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2014年11月13日木曜日

philia 愛とneikos闘争、あるいはビオスBiosとゾエZoë

――いっさいのことが、新たにあらんことを、永遠にあらんことを、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされてあらんことを、おまえたちは欲したのだ。おお、おまえたちは世界をそういうものとして愛したのだ、――(ニーチェ『ツァラトゥストラ』酔歌 「悦楽(享楽)と永劫回帰」より)

《フロイトのタナトス欲動は、〈他〉のなかの消滅に対抗して個の生の継続を確保する。このように解釈したら、死の欲動は、ビオス欲動である。ビオスBiosとは古代ギリシアの個の生の名である。それは死するが、また個がどのように彼もしくは彼女自身の生を処するかにかかわる。ゾエZoëは、逆に、永遠の生それ自体である。限定されたビオスを貫く縫い糸であり、個別的なものが消滅しても、ゾエは破壊されない。このように読めば、フロイトのエロスはゾエ欲動であり、タナトスはビオス欲動である。》(Paul Verhaeghe『Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender』私訳)

ここにあるように、ビオスとゾーエーは古代ギリシャ人が語った概念であり、フロイト派ならぬユング派のカール・ケレーニイの著作に次のように書かれている。

ゾーエーはすべての個々のビオスをビーズのようにつないでいる糸のようなものである。そしてこの糸はビオスとは異なり、ただ永遠のものとして考えられるのである。(カール・ケレーニイ『ディオニューソス.破壊されざる生の根源像(Dionysos.Urbilddesunzerst・rbarenLebens)』1976)

このケレーニイの文は、冒頭のニーチェの《永遠にあらんことを、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされてあらんことを》の変奏とさえ言いうるだろう。

『ディオニューソス.破壊されざる生の根源像』という書名にあるように、ディオニソスは、ゾーエー(破壊されざる生)、エロスの神ということになる。とすれば、ディオニソス/アポロンの対立は、エロス/タナトスの対立となるのか。無限の生(ゾーエー)/一回性の生(ビオス)と。

「永遠の生」についてはラカンはこう語っている。

根源的な喪失とはなにか? 「永遠の生の喪失である、それはひどく逆説的だが、性的存在としての出産の刻限に失われる、そのMeiosis(分裂)により」(ラカン『セミネールⅩⅠ』英訳からの私訳)

フロイトはその最晩年の著作(1937年)でーーラカンがフロイトの遺書と呼んだーー、「永遠の生」をphilia 愛=エロスとしている。

エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的本能(欲動;引用者)、エロスと破壊beiden Urtriebe Eros und Destruktionと同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』人文書院 旧訳

このようにしてポール・ヴェルハーゲによって、《生の欲動(エロス)は死を目指し、死の欲動(タナトス)は生を目指す》と書かれることになる(参照:フロイトの『Why War?』における愛と憎悪)。

エロスが死をめざす、という意味は、〈大文字の母〉との融合を目指すということであり、だがそのとき個体は消滅する。エロスは不安にかかわるのだが、その不安とはその消滅の怖れの不安だ。

タナトスが生をめざす、という意味は、エクスタシーの瞬間の個体の消滅から逃れだし、しかしながらつねにエロスの欲動と合体して、ファリックな快楽(性交に代表される)の反復衝動をするということだ。灯火にむれる蛾の、灯りを目ざしてはそれてゆく、その反復運動。(参照:エロスとゆらめく閃光

もちろんこれらの解釈については異論があるだろう。とくにタナトス概念については諸説紛々である。だが、わたくしの書き物において、たとえば〈愛〉という語彙を使用するとき、このヴェルハーゲのフロイト解釈にもとづいて主に叙述している。そしてそれはニーチェにも繋がる、ーーというのは最近いささかどうでもよくなってきたのだが、カボチャ頭くんたちの誤読を惧れるので、いま念押ししておこう。

ここでやや遡って、フロイトの同じ後期でも1920年の著作ーーエロスとタナトス概念がはじめてこの論文で書かれたーー『快感原則の彼岸』におけるプラトンの『饗宴』の引用箇所をその前後も含めて抜き出しておく。

……われわれは科学の領域で性の発生の問題についてわずかしか発見したものをもたないので、この問題は、仮説という光線すらも射し込まない暗闇に比することができるほどである。まったく別の場所で、むろん、われわれはこのような仮説に出くわすことはあるけれども、それは非常に空想的なものである。たしかに科学的な説明というよりは、むしろ一つの神話である。だがそれは、われわれがまさにのぞんでいる一つの条件を満たすものであって、もしそうでなかったら、私はあえてここで引用する勇気をもたなかったであろう。それは、つまり以前の状態を回復するという要求から一つの本能を演繹しているのである。

言うまでもなく私はここでプラトンが『饗宴篇』の中で、アリストファネスを通じて展開させている理論のことをさしている。この理論は、性的衝動の起源のみならず、対象に関するその重要な変型の由来をも論じている。

「つまりわれわれの身体は、もとは現在とおなじにつくられていなかった。それはまったく別物だった。最初に三つの性があった。いまのように男と女だけでなく、この二つの性を結びつけていた第三の性……つまり男女〔おとこおんな〕があった……」この種の人間ではすべてが二重になっていた。つまり四本の手と四本の足、二つの顔、二重の陰部などをもっていた。ところがゼウス神は、あらゆる人間を二つの部分に分けようという気になった。「ちょうど『まるめろ』の実を漬け物にするために真っ二つにするように……こうして全体が二つに断ち切られてしまったため、二つの半分はたがいに憧憬に駆りたてられた。彼らは手と手で抱き合い、合体しようとの望みをいだいて、たがいにひとと絡み合った……」

われわれは、詩人哲学者の暗示にしたがって、生命ある物質は生を享けたさいに、小部分に引き裂かれ、これら小部分はその以来というもの、性的衝動によってふたたび結合しようと努めると、勇んで仮定すべきなのであろうか?(……)

しかし、批判的な考慮から出た数言をつけ加えておく必要があろう。ここに展開した仮定を、果たして確信しているかいないか、また、どの程度まで信じているのかと問う人があるかもしれない。私は自分でも信じていないし、他人にもそれを信じよなどと求めはしないと答えたい。もっと正確にいえば、私がどの程度それを信じているのか分からないのである。確信というような感情的な要素は、ここではまったく問題とするに足りないように思われる。われわれは、ある思考過程に身をまかせ、それがみちびくところまでついて行くことはできるが、それはただ学問的な好奇心からである。いってみれば、悪魔の代弁者として思考の路を追うのだが、だからといって、悪魔に身を売ることにはならない。(……)

以前の状態を回復しようとするのが、現実に本能の一般的な性質であるとすれば、精神生活において多くの事象が快感原則の支配をうけずに成就されることは、あやしむにたりないであろう。この性質はそれぞれの部分的衝動につたえられて、それぞれの場合に応じて発展経路の一定段階にふたたび到達することになるであろう。しかし、これらのすべてのことは、快感原則がまだ支配するにいたらない場合のことであるから、快感原則に対立する必要はないのであって、衝動的な反復現象が快感原則の支配とどのような関係ひあるかは、未だに解決されていない課題である。

われわれは、心的装置の最初の、そしてもっとも重要な機能として、侵入する衝動興奮を「拘束」すること、それを支配する一次過程を二次過程に置き換えること、その自由に流動する備給エネルギーをもっぱら静的な(強直性の)備給に変化させることなどのことをみとめた。(フロイト『快感原則の彼岸』フロイト著作集6 p188-190


2014年11月12日水曜日

きみは惜しむだろうか 季節が晩秋に向かって容赦なく流れ去るのを

きみは恥じるだろうか

ひそかに立ちのぼるおごりの冷感を


ぼくは惜しむだろうか

きみの姿勢に時がうごきはじめるのを


迫ろうとする 台風の眼のなかの接吻

あるいは 結晶するぼくたちの 絶望の

鋭く とうめいな視線のなかで


ーーー 清岡卓行「石膏」より 『氷った焔』所収(1959             


※Gustave Courbet L'origine du monde(ラカン所有の経緯について


いまさらクルーペの「世界の起源」でもないが、ラカンの「裂け目の光のなかに保留されているもの」(対象a)やら「享楽の垣根における欲望の災難[Mesaventure du desir aux haies de la jouissance]」やらの起源のひとつは、この根源的に開いた裂け目にあるには相違ない。


神経症者が、女の性器はどうもなにか君が悪いということがよくある。しかしこの女の性器という気味の悪いものは、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷への入口である。冗談にも「恋愛とは郷愁だ」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女の性器、あるいは母胎であると見ていい。したがって無気味なものとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの、昔なじみのものなのである。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴unは抑圧の刻印である。(フロイト『無気味なもの』著作集3 P350)





……案の定! いったん畑の平面へ降りてから風呂の焚き口へ登る、小石を積んだ短い段々の中ほどに、そこで立ちどまれば顔の高さに、こちらへゆるくかたむいた50センチ×30センチの薄暗いガラスのスクリーンが風呂場の板壁を壊してとりつけられているのだ。剥がした羽目板や新しい角材の残りと大工道具が、物置の脇にたてかけられていた。僕らが並んで位置につくやいなや、僕らの頭をまたいで前へ出る具合に向うむきの若い娘ふたりの下半身が、かしいだスクリーンに現れた。

――この角度がな、Kちゃん、女をもっとも動物的に見せるよ、とギー兄さんは解説した……(大江健三郎『懐かしい年への手紙』




根源的に開いた裂け目について考えるさい、それが子どもと<母>の近親相姦的な二者関係結実を阻止するべく、子どもを象徴的去勢/隔離の次元へと追いこむ、父権的な<法>/<禁止>の干渉からもたらされた産物と理解する安直は退けなければなるまい。この裂け目、「バラバラに寸断された身体」という経験は、あらゆる物事に先だって存在しているのだ。それは死への衝動が産み落としたもの、快楽原則の円滑な運用を停止させる何らかの過剰/トラウマ的な享楽が侵入した結果の所産であり、そして父権的な<法>は――鏡像との想像的同一化とは異なり ――この裂け目を飼い慣らし/安定化する試みのひとつなのである。忘れてはならないのは、ラカンにとって<エディプス>的な父親の<法>とは、突き詰めれば「快楽原則」に服し、それに資するためだけに存在している点である。(ジジェク『厄介なる主体』)


Robert Mapplethorpe

予は節子以外の女を恋しいと思ったことはある。他の女と寝てみたいと思ったこともある。現に節子と寝ていながらそう思ったこともある。そして予は寝た――他の女と寝た。しかしそれは節子と何の関係がある? 予は節子に不満足だったのではない。人の欲望が単一でないだけだ。(……)

余は 女のまたに手を入れて、手あらく その陰部をかきまわした。しまいには 5本の指を入れて できるだけ強くおした。・・・ ついに 手は手くびまで入った (啄木のローマ字日記

「吾れはあく迄愛の永遠性なると云ふ事を信じ度候。」(節子)

ラカン派の用語では、結婚は、対象(パートナー)から“彼(彼女)のなかにあって彼(彼女)自身以上のもの”、すなわち対象a(欲望の原因―対象)を消し去ることだ。結婚はパートナーをごくふつうの対象にしてしまう。ロマンティックな恋愛に引き続いた結婚の教訓とは次のようなことである。――あなたはあのひとを熱烈に愛しているのですか? それなら結婚してみなさい、そして彼(彼女)の毎日の生活を見てみましょう、彼(彼女)の下品な癖やら陋劣さ、汚れた下着、いびき等々。結婚の機能とは、性を卑俗化することであり、情熱を拭い去りセックスを退屈な義務にすることである。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』私訳)

すなわち、世界の起源の「裂け目の光のなかに保留されているもの」が、結婚によって消え去ってしまう。じっくり観察してしまえばなおさらである。


荒木経惟



Méry, l'an pareil en sa course
Allume ici le même été
Mais toi, tu rajeunis la source
Où va boire ton pied fêté.

メリよ、年はひとしく運行を続けて
いまここで、同じ夏を燃え立たせる
しかし、君は泉を若返らせて
祝福される君の足がそこへ水を飲みに行く

ーーーマラルメのメリへの誕生祝の四行詩(愛人メリ・ローランの47回目の誕生日1886 保苅瑞穂訳)


Mery Laurent(マネの愛人、その後、マラルメの愛人)


若かりし世界の起源の持ち主も
年は流れる川と同じ運行を続けて
夏の終りへ向かって容赦なく流れ去る
晩夏もたちまちにして過ぎ去り
楚々として秋は来る
北風に苛らだち西風に雨を感知して
日に日に地表はむくつけきい容貌と変つてくる
ああ母の如くも優しく美しい季節よ! 
いまだ火のない暖炉の中から蟋蟀の細い寂しい唄が聞えてくる


Stéphane Mallarmé et Mery Laurent (1896) par Nadar



2014年11月11日火曜日

血まみれの頭ーー〈隣人〉、あるいは抑圧された〈悪〉

もうその手の話は、わたくしは厭きた。だがそこの〈きみ〉への応答のために最後の「糖果入りの壺」を贈ろう。

(わたしは)小さな愚行やはなはだ大きい愚行がわたしに加えられても、一切の対抗策、一切の防護策を―――従って当然のことながら一切の弁護、一切の「弁明」を禁ずるのである。わたし流の報復といえば、他者から愚かしい仕打ちを受けたら、できるだけ急いで賢さをこちらから送り届けるということである。こうすれば、たぶん、愚かしさの後塵を拝せずにすむだろう。

比喩を使っていうなら、わたしは、すっぱい話にかかりあうことをご免こうむるために、糖果入りのつぼを送るのである。……わたしに何かよからぬことをしてみるがいい。まちがいなく、わたしはそれにたいしてこういう「報復」をする。つまり、わたしはほどなく、その「犯人」に(ときにはその犯行にたいして)わたしの感謝を表明する機会をみつけるのである―――もしくは、その犯人に何かを頼む機会をみつけるのである。この方が、こちらから何かを進呈するよりいんぎんでありうるのだ。(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

以下、すべて引用ですませておく。わたくしはいま忙しいのだ。

 …………
人間存在は、この夜、その単純さの中にすべてを包含しているこの空無である。そこには表象やイメージが尽きることなく豊富にあるが、そのどれ一つとして人間の頭に、あるいは彼の眼前にあらわれることはない。この夜。変幻自在の表象の中に存在する自然の内的な夜。この純粋な自己。そこからは血まみれの頭が飛び出し、あちらには白い形が見える。(…)人は他人の眼を覗き込むとき、この夜を垣間見る。世界の夜を対立の中に吊るす、恐ろしい夜。(ヘーゲル『現実哲学』草稿)

サド(サン=フォン) : 《もしわしが他人から悪を蒙ったら、わしはそれを他人に返す権利、いや、進んでこちらからも悪を働く幸福さえ享有するだろう》 (『悪徳の栄え』マルキ・ド・サド澁澤龍彥訳)

……隣人を倫理的に飼い慣らしてしまうという誘惑に負けてはならない。たとえばエマニュエル・レヴィナスはその誘惑に負けて、隣人とは倫理的責任への呼びかけが発してくる深遠な点だと考えた。レヴィナスが曖昧にしているのは、隣人は怪物みたいなものだということである。この怪物性ゆえに、ラカンは隣人に〈物das Ding〉という用語をあたはめた。フロイトはこの語を、堪えがたいほど強烈で不可解な、われわれの欲望の究極の対象を指す語として用いた。(……)隣人とは、人間のおだやかな顔のすべてから潜在的に垣間見える(邪悪な)物〉である。(ジジェク『ラカンはこう読め』p81

おわかりだろうか? 偽の正義の味方、おろかな猿たちよ、きみたちにも〈隣人〉がいないわけではあるまい?

