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2014年11月14日金曜日

資料:金持のための社会主義

前投稿「エンロンEnron社会」を泳がざるをえない「文化のなかの居心地の悪さ」補遺ーー市場原理主義と新自由主義は違うなどという寝言を言ってくる輩がいるので。市場原理主義とは資本の欲動の論理である。

◆柄谷行人の「歴史の終焉について」(『終焉をめぐって』所収)

要するに、資本主義圏と社会主義圏があるというのはうそである。資本主義は世界資本主義としてあり、「社会主義圏」はその内部にしか存在したことがない。だが、こうした二項対立がなぜ戦後を支配したのだろうか。

もともと戦後体制は、1929年恐慌以後の世界資本主義の危機からの脱出方法としてとらえられた、ファシズム、共産主義、ケインズ主義のなかで、ファシズムが没落した結果である。それらの根底に「世界資本主義」の危機があったことを忘れてはならない。それは「自由主義」への信頼、いいかえれば、市場の自動的メカニズムへの信頼をうしなわせめた。国家が全面的に介入することなくしてやって行けないというのが、これらの形態に共通する事態なのだ。p160
人々は自由・民主主義を、資本主義から切り離して思想的原理として扱うことはできない。いうまでもないが、「自由」と「自由主義」は違う。後者は、資本主義の市場原理と不可分離である。さらにいえば、自由主義と民主主義もまた別のものである。ナチスの理論家となったカール・シュミットは、それ以前から、民主主義と自由主義は対立する概念だといっている(『現代議会主義の精神史的地位』)。民主主義とは、国家(共同体)の民族的同質性を目指すものであり、異質なものを排除する。ここでは、個々人は共同体に内属している。したがって、民主主義は全体主義と矛盾しない。ファシズムや共産主義の体制は民主主義的なのである。

それに対して、自由主義は同質的でない個々人に立脚する。それは個人主義であり、その個人が外国人であろうとかまわない。表現の自由と権力の分散がここでは何よりも大切である。議会制は実は自由主義に根ざしている。p162

※参照:資本の欲動のはてしなさ(endless)と無目的(end-less)

一般市民は「理解」しないといけないのだろうか? 社会保障の不足を埋め合わせることはできないが、銀行があけた莫大な金額の損失の穴を埋めることは必須であると。厳粛に受け入れねばならないのか? 競争に追われ、何千人もの労働者を雇う工場を国有化できるなどと、もはや誰も想像しないのに、投機ですっからかんになった銀行を国有化すのは当然のことだと。Alain Badiou, “De quell reel cetre crise est-ellelespectacle?” Le Monde, October 17, 2008

…………

以下、ジジェク『First as Tragedy, then as Farce』より。

「あなた(グリーンスパン-引用者)はイデオロギーをおもちでしたね。このような供述があります。「私(グリーンスパン-引用者)には自分なりのイデオロギーがある。私の判断では、自由競争市場は経済を整えるのに最良の方法だ。規制も試みたが、成果を上げたものはなかった。」これがあなたの言葉です。サブプライム危機につながる無責任な貸付を防止する権限があなたにはあった。そうすべきだと多くの人から忠告されていた。そしていまや、経済全体がその代償を払っている。あなたは自分のイデオロギーによって決断したことを悔やんでいますか?」

「グリーンスパンは答えた。「世界の動向を決めるという重要な機能を持つ構造だと私が信じていたモデルに、欠陥がありました」。言い換えれば...自由市場のイデオロギーに欠陥があることが証明されたと、グリーンスパンは認めたのだ。のちには、金融会社が多大な損失をこうむらないよう取引相手を十分調査しなかったことに「茫然とした」と何度もくり返した。「人々は、金融機関の自己利益追及によって株主の権利は守られると期待していました。彼らは茫然自失の状態にあります。私もです。」

「グリーンスパンの過ちは、賢明に自己利益を追求する貸出機関であれば、もっと責任ある、もっと倫理的な行動をとるはずで、早晩バブルがはじけることが明白な無謀な投機に一目散に走るようなまねはするまい、と期待したことだった。」

「グリーンスパンの失策は、市場参加者の合理性を過大評価していたことに、つまり無謀な投機で荒稼ぎする誘惑に負けたりしないと信じていた点にある。しかし、それだけではない。リスクを冒す価値があるという、金融投機家のごく合理的な期待 - いざ金融崩壊となっても国家による損失補てんをあてにできる - を計算に入れ忘れていたのだ。」(ジジェク『ポストモダンの共産主義』

二〇〇八年の金融大崩壊への緊急援助策

『この巨額な緊急援助は何の解決のもならない。これは財政社会主義であり、反アメリカ的である。』(ジム・バニング共和党上院議員)

共和党の緊急援助策への反対のしかたは階級闘争の様相を呈していた。つまり、ウォール街と目抜き通りとの闘争だ。なぜこの危機を招いた責任のあるウォー ル街の金持ちを助け、住宅ローンをかかえた目抜き通りの普通の人たちに犠牲を払うよう、求めねばならないのか?……

……マイケル・ムーアがこの緊急援助策を世紀の強盗事件であると避難する意見広告を出したのも無理はない。

この左派と共和党保守主義者との見解の意外な一致点は、考察に値する。

では、緊急援助策は本当に「社会主義」的な政策であり、ついにアメリカに社会主義国家が誕生したことを意味しているのか? もしそうなら、きわめて特殊な形態である。「社会主義」政策の第一の目的が、貧しい者ではなく富める者、債務者ではなく債権者を助けることになってしまうからだ。金融システムの「社会主義化」が資本主義を救うために役立つのならば認められるというのは、究極の皮肉である。社会主義は悪──のはずだが、ただし、資本主義の安定に資する場合にかぎり悪ではないと言うことだ(現代中国との対称性に注目を。中国共産党は同じように、「社会主義」体制を強化するために資本主義を利用している)。(同上)

※「目抜き通り」は、原文をみるとmain streetになっている。Wall street 対 main streetであって、一般大衆の住むストリート、つまり「一般市民」として読もう。

◆参照1:ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』より。

資本の限界は資本そのものであるという公式を進化論的に読むのは的外れである。この公式の眼目は、生産関係の枠組みは、その発展のある時点で、生産力の伸びを邪魔するようになる、といったことではなく、この資本主義の内在的限界、この「内的矛盾」こそが、資本主義を永久的発展へと駆り立てるのだ、ということである。資本主義の「正常な」状態は、資本主義そのものの存在条件のたえざる革新である。資本主義は最初から「腐敗」しており、その力をそぐような矛盾・不和、すなわち内在的な均衡欠如から逃れられないのである。だからこそ資本主義はたえず変化し、発展しつづけるのだ。たえざる発展こそが、それ自身の根本的・本質的な不均衡、すなわち「矛盾」を何度も繰り返し解決し、それと折り合いをつける唯一の方法なのである。したがって資本主義の限界は、資本主義を締めつけるどころか、その発展の原動力なのである。まさにここに資本主義特有の逆説、その究極の支えがある。資本主義はその限界、その無能力さを、その力の源に変えることができるのだ。「腐敗」すればするほど、その内在的矛盾が深刻になればなるほど、資本主義はおのれを革新し、生き延びなければならないのである。剰余享楽を定義するのはこの逆説である。この剰余とは、何か「正常」で基本的な享楽に付け加わったという意味での剰余ではない。そもそも享楽というものは、この剰余の中にのみあらわれる。すなわち、それは本質的に「過剰」なのである。その剰余を差し引いてしまうと、享楽そのものを失ってしまう。同様に、資本主義はそれ自身の物質的条件をたえず革新することによってのみ生き延びるのであるから、もし「同じ状態のままで」いたら、もし内的均衡を達成してしまったら、資本主義は存在しなくなる。したがって、これこそが、資本主義的生産過程を駆動する「原因」である剰余価値と、欲望の対象-原因である剰余享楽との、相同関係である。


参考2:ケインズの「美人投票」理論  (岩井克人)

ケインズの美人投票とは、しゃなりしゃなりと壇上を歩く女性の中から審査員が「ミス何とか」を一定の基準で選んでいくという古典的な美人投票ではない。もっとも多くの投票を集めた「美人」に投票をした人に多額の賞金を与えるという、観衆参加型の投票である。この投票に参加して賞金を稼ごうと思ったら、客観的な美の基準に従って投票しても、自分が美人だと思う人に投票しても無駄である。平均的な投票者が誰を美人だと判断するかを予想しなければならない。いや、他の投票者も、自分と同じように賞金を稼ごうと思い、自分と同じように一生懸命に投票の戦略を練っているのなら、さらに踏み込んで、平均的な投票者が平均的な投票者をどのように予想するかを予想しなければならない。「そして、第四段階、第五段階、さらにはヨリ高次の段階の予想の予想をおこなっている人までいるにちがいない。」すなわち、この「美人投票」で選ばれる「美人」とは、美の客観的基準からも、主体的な判断からも切り離され、皆が美人として選ぶと皆が予想するから皆が美人として選んでしまうという「自己循環論法」の産物にすぎなくなるのである。

ケインズは、プロの投機家同士がしのぎを削っている市場とは、まさにこのような美人投票の原理によって支配されていると主張した。それは、客観的な需給条件や主体的な需給予測とは独立に、ささいなニュースやあやふやな噂などをきっかけに、突然価格を乱高下させてしまう本質的な不安定性を持っている。事実、価格が上がると皆が予想すると、大量の買いが入って、実際に価格が高騰しはじめる。それが、バブルである。価格が下がると皆が予想すると、売り浴びせが起こり、実際に価格が急落してしまう。それが、パニックである。

ここで強調すべきなのは、バブルもパニックもマクロ的にはまったく非合理的な動きであるが、価格の上昇が予想されるときに買い、下落が予想されるときに売る投機家の行動は、フリードマンの主張とは逆に、ミクロ的には合理的であるということである。ミクロの非合理性がマクロの非合理性を生み出すのではない。ミクロの合理性の追求がマクロの非合理性をうみだしてしまうという、社会現象に固有の「合理性のパラドックス」がここに主張されている。

《グリーンスパンの失策は、市場参加者の合理性を過大評価していたことに、つまり無謀な投機で荒稼ぎする誘惑に負けたりしないと信じていた点にある。しかし、それだけではない。リスクを冒す価値があるという、金融投機家のごく合理的な期待 - いざ金融崩壊となっても国家による損失補てんをあてにできる - を計算に入れ忘れていたのだ》とあったが、金持のための社会主義は、ケインズ理論(美人投票論)が明かした資本の欲動の必然的な結果。資本が自由に振舞えば、このマクロの「非合理性」を生むのだから。そしてこの資本主義のシステムを守ろうとすれば、資本の欲動の結果としての金融崩壊が起こっても国家による損失補てんをせざるをえない。

《資本主義の純粋化によるミクロ的な効率性の上昇は、逆にマクロ的な安定性を揺るがせてしまうと論ずるのである。資本主義が、大恐慌などの幾多の危機を経ながら、まがりなりにもある程度の安定性を保ってきたのは、貨幣賃金の硬直性や金融投機の規制など市場の働きに対する「不純物」があったからである。効率性を増やせば不安定化し、安定性を求めると非効率的になるという具合に、効率性と安定性とは「二律背反」の関係にあるというのである。》(岩井克人)

そもそも金融崩壊による損失補てんは、一見金持のための社会主義にみえるが、その事態が起こったときに真っ先に困窮するのは、低所得者たちである。

ジジェクの金持のための社会主義とは、ジジェク一流のレトリックなのであって、その言葉だけを取り出して真に受けるのはマヌケでしかない。事実、ジジェクもこう語っている。

《もし「モラルハザード」が資本主義の本質そのものであったとしたらどうだ? つまり両者は不即不離の関係にある。資本主義の体制下では、目抜き通りの人々の幸福はウォール街の繁栄にかかっている。だか、緊急援助に反対する共和党のポピュリストが正しい理由から誤ったことをしている一方で、緊急援助の発案者は誤った理由から正しいことをしているのだ。もっと凝った用語を使えば、これは「非推移的関係」なのである。》(ジジェク『ポストモダンの共産主義』)



彼らは私たちを負け組だと言ってるようだが、本当の敗者はウォール・ストリートにいる。連中は私たちのカネで莫大な額の保釈金を払ってもらったようなものだ。私たちを社会主義者だと言うが、いつだって金持ちのための社会主義が存在しているではないか。私たちが私的財産を尊重していないと言うが、たとえここにいる全員が何週間も日夜休まず破壊活動を続けたとしても、2008年の金融崩壊で破壊された個人の財産には及びもつかない。私たちを夢想家だという。でも、夢を見ているのはこのままの世の中が永久に続くと考えている人々だ。私たちは夢を見ているのではない。悪夢となってしまった夢から目覚めようとしているのだ。

覚えておいてほしい。問題は不正や強欲ではない。システムそのものだ。システムが否応なく不正を生む。気をつけなければいけないのは敵だけではない。このプロセスを骨抜きにしようとする、偽の味方がすでに活動を始めている。カフェイン抜きのコーヒー、ノンアルコールのビール、脂肪分ゼロのアイスクリームなどと同じように、この運動を無害な人道的プロテストにしようとするだろう。


「エンロンEnron社会」を泳がざるをえない「文化のなかの居心地の悪さ」

◆まず、フロイト博物館の国際会議(17 October 2014)における基調講演者Paul Verhaegheの要旨より。

ーー「悲哀のなかのナルシシズムーー父権社会の消滅」(Paul Verhaeghe Narcissus in Mourning - The Disappearance of Patriarchy)

ある概念を理解するためのひとつの方法は、その対立物とその概念を対照させることである。私の考え方では、ナルシシズムはメランコリーの片割れである。ナルシシズムとは完全性と全能性omnipotenceを意味する。それは全能なるalmighty母との同一化を呼び戻す。彼女は子供が欠けているものを与えることができるので全能なのである。エディプス期の間に、この同一化は父にシフトする。その父の機能とは母からの保護を意味する。メランコリーは喪失と無力感を意味する。原初の全能性の幻想の不首尾は、父の避けがたい不首尾、あるいは父が請合うと見なされた安全保障感の失敗である。実際のところ最終的なファリックな保障などどこにもない。結果として、典型的な神経症の反作用が、代替物を絶え間なく探求することとなる。それが一連のイマジナリーな父たちを創りだす。これが導くのは、二次的なナルシシズムであり、ファリックな思考の領域の内部に留まることになる。

One way to understand a concept is to contrast it with its opposite. To my way of thinking, narcissism is the counterpart of melancholia. Narcissism implies completeness and omnipotence. It harks back to the identification with the almighty mother. She is almighty because she can give what the child lacks. During the oedipal period, this identification shifts to the father, who functions as a safeguard for the mother. Melancholia implies loss and helplessness. The failure of the original fantasy of omnipotence is the inevitable failure of the father and the safety that he was meant to guarantee; there is in fact no final phallic guarantee whatever. Consequently, a typically neurotic reaction is the endless search for a substitute, creating a series of imaginary fathers. This leads to secondary narcissism and stays within the realm of phallic thinking.
われわれは個人のレベルでのこのような考え方を解釈するのに馴染んでいる、父たちと子供、エディプスコンプレクス等々。フロイトが、彼のエッセイ『ナルシシズム入門』と『悲哀とメランコリー』を書いたとき、まさに同じ衝突が世界的なスケールで起こっていた。ファリックなナルシシズムが第一次世界大戦によって情け容赦なく粉々に打ち砕かれた。そして世界的な悲哀の時期が引き続いたーー、父への悲哀(哀悼)、大文字の父への哀悼。私の観点からは、この悲哀は父権制社会の終焉の告知であり、別の言い方をすれば、伝統的な権威の終焉である。これは権威の概念自体を再考するように、われわれを強いる。

We are accustomed to interpreting these ideas at the level of the individual – the child with his parents, the oedipus complex and so on. When Freud was writing his essays ‘On Narcissism’ and ‘Mourning and Melancholia’, the very same clash was happening on a global scale. Phallic narcissism was brutally shattered by the First World War, and a period of universal mourning followed – the mourning of the father, of The Father. In my view, this mourning announced the end of patriarchy, in other words, the end of traditional authority. This compels us to rethink the concept of authority as such.


