府の予定とあるので、わずか四ヶ月ほどの江戸不在であり、これは参勤交代とは異なるのかもしれない。

諸大名一年替りに御城下に詰居れば,一年はさみの旅宿也。其妻は常江戸なる故,常住の旅宿也。御旗本の武士も,常江戸にて常住の旅宿也。諸大名の家中も,大方其城下に聚り居て面々の知行所に居ざれば,皆々旅宿成上に,近年は江戸勝手の家来次第に多くなる。是凡武士といはるる程の者の旅宿ならぬは一人もなし。(荻生徂徠 「政談」)

これは徂徠の「旅宿の境界」という概念をめぐる叙述のひとつなのだが、当時の武士階級はすべて旅宿の人なのであり、妻子の江戸常住も将軍家の「人質」なのであって、すなわち《常住の旅宿》ということになる。孤閨悶々とした武士の妻はあまたいたことだろう。

徂徠が書くように、参勤交代とは一年おきに、領地住まいと江戸住まい(参勤)を交代する制度なのだから、繰り返せば、四ヶ月ほどの領地滞在ということからして、阿部氏が領地福山に戻ったのは参勤交代とはまた別の旅だったのかもしれないが判然としない。

江戸時代という時代の特性…。皆が、絶対の強者でなかった時代である。将軍も、そうではなかった。大名もそうではなかった。失態があれば、時にはなくとも、お国替えやお取り潰しになるという恐怖は、大名にも、その家臣団にものしかかっていた。農民はいうまでもない。商人層は、最下層に位置づけられた代わりに比較的に自由を享受していたとはいえ、目立つ行為はきびしく罰せられた。そして、こういう、絶対の強者を作らない点では、江戸の社会構造は一般民衆の支持を受けていたようである。伝説を信じる限りでの吉良上野介程度の傲慢ささえ、民衆の憎悪を買ったのである。こういう社会構造では、颯爽たる自己主張は不可能である。そういう社会での屈折した自己主張の一つの形として意地があり、そのあるべき起承転結があり、その際の美学さえあって、演劇においてもっとも共感される対象となるつづけたのであろう。(中井久夫「意地の場について」『記憶の肖像』所収)

ここまでの引用にしようと思ったが、やはり以下を続けよう、というのは《一九八〇年代後半になっても、いまだ江戸時代に築かれた対人関係の暗黙のルールが生きているのではないかということである》とあり、江戸期の時代の史伝を読んでいると、ときにそう思わざるをえない感慨を抱くから。二百年近くまえの話だが、人びとの人情の機微がとても近しい気がするのはそのせいかもしれない。

そして現在の日本でも、「民主的」とは何よりもまず「絶対の強者」がいないことが条件である。「ワンマン」がすでに絶対の強者ではない。「ワンマン」には(元祖吉田茂氏のような)ユーモラスな「だだっ子」らしさがある。「ワンマン」は一種の「子ども」として免責されているところがある。



二つには、一九八〇年代後半になっても、いまだ江戸時代に築かれた対人関係の暗黙のルールが生きているのではないかということである。われわれの職場にいくらコンピューターがはいっても、職場の対人関係は、江戸時代の侍同士の対人関係や徒弟あるい丁稚の対人関係、または大奥の対人関係と変わらない面がずいぶんあるということである。政治にも、官僚機構にも、変わっていない面があるのではないか。非公式的な集まりである運動部や、社会体制に批判的な政党や運動体においても、そういう面があるのではないか。



いじめなどという現象も、非常に江戸的ではないだろうか。実際、いじめに対抗するには、意地を張り通すよりしかたがなく、周囲からこれを援助する有効な手段があまりない。たとえ親でも出来ることが限られている。意地を張り通せない弱い子は、まさに「意気地なし」と言われてさらに徹底的にいじめられる。いじめの世界においても、絶対の強者は一時的なあるくらいが関の山であるらしい。また、何にせよ目立つことがよくなくて、大勢が「なさざるの共犯者」となり、そのことを後ろめたく思いながら、自分が目立つ「槍玉」に挙がらなかったことに安堵の胸をひそかになでおろすのが、偽らない現実である。そして、いじめは、子供の社会だけでなく、成人の社会にも厳然としてある。



日本という国は住みやすい面がいくつもあるが、住みにくい面の最たるものには、意地で対抗するよりしかたがない、小権力のいじめがあり、国民はその辛いトレーニングを子供時代から受けているというのは実情ではないだろうか。(同上)



たとえば柄谷行人《日本的な生活様式とは実際には江戸文化のこと》と語っている(いつのまにかそう成る「会社主義corporatism」)。

中井久夫は、別の論で、江戸的生活様式を生み出した制度として、「大家族同居の禁」、「刀狩」、「布教の禁」の三つを挙げている。

このシンポジウムで私の前に米山俊直先生が話された中で私の印象に強く残ったのは、信長が比叡山を焼いた事件の大きさである。比叡山がそれまで持っていた、たとえば「天台本覚論」という宇宙全部を論じるような哲学がそれによって燃え尽きてしまう。比叡山が仮に信長に勝っていたらチベットのような宗教政治になったかどうかはわからないが……。それ以降、秀吉と家康がした大きな改革が三点くらいある。一つは「大家族同居の禁」である。江戸時代のほうが明治以降よりも小家族であった。森鴎外の『阿倍一族』のような反乱を起こされたら困るからである。もう一つは刀狩という「武装解除」である。最後の一つは「布教の禁」で宗教は布教してはいけないということである。おそらく幕末のいろいろな宗教運動がものすごい抵抗に遭ったのは、布教の禁に真っ向から対立するからだろうと思う。布教しないということはその宗教は半分死んだようなものかもしれないが、檀家制度という、生活だけは保障する制度をする。以上の三つに付随して「宗教者医療の禁」がある。「医は仁術なり」という言葉は「お医者さんは非常に親切であれ」ということではなくて、「仁」という儒教の道徳にもとづいた非宗教人だけに医術を許すということである。ただし日蓮宗は狐憑きを治療してよいなどいくつかの例外はある。(中井久夫「山と平野のはざま」『時のしずく』所収 P. 98)

…………

さて、もう一度上に書かれた「参勤交代」に戻る。

鷗外の『伊沢蘭軒』から、《此年(天保元年 1830年)十月に榛軒は正寧に扈随して福山に往くこととなつた》、あるいは《天保二年は蘭軒歿後第二年である。榛軒は猶福山にあつて歳を迎へた。榛軒は阿部正寧の参勤の日割を記してゐる。「二月六日福山発、二十五六日頃入府の予定」と云ふのである。》の二文を引いて、これでは領地滞在が四ヶ月ほどにしかならず、一年おきに、領地住まいと江戸住まい(参勤)を交代して行われる「参勤交代」による滞在とは異なるのではないかと記した。

ところで鷗外の史伝物蘭軒伝前作の『渋江抽斎』にもいささか奇妙な記述がある。抽斎は,藩主越中守信順に扈従して弘前に滞在するのだが、「詰越」により二冬を過ごすことになるとあるのだ。これも足掛け二年の滞在であり、通常の参勤交代の滞在期間一年ではないということになる。

初め抽斎は酒を飲まなかった。然るにこの年藩主がいわゆる詰越をすることになった。例に依って翌年江戸に帰らずに、二冬を弘前で過すことになったのである。そこで冬になる前に、種々の防寒法を工夫して、豕の子を取り寄せて飼養しなどした。そのうち冬が来て、江戸で父の病むのを聞いても、帰省することが出来ぬので、抽斎は酒を飲んで悶を遣った。抽斎が酒を飲み、獣肉を噉うようになったのはこの時が始である。(『渋江抽斎』 その二十七)

この「参勤交代」制度の実態をインターネット上で調べてみようとしたら、まさに『渋江抽斎』のこの箇所を引用して、鷗外の記述の誤謬を指摘する梅谷文夫氏の論文に行き当たった(「渋江抽斎・吉田篁墩・岡本況斎に関する雑記」1993)。


梅谷氏は棭斎研究家であり、Wikipediaの『狩谷棭斎』の頁には、《森鴎外が晩年、史伝『澁江抽斎』、『伊澤蘭軒』、『北条霞亭』の続編として著述しようと資料を集めたが、公務と病で果たせなかった。事績は、梅谷文夫 『狩谷棭斎』(吉川弘文館〈人物叢書〉、1994年)に詳しい》とある。

《信憑すべき証拠が得られない場合は、判断を留保し、私見をもって真偽を論じない》と言うのが棭斎の信条だそうだ。その優れた考証家であることが明らかな梅谷文夫氏の津軽 信順弘前滞在の詰越をめぐる記述を抜き出す(この箇所も含めて、抽斎伝の四箇所の記述に疑義を発しているが、いまは弘前滞在の箇所のみを引く)。

鷗外は,『渋江抽斎』その二十七・二十八に,抽斎は,藩主越中守信順に扈従して,天保八年七月十二日,江戸を立って弘前に行き,二冬を弘前で過して,同十年,越中守信順に随行して江戸に帰ったと記述している。