フロイトが、まるで恐れをなしたかのように、隣人愛の掟がもたらす帰結の前で立ち止まるたびに、浮かび上がってくるもの、それはこの隣人のうちに宿るあの深い悪意の現前にほかならない。ところが、そうであるとすれば、この悪意は私自身のうちにも宿っている。いったいどんなものが、私の享楽の核心であるところのこの私自身のうちの核心以上に、私に近しいというのか? ただし私は、この核心にあえて近づこうとはしない。というのも、私がそれに近づくやいなや――それこそが『文化のなかの居心地悪さ』の意味である――あの測深しがたい攻撃性が現れてくるからであり、私はそれを前にして後ずさりし、それを私自身に向け直すのである。そうすると、この攻撃性は、消え入ってしまった〈法〉にまさに代わって、 〈物〉の限界にあるひとつの境界線を私が踏み越えることを妨げるものに、重さを与えにやってくるのである。 」 (ラカンSVII, 219)
 何よりも毒性が高いのは〈隣人〉という存在、その欲望とみだらな快楽の深淵である。したがって、人間関係を支配するあらゆる法則の究極の目的は、この毒 性を隔離もしくは中和して〈隣人〉を同胞に転じることだ。(他者という、もうひとつの)主体にあるかもしれない毒性をさがすだけでは不十分だ。自己という 主体自体が、その内部の〈大文字の他者〉という深淵に毒性をたたえているのだから。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』p82)

ここにあるように、〈隣人〉とは、悪をなした他人その人ではなく、大文字の〈他人〉である。フロイトを挿入しよう。

ランク(1913年)はちかごろ、神経症的な復讐行為が不当に別の人にむけられたみごとな症例を示した。この無意識の態度については、次の滑稽な挿話を思い出さずにはいられない。それは、村に一人しかいない鍛冶屋が死刑に値する犯罪をひきおこしたために、その村にいた三人の仕立屋のうちの一人が処刑されたという話である。刑罰は、たとえ罪人に加えられるのではなくとも、かならず実行されなければならない、というのだ。(フロイト『自我とエス』著作集6 P288)

おわかりであろうか? きみたちの〈正義〉なるものの根源を。

人間の歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという理由から刑罰が加えられたことはなかったし、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたこともなかった。――むしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りからして刑罰は行なわれたのだ。(ニーチェ『道徳の系譜』 木場深定訳 P70)

攻撃欲動の標的が外部に見当たらなければ、自己破壊に向かうということはあり得る。ナチに拷問された生存者たちが自殺衝動に襲われるように。


…………

想いだしてみよう、奇妙な事実を。プリーモ・レーヴィや他のホロコーストの生存者たちによって定期的に引き起こされることをだ。生き残ったことについての彼らの内密な反応は、いかに深刻な分裂によって刻印されているかについて。意識的には彼らは十分に気づいている、彼らの生存は無意味なめぐり合わせの結果であることを。彼らが生き残ったことについて何の罪もない、ひたすら責めをおうべき加害者はナチの拷問者たちであると。だが同時に、彼らは“非合理的な”罪の意識にとり憑かれる(それは単にそれ以上のようにして)。まるで彼らは他者たちの犠牲によって生き残ったかのように、そしていくらかは他者たちの死に責任があるかのようにして。――よく知られているように、この耐えがたい罪の意識が生き残り者の多くを自殺に追いやるのだ。これが露わにしているのは、最も純粋な超自我の審級である。不可解な審級、それがわれわれを操り、自己破壊の渦巻く奈落へと導く。

 


Recall the strange fact, regularly evoked by Primo Levi and other Holocaust survivors, about how their intimate reaction to their survival was marked by a deep split: consciously, they were fully aware that their survival was the result of a meaningless accident, that they were not in any way guilty for it, that the only guilty perpetrators were their Nazi torturers. At the same time, they were (more than merely) haunted by an irrational feeling of guilt, as if they had survived at the expense of others and were thus somehow responsible for their deathsas is well known, this unbearable feeling of guilt drove many of them to suicide. This displays the agency of the superego at its purest: as the obscene agency which manipulates us into a spiraling movement of selfdestruction.
超自我の機能は、まさにわれわれ人間存在を構成する恐怖の動因、人間存在の非人間的なを途方に暮れさせることにある。この次元とは、ドイツの観念論者が否定性と呼んだものであり、そしてまたフロイトが死の欲動と呼んだものである。現実界のトラウマ的な固い核、――そこから昇華がわれわれを保護してくれるーーその核であるどころか、超自我そのものが現実界を仕切っている仮面なのである。

 


The function of the superego is precisely to obfuscate the cause of the terror constitutive of our beinghuman, the inhuman core of beinghuman, the dimension of what the German Idealists called negativity and Freud called the death drive. Far from being the traumatic hard core of the Real from which sublimations protect us, the superego is itself a mask screening off the Real.
レヴィナスにとって、主体を非中心化する根源的に異質な現実界的〈モノ〉のトラウマ的侵入は、倫理的な〈善〉の〈呼びかけ〉と同じものだ。他方、ラカンにとっては、逆に、原初の“邪悪な〈もの〉”であり、〈善〉のヴァージョンには決して昇華されえない何か、永遠に不安にさせる切り傷のままの何かなのである。こういったわけで、倫理的な呼びかけの出処としての〈隣人〉の飼い馴らしには、〈悪〉の復讐が横たわっている。“抑圧された〈悪〉”は、倫理的呼びかけ自体の超自我の歪曲の見せかけとして回帰する。

 


For Levinas, the traumatic intrusion of the radically heterogeneous Real Thing which decenters the subject is identical with the ethical Call of the Good, while, for Lacan, on the contrary, it is the primordial evil Thing, something that can never be sublated into a version of the Good, something which forever remains a disturbing cut. Therein lies the revenge of Evil for our domestication of the Neighbor as the source of the ethical call: the repressed Evil returns in the guise of the superego's distortion of the ethical call itself.(ZIZEK"LESS THAN NOTHING"私訳)

きみたち仔羊のために穏やかな衣裳をまとったリルケをも引用しておこう。

目に見えるだけではすこしも害にならない人間がいる。僕たちはそういう人間にほとんど気がつかないで、すぐにまた忘れてしまっている。しかし、そういう人間たちがどうにかして目に見えるのではなくて、耳に聞こえると、耳のなかで育ち、いわば孵化し、場合によっては、犬の鼻孔からはいりこむ肺炎菌のように、脳のなかへまで匐い入り、脳髄を食い荒らしながら成長する。

それは隣人である。

僕はひとりぼっちで漂白するようになってから、数えきれないほど多くの隣人を持った。階上の隣人、階下の隣人、右隣りの隣人、左隣りの隣人、あるいは、この種類の隣人を同時に持ったこともある。僕は隣人の物語が書けそうである。大著述になるだろう。、むろんそれは僕が隣人に悩まされた神経衰弱の物語になるだろう。隣人はそのたぐいの生物と同じく、僕たちのある組織内に生じさせる障害によってのみ存在を感じさせるのが特徴である。(リルケ『マルテの手記』)


 さてプリーモ・レーヴィや他のホロコーストの生存者たちの自殺衝動」に戻ろう。きみたちには「死んだ人に申し訳ない」という生存者罪悪感はないのか?そうであるならそれを仔羊の人生という。


一般に外傷関連障害は決して発見しやすいものではない。葛藤を伴うことの少ない天災の場合でさえ、アンケートをとり、訪問〔アウトリサーチ〕しても、なお発見が困難なくらいである。人災の場合になれば、患者は、実にしばしば、誤診をむしろ積極的に受け入れ、長年その無効な治療を淡々と受けていることのほうが普通である。外傷関連患者は治療者をじっと観察して、よほど安心するまで外傷患者であることを秘匿する。

PTSDの発見困難はむろん診療者の側の問題でもある。膵臓疾患の診断の第一は「膵臓が存在することを忘れていないこと」である。それほど膵臓は忘れられやすい臓器だということだが心的外傷でも同じである。多くの外来患者はフラッシュバックなど侵入症状を初めとする外傷関連症状の存否をそもそも聞かれていない。それに怠慢ばかりでなく、心的外傷には、土足で踏み込むことへの治療者側の躊躇も、自己の心的外傷の否認もあって、しばしば外傷関与の可能性を治療者の視野外に置く。

しかし患者側の問題は大きい。それはまず恥と罪の意識である。またそれを内面の秘密として持ちこたえようとする誇りの意識である。さらに内面の秘密を土足で入り込まれたくない防衛感覚である。たとえば、不運に対する対処法として、すでに自然に喪の作業が内面で行われつつあり、その過程自体は意識していなくても、それを外部から乱されたくないという感覚があって、「放っておいてほしい」「そっとしておいてほしい」という表現をとる。

天災においてさえ、恥の意識はありうる。「他の人たちは我慢しているのに」「生きのびただけでも感謝するべきなのに」「私の弱さをさらけだしたくない」など。「死んだ人(家をなくした人)に申し訳ない」という生存者罪悪感もある。たとえば周囲が皆倒壊している中で一軒だけ倒壊しなかった家の人の持つ罪の意識である。性的被害や児童虐待においては、なおさらのことである。(中井久夫「トラウマとその治療経験」)


ヤスパースは《「形而上の罪」として、アドルノがいったようなことを述べている。たとえば、ユダヤ人で強制収容所から生還した人たちは、ある罪悪感を抱いた。彼らは自分が助かったことで、死んだユダヤ人に対して罪の感情を抱く、まるで自分が彼らを殺したかのように。それは、ほとんどいわれのないことだから、形而上的だというのである。》


おわかりだろうか、レヴィナスの寝言があまりにも寝言すぎるのが。あるいはヤスパースの「形而上の罪」の厚顔無恥な寝言ぶりを。

ヤスパースは戦後まもない講演(『罪責論』)において、戦争責任を、刑事的責任、政治的責任、道徳的責任、形而上的責任の四種類に分けている。

第一に、「刑事上の罪」、これは戦争犯罪――国際法違反を意味する。これはニュールンベルク裁判で裁かれている。

第二に、「政治上の罪」、これは「国民」一般に関係する。《近代国家において誰もが政治的に行動している。少なくとも選挙の際の投票または棄権を通じて、政治的に行動している。政治的に問われる責任というものの本質的な意味から考えて、なんびとも、これを回避することは許されない。政治に携わる人間は後になって風向きが悪くなると、正当な根拠を挙げて自己弁護するのが常である。しかし、政治的行動においてはそういった弁護は通用しない》(橋本文夫訳)

つまり、ファシズムを支持した者だけでなく、それを否定した者にも政治的責任がある。《あるいはまた「災禍を見抜きもし、予言もし、警告もした」などというが、そこから行動が生まれたのでなければ、しかも行動が功を奏したのでなければ、そんなことは政治的に通用しない》。

第三に、「道徳上の罪」、これはむしろ、法律的には無罪であるが、道徳的には責任があるというような場合である。たとえば、自分は人を助けられるのに、助けなかった、反対すべき時に反対しなかったというときがそうである。もちろん、そうすれば自分が殺されるのだから、罪があるとはいえない。しかし、道徳的には責任がある。なぜなら、なすべきこと(当為)を果たさなかったからである。

最後に、「形而上の罪」として、アドルノがいったようなことを述べている。たとえば、ユダヤ人で強制収容所から生還した人たちは、ある罪悪感を抱いた。彼らは自分が助かったことで、死んだユダヤ人に対して罪の感情を抱く、まるで自分が彼らを殺したかのように。それは、ほとんどいわれのないことだから、形而上的だというのである。

この講演はほとんど知られていないが、戦後ドイツの戦争責任への処し方を規定したものである。こうした区別は、それらがつねに混同されている現状から見て不可欠である。しかし、ここに幾つかの問題がある。ヤスパースは、まるでナチズムがたんに精神的な過誤であり、それを哲学的に深く反省すれば片づくかのように考えている。そこには、ナチズムをもたらした社会的・経済的・政治的諸原因への問いが欠落している。ヤスパースは、カントのいう道徳性を「道徳的な罪」のレベルにおき、「形而上の罪」をより高邁なものであるかのように見なした。しかし、カントのいう道徳性は根本的にメタフィジカルである。同時に、それは「責任」を離れて、「自然」(因果性)を徹底的に探求すべきであることと矛盾しないのだ。(『トランスクリティーク』P190の註より)

おわかりだろうか、ヤスパースのなんたる寝言カント解釈を。きみたち猿の〈正義〉は、このヤスパースをさらに四周ほど寝言にしたものだ。「寝言は寝てから言え」!

《耐え難いのは重大な不正などではなく凡庸さが恒久的につづくことであり、しかもその凡庸は、それを感じている彼自身と別のものではない。》(ドゥルーズ『シネマ Ⅱ』)

カントはその『純粋理性批判』において、否定判断と無限判断という重要な区別を導入した。

「魂は必滅である」という肯定文は二通りに否定できる、述語を否定する(「魂は必滅でない」)こともできるし、否定的述語を肯定する(「魂は不滅である」)こともできる。

この両者の違いは、スティーヴン・キングの読者なら誰でも知っている、「彼は死んでいない」と「彼は不死だ」の違いとまったく同じものだ。無限判断は、「死んでいる」と「死んでいない」(生きている)との境界線を突き崩す第三の領域を開く。「不死」は死んでいるのでも生きているのでもない。まさに怪物的な「生ける死者」である。

同じことが「人でなし」にもあてはまる。「彼は人間ではない」と「彼は人でなしだ」とは同じではない。「彼は人間ではない」はたんに彼が人間性の外にいる、つまり動物か神様であることを意味するが、「彼は人でなしだ」はそれとはまったく異なる何か、つまり人間でも、人間でないものでもなく、われわれが人間性と見なしているものを否定しているが同時に人間であることに付随している、あの恐ろしい過剰によって刻印されているという事実を意味している。おそらく、これこそがカントによる哲学革命によって変わったものである、という大胆な仮説を提出してもいいだろう。

カント以前の宇宙では、人間は単純に人間だった。動物的な肉欲や神的な狂気の過剰と戦う理性的存在だったが、カントにおいては、戦うべき過剰は人間に内在しているものであり、主体性そのものの中核に関わるものである(だからこそ、まわりの闇と戦う<理性の光>という啓蒙主義のイメージとは対照的に、ドイツ観念論における主体性の核の隠喩は<夜>、<世界の夜>なのだ)。

カント以前の宇宙では、狂気に陥った英雄は自らの人間性を失い、動物的な激情あるいは神的な狂気がそれに取って代わる。カントにおいては、狂気とは、人間存在の中核が制約をぶち破って爆発することである。(ジジェク『ラカンはこう読め』)

2014年11月7日金曜日

「諸君、それは女狂い、”可能なる昇華”以外の何であろう」

このブログは今後(すくなくとも当面は)、バッハあるいは祈りの音楽の話かエロの話しか書きません。おそらく大方の中庸な方々には縁がないことのメモに終始します。要するに数少ない読者のみなさんですが、その方々も少なくとも二週間ぐらいはーー二カ月か二年ぐらいかもーー明けてみないほうがいいと思います。しばらくは、あるひとりの若い女性への私信みたいなものです。彼女の名はアプリコットちゃんです。


ーーというわけでバッハ頭になってしまったので、軌道修正できるかどうかは別にして、ハゲマシのために以下の文を貼り付けておく。

そもそもバッハというのは、高橋悠治によれば性的においがぷんぷんする音楽なのであり、カンタータなどの祈りの音楽だって、そこからエロスのにおいを嗅がないヤツラってのは不感症なんじゃないか。