まず前段の《全能なるalmighty母との同一化を呼び戻す。彼女は子供が欠けているものを与えることができるので全能なのである。エディプス期の間に、この同一化は父にシフトする。その父の機能とは母からの保護を意味する》をめぐっていささか捕捉しよう。ポール・ヴェルハーゲが1995年(40歳時)に書いた論文からである。


◆NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL(Paul Verhaeghe)より(私意訳ーー「鰐なる母=女の口、あるいは象徴的ファルスと想像的ファルス」より)

構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねにfascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。

この畏怖に対する一次的な防衛は、このおどろおどろしい存在に去勢をするという考えの導入である。無名の、それゆえ完全な欲望の代りに、彼女が、特定の対象に満足できるように、と。この対象の元来の所持者であるスーパーファザー(享楽の父)の考え方をもたらすのも同じ防衛的な身ぶりである。ラカンは、これをよく知られたメタファーで表現している。《母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。》

このことは、われわれに想い起こさせる、スフィンクスとその謎に直面した状況を。スフィンクスはあなたを貪り食うだろう、もしあなたが正しい答え、すなわち、正しいシニフィアンを齎さなかったら。実のところ、われわれは実在の女について話しているわけではもはやない。逆に、すべての女は、二重の仕方でこの姿形の餌食になるのだ。主体として、彼女はこのおどろおどろしい形象に直面する(すなわち、男と同じように、生れたときは、母の欲望に直面する:引用者)。さらに、女として、彼女はこの畏怖すべき形象の姿を纏わせられる。あなたがこのおどろおどろしい女性の姿形の説明を知りたいのなら、カミール・パーリアの書物、『性のペルソナ』をにおける性と暴力をめぐる最初の章を読んでみるだけでよい。彼女は正しく、この姿形と自然自身とを同一化している。もしこの姿形に直面した男性の不安の臨床的な説明を読みたいなら、オットー・ヴァイニンガーの『性と性格』Geschlecht und Charakterを読んでみよう、ジジェクのコメントとともに。この二つとも意図されずに、臨床的な事実の説明となっている。すなわち、防衛的な機能とともに、おどろおどろしい女性の姿形のアポステリオリな(後天的な)構築物であるという事実の。もし意図された臨床的な説明がほしいなら、Klaus Theweleitによる美しい『Männer Phantasien』を手に入れ、繙いてみればよい。

後段の《ファリックなナルシシズムが第一次世界大戦によって情け容赦なく粉々に打ち砕かれた。そして世界的な悲哀の時期が引き続いたーー、父への悲哀(哀悼)、大文字の父への哀悼》の捕捉については中井久夫の次の簡潔な文がよい。

二十世紀をもっとも大きく動かした詩は結局、フランス詩のポール・ヴァレリー( 1871-1945年)の「若きパルク」『魅惑』の一対、ドイツ詩のライナー・マリア・リルケ(1875-1926年)の『ドゥイノの悲歌』『オルフォイスへのソネット』の一対、そして英詩のT・S・エリオット(1888-1965年)の『荒地』に落ちつくかと私は思う。

これらの詩は一九二二年を中心とするごく狭い時期に出ている。「若きパルク」だけは一七年春に刊行されたが、この詩人が世に広く知られるのは一九年である。二二年は『魅惑』『荒地』との刊行の年である。翌二三年早々に『ドゥイノの悲歌』『オルフォイスへのソネット』が伝説的な短期間で完成する。

これらの詩は成立の時間が近いだけではなく、互いに密接な関係にある。「若きパルク」『魅惑』の衝撃がリルケが書き悩んでいた『ドゥイノの悲歌』を完成させ、その傍らに『オルフォイスへのソネット』を生んだ。リルケは『魅惑』の独訳にその後の短い晩年の多くを費やすとともに、フランス語で詩作するようになる。エリオットの『荒地』だけは詩でなく十九年に英国の雑誌に掲載されたヴァレリーのエッセイ「精神の危機」と密接な関係にある。ともに西洋の精神的危機を正面からとりあげたものである。(中井久夫「私の三冊」ーートラウマを飼い馴らす音楽

もっとも最近のポール・ヴェルハーゲの論点は、冒頭の記事の叙述の範囲を超えた領域がその核心となっている。フロイトを生み出したヴィクトリア王朝時代の禁止ー抑圧の文化が、第一次世界大戦によってその文化の超自我(父権制社会)が揺るがされる。ここまでは同じである。だがその後、1968年の学生運動によって象徴的父の決定的な崩壊、さらには1989年のベルリンの壁の崩壊後の現在の課題とは、この今、われわれはどんな社会構造に囚われており、その社会構造では異なった人格(アイディンティティ)、異なった病が生み出されているという点を指摘することにある。

ヴェルハーゲによれば現在の自閉症の多発は、旧来型のものとは異質であり、この社会の「文化のなかの居心地の悪さ」から生まれているとする。世界的な「いじめ」猖獗、あるいはひとびとの幼児化などもこの新しい社会構造のせいであると。

これらの歴史的進展については日本ではやや様相が異なるという指摘もあるだろう、《かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか》(中井久夫「父なき世代」)。あるいはまた柄谷行人は、90年代初頭に、日本の権力構造の特徴のひとつとして、母系的なものの残存を指摘している、《日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない》(柄谷行人「フーコーと日本」1992)。だがいまはそれについて詳しく触れることはしない。

ヴェルハーゲは、1990年以降の市場原理主義社会(新自由主義社会)における病理をたんに父権制社会の消滅のせいとして片付けるわけにはいかないとする。彼は21世紀の先進国における病理のよってきたる社会を「エンロン社会」と名づけている。すなわち、マッキンゼー出身でエンロン社CEOになったジェフリー・スキリングの「ランク・アンド・ヤンク」方式ーー役員から社員までをランク付けしておいて、下位の者をクビにしていくーーこの差別化方式がその多寡はあれ、あらゆる領域で運用されている社会である。勝ち組と負け組みをたえずつくりだしていく「効率的な」システム。

ここでは敢えて訳さずに英文のまま貼り付けておく。「文化のなかの新しい居心地の悪さ」と名づけれらた論文(2011)である。これについては、最近でもGuardian(ガーディアン 2014.09.29) にて"Neoliberalism has brought out the worst in us"「新自由主義はわれわれに最悪のものを齎した」という記事が書かれている(参照:「人間は幸福をもとめて努力するのではない。そうするのはイギリス人だけである」(ニーチェ)

◆『Capitalism and Psychology Identity and Angst: on Civilisation's New Discontent』 Paul Verhaeghe

In the Enron company this became known as Rank and Yank. The achievements of every employee were judged competitively and on that basis one fifth of them were sacked each year after being publicly humiliated by having their name, photo and ' failure' posted on the company's website. (de Waal, 2009, p.Sl) In a very short time, almost every employee started to lie about his achievements, which ultimately led to the company's bankruptcy. Nevertheless, various weaker versions of the Enron model are still in operation elsewhere.

ポール・ヴェルハーゲのこの「エンロン社会」の主張は、ここでもまた中井久夫の次の文によって捕捉することができる。

今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。もはや「生き甲斐」の出番はなくなり、「アイデンティティ」概念も存在を脅かされているのではないか。80年代から弱々しい「自分探し」がさまよえる魂の呟きとなった。アイデンティティ追求の猶予である「モラトリアム」も得難くなって、それは無期限の「ひきこもり」になったかに見える。しかしこれらもやがて過ぎ去るであろう。先の見えない移行期に私たちはいる。

セーフティーネットのない殺風景な世界が実現すれば、「生き甲斐」はもちろん「アイデンティティ」の追求も一種の贅沢になるだろう。冒頭に述べたように現にそういう社会はある。その行き着く果ては「人間であること」が贅沢とされる世界である。「アイデンティティ」や「生き甲斐」はもう古いなどと軽々しくいうべきでないと私は思う。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』)


もっともこれらの見解は、ジジェクが90年の初頭に書いた『斜めから見る』にすでに書かれているという言い方もできるかもしれない。エンロン社会における「勝ち組」であるための典型的戦略が「病的ナルシシスト」として振舞うことであると言いうる。

……「病的ナルシスト」の出現は、それ以前の二形態の根底に共通してあった自我理想の枠と絶縁する。象徴的法を自分の中に取り入れるのではなく、複数の規則、すなわち「いかに成功するか」を教えてくれる便利な規則がいろいろ与えられる。ナルシスト的な主体は、他者たちを操るための「(社会的)ゲームの規則」だけを知っている。社会的関係は、彼にとってはゲームのためのグラウンドである。彼はそこで、本来の象徴的任務ではなく、さまざまな「役割」を演じる。本来の象徴的同一化を含んでいる、自分を縛るような関わりはいっさい持とうとしない。彼は根源的に体制順応者でありながら、逆説的に、自分を無法者(アウトロー)として経験する。(「現代の「病的ナルシスト」たち、あるいは「母なる超自我」と「内的な自由」」より)


おそらく多くの人が、「エンロン社会」においてどうやって「勝ち組」になるかを無意識的にせよ模索しているのだろう。そしてそれを全面的に否定するものでは、わたくしは全くない。

さて前にもいったように、実生活にとっては、きわめて不確実とわかっている意見にでも、それが疑いえぬものであるかのように従うことが、ときとして必要であると、私はずっと前から気づいていた。(デカルト『方法序説』ーー「人間的主観性のパラドックス」覚書

ところで國分功一郎氏は、「哲学とは人生論でなければならない」と言っているそうだが、これはわたくしのような旧世代の人間には、驚くべき言葉である(彼のその真意は別のところにあるのかも知れないし、「人生論」という語彙の捉え方にもよるだろうが)。90年以前に思想なるものに出会った人間には、決して口に出来なかった言葉であり、かつてそんなことを言ってしまえばひどく嘲笑されただろう。

僕は國分功一郎というのに驚いたんだけど、「議会制民主主義には限界があるからデモや住民投票で補完しましょう」と。
21世紀にもなってそんなことを得々と言うか、と。あそこまでいくと、優等生どころかバカですね。

……住民投票による「来るべき民主主義」とか、おおむね情報社会工学ですむ話じゃないですか。哲学や思想というのは、何が可能で何が不可能かという前提そのものを考え直す試みなんで、可能な範囲での修正を目指すものじゃないはずです。(浅田彰


「エンロン社会」をどうやって巧みに泳ぐかの「人生論」ではなく、「エンロン社会」で生きる前提を問い直す「人生論」であることを是非とも望むがーーすくなくともそれに触れていることをーー、わたくしは彼の著作を読んでいるわけではないので、あまりえらそうなことをいえない。

もっと重要なことは、われわれの問いが、我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられているのだということ、したがってそれは普遍的でもなければ最終的でもないということを心得ておくことである。(柄谷行人『隠喩としての建築』1983)

いずれにせよ(市場原理主義にせよ、新自由主義にせよ、エンロン社会などにせよ)、われわれが囚われている所与の”環境”を批判=吟味するのが、「哲学者」やら「思想家」の仕事のはずだ。

今思えばカントの超越論的な次元に辿りついたとき、私は哲学とは何たるかを間違いなく初歩的なレヴェルでしか理解してなかったのだ、と思いました。つまり、私は哲学が一種の誇大妄想的な企て(megalomaniac enterprise) ――ほら、「世界の基本的な構造を理解しましょう」というたぐいのものです――ではないという重要なポイントを理解したとき、哲学はそんなものではないとわかったのです。(……)

哲学は誇大妄想的なものではないと私が知ったのは、愚直(naive)な科学者から「われわれが合理的な仮説にもとづいた厳然たる現実を扱っているのに対して、君たち哲学者は単にあらゆる事物の構造を夢見ているだけではないのかね」というありがちな反論を受けたときでした。そのとき、哲学はある意味で科学より批判的で、より用心深くさえあるのだということに気づきました。哲学はより初歩的な疑問さえ投げかけます。例えば、科学者がある問いにアプローチする際、哲学のポイントは、「万物の構造は何か」ではなく、「その問いを定式化するために科学者がすでに前提としなければならない概念とは何なのか」ということです(スラヴォイ・ジジェク『ジジェク自身によるジジェク』)

以下の千葉雅也氏のツイートに《精神医学の領域ですでに起こった変化》とあるのは、DSMという黒船のことや、認知科学や神経生物学、あるいは薬物療法や行動療法などに取って代わられつつある傾向を言っているのだろう。

@masayachiba: 根源的な問いを多様に議論するのをやめ、人それぞれだからという配慮で踏み込まなくなるというのは、精神医学の領域ですでに起こった変化だ。文明全体がそういう方向に向かっていると思う。残される課題は「現実社会の苦痛にどう対処するか」だけ。そもそも苦痛とは何かという問いは悪しき迂回になる。千葉雅也

上に引用したポール・ヴェルハーゲは痛烈なDSM批判をくり返している精神分析医でもある(参照:フロイトの「現勢神経症Aktualneurose」概念をめぐる現代の新しい「症状」)。

ここでは、千葉雅也氏の《文明全体がそういう方向に向かっている》という文をあえて「誤読」して、文明全体がエンロン社会に向かっているとしておこう。

さてくだくだしく書くのはもうやめる。ただ巷間に流通が目立ちはじめたらしい「人生論」なるものが、《「いかに成功するか」を教えてくれる便利な規則》やら《現実社会の苦痛にどう対処するか》だけでないことを祈るばかりである。

もっともアドラー心理学の流行も病的ナルシシスト育成のための見解に感じられないでもないし(参照:「原初とは最初のことじゃないんだよ」)、米国MBAで修業を積んだらしいどこかの経営コンサルタントが、文科省の有識者会議にて提案した「G型大学とL型大学」なるものを「真摯に」受け止めざるを得ないのも、エンロン社会の病いの臭いがしないでもない。

そしてくり返せば、成功やら苦痛をめぐる教えは、人生を巧みにやりすごすテクニックとしてはひどく大切であり、安易にばかにするつもりは毛頭ないことを念押ししておこう。たとえばアランの人生論から抜き出しておけば、こういった側面はわれわれは意想外に忘れがちなのだから。そしてアランの限界はあるにしろ(たとえば第二次世界大戦勃発前に、サルトルはアランのオプティミズムから離れた)、通常のわれわれの人生の99%はこれでやっていける。

赤ちゃんがはじめて笑うとき、その笑いは絶対になにも表現していない。幸福だからといって笑ったりしない。むしろこういったほうがよい。赤ちゃんは笑っているからこそ、いま幸福なのであると。赤ちゃんは笑うことに快楽を感じているのだ、食べることに快楽を感じるのと同様に。(アラン『プロポ集』井沢義雄・杉本秀太郎訳)