ところで,天保十年五月十六日,越中守信順の隠居と左近将監順徳の襲封を公儀が允許したことが諸書に記録されている。鴎外が言うように,越中守信順が,詰越をして,この年に江戸に戻ったのであれぱ,参府の時期は,五月十六日以前であったということになる。武鑑には三月参府と記載されているので,そのこと自体は異例とするには当たらないが,参府の直後に,病気を理由に,公儀に隠居を願い出たということになる点が,以前から,少々,気になっていた。詰越をした理由は何であったのか,病気が理由であったとすると,詰越を決めたのは,鷗外によれば,天保八年であったというから,かなりの長患いをしていたことになる。参府の直後に隠居を願い出たとすると,本復しなかったのであろう。そういう状態の越中守信順が,まだ雪が残っていたはずのこの時期に,江戸まで百八十二里の旅に出ることを,他の家臣はともかく,医者である抽斎が,それをよしとしたということになる点が,特に気になったのである。

『江戸日記』を検したところ,越中守信順は,鷗外が言う通り,天保八年七月十二日申刻に藩邸を発駕して弘前に向かっている。着城の日を鷗外は明らかにしていないが,八月七日であった。八月五日着城の予定が二日遅延したのである。『御国日記』を検したところ,越中守信順が,この年,詰越を決意したとか,詰越せざるを得ないような病患に見舞われたというような記事は,何も見出だせなかった。それどころか,越中守信順は,翌九年十月十五日に弘前城を発駕して,十一月九日に着府していることが確認されたのである。鴎外が,「此年(天保八年)藩主が所謂詰越をすることになった。例に依って翌年江戸に帰らずに,二冬を弘前で過すことになったのである。」と記述しているのは,全く事実に反することであったことが明らかになったのである。また,越中守信順の代に,詰越を例としたことがないことも,あわせて確認し得たのである。証拠の引用は,すべて省略する。抽斎もまた,天保十年にではなく,天保九年十一月九日に江戸に戻っているのである。

これより先,抽斎は,天保四年四月六日,越中守信順に扈従して江戸を立ち,四月二十七日,弘前に着き,一冬を弘前で過して,翌五年十月十七日,弘前を立ち,十一月十五日に江戸に戻っている。

二冬を弘前で過したというのは,この両度の弘前行を合わせれば,そういうことになるということと混同したのであろう。誤記の責めは,鷗外ではなく,鷗外に材料を提供した渋江保が負うべきもののようである。

抽斎が初めて弘前で冬を越すことになった天保四年は大凶作の年であった。弘前藩の収納は皆無であったという。その前年三年も違作の年で,公儀に対し,損毛五分六厘七毛と届出ている。また,抽斎が再び弘前で冬を越すことになった天保八年も違作の年で,損毛四分九厘と公儀に届出ている。その前年七年も凶作で,損毛九分一厘であったという。天保三年から続いていた冷害のため,遂に四万五千人余の餓死者を出した天保八年の冬を,抽斎は,弘前で過したのである。

鷗外は,抽斎が二度目の越冬に備えて,「種々の防寒法を工夫して,家の子を取り寄せて飼養しなどした。」と記述し,また,「江戸で父の病むのを聞いても,帰省することが出来ぬので,抽斎は酒を飲んで悶を遣った。」とも記述している。しかし,二度目の弘前行は,事前に国元の惨状を知り得ていて,旅立ったのである。抽斎が,この時,獣肉を食らい,酒を飲むことを覚えたのは,鷗外が記述するような個人的事情が因であったとばかりは言えぬこと,くだくだしく論ずるまでもあるまい。

これがすぐれた考証家の仕事というものなのだろう、目を瞠らざるをえない記述である。もっとも鷗外の抽斎伝がこの指摘によって価値が減ずるということはない。鷗外はこの抽斎をめぐる論を書きつづけるなかで、抽斎の嗣子渋江保に出会ったのであり、保氏や彼が提供する資料に批判的ではありにくかっただろうとも思う。蘭軒伝においてさえ渋江保氏からの情報提供を受けている。さらにこうも言えるだろう、これらの史伝の真骨頂は、むしろ書き続けるなかで、鷗外自身の出会いがあり驚きがあり、読み手にとっても史伝というよりもエクリチュールの実践の驚きを与えてくれる、それが晩年の鷗外のいわゆる「史伝」の魅惑である、と。

一般的に学者たちの論文は、考察してしてしまったことを書く、あるいは《自分のパロールを活字にし、公表する者である》(ロラン・バルト(「作家、知識人、教師」)。他方、鷗外の晩年の作品は、ドゥルーズのいう如く書かれている、《自分が知らないこと、あるいは適切に知っていないことについて書くのではないとしたら、いったいどのようにして書けばよいのだろうか。》(『差異と反復』)

さらには、こう言ってもよい、学者たちの論文は言説化のための分析しか行われていないが、鷗外の作品は分析の言説化がなされている、と。あるいはまた《挿話の連鎖に有効にかかわらない細部がときならぬ肥大化を見せる》のだ。


波瀾万丈の物語とは一つの語義矛盾である。あらゆる物語は構造化されうるもので、思ってもみないことが起るのは、その構造に弛みが生じ、物語がふと前面から撤退したときに限られる。挿話の連鎖に有効にかかわらない細部がときならぬ肥大化を見せるような場合に、かろうじて事態は波瀾万丈と呼びうる様相を呈するにいたる。物語を見捨てた言葉の独走といったことが起るとき、構造の支配が遠ざかって小説が装置として作動し始めるといったらいいだろうか。(蓮實重彦『小説から遠く離れて』)









2014年4月25日金曜日

四月廿五日 「天閹」

湯島の店を養子三右衛門に譲り、三右衛門が離別せられた後、重て店主人となつたことがあると聞いてゐる。此説は懐之に自知の明があつて、早きを趁うて責任ある地位を遯れたものとも解せられる。わたくしは只その年月の遅速を詳にしない。 懐之の養子三右衛門は二人ある。離縁せられた初の三右衛門は造酒業豊島屋の子であつた。離縁の理由としては、所謂天閹であつたらしく伝へられてゐる。其真偽は固より知ることが出来ない。(森鷗外『伊沢蘭軒』)

「天閹」とある。調べてみると、「閹官」としたら「宦官」のことらしい。「閹」とは、門に面して気息奄々ということか。天から授けられた玄牝の門入ず。

谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ(老子 「玄牝の門」 福永光司氏による書き下し)

この「天閹」という語も、前回の「易簀」に引き続き、青空文庫全文検索で調べてみると、やはり外の蘭軒伝しか使用されていない。ただし「閹」は何人かの作家が使用している。中島敦の『李陵』にはこうある。

宮刑とはもちろん、男を男でなくする奇怪な刑罰である。これを一に腐刑ともいうのは、その創が腐臭を放つがゆえだともいい、あるいは、腐木の実を生ぜざるがごとき男と成り果てるからだともいう。この刑を受けた者を閹人と称し、宮廷の宦官の大部分がこれであったことは言うまでもない。人もあろうに司馬遷がこの刑に遭ったのである。しかし、後代の我々が史記の作者として知っている司馬遷は大きな名前だが、当時の太史令司馬遷は眇たる一文筆の吏にすぎない。頭脳の明晰なことは確かとしてもその頭脳に自信をもちすぎた、人づき合いの悪い男、議論においてけっして他人に負けない男、たかだか強情我慢の偏窟人としてしか知られていなかった。彼が腐刑に遇ったからとて別に驚く者はない。 司馬氏は元周の史官であった。

ほかに芥川龍之介の『酒虫』にも使用されている。

宝幢寺にゐる坊主と云ふのは、西域から来た蛮僧である。これが、医療も加へれば、房術も施すと云ふので、この界隈では、評判が高い。たとへば、張三の黒内障が、忽、快方に向つたとか、李四の病閹が、即座に平癒したとか、殆、奇蹟に近い噂が盛に行はれてゐるのである。

もうひとつ桑原隲藏というわたくしには初めて聞く作家の『支那の宦官』にこうある。

この火者とは、もと印度語のコヂヤ(Khojah)を訛つたもので、印度の囘教徒は割勢者を指して、普通にコヂヤといふ。元時代から明時代にかけて、印度から割勢した奴隷を南支那に輸入した樣で、この奴隷の輸入と共に、コヂヤといふ印度語が南支那に傳はり、支那人はコヂヤに火者の字を充て、宦官を意味することとなつたものと解釋される。『明律』や『清律』に、閹割火者とあるが、こは單に火者と稱しても可なれど、外國語の音譯にて、意義不明なるを恐れ、かくは注解的に閹割の二字を添加したものであらう。