バッハはフランス組曲、イギリス組曲、パルティータなど組曲の6曲セットを作っている。当時のドイツは、ヨーロッパの田舎だった。文化の中心パリの流行は、周辺地の音楽家の手で古典性をおびる。それらはもう踊られるためのものではなく、むしろ音楽語法を身に着けるためのモデルであり、ヨーロッパ中心の音楽世界地図でもあった。その装飾的な線の戯れにはどこか、かつての性的身ぶりの残り香がある。若いバッハは、入念に粉を振った最新の鬘をつけ、若い女を連れ、パイプをくわえて街をそぞろ歩く伊達男だったと言われる。音楽がまだ化石になっていないのも、そこにただようエロティシズムの記憶のせいかもしれない。(踊れ、もっと踊れ  高橋悠治





乱交パーティ用の音楽だぜ。

バッハの最も崇高なコラールのひとつといわれるBWV12の2曲目=ロ短調ミサの合唱の起源は次の通り。→ バッハカンタータBWV12とヴィヴァルディPiango, gemo, sospiro e peno


(ヒエロニムス・ボス「快楽の園」)


…………

芸術家が制作――すなわち自分の空想の所産の具体化――によって手に入れる喜び、研究者が問題を解決し真理を認識するときに感ずる喜びなど、この種の満足は特殊なもので、将来いつかわれわれはきっとこの特殊性を無意識真理の立場から明らかにすることができるであろうが、現在のわれわれには、この種の満足は「上品で高級」なものに思えるという比喩的な説明しかできない。けれどもこの種の満足は、粗野な一次的欲動の動きを堪能させた場合の満足に比べると強烈さの点で劣り、われわれの肉体までを突き動かすことがない。(フロイト『文化への不満』フロイト著作集3 P444)


「上品で高級な満足」に没頭するのもいいが、やっぱり「

一次的欲動の動き」も堪能もしとかないとな。


……さまざまの欲動は、満足の条件をずらせたり、他の方法をとるよう余儀なくされる。これは、大部分の場合には、われわれに周知の(欲動目標)昇華と一致するが、まだ昇華とは区別されうる場合もある。欲動の昇華は、文化発展のとくにいちじるしい特色の一つで、それによってはじめて、学問的・芸術的・イデオロギー的活動などの高級な心理活動が文化生活の中でこれほど重要な役割を占めることが可能になっている。第一印象にしたがうかぎりわれわれは、「昇華こそはそもそも文化に無理強いされて欲動がたどる運命なのだ」と主張したい誘惑を押えかねる。けれども、この件はもう少し慎重に考えたほうがよい。そして最後にーーしかもこれこそ一番大事と思われるがーー、文化の相当部分が欲動断念の上にうちたてられており、さまざまの強大な欲動を満足させないこと(抑圧、押しのけ、あるいはその他の何か?)がまさしく文化の前提になっていることは看過すべからざる事実である。この「文化のための断念」は人間の社会関係の広大な領域を支配している。そして、これこそが、いかなる文化も免れえない文化にたいする敵意の原因であることは、すでにわれわれが見てきたところである。この「文化のための断念」は、われわれの学問にもさまざまの困難な問題を提起するであろうし、われわれにとしては、この点に関し多くのことを解明しなければならない。ある欲動にたいし、その満足を断念させることなどがどうしてできるのかを理解するのは容易ではない。それに、欲動にその満足を断念させるという作業は、かならずしも危険を伴わないわけではなく、リビドーの管理配分の上からいって、その補償をうまく行わないと重大な精神障害の起こる恐れがある。(『文化への不満』p458)

このあとエロスとタナトスの議論が展開されていく。

人類の共同生活は、外部からの苦難によって生まれた労働への強制と、愛の力 ――男性の側からいえば性欲の対象である女性を、そして、女性の側からいえば自分の分身である子供を、手許にとどめておこうとする愛の力 ――という二重の楔によって生まれたのだ。すなわち、エロス(愛)とアナンケ(宿命)は、人間文化の生みの親ともなったのだ。(『文化への不満』P460)

だがここではその議論のいっそうの展開を追うことはやめ、冒頭の「昇華」の話に留まることにする。

フロイトによれば、芸術も学問も政治(イデオロギー)も、欲動断念によるーーその代表的なものは性欲動だーー「昇華」であり、「昇華」で胡麻化してもいずれ始原の欲動に支配されるか、胡麻化し続けていたら精神障害になるかもな、ということを言っている。最も「高級な」昇華と思われている芸術や学問も、オマンコ(あるいはオチンチン)の「仮面」だよ、と。いわゆる「スフィンクスの謎」探求の仮装なのだ。

スフィンクスの謎とは、女性性、父性、性関係に関してであり、フロイト的に言えば、母のジェンダー(女のジェンダー)、父の役割、両親の間の性的関係。

「ママにもおちんちんあるの?」
「もちろんよ、なぜ?」
「ただそう思っただけなの」
(……)
あるとき彼は就寝前に脱衣するのを固唾をのんで見まもる。母親が尋ねる。「何をそんなに見ているの?」
「ママにもおちんちんがあるかどうか、見ているだけよ」
「もちろんあるわよ。あなた知らなかったの?」
「うん。ママは大きいから、馬みたいなおちんちんをもっていると思ったの」(フロイトの『ある五歳男児の恐怖症分析』(少年ハンス(フロイトとラカン)

より一般的に言えば、Das ewig Weibliche (永遠に女性的なるもの)、Pater semper incertuus est( 父性は決して確かでない)、Post coftum omne animal tristum est (性交した後どの動物でも憂鬱になる)の三つ。ラカンの変奏なら、La Femme n'existe pas, 〈女〉は存在しない、L'Autre de l'Autre n'existe pas, 〈他者〉の〈他者〉は存在しない、Il n'y a pas de rapport sexuel,性関係はない。

ここから逃れて昇華による代償満足に専念してても無駄さ。いずれ露顕してくるよ。

サリヴァンは、フロイトがあれほど讃美した昇華を無条件な善ではないとして、それが代償的満足である以上、真の満足は得られず、つのる欲求不満によって無窮動的な追及に陥りやすいこと、また「わが仏尊し」的な視野狭窄に陥りやすいことを指摘している。それは、多くの創造の癒しが最後には破壊に終る機微を述べているように思われる。(中井久夫 「「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて」『アリアドネからの糸』所収)

晩年のヴァレリーの「女狂い」ってのも、ようやく最近知ることができるようになった。


外傷は破壊だけでなく、一部では昇華と自己治癒過程を介して創造に関係している。先に述べた詩人ヴァレリーの傷とは彼の意識においては二十歳の時の失恋であり、おそらくそれに続く精神病状態である(どこかで同性愛性の衝撃がからんでいると私は臆測する)。二十歳の危機において、「クーデタ」的にエロスを排除した彼は、結局三十年を隔てて五十一歳である才女と出会い、以後もの狂いのようにエロスにとりつかれた人になった。性のような強大なものの排除はただではすまないが、彼はこの排除を数学をモデルとする正確な表現と厳格な韻律への服従によって実行しようとした。それは四十歳代の第一級の詩といして結実した。フロイトならば昇華の典型というであろう。しかし、彼の詩が思考と思索過程をうたう下にエロス的ダブルミーニングを持って、いわば袖の下に鎧が見えていること、才女との出会いによって詩が書けなくなったことは所詮代理行為にすぎない昇華の限界を示すものであり、昇華が真の充足を与えないことを物語る。彼の五十一歳以後の「女狂い」はつねに片思い的で青年時の反復である(七十歳前後の彼が一画家に送った三千通の片思い的恋文は最近日本の某大学が購入した)。他方、彼の自己治癒努力は、生涯毎朝書きつづけて死後公開された厖大な『カイエ』にあり、彼はこれを何よりも重要な自己への義務としていた。数学の練習と精神身体論を中心とするアフォリズム的思索と空想物語と時事雑感と多数の蛇の絵、船の絵、からみあったPとV(彼の名の頭文字であり男女性器の頭文字でもある)の落書きが「カイエ」には延々と続く。自己治癒努力は生涯の主要行為でありうるのだ。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収 P111-112)

たとえば西脇順三郎の晩年の詩だって、《エロス的ダブルミーニング》の詩ばかりさ。『近代の寓話』に《形而上学的神話をやつている人々と/ワサビののびる落合でお湯にはいるだけだ》とあるのを西脇順三郎自ら、《これは実は「猥談」をしている同僚のことだ》と解説したそうだが。

《鶏頭の酒を/真珠のコップへ/つげ/いけツバメの奴/野ばらのコップへ。/角笛のように/髪をとがらせる/女へ/生垣が/終わるまで》(西脇順三郎)

ーーこんなのワカメ酒に決まってるだろ、そら、いけよツバメくん、野ばらの生垣が終わる処まで啜り舐めゆけ、ほら、真珠の栗と栗鼠めがけて! 嘴は「森林限界を越えて火口へと突き進む」(俊 『女へ』)。石灰質だらけの死火山と侮っていても突然激烈に噴火することがあるからな、御嶽山のように。

でも、あそこには実は「原初的な空無」があるのさ

昇華(=崇高化)はふつう非・性化と同じことだと考えられている。非・性化とはすなわち、リビドー備給を、基本的な欲動を満足させてくれそうな「野蛮な」対象から、「高級な」「洗練された」形の満足へと置き換えることである。われわれは女に直接に襲いかかる代わりに、ラヴレターや詩を書いたりして誘惑し、征服する。敵を気絶するまでぶん殴る代わりに、その敵を全面否定するような批判を含んだ論文を書く。通俗的な精神分析的「解釈」によれば、詩を書くことは肉体的欲求を満足させるための崇高にして間接的な方法であり、精巧な批判を書くことは肉体的攻撃衝動の崇高な方向転換ということになろう。 ラカンの出発点は、直接的で「野蛮な」満足とされているものの対象ではなく、その反対、すなわち原初的な空無である。原初的な空無とは、そのまわりを欲動がぐるぐる回っている空無であり、<物自体 the Thing>(フロイト的な das Ding。不可能にして獲得不能な享楽の実体)の形のない形としてポジティヴな存在形態をとる欠如である。崇高な対象とはまさしく「<物自体>の気高さまで高められた対象」である。(ジジェク『斜めから見る』)

このジジェク=ラカンの説く「原初的空無」ーーフロイト的な性欲とかオマンコというのじゃなくて、ーーがラカン派的には肝なのだろう。

原初の喪失とはなにか? 永遠の生の喪失、それは、ひどく逆説的だが、性的存在としての出産の刻限に失われる。Meiosis(分裂)によるのだ。(ラカン「セミネールⅩⅠ」私訳ーーEncore, encore ! --快・不快原理の彼岸=善悪の彼岸

まあでも、いまはそんなややこしい話はやめとくよ、ここでは杏子と真珠貝の話に収斂しよう。






《夕顔のうすみどりの/扇にかくされた顔の/眼(まなこ)は李(すもも)のさけめに/秋の日の波さざめく》(西脇)




川の瀬の岩へ
女が片足をあげて
「精神の包皮」
を洗っている姿がみえる
「ポポイ」
わたしはしばしば
「女が野原でしゃがむ」
抒情詩を書いた
これからは弱い人間の一人として
山中に逃げる

ーー吉岡実「夏の宴」--西脇順三郎先生に)


《ああ すべては流れている/またすべては流れている /ああ また生垣の後に /女の音がする》(西脇)

ーーこれ読んで、アンモニア臭感じない連中を不感症っていうんだよ


《みんなは盗み見るんだ/たしかに母は陽を浴びつつ/ 大睾丸を召しかかえている/……/ぼくは家中をよたよたとぶ/大蚊[ががんぼ]をひそかに好む》(吉岡実「薬玉」)



亜麻色の蜜蜂よ きみの針が
いかに細く鋭く命取りでも、
(……)
刺せ この胸のきれいな瓢を。
(……)
ほんの朱色の私自身が
まろく弾む肌にやってくるように!

素早い拷問が大いに必要だ。

 ーーヴァレリー「蜜蜂」中井久夫訳




2014年10月23日木曜日

仕立屋の処刑

もうやめようと思ったのだが、、またニーチェとフロイトの仲良しぶりにめぐりあってしまった。意図せざる遭遇だね、前記事で、「エロス的祝祭」=攻撃欲動をめぐって書いて、祝祭って言えばやっぱりニーチェだな、と『道徳の系譜』第二論文眺めてたら、フロイトの鍛冶屋と仕立屋の話に当ってしまった。

ランク(1913年)はちかごろ、神経症的な復讐行為が不当に別の人にむけられたみごとな症例を示した。この無意識の態度については、次の滑稽な挿話を思い出さずにはいられない。それは、村に一人しかいない鍛冶屋が死刑に値する犯罪をひきおこしたために、その村にいた三人の仕立屋のうちの一人が処刑されたという話である。刑罰は、たとえ罪人に加えられるのではなくとも、かならず実行されなければならない、というのだ。(フロイト『自我とエス』著作集6 P288)

人間の歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという理由から刑罰が加えられたことはなかったし、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたこともなかった。――むしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りからして刑罰は行なわれたのだ。(ニーチェ『道徳の系譜』 木場深定訳 P70)

ーーで、以前はどうして気づかなかったんだろ?
そもそも本なんてものは、まともに読んでないのさ
やっぱり三度か四度程度読むだけじゃダメなんじゃないか

読むことを技術として稽古するためには、何よりもまず、今日ではこれが一番忘れられているーーそしてそれだから私の著作が『読みうる」ようになるまではまだ年月を要するーーひとつの事だ必要だ。――そのためには、読者は牛になってもらわなくてはならぬ。ともかく「近代人」であっては困るのだ。そのひとつの事というのはーー反芻することだ……(道徳の系譜・序 八節)

で、「新自由主義」の二十一世紀人
ーーイデオロギー的にはみなさんイギリス人だからな、
《人間は幸福をもとめて努力するのではない。
そうするのはイギリス人だけである》(ニーチェ『偶像の黄昏』12番)ーー、
幸福をもとめるのに忙しくて、
牛になることなんてできるわけないだろ。

「新自由主義はわれわれに最悪のものを齎した」(Paul Verhaeghe
《われわれの時代、ひとびとはこんなに自由で、
こんなに無力であることはなかった》

ーー眠る暇さえないんじゃないか。

忙しい人間に文学、つまり、本を読むことの必要などない筈であって、それでも教養が身に付けたいという種類のいじらしい考えでいても、そうしたせかせかした気持で人が書いた言葉など楽しめるものではない。仮に本当に教養が身に付けたいのであっても、そんなに忙しいならば、又、教養というのが精神を快活にするものであるならば、その間に眠った方が体にも、精神にもよさそうである。(吉田健一『文学の楽しみ』)

あきらめたほうがいいぜ、「教養」なんて。

私は読書する閑人をにくむ。
もう一世紀、読者であったならばーー
精神そのものが悪臭を放つであろう。(ツァラトゥストラⅠ)

もう一世紀経ってるぜ。

早朝、夜の明けがた、すべてがすがすがしく、
自分の力も曙光の中にあるのに、
本なんか読むことーー
それを私は罪悪と呼ぶ! (この人を見よ)