ーーすなわち、《幸せだから笑うのではない、笑うから幸せなのだ》

私が信頼を寄せれば、彼は正直な人間でいる。私が心のうちで彼をとがめていると、彼は私のものを盗む。どんな人間でも、私のあり方次第で私にたいする態度をきめるのである。(アラン「オプチミスム」

だが第二次世界大戦直前のナチにはこれでは通用しなかった。そして現在のネオナチ猖獗にも通用するはずがない。

最後にエンロン社会のバイブル、アイン・ランドの書から抜き出しておこう。

お金があらゆる善の根源だと悟らない限り、あなたがたは自ら滅亡を招きます。(アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』)

※補遺:資料:金持のための社会主義

2014年11月12日水曜日

きみは惜しむだろうか 季節が晩秋に向かって容赦なく流れ去るのを

きみは恥じるだろうか

ひそかに立ちのぼるおごりの冷感を


ぼくは惜しむだろうか

きみの姿勢に時がうごきはじめるのを


迫ろうとする 台風の眼のなかの接吻

あるいは 結晶するぼくたちの 絶望の

鋭く とうめいな視線のなかで


ーーー 清岡卓行「石膏」より 『氷った焔』所収(1959             


※Gustave Courbet L'origine du monde(ラカン所有の経緯について


いまさらクルーペの「世界の起源」でもないが、ラカンの「裂け目の光のなかに保留されているもの」(対象a)やら「享楽の垣根における欲望の災難[Mesaventure du desir aux haies de la jouissance]」やらの起源のひとつは、この根源的に開いた裂け目にあるには相違ない。


神経症者が、女の性器はどうもなにか君が悪いということがよくある。しかしこの女の性器という気味の悪いものは、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷への入口である。冗談にも「恋愛とは郷愁だ」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女の性器、あるいは母胎であると見ていい。したがって無気味なものとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの、昔なじみのものなのである。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴unは抑圧の刻印である。(フロイト『無気味なもの』著作集3 P350)





……案の定! いったん畑の平面へ降りてから風呂の焚き口へ登る、小石を積んだ短い段々の中ほどに、そこで立ちどまれば顔の高さに、こちらへゆるくかたむいた50センチ×30センチの薄暗いガラスのスクリーンが風呂場の板壁を壊してとりつけられているのだ。剥がした羽目板や新しい角材の残りと大工道具が、物置の脇にたてかけられていた。僕らが並んで位置につくやいなや、僕らの頭をまたいで前へ出る具合に向うむきの若い娘ふたりの下半身が、かしいだスクリーンに現れた。

――この角度がな、Kちゃん、女をもっとも動物的に見せるよ、とギー兄さんは解説した……(大江健三郎『懐かしい年への手紙』




根源的に開いた裂け目について考えるさい、それが子どもと<母>の近親相姦的な二者関係結実を阻止するべく、子どもを象徴的去勢/隔離の次元へと追いこむ、父権的な<法>/<禁止>の干渉からもたらされた産物と理解する安直は退けなければなるまい。この裂け目、「バラバラに寸断された身体」という経験は、あらゆる物事に先だって存在しているのだ。それは死への衝動が産み落としたもの、快楽原則の円滑な運用を停止させる何らかの過剰/トラウマ的な享楽が侵入した結果の所産であり、そして父権的な<法>は――鏡像との想像的同一化とは異なり ――この裂け目を飼い慣らし/安定化する試みのひとつなのである。忘れてはならないのは、ラカンにとって<エディプス>的な父親の<法>とは、突き詰めれば「快楽原則」に服し、それに資するためだけに存在している点である。(ジジェク『厄介なる主体』)


Robert Mapplethorpe

予は節子以外の女を恋しいと思ったことはある。他の女と寝てみたいと思ったこともある。現に節子と寝ていながらそう思ったこともある。そして予は寝た――他の女と寝た。しかしそれは節子と何の関係がある? 予は節子に不満足だったのではない。人の欲望が単一でないだけだ。(……)

余は 女のまたに手を入れて、手あらく その陰部をかきまわした。しまいには 5本の指を入れて できるだけ強くおした。・・・ ついに 手は手くびまで入った (啄木のローマ字日記

「吾れはあく迄愛の永遠性なると云ふ事を信じ度候。」(節子)

ラカン派の用語では、結婚は、対象(パートナー)から“彼(彼女)のなかにあって彼(彼女)自身以上のもの”、すなわち対象a(欲望の原因―対象)を消し去ることだ。結婚はパートナーをごくふつうの対象にしてしまう。ロマンティックな恋愛に引き続いた結婚の教訓とは次のようなことである。――あなたはあのひとを熱烈に愛しているのですか? それなら結婚してみなさい、そして彼(彼女)の毎日の生活を見てみましょう、彼(彼女)の下品な癖やら陋劣さ、汚れた下着、いびき等々。結婚の機能とは、性を卑俗化することであり、情熱を拭い去りセックスを退屈な義務にすることである。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』私訳)

すなわち、世界の起源の「裂け目の光のなかに保留されているもの」が、結婚によって消え去ってしまう。じっくり観察してしまえばなおさらである。


荒木経惟



Méry, l'an pareil en sa course
Allume ici le même été
Mais toi, tu rajeunis la source
Où va boire ton pied fêté.

メリよ、年はひとしく運行を続けて
いまここで、同じ夏を燃え立たせる
しかし、君は泉を若返らせて
祝福される君の足がそこへ水を飲みに行く

ーーーマラルメのメリへの誕生祝の四行詩(愛人メリ・ローランの47回目の誕生日1886 保苅瑞穂訳)


Mery Laurent(マネの愛人、その後、マラルメの愛人)


若かりし世界の起源の持ち主も
年は流れる川と同じ運行を続けて
夏の終りへ向かって容赦なく流れ去る
晩夏もたちまちにして過ぎ去り
楚々として秋は来る
北風に苛らだち西風に雨を感知して
日に日に地表はむくつけきい容貌と変つてくる
ああ母の如くも優しく美しい季節よ! 
いまだ火のない暖炉の中から蟋蟀の細い寂しい唄が聞えてくる


Stéphane Mallarmé et Mery Laurent (1896) par Nadar



2014年11月11日火曜日

血まみれの頭ーー〈隣人〉、あるいは抑圧された〈悪〉

もうその手の話は、わたくしは厭きた。だがそこの〈きみ〉への応答のために最後の「糖果入りの壺」を贈ろう。

(わたしは)小さな愚行やはなはだ大きい愚行がわたしに加えられても、一切の対抗策、一切の防護策を―――従って当然のことながら一切の弁護、一切の「弁明」を禁ずるのである。わたし流の報復といえば、他者から愚かしい仕打ちを受けたら、できるだけ急いで賢さをこちらから送り届けるということである。こうすれば、たぶん、愚かしさの後塵を拝せずにすむだろう。

比喩を使っていうなら、わたしは、すっぱい話にかかりあうことをご免こうむるために、糖果入りのつぼを送るのである。……わたしに何かよからぬことをしてみるがいい。まちがいなく、わたしはそれにたいしてこういう「報復」をする。つまり、わたしはほどなく、その「犯人」に(ときにはその犯行にたいして)わたしの感謝を表明する機会をみつけるのである―――もしくは、その犯人に何かを頼む機会をみつけるのである。この方が、こちらから何かを進呈するよりいんぎんでありうるのだ。(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

以下、すべて引用ですませておく。わたくしはいま忙しいのだ。

 …………
人間存在は、この夜、その単純さの中にすべてを包含しているこの空無である。そこには表象やイメージが尽きることなく豊富にあるが、そのどれ一つとして人間の頭に、あるいは彼の眼前にあらわれることはない。この夜。変幻自在の表象の中に存在する自然の内的な夜。この純粋な自己。そこからは血まみれの頭が飛び出し、あちらには白い形が見える。(…)人は他人の眼を覗き込むとき、この夜を垣間見る。世界の夜を対立の中に吊るす、恐ろしい夜。(ヘーゲル『現実哲学』草稿)

サド(サン=フォン) : 《もしわしが他人から悪を蒙ったら、わしはそれを他人に返す権利、いや、進んでこちらからも悪を働く幸福さえ享有するだろう》 (『悪徳の栄え』マルキ・ド・サド澁澤龍彥訳)

……隣人を倫理的に飼い慣らしてしまうという誘惑に負けてはならない。たとえばエマニュエル・レヴィナスはその誘惑に負けて、隣人とは倫理的責任への呼びかけが発してくる深遠な点だと考えた。レヴィナスが曖昧にしているのは、隣人は怪物みたいなものだということである。この怪物性ゆえに、ラカンは隣人に〈物das Ding〉という用語をあたはめた。フロイトはこの語を、堪えがたいほど強烈で不可解な、われわれの欲望の究極の対象を指す語として用いた。(……)隣人とは、人間のおだやかな顔のすべてから潜在的に垣間見える(邪悪な)物〉である。(ジジェク『ラカンはこう読め』p81

おわかりだろうか? 偽の正義の味方、おろかな猿たちよ、きみたちにも〈隣人〉がいないわけではあるまい?

フロイトが、まるで恐れをなしたかのように、隣人愛の掟がもたらす帰結の前で立ち止まるたびに、浮かび上がってくるもの、それはこの隣人のうちに宿るあの深い悪意の現前にほかならない。ところが、そうであるとすれば、この悪意は私自身のうちにも宿っている。いったいどんなものが、私の享楽の核心であるところのこの私自身のうちの核心以上に、私に近しいというのか? ただし私は、この核心にあえて近づこうとはしない。というのも、私がそれに近づくやいなや――それこそが『文化のなかの居心地悪さ』の意味である――あの測深しがたい攻撃性が現れてくるからであり、私はそれを前にして後ずさりし、それを私自身に向け直すのである。そうすると、この攻撃性は、消え入ってしまった〈法〉にまさに代わって、 〈物〉の限界にあるひとつの境界線を私が踏み越えることを妨げるものに、重さを与えにやってくるのである。 」 (ラカンSVII, 219)
 何よりも毒性が高いのは〈隣人〉という存在、その欲望とみだらな快楽の深淵である。したがって、人間関係を支配するあらゆる法則の究極の目的は、この毒 性を隔離もしくは中和して〈隣人〉を同胞に転じることだ。(他者という、もうひとつの)主体にあるかもしれない毒性をさがすだけでは不十分だ。自己という 主体自体が、その内部の〈大文字の他者〉という深淵に毒性をたたえているのだから。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』p82)

ここにあるように、〈隣人〉とは、悪をなした他人その人ではなく、大文字の〈他人〉である。フロイトを挿入しよう。

ランク(1913年)はちかごろ、神経症的な復讐行為が不当に別の人にむけられたみごとな症例を示した。この無意識の態度については、次の滑稽な挿話を思い出さずにはいられない。それは、村に一人しかいない鍛冶屋が死刑に値する犯罪をひきおこしたために、その村にいた三人の仕立屋のうちの一人が処刑されたという話である。刑罰は、たとえ罪人に加えられるのではなくとも、かならず実行されなければならない、というのだ。(フロイト『自我とエス』著作集6 P288)

おわかりであろうか? きみたちの〈正義〉なるものの根源を。

人間の歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという理由から刑罰が加えられたことはなかったし、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたこともなかった。――むしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りからして刑罰は行なわれたのだ。(ニーチェ『道徳の系譜』 木場深定訳 P70)

攻撃欲動の標的が外部に見当たらなければ、自己破壊に向かうということはあり得る。ナチに拷問された生存者たちが自殺衝動に襲われるように。


…………

想いだしてみよう、奇妙な事実を。プリーモ・レーヴィや他のホロコーストの生存者たちによって定期的に引き起こされることをだ。生き残ったことについての彼らの内密な反応は、いかに深刻な分裂によって刻印されているかについて。意識的には彼らは十分に気づいている、彼らの生存は無意味なめぐり合わせの結果であることを。彼らが生き残ったことについて何の罪もない、ひたすら責めをおうべき加害者はナチの拷問者たちであると。だが同時に、彼らは“非合理的な”罪の意識にとり憑かれる(それは単にそれ以上のようにして)。まるで彼らは他者たちの犠牲によって生き残ったかのように、そしていくらかは他者たちの死に責任があるかのようにして。――よく知られているように、この耐えがたい罪の意識が生き残り者の多くを自殺に追いやるのだ。これが露わにしているのは、最も純粋な超自我の審級である。不可解な審級、それがわれわれを操り、自己破壊の渦巻く奈落へと導く。

 


Recall the strange fact, regularly evoked by Primo Levi and other Holocaust survivors, about how their intimate reaction to their survival was marked by a deep split: consciously, they were fully aware that their survival was the result of a meaningless accident, that they were not in any way guilty for it, that the only guilty perpetrators were their Nazi torturers. At the same time, they were (more than merely) haunted by an irrational feeling of guilt, as if they had survived at the expense of others and were thus somehow responsible for their deathsas is well known, this unbearable feeling of guilt drove many of them to suicide. This displays the agency of the superego at its purest: as the obscene agency which manipulates us into a spiraling movement of selfdestruction.
超自我の機能は、まさにわれわれ人間存在を構成する恐怖の動因、人間存在の非人間的なを途方に暮れさせることにある。この次元とは、ドイツの観念論者が否定性と呼んだものであり、そしてまたフロイトが死の欲動と呼んだものである。現実界のトラウマ的な固い核、――そこから昇華がわれわれを保護してくれるーーその核であるどころか、超自我そのものが現実界を仕切っている仮面なのである。

 


The function of the superego is precisely to obfuscate the cause of the terror constitutive of our beinghuman, the inhuman core of beinghuman, the dimension of what the German Idealists called negativity and Freud called the death drive. Far from being the traumatic hard core of the Real from which sublimations protect us, the superego is itself a mask screening off the Real.
レヴィナスにとって、主体を非中心化する根源的に異質な現実界的〈モノ〉のトラウマ的侵入は、倫理的な〈善〉の〈呼びかけ〉と同じものだ。他方、ラカンにとっては、逆に、原初の“邪悪な〈もの〉”であり、〈善〉のヴァージョンには決して昇華されえない何か、永遠に不安にさせる切り傷のままの何かなのである。こういったわけで、倫理的な呼びかけの出処としての〈隣人〉の飼い馴らしには、〈悪〉の復讐が横たわっている。“抑圧された〈悪〉”は、倫理的呼びかけ自体の超自我の歪曲の見せかけとして回帰する。

 


For Levinas, the traumatic intrusion of the radically heterogeneous Real Thing which decenters the subject is identical with the ethical Call of the Good, while, for Lacan, on the contrary, it is the primordial evil Thing, something that can never be sublated into a version of the Good, something which forever remains a disturbing cut. Therein lies the revenge of Evil for our domestication of the Neighbor as the source of the ethical call: the repressed Evil returns in the guise of the superego's distortion of the ethical call itself.(ZIZEK"LESS THAN NOTHING"私訳)

きみたち仔羊のために穏やかな衣裳をまとったリルケをも引用しておこう。

目に見えるだけではすこしも害にならない人間がいる。僕たちはそういう人間にほとんど気がつかないで、すぐにまた忘れてしまっている。しかし、そういう人間たちがどうにかして目に見えるのではなくて、耳に聞こえると、耳のなかで育ち、いわば孵化し、場合によっては、犬の鼻孔からはいりこむ肺炎菌のように、脳のなかへまで匐い入り、脳髄を食い荒らしながら成長する。