…………

という具合で、蘭軒伝を牛歩の如く読み進めているうちに、やや面白い読み方を発見した。不明な「漢字」を探るなかで、別の書の断片に出逢うことができる。そのうち飽きるにきまっているが、飽きなかったらまた同じことをやってみよう。

iPadの画面(青空文庫)で読んでいるのだが、長さを比べてみると『渋江抽斎』は420頁あり、『伊沢蘭軒』は1237頁ある。三倍ほどの長さである。いま漸く半ばほどに達したのだが、前半をやや粗雑に読みすぎたかな、という気がしてくるのはよい傾向、すなわち愛着が湧いてきたしるしだ。

抽斎伝さえ、さる学者が、無用の長文としたのだから、『伊沢蘭軒』をいまどき読むひとは少ないかもしれない。

寛政十二年は信階父子の家にダアトを詳にすべき事の無かつた年である。此年に山陽は屏禁せられた。わたくしは蘭軒を伝ふるに当つて、時に山陽を一顧せざることを得ない。現に伊沢氏の子孫も毎に曾て山陽を舎したことを語り出でて、古い記念を喚び覚してゐる。譬へば逆旅の主人が過客中の貴人を数ふるが如くである。これは晦れたる蘭軒の裔が顕れたる山陽に対する当然の情であらう。

これに似て非なるは、わたくしが渋江抽斎のために長文を書いたのを見て、無用の人を伝したと云ひ、これを老人が骨董を掘り出すに比した学者である。此の如き人は蘭軒伝を見ても、只山陽茶山の側面観をのみ其中に求むるであらう。わたくしは敢て成心としてこれを斥ける。わたくしの目中の抽斎や其師蘭軒は、必ずしも山陽茶山の下には居らぬのである。(『伊沢蘭軒』)

この学者は和辻哲郎である。


私は部分的にしか読まなかった『渋江抽斎』をここで批判しようとは思はない。にもかかはらず私は先生の態度に対する失望をいはないではゐられない気持ちがする。……しかもあの頭のよさと確乎した物の掴み方とは、ともすれば小さいくだらない物の興味に支配されるのではなからうか。……私は『渋江抽斎』にあれだけの力を注いだ先生の意を解し兼ねる。私の憶測し得る唯一の理由は、『掘り出し物の興味』である。しかし埋没されてゐたといふことは、好奇心をそそりはしても、その物の本来の価値を高めはしない。その物の価値は『掘り出された』ことと独立して判定せられねばならない。……例へば中央アジアで発掘された仏像は珍奇な発掘品である故に価値があるのではなく、ある時代の文化を象徴する少数の遺物である故に芸術的価値以外に更に尊さを加へるのである。抽斎の伝記にはそれがない。彼の個人としての偉大さも文化の象徴としての意義も、先生のあれだけの労作に価するとは思へない。(和辻哲郎「文化と文化史と歴史小説」)



伊藤整は鷗外の史伝をこう評している(「鴎外文学に対する三つの視点 井村紹快」からだがそこには「伊藤整全集十九」からとある)。


それは所謂小説らしい角度から人生を眺めたり描いたりすることを放棄し、ただ記録者として作者なる自己を置こうとしていることである。その態度で押しとおして行くことは、どういう自信から来ているのかという驚きの念でもあった。(……)

私は現在の日本の小説の一般の書き方に根本的な疑念を持っている。そして私は鷗外がこの種の作品を書いた動機の中に、やっぱりそういう、時の小説一般のあり方に対する疑問があったらしいことを感じて一層興味を持った。つまり鷗外は、人生を小説風にやつすことを極度に嫌ったのであろう。その結果、人生の事実を、小説らしいやつし方から全く洗って、修飾や外衣や説明なしの事件そのまま並べようとしたのである。
私はやっぱり一種の驚嘆を感じた。こう戸籍しらべのような書き方で描かれた人生が、とても小説らしい書き方ではとらえられない深さまで人生を抉り出しているからである。鷗外は勿論自分の考証をたのしみはした。しかしそれ以外には彼は作家としての我侭を何一つ読者に押しつけなかった。退いて記録者たる地位に止った。そして彼のそに退き方が正しかったことは、彼が退いただけ人生が作品の中にしっかりと歩み入っていることによって明らかである。

柄谷行人の評は、この伊藤整の評に準ずるとしてよいだろう。


鷗外にとって、「自己」は実体的ななにかではなく、「あらゆる方角から引つ張つてゐる糸の湊合してゐる」(『妄想』)ものであり、マルクスの言葉でいえば「諸関係の総体」(「ドイツ・イデオロギー」)にほかならなかった。いいかえれば、鷗外は「自己」を西洋人のように直接的・実体的にみる幻想をもちえないことを逆に「苦痛」にしていたのである。

したがって、鷗外の本領は、「侍」的人間を書いた歴史小説で発揮されている。そこでは、鷗外は「心理的なもの」を徹底的に排除しようとした。この姿勢は、午前中に小説を書き、午後には漢詩や山水画の世界に浸っていた晩年の夏目漱石と共通している。おそらく、彼らは「文学」とけっしてなじめないものをもっていたのであり、また「表現」を拒絶する視点をもっていたのである。(柄谷行人『日本近代文学の起源』)





2014年4月24日木曜日

四月廿四日 「易簀」

青空文庫全文検索というものがある。古典作品の文字検索にすこぶる有効に活用できる、――などと書いているが、実はつい先日はじめてそんなものがあることを知った。

このところ寝る前に森鷗外の『伊沢蘭軒』を少しずつ読んでいるのだが、この作品には見慣れない漢字がたくさん出て来る。漢詩、漢文などが多く引用されており、それらの素養のまったくないわたくしのような者には当然ではあるが、鴎外の説明的な地の文にさえ見慣れない漢字に遭遇し、すべてではないがたまには調べてみることをする。

たとえば《此日菅茶山は神辺にあつて易簀したのであつた。》などとある。この「易簀」は調べずにやりすごしたのだが、数行後に《茶山は死に先つて「読旧詩巻」の五古を賦した。》とある。はて、どこに菅茶山が死んだことが書かれてあったか、どこかで読み落したかと、前に戻って眺めてみると、どうやら「易簀」が死んだという意味らしい。

大辞泉をみると、「易簀」:《「礼記」檀弓上の、曽子が死に臨んで、季孫から賜った大夫用の簀(すのこ)を、身分不相応のものとして粗末なものに易()えたという故事から》学徳の高い人の死、または、死に際をいう語。》とある。


以前にもどこかで使われていたかと『渋江抽斎』を見てみても、そんな文字はない。では他の鴎外の著作は? あるいは他の作家はこの「易簀」という語彙を使用しているのか、(もちろんグーグル検索で中国語使用には行き当たるのだが)――というなかで、青空文庫全文検索というツールに遭遇する。

これによれば、青空文庫の全文のなかで鴎外の『伊沢蘭軒』一箇所のみの使用ということになる。


…………

上の話とは関係ないのだが、すこし訳ありで最近多用されるらしい「当事者」という語も検索してみたのだが、これはどうやら由緒正しい言葉で、漱石をはじめ多数の文章に使われている。

(すこし訳ありで、と書いたが、直接的には貴戸理恵さんというまだ若い社会学者の方の「当事者」論やらインタヴュー記事をいくつか読んだせいだ。)

この「当事者」という語はこの青空文庫全文検索を知る前に、Evenoteに保存してある文書のなかを探してみたのだが、精神医学系(土居健郎や木村敏、中井久夫)の文にはしばしば出て来る。ジジェク訳文にも多用されている。岩井克人は「利害関係の当事者」という使い方をする、等々。そのなかで高橋源一郎のインタヴュー記事に行き当たった。これもここでの話と関係ないのだが、すこし面白いので引用しておく。


「僕たちが住んでいる社会はやっぱりおかしい」小説家・高橋源一郎と3.11

――「書けなかった理由」というのは?

高橋 ひとことで言うと、9.11は他人事だったからです。だから、逆にすごく真面目な小説になってしまった。でも3.11は僕もある意味で当事者と言える。だからこそ、「原発なんて関係ないよ」とか「被災地なんて知らん」とも堂々と言えるんです。「しょせん他人事ですよ」と言えるのは、実は自分が"外"ではなく"中"にいる時なんです。そういう発言をすれば、当然、問題になるでしょう。何を言っても問題が発生するというのは、非常にいいことです。言論とはそういうことなんです。

――ご自身の"事件との距離感"というものが左右した、と。

高橋 3.11から最初の数日間のこと、覚えてます? 結構、明るかった。ニューヨーク・タイムズに東浩紀や村上龍とともに寄稿したんですが、論調はほぼ同じでした。「すさまじい被害にあったけど、国民はパニックに陥っていない。日本には閉塞感があったけど、これを機会に変われるかもしれない」。でも、そんな空気もいつの間にかもとに戻ってしまい、前よりひどくなってしまう。

――どういった部分で、前よりもひどくなったと感じますか?