2014年10月22日水曜日

攻撃欲動はタナトスではなくエロスである

攻撃欲動はタナトスではなくエロスであるという仮説を立ててみよう。

まずはタナトス(死の欲動)をめぐって記述する。たとえば、ジジェクは次のように言っている、

フロイトが死の欲動の考え方にて目指していたものーーより正確にいえば、フロイト自身が彼の発見の真の重大性に盲目で気づいていなかった核心的な側面――は、ヘーゲルの「否定性」の非-弁証的な核、止揚や理想化のどんな動きもなしに反復される純粋な欲動である。(私訳)

what Freud was aiming at with his notion of death drive—more precisely, the key dimension of this notion to which Freud himself was blind, unaware of the full significance of his discovery—is the “non‐dialectical” core of Hegelian negativity, the pure drive to repeat without any movement of sublation or idealization.(Zizek“LESS THAN NOTHING”2012)
欲動は心理学とはまるで関係がない。死の欲動(そして欲動とは、まさに死の欲動である)は、死や破壊にやっきになる心的な(あるいは生物学的な)ものではない、ーーラカンがくり返し強調しているように、死の欲動は存在論的な概念である。そして死の欲動の正しく存在論的な側面は、考えるのにひどく困難なものだ。フロイトは、Trieb(欲動)を、生物学と心理学のあいだ、あるいは自然と文化のあいだに位置する限定された概念として定義した。――心的表象と通してのみ知られる自然な力として。しかし、われわれはここからいっそう歩みを進め、フロイトをもっとラディカルに読まねばならない。

The drive has nothing whatsoever to do with psychology: the death drive (and the drive as such is the death drive) is not a psychic (or biological) striving for death and destruction—as Lacan emphasizes repeatedly, the death drive is an ontological concept, and it is this properly ontological dimension of the death drive which is so difficult to think. Freud defined Trieb (drive) as a limit‐concept situated between biology and psychology, or nature and culture—a natural force known only through its psychic representatives. But we should take a step further here and read Freud more radically(同上)

これはドゥルーズがすでに『マゾッホとサド』や『差異と反復』で言っていることだ。


まず『差異と反復』から手元にある英訳のまま抜き出そう。


Eros and Thanatos are distinguished in that Eros must be repeated, can be lived only through repetition, whereas Thanatos (as transcendental principle) is that which gives repetition to Eros, that which submits Eros to repetition. Only such a point of view is capable of advancing us in the obscure problems of the origin of repression, its nature, its causes and the exact terms on which it bears. For when Freud shows -beyond repression 'properly speaking', which bears upon representations -the necessity of supposing a primary repression which concerns first and foremost pure presentations, or the manner in which the drives are necessarily lived, we believe that he comes closest to a positive internal principle of repetition. (Gilles Deleuze“Difference and Repetition” Translated by PauiPatton)

※上の英訳における“transcendental principle”は仏原文では“ principe transcendantal”になっていることに注意しておこう。


この『差異と反復』の一年前に上梓された『マゾッホとサド』にはこうある。


快感原則はすべてに支配権をふるいはするが、それを統禦するものではないというべきなのだ。快感原則に例外はないが、その原則には還元しがたい残滓が存在するのである。快感原則に逆らうものは何もないが、その原則の外部にあるもの、異質な何ものかーーつまり彼岸……が存在するということなのである。(……)

まず、一領域を統轄するものを人は原則と呼ぶ。その場合は、原則とは経験的な原理または法である。かくして快感原則は、<エス>にあって心的生活を統轄する(例外なしに)。だが、その領域を原則に従属せしめるものが何かを知ることは、まったく別の問題なのである。それとは違った別の原理、次元が一段上の原則が必要であり、それが、経験的原理へと領域が従属する必然性を説明することになるのだ。超越的とはこの別の原理のことである。快感は、心的生活を統轄する限りにおいて原則なのである。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳)

 ーー今仏原文を探し出せないでいるのだが、『差異と反復』においてタナトスが“transcendental”とされ、蓮實重彦訳の『マゾッホとサド』では、「超越的」とある。これはおそらく誤訳ではないか。

「超越論的」とは、あらゆる(可能な)経験の条件に関わるということである。付言すれば、 内在的な思考を貫こうとするドゥルーズ哲学の文脈においてはとりわけ、「超越論的」 (transcendantal)と「超越的」(transcendent)の二つの形容詞を混同しないことは重要である。後者が、 経験しうるものの彼方にあるという意味でまさに超越的なのに対し、 前者は、 経験を根底か ら規定しつつも経験と同じレベルに位置するという意味で、内在的とみなしうるものである。(箭内 匡 『映像について何を語るか -ジル・ドゥルーズ『シネマ』をめぐる考察- 』)

だが誤訳云々はいまはどうでもよろしい。ここではタナトスは超越論的であるものとして話をすすめる。


冒頭に掲げたジジェクの「死の欲動」の捉え方とドゥルーズのそれとの同一性は、手早く言えば、次の文に現われる。


エロスとタナトスは二つの相反する欲動ではない。それらは競合し、(エロス化されたマゾヒズムとしての)二つの力を結合させるものではない。ただ一つの欲動、リビドーがあるだけであり、そのリピドーはただひたすら享楽を追い求める。(ドゥルーズ『差異と反復』英訳からの私訳――「権力への意志Wille zur Macht」と「死の欲動Thanatos」より)

eros and thanatos are not two opposite drives that compete and combine their forces (as in eroticized masochism); there is only one drive, libido, striving for enjoyment(Jouissance)

ただしジジェクは《死の欲動の正しく存在論的な側面》とし、ドゥルーズはタナトスは《超越論的》と言う。

ここで「哲学」にはまったく詳しくないわたくしは、「超越論的」をめぐって長年考えてきた代表的な日本の思想家柄谷行人にお出まし願うことにする。


ハイデガーは経験的なレベルと超越論的なレベルのカント的区別を、存在的と存在論的の区別として言い換え、まるで彼がそれを初めて見出したかのように強調する。また、経験的自我(存在者)に対して、無=存在であるところの超越論的自我を強調する。だが、彼は「疑う私」、共同体と共同体の「間」にあるような外部的実存については語らない。ハイデガーのいう現存在は同時に本来的に共同存在 ―――彼にとっては民族を意味する ―――である。ここから、疑う存在=単独的な実存は出てくる余地がない。

あえて存在論のタームで語るならば、われわれはデカルトの懐疑から次のように存在論を見出すべきである。コギト(=我疑う)は、システム間の「差異」の意識であり、スムとは、そうしたシステムの間に「在る」ことである。哲学によって隠蔽されるのは、ハイデガーがいうような存在者と存在の差異ではなくて、そのような超越論的な「差異」あるいは「間」なのであり、ハイデガー自身がそれを隠蔽したのである。ハイデガーは、カントの超越論的( transcendental)な批判を、深みに向かう垂直的な方向において理解する。しかし、それは同時に、いわば横断的( tramsversal)な方向において見られねばならない。そして、私はそれを〈 transcritique〉と呼ぶのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』P150)

というわけで、「存在論的」とは「超越論的」なものと、とりあえずしておこう。

今思えばカントの超越論的な次元に辿りついたとき、私は哲学とは何たるかを間違いなく初歩的なレヴェルでしか理解してなかったのだ、と思いました。つまり、私は哲学が一種の誇大妄想的な企て(megalomaniac enterprise) ――ほら、「世界の基本的な構造を理解しましょう」というたぐいのものです――ではないという重要なポイントを理解したとき、哲学はそんなものではないとわかったのです。(……)

哲学は誇大妄想的なものではないと私が知ったのは、愚直(naive)な科学者から「われわれが合理的な仮説にもとづいた厳然たる現実を扱っているのに対して、君たち哲学者は単にあらゆる事物の構造を夢見ているだけではないのかね」というありがちな反論を受けたときでした。そのとき、哲学はある意味で科学より批判的で、より用心深くさえあるのだということに気づきました。哲学はより初歩的な疑問さえ投げかけます。例えば、科学者がある問いにアプローチする際、哲学のポイントは、「万物の構造は何か」ではなく、「その問いを定式化するために科学者がすでに前提としなければならない概念とは何なのか」ということです。(スラヴォイ・ジジェク『ジジェク自身によるジジェク』私訳)

ここでもう一度、柄谷行人から引こう。

超越論的とは、無としての働き(存在)を見いだすという意味で、存在論的(ハイデガー)である。同時に、それは「意識されない」構造を見るという意味では、精神分析的あるいは構造主義的である。(『トランスクリティーク』P59)

さて「超越論的」談義はこのくらいにして、死の欲動に戻るとすれば、ドゥルーズとジジェクの解釈によるタナトスとは、実は「死なない」欲動、永遠の反復運動(永劫回帰)である。

同一的な規則を前方に想定するような行為は「想起」(キルケゴール)にほかならないが、そうでない行為、規則そのものを創りあげてしまうような行為は、「反復」または「永劫回帰」とよばれる。(柄谷行人『探求Ⅱ』)

死の欲動を攻撃欲動やら破壊欲動と誤認してはならない。

フロイトの「死の欲動」(……)。ここで忘れてはならないのは「死の欲動」は、逆説的に、その正反対のものを指すフロイト的な呼称だということである。精神分析における死の欲動とは、不滅性、生の不気味な過剰、生と死、生成と腐敗という(生物的な)循環を超えて生き続ける「死なない」衝動である。フロイトにとって、死の欲動とはいわゆる「反復強迫」とは同じものである。反復強迫とは、過去の辛い経験を繰り返したいという不気味な衝動であり、この衝動は、その衝動を抱いている生体の自然な限界を超えて、その生体が死んだ後まで生き続けるようにみえる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

だが、もしそうであるなら、つまり死の欲動が攻撃欲動でないなら、攻撃欲動はエロスなのだろうか。もっともラカンはセミネールⅦでは、次のように言っていることをここで挿入しておこう。

欲動そのものは、そして欲動そのものとは破壊欲動なのだが、そのかぎりにおいて、非生命体〔無機物、inanimé〕への回帰への傾向の彼岸になくてはならない。(Lacan S7)

死への回帰への傾向の〈彼岸〉といっている。すなわち欲動は死への回帰ではない、と言っているとしてよいだろう。

だがここではこのラカンの言葉に囚われずに、再度素朴な問いを発してみよう。

攻撃欲動が、《快感原則はすべてに支配権をふるいはするが、それを統禦するものではないというべきなのだ。快感原則に例外はないが、その原則には還元しがたい残滓》であるタナトスでないなら、攻撃欲動はエロスでありえることはないか、と。
バタイユのエロスと暴力をめぐる論を想起しないでもないが、ここではもっと穏やかに、わが国の精神科医中井久夫を引こう。

行動化自体にもまた、少なくともその最中は自己と自己を中心とする世界の因果関係による統一感、能動感、単一感、唯一無二感を与える力がある。行動というものには「一にした全」という性格がある。行動の最中には矛盾や葛藤に悩む暇がない。時代小説でも、言い争いの段階では話は果てしなく行きつ戻りつするが、いったん双方の剣が抜き放たれると別のモードに移る。すべては単純明快となる。行動には、能動感はもちろん、精神統一感、自己統一感、心身統一感、自己の単一感、唯一無二感がある。さらに、逆説的なことであるが、行動化は、暴力的・破壊的なものであっても、その最中には、因果関係の上に立っているという感覚を与える。自分は、かくかくの理由でこの相手を殴っているのだ、殺すのだ、戦争を開始するのだ、など。時代小説を読んでも、このモードの変化とそれに伴うカタルシスは理解できる。読者、観客の場合は同一化である。ボクサーや球団やサッカーチームとの同一化が起こり、同じ効果をもたらすのは日常の体験である。この同一化の最中には日常の心配や葛藤は一時棚上げされる。その限りであるが精神衛生によいのである。
行動化は集団をも統一する。二〇〇一年九月十一日のWTCへのハイジャック旅客機突入の後、米国政府が議論を尽くすだけで報復の決意を表明していなければ、アメリカの国論は乱れて手のつけようがなくなっていたかもしれない。もっとも、だからといって十月七日以後のアフガニスタンへの介入が最善であるかどうかは別問題である。副作用ばかり多くて目的を果たしたとはとうてい言えない。しかし国内政治的には国論の排他的統一が起こった。「事件の二週間以内に口走ったことは忘れてくれ」とある実業家が語っていたくらいである。すなわち、アメリカはその能動性、統一性の維持のために一時別の「モード」に移行したのである。

DVにおいても、暴力は脳/精神の低い水準での統一感を取り戻してくれる。この統一感は、しかし、その時かぎりであり、それも始まりのときにもっとも高く、次第に減る。戦争の高揚感は一ヶ月で消える。暴力は、終えた後に自己評価向上がない。真の満足感がないのである。したがって、暴力は嗜癖化する。最初は思い余ってとか論戦に敗れてというそれなりの理由があっても、次第次第に些細な契機、ついにはいいがかりをつけてまでふるうようになる。また、同じ効果を得るために次第に大量の暴力を用いなければならなくなる。すなわち、同程度の統一感に達するための暴力量は無限に増大する。さらに、嗜癖にはこれでよいという上限がない。嗜癖は、睡眠欲や食欲・性欲と異なり、満たされれば自ずと止むという性質がなく、ますます渇きが増大する。

ちなみに、賭博も行動化への直行コースである。パチンコはイメージとも言語化とも全く無縁な領域への没入であるが、パチンコも通常の「スリル」追求型の賭博も、同じく、イメージにも言語化にも遠い。(中井久夫「「踏み越え」について」『徴候・記憶・外傷』所収pp311-313)

そもそも人間の怒りや攻撃は、動物にはない不能感と無力感の表現であるとはかねてより語られてきた。

The anger and aggression that often accompany it are always expressions of impotence and helplessness that are unknown to animals. Animals have instincts, not drives. (Paul Verhaeghe”Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE”)

フロイトの破壊欲動の捉え方はここでは脇にやるとしてーー《破壊欲動とか征服欲動とか権力への意志(Destruktionstrieb, Bemächtigungstrieb, Wille zur Macht)》(『マゾヒズムの経済的問題』におけるBemächtigungstrieb)--、攻撃欲動や暴力は、エロスでありうる。中井久夫やポール・ヴェルハーゲの叙述にみられるように、不能感や無力感、すなわちばらばらとなった精神を、束の間にせよ統一させるものであるだろうから。もし、ここでフロイトの叙述を活かして、エロスとは、《現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め》ようとするものであるなら、暴力は自己の統一を取り戻すものである。

エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的本能(欲動;引用者)、エロスと破壊beiden Urtriebe Eros und Destruktionと同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』人文書院 旧訳ーーフロイトの『Why War?』における愛と憎悪


こうしてベルギーのラカン派精神分析医ポール・ヴェルハーゲは次のように言うことになる。

生の欲動(エロス)は死を目指し、死の欲動(タナトス)は生を目指す。

life drive aims towards death and the death drive towards life (Paul Verhaeghe『Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender』ーーエロスとゆらめく閃光

エロスの欲動によって、大きなものに融合すれば、個の消滅がある。人間はだれしもそれを反復して目指すにしろ、個の消滅はすなわち個人の死である。その「死」を避けるために、融合を破壊するのがタナトスである、という解釈である。

もっともこの解釈を援用して、上に書かれた暴力=エロスによって獲得するのが自己の束の間の統一であるなら、それが個の消滅であるなどとすることはできない。ましてや、その統一を破壊するのがタナトスだとするには無理があるように思える。自我の統一をどうして破壊しなくてはならないのかーー。

ヒュームは、自己というのは多数の知覚の束だ、いわば蚊柱のようなものだ、とした。偽の自己一貫性を嫌い、むしろヒューム的な蚊柱を目指すのがタナトスとでもいうべきなのか。カントは、ヒュームによるそういう徹底的な解体の認識を拒絶して、超越論的統覚Xという、いわばどこにもないものを持ってきて、新たな統合を図ったとされるのだが。

ーーなどとほとんど無知の領域での疑念はここでは脇にやることにして、われわれの日常的・政治的視点から叙述することにする。

エロスがよりおおきなものへの統合、タナトスがその統合の破壊だとすれば、たとえば、EC統合のエロスがすすめばすすむほど、個々の国家のナショナリズムによる破壊衝動が芽ばえるという現象が観察され、これはエロスとタナトスの相反する動きだとみなすことができる。