それは隣人である。

僕はひとりぼっちで漂白するようになってから、数えきれないほど多くの隣人を持った。階上の隣人、階下の隣人、右隣りの隣人、左隣りの隣人、あるいは、この種類の隣人を同時に持ったこともある。僕は隣人の物語が書けそうである。大著述になるだろう。、むろんそれは僕が隣人に悩まされた神経衰弱の物語になるだろう。隣人はそのたぐいの生物と同じく、僕たちのある組織内に生じさせる障害によってのみ存在を感じさせるのが特徴である。(リルケ『マルテの手記』)


 さてプリーモ・レーヴィや他のホロコーストの生存者たちの自殺衝動」に戻ろう。きみたちには「死んだ人に申し訳ない」という生存者罪悪感はないのか?そうであるならそれを仔羊の人生という。


一般に外傷関連障害は決して発見しやすいものではない。葛藤を伴うことの少ない天災の場合でさえ、アンケートをとり、訪問〔アウトリサーチ〕しても、なお発見が困難なくらいである。人災の場合になれば、患者は、実にしばしば、誤診をむしろ積極的に受け入れ、長年その無効な治療を淡々と受けていることのほうが普通である。外傷関連患者は治療者をじっと観察して、よほど安心するまで外傷患者であることを秘匿する。

PTSDの発見困難はむろん診療者の側の問題でもある。膵臓疾患の診断の第一は「膵臓が存在することを忘れていないこと」である。それほど膵臓は忘れられやすい臓器だということだが心的外傷でも同じである。多くの外来患者はフラッシュバックなど侵入症状を初めとする外傷関連症状の存否をそもそも聞かれていない。それに怠慢ばかりでなく、心的外傷には、土足で踏み込むことへの治療者側の躊躇も、自己の心的外傷の否認もあって、しばしば外傷関与の可能性を治療者の視野外に置く。

しかし患者側の問題は大きい。それはまず恥と罪の意識である。またそれを内面の秘密として持ちこたえようとする誇りの意識である。さらに内面の秘密を土足で入り込まれたくない防衛感覚である。たとえば、不運に対する対処法として、すでに自然に喪の作業が内面で行われつつあり、その過程自体は意識していなくても、それを外部から乱されたくないという感覚があって、「放っておいてほしい」「そっとしておいてほしい」という表現をとる。

天災においてさえ、恥の意識はありうる。「他の人たちは我慢しているのに」「生きのびただけでも感謝するべきなのに」「私の弱さをさらけだしたくない」など。「死んだ人(家をなくした人)に申し訳ない」という生存者罪悪感もある。たとえば周囲が皆倒壊している中で一軒だけ倒壊しなかった家の人の持つ罪の意識である。性的被害や児童虐待においては、なおさらのことである。(中井久夫「トラウマとその治療経験」)


ヤスパースは《「形而上の罪」として、アドルノがいったようなことを述べている。たとえば、ユダヤ人で強制収容所から生還した人たちは、ある罪悪感を抱いた。彼らは自分が助かったことで、死んだユダヤ人に対して罪の感情を抱く、まるで自分が彼らを殺したかのように。それは、ほとんどいわれのないことだから、形而上的だというのである。》


おわかりだろうか、レヴィナスの寝言があまりにも寝言すぎるのが。あるいはヤスパースの「形而上の罪」の厚顔無恥な寝言ぶりを。

ヤスパースは戦後まもない講演(『罪責論』)において、戦争責任を、刑事的責任、政治的責任、道徳的責任、形而上的責任の四種類に分けている。

第一に、「刑事上の罪」、これは戦争犯罪――国際法違反を意味する。これはニュールンベルク裁判で裁かれている。

第二に、「政治上の罪」、これは「国民」一般に関係する。《近代国家において誰もが政治的に行動している。少なくとも選挙の際の投票または棄権を通じて、政治的に行動している。政治的に問われる責任というものの本質的な意味から考えて、なんびとも、これを回避することは許されない。政治に携わる人間は後になって風向きが悪くなると、正当な根拠を挙げて自己弁護するのが常である。しかし、政治的行動においてはそういった弁護は通用しない》(橋本文夫訳)

つまり、ファシズムを支持した者だけでなく、それを否定した者にも政治的責任がある。《あるいはまた「災禍を見抜きもし、予言もし、警告もした」などというが、そこから行動が生まれたのでなければ、しかも行動が功を奏したのでなければ、そんなことは政治的に通用しない》。

第三に、「道徳上の罪」、これはむしろ、法律的には無罪であるが、道徳的には責任があるというような場合である。たとえば、自分は人を助けられるのに、助けなかった、反対すべき時に反対しなかったというときがそうである。もちろん、そうすれば自分が殺されるのだから、罪があるとはいえない。しかし、道徳的には責任がある。なぜなら、なすべきこと(当為)を果たさなかったからである。

最後に、「形而上の罪」として、アドルノがいったようなことを述べている。たとえば、ユダヤ人で強制収容所から生還した人たちは、ある罪悪感を抱いた。彼らは自分が助かったことで、死んだユダヤ人に対して罪の感情を抱く、まるで自分が彼らを殺したかのように。それは、ほとんどいわれのないことだから、形而上的だというのである。

この講演はほとんど知られていないが、戦後ドイツの戦争責任への処し方を規定したものである。こうした区別は、それらがつねに混同されている現状から見て不可欠である。しかし、ここに幾つかの問題がある。ヤスパースは、まるでナチズムがたんに精神的な過誤であり、それを哲学的に深く反省すれば片づくかのように考えている。そこには、ナチズムをもたらした社会的・経済的・政治的諸原因への問いが欠落している。ヤスパースは、カントのいう道徳性を「道徳的な罪」のレベルにおき、「形而上の罪」をより高邁なものであるかのように見なした。しかし、カントのいう道徳性は根本的にメタフィジカルである。同時に、それは「責任」を離れて、「自然」(因果性)を徹底的に探求すべきであることと矛盾しないのだ。(『トランスクリティーク』P190の註より)

おわかりだろうか、ヤスパースのなんたる寝言カント解釈を。きみたち猿の〈正義〉は、このヤスパースをさらに四周ほど寝言にしたものだ。「寝言は寝てから言え」!

《耐え難いのは重大な不正などではなく凡庸さが恒久的につづくことであり、しかもその凡庸は、それを感じている彼自身と別のものではない。》(ドゥルーズ『シネマ Ⅱ』)

カントはその『純粋理性批判』において、否定判断と無限判断という重要な区別を導入した。

「魂は必滅である」という肯定文は二通りに否定できる、述語を否定する(「魂は必滅でない」)こともできるし、否定的述語を肯定する(「魂は不滅である」)こともできる。

この両者の違いは、スティーヴン・キングの読者なら誰でも知っている、「彼は死んでいない」と「彼は不死だ」の違いとまったく同じものだ。無限判断は、「死んでいる」と「死んでいない」(生きている)との境界線を突き崩す第三の領域を開く。「不死」は死んでいるのでも生きているのでもない。まさに怪物的な「生ける死者」である。

同じことが「人でなし」にもあてはまる。「彼は人間ではない」と「彼は人でなしだ」とは同じではない。「彼は人間ではない」はたんに彼が人間性の外にいる、つまり動物か神様であることを意味するが、「彼は人でなしだ」はそれとはまったく異なる何か、つまり人間でも、人間でないものでもなく、われわれが人間性と見なしているものを否定しているが同時に人間であることに付随している、あの恐ろしい過剰によって刻印されているという事実を意味している。おそらく、これこそがカントによる哲学革命によって変わったものである、という大胆な仮説を提出してもいいだろう。

カント以前の宇宙では、人間は単純に人間だった。動物的な肉欲や神的な狂気の過剰と戦う理性的存在だったが、カントにおいては、戦うべき過剰は人間に内在しているものであり、主体性そのものの中核に関わるものである(だからこそ、まわりの闇と戦う<理性の光>という啓蒙主義のイメージとは対照的に、ドイツ観念論における主体性の核の隠喩は<夜>、<世界の夜>なのだ)。

カント以前の宇宙では、狂気に陥った英雄は自らの人間性を失い、動物的な激情あるいは神的な狂気がそれに取って代わる。カントにおいては、狂気とは、人間存在の中核が制約をぶち破って爆発することである。(ジジェク『ラカンはこう読め』)

2014年11月8日土曜日

かつて愛し、離れてしまったものへの、疼くようなやるせない思い

粗悪な音楽を嫌悪したまえ、しかし侮ることなかれ。いい音楽以上にうまく演奏したり歌つたりすれば、音楽は徐々に夢と人の涙で満たされる。(中略)粗悪な音楽には芸術の歴史に居場所はないが、社会の情緒の歴史において、その地位は絶大なのだ。(プルースト)

カペー四重奏とプルースト」や「フォーレとヴァントゥイユ(プルースト)」にてもいくらか抜粋したが、『Anne Penesco Proust et le violon interieur (Les Editions duCerf, 2011)』の安永愛書評からここでふたたび抜きだしてみよう。

サン=サーンスのヴァイオリン・ソナタ

ヴァントゥイユのソナタの聴取の記述に最も大きなインスピレーションを与えたものと、プルーストの書簡から読み取られるのは、サン=サーンスのヴァイオリン・ソナタである。しかし奇妙なことに、プルーストはサン=サーンスについて、自分の好みではなく凡庸な作曲家だと、1915年にアントワーヌ・ビベスコ宛ての書簡で述べている。これは一体いかなることなのだろうか。アンヌ・ペネスコは、その答をボードレールについてのプルーストの評論の記述の中に見出している(p104)。それによれば、音楽が「有益な夢想」を与えてくれさえすれば、詩人の賞賛する音楽の客観的クオリティは問題ではないというのである。また、プルーストは未完の小説『ジャン・サントゥイユ』の「粗悪音楽礼賛」のくだりでこう述べているという。「粗悪な音楽を嫌悪したまえ、しかし侮ることなかれ。いい音楽以上にうまく演奏したり歌つたりすれば、音楽は徐々に夢と人の涙で満たされる。(中略)粗悪な音楽には芸術の歴史に居場所はないが、社会の情緒の歴史において、その地位は絶大なのだ」と。

サン=サーンスの音楽を「粗悪音楽」とは言い切れないだろうが、良い音楽か否かは間わず、「夢」や「涙」と結びつく音楽であればポエジーの糧になるというプルーストの考え、そして彼が必ずしも好みではない音楽家の作品を『失われた時を求めて』における音楽の記述の発想源としていたというのは、興味深い。

実は『失われた時を求めて』執筆の前にプルーストが手がけた未完の二人称小説『ジャン・サントゥイユ』の中には、主人公ジャンがサン=サーンスのヴァイオリン・ソナタに耳傾ける場面があるのだという。このことから、サン=サーンスを好まないと1915年の時点で書簡にプルーストは書いているものの、人の嗜好は変化するものであって、プルーストのサン=サーンスのヴァイオリン・ソナタに寄せる思いは、『失われた時を求めて』の語り手がジルベルトに寄せる思いと同じく、初恋のようなものではなかったか、とアンヌ・ペネスコは推測している(p108)。プルーストは、やはりサン=サーンスのヴァイオリン・ソナ夕に魅了されていたのだとペネスコは断じる。かつて愛し、離れてしまったものへの、疼くようなやるせない思いが、文学テクスト上のヴァントゥイユの音楽の創出にあずかっていたというのが、ペネスコの見立てである。

ここにベネスコが書くプルーストのサン・サースへの思い、《かつて愛し、離れてしまったものへの、疼くようなやるせない思い》とは、フロイト=ラカン派ならメランコリーの機制というだろう。それも「カール・リヒターとメランコリー」で書いた。これは「粗悪な音楽」、あるいは粗悪な芸術かどうかにはかかわりがない。ある程度齢を重ねれば、だれにでもあるはずだ。

われわれも相当の年になると、回想はたがいに複雑に交錯するから、いま考えていることや、いま読んでいる本は、もう大して重要性をもたなくなる。われわれはどこにでも自己を置いてきたから、なんでも肥沃で、なんでも危険であり、石鹸の広告のなかにも、パスカルの『パンセ』のなかに発見するのとおなじほど貴重な発見をすることができるのだ。(プルースト「逃げさる女」井上究一郎訳)

以下は、フロイトの『悲哀とメランコリー』をもとにしたジジェクのメランコリーをめぐる叙述である。

ある特定の町に住み慣れてきた人が、もしどこか別の場所に引っ越さなくてはならなくなったら、当然、新しい環境に投げ出されることを考えて、悲しくなるだろう。だが、いったい何が彼を悲しませるのか。それは長年住み慣れた場所を去ることそれ自体ではなく、その場所への愛着を失うという、もっとずっと小さな不安である。私を悲しませるのは、自分は遅かれ早かれ、自分でも気づかないうちに新しい環境に適応し、現在は自分にとってとても大事な場所を忘れ、その場所から忘れられるという、忍び寄ってくる意識である。要するに、私を悲しませるのは、私は現在の家に対する欲望を失うだろうという意識である。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)
ジョルジオ・アガンベンが強調したように、喪の対極にあるメランコリーは、喪の作業の失敗、対象のリアルへの不変の愛着であるだけでなく、そうした失敗や愛着とは正反対のものでもある。つまり、「メランコリーは、対象の喪失を見越し、喪失に先立って喪の作業を行おうというパラドクスを提示している」。ここにメランコリーの策略がある。一度も手にしたことのない対象、最初から失われていた対象を所有する唯一の方法は、しっかり所有している対象を、あたかもそれがすでに失われたものであるかのように扱うことなのだ。だから、喪の作業を成し遂げることを拒否するメランコリー者の身振りは、そうした拒否とは正反対の外観を呈する。それはつまり、対象が失われないうちから、その対象に関して過剰で余計な喪の作業を行うという偽の身振りである。(……)

いまだ失われずに目の前に存在している対象に対して喪の作業を行うというパラドクスを、どう解決すればよいだろうか。この謎を解く鍵は、メランコリー者は失われた対象において何を失ったのかを知らない、というフロイトの明確な定式にある。ここで、ラカンによる、対象と欲望の原因(-対象)との区別を導入する必要がある。欲望の対象はたんに欲望された対象にすぎないが、欲望の原因は、欲望の対象をわれわれに欲望させる特質(ふだんは気づかなかったり、時には対象を欲望する際の邪魔になっているとさえ思えたりするような或る細部や直し難い癖)である。こうした視点から見ると、メランコリー者は、失われた対象に固着し喪の作業を完遂できない主体であるばかりか、対象を欲望させる原因が消えて力をなくしたために、対象を所有していながらその対象への欲望を失ってしまった主体でもあるのだ。メランコリーは、挫かれた欲望、対象を奪われた(欲望されなくなった)対象それ自身の現前を表している。欲望された対象をついに手に入れたがその対象への欲望は失われている、そういうときにメランコリーは生じるのだ。まさしくこの意味で、メランコリー(欲望を満たすことができない対象、実定的で〔ポジティヴ〕で観察可能な対象すべてに対する失望)は事実上、哲学の始まりなのである。》(ジジェク「メランコリーと行為」2000)

2014年11月1日土曜日

高齢化社会対策の劇薬

以下、メモ。このような少子高齢化推測の資料は、興味のある人にとっては周知のことなのだろうが、日本の新聞雑誌等を手にとることがないわたくしには目新しいのでここに貼付。