高橋 暗くなってると思います。僕はTwitterをやっています。3.11の前のTwitterはまったりしていて、つまんないことを言える空間だったんです。でも、3.11以降、Twitterが「戦場」になってしまった。他人を攻撃するような言論が多くなり、みんながそういう相手を求めるようになった。

――「まったりする」余裕がなくなったことによって、他者を攻撃するようになってしまった。

高橋 もともとそんなに余裕はなかったんだけど、なんとなくあるような気がしてたんですね。「お金ないし景気悪いし、嫌だよね」と言いながらも、カタストロフィーは起こっていなかった。

《「しょせん他人事ですよ」と言えるのは、実は自分が"外"ではなく"中"にいる時なんです。》という言葉が、ふむなるほど、と考えさせられる。

われわれは世界全体を把握するが、その時、われわれはその世界の中にある。それは逆にいってもいい。われわれが世界の中にしかないというとき、われわれは世界のメタレベルに立っている。(柄谷行人『トランスクリティーク』ーー「人間的主観性のパラドックス」覚書





2014年4月22日火曜日

「人はどこかよそに行きたくなる」、あるいは蜩の声

「愚劣さ」は誤りとは関係ありません。つねに勝者(打ち負かすことが不可能)ですが、その勝利は謎の力に属します。それは、まさに、むき出しの、輝くばかりの現に存在することそれ自体です。そこから恐怖と魅惑、死体の魅惑が生じます(何の死体でしょうか。おそらく真実の死体です。死んだものとしての真実です)。「愚劣さ」は悩みません(プーヴァールとペキッシュです。もっと賢かったら、もっと悩むでしょう)。だから、「愚劣さ」は「死」のごとく鈍重に、現に存在するのです。呪文も形式的な操作でしかありません。それは「愚劣さ」を一括して外側から捉えます。《愚劣さは私の苦手だ》(テスト氏)。この言葉は最初のサイクルではこれで十分です。しかし、話は間隔を置いて無限にくり返されます。それはまた愚劣になるのです。(ロラン・バルト「イメージ」『テクストの出口』所収 沢崎浩平訳)

この「愚劣さ」は原語はなになのか、やや気になるところだが、いまは原文に当たることをしていない。ところで、《愚劣さとは真実の死体》とされているので、次の文を並べておこう。

ステレオタイプとは、魔力も熱狂もなく繰りかえされる単語である。あたかも自然であるかのように、あたかも、奇妙なことに、繰りかえされる単語は、その度に、それぞれ異なった理由で、そこにふさわしいかのように、あたかも模倣することが、もはや模倣と感じられなくなることが在り得るかのように。図々しい単語だ。擬着性を求めていて、自分の固着性をしらない。

ニーチェは、《真理》とは古い隠喩の凝固したものに他ならない、といった。ところで、この理屈でいくと、ステレオタイプは《真理》に到る現実の道筋であり、案出された装飾を、記号内容の、規範的な、強制的な形式へと移行させる具体的な過程なのである。(ロラン・バルト『テクストの快楽』 沢崎浩平訳)

冒頭の「イメージ」は1977年の講演であり、最晩年のロラン・バルトの語りのひとつとしてよい。またドゥルーズ&ガタリの『アンチ・オイディプス』の出版のあとの発言なのだが、マルクス主義、精神分析を完全に拒否する人は、愚劣さ、悲しむべき不透明性を持っているとしている。とはいえ、肝要なのは《人はどこかよそに行きたくなります》である。


言語活動に関してこの《サイクル》(エンジンのサイクルというような意味での)の機構は重要です。強力な体系(「マルクス主義」、「精神分析」)を見てみましょう。最初のサイクルでは、それらは反「愚劣さ」の(効果的な)働きをします。それらを経ることは愚劣さを脱することです。どちらかを完全に拒否する人(マルクス主義、精神分析に対して、気まぐれに、盲目的に、かたくなに、否(ノン)という人)は、自分自身のうちにあるこの拒否の片すみに、一種の愚劣さ、悲しむべき不透明性を持っています。しかし、第二サイクルでは、これらの体系が愚劣になります。凝固するや否や、愚劣が生ずるのです。そこが裏側に回ることができない所です。人はどこかよそに行きたくなります。チャオ(さよなら)、もう結構、というわけです。

ここにも「凝固」という語彙が出てきていることから分かるように、ニーチェの、《真理》とは古い隠喩の凝固したものに他ならない、という言葉の反映がある。


また《人はどこかよそに行きたくなります。チャオ(さよなら)、もう結構、というわけです》という文にかんしては、これもおなじく『彼自身によるロラン・バルト』から、二つばかり挙げておこう。


「真実は固形性の中にある」とポーが言った(『ユリーカ』)。それゆえ、固形性に耐えられない人は、真実にもとずく倫理に対して自分を閉じてしまう。彼は、語や命題や観念が《固まり》はじめ、固形状態へ、《ステレオタイプ》の状態へ移行するやいなや、それらを手離してしまう(《ステレオス》とは《堅い》という意味である)。
反作用〔反応〕による形成。あるひとつの《ドクサ》(世間の通念)を提示してみて、さて、それが耐えがたいものだとする。私はそれからそのれるために、ひとつのパラドクサ〔逆説〕を要請する。次には、その逆説にべたべたした汚れがついて、それ自体が新しい凝結物、新しい《ドクサ》となる。そこで私はもっと遠くまで新しい逆説を探しに行かざるをえなくなる。

――というわけだが、70年代以降のロラン・バルトの言葉は、『彼自身によるロラン・バルト』の註釈のように読めることが多い。いま例をあげたのは僅かだが、気づいた範囲でそのうちまたメモする習慣をもつことにしよう。

原来此種の記載は無用に属するかも知れぬが、或は他書を併せ考ふるに及んで、有用のものとなるかも知れない。わたくしは此の如き楽天観に住して、甘んじて点簿の労に服する。(森鷗外『伊沢蘭軒』)

わたくしは鴎外の晩年の歴史物の中では、『渋江抽斎』はしばしば読み返すのだが、『伊沢蘭軒』はどうもいけなかった。漢詩や漢文が多すぎる。いくら当時でもあれが新聞に連載されれば不評を買ったことは已む得ない。ほとんど引用ばかりの回が続くなどということもある。とくに蘭軒の長崎への旅日記を引用する第二十九から第五十までは、一二割程度しか鴎外の言葉は差し挟まれず、殆ど引用である。

伊沢蘭軒は、安永6年11月11日生れ(1777年12月10日) - 文政12年3月17日没(1829年4月20日))であり、いまから二百年ほど前の人物で、古井由吉が《あきるようであきず、いまにも投げ出しそうで投げ出さず》とする古い時代の書物、《人が死んでただちに生まれかわっても五十代近くも隔たる大昔の声》どころか、せいぜい五代昔の人物に過ぎないのだが、その《古い時代の物の考え方と言い方が基本のところでよくもわかっていないよう》なのだ。蘭軒とその仲間たちは、漢字フェティシズムなんじゃないか、と呟きつつ読むことになるのだが、我慢して読み進めるうちに、いささか《不思議に読めているような境に入った》。

あるいはこんな文を眺めていると、むしろ「現代的」な感覚を与えてくれるという錯覚に陥るなどということにもなる。

伊沢徳さんは現に此家の平面図を蔵してゐる。其間取は大凡下の如くである。「玄関三畳。薬室六畳。座敷九畳。書斎四畳半。茶室四畳半。居間六畳。婦人控室四畳半。食堂二畳。浄楽院部屋四畳半。幼年生室二箇所各二畳。女中部屋二畳。下男部屋二畳。裁縫室二畳。塾生室二十五畳。浴室一箇所。別構正宗院部屋二箇所四畳五畳。浴室一箇所。土蔵一棟。薪炭置場一箇所。」

どこかで読んだ(眺めた)印象と似ているな、などと。

「黙視」「陰視」「黙惑」「黙瞥」「黙殺」「黙笑」「黙怯」「黙訝」「黙認」「黙嘲」「黙憫」「黙索」「黙諾」「黙嘆」「黙惜」「黙難」「密囁」「密索」「黙戒」「悟惚」「黙悦」「隠嗤」「憤黙」「黙呆」「黙嫉」「沈躁」「黙脱」「黙錯」「黙忖」「黙敬」「微解」「黙謀」「爆黙」「擬黙」「黙索」「偽忌」「耽黙」「謬殺」「黙悩」「封舌」「駄黙」「躍黙」「黙狽」「黙滅」「浄黙」「専黙」「斜黙」「黙謝」「慈黙」「甘黙」「案黙」「黙揺」「静観」「歪黙」「黙愁」「黙訥」「熱黙」「黙染」「黙絶」「是黙」「濃黙」「黙祷」「黙賞」「純黙」「黙発」「畏黙」「黙慄」「黙測」「冷黙」「淫黙」「断推」「黙抜」「黙憬」「盲黙」「凝黙」「否視」「黙略」「黙質」「瀰黙」。演習問題:それぞれの具体的表情と視線の振幅を推測的描写せよ)。(三浦俊彦『偏態パズル』