日本の植民地政策、とくに韓国における政策が憎悪を生んだのは、エロス政策であったからである。だから激烈なタナトスが生れる。

日本の植民地政策の特徴の一つは、被支配者を支配者である日本人と同一的なものとして見ることである。それは、「日朝同祖論」のように実体的な血の同一性に向かう場合もあれば、「八紘一宇」というような精神的な同一性に向かう場合もある。このことは、イギリスやフランスの植民地政策が、それぞれ違いながらも、あくまで支配者と被支配者の区別を保存したのとは対照的である。日本の帝国主義者は、そうした解釈によって、彼らの支配を、西洋の植民地主義支配と対立しアジアを解放するものであると合理化していた。むろん、やっていることは基本的に同じである。だが、支配を愛とみなすような「同一性」のイデオロギーは、かえって、被支配者に不分明な憎悪を生み出すこと、そして、支配した者に過去を忘却させてしまうことに注意すべきである。。(柄谷行人「日本植民地主義の起源」『岩波講座近代と植民地4』月報1993.3初出『ヒュ―モアとしての唯物論』所収)

あるいはヘーゲルの「自己を他者と同一化したいという模倣への欲望」と「自己を他者と区別させることによって自己を主張したいという独自性への欲望」とは、エロスとタナトスの欲動とさえできるのではないか。

『法哲学』の中で、ヘーゲルは、人間のモノに対する欲求が、他者によって認められたいという社会的な欲望になり、それが逆にモノをのものあるいはモノの獲得の目的になってしまうことを論じた後、次のように述べている。

《欲望の社会化という]この契機は、さらに直接に、他者との平等への要求をそのうちに含む。一方で、この平等化への欲望および自己を他者と同一化したいという模倣への欲望が、他方で、それと同時に存在している、自己を他者と区別させることによって自己を主張したいという独自性への欲望が、それ自身欲望を多様化しかつそれを増殖していく事実上の源泉となるのである。》

すなわち、人間の社会的欲望には、他人を模倣して他人と同一の存在であると認めてもらいたい模倣への欲望と、他人との差異を際立たせ自己の独自性を認めてもらいたい差異化への欲望とのふたつがあるのである。(岩井克人「ヴェニスの商人の資本論」より)

こういいった言い方をしてもよい。攻撃欲動は外部へは破壊、あるいは暴力としてあらわれるだろうが、心の内部のへ向けては、ーー脳/精神の低い水準ではーー統一感を取り戻してくれる。少なくとも、そこで生じる仮初めの内面の唯一無二感は、エロスであるといいうる。


もちろん、ここに書かれた叙述は仮説であり、フロイト自身くり返し語っているように、エロスとタナトスは別々に現われるのは稀である。そしてそこでの鍵言葉は、drive fusion (Triebmischung)であり、すなわちエロスとタナトスの欲動融合である。

とすれば、攻撃欲動もエロスとタナトスの欲動融合なのだろうか。ドゥルーズやジジェクの議論ーー超越論的、あるいは存在論的な議論ーーでは、そのあたりが曖昧なようにわたくしには思えるが、それはたぶん哲学的な素養のなさからくるのだろう。

…………

※附記:至高の暴力(攻撃欲動)の発現形態、「戦争」がエロス的祝祭でありうるのはいうまでもない。

戦争の論理は単純明快である。人間の奥深い生命感覚に訴える。誇りであり、万能感であり、覚悟である。戦争は躁的祝祭的な高揚感をもたらす。戦時下で人々は(表面的には)道徳的になり、社会は改善されたかにみえる。戦争が要求する苦痛、欠乏、不平等すら倫理性を帯びる。  これに対して、平和とは、自己中心、弛緩、空虚、目的喪失、私利私欲むきだし、犯罪と不道徳の横行する時代である。平和の時代は戦争に比べて大事件に乏しく、人生に個人の生命を越えた(みせかけの)意義づけも、「生き甲斐」も与えない。平和は「退屈」である。

なるほどこうやって比べてみれば、戦争の方が平和よりも100倍も「魅力的」に見えるだろう。個人の生命を越えた高貴な価値のために、死を賭して戦う戦士たちは崇高でうつくしい。これに反対する者は、臆病者、卑怯者と呼ばれる。(中井久夫「戦争と平和についての観察」『樹をみつめて』所収
祭りの途中においては、通常は排撃されていることが許される――要求されさえする――のだ。祭りの時における侵犯は、まさしく、祭りに素晴らしい様相、神々しい様相を与えるものなのである。神々の中でも、ディオニュソスは、本質的に祭りに結びついている。ディオニュソスは、祭りの神、宗教的侵犯の神なのだ。ディオニュソスは、葡萄と酩酊の神として挙げられることがはなはだ多い。ディオニュソスは、陶酔の神であり、狂気を神的な本質とする神なのである。けれども、まずもって、狂気そのものが、神的な本質なのだ。神的な、すなわち、ここでは、理性の規則を拒否する本質というわけである。(バタイユ『エロスの涙』Les Larmes d'eros, Pauvert)

《われわれの疑問は、たとえば「生の肯定」、「生の蕩尽」としてカーニバル的にあらわれたものが必ずファシズムに転化するのはなぜかということだ。ニーチェやベルグソンはファシストではないといってもはじまらない。もはや純粋なカーニバルなどありえないように、純粋な「生の哲学」もありえない。それはいったん歴史的な文脈に存在するやいなや、思いもよらぬ反転や置換を強いられるのだ。本当は、「暴力的なもの」は《近代》に出現するのだといってもよい。》(柄谷行人『歴史と反復』)


ーーだが攻撃欲動が生の肯定=エロスであるなら、「生の肯定」が「暴力的なもの」であるのは、なんの不思議でもない。




2014年10月21日火曜日

Encore, encore ! --快・不快原理の彼岸=善悪の彼岸

フロイトとニーチェの仲良しぶりを探るのにもやや飽きてきたので、
いつもにもまして雑然と書くことにする。

…………

表題に示したように
Jenseits des Lustprinzips『快原理の彼岸』ってのは
Jenseits von Gut und Böse『善悪の彼岸』のパクリだよ

快原理とは、快・不快Lust und Unlustの原理のことだからな

そして善悪の彼岸ってのは権力への意志さ
快・不快の彼岸は欲動(衝動)でね

権力への意志というのは衝動(impulusion)さ
ドゥルーズの権力=〈力〉puissanceを活かしたいのなら
権力への意志は、〈力〉puissanceへの衝動implusionさ
いや”への”じゃなくて〈力〉衝動かもな

フロイト=ラカン派なら欲動、あるいは死の欲動ってわけ
すべての欲動は潜在的には死の欲動だからな
《…toute pulsion est virtuellement pulsion de mort.》 (Lacan Ecrit 848)

享楽の漂流だっていいさ

きみたちにフロイトの『性欲論三篇』を読み直すことを求める。というのはわたしはla dériveと命名したものについて再びその論を使うだろうから。すなわち欲動Triebを「享楽のdérive(drift)漂流?」と翻訳する。(ラカンセミネールⅩⅩアンコール私訳)

で、それでどうしたってんだ?
灯火にむれる蛾の、灯りを目ざしてはそれてゆく、その永劫回帰
おれたちの生の形式はTriebmischung(エロスとタナトスの欲動融合)さ

権力への意志が原始的な欲動=情動(Affekte)形式であり、その他の欲動(Affekte)は単にその発現形態であること、――(……)「権力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?――私の命題はこうである。これまでの心理学の意志は、是認しがたい普遍化であるということ。こうした意志はまったく存在しないこと。(ニーチェ遺稿 1888年春)

死の欲動=権力への意志が人間の根源的なものだとしても
そう分かって何かの役に立つのかいね
どうたい? 大地と合体しようとして(エロス)
土の中に死(タナトス)をみてしまった中上健次よ
それでも永劫回帰(反復運動)するかね

秋幸はまた働いた。自分が考えることもない一本の草の状態にひたっていたかった。過去も未来もない。風を受けとめ、光にあぶられて働く。土がつるはしを引くと共に捲れ、黒く水気をたくわえた中を見せる。それは土の肉だった。土の中に埋まって掘り出された石はさながら大きな固い甲羅を持つ動物が身を丸めて眠っている姿だった。いや死体に見えた。土の中の石は死そのものだ。肉も死も日に晒され、においを放ち、乾いた。掘り出され十分もすればそれらは風景の中に同化した。(中上健次『枯木灘』ーーエロスとゆらめく閃光

ロマン派をバカにできる程度じゃないか
憐れみとか惻隠の情とかいってるホモセンチメンタリスたちを。


クロソウスキーは、ニーチェ用語、
欲動Triebe、欲望Begierden、本能Instinke、
権力Machte、力Krafte、衝動Reixe, Impulse、
情熱Leidenschaften、感情Gefiilen、情動Afekte、
情熱Pathosを、ひとまとめに衝動implusionとするのだけれど、
フロイトやラカン用語のTriebやらDrangやらEncoreやらってのも
衝動implusionでいいさ。

主体は、己のa(対象a)の完全な応答を得る/与えるのを確信するために、(母)他者〔(m)other〕を独占したい。だがそのような完全な応答は不可能である。そこにはつねに残余があり、“ Encore”(もっと、またもっと)の必要の切迫がある。“ Drang ”(衝拍、もしくは圧力)は、ドライブ〔欲動の継続〕したままだ。

The subject wants the (m)other all to itself, to be sure of getting/giving a complete answer to (a). Such a complete answer is impossible, there is always a remainder and a necessity for an “ Encore ” : the “ Drang ” keeps driving .……(『Sexuality in the Formation of the Subject』 Paul Verhaegheーー部分欲動と死の欲動をめぐる覚書

ーーここでの“ Encoreは、もちろんラカンのセミネールⅩⅩの題名であり、そこでの大きな主題は欲動(享楽)だ。そして Drang は、フロイトの『欲動とその運命』における、欲動の四つの区分のうちの最重要なひとつである。


われわれは欲動の概念と関連して使用される若干の術語を検討することにしたい。それは欲動の衝迫 Drang、目標 Ziel 、対象 Objekt、源泉 Quelleなどの言葉である。(フロイト『欲動とその運命』)

フロイトはこのDrang以外にも、
Affektbetrag  Erregungssumme  QuantitativeFaktorなどと言ってるのだが、
まあ全部クロソウスキーのimplusionでいいさ、あるいは権力への意志でね

お、藤田博史センセいいこといってるじゃん。

欲動の衝迫というのは、欲動の運動モーメントとか力の総和とか作業要求の尺度のことです。いわば欲動の本質といってもよいでしょう。フロイトは「あらゆる欲動は一片の能動性である」と表現しています。つまり欲動とはひとかたまりの能動性のことなのだと。能動性こそが欲動における本質的なものと見なしているわけです。(藤田博史 セミネール断章 2012年 9月8日講義より

まるで、権力への意志の定義みたいだぜ。

…………

 ところで、次の文は、ニーチェの快・不快の彼岸じゃないかい?


『快』の本質が適切にも権力の『増大感』として(だから比較を前提とする差異の感情として)特徴づけられたとしても、このことではまだ『不快』の本質は定義づけられてはいない。民衆が、《したがって》言語が信じこんでいる誤った対立こそ、つねに、真理の歩みをさまたげる危険な足枷であった。そのうえ、小さな不快の刺激の或る《律動的連続》が一種の快の条件となっているという、いくつかの場合があり、このことで、権力感情の、快の感情のきわめて急速な増大が達成されるのである。これは、たとえば痒痛において、交接作用のさいの性的痒痛においてもまたみられる場合であり、私たちは、このように不快が快の要素としてはたらいているのをみとめる。小さな阻止が克服されると、ただちにこれにつづいてまた小さな阻止が生じ、これがまた克服される──抵抗と勝利のこのような戯れが、快の本質をなすところの、ありあまり満ちあふれる権力のあの総体的感情を最も強く刺激すると思われる。(ニーチェ『権力への意志』「第三書・二・三・権力への意志および価値の理論」原佑訳)
人間は快をもとめるのでは《なく》、また不快をさけるのでは《ない》。私がこう主張することで反駁しているのがいかなる著名な先入見であるかは、おわかりのことであろう。快と不快とは、たんなる結果、たんなる随伴現象である、──人間が欲するもの、生命ある有機体のあらゆる最小部分も欲するもの、それは《権力の増大》である。この増大をもとめる努力のうちで、快も生ずれば不快も生ずる。あの意志から人間は抵抗を探しもとめ、人間は対抗する何ものかを必要とする──それゆえ不快は、おのれの権力への意志を阻止するものとして、一つの正常な事実、あらゆる有機的生起の正常な要素である。人間は不快をさけるのではなく、むしろそれを不断に必要とする。あらゆる勝利、あらゆる快感、あらゆる生起は、克服された抵抗を前提しているのである。──不快は、《私たちの権力感情の低減》を必然的に結果せしめるものではなく、むしろ、一般の場合においては、まさしく刺戟としてこの権力感情へとはたらきかける、──阻害はこの権力への意志の《刺戟剤》なのである」(同『権力への意志』第三書)

当面、『自我とエス』1923から次の文を抜き出しておく。

快の性質をおびた感覚は、人を促拍させるものをひとつももたないが、不快の感覚は最高度にそれをもっていて、変化と放出をうながす。それゆえ、われわれは不快をエネルギー備給の上昇、快をその低下と関係させて理解する。快および不快として意識されるものを、精神過程における質的にも、量的にも「別のもの」das Andere とみなすならば、このような別のものは、そのまま現場で意識されるか、あるいは、知覚体系Wにまでみちびかれなければならないかどうかという疑問が生れる。

臨床経験がこのことに決定をくだす。臨床経験によれば、この「別のもの」は抑圧された興奮のようにふるまう。それは人を駆りたてる力を発揮するが自我はその強迫に気づかない。その強迫に抵抗し、放出反応を停止するときに、はじめてこの「別のもの」はすぐに不快として意識される。(フロイト『自我とエス』フロイト著作集6 P271-272)


フロイトの『快感原則の彼岸』1920の冒頭にはこうある。

精神分析の理論では、何のためらいもなく、自動的に快感原則Lustprinzipsに支配されて信仰すると仮定している。すなわち、そのつどある不快な緊張によって喚びおこされ、ついでこの緊張の減退をもたらすような結末、つまり不快を避け、快を生むような結末にむかってすすむものと考える。

……われわれにとって、のっぴきらない快と不快との感覚が、いったい何を意味するものであるかを教えてくれる哲学や心理学の学説があるならば、われわれはよろこんで感謝の意を表わさなければならないだろう。しかし、残念ながらこの場合、役に立つものは何ひとつ提供されていない。問題は、精神生活のもっとも暗黒の近寄りがたい領域にかかっているからである。(……)

ところで、快感原則が心理的過程の進行の仕方を支配するものときめてかかることは、厳密には正しくないといわねばならない。

快と不快の感覚Lustund Unlustempfindungenが、何を意味するのかを教えてくれる哲学や心理学の学説はない、としている。だが、しばらく読み進めると、次のようにある。

しかし、本能的なものは、反復への強迫とどのように関係しているのであろうか? ここでわれわれは、ある一般的な、従来明らかに認識されなかったーーあるいは少なくとも明確には強調されなかったーー本能の特性、おそらくすべての有機的生命一般の特性について、手がかりをつかんだという思いが浮かぶのを禁じえない。本能とは生命ある有機体に内在する衝迫であって、以前のある状態を回復しようとするものであろう。以前の状態とは、生物が外的な妨害力の影響のもとで、放棄せざるをえなかったものである。また本能とは、一種の有機的な弾性であり、あるいは有機体生命における惰性の表明であるとも言えよう。(フロイト『快感原則の彼岸』フロイト著作集6 p172)

そして次の註記が付されている、《「本能」の性質について同じような推測が、すでに繰りかえし表明されていることを私は疑わない。》

ここでの「本能」は新訳なら、「欲動」と訳されているはずだが、岩波新訳にあたっているわけではない。独原文は次の通り、《Ich bezweifle nicht, daß ähnliche Vermutungen über die Natur der »Triebe« bereits wiederholt geäußert worden sind.