2050年と言えば、いま30歳の人が65歳になる頃である。ちょうど今の彼らの両親の年齢になる頃といってよいかもしれない。





このデータはおそらく移民による生産年齢人口増を考慮していないはず。以下に図表の説明がある(共同通信)。


総務省が公表した2013年10月1日時点の人口推計で、働き手の中核となる15~64歳の「生産年齢人口」が32年ぶりに8千万人を下回りました。

 Q 人口推計とは。
 A 全世帯に調査票を渡して人口などを調べる国勢調査は5年に1度だけです。国勢査のない年に、出生児数と死亡者数の差や、出入国者数の変動などから算出するのが人口推計です。

 Q 生産年齢人口が減ったのはなぜですか。
 A 少子化の流れが止まらない上に、1947~49年ごろの第1次ベビーブームに生また「団塊の世代」が65歳に達し高齢化が急速に進んでいるためです。この傾向は今後も続く見通しです。

 Q 生産年齢人口が減るとどうなりますか。
 A 働き手不足が深刻化して日本経済の成長力が低下する懸念があります。国民の豊かさが損なわれるだけでなく、税収が減って公共サービスや社会インフラの整備が滞る可能性もあります。

 Q ほかの影響は。
 A 高齢者が増えて生産年齢人口が減れば、若い世代の社会保障費の負担が重くなります。働く世代を20~64歳、高齢者を65歳以上とした財務省の試算では、12年は働く世代2・4人で高齢者1人の社会保障費を支えていましたが、50年には1・2人で支える時代になる見通しです。

 Q 現行制度を今後も維持できるのですか。
 A 年金支給開始年齢は現在、自営業者らが加入する国民年金の場合は65歳です。会社員の厚生年金は段階的に引き上げている途中で、男性は25年度、女性は30年度から65歳支給となります。この支給開始をさらに遅らせるなどの抑制策が必要との指摘もあります。

 Q 働き手を増やす方策はありますか。
 A 女性やシニア世代の活用が重要です。子育てをしながら女性が働き続けられるよう、学童保育や育児サービスの充実を図るべきでしょう。企業の定年延長も有効な手段となります。

 Q 建設業や介護分野での人手不足は深刻です。
 A 政府は外国人の活用を拡大する方針です。東京五輪が開催される20年までの時限措置として、新興国への技術移転を目的に労働者を受け入れる外国人技能実習制度の期間延長を決めました。安倍晋三首相は、家事支援や介護分野で外国人労働者を受け入れる制度の検討も指示しています。


 Q 移民は受け入れないのですか。
 A 治安悪化や日本人の雇用が長期的に奪われることへの懸念が根強く、政府は慎重姿勢です。ただ経済界などからは、本格的な受け入れが必要との指摘も出ています。

※より詳しくは、国立社会保障・人口問題研究所による「日本の将来推計人口」(2013)がすばらしい。


社会保障給付費の構成は次の通り(厚生労働省)。





高齢化比率に対して、少子化対策で対応できる時期はもうすでに終わったらしい。


河合 対照的に日本は結婚をしないと産まない国といわれていますが,そもそも未婚者がパートナーを見つけにくくなっています。婚外子の多い国はカップルが成立しやすいようですか,なぜなのでしょう。

阿藤 本当に最近の日本はセックスレスどころか「パートナーレス」ですね。もしかしたら,そこが一番のポイントかもしれませんが,一番わからないところでもありますね。ただ,緩少子化国には核家族の文化をもっているという共通点があります。古くから純粋な核家族の文化があったのが,ちょうど北欧,フランスあたりまで,ドイツや南欧は子どもが結婚しても親と住むタイプの家族(拡大家族)の伝統がありますし,中国文化圏の日本,韓国,台湾なども拡大家族の伝統をもちます。

 日本も含めて核家族文化ではない国では親と子のつながりが強く,親の権威が強い。核家族の国ではすべての子どもは未婚の時代に親から離れるので,外に出て自立してパートナーを見つけ,うまく生きていけるように育てるのが親の務めです。そういうわけで同棲・婚外子が拡がっています。しかし親子の関係が強い社会では親は子どもをひきとめ,子どもはそれに甘えてしまう。パラサイトシングルも,そのような文化を抜きにして考えられないですよ。北欧では成人した子が親とずっと一緒に住むなんて,双方生理的に耐えられないでしょう。
……また,選挙で強いのは高齢者福祉で子どもではないのです。そちらのほうにどうしても関心が行ってしまい,そうこうするうちに出生率を取り戻すタイミングを逸してしまったという感じですね。

河合 取り戻すタイミングとは団塊ジュニア世代が出産できた時代のことですね。

阿藤 そうです。第二次ベビーブームで生まれた世代が出産年齢にあるうちに何とかできれば,日本にもチャンスはあるはずでした。その世代が出産できる年齢を過ぎ,本当はあるべき第三次ベビーブームがないことがはっきりした今,日本は,たとえこれから少々出生率が上がっても大勢は変わりません。今後は出産年齢にある人口が減る一方ですから,私たちはこれを少子化スパイラルと呼んできましたが,長期にわたって人口減が続くことはすでに避けられないのです。

働く世代1.2.人で、高齢者1人を支えなくてはならないなどということはどう考えてもありえず、少子化対策もダメ、消費税増も移民もイヤであるなら、高齢者が急激に死んでくれることを期待するよりほかないんじゃないかい? それとも75歳ぐらいまでは働いて税金払ってもらうとかさ。

上にもあるように、選挙では高齢者(高齢者予備軍も含め)が強いに決まってるんだから、社会保障費削減政策なんて実現しようがないだろうからな。

ところで2011年時点での「平均代替率」は82%だったらしい。すなわち、生産年齢人口 1 人当たりの所得は 316 万円であったのに対し、65 歳以上人口 1人当たりの社会保障給付額は 261万円とのこと。

ここでは議論の大枠を踏まえるために、年金、高齢者医療、介護について、平均代替率をど う制御するかで中央・地方政府の基礎的財政収支均衡を維持するための必要な消費税率、さらには国民負担率が長期的に変わってくることを、マクロの視点から試算する。試算上での平均代替率は、65 歳以上人口1人当たりの社会保障給付(65 歳未満への医療給付、雇用保険給付、子ども手当等を除く社会保障給付)の生産年齢人口1人当たりの平均所得(雇用者報酬及び混合所得)に対する比率と定義する。こうして計算された現在の平均代替率は 2011 年度の実績で82.4%である。すなわち、生産年齢人口 1 人当たりの所得は 316 万円であったのに対し、65 歳以上人口 1 人当たりの社会保障給付額は 261 万円だった。(大和総研「DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」」(2013))

これは消費税率、あるいは国民負担率を上げるための議論のなかの記述なのだけれど、いまはその議論を外し、単純化する(他の条件を一定と仮にする)。

上で見たように、現在、生産年齢人口2.4人で高齢者1人を支えなくてはならなく、2050年は生産年齢人口1.2人で高齢者1人を支えることになる。ある時期の高齢者人口/生産年齢人口を基準にして、たとえば現在の平均代替率を基準としたら、2050年には生産年齢人口/高齢者人口比率が半減するのだから、高齢者への社会保障給付額をも半額130万円にするという「スライド」制でも無理矢理つくったらどうだろうかね。まあこれは冗談にしても、日本の袋小路の根源は、少子高齢化にあるので、最近は殆どすべて他の議論はこの派生物でしかないようにさえ思えるな。

冒頭の図と同じデータからの別の図だが、2012年だって目一杯なんだから、2050年の1.2人ってのはすでに上のおじいちゃん、崩れ落ちているにきまってるよ。そのおじいちゃんとは、いま三十代の「きみ」だぜ。




日本の財政は、世界一の超高齢社会の運営をしていくにあたり、極めて低い国民負担率と潤沢な引退層向け社会保障給付という点で最大の問題を抱えてしまっている。つまり、困窮した現役層への移転支出や将来への投資ではなく、引退層への資金移転のために財政赤字が大きいという特徴を有している。(DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」

どうしたらいいだって? 新しい形態の家族=アソシエーションしかないんじゃないかい?

一般に流布している考えとは逆に、後期のマルクスは、コミュニズムを、「アソシエーションのアソシエーション」が資本・国家・共同体にとって代わるということに見いだしていた。彼はこう書いている、《もし連合した協同組合組織諸団体(uninted co-operative societies)が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断の無政府主と周期的変動を終えさせるとすれば、諸君、それは共産主義、“可能なる”共産主義以外の何であろう》(『フランスの内乱』)。この協同組合のアソシエーションは、オーウェン以来のユートピアやアナーキストによって提唱されていたものである。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

二十代の連中はだって? 彼らはとっくの昔に開き直ってシオラニストだろ。

@Cioran_Jp: 私が自殺を若い頃から考えてきたのは、人生を自殺の遅延と私が考えているからです。三十を過ぎて自分は生きていないだろうと私は思ってました。臆病だったからではないので、私はいつだって自殺を延期してきた。自殺という考えに私はしがみついてきた。自殺に私は寄生してきたんです。(シオラン)

パラサイト・スーサイド(Parasite Suicide)ってわけさ。

…………

困難な時代には家族の老若男女は協力する。そうでなければ生き残れない。では、家族だけ残って広い社会は消滅するか。そういうことはなかろう。社会と家族の依存と摩擦は、過去と変わらないだろう。ただ、困難な時代には、こいつは信用できるかどうかという人間の鑑別能力が鋭くないと生きてゆけないだろう。これも、すでに方々では実現していることである。

現在のロシアでは、広い大地の家庭菜園と人脈と友情とが家計を支えている。そして、すでにソ連時代に始まることだが、平均寿命はあっという間に一〇歳以上低下した。高齢社会はそういう形で消滅するかもしれない。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」『時のしずく』所収ーー何を今更言ってるんだろう

ここに《あっという間に一〇歳以上低下した》とあるが、これはやや誇張のようだ。



ソ連崩壊以降、驚くべき平均寿命の低下があったとも言えるが、最近の上昇ぶりも目覚しい。

ロシアの人口は、 ソ連邦崩壊直後の 1992 年をピークに減少に転じ、 総人口は 2009 年 1 月までの 17 年間で約 6.6 百万人減少した。2007 年以降、減少幅は縮小し、2009 年には自然減を移民増でカバーして 10.5 千人増と、18 年ぶりに僅かながら人口増を記録した。ようやく長年の人口減少は一服した感があるものの、この主因は移民の流入増であって、長期的な人口減少傾向に終止符が打たれたものかどうかは判然としない。また、平均寿命は 67.9 歳(男性は 61.8 歳、2008 年)と BRICS4ヵ国の中ではインドを若干上回るものの、中国(74 歳)、ブラジル(73 歳)に比してかなり低い。一方で、ロシアの医師数(2008 年)は、人口 1,000 人当り 4.54 人 (日本は 2.15 人) と主要国の中では世界一多い。〔『ロシア連邦の医療』医療経済研究機構 専務理事 岡部 陽二)

『「財政破綻後の日本経済の姿」に関する研究会』では、財政破綻によるハイパーインフレーションをめぐって、次のようなメモがあるを見た(参照:「日本の財政は破綻する」などと言っている悠長な状況ではない?)。

・意外に悪影響の少ない劇薬?
・日本への教訓 – ハイパーインフレ恐るるに足らず?
・むしろ究極の財政再建策として検討すべき?

そしてこの「冷徹な」メンバーの方々はロシアの財政崩壊をも研究されている。

いささか不謹慎な話題かもしれませんが・・・。――旧ソ連が崩壊し、ロシアでは、それまで全国民に医療サービスを政府が提供する体制が実質的に崩壊しました。また、ソ連崩壊後の時期に死亡率が急上昇しました。……[送り状(2)]http://www.carf.e.u-tokyo.ac.jp/research/zaisei/ScenarioCrisis2904pdf.pdf

ーー以下、おそらく肝腎なところは、「オフレコ」なようだ。だが彼らがひそかに期待している「劇薬」の最も顕著な効果は何か? はなんとなく憶測できないでもない。

ひょっとすると、多くの社会は、あるいは政府は、医療のこれ以上の向上をそれほど望んでいないのではないか。平均年齢のこれ以上の延長とそれに伴う医療費の増大とを。各国最近の医療制度改革の本音は経費節約である。数年前わが国のある大蔵大臣が「国民が年金年齢に達した途端に死んでくれたら大蔵省は助かる」と放言し私は眼を丸くしたが誰も問題にしなかった。(中井久夫「医学部というところ」書き下ろし『家族の深淵』1995)

《お元気でいらっしゃいましたか? いちばん心配なのは長生きでございます!》(大江健三郎『懐かしい年への手紙』


…………

もし、現在の傾向をそのまま延ばしてゆけば、二一世紀の家族は、多様化あるいは解体の方向へ向かうということになるだろう。すでに、スウェーデンでは、婚外出産児が過半数を超えたといい、フランスでもそれに近づきつつある、いや超えたともいう。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」より(2000年初出)『時のしずく』所収ーー二十一世紀の歴史の退行と家族、あるいは社会保障

ーーとすこし前に引用したが、フランスも実際に超えたようだ(「少子化を克服したフランス~フランスの人口動態と家族政策~」 第三特別調査室 縄田康光)。




  (「フランスにベビーブーム到来! 日本の未来は?」NTTコム リサーチより)

今やフランスにおける婚外出生比率は 50%を超えている(2007 年) 。事実婚に対する差別が解消されたことが非婚カップルの出産を促し、出生率上昇につながったと言える。一方我が国の婚外出生比率は、2.03%(2007 年)と先進国では異例の低さであり、また同棲している独身者は、男性 1.9%、女性 2.3%にすぎず、 「出産≒結婚」という傾向は大きくは変化していない。ただ、長期的には我が国においても婚外子が増加する傾向にあることから、婚外子が不利益を被ることのないよう議論を深めていく必要がある。(縄田康光少子化を克服したフランス~フランスの人口動態と家族政策~」) 

日本は、パラサイトシングルの国だからな、しかたがないさ! などと言い放つわけにはいかない。、世界の状況は次の通り。






パラサイトシングル率の国際比較



アジア先進諸国だけでなく、イタリアだって、わが日本の味方さ。でも

婚外子はかなり遅れをとっているようだな。

イタリアの場合、2000年には婚外子は約10%だったものが07年には20・8%に上昇し、このままの上昇率で行けば、20年には出生児の2人に1人、つまり50%は婚外子になると推定されている。

 この急上昇の原因は、正式な結婚をせずに同棲(どうせい)する男女が増えたことだ。1972年と2008年両年の結婚総数、つまり教会での結婚と市役所での非宗教結婚の合計を比較すると、39万2千件から21万2千件に減少している。この結果、上記の結婚のどちらも行わないで一緒に住んでいる男女のカップル、つまり同棲カップルの総数はイタリア全国で現在63万7千組と推定される。

 わが国でも、夫婦別姓制度が導入されるとこれまでの家族概念が崩れ、同棲カップルが増加し、婚外子の数は欧米並みに急増する可能性がある。(坂本鉄男 イタリア便り 婚外子の急増


同棲比率までここでは貼り付けないが、日本の「

男性 1.9%、女性 2.3%」ってあり? カップルは経済単位でもあるけれど、カップルになって困ることってなんだろ? カップルというか同棲してさ。ひょっとして自由に自慰ができなくなることかい?