さて、ここで古井由吉の「蜩の声」をすこし長く引用する。五十代近くも隔たる大昔の声に、呼吸に、つまり「魂」に、拍子を取り合おうとする文である。

夜の執筆、夜間の労働は真夏と言わず、あとの眠りに障るので、とうの昔からやめている。かわりに本を読む。読んでどうこうしようという了見もない。しかも年を取るにつれて現在の自分から懸け離れたものを読むようになった。古い時代の物の考え方と言い方が基本のところでよくもわかっていないようで、いずれたどたどしい読み方になる。あきるようであきず、いまにも投げ出しそうで投げ出さず、それでかえって長続きする。一日の疲れから半分ほどしか働かぬ頭で文をなぞっていると、睡気を寄せては払いながらもうすこしもうすこしと先へ続ける夜なべの心に近い。しかしこんなとろとろとした読書でも夜なべはやはり夜なべ、肉体労働のうちなのか、いきなり額から首から胸にまで汗が噴き出して、喘いでいることがある。

机の前からおもむろに立ち上がり、洗面所で汗を拭い、顔を洗って眼も冷やす。テラスに出てそよりともせぬ幕に向かって腰をおろし、風も通らぬところで、甲斐もなく、息を入れる。そして机の前にまた仔細らしくもどれば、身体はよけいに火照る。まるで音にならぬ狂躁が熱気とともにあたりに凝って、耳の奥が聾され、頭の内も硬く詰ったあまりにからんと、空洞になったかに感じられる。これでは本を仕舞って酒でも呑むよりほかにないところだがあいにく、汗の噴き出るのは、文章にも坂の上りと下りがあり、そのやや急な上りにかかる時と決まっている。ここは仮にも当面の上り下りを済ましておかないことには、床に就いて寝入り際に、半端になった始末がふっと頭に浮かんで、眠りをさまたげかねない。ところがそこをようやく上って下って見るとその先に、自明の続きのように、つぎの上りが待ち受けている。

ついても行けない眼を先へ先へと上っ滑りにひきずられているうちに、ある夜、不思議に読めているような境に入った。頭の内はひきつづき痼るっているので、とても理解とは思えない。まして認識からはるかに遠いが、なにがなし得心の感じが伴ってくる。しかもその得心は、心の内のことのようでもない。心は心にしても蒸し暑さに堪えかねて内から抜け出し、おなじく痼った眼を通して頁から浮き出した文章と宙で出会って、互いに言葉は通じぬままに、うなずきあい、拍子を取りあっている。なまじ天気も頭の調子もよろしくて理解しに掛かる時には、読み取ったところから手答えがなくなる。意味は近代の「文法」になぞられて摑んだつもりでも、音に声に、そして呼吸に、つまり「魂」に逃げられるらしい。音痴なんだ、と我身のことを顧る。人が死んでただちに生まれかわっても五十代近くも隔たる大昔の声のことにしても、近代の人間はおしなべて、耳の聡かったはずの古代の人間にくらべれば、論理的になったその分、耳が悪くなっているのではないか、すぐれた音楽を産み出したのも、じつは耳の塞がれかけた苦しみからではなかったか、とそんなことを思ったものだが、この夜、昼の工事の音と夜更けの蒸し返しのために鈍磨の極みに至ったこの耳に、ひょっとしたら、往古の声がようやく聞えてきたのか、と耳を遠くへやると、窓のすぐ外からけたたましく、蜩の声が立った。(古井由吉『蜩の声』)








2013年11月23日土曜日

一片欣々たる皇室尊崇の念(森鷗外)


断腸亭日乗 大正七年戊午 荷風歳四十

正月廿四日。鴎外先生の書に接す。先生宮内省に入り帝室博物館長に任ぜられてより而後全く文筆に遠ざかるべしとのことなり。何とも知れず悲しき心地して堪えがたし。

荷風の日記には、鴎外にたいして殆ど崇拝の念を感じさせる記述ばかりが目立つが、上の文はその稀な例外である。

もっとも鴎外は、この大正七年前後、完全に執筆活動をやめていたわけではなく、遅々として進まぬながら『北條霞亭』を書いていたようだ。

「北條霞亭」は森鴎外史伝三部作の最後の作品であるとともに、彼の著作活動の絶筆ともなった作品である。大正五年十月に新聞紙上に連載を開始して以来、長い中断を置いて、大正十年雑誌「あららぎ」誌上で連載を終了するまで、実に五年余の歳月を要している。しかしてその八ヵ月後に鴎外は世を去るのである。

この作品の完結にかくも長い期間を要したのは、世間がこの作品を喜ばなかったからである。最初この作品の連載を載せた新聞(東京日日新聞)は、開始後二か月で連載を中止した。本編165回分のうち57回分を終えたところだった。1年以上の中断を経て今度は雑誌(帝国文学)に続編を発表したが、これも遅々として進まず、大正9年1月には雑誌社そのものが廃刊してしまう。最後に連載を引き受けた「あららぎ」は創刊したばかりで、創始者の齋藤茂吉は鴎外に尊敬の念を抱いていたから、いわばご祝儀のようなつもりだったのだろう。連載中作品そのものが世間の話題を呼ぶことは殆どなかった。(森鴎外「北條霞亭」:文化文政時代の精神を描く

《大正5年(1916)1月13日から鴎外「渋江抽斎」を「東京日日新聞(毎日新聞)」に連載開始。同年、3月28日、鴎外の母死す。その1ヶ月後、「渋江抽斎」完結。それから10日もたたぬうちに漱石が「明暗」を「朝日新聞」に連載開始。その年、12月9日、漱石死す(50才)。鷗外(55才)も漱石の葬儀には参列している。

鷗外と漱石は、お互いに「見た」ことはあるが交流はなかった。

「実際には漱石は鴎外が同時代の小説家の中でただ一人尊敬していた人です。尊敬というか、好敵手と見ていた人です。」

鷗外の「ヰタ・セクスアリス」には、「夏目金之助君が小説を書き出した、金井君(主人公の鴎外)は非常な興味を以て読んだ。そして技癢を感じた。」》(鴎外と漱石 江藤淳 要約


ーー漱石の「朝日新聞」における新聞小説の人気に対抗するようにして、鴎外は「

東京日日新聞」で執筆することになったのだろうが、最初の歴史物『渋江抽斎』はまだしも、その後、だんだんと読まれなくなったということなのだろう。

鷗外にとって、「自己」は実体的ななにかではなく、「あらゆる方角から引つ張つてゐる糸の湊合してゐる」(『妄想』)ものであり、マルクスの言葉でいえば「諸関係の総体」(「ドイツ・イデオロギー」)にほかならなかった。いいかえれば、鷗外は「自己」を西洋人のように直接的・実体的にみる幻想をもちえないことを逆に「苦痛」にしていたのである。

したがって、鷗外の本領は、「侍」的人間を書いた歴史小説で発揮されている。そこでは、鷗外は「心理的なもの」を徹底的に排除しようとした。この姿勢は、午前中に小説を書き、午後には漢詩や山水画の世界に浸っていた晩年の夏目漱石と共通している。おそらく、彼らは「文学」とけっしてなじめないものをもっていたのであり、また「表現」を拒絶する視点をもっていたのである。(柄谷行人『日本近代文学の起源』P93)


柄谷行人は鷗外と漱石の共通性を言うが、漱石は「心理的なもの」をその新聞小説では書き、鷗外が「非心理的な」歴史物を書いて、公衆に受けが悪かったということは言いうるのではないか。そして、もし鷗外が「諸関係の総体」としての人物を書いたのなら、今、鷗外の新しさはそこにあるともいえる。

なぜなら、人工知能のパイオニアのミンスキーの、「心というのは多数のモジュールないしエージェントが統一的なプログラムなしに並列して走っているようなもので、その中には意識としてドミナントになるものもあるが、それとは別のリズムで意識には上らないまま動いているものもある、その総体が心なんだ」やら、あるいはヒュームの、「自己というのは多数の知覚の束だ、いわば蚊柱のようなものだ」とする「解離」「多重人格」としての「自己」を描いた、つまり「自閉症」と並び、現在、注目される課題のひとつでもある「自己」のあり方を書いた、ということになるわけだから。

精神医学の領域では、解離というメカニズムが、現代的な主体においては、抑圧よりもよく見られる防衛システムとして捉えられる傾向にある(座談会「来るべき精神分析のために」 十川幸司発言

実際、鷗外の叙す抽斎は、抽斎自身が解離的だとはどうみても読めないが、「解離的な」友人たちに翻弄・困惑されながらもその頓才・奇才を愛したひとのようには読める。ーー《人と交るには、その長を取って、その短を咎めぬが好い》(『渋江抽斎』)


ところで、冒頭の荷風の日記が書かれた大正七年とは米騒動の年であり、鴎外は当時の社会の激動に無關心で、歴史物を書くのに専念していた、という批判もあるようだ。


荷風の大正七年の日記には、「既に切迫し来れるの感」とあり、翌年には「朝鮮人盛に独立運動をなし」あるいは「新聞紙連日支那人排日運動の事を報ず」などとあり、文人趣味を横溢させる荷風にも、社会的な動乱への関心があるのが知れる。