《「欲動」の性質について同じような推測が、すでに繰りかえし表明されていることを私は疑わない。》――冒頭に、《快と不快の感覚が、何を意味するのかを教えてくれる哲学や心理学の学説はない》としつつ、「欲動」の「反復強迫」については、すでに誰かが繰りかえし言っていることに、フロイトは気づいている、ーーと読んでよいだろう。

《〈欲動〉とは生命ある有機体に内在する衝迫であって、以前のある状態を回復しようとするものである》とするフロイトだが、《以前のある状態を回復する》とは、回帰のことであり、とすれば、永劫回帰を想起せざるをえない。

ところで、20世紀後半の、二人の偉大なニーチェ読みは、永劫回帰とは、権力への意志の隠喩であると、あっさりオッシャッテイル。ここでは邦訳でもなく仏原文でもなく、英訳から抜き出す。

◆クロソウスキーの『ニーチェと悪循環』より。

The Eternal Return lies at the origin of the rises and falls of intensity to which it reduces intention. Once it is conceived of as the return of power - that is to say, as a series of disruptions of equilibrium - the question then arises of knowing whether, in Nietzsche's thought, the Return is simply a pure metaphor for the will to power.

◆ドゥルーズの『差異と反復』より。

Nietzsche presents the eternal return as the immediate expression of the will to power, will to power does not at all mean 'to want power' but, on the contrary: whatever you will, carry it to the 'nth' power - in other words, separate out the superior form by virtue of the selective operation of thought in the eternal return, by virtue of the singularity of repetition in the eternal return itself. Here, in the superior form of everything that is, we find the immediate identity of the eternal return and the Overman.

ニーチェはどこでそんなことを言ってるのだろうと、『権力への意志』のpdf版を――これも英訳なのだが、――検索してみたが、直接には永劫回帰は権力の意志の表現であるなどとは言っていない。ただクロソウスキーが延々と引用する『権力への意志』の遺稿からそう読めないでもない、ということはある(クロソウスキーの『ニーチェと悪循環』は、ドゥルーズに捧げられている)。


もっともクロソウスキーとドゥルーズの解釈はここまでは同じとしても、このあとの展開がひどく異なるという指摘が、樫村晴香の『ドゥルーズはどこが間違っていたか』にある。この論文は、ハイデガーとドゥルーズのニーチェ解釈に異議をとなえ、クロソウスキー解釈を顕揚する気味がある。「対象関係」という語彙にいささか齟齬を感じつつも、ここですこし長く引用してみよう。


ここで重要なのは、この分裂病的な「悪循環」は、固有に性的なものの作動と切り離 せず、単純な過程ではないことである。一般に性的な活動は抑圧されることによって、より 蒼古的な反復運動(反復強迫)として、対象関係から(てんかんのように)分離‐孤立して 発現するが、反復とは原初的な模倣(擬態/偽装)活動であるゆえに、まさに反復される 自己の(直前の)運動は、模倣される原初的他者=対象の相同物の感触と価値をもつ。性 的なもの(享楽/強度)によって、他者が想像‐幻想から切り離され、切り刻まれた物質的 基体(=反復)として言語に持ちこまれることによってこそ、その形成の根幹において他者と の現実的対話‐想像的なものに規定され、意味の確定を不断に曖昧な「他者の(への)要 求」として処理‐留保することで(かろうじて)成立している意味作用は、想像的=幻想的な ものと同一性に対し、真に破壊的なものへと反転する。強度‐反復のなかで、切り刻まれた 他者の存在と対になり、向かい合い、それに支えられることで、思考は現実の他者から分離した、抽象的な「叫び」の次元を獲得する(とはいえ叫びは誰か(=刻まれた他者)に向 けられているわけである)。

分裂病的な発話が、けっして機械的、無限増殖的ではなく、常 に絶対他者‐真理への関心をはらんでいること(精神病者は常に「存在論的」である)、悪循環の開始には、常に性的なもの(の抑圧)が関与するのはそのためである(ニーチェの いう「春」の情動)。

しかもさらに重要なことだが、ここで性的なものの再帰は意識以前の反復強迫のオーダー に属するゆえに、常に「意に反した」ものとして意識‐象徴世界の外から侵入し、そのため 常に言語‐象徴に従属している幻想にとって、それは必ず悪しきものである。幻想‐快感 原則に反する悪しきものでなければ、原理上性的なものでなく、その作動において、主体 は意識の場から失墜し、結局それ自身において切り刻まれる。それゆえ至高の真理(永 劫回帰)とは、常に悪魔の真理であって、忌まわしい。精神病的存在論において、真理と は直接にセックスのことだが、その真理は同時に疑われ、憎まれる。実際、性的なものの 発動としての反復強迫は、単純な反復でなく、常に何かを打ち消す意味的なものをもはら んでおり、これは破瓜型分裂病者の機械的所作でさえ垣間みられる。それゆえこの悪魔 の真理(主体の惨めさ)を受け入れるには、主体は再度、それを原初的な幻想(原光景)と 重ね合わせ、悪魔を母に書きかえて、それをすでに経験し知りつくした劇(主体の原初的 無力性という、より無害な惨めさ)として再編しなおす、マゾヒズム型の倒錯的防衛を経ね ばならない。その防衛‐光景内部では、すべてはあらかじめ知られた劇‐視像として展開し なおされるので、主体は無力さと引き替えにその場の暴力から外在化し、切り刻まれること を免れる。それは(疑似)精神病者のヒステリー的戦略であり、悪魔は幼い主体を前にした 安全な母親に縮減される。つまりここで主体は、絶対的な力をもつ外部である母親に従属 することで、意識(と無意識)の主体であることを失わされて、受動的な視線となるが、とは いえこの劇はあらかじめ未知の部分(無意識)を排除しているので、受動的な観客である ことと能動的な意識‐欲望の主体であることに内実的差異はない。無意識=記憶をもたな い意識とは、その場限りの視線と同じだからである。

この主体の外在化によって、外部から 来る主体の性的拍動としての悪は、主体の外側の劇として無害化され、意識/無意識、 能動/受動の差異の抹消と並行して、悪と善の境界は消失し、悪は悪のシミュラクルとな り、真の「善悪の彼岸」が訪れる(とはいえそこまで行き着くのは、ニーチェの後からきたク ロソフスキーである)。


 《

悪循環=永劫回帰の開始には、常に性的なもの(の抑圧)が関与する》、とあって、この「性的」なもの、「抑圧」という語彙を嫌うひとがいるだろうけれど、悪循環=永劫回帰の「常に性的なもの」、そのトラウマがキライなひとは、ラカンもフロイトも読まなくてよろしい。

とはいえ、ここでの抑圧は、原抑圧とすべき、すくなくともそれをも含めての「抑圧」とすべきじゃないかな。

……フロイトは、疑いもなくそのことを知っていた。というのは、彼は抑圧の偽装よりもより深い証拠を探し求めていたからだ。もっとも彼はそれを“原”抑圧という似たような語彙にて考えていたが。われわれは、抑圧するから反復するのではない。反復するから抑圧するのだ。さらに言えば、――それは結局は同じことだがーー我々は、抑圧するから偽装するのではない。偽装するから抑圧するのだ。そしてわれわれは反復の決定的な核心の力によって偽装する。(ドゥルーズ『差異と反復』英訳からの私訳)

Freud, no doubt, was aware of this, since he did search for a more profound instance than that of repression, even though he conceived of it in similar terms as a so-called 'primary' repression. We do not repeat because we repress, we repress because we repeat. Moreover - which amounts to the same thing - we do not disguise because we repress, we repress because we disguise, and we disguise by virtue of the determinant centre of repetition.ーー「二種類の反復ーー「反復強迫automaton」と「反復tuche」

このドゥルーズの反復をどう読むかは、--ひょっとして齟齬があるひともいるだろう。

偽装し差異化する力をもつ潜在的な原形質、という一元論的・超スピノザ主義的発想は、 かなりの程度ベルグソンに源を発し、同時に Dz が内在的に抱えていたイマージュによっている。後者に由来する彼自身の感覚が前面化する際には、特筆すべき固有点を彼のテキストは描き出すが(後述)、ニーチェやフロイトといった、主体の情動/思考の全過程 を動員する分裂病的‐神経症的な「ハードな現実」を、批判主義的執拗さをもって哲学的= 統一的に処理する際には、前者の欠点が前面化する。すなわち、対象関係(原初的対他者関係)からこそ発生する、攻撃的‐暴力的、つまり「弁証法的」な要素への無関心と、そ れ以上に、人間の身体‐情動の回路と、言語‐思考‐意味作用の回路が、系統‐個体発生的に起源を異にし、本質的亀裂をはらんでいることへの無関心である。既述のように、弁証法の排斥は、他者と抑圧(抑圧物の回帰)の問題系の忌避となり、その結果、絶対他者 や悪・侵犯を経由する倒錯的戦略を軽視して、現実には倒錯を通じてこそ結合している 強度‐身体と差異‐偽装を、腹話術的に短絡させてしまうことになる。そして身体と言語の オーダーの連結は、言語‐思考から離脱したゆえに出現するものとしての、反復(強度)と いう原初的な「世界‐意識の外からの」運動を、その運動を再解釈し、謎として構成しなお す、事後的‐神話的な思考内部で処理させることになる。(樫村晴香『ドゥルーズのどこが間違っているか?』1996)

クラインの「対象関係」へのラカンの異議としては、
母という全体的対象は、母それ自体として出現するのではなく、
エルンスト坊やの糸巻き遊びに代表されるような子供の反復遊びによる
現前-不在(+/-)の分節化によって出現する。
この分節化は呼びかけという領域でなされ、
母という対象が不在のときに呼びかけられ、
現前 するときには拒絶されることによって、
現前と不在が同時になりたつ(+/-)シニフィアンと なっている、と.

ただしこれはセミネールⅣの段階。
セミネールⅩⅠを経て、
セミネールⅩⅦ、ⅩⅩでなんやらややこしいことを言っている。

”jouissance is nothing but the inadequacy of the signifier to itself”

"Jouissance is what necessitates repetition,"

"jouissance is what serves no purpose [La jouissance, c'est ce qui ne serf a rien]"


ーーラカンは、ドゥルーズの『マゾッホとサド』をべた褒めしている、《しかし驚くべきことではないかと思うのは、こうしたテクストが本当の意味で、私が今実際に、今年切り開いた途上でいうべきことをすでに先取りしているということです》(1967年4月19日)。

一年後に出版された『差異と反復』(1968)にはコメントはないようだが、
やはりかなり影響受けているに相違ないので、
『セミネールⅩⅦ』1969での「反復」をめぐる発言なんてモロじゃないか


で、なんの話だったか。
ドゥルーズ派でいくのか、樫村晴香派でいくのかは、アナタしだいだよ
ーーとすれば、樫村を褒めすぎだけれど、1996年に書かれた論文として
今でも読むに値するすぐれた「ニーチェ」論だな

ところで、ジジェクは、反復のずれ(微細な差異)に対象aをみるんだな。

The objet a and pure repetition are thus closely linked: the a is the excess which sets repetition in motion and simultaneously prevents its success》

……ラカンにとって、反復は抑圧に先んずるものである。それはドゥルーズが簡潔に言っているのと同様である。《われわれは、抑圧するから反復するのではない。反復するから抑圧するのだ》(『差異と反復』)。次のようではないのだ、――最初に、トラウマの内容を抑圧し、それゆえトラウマを想起できなくなり、かつトラウマとの関係を明確化することができないから、そのトラウマの内容がわれわれに絶えずつき纏いつづけ、偽装した形で反復するーー、こうではないのだ。現実界(リアル)が極細の差異であるなら、反復(それはこの差異を作り上げるもの)は、原初的なものである。すなわち抑圧の卓越性が現れるのは、現実界から象徴化に抵抗する「物」への“具現化”としてであり、排除され、あるいは抑圧された現実界が、己を主張し反復するときに初めて抑圧は現れる。現実界は原初的には無である。だがそれは物をそれ自身からの分離する隙間なのであり、反復のずれ(微細な差異)なのである。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』2012 私意訳)

ーーこの文を読めば、反復に関してはドゥルーズの見解に沿っているようにみえる。
ただし反復のずれ(微細な差異)を対象aとするのだ。

そしてジジェクのいう対象aは、究極的には、繰り返せばこうだ。

主体は、己のa(対象a)の完全な応答を得る/与えるのを確信するために、
(母)他者〔(m)other〕を独占したい。
だがそのような完全な応答は不可能である。
そこにはつねに残余があり、
“ Encore”(もっと、またもっと)の必要の切迫がある。
“ Drang ”(衝拍、もしくは圧力)は、ドライブ〔欲動の継続〕したままだ。(Paul Verhaeghe)


要約しよう。このトラウマに関するラカン理論は次の如くである。

欲動とはトラウマ的な現実界の審級にあるものであり、
主体はその衝動を扱うための十分なシニフィアンを配置できない。
構造的な視点からいえば、これはすべての主体に当てはまる。
というのは象徴秩序、それはファリックシニフィアンを基礎としたシステムであり、
現実界の三つの諸相のシニフィアンが欠けているのだから。

この三つの諸相というのは女性性、父性、性関係にかかわる。
Das ewig Weibliche 永遠に女性的なるもの、
Pater semper incertuus est 父性は決して確かでない、
Post coftum omne animal tristum est 性交した後どの動物でも憂鬱になる。

これらの問題について、象徴秩序は十分な答を与えてくれない。
ということはどの主体もイマジナリーな秩序において
これらを無器用にいじくり回さざるをえないのだ。
これらのイマジネールな答は、
主体が性的アイデンティティと性関係に関する
いつまでも不確かな問いを処理する方法を決定するだろう。

別の言い方をすれば、主体のファンタジーが
――それらのイマジネールな答がーー
ひとが間主観的世界入りこむ方法、
いやさらにその間主観的世界を構築する方法を決定するのだ。

この構造的なラカンの理論は、分析家の世界を、いくつかのスローガンで征服した。
象徴秩序が十分な答を出してくれない現実界の三つの諸相は、
キャッチワードやキャッチフレーズによって助長された。

La Femme n'existe pas, 〈女〉は存在しない、
L'Autre de l'Autre n'existe pas, 〈他者〉の〈他者〉は存在しない、
Il n'y a pas de rapport sexuel,性関係はない。

結果として起こったセンセーショナルな反応、あるいはヒステリアは、
たとえば、イタリアの新聞はラカンにとって
女たちは存在しないんだとさと公表した、
構造的な文脈やフロイト理論で同じ論拠が研究されている事実を
かき消してしまうようにして。

たとえば、フロイトは書いている、
どの子供も、自身の性的発達によって促されるのは、
三つの避け難い問いに直面することだと。
すなわち母のジェンダー、一般的にいえば女のジェンダー、
父の役割、
両親の間の性的関係。



原初の喪失とはなにか? 永遠の生の喪失、それは、ひどく逆説的だが、性的存在としての出産の刻限に失われる。Meiosis(分裂)によるのだ。(ラカン「セミネールⅩⅠ」私訳)

Encore, encore !
享楽は、権力への意志=衝動である。
われわれのすべての欲動は、永劫回帰(反復強迫)する。

《Jouissance is the driving force in all these attempts to return to a previous level.》(Paul Verhaeghe)

こういうわけで間違ってるんだよ、
“純粋な”死の欲動は(自己)破壊への
不可能な“全的な”意志とするなんてのはね、
主体が母なる〈モノ〉の全体性へと回帰する法悦の自己消滅で
でもこの意志が実現されえないとか妨害されてとかで
“部分対象”に凝り固まるなんてのは。

そんな考え方なんてのは、
死の欲動を欲望とその喪失した対象のタームに再翻訳しただけさ。
欲望においては、現実の対象は不可能な〈モノ〉の空虚の換喩的な代役なのさ。
欲望においてこそ、全体性へのあこがれは部分対象へと配置転換されるってわけさ。
ラカンがいってるだろ、これを欲望の換喩だって。
ここのところは極度に厳密でなくっちゃな、
ラカンのポイントを捉えそこなわないようにな。
欲望と欲動を混同しないように、だな。

ニーチェかい?
権力への意志は原意志と「翻訳」したっていいさ
きみ次第だね

Davis's thesis is that this “rebellious whiling” refers to a non‐historical ur‐willing, a willing which is not limited to the epoch of modern subjectivity and its will to power.