結婚じゃなくて同棲でもジジェクのいうメカニズムはいっしょだからな、やっぱり同じ女や男じゃ「義務」になり勝ちなのさ。

ラカン派の用語では、結婚は、対象(パートナー)から“彼(彼女)のなかにあって彼(彼女)自身以上のもの”、すなわち対象a(欲望の原因―対象)を消し去ることだ。結婚はパートナーをごくふつうの対象にしてしまう。ロマンティックな恋愛に引き続いた結婚の教訓とは次のようなことである。――あなたはあのひとを熱烈に愛しているのですか? それなら結婚してみなさい、そして彼(彼女)の毎日の生活を見てみましょう、彼(彼女)の下品な癖やら陋劣さ、汚れた下着、いびき等々。結婚の機能とは、性を卑俗化することであり、情熱を拭い去りセックスを退屈な義務にすることである。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』(2012) 私訳)

で、どうして海外の若いヤツラは同棲して子供つくっちゃうんだろ。




…………

※附記:「財政破綻後の日本経済の姿」に関する研究会 [論点整理メモ 2]  September 7, 2012: Miwa


*そんなことは誰でも知っている・・・・かもしれない?

・しかし、なかなか話題にならない・・・?――とりわけ、具体的内容を伴う話題とはならない。

・理由?:誰にとっても本格的検討はスタートすることすら容易でない・・・?どのように考えて整理・主張しても、意見の一致は容易には得られない?検討方法すら不明?面倒 ・ ・ ・ ? (バカバカしく阿呆らしい?) ――だから、 誰もが回避したくなる? (誰か ・ ・ ・挑戦してくれないかな・・・と見果てぬ夢を・・・)――そういう状態が続いてきたから、いまさら・・・?――そんな課題に(自らはもちろん、誰かが)挑戦することなど、夢にも見ない?

・ 「政府」の周辺では?――縦割りだから、誰も全体のことは考えない(考えられない)?

ウチだけは大丈夫・・・だと考える(たとえば、社会福祉・医療・教育や農業、対外援助、さらに科学技術の振興など)?だから、これは政治と財務省の検討課題・・・だと無視する?――直接の関係者・担当者は 「考えたくない」 と思っている?1 年や 2 年の在任期間中に急ぐ必要はない・・・?――さらに、周りがそう考えていることもあって実質的なタブー?――さらに、そんな余計なことを考える連中を近づけるな・・・?(自己防御あるいは組織防衛?)――(とはいえ、個人的には深刻な事態だと考えている官僚たちも少なくない・・・?)





2014年10月29日水曜日

「人間は幸福をもとめて努力するのではない。そうするのはイギリス人だけである」(ニーチェ)

柄谷行人は福島原発事故後、3ヶ月経たときのインタヴューで次のように語っている。

【柄谷】最初に言っておきたいことがあります。地震が起こり、原発災害が起こって以来、日本人が忘れてしまっていることがあります。今年の3月まで、一体何が語られていたのか。リーマンショック以後の世界資本主義の危機と、少子化高齢化による日本経済の避けがたい衰退、そして、低成長社会にどう生きるか、というようなことです。別に地震のせいで、日本経済がだめになったのではない。今後、近いうちに、世界経済の危機が必ず訪れる。それなのに、「地震からの復興とビジネスチャンス」とか言っている人たちがいる。また、「自然エネルギーへの移行」と言う人たちがいる。こういう考えの前提には、経済成長を維持し世界資本主義の中での競争を続けるという考えがあるわけです。しかし、そのように言う人たちは、少し前まで彼らが恐れていたはずのことを完全に没却している。もともと、世界経済の破綻が迫っていたのだし、まちがいなく、今後にそれが来ます。

 日本の場合、低成長社会という現実の中で、脱資本主義化を目指すという傾向が少し出てきていました。しかし、地震と原発事故のせいで、日本人はそれを忘れてしまった。まるで、まだ経済成長が可能であるかのように考えている。だから、原発がやはり必要だとか、自然エネルギーに切り換えようとかいう。しかし、そもそもエネルギー使用を減らせばいいのです。原発事故によって、それを実行しやすい環境ができたと思うんですが、そうは考えない。あいかわらず、無駄なものをいろいろ作って、消費して、それで仕事を増やそうというケインズ主義的思考が残っています。地震のあと、むしろそのような論調が強くなった。もちろん、そんなものはうまく行きやしないのです。といっても、それは、地震のせいではないですよ。それは産業資本主義そのものの本性によるものですから。([反原発デモが日本を変える])


その後も日本では、《世界資本主義の危機と、少子化高齢化による日本経済の避けがたい衰退、そして、低成長社会にどう生きるか》という真の課題を忘れてしまえる「出来事」が続出した。たとえば第二次安倍政権樹立、米中韓国との軋轢、ネオナチ猖獗など。

中井久夫は、バブル時代にすでに日本の「引き返せない道」を書いている。

一般に成長期は無際限に持続しないものである。ゆるやかな衰退(急激でないことを望む)が取って代わるであろう。大国意識あるいは国際国家としての役割を買って出る程度が大きいほど繁栄の時期は短くなる。しかし、これはもう引き返せない道である。能力(とくに人的能力)以上のことを買って出ないことが必要だろう。平均寿命も予測よりも早く低下するだろう。伝染病の流入と福祉の低下と医療努力の低下と公害物質の蓄積とストレスの増加などがこれに寄与する。ほどほどに幸福な準定常社会を実現し維持しうるか否かという、見栄えのしない課題を持続する必要がある。

2000年にも「親密性と安全性と家計の共有性と」と題して、中井久夫はこう書いている。


私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた。

この文のベースにある考え方は次の文にあらわれている。

ある意味では冷戦の期間の思考は今に比べて単純であった。強力な磁場の中に置かれた鉄粉のように、すべてとはいわないまでも多くの思考が両極化した。それは人々をも両極化したが、一人の思考をも両極化した。この両極化に逆らって自由検討の立場を辛うじて維持するためにはそうとうのエネルギーを要した。社会主義を全面否定する力はなかったが、その社会の中では私の座はないだろうと私は思った。多くの人間が双方の融和を考えたと思う。いわゆる「人間の顔をした社会主義」であり、資本主義側にもそれに対応する思想があった。しかし、非同盟国を先駆としてゴルバチョフや東欧の新リーダーが唱えた、両者の長を採るという中間の道、第三の道はおそろしく不安定で、永続性に耐えないことがすぐに明らかになった。一九一七年のケレンスキー政権はどのみち短命を約束されていたのだ。

今から振り返ると、両体制が共存した七〇年間は、単なる両極化だけではなかった。資本主義諸国は社会主義に対して人民をひきつけておくために福祉国家や社会保障の概念を創出した。ケインズ主義はすでにソ連に対抗して生まれたものであった。ケインズの「ソ連紀行」は今にみておれ、資本主義だって、という意味の一節で終わる。社会主義という失敗した壮大な実験は資本主義が生き延びるためにみずからのトゲを抜こうとする努力を助けた。今、むき出しの市場原理に対するこの「抑止力」はない(しかしまた、強制収容所労働抜きで社会主義経済は成り立ち得るかという疑問に答えはない)。
(……)

冷戦が終わって、冷戦ゆえの地域抗争、代理戦争は終わったけれども、ただちに古い対立が蘇った。地球上の紛争は、一つが終わると次が始まるというように、まるで一定量を必要としているようであるが、これがどういう隠れた法則に従っているのか、偶然なのか、私にはわからない。(中井久夫「私の「今」」1996.8初出『アリアドネからの糸』所収)

これはジジェクにも、ベルリンの壁の崩壊による東西間の「まなざし」がなくなってしまったという語り口によるほぼ同様の見解の文がある。

私の興味をひいたのは、東側と西側が相互に「魅入られる」ということでした。これは「幻想」の構造です。ラカンにとって、究極の幻想的な対象とはあなたが見るものというより、「まなざし」自体なのです。西側を魅惑したのは、正統的な民主主義の勃発なのではなく、西側に向けられた東側の「まなざし」なのです。この考え方というのは、私たちの民主主義は腐敗しており、もはや民主主義への熱狂は持っていないのにもかかわらず、私たちの外部にはいまだ私たちに向けて視線をやり、私たちを讃美し、私たちのようになりたいと願う人びとがいる、ということです。すなわち私たちは私たち自身を信じていないにもかかわらず、私たちの外部にはまだ私たちを信じている人たちがいるということなのです。西側における政治的な階級にある人びと、あるいはより広く公衆においてさえ、究極的に魅惑されたことは、西に向けられた東の魅惑された「まなざし」だったのです。これが幻想の構造なのです、すなわち「まなざし」それ自体ということです。

そして東側に魅惑された西側だけではなく、西側に魅惑された東側もあったのです。だから私たちには二重の密接な関係があるのです。(Conversations with Žižek, with Glyn Daly(,邦題『ジジェク自身によるジジェク』)からだが、邦訳が手元にないので、私訳 を附す)

そして現在、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。これはジジェクと同じラカン派であるベルギーの精神分析医Paul VerhaegheがGuardian(ガーディアン 2014.09.29) にて"Neoliberalism has brought out the worst in us"「新自由主義はわれわれに最悪のものを齎した」という主張と同じ文脈のなかにある。もっともVerhaegheの見解は、新しい「文化のなかの居心地の悪さ」、--ただ「政治的」というよりは、個人と組織とのネガティブスパイラルという面への照射ーーに傾くものだが。それはこの短く書かれたガーディアンの記事ではなく、Capitalism and Psychology Identity and Angst: on Civilisation's New Discontent(PaulVerhaeghe) に詳しい。

人間は幸福をもとめて努力するのではない。そうするのはイギリス人だけである。(ニーチェ『偶像の黄昏』「箴言と矢」12番 原佑訳)

21世紀になって、われわれはみな「イギリス人」になってしまっている。

It was Nietzsche who observed that “human beings do not desire happiness, only the Englishmen desire happiness”- today’s globalized hedonism is thus merely the obverse of the fact that, in the conditions of global capitalism, we are ideologically “all Englishmen” (or, rather, Anglo-Saxon Americans…)ZIZEK"LESS THAN NOTHING")

どこかの「経営コンサルタント」が文科省の有識者会議にて提案して話題になっているG型大学とL型大学ーーG型大学はGLOBALのG、L型大学はLOCALのLーーもこの「イギリス人」の流れのなかにある。だがそれは「われわれに最悪のものを齎す」とまでは言わないでおこう、旧制高校時代のエリート主義の復活的要素の提案の芽もあると受け取るのなら、それは単純に否定されるべきものではないとも言いうるのだろうから。

蓮實重彦)エリート教育をやったほうが、左翼は強くなるんですよ。エリートのなかに絶対に左翼に行くやつが出るわけですよね。

(……)ところがいまは、エリート教育をやらないで、マス教育をやって、何が起こるかというと、体制順応というほうに皆行っちゃうけどね。(『闘争のエチカ』)

さて中井久夫の文に戻れば、困難な時代を生き抜くには「家族」しかないよ、という趣旨の主張だ。

今、家族の結合力は弱いように見える。しかし、困難な時代に頼れるのは家族が一番である。いざとなれば、それは増大するだろう。石器時代も、中世もそうだった。家族は親密性をもとにするが、それは狭い意味の性ではなくて、広い意味のエロスでよい。同性でも、母子でも、他人でもよい。過去にけっこうあったことで、試験済である。「言うことなし」の親密性と家計の共通性と安全性とがあればよい。家族が経済単位なのを心理学的家族論は忘れがちである。二一世紀の家族のあり方は、何よりもまず二一世紀がどれだけどのように困難な時代かによる。それは、どの国、どの階級に属するかによって違うが、ある程度以上混乱した社会では、個人の家あるいは小地区を要塞にしてプライヴェート・ポリスを雇って自己責任で防衛しなければならない。それは、すでにアメリカにもイタリアにもある。

困難な時代には家族の老若男女は協力する。そうでなければ生き残れない。では、家族だけ残って広い社会は消滅するか。そういうことはなかろう。社会と家族の依存と摩擦は、過去と変わらないだろう。ただ、困難な時代には、こいつは信用できるかどうかという人間の鑑別能力が鋭くないと生きてゆけないだろう。これも、すでに方々では実現していることである。

いずれにせよ、20世紀には異様なことが起こったであり、前世紀初頭のヒトの数はわずか20億だった。






              (「今までに存在した世界人口累計」より)


こういった状況下で(急激な少子高齢化で)、社会保障制度(年金制度など)はまともに存続できるわけがない。大和総研の「DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」」(2013)には、1970年に就業者9人で高齢者1人を支える制度として始まった社会保障制度は、《90 年頃は 4 人程度、現在は 2 人程度である》と記述されている。

高齢化先進国の日本の場合、老年人口指数で言えば、既に 2010 年時点で 100 人の現役世代が 35 人の高齢者を支えており、2020 年には 48 人2050 年には 70 人を支える必要があると予想される(いずれも国連推計であり、社人研推計ではより厳しい)。
賃金対比でみた給付水準 (=所得代替率) は、 現役世代と引退世代の格差―老若格差―と言い換えることが可能である。この老若格差をどうコントロールするかが、社会保障給付をどれだけ減らすか(あるいは増やすか)ということの意味と言ってよい。少子高齢化の傾向がこのまま続けば、いずれは就業者ほぼ 1 人で高齢者を 1 人、つまりマンツーマンで 65 歳以上人口を支えなければならなくなる。これまで 15~64 歳の生産年齢人口何人で 65 歳以上人口を支えてきたかといえば、1970 年頃は 9 人程度、90 年頃は 4 人程度、現在は 2 人程度である。医療や年金の給付が拡充され、1973 年は「福祉元年」といわれた。現行制度の基本的な発想は 9 人程度で高齢者を支えていた時代に作られたものであることを改めて踏まえるべきだ。


ドイツのように移民人口が多い国でさえ、付加価値税率19%でありつつ、年金破綻の懸念にひどく憂慮している。左翼勢力が相対的に強いだろうフランスでも、すでに、《80年代以降、政府は(政権の左右を問わず)女性が家庭に戻るように仕向け、この分野への予算を削減しようとの思惑から、政策方針を大幅に転換した。》(「子供か仕事か、欧州女性たちのジレンマ」 アンヌ・ダゲール)


たとえば、これはここでの文脈とは異なり、男女の賃金格差の図であるが、この図を見ると男女賃金格差は、フランス、イタリアは改悪している(差が広がっている)ことがわかる。





フランスやイタリアの状況は、おそらくもっと詳しく、--たとえば移民女性の賃金などを顧慮してーーデータを見なくてはならないという議論もあるだろう。だがそれはここでは脇にやる。

いずれにせよ、欧米諸国には「移民」という強い味方ーーもちろん移民排斥運動はあることを知らないわけではないがーーがあるにもかかわらず、社会保障制度のいままでどおりの継続は困難だと推測しているわけだ。




たとえば、ドイツ。

現在ドイツでは、出生率が1.34 (McDonald 2007)、日本では1.32(全国保育団体連絡会・保育研究所2007)とほぼ同レベルであり, 両国とも深刻な状況にある。その一方で、ドイツと日本における平均寿命の上昇は、両国の高齢者年金制度に深刻な影響をもたらしている。高齢者人口の増加と出生率の低下により、日本同様、ドイツも財政的に困難な状況に直面しており、この変化に対応するために様々な政策が導入されている。(「男女不平等とワーク・ライフ・バランス: ドイツにおける社会変化と少子化問題」(アンドレア・ゲルマー/バーバラ・ホルトス 2007)