わたくしは、鴎外の『渋江抽斎』は四五度は読んでいるが、『伊沢蘭軒』はどうもいけない(わたくしには漢文が多過ぎる)。『北条霞亭』は掠ったこともない。青空文庫にもない。が、いまインターネット上をみると、横書きにて打ち込んだものがあるようだ。

ここでは読んでいない小説のことをとやかく言わずに、またすでに多く語られた『渋江抽斎』の感想などを記すことも遠慮し、緒家の『抽斎』賛を掲げておこう。

大正十二年歳次 葵亥 荷風年四十五

五月十七日。 曇りて寒し。午後東光閣書房主人来談。夜森先生の『渋江抽斎伝』を読み覚えず深更に至る。先生の文この伝記に至り更に一新機軸を出せるものゝ如し。叙事細 密、気魄雄勁なるのみに非らず、文致高達蒼古にして一字一句含蓄の妙あり。言文一致の文体もこゝに至つて品致自ら具備し、始めて古文と頡頑(けつかう)す ることを得べし。

『抽斎』と『霞亭』といずれを取るかといえば、どうでもよい質問のごとくであろう。だが、わたしは無意味なことはいわないつもりである。この二篇を措いて鷗外にはもっと傑作があると思っているようなひとびとを、わたしは信用しない。(……)『抽斎』と『霞亭』と、双方とも結構だとか、選択は読者の趣味に依るとか、漫然とそう答えるかも知れぬひとびとを、わたしは信用しない。(……)では、おまえはどうだときかれるであろう。ただちに答える。『抽斎』第一だと。(石川淳「鷗外覚書」)
出来上がった作品としては「蘭軒」は「抽斎」に及ばない。うっとりした部分、遣瀬ない部分、眼が見えなくなった部分、心さびしい部分をもって、しかも「抽斎」はその弱いところから崩れ出して行かない世界像を築いている。いわば、作者のうつくしい逆上がこの世界を成就したのであろう。そういううつくしい逆上の代わりに今「蘭軒」には沈静がある。世界像が築かれるに至らないとしても、蘭軒という人間像をめぐって整理された素材の粛粛たる行列がある。(石川淳『森鴎外』)


丸谷才一は、『霞亭』ではなく、『抽斎』と『蘭軒』派のようだ。

日本の近代文学で誰が偉い作家かといえば、夏目漱石と谷崎潤一郎、そして森鷗外の3人だと相場はほぼ決まっています。戦前の文壇筋では、谷崎はともかく、漱石や鴎外を褒めるのは素人で、一番偉いのは志賀直哉だと評価が定まっていましたが、ここにきてやっと妥当なところに落ちつきました。

一般的に漱石や谷崎の作品はよく読まれているはずなので、あらためて触れる必要はないでしょう。問題なのは森鴎外です。だいたい、鴎外の小説は美談主義でたいしたことはない。それでも、国語の教科書で『高瀬舟』なんかを無理矢理読まされるものだから、みんなうんざりしてしまう。そもそも教科書にはつまらないものが載るので、教師の教え方も下手に決まっているから、印象が悪くなるのは当たり前。鴎外の作品で本当に価値があるのは、晩年の50代に書いた3つの伝記なのです。

その3作とは、書かれた順に『渋江抽斎』『伊沢蘭軒』『北条霞亭』。いずれも江戸後期の医官でたいへんな読書家だった。鷗外は古本屋で彼らが売った本に出合い、「いったいどんな人がこれほど立派な蔵書を持っていたのだろう」と好奇心を抱いて探り出す。そこから話が始まります。(……)

先に挙げた3作の中では、僕は『渋江抽斎』と『伊沢蘭軒』がいいと思う。この2作品は近代日本文学の最高峰といえるでしょう。なぜそれほど素晴らしいのか。この2作は続けて書かれたものですが、謎解きの構造がたいへん大仕掛けになっていて、『伊沢蘭軒』の中で、前作で解決されなかった謎がすっかり解けるのです。(文壇の重鎮 丸谷才一が語る「不朽の名作」

みずから進んで抽斎の妻に嫁し、思慮深く、好学心があり、しかも勇敢であった五百に鷗外は遂にみずから得なかった理想の妻の姿を見出したのではなかろうか。

作中もっとも劇的な場面の一つは、抽斎を脅迫する三人の侍を、五百が追い出した話である。三人が訪れたとき、五百は浴室にいた。三人は奥の間に通って、抽斎に金を要求し、容れられずとみるや、刀の柄(つか)に手をかけて、抽斎をかこんだ。そのにらみ合いの最中に、廊下に足音もせず、静かに障子が開く。

《刀の柄に手を掛けて立ち上った三人の客を前に控えて、四畳半の端近く坐していた抽斎は、客から目を放さずに、障子の開いた口を斜に見遣った。そして妻五百の異様な姿に驚いた。

五百は僅(わずか)に腰巻一つ身に著けたばかりの裸体であった。口には懐剣を銜(くわ)えていた。そして閾(しきい)際に身を屈めて、縁側に置いた小桶二つを両手に取り上げるところであった。小桶からは湯気が立ち升(のぼ)っている。縁側を戸口まで忍び寄って障子を開く時、持って来た小桶を下に置いたのであろう。

五百は小桶を持ったまま、つと一間に進み入って、夫を背にして立った。そして沸き返るあがり湯を盛った小桶を、右左の二人の客に投げ附け、銜えていた懐剣を把って鞘を払った。そして床の間を背にして立った一人の客を睨んで、「どろぼう」と一声叫んだ。

熱湯を浴びた二人が先に、柄に手を掛けた刀をも抜かずに、座敷から縁側へ、縁側から庭へ逃げた。跡の一人も続いて逃げた。》(森鴎外著『渋江抽斎』)

これは探偵小説の一場面ではなく、さながら映画の活劇場面であろう。腰巻一枚の方はしばらく措き、果たして今日の映画女優に、一声能(よ)く三人の侍を走らせる裂帛(れっぱく)の気合ありやなしや。私は尊敬する先学北野克氏から恵贈された五百自筆の短冊「秋雨」を居室に掲げ、それをみる度に、鴎外の描いた幕末の女の勇気を想出す。(加藤周一著「『渋江抽斎』について」)


『渋江抽斎』賛ではないが、三島由紀夫の鷗外賛。

鴎外とは何か?(……)

鴎外は、あらゆる伝説と、プチ・ブウルジョアの盲目的崇拝を失った今、言葉の芸術家として真に復活すべき人なのだ。言文一致の創生期にかくまで完璧で典雅な現代日本語を創りあげてしまったその天才を称揚すべきなのだ。どんな時代になろうと、文学が、気品乃至品格という点から評価されるべきなら、鴎外はおそらく近代一の気品の高い芸術家であり、その作品には、量的には大作はないが、その集積は、純良な檜のみで築かれた建築のように、一つの建築的精華なのだ。(三島由紀夫「作家論」―森鷗外)

…………



◆「史伝に見られる森鴎外の歴史観」(古賀勝次郎)より

鴎外は、「わたくしが渋江抽斎のために長文を書いたのを見て、無用の人を伝したと云ひ、これを老人が骨董を掘り出すに比した学者」云々としている(『伊沢蘭軒』)。この学者とは和辻哲郎である。

私は部分的にしか読まなかった『渋江抽斎』をここで批判しようとは思はない。にもかかはらず私は先生の態度に対する失望をいはないではゐられない気持ちがする。……しかもあの頭のよさと確乎した物の掴み方とは、ともすれば小さいくだらない物の興味に支配されるのではなからうか。……私は『渋江抽斎』にあれだけの力を注いだ先生の意を解し兼ねる。私の憶測し得る唯一の理由は、『掘り出し物の興味』である。しかし埋没されてゐたといふことは、好奇心をそそりはしても、その物の本来の価値を高めはしない。その物の価値は『掘り出された』ことと独立して判定せられねばならない。……例へば中央アジアで発掘された仏像は珍奇な発掘品である故に価値があるのではなく、ある時代の文化を象徴する少数の遺物である故に芸術的価値以外に更に尊さを加へるのである。抽斎の伝記にはそれがない。彼の個人としての偉大さも文化の象徴としての意義も、先生のあれだけの労作に価するとは思へない。(和辻哲郎「文化と文化史と歴史小説」)


漱石派/鴎外派の対立ということもあるのだろう。

森先生の歴史小説は、その心理観察の鋭さと、描写の簡素と、文体の晴朗とで以て、われわれを驚嘆せしめる。例へば、『寒山捨得』では、……俗人の心理や真の宗教的心境の暗示や人間の楽天的な無知などが、いかにも楽々と、急所急所を抑へて描いてあるのに感服した。しかし私は何となく、本質へ迫る力の薄さを感じないではゐられない。先生の人格はあらゆる行に沁み出てるるが、それは理想の情熱に燃えてない、傍観者らしい、あくまで頭の理解で押し通さうとする人格のやうに思はれる。そこへ行くと夏目先生は、口では徹底欲を笑ふやうなことをいってゐるが、真実は烈しい理想の情熱で、力限り最後の扉を押し開けようとしてゐる。夏目先生の取り扱ふ題目は、自分の内生を最も力強く揺り動かしてゐる問題である。あくまで心の理解で貫かうとする欲求も見える(同和辻)
ーー和辻は、「夏目先生の長所と森先生の短所との比較」としているが、これは己れの文の、鴎外批判(吟味)と漱石顕揚の対照の甚だしいことを韜晦する為につけ加えた但し書きに過ぎないだろう。