まあでもやっぱり死の欲動のほうがオレの好みだね

But one should here raise a more fundamental question: is the Will the proper name for the “stuckness” which derails the natural flow? Is the not Freudian drive (the death drive) a much more appropriate name?(ZIZEK)

※死の欲動のドゥルーズやジジェクの考え方については、「攻撃欲動はタナトスではなくエロスである」を見よ。


さて、最後に付け加えておこう、《「善悪」の彼岸…… あれは少なくとも「よい・わるいの彼岸」ということではないのだ。--》(ニーチェ『道徳の系譜』木場深定訳 岩波文庫 P59)

とすれば、快原則の彼岸とは、快・不快の彼岸ということではないのだ、と言えるだろうか。





2014年10月19日日曜日

ニーチェとフロイトの「エスEs」

フロイトの『自我とエス』には、次のような叙述がみられる。

グロデックはわれわれが自我とよぶものは人生において本来受動的にふるまうものであり、彼の表現にしたがえば、未知の統御しえない力によって「生活させられ」といる、と繰りかえし主張している(註記:グロデック『エスについて』国際精神分析出版発行、1923年)。
われわれは、知覚体系Wに由来する本質ーーそれはまず前意識的であるーーを自我と名づけ、自我がそのなかで存続する他の心理的なものーーそれは無意識的であるようにふるまうーーをグロデックの用語にしたがってエスと名づけるように提案する。(フロイト著作集6 P273) 

そして次のような註が附される。

グロデック自身、たしかにニーチェの例にしたがっている。ニーチェでは、われわれの本質の中の非人間的なもの、いわば自然必然的なものについて、この文法上の非人称の表現エスEsがいつも使われている。

さてニーチェのエスの話に移る前に、ここでいささか捕捉しておこう、エスだけが無意識ではないことを。

自我の多くのものは、それ自身無意識的である。とりわけ自我の中核とみなされるものは無意識的である。そしてそのごくわずかの部分は、われわれが前意識とよぶものに相当する。こんなふうに記述的な表現法を、体系的あるいは力学的な表現法にかえるならば、被分析者の抵抗はその自我から生ずるのである、ということができるし、それにつづいて、反復強迫を意識されぬ抑圧されたものに由来すると理解することができる。(フロイト『快感原則の彼岸』p160)

と引用すれば、「反復強迫」にも捕捉を加えなければならない。

ラカン派には、フロイトは二種類の反復を混同しているという見解がある。シニフィアンの反復と享楽(リアルそのもの)の反復を。

セミネールⅩⅠのラカンによればーーあえてセミネールⅩⅠと断わったのは、セミネールⅩⅦやⅩⅩなどでやや異なったこと? いやひとによればラカンの享楽概念の転回ともいうのだが、ここではそれは脇にやることにしてーー、快原則の此岸内、すなわち象徴界におけるシニフィアンの繰り返しが、反復強迫Wiederholuagszwangであり、automatonとされる。とすればフロイトの「自由連想」もautomatonであるだろう。

快原則の彼岸、すなわち快原則内の非-全体の領域ーーこれはセミネールⅩⅩでの話であり、カントの閉集合における「否定判断」ではなく開集合の「無限判断」の話でもあり(参照)、そのS.20とS.11の叙述を混淆させていうとしたらーー、象徴界(快原則内)の非-全体の領域に、外-存在ex-sistするものがtuchèと呼ばれてよい、すなわち、リアルとの真の遭遇(〈他者〉の享楽)であるということになる(参照:二種類の反復ーー「反復強迫automaton」と「反復tuche」)。


これはフロイト概念Fremdkörper(Freign body)にもかかわる。ひょっとしてアルトー=ドゥルーズの器官なき身体にもかかわるのではないか、というのは浅墓なわたくしの「妄想」である。

ところで、最近上梓されて渋好みの一部の「識者」に評判の高い江川隆男氏の『アンチ・モラリア 〈器官なき身体〉の哲学』に「身体の身体」などという言葉があるそうで、前書『死の哲学』書評(小泉義之)を眺めると、スピノザの文がこの前書の出発点であるそうだ。

われわれは、この生において、とくに幼児期の身体を、その本性の許す限り、またその本性に役立つ限り、もっとも多くのことに有能な別の身体に、そして自己と神と物とについいてもっとも多くのことを意識するような別の身体に変化させようと努める。

しかし、こういうことを引用して何が言いたいわけでもない。


後期ラカンには次のような文がある。

l'inconscient, c'est le réel. (...) c'est le réel en tant qu'il est troué." (Seminar XXII, RSI, Ornicar?, 15th April 75

無意識はリアル(現実界)である……それが穴が開けられているtroué限りにおいて。(私訳)

この”troué”とは、われわれのなかには、エイリアン(異物としての身体Fremdkörper)がいるということ(“Fremdkörper”は、すでにフロイトの『ヒステリー研究』1895に頻出し、それはトラウマに関連して使用されている)。

たとえばラカンの「サントーム」セミネールに、”un corps qui nous est étranger”とあるがこれは「異物としての身体Fremdkörper」のことだろう。(仏語とは三十年ほど仲がよくないので、間違っていたらゴメンナサイ!)

l'inconscient n'a rien à faire avec le fait qu'on ignore des tas de choses quan qu'on sait est d'une toute autre nature. On sait des choses qui relèvent du signifiant. (...) Mais l'inconscient de Freud (...) c'est le rapport qu'il y a entre un corps qui nous est étranger et quelque chose qui fait cercle, voire droite infinie - qui de toutes façons sont l'un à l'autre équivalents - quelque chose qui est l'inconscient." (Seminar XXIII, Joyce - le sinthome, lesson of 11th May 1976

シニフィアンによって分節化された象徴界の内部にあって、しかもその内部の異物としてあるものが、現実界としてのFremdkörperのことであり、またかつそれは言葉で言いあらせないトラウマのことでもある(参照:ラカンの三つの身体)。


さて、こうしてようやくニーチェのEsの話に向かうことができる。

ツァラトゥストラ第二部最終章「最も静かな時刻」にある、「おまえはそれを知っているではないか、ツァラトゥストラよ」Du weisst es, Zarathustra? という文をめぐってである。

わたくしの手元にある手塚富雄訳には、この「それ」を含む文に、次のような註釈が書かれている。

「それ」は永劫回帰の真理。知っていて、なぜ黙っているのだ。

この手塚富雄氏の註釈は、やや飛躍のある指摘ではあると感じられないでもないが、それが言わんとしている含意は同じツァラトゥストラの第四部を読むとなるほどと思わせられる。が、それについては後述することにし、今は第二部の最終章をめぐることに専念する。

「最も静かな時刻」には、「おまえはそれを知っているではないか、ツァラトゥストラよ。しかしおまえはそれを語らない」( Du weisst es, Zarathustra, aber du redest es nicht! )ともある。

ここでラカンの「それ自身を知らない知」を説明するジジェクの文を挿差しておこう。

知られている「知られていること」、知られている「知られていないこと」、知られていない「知られていないこと」、そして、知られていない「知られていること」などと出てきて(“known knowns”、“ known unknowns”、 “unknown unknowns”、“unknown knowns,”)やや邦訳だけでは混乱を招くので、英文を併記しておく。

2003年、ドナルド・ラムズフェルドは、知られていることと知られていないことの関係をめぐり、突然発作的にアマチュア哲学論を展開した。

《知られている「知られていること」がある。これはつまり、われわれはそれを知っており、自分がそれを知っているということを自分でも知っている。知られている「知られていないこともある」。これはつまり、われわれはそれを知らず、自分がそれを知らないということを自分は知っている。しかしさらに、知られていない「知られていないこと」というのもある。われわれはそれを知らず、それを知らないということも知らない。》

“There are known knowns. These are things we know that we know. There are known unknowns. That is to say, there are things that we know we don’t know.But there are also unknown unknowns. There are things we don’t know we don’t know.”

彼が言い忘れたのは、きわめて重大な第四項だ。それは知られていない「知られていること」、つまり自分はそれを知っているのに、自分がそれを知っているということを自分では知らないことである。これこそがまさしくフロイトのいう無意識であり、ラカンが「それ自身を知らない知」と呼んだものであり、その核心にあるのが幻想である。

What he forgot to add was the crucial fourth term: the “unknown knowns,” things we don’t know that we know – which is precisely the Freudian unconscious, the “knowledge which doesn’t know itself,” as Lacan used to say,the core of which is fantasy.

もしラムズフェルドが、イラクと対決することの最大の危機は「知られていない『知られていないこと』、すなわちサダム・フセインあるいはその後継者の脅威がどのようなものであるかをわれわれ自身が知らないということだ、と考えているのだとしたら、返すべき答はこうだ―――最大の危機は、それとは反対に、「知られていない『知られていること』」だ。それは否認された思い込みとか仮定であり、われわれはそれが自分に付着していることに気づいていないが、それらがわれわれの行為や感情を決定しているのだ。

If Rumsfeld thinks that the main dangers in the confrontation with Iraq are the “unknown unknowns,” the threats from Saddam about which we do not even suspect what they may be, what we should reply is that the main dangers are, on the contrary, the “unknown knowns,” the disavowed beliefs and suppositions we are not even aware of adhering to ourselves, but which nonetheless determine our acts and feelings.

これを読めば、ニーチェはすくなくともフロイトの「無意識」(ラカンのそれ自身を知らない知」)と類似したことを謳っていると読めないではない、ーー「おまえはそれを知っているではないか、ツァラトゥストラよ。しかしおまえはそれを語らない」( Du weisst es, Zarathustra, aber du redest es nicht! )

さて、『ツァラトゥストラ』第二部最終章「最も静かな時刻」からやや長く引用する。

何事がわたしに起こったのか。だれがわたしに命令するのか。――ああ、わたしの女主人が怒って、それをわたしに要求するのだ。彼女がわたしに言ったのだ。彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人の名だ。(……)

君たちは、眠りに落ちようとしている者を襲う驚愕を知っているか。――

足の指の先までかれは驚愕する。自分の身の下の大地が沈み、夢がはじまるのだ。

このことをわたしは君たちに比喩として言うのだ。きのう、最も静かな時刻に、わたしの足もとの地が沈んだ。夢がはじまった。

針が時を刻んで動いた。わたしの生の時計が息をした。――いままでこのような静寂にとりかこまれたことはない。それゆえわたしの心臓は驚愕したのだ。

そのとき、声なくしてわたしに語るものがあった。「おまえはそれを知っているではないか、ツァラトゥストラよ」――

Dann sprach es ohne Stimme zu mir: Du weisst es, Zarathustra? -

このささやきを聞いたとき、わたしは驚愕の叫び声をあげた。顔からは血が引いた。しかしわたしは黙ったままだった。

と、重ねて、声なくして語られることばをわたしは聞いた。「おまえはそれを知っているではないか、ツァラトゥストラよ。しかしおまえはそれを語らない」――

Da sprach es abermals ohne Stimme zu mir: Du weisst es, Zarathustra, aber du redest es nicht! -

と、ふたたび声なくしてわたしに語られることばがあった、「欲しないというのか、ツァラトゥストラよ。そのことも真実か。反抗のなかに身をかくしてはならない」――

そのことばを聞いて、わたしは幼子のように泣き、身をふるわした。そして言った。「ああ、わたしはたしかにそれを言おうとした。しかし、どうしてわたしにそれができよう。そのことだけは許してくれ。それはわたしの力を超えたことなのだ」

と、ふたたび声なくしてわたしに語られることばがあった。「おまえの一身が問題なのではない、ツァラトゥストラよ。おまえのことばを語れ、そして砕けよ」――
(……)

と、ふたたびささやくようにわたしに語りかけるものがあった。「嵐をもたらすものは、もっとも静寂なことばだ。鳩の足で歩んでくる思想が、世界を左右するのだ。

おお、ツァラトゥストラよ、おまえは、来たらざるをえない者の影として歩まねばならぬ。それゆえおまえは命令しなければならぬ。命令しながら先駆しなければならぬ」――

わたしは答えた。「わたしは羞恥を感ずる」と。

と、ふたたび声のない声はわたしにむかって語りかけた。「おまえはこれから幼子になり、そして羞恥の思いを放棄しなければならない。

青年期の誇らしさがまたおまえを離れない。おまえは青年になることがおそかったのだ。しかし幼子になろうとする者は、おのれの青年期をも乗り超えなければならぬ」――(『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻」 手塚富雄訳)

ここには《わたしの恐ろしい女主人の名だ》という蠱惑的な表現もある。もっともこの「女主人」がアリアドネのことだなどと言い出すつもりはない。

手塚富雄註釈では、「女主人」について、《時刻 die Stundeが女性名詞なのでこうと言った。「最も静かな時刻」に直面し、その命令を聞くことは、内省的な人間には非常におそろしい》とされている。

ただ「最も静かな時刻」にある《彼女の名(女主人の名)をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。》と次の文を並べておくだけにしよう。

わたしのほかに誰が知ろう、アリアドネが何であるかを!……これらすべての謎は、いままでだれ一人解いた者がなかった。そこに謎があることに気がついた者さえいるかどうか疑わしい。(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳

ーーというわけだが、わたくしの「妄想」をexplicitに言い表わすのはやめておこう。

クロソウスキーさんよ、あなたのも「妄想」だよ。

《いまや、迷路、アリアドネ、ディオニソスその三つの名前だけがニーチェのなかに残されたものである》(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』)」

フーコーさんよ、あんた、クロソウスキーを褒めすぎだよ

おそらく表徴=記号(シーニュ)と模造(シミュラークル)とのあいだには厳密な区別を設けるべきであろう。それらは、たとえ時として重ね合わされることがあろうとも、同じ経験には属してなどいないのである。それはつまり模造は意味を定めはしないからだ。それは時間の炸裂の中の現われの領界に属する―<真昼>の悟明であり永遠の回帰だ。

たぶんギリシャの宗教は模造しか知っていなかった。まずはじめソフィストが、ついでストア派とエピクロス派がそうした模造を表徴(シーニュ)のごとく読もうとし、この遅まきな読解によってギリシャの神々は姿を消してしまった。アレクサンドリアを故里とする、キリスト教的釈義はこの解釈を受け継いだのである。クロソウスキーが彼の言語のうちに描き出しそして動かしている人物像はすべて模造(シミュミラクル)である以上、このシミュラクルという語を、われわれが今やそれに与え得る響き合いのうちに聴解せねばなるまい―虚しい似姿(現実との対立において)であり、何ものかの表現=代理(そのものがそれのうちに代理派遣され、顕現し、しかもしりぞいて、或る意味では身を隠すもの)であり、一つの表徴と取り違えさせる虚偽であり、一個の神体の臨在の表徴(そして今度は逆にこの表徴をその反対のものと取り違えるという可能性)であり、<同一者>と<他者>の同時到来である(擬装するとは、元来、共に来ることである)。かくしてクロソウスキーに固有の、そしてすばらしく豊かなあの星座が形成される―シミュラクル、シミリチュード(相似)、シミュルタイネイテ(同時性)、シミュラシオン(擬装)、そしてディシュミュラシオン(隠蔽、ごまかし)。(フーコー『外の思考』――「クロソウスキー・メモ 永劫回帰の複数化」)