少子高齢化はドイツも日本も似たようなものだが、他方、ドイツの消費税(付加価値税)はこんな具合だ。



                  (三井住友銀行による






各国の合計特殊出生率推移は、次の通り。






これをみると、韓国は日本以上に驚くべき状況であることが窺われる(韓国の年金制度のありようは「資料:韓国の自殺率と出生率」を見よ)。上の図には中国のデータはないが、2013年に発表された大和総研の「DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」には次のような記述がみられる。

少子高齢化が進展している日本が社会保障システムや政府財政の持続性に問題を抱え、制度疲労に対して喫緊の改革を迫られている点は周知の事実だが、中長期的にみると高齢化は日本に限った話ではなく、世界共通の課題である。ただ、国によってそのスピードが大きく異なることから、高齢化への取り組み方も変わってこよう。

国連の推計に基づくと、いずれの国の中位数年齢(年齢順に並べ、全人口を 2 等分する年齢)も年を経るにつれて上昇していく。例えば、2010 年時点の日本の中位数年齢は 44.7 歳であり、先進国平均の 39.7 歳を大きく上回り、ドイツ(44.3 歳)やイタリア(43.2歳)に近い。それが 2020 年には 48.2 歳、2050 年には 52.3 歳に上昇し、世界における超高齢社会のフロントランナーのポジションは譲らない。他方、高齢化の進展が相対的に遅いドイツやイタリアの場合、2050 年時点でも中位数年齢は 49 歳代にとどまる。

これに対して、 日本の後ろ姿を急速に追いかけてくるのが中国である。 世界最大の人口 (2010年時点 13.4 億人)を抱える中国の場合、2010 年の中位数年齢は 34.5 歳と先進国平均を 5 歳ほど下回っていたが、2020 年には 38.1 歳、2050 年には 48.7 歳へ大きく上昇すると予想される。

つまり、日本の中位数年齢が 40 年間で 7.6 歳上昇するのに対して、中国は同じ期間で 14.1 歳(四捨五入の関係で上記の年齢の差分とは一致せず)と 2 倍近く上昇する計算である。一方、中国に次ぐ人口 12.2 億人を抱えるインドの中位数年齢は 2010 年時点の 25.1 歳から 2020 年には28.1 歳、そして中国を抜いて世界最大の人口(16.9 億人)を抱えるであろう 2050 年には 37.2歳に達すると予想されている。40 年間で 12.1 歳上昇するものの、発射台が低いだけに 2050 年時点でも世界のなかで相対的に若さを保っていよう。

中国の高齢化が急速に進むとみられる背景の一つは、1979 年から導入されている“一人っ子政策”であり、同政策によって出生率は急激に低下した。同時に経済発展によって死亡率が低下した結果、人口ピラミッドの形がいびつになってきた3。2010 年時点で中国の 65 歳以上人口が全人口に占める割合 (高齢化比率) は 8.2%に達し、 経済発展の途上段階で人口構造の成熟化が進んでいる。高齢化に伴う社会的コストが増える一方で、その費用を負担する現役世代の伸び率が鈍化している状態であり、今後中国では現役世代の負担感が大幅に高まっていくと予想される。

具体的に、高齢者人口(65 歳以上)を生産年齢人口(現役世代、15~64 歳)で割った老年人口指数を求めてみると、 2010 年時点では 100 人の現役世代で 11 人の高齢者を支えていたが、 2020年には 17 人、2050 年には 42 人を支えることになり、約 4 倍の負担になる。今後の中国は、これまでの 2 桁台の高い成長率から質の伴った安定成長へスムーズにシフトするという目標を実現しながら、社会保障制度など膨張する費用を賄わなければならない。例えば、子どもが 1 人しかいない家庭では高齢者介護が大きな負担になるために、年金補助制度などを強化していく方針であるという。

ちなみに、 日本において高齢化比率が中国の 2010 年と同じ 8.2%を上回ったのは 1977 年であった。中国の現在の経済規模は日本を抜いて世界 2 位だが、1 人当たり名目 GDP(2010 年時点)は 4,400 米ドル程度であり、 1977 年当時の日本の 1 人当たり名目 GDP6,100 米ドルを下回っている。この間の生活水準や物価の変化を考えれば、その格差はより大きい。単純な比較はできないが、中国では人々の生活が豊かになる前に高齢化が始まっている。

ここでもう一度、中井久夫の文を反芻しておこう、《私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた》と。


国民負担率の国際比較





西欧諸国に比せば、国民負担率を上げる余地が、日本にはあることがわかる(その具体的な方法は、消費税増ということになるのだろう)。

消費税問題は、日本経済の形を決めるビジョンの問題。北欧型=高賃金、高福祉、高生産性か。英米型=低賃金、自助努力、労働者の生産性期待せずか。日本は岐路にある。(岩井克人

※参考
日本の財政は、世界一の超高齢社会の運営をしていくにあたり、極めて低い国民負担率と潤沢な引退層向け社会保障給付という点で最大の問題を抱えてしまっている。つまり、困窮した現役層への移転支出や将来への投資ではなく、引退層への資金移転のために財政赤字が大きいという特徴を有している。(「DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」」(大和総研2013)より)

参考2:「貨幣」から読み解く2014年の世界潮流(岩井克人)

これまで日本は、GDP比200%以上という巨額の債務残高にもかかわらず、長期金利がほとんど上がらなかった。その理由は、失われた20年で良い融資先を失った日本国内の金融機関が国債を保有していることもあるが、同時に「消費税率を上げる余地がある」と市場から見られていたことも大きい。社会保障を重視する欧州では20%を超える消費税が当たり前なのに、日本はわずか5%。いざ財政破綻の危機に瀕したら、いくら何でも日本政府は消費増税で対応すると考えられてきたのだ。

 消費増税は、もちろん短期的には消費に対してマイナスだろうが、法人税減税などと組み合わせれば、インパクトを最小限に抑えることができる。重要な点は、消費増税によって財政規律に対する信頼を回復させ、長期金利を抑制することだ。実際、消費増税の実施が決定的となった昨年9月には、長期金利は低下した。

現在、2015年に消費税率を10%に上げることの是非が議論されているが、私は毎年1兆円規模で肥大するといわれる社会保障費の問題を考えても、10%への増税は不可避であり、将来的にはそれでも足りないと思っている。むしろ、アベノミクスの成功に安心して10%への増税が見送りになったときこそ、長期金利が高騰し、景気の腰折れを招くことになるだろう。

このような議論をすると、「1997年に消費税を3%から5%へ引き上げたあと、日本経済は不況に陥ったのではないか」との反論が上がる。しかし当時の景気減退は、バブル崩壊後の不良債権処理が住専問題騒動で遅れ、日本が金融危機になったことが主因である。山一證券や北海道拓殖銀行の破綻は、小さな規模のリーマン・ショックだったのである。

また、「消費税は弱者に厳しい税だ」という声も多い。だが、消費額に応じて負担するという意味での公平性があり、富裕層も多い引退世代からも徴収するという意味で世代間の公平性もある。たしかに所得税は累進性をもつが、一方で、「トーゴーサン(10・5・3)」という言葉があるように、自営業者や農林水産業者などの所得の捕捉率が低いという問題も忘れてはいけない。


こんななかでいわゆる「左翼」の活動家はいまだこんなことをオッシャッテおり(「経済なき道徳は寝言」)ーーたまたま半年ほどまえ拾ったものであり、お二人にはなんのウラミもないが、「左翼」の典型的ツイートとして掲げさせてもらうーー、それを正義の味方として振舞いたいらしい左翼だかリベラルだかの学者センセまでRTしておられる。

河添 誠@kawazoemakoto

・「消費税増税で低所得層に打撃になるのは問題だと思うけれど、今の日本の財政では云々」という人へ。前段の「低所得層への打撃」だけで、消費税増税に反対するのに十分な根拠になるはず。なぜ、財政を理由に低所得層の生活に打撃になるような増税が正当化されるのか?この問いにだれも答えない。

・「消費税増税にはさまざまな問題がありますが、財政の厳しい状況では仕方ないですね」と、「物わかりよく」言ってみせる人たち。低所得層の生活が破壊され、貧困が拡大する最大の政策が遂行されるときにすら反対しないのかね?まったく理解不能。

※河添誠氏のプロフィール欄

《NPO非営利・協同総合研究所いのちとくらし研究員・事務局長/首都圏青年ユニオン青年非正規労働センター事務局長/都留文科大学非常勤講師。非正規労働者・低い労働条件の正社員と失業者の生活支援・権利拡充のために活動中。反貧困たすけあいネットワーク、反貧困ネットワーク、レイバーネット日本の活動なども。》

藤田孝典@fujitatakanori:

・みんなが社会手当を受けたら、国の財源がなくなるという人々がいる。それはウソ。それなら欧州の国々はとっくに破綻している。

・ 財源が足りないという理由だけで、国民の生存権や社会権を剥奪していいなら、法秩序は崩壊する。

※藤田孝典氏プロフィール欄

《ほっとプラス代表理事。反貧困ネットワーク埼玉。ブラック企業対策プロジェクト共同代表、生活保護問題対策全国会議、福祉系大学非常勤講師。著書『ひとりも殺させない』》(「偽の現場主義が支える物語的な真実の限界」より)


こういった「左翼」の消費税増反対などというものは、《文句も言えない将来世代》への残忍非道の振舞いではないか(参照:アベノミクスと日本経済の形を決めるビジョン)。

簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。

 しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。(経済再生 の鍵は 不確実性の解消 (池尾和人 大崎貞和)ーー野村総合研究所 金融ITイノベーション研究部2011ーー二十一世紀の歴史の退行と家族、あるいは社会保障)

80年代の消費税導入の遅れ、90年代にいっそうの消費税増が遅れたからこそ、現在、いっそうひどい財政危機に瀕し、いま弱者たちの首をいっそう絞めているのではないか、――とまでは言わないでおくが、「左翼」の連中は、未来の他者への心配りがまったく欠けた経済音痴どもの集まりではないかと疑わざるをえない。90年代におけるあれら「左翼」の弱者擁護の名目での「誠実で正義感溢れる」姿勢・活動が、いまの急激な「格差社会」成立にかなり貢献しているのではなかろうか。

彼らの経済的弱者への「共感」による合意(コンセンサス)は、今ここにいる者たちの間でのみの合意であり、未来の経済的弱者への配慮はなされない。90年代に「未来」であったその弱者は、2014年の今ここに多数いる。その苦境に大いに貢献したのではないか、あの正義の味方「左翼」の連中は。

…ハーバーマスは、公共的合意あるいは間主観性によって、カント的な倫理学を超えられると考えてきた。しかし、彼らは他者を、今ここにいる者たち、しかも規則を共有している者たちに限定している。死者や未来の人たちが考慮に入っていないのだ。

たとえば、今日、カントを否定し功利主義の立場から考えてきた倫理学者たちが、環境問題に関して、或るアポリアに直面している。現在の人間は快適な文明生活を享受するために大量の廃棄物を出すが、それを将来の世代が引き受けることになる。現在生きている大人たちの「公共的合意」は成立するだろう、それがまだ西洋や先進国の間に限定されているとしても。しかし、未来の人間との対話や合意はありえない。(柄谷行人『トランスクリティーク』P191-192)

真のラディカル左翼であるなら、消費税を西欧諸国なみに挙げる提案を支持し、そこから、たとえばベイシックインカム制度が夢物語であるなら、フリードマンの「負の所得税」などを変奏して提案していくべきではないだろうか。

負の所得税とは所得に関係なく一定の税率を一律にかけ、 基礎控除額を定めることでそれを上回った者から所得税を徴収し、下回った者は逆に所得に応じた負の所得税を払うものである。負の所得税とはすなわち政府からの給付金である。

基本税率 40 パーセント、基礎控除額が年収 200 万円だとすると 年収 1000 万円の者は基礎控除額を超過している 800 万円が課税対象となり 40 パーセントの 320 万円を所得税として支払う。
年収 200 万円の者は基礎控除額を上回りも下回りもしないため所得税を支払わない。

年収 100 万円の者は基礎控除額 200 万円を 100 万円下回るためマイナス 100 万円が課税対象となり、40 パーセントのマイナス 40 万円を支払う。つまり政府から 40 万円を受け取る。この 40 万円が負の所得税である。

つまりまったく収入が無い者はマイナス 200 万円の 40 パーセントである 80 万円を受け取ることになり、これが最低レベルの所得の者に支払われる生活保護額となる。(「再分配方法としての負の所得税」ネット上PDFよりーー「見えざる手(Invisible Hand)」と「消費税」(岩井克人)

もちろん消費税増の導入の景気停滞の影響は顧慮しなくてはならないということはある。

消費税が3%から5%に引き上げられた1997年の景気動向については、アジア通貨危機(7月)、金融システムの不安定化(11月)という大きなショックに日本経済が見舞われたため、消費増税そのものの影響だけを析出するのは容易ではない。(社会保障・税一体改革の論点に関する研究報告書説明資料(第Ⅱ部)  平成23年5月30日東京大学大学院経済学研究科長吉川洋

現在、消費税が5%から8%の影響も存外大きいままなのかもしれない。とはいえ、そうであるなら、8%→10%を遅らせるべきなのだろうか。

私は「消費税引き上げの影響は存外に大きい可能性がある」という見方です(植田和男先生とたぶん同じ)。ただし、目先の景気と将来の負担との比較の問題で、目先の痛みは大きいとしても、それをしなかったときの将来の痛みはもっと大きいと考えています。(池尾和人氏ツイート)
消費税率10%への引き上げ見送りが、日銀の政策への最大のリスクになる(黒田東彦日銀総裁インタヴュー
現在、2015年に消費税率を10%に上げることの是非が議論されているが、私は毎年1兆円規模で肥大するといわれる社会保障費の問題を考えても、10%への増税は不可避であり、将来的にはそれでも足りないと思っている。むしろ、アベノミクスの成功に安心して10%への増税が見送りになったときこそ、長期金利が高騰し、景気の腰折れを招くことになるだろう。(岩井克人

とはいえ、アベノミクスなどなんの成功もしていないじゃないか、という反撥もあるだろう。ではどうしたらいいのか? それなしでいたずらな政策否定ではなしのつぶてである。

結局、あれらの「左翼」も「イギリス人」である。イギリス人とは、経済合理主義者の謂であり、短期的な「快」のみを求める。彼らの「快」は、中長期の視点をなおざりにし、いまこの場でのみ「庶民的な正義の味方」として振舞うことだ。それさえできれば「後は野となれ山となれ!」、--そうでなかったなら、どうしてあのような寝言を言いうるのだろう、ーー《財源が足りないという理由だけで、国民の生存権や社会権を剥奪していいなら、法秩序は崩壊する》などと。

われわれは、真の「糞便」をしっかり観察すべきだ、その「糞便」にある甚だしい病気の兆候を見逃して、「うんこ」の臭いのみ鼻を抓む習慣はそろそろやめなければならない。

西洋におけるトイレのデザインの三つの基本型は、レヴィ=ストロースが考えた調理の三角形(生、焼く、煮る:引用者)に対応する、排泄の三角形を構成している。伝統的なドイツのトイレは、排泄物が消えていく穴が前のほうについているので、便は水を流すまで目の前に横たわっていて、われわれは病気の兆候がないかどうか、臭いをかいで調べることができる。典型的なフランスのトイレは、穴が後ろのほうについているため、便はすぐさま姿を消す。最後にアメリカのトイレはいわば折衷型、つまり対立する二極の媒介で、トイレの中に水が満ち、便が浮くが、調べている暇はない。(……)