◆鴎外文学に対する三つの視点(井村紹快)より

この人たち(谷崎潤一郎、永井荷風、志賀直哉、等)ををさきの二人(漱石、鴎外) の人に比べてみると、大きい小さい、うまい・まずいということとは別に、今日のこの人たちが、すくなくともあの二人と同じ意味で偉大だとは義理にもいえないと思うということが自然に出てくる。(中野重治「漱石と鴎外との位置と役割」)
しかしそこに、古いものに対する鴎外の屈伏、あるいは妥協ということも私はあったと思います。必ずしも家族制度と限る必要はありません。家庭生活、官吏生活、それから政治生活、すべてを貫いて結局のところ鴎外は、古いものに屈伏しています。従順にそれに従っています。生涯をつらぬいて鴎外は、古いものを守ろうとする立場を守っています。むろんそこに、いろいろの、またなかなかはげしい内部衝突かおりますが、この衝突を、行きつくところまで行きつかせることを鴎外はしません・(中野重治「鴎外位置づけのために」)
そこで、鴎外で目立つ第二の問題ですが、それは、古い権威を維持するため彼がいかにも奮闘しているということだと思います。これは、話が多少面倒になりますが、森茉莉さんの言葉をかりれば、鴎外の思想の根底に『一片耿々たる皇室尊崇の念が確乎として存在』したということに関係があります。やはり必ずしも、皇室とか天皇とかいうものには限りませんが、徳川時代から引きつづいて来た日本の封建的なもの、明治になって再編成された封建的専制的なもの、これを維持しようため、鴎外がいかに奮闘したか、いかに五人前も八人前も働いたかという問題であります。

このことでは、鴎外はさまざまの改革をもやっています。宮内省ないし帝室博物館の問題、陸軍軍医団の編成の問題、東京医学会ないし日本医学会の組織の問題、政府の文芸政策ないし芸術作品にたいする検閲の問題、革命運動にたいする弾圧政策の問題、こういう問題で、鴎外は、広い知識と高い見識とを働かして、なかなか立派な意見を出し、またそれが実行されるよう舞台裏で事を運んでいます。文部次官に手紙をかく。山県有朋に特別に会って話をする。そういうことをやり、またそのため、人と衝突したり、陸軍次官から叱られたりなどもしています。では何のために鴎外がそれほど働いたか。日本の民主化をおさえるため、日本の民主主義革命にブレーキをかけようとして五人前も八人前も仕事をしています。民主主義革命への日本内部の動きと活力、それをおさえるには、上からの力をふんだんに強め、不断に新しくせねばなりまぜん。この上からの力を、粗末なものから精密なものに、低級なものから高級なものに改めて行かねばなりませんが、この支配する力を思想的哲学的に裏づけ高めること、ここに鴎外の五人前も八人前もの力が発揮されたということ、これが第二の問題、また非常に大事な問題だと私は考えます。(中野重治「鴎外位置づけのために」)
労働者階級の成長を明らかに勘定に入れて、さまざまの社会政策を改良主義的に考え、その結果、改良主義から天皇制社会主義( ? )へ行き、排外・全体主義の極右政策に出ようとした一人の人によって近代日本文学が最も高く代表されているという事実、これを日本の労働者階級とその文学的選手団とから隠そうとするのはよくないことであって悪いことである。(「鴎外と自然主義との関係の一面」)
天皇を天皇制の中心として残そうという試みと、同時に天皇をいくらかでも人間的ものとしようという試みとの、分かり切つた空しい統一のための鴎外の努力は、今となっては同情をもって眺められるべきものかも知れない。ここでも古い意味での『忠義』という言葉をつかえば、鴎外は、明治・大正の全期間を通じて、その『忠義』のために金、位、爵位などを得たすべての人よりももっと純粋な意味で『忠義』であったとも言えよう。これは、強かった鴎外の弱点としての美点であった。(「小説十二篇について」)

ここに書かれる鴎外の態度は、いろいろ語られ過ぎた三島由紀夫の天皇にたいする態度と同じものというつもりはないが、すくなくとも「春の雪」の月修寺門跡の態度と驚くほど似通っている。

あの朝、聰子からすべてを聴かされたとき、門跡は聰子を得度させるほかには道がないことを即座にさとられた。宮門跡の傳統ある寺を預る身として、何よりお上を大切に思はれる門跡は、かうして一時的にはお上に逆らふやうな成行になつても、それ以外にお上をお護りする法はないと思ひ定め、聰子を強つて御附弟に申し受けたのである。

お上をあざむき奉るやうな企てを知つて、それを放置することは門跡にはできなかつた。美々しく飾り立てられた不忠を知つて、それを看過することはできなかつた。

かうして、ふだんはあれほどつつしみ深くなよやかな老門跡が、威武も屈することのできない覺悟を固められた。現世のすべてを敵に廻し、お上の神聖を默ってお護りするために、お上の命にさへ逆らふ決心をされたのである。(三島由紀夫「春の雪」『豊饒の海』第一巻 319-320頁)



◆「大岡昇平『堺港攘夷始末』論 : 単一の「物語」への回収を拒否する歴史」(尾添陽平)より

大岡の『堺事件』批判は、大岡自身によつて以下のようにまとめられている。

・全体として、鴎外の美談作りの意図が露骨で、歴史小説の方法として疑間がある。

・一方には無法な洋夷としてのフランス人がおり、他方これを排除せんと決意し、皇国意識に目醒めた土佐藩士がいる。彼等は洋夷の圧力によって切腹しなければならなかったが、正にその切腹によって洋夷を遁走せしめた。洋夷に対して謝罪はしないが、切腹の場に臨み、無言のうちに、彼等の不幸を見守る、天皇家があった。封建的土佐藩は助命された九士を流罪にしたが、天皇制は幼帝即位を機に特赦する仁慈と権威を持っている。鴎外が捏造したこの構図ほど山県体制に役立つものはなかったであろう。(大岡昇平「『堺事件』の構図――森鴎外における切盛と捏造――」)


吉田熙生は、大岡の『堺事件』批判の動機を、「『レイテ戦記』の執筆と完成にあった」と指摘、『「堺事件」の作者鴎外の位置は、レイテ戦の事実を都合よく書き替える高級将校のそれになぞらえることができる」「兵士の死をイデオロギーによって美化すること、そしてそうした作者鴎外を偶像化することは、大岡には認めがたいことだつた」と述べている。大岡は、『レイテ戦記』のあとがきにおいて「旧職業軍人の怠慢と粉飾された物語に対する憤懣」があった、と述べる。大岡は、旧軍人たちによるレイテ戦の記述が、レイテ戦を美化する「物語」を立ち上げ、レイテ戦を、その「物語」の構図に回収する記述であることを批判している。そして『堺事件』が、旧軍人たちによって記されたレイテ戦と同様に「全体として、鴎外の美談作りの意図が露骨」であり、『堺事件』の歴史記述は、無法な洋夷としてのフランス人」を「皇国意識に目醒めた土佐藩士」が、「切腹」という命を代償にした行為によって遁走せしめ、天皇家は、「切腹」した土佐藩士の「不幸を見守」り、「助命された」土佐藩士を「特赦する仁慈と権威を持っている」〉という殉国の「物語」を立ち上げ、堺事件を、その「物語」の構図に回収する記述である、と批判するのである。


…………

戦後以降も、作家、芸術家批判というものがくり返されてきた。彼らがその「現在」、政治にいかにかかわっているか、あるいは体制批判の有無が、鴎外への批判と同じようなものを生む。美学的にいかにすぐれていようと、そのひとの体制へのかかわり方によって「凡俗」という評言が与えられる場合がある。ましてや思想家、批評家ならいっそうのこと。

中野重治や大岡昇平の批判は、本質的なことにかかわっている。そして中野や大岡の指摘する側面からいえば、最も鴎外のその態度に批判的であるべきはずの加藤周一(戦後体制が旧体制からの継続であるのを激しく批判する加藤)が、中野重治や大岡昇平の論点を外してひたすら鴎外顕揚の立場であるのは、加藤周一の「弱さ」、すくなくともある側面に於いて美学的過ぎることによる「脇の甘さ」をみるべきか、それとも別の見方をしていたのかは知るところではない。

いずれにせよ「さらば川端康成」を書いた加藤周一だが、鴎外にたいしては絶賛で終始した。

……私は昔からの読者の一人として、その著作に現代の日本文学をよむことの大きなよろこびを見出してきたのである。その川端康成の死後今日まで、私には容易に消えない感慨がある。さらば川端康成。これは私の知っていた川端さんへの「さらば」であるばかりでなく、私の内なる「川端的」なものへの「さらば」でもある。前者は死別の事実に係る。後者は――決別の願望である、おそらく容易に実現されないであろうところの、しかし断乎としてその実現に向うべきところの。(加藤周一「さらば川端康成」)