ラカン=アリストテレスのように、「わかりやすく」、オートマトンautomaton /チュケーtuche との反復の相違だと言うわけにはいかないのだろうか、シーニュ/シミュラークルの反復を。

意図なしに行動すること、それがニーチェの内に秘められた決意であり、不可能なモラルである。ところで、意図なき宇宙の全体の体制は、意図ある諸存在を産出する。「ヒト」という種はこのようにして――偶然に――生み出された被造物、そこでは力の強度が意図に転換される、そうした被造物なのだ。つまりは道徳の産物なのである。人間の意図を力の強度に、ファンタスムを生み出す力の強度につれもどすこと、それがシミュラークルの機能である。それは科学の機能ではありえない。科学は意図を否定しながらも、有効性のある、有益な活動をおこなうことによって、その意図の否定を埋め合わせるのである。(ピエール・クロソウスキー『ニーチェと悪循環』)

いやいや、やや趣きが違うようにも思える。

でも、ドゥルーズをパクってすこぶるシンプルに言い放つ柄谷行人のように言う訳にはいかないのだろうか。

同一的な規則を前方に想定するような行為は「想起」(キルケゴール)にほかならないが、そうでない行為、規則そのものを創りあげてしまうような行為は、「反復」または「永劫回帰」とよばれる。(柄谷行人『探求Ⅱ』)

このあたりは樫村晴香が、ハイデガー、クロソウスキー、ドゥルーズ、ラカンを参照しつつのニーチェの永劫回帰をめぐる論に、わたくしにはすこぶる巧みと思われるまとめがあるが、いまは割愛する。ところで、樫村氏は、この論文を書いたあと、仏で「労働者」をやりつつ小説を書いたり、ミャンマーで山篭りしたり、などという噂があるが、あれはホントウなんだろうか、--とはどうでもいい話である。

さて、次のツァラトゥストラ第四部「正午」にある、《陸から一匹の蜘蛛が糸をつむいでよこすだけで、それを繋ぐに十分である》とされる糸がアリアドネの糸であるなどとも臆断するつもりは、わたくしには毛ほどもない。

静かに! 静かに! 世界はいままさに完全になったのではないか。いったいわたしの何事が起こ
るのだろう。

柔和な風が平坦な海の面〔おもて〕で、目に見えずかろやかに、鳥の羽毛に似てかろやかに舞うように、眠りはわたしを訪れて舞う。

この眠りはわたしの目をふさがない。わたしの魂を目ざめたままにしておく。この眠りは軽い。まことに鳥の羽毛のように軽い。(……)

魂は身を伸ばす、長く、――より長く。そして静かに横たわっている、この奇妙な魂は。それはあまりにも多くの美味をすでに味わった。そのことからくる黄金の悲哀が、魂を押しつける。魂は口をゆがめる。

――このうえもなく静かな港にはいった船に似て、――それはいま地にもたれている。そして長い旅とふたしかな海に飽きている。地のほうが海よりも誠実なのではないか。

――このような船が陸に寄りかかり、寄りそうているときにはーー陸から一匹の蜘蛛が糸をつむいでよこすだけで、それを繋ぐに十分である。それより強い綱はいらない。

静かな湾に憩うこういう疲れた船のように、わたしもいま地に触れてやすらっている。誠実な心をもち、信頼をよせて、待ちながら、そしてかぼそい糸でつながれて。

おお、幸福よ、幸福よ。おお、わたしの魂よ。おまえは歌おうとするのか。おまえは草のなかに横たわっている。しかしいまは、ひそやかな、おごそかな時刻なのだ。笛を吹く一人んお牧人もいない。

つつしむがいい。暑い正午が野いちめんを覆って眠っている。歌うな。静かに。世界は完全なのだ。

こうしてこの後、永遠という泉が謳われることになる。

わたしに何事が起こったのだろう。聞け! 時間は飛び去ってしまったのだろうか。わたしは落ちてゆくのではなかろうか。落ちたのではなかろうか、――耳をこらせ! 永遠という泉のなかに。(ニーチェ「正午」)

以下、いくらかは神々しいトカゲ」に行を分けて引用してある、西脇順三郎やフロイトの蜥蜴とともに。


さて、ツァラトゥストラの第二部「最も静かな時刻」と、第四部「正午」には、あきらかに互いに響き合う。

そして前者には、《おまえはこれから幼子になり、そして羞恥の思いを放棄しなければならない》とあり、後者には《船が陸に寄りかかり、寄りそうているときにはーー陸から一匹の蜘蛛が糸をつむいでよこすだけで、それを繋ぐに十分である。それより強い綱はいらない》とある。

ドゥルーズをたいして読んでいるわけではないわたくしにも、ああ、ここにはドゥルーズがいる、と感じるわけで、おそらくドゥルーズのよき読み手であれば、もっとほかにもドゥルーズの痕跡を嗅ぎ分けることだろう。

たとえば「蜘蛛」、ーーニーチェの「最も静かな時刻」とは「女主人の名」やら「無意識」などといわないでも、われわれが「器官なき身体」になっている刻限ではないか。

はっきりしているのは、語り手は何も見ず、何も聞かないで、ひとつの器官なき身体であり、あるいはむしろ、いわば自分の巣の上でじっと身構えている蜘蛛のような存在であるということである。この蜘蛛は何も観察しないが、ほんの僅かの兆候、ほんの僅かの震動にも反応して、自分の餌にとびかかる。……(『アンチ・オイディプス』)
しかし、器官のない身体とは何であろうか。クモもまた、何も見ず、何も知覚せず、何も記憶していない、クモはただその巣のはしのところにいて、強度を持った波動のかたちで彼の身体に伝わって来る最も小さな振動をも受けとめ、その振動を感じて必要な場所へと飛ぶように急ぐ。眼も鼻も口もないクモは、ただシーニュに対してだけ反応し、その身体を波動のように横切って、えものに襲いかからせる最小のシーニュがその内部に到達する。『失われた時を求めて』は、大聖堂や衣服のように構築されているのではなく、クモの巣のように構築されている。語り手=クモ。その巣そのものが、或るシーニュによって動かされるそれぞれの糸で作られ織りなされつつある『失われた時を求めて』である。巣とクモ、巣と身体は、ただひとつの同じ機械である。語り手に極度の感受性、異常な記憶力が与えられても役に立たない。それらの能力についての、意志的で組織的ないかなる使用でできない限り、彼には器官がない。逆にひとつの能力は、強制され、無理じいされるときには、語り手において行使される。そしてこの能力に対応する器官が、この能力に重ねて置かれるが、しかしそれはその無意志的な使用を惹起する活動によって眼覚めさせられた強度の素描としてである。そのたびごとに、或る性質を持ったシーニュに対する器官のない身体の包括的で強度は反作用として存在する無意志的な感受性、無意志的な記憶作用、無意志的な思考。『失われた時を求めて』の粘着性のある糸にひっかかる小さな箱のそれぞれをなかば開けるか閉じるために動くのは、この身体=巣=クモである。語り手の奇妙な可塑性。スパイ、警官、嫉妬する者、解釈する者、そして要求する者――狂人――普遍的な分裂病患者である語り手の身体=クモが、そこから自分自身の錯乱の操り人形、器官のないおのれの身体の強度な力、おのれの狂気のプロフィルを作るために、偏執病患者であるシュルリュスに一本の糸をのばそうとし、色情狂であるアルベルチーヌにもう一本の糸をのばそうとする。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

そしてニーチェの「幼子になる」とは、どうしたってドゥルーズ&ガタリの「少女になる」あるいは「子供になる」を想起せざるをえない。

少女とは何か、そして少女の集団とは何か? 少なくともプルーストは、この問いに決定的な答を与え、少女の個体化は、それが集団的なものであれ、個別的なものであれ、決して主体性にもとづいて実現するのではなく、あくまでも<此性>によって、それも純粋な<此性>によって実現することを明らかにした。「逃れゆく存在」。少女とは純粋な速さと遅さの関係であって、それ以外の何ものでもない。少女は速さによって遅れる。彼女を待つ者の相対的時間に比べると、少女はあまりにも多くのことをおこない、あまりにも多くの空間を横切ってしまったからだ。そこで少女は示す見かけ上の遅さは、待つ側に特有の途方もない速さに変化する。『千のプラトー』P312
ある<此性>の思出。――ひとつの身体は、それを限定する形態によって規定されるのでもなければ、限定された実体や主体として規定されるわけでもないし、それが所有する器官やそれが果たす機能によって規定されるのでもない。存立平面の上では、一つの身体はもっぱら経度と緯度によって規定されるのだ、つまりなんらかの運動と静止の、あるいは速度と遅さの関係のもとで、身体に所属する物質的要素(これが経度だ)と、なんらかの力、あるいは力能の度合のもとで、それが身体が受けいれることのできる強度的な情動の総体(これが緯度だ)によって規定されるのである。そこには情動と局所的運動、そして微分的速度しかない。この<身体>の二つの次元を抽出し、<自然>の平面を純粋な経度および緯度として規定したのはスピノザの功績だろう。緯度と経度は地図学を構成する二大要素なのである。『千のプラトー』P300

そしてこうやってドゥルーズ(&ガタリ)から拾い出せば、アリアドネの糸が出現することになる。

暗闇に幼い児がひとり。恐くても、小声で歌をうたえば安心だ。子供は歌に導かれて歩き、立ちどまる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものだ。子供は歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが歌それ自体がすでに跳躍なのだ。歌はカオスから跳び出してカオスの中に秩序を作りはじめる。しかし、歌には、いつ分解してしまうかもしれぬという危険もあるのだ。アリアドネの糸はいつも一つの音色を響かせている。オルペウスの歌も同じだ。(……)

歌はカオスからとびだしてカオスのなかに秩序をつくりはじめる。ひとりの子どもが、学校の宿題をこなすために、力を集中しようとして小声で歌う。ひとりの主婦が鼻歌を口ずさんだり、ラジオをつけたりする。そうすることで自分の仕事に、カオスに対抗する力を持たせているのだ。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』「リトルネロについて」厚表紙版p359)

《迷路の人間は、決して真実を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ。》(ニーチェ 遺稿

賢くあれ、アリアドネ!……そなたは小さき耳をもつ、そなたはわが耳をもつ。(ニーチェ『ディオニュソスーディテュランボス』(Dionysos-Dithyrambus)第七歌「アリアドネの嘆き」(Klage der Ariadne)より

小さな耳とは、「内耳」(Labyrinth)のことであり、「迷路」(Labyrinth)のことでもある。

わたくしの見解を差し挟まないように書いているつもりだが、そうはいってもいささか隠された牽強附会の気味あるかもしれない。ここで書かれていることは、要するに、「悦楽は常にすべてのことの永遠ならんことを欲する」(ニーチェ)で引用したロラン・バルトの文にかかわる。

『テクストの快楽』につけ加えて。享楽jouissance、それは欲望《に応える》もの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。このように主体を踏み迷わせうるものを適切に言いあらわすことばは、神秘主義者たちにたずねるほかない。たとえばライスブルックのことば、「私が精神の陶酔と呼ぶものは、享楽が、欲望によって垣間見られていた可能性を越えてしまう、あの状態である。(『彼自身によるロラン・バルト』佐藤信夫訳)

そしてそのさらに起源としては、次の文の「アリアドネ」にかかわる。

その特別の写真のなかには、何か「写真」の本質のようなものが漂っていた。そこで私は、私にとって確実に存在しているこの唯一の写真から、「写真」のすべて(その《本性》を《引き出す》こと、この写真をいわば導き手として私の最後の探求をおこなうことに決めた。この世にある写真の全体は一つの「迷路」を形づくっていた。その「迷路」のまっただなかにあって、私は、このただ一枚の写真以外に何も見出せないことを知り、ニーチェの警句を地で行くことにしたのだ。すなわち《迷路の人間は、決して真実を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ》。「温室の写真」は、私のアリアドネだった。それが何か隠されたもの(怪物や宝石)を発見させてくれるからではない。そうではなくて、私を「写真」のほうへ引き寄せるあの魅力の糸が何で出来ているのかを私に告げてくれるだろうからである。これからは、快楽の観点に立つのではなく、ロマン主義的に言えば愛や死と呼ばれるであろうものとの関連において、「写真」の明証を問わなければならない、ということを私は理解したのだった。

(「温室の写真」をここに掲げることはできない。それは私にとってしか存在しないのである。読者にとっては、それは関心=差異のない一枚の写真、《任意のもの》の何千という表われの一つにすぎないであろう。それはいかなる点においても一つの科学の明白な対象とはなりえず、語の積極的な意味において、客観性の基礎とはなりえない。時代や衣装や撮影効果が、せいぜい読者のストゥディウムをかきたてるかもしれぬが、しかし読者にとっては、その写真には、いかなる心の傷もないのである。)(ロラン・バルト『明るい部屋』)


そして、さらにーー、結局、わたくしは常にここに戻ってしまう、最も根源的な欲動、あるいは享楽としての無意識(原トラウマ)、すなわち「スフィンクスの謎」の反復=永劫回帰に。

これらの文と対決しつつ、な。

反復されることになる最初の項などは、ありはしないのだ。だから、母親へのわたしたちの幼児期の愛は、他の女たちに対する他者の成人期の愛の反復なのである。(……)反復のなかでこそ反復されるものが形成され、しかも隠されるのであって、そうした反復から分離あるいは抽象されるような反復されるものだとは、したがって何も存在しないのである。。擬装それ自身から抽象ないし推論されうるような反復は存在しないのだ。(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳)
……ラカンにとって、反復は抑圧に先んずるものである。それはドゥルーズが簡潔に言っているのと同様である。《われわれは、抑圧するから反復するのではない。反復するから抑圧するのだ》(『差異と反復』)。次のようではないのだ、――最初に、トラウマの内容を抑圧し、それゆえトラウマを想起できなくなり、かつトラウマとの関係を明確化することができないから、そのトラウマの内容がわれわれに絶えずつき纏いつづけ、偽装した形で反復するーー、こうではないのだ。現実界(リアル)が極細の差異であるなら、反復(それはこの差異を作り上げるもの)は、原初的なものである。すなわち抑圧の卓越性が現れるのは、現実界から象徴化に抵抗する「物」への“具現化”としてであり、排除され、あるいは抑圧された現実界が、己を主張し反復するときに初めて抑圧は現れる。現実界は原初的には無である。だがそれは物をそれ自身からの分離する隙間なのであり、反復のずれ(微細な差異)なのである。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』(私意訳)

これらの見解への齟齬を表明している論者ーーわたくしが勝手にそう読むのだがーーは、日本でも、向井雅明やら(参照:心的外傷後ストレス障害PTSD/フロイトのトラウマ)、樫村晴香(ドゥルーズのどこが間違っているか? 強度=差異、および二重のセリーの理論の問題点 )などがあるが、ここではそれに触れだしたら長くなりすぎる。

樫村晴香の奥さんである樫村愛子さんは、ジジェクに何度か文句を書いているはずだが、どのような文句なのかは知らない。

ーーというわけで、このような短い文で何が言えるわけではない。そのうち気が向いたらーー、おそらく永劫回帰する。

自分が知らないこと、あるいは適切に知っていないことについて書くのではないとしたら、いったいどのようにして書けばよいのだろうか。(ドゥルーズ『差異と反復』「はじめに」)