 ドイツ-フランス-イギリスの地理的三角形を三つの異なる実存的姿勢の表現と解釈した最初の人物はヘーゲルである。ドイツの反省的徹底性、フランスの革命的性急さ、イギリスの中庸的な功利的実用主義。政治的スタンスの面でいえば、この三角形はドイツの保守主義、フランスの革命的急進主義、イギリスの穏健な自由主義と解釈できる。社会生活のどの面が優性かという点からみると、ドイツは形而上学と詩、フランスは政治学、イギリスは経済学だ。トイレを考えてみれば、排泄機能の実践という最も身近な領域にも、同じ三角形を見出すことができる。魅了され、じっくりと観察する、曖昧な態度。不快な余剰をできるだけ速やかに排除しようとする性急な姿勢。余剰物を普通の物として適切な方法で処理しようとする実用的なアプローチ。(ジジェク『ラカンはこう読め』)


…………

さて冒頭、柄谷行人の発言の引用で始めたのだ。彼はその後、2013年の講演で次のように発言していることを付記しておこう。

「世界の現状は、米国の凋落でヘゲモニー国家不在となっており、次のヘゲモニーを握るために主要国が帝国主義的経済政策 で競っている。日清戦争 後の国際情勢の反復ともいえる。新たなヘゲモニー国家は、これまでのヘゲモニー国家を引き継ぐ要素が必要で、この点で中国 は不適格。私はインド がヘゲモニーを握る可能性もあると思う。その段階で、世界戦争が起こる可能性もあります」
 「現実政治を知らなすぎると言って、私の言うことを笑うかもしれませんが、『来るべき戦争』がやってきた時に、私の言ったことを認めざるを得ないでしょう」

債務危機の解決策は、《増税、歳出削減、経済成長、低金利、インフレ、戦争、外資導入、そしてデフォルト》しかない。戦争かデフォルトを選択する戦略なのだろうか、あれらの「左翼」たちは。北野武は、日本という国は一度亡んだほうがいい、という意味のことをどっかで言っていたが、内心「デフォルト」志向なのだろうか。

アタリ氏は「国家債務がソブリンリスク(政府債務の信認危機)になるのは物理的現象である」とし、「過剰な公的債務に対する解決策は今も昔も8つしかない」と言う。すなわち、増税、歳出削減、経済成長、低金利、インフレ、戦争、外資導入、そしてデフォルトである。そして、「これら8つの戦略は、時と場合に応じてすべて利用されてきたし、これからも利用されるだろう」とも述べている。(……)

現にアタリ氏自身も「(公的債務に対して)採用される戦略は常にインフレである」と述べている。お金をたくさん刷って、あるいは日銀が吸収している資金を市場に供給して貨幣価値を下げ、借金をチャラにしてしまいしょう、というわけだ。(資料:「財政破綻」、 「ハイパーインフレ」関連

…………

ーーなどということをわたくしが書いても致し方ないのだが、たぶんこういうことは「海外住まい」の消費税増があろうがなかろうが関係ない者のみが言える特権であるのかもしれず、実際すぐれた経済学者も、アベノミクス導入以前には、「逃げ切れるか」、などとオッシャッテイタわけだ。

むしろデフレ期待が支配的だからこそ、GDPの2倍もの政府債務を抱えていてもいまは「平穏無事」なのです。冗談でも、リフレ派のような主張はしない方が安全です。われわれの世代は、もしかすると「逃げ切れる」かもしれないのだから...(これは、本気か冗談か!?)(ある財政破綻のシナリオ--池尾和人2009.10ーーアベノミクスの博打


2014年10月24日金曜日

天動説のままの阿呆鳥、あるいは「死の欲動」

 ◆ジジェク『LESSS THAN NOTHING』より(私訳)
哲学の存在論的前提に反して、ラカンは享楽の現実界に焦点を絞った。それは単純に言語の外部にあるのではないにも拘わらず(むしろ言語に関して外-親密“ex‐timate”である)、象徴化に抵抗し、言語内部で異物の核のままであり、裂開、切れ目、ギャップ、非一貫性、あるいは不可能として現われるなにかである。

Against this ontological premise of philosophy, Lacan focuses on the Real of jouissance as something which, though far from being simply external to language (it is rather “ex‐timate” with regard to it), resists symbolization, remains a foreign kernel within it, appearing as a rupture, cut, gap, inconsistency, or impossibility:

《私は、ある関係を今明らかにするために、いずれの哲学者にもけんかを売っています、関係、すなわち、シニフィアンの出現と享楽が存在に結びつく間にあるもの…… どの哲学者も、私に言わせれば、今日ここでわれわれに落ち合うことはできません。哲学のみすぼらしく挫折した酔狂、それは、ぐずぐずした習慣として、前世紀(19世紀)の初めから、われわれは足を引っ張られているのですが、この問いに直面しないで、その周囲を踊る方法にすぎません。それは真理についての唯一の問いであり、また言わば、フロイトが名づけた死の欲動、原初の享楽のマゾヒズムなのです…… すべての哲学的陳述はここから逃れ視線を逸らしています。》(ラカン セミネールXIII(未出版)

I challenge any philosopher to account now for the relation that there is between the emergence of the signifier and the way jouissance relates to being … No philosophy, I say, meets us here today. The wretched aborted freaks of philosophy which we drag behind us from the beginning of the last [nineteenth] century as habits that are falling apart, are nothing but a way of dancing around rather than confronting this question, which is the only question about truth and which is called, and named by Freud, the death drive, the primordial masochism of jouissance … All philosophical speech escapes and withdraws here. Jacques Lacan, seminar of June 8, 1966, in Le séminaire, Livre XIII: L'objet de la psychanalyse (unpublished).


extimateという語が出てきて、仮に外-親密と訳したが、外-密とも訳されることもある。この語はラカンの造語であり、最もintimateなものは外部exにあるということである。《要するに、私たちのもっとも近くにあるものが、私たちのまったくの外部にあるのです。ここで問題となっていることを示すために「外密extime」という語を使うべきでしょう。》(Lacan S16 松本卓也氏ツイート)


それ以外にも、ことさらいつもにもまして自信のないイイカゲン訳であり、とくにラカンのセミネールのなんと訳しにくいこと! 

ex-timate”をジジェクは他の書で次のように使っている。

the ultimate cinematic expression of the ex-timate character of the objet petit a in me that of the “alien” in the film of the same name, which is quite literally what is “in me more than myself,” a foreign body at the very heart of myself(ZIZEK 『The Puppet and the Dwarf』――『快原則の彼岸』におけるBemächtigungstrieb

ここには、ラカンの対象aの説明のなかのでのex-timateが出て来ると同時に ,a foreign body at the very heart of myselfともある。foreign body は、本来、目のなかの異物という意味で使われることが多いらしいが、初期フロイトはすでにこの用語を使っている(フロイト『ヒステリー研究』1895)。


その独原語はFremdkörperであり、邦旧訳では「異物」と訳されている。フロイトはこの語を言葉にできないトラウマに関連させて主に使っており、すなわち快感原則の彼岸にある言語の世界(象徴界)にex-sist(外ー存在)するものであり、ここでもex-timateとの関連がある。



Fremdkörper, a foreign body present in the inside but foreign to this inside. The Real ex-sists within the articulated Symbolic.(Paul Verhaeghe "Mind your Body ")

というわけで冒頭の文の”a foreign kernel ”も「異物としての核」と訳したんだが、要するにラカンやジジェクの文で”foreign”と出てくるときは、フロイトのFremdkörper”を想起しなさいということだな、ジジェクがかつて多用した“alien”ーー映画のエイリアンからだがーーこれも、この絡みであることに最近ようやく気づいた。

…………

で、何が言いたいかと言えば、快感原則の彼岸に死の欲動があるんじゃないんだな、ジジェク=ラカンの視点では。

ジジェクが『LESS THAN NOTHING』で、讃嘆してやまないFrançois Balmèsの美しい表現ならこうなる。

現実は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界である。そして現実界は、この象徴的な空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。

reality is the Real as domesticated—more or less awkwardly—by the symbolic; within this symbolic space, the Real returns as its cut, gap, point of impossibility(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être)――ジジェク『LESS THAN NOTHING』 より孫引きであり、邦訳は私訳ーーラカンの三つの身体


享楽も死の欲動も、言語=象徴界の空間に、傷として回帰する、象徴界の彼岸(向こう)にあるんじゃなくて。

ドゥルーズやジジェクは、死の欲動は超越論的であるというのだけれど(参照:攻撃欲動はタナトスではなくエロスである)、超越論的とは、柄谷行人の言い方では存在しない(目に見えない)けれど機能するものである。

超越論的とは、無としての働き(存在)を見いだすという意味で、存在論的(ハイデガー)である。同時に、それは「意識されない」構造を見るという意味では、精神分析的あるいは構造主義的である。(『トランスクリティーク』P59)

オレみたいな経験論者には、手強いなあ。至高の経験論者である〈きみたち〉にはいっそうそうだろ?

でも経験論者だと、いつまでも天動説のままなんだよ、地球のまわりを太陽動いたままなのさ、すなわち、〈きみたち〉にとっては、地球中心(自己中心)のままということになるな、〈きみたち〉にはオレも含めてもいいさ、もちろん!

一般には、コペルニクス的転回は、天動説(地球中心)から地動説(太陽中心)への華々しい転倒として理解される。しかし、地動説は古代から存在したものである。それがコペルニクスによってはじめて理論として成立したのは、主観が対象を受動的に受け取るという考えから対象が主観の形式によって能動的に構成されるという考えへの転回によってである。カントが重視したのは後者のように見える。そして、カントのあとの観念論はそこに成立する。だが、そのとき、カントがなそうとした転回が、本来、地動説(太陽中心)、いいかえれば、世界はわれわれが構成したものではなく逆にわれわれが世界の中に投げ込まれているのだという考えに向けられたことが忘れられる。(柄谷行人『トランスクリティーク』 P208

というわけでもう少し柄谷行人を引用しよう。

コペルニクス革命」が…重要なのは、地動説か天動説かではなく、コペルニクスが、地球や太陽を、経験的に観察される物とは別に、或る関係構造の項としてとらえたことである。(……)

同様に、カントは、経験論のように感覚から出発するか、合理論のように思惟から出発するかという対立をすり抜けている。彼がもたらしたのは、感性の形式や悟性のカテゴリーのように、意識されない、カントの言葉でいえば超越論的な構造である。感性や悟性という言葉は昔からある。それは「感じる」や「考える」という働きを概念にしたものである。しかし、カントは完全にそれらの意味を変えている。それは、コペルニクスにおいて、地球や太陽と呼ばれるものが、或る構造の中の項として見出されたのと同じである。われわれは別にカントがいう感性や悟性といった言葉をそのまま用いる必要はない。重要なのは、カントが提示した超越論的な構造である。(……)

フロイトの精神分析が画期的なのは、「無意識が人間行動の多くを制御している」という考え自体――それはロマン主義以来常識であった――にあったのではない。初期の『夢判断』――これも古来存するものだ――が示すように、意識と無意識のズレをもたらすものを、言語的な形式においてみようとしたところにあった。そして、そのことから無意識の「超越論的な」構造が見いだされていったのである。(……)

フロイトの精神分析は経験的な心理学ではない。それは、彼自身がいうように、「メタ心理学」であり、いいかえると、超越論的な心理学である。その観点からみれば、カントが超越論的に見出す感性や悟性の働きが、フロイトのいう心的な構造と同型であり、どちらも「比喩」としてしか語りえない、しかも、在るとしかいいようのない働きであることは明白なのである。

そして、フロイトの超越論的心理学の意味を回復しようとしたラカンが想定した構造は、よりカント的である。仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)。むろん、私がいいたいのは、カントをフロイトの側から解釈することではない。その逆である。(柄谷行人『トランスクリティーク』p54-59)

柄谷行人、二種類の反復(「反復強迫automaton」と「反復tuche」)、あるいは二種類の無意識(ふたつの主体)の区別ついてんだろうか? まああまりつっこまないでおくけどさ、えらそうなことはぜーんぜん言えないからな、オレは。

でもフロイトの無意識も「超越論的」なのさ、「無意識が人間行動の多くを制御している」なんていっているだけの連中は、天動説のままってわけ。


さて、ニーチェにお出まし願おう、《「善悪」の彼岸…… あれは少なくとも「よい・わるいの彼岸」ということではないのだ。--》(ニーチェ『道徳の系譜』木場深定訳ーーEncore, encore ! --快・不快原理の彼岸=善悪の彼岸


善悪の彼岸も、おそらく超越論的だよ、と言ってんじゃないか、ニーチェは。

とすれば、権力への意志や永劫回帰も超越論的なのかね? さあて、経験論者の凡庸な頭では、サッパリわかんねえな。

でもいつまでも天動説はいやだからなあ、きみたちはへいっちゃらかい? ひとが何を言おうと、自分の感じることは真実だ、なんて言ってる連中は、太陽がいまだ動いているつもりのボケらしいぜ。まあオレは阿呆のまま人生終ってもいいがね、若いきみたちはやめとけよ。

標準的な見方からすれば、主体性を構成している次元は現象的な(自己)経験の次元である。次のように自分に言えたならば、その瞬間に、私は主体になる。「どんな正体不明のメカニズムが私の行為、知覚、思考を支配していようとも、私がたったいま見て感じていることを、何物も私から奪うことはできない」。たとえば私が激しい恋愛をしているときに、生物学者が私に、私の強烈な感覚は私の身体の生物学的なプロセスの結果にすぎないと言ったとする。私は見かけに固執してこう答えることができる。「あなたが言っていることはすべて正しいかもしれないが、それでも、私がいま経験している激しい情熱を何物も私から取り上げることはできない」。しかしラカンは言う、精神分析家はまさにそれを主体から取り上げることができる、と。分析家の究極の目的は、主体の(自己)経験の宇宙を規定している根本的幻想そのものを主体から奪うことである。無意識というフロイト的主題は、主体の(自己)経験(彼の根本的幻想)の最も重要な側面が初源から抑圧されていて、主体にとって接近不能となったときに、はじめて登場するのである。接近不能な現象とは、最も根源的なレベルにおける無意識であり、私の現象的経験を規定する客観的メカニズムではない。したがって、常識的には、ある実体が内的生活(外的行動に還元できない幻想的経験)の徴候を見せたなら、そこにあるものは主体だと考えるわけだが、これと対照的に、われわれは以下のように主張すべきである。すなわち、人間の主体性を特徴づけているのはむしろ、外部と内部を隔てている落差、つまり幻想がその最も基本的レベルにおいて主体にとって接近不能なものになるという事実である、と。ラカンの言葉を借りれば、主体を「空虚」にするのはこの接近不能性なのである。(ジジェク『ラカンはこう読め』p96)

しぱしぱよ、なぐさめに、船人ら
信天翁生け捕るよ、
潮路の船に追いすがる
のどけき旅の道づれの海の巨鳥。

ーー「信天翁(あほうどり)」『悪の華』 ボードレール、堀口大学訳

アホー、アホー、アホー