もっとも加藤周一の『日本文学史序説』の文脈からいえば、近代の文人として鴎外が至高の位置を占めるのは、止む得ない。

あるいはまた、《漢文学は国学者のプロテストにもかかわらず、日本の文学の正統であった。吉本隆明が強調しているように、万葉集でさえ漢文学あるいは漢字のもたらした衝撃において成立したのである(「初期歌謡論」)。花鳥風月はいうまでもなく、国学者が想定するような純粋土着的なものも、漢文学による「意識」において存在しえたのだ。古代の日本人が「叙景」をはじめたとき、つまり風景をみいだしたとき、すでに漢文学の意識が存在したのである。》(柄谷行人『日本近代文学の起源』)であるのだから、柄谷行人の文脈からいっても漱石・鴎外が顕揚されることになる。そして柄谷行人は、明らかに和辻、中野、大岡と同じように漱石派である。

柄谷行人が鴎外ではなく、漱石をとるのは、和辻が書くように《夏目先生の取り扱ふ題目は、自分の内生を最も力強く揺り動かしてみる問題》であるからであり、それは「心的外傷」(トラウマ)にかかわるからといってもいい。
漱石は幼児に養子にやられ、ある年齢まで養父母を本当の両親と思って育っている。彼は「とりかえ」られたのである。漱石にとって、親子関係はけっして自然ではなく、とりかえ可能なものにほかならなかった。ひとがもし自らの血統〔アイデンティティ〕に充足するならば、それはそこにある残酷なたわむれをみないことになる。しかし、漱石の疑問は、たとえそうだとしても、なぜ自分はここにいてあそこにいないかというところにあった。すでにとりかえ不可能なものとして存在するからだ。おそらく、こうした疑問の上に、彼の創作活動がある。(『日本近代文学の起源』)

加藤周一の『日本文学史序説』からいくらか引用しよう。

・比喩的にいえば、日本では哲学の役割まで文学が代行し、中国では文学さえも哲学的になったのである。

・散文家としての日蓮は、一種の天才であった。その散文には、舌鋒火を吐く激しい気性がよくあらわれている。気性と信念。論戦的な日本語の散文は、早くも13世紀に、日蓮において、殊にその若干の消息文において、ほとんど最高の水準に達していた。

・(道元の)『正法眼蔵』の文章は、13世紀日本語散文の傑作の一つである。

・散文家としての(新井)白石の面目は、『藩翰譜』にみることができる。(……)けだし『藩翰譜』は、元禄期前後の、またおそらくは徳川時代を通じての日本語散文文学の傑作の一つであろう。(加藤周一『日本文学史序説』)

ーーこの流れから、「文人」としての鴎外・荷風・石川淳が顕揚されることになる。

日本語の文学的散文を操って比類を絶するのは石川淳である。その漢文くずし短文は、語彙の豊かさにおいて、語法の気品において、また内容の緊密さにおいて、荷風を抜きほとんど鴎外の塁に迫る。・・・・・・荷風以後に文人と称し得る者はただ一人の夷斎石川である。(同『日本文学史序説』)

もっとも永井荷風や石川淳が、《哲学の役割まで文学が代行》した作家であるかどうかは議論の余地が大いにあるだろう。ただし、二〇世紀前半までの日本において、《哲学の役割まで文学が代行》したのは、否定しがたい説ではないだろうか。

そして二〇世紀後半のある時期からの文学の衰退により、いささか断定的すぎる嫌いもないではない柄谷行人の絶望の嘆きが生れることになる。

文学の地位が高くなることと、文学が道徳的課題を背負うこととは同じことだからです。その課題から解放されて自由になったら、文学はただの娯楽になるのです。それでもよければ、それでいいでしょう。どうぞ、そうしてください。それに、そもそも私は、倫理的であること、政治的であることを、無理に文学に求めるべきでないと考えています。はっきりいって、文学より大事なことがあると私は思っています。それと同時に、近代文学を作った小説という形式は、歴史的なものであって、すでにその役割を果たし尽くしたと思っているのです。(……)

いや、今も文学はある、という人がいます。しかし、そういうことをいうのが、孤立を覚悟してやっている少数の作家ならいいんですよ。実際、私はそのような人たちを励ますためにいろいろ書いてきたし、今後もそうするかもしれません。しかし、今、文学は健在であるというような人たちは、そういう人たちではない。その逆に、その存在が文学の死の歴然たる証明でしかないような連中がそのようにいうのです。(『近代文学の終り』柄谷行人)

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さてここで、《旧職業軍人の怠慢と粉飾された物語に対する憤懣》とする大岡昇平の、たとえば《旧職業軍人》に別の言葉を代入すれば、、2011年春以降ことさら《怠慢と粉飾された物語》に汚染されているのが瞭然としているにもかかわらず、それに憤懣・苛立ちを垣間見せさえしない作家や芸術家たちーー、思想家、批評家はもちろんのことーー、彼らに対して、いかに小粒で歪んだ「鴎外」でしかないひとが多いだろうか、などといまさらもっともらしく嘆くふりをするつもりはない、ーーと書くのは、いささか「逆言法」であるのが以下に示される。

芸術家を自称するもののほとんどは、痛みを内面化することこそが自分の役割だと思い込んでいる。その思い込みは、当然のことながら表層的な鈍感さで芸術家を保護することにもなるだろう。だから、芸術家とは、その内的な感性の鋭さ故に政治に背を向けるのではない。内的な繊細さが要求されてもいないときに外的な鈍感さを装う、きわめて政治的な存在なのである。それはほかでもない、制度的に深く政治に加担する存在だということだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

この「芸術家」は「知識人」でもある。そして仮に批判的な言葉を呟こうしても、制度は、権力は、すでにその言葉を取り込む「装置」としてある。

われわれは、ここで、いわゆる第二帝政期が、それに批判的であろうとする姿勢そのものが規格化された言葉しか生み落とさないという悪循環を萌芽的に含んだ一時期であると認めざるをえまい。それは、いわゆる知識人や芸術家たちを積極的にとりこむ力学的な装置のようなものだ。顔をしかめて距離をとろうとする一群の人びとを排除するのではなく、彼らの否定的な反応をいわば必須の条件として成立する秩序なのだといいかえてもよい。というのも、知識人や芸術家たちの反応は決して思いもかけぬものではなく、そのとき口にされる言葉のおさまる文脈そのものが、きまって予測可能なものだからである。そして、その文脈の予測さるべき一貫性が、いわゆる大衆化現象と呼ぶべきものなのだ。(同)

このことが、「装置の罠」といわれるものなのだ。

酒井直樹の「共感の共同体批判」に対し、『思想としての3.11』(河出書房新社)において、小泉義之が、「この類の批判は正当で必須であるにしても」(『思想としての3.11』124頁)と前置いたうえで、「共感の共同体への批判と原発産業や政府機関への批判とがワンセットになる構図こそが何度も繰り返されてきたことであって、そこにこそ何か得体のしれない罠が仕掛けられているという気がする」(東日本大震災、福島原発事故における言説の諸関係について

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しかし制度の力学的装置の罠に陥らないようにしつつ、次のようでなければならないのは間違いない(美学者や自己愛者を除いて?ーーとしたらそんな人間は存在するだろうか)。

作家というものはその職業上、しかじかの意見に媚びへつらわなければならないのであろうか? 作家は、個人的な意見を述べるのではなく、自分の才能と心のふたつを頼りに、それらが命じるところに従って書かなければならない。だとすれば、作家が万人から好かれるなどということはありえない。むしろこう言うべきだろう。「流行におもねり、支配的な党派のご機嫌をうかがって、自然から授かったエネルギーを捨てて、提灯持ちばかりやっている、卑しいごますり作家どもに災いあれ」。世論の馬鹿げた潮流が自分の生きている世紀を泥沼に引きずりこむなどということはしょっちゅうなのに、あのように自説を時流に合わせて曲げている哀れな輩は、世紀を泥沼から引き上げる勇気など決して持たないだろう。(マルキ・ド・サド「文学的覚書」、『ガンジュ侯爵夫人』)
「哲学は何の役に立つのか?」と問う人には、次のように答えなければならない。自由な人間の姿を作ること。権力を安定させるために神話と魂の動揺を必要とするすべての者を告発すること、たったそれだけのこととはいえ、いったい他の何がそれに関心をもつというのか。(ドゥルーズ『意味の論理学』)

鴎外は比較的後年の随筆「沈黙の塔」で次のように書いていることをも付け加えておこう。
芸術の認める価値は、因襲を破る処にある。因襲の圏内にうろついている作は凡作である。(……)学問も因襲を破って進んで行く。一国の一時代の風尚に肘を掣せられていては、学問は死ぬる。