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2014年9月21日日曜日

「世界は女たちのものだ」

日曜日だな、反フェミとの「汚名」を濯ぐため、「女性」を顕揚してみよう。

@HistoryInPicsより



若いときにこういった写真をみて、ああ、うらやましいなあ、オレも一度はこのお零れにあずからなくちゃな、と思わない男は、やっぱりどこかいかがわしいぜ、ちがうかい?

おまえはもっともらしい貌をして、難しく厳しく裁断するがじつは、おまえは少女たちの甘心を買うためにそういう姿勢をしはじめたのではなかったか。遠いアドレッセンスの初葉の時に。そう云われていくぶんか狼狽するように、これらの自然詩人たちへのかつての愛着を語るときに狼狽を感じる。(吉本隆明歳時記「夏の章――堀辰雄」)

ところで「いかがわしい」とは便利な言葉だが、若く聡明なきみたちは多用しないほうがいいんじゃないか? 相手にされなくなるぜ。多用するヤツは、オレのように「いかがわしい」ヤツだな。

……イカガワシサときみがいい、H氏やK氏の僕への言葉だともいうんだが、きみ自身として当の言葉をよく考えてのことだろうか? そのように僕は内心の思いを展開させていたのだ。鋏でよく髯を刈りこんでいるが、それゆえにかえって薄汚れた風情の、若い同胞よ。初対面の会話できみが軽く使う、その言葉を、僕は相当の心づもりに立たずには使ったことがない。いったいきみはどういう対決の理由があって、この旅先まで僕を訪ねて来ているのか? それをまず聞くことができれば、話は早手まわしとなるはずだが。きみがイカガワシサという言葉について、それを発したとたんに始まる厄介な闘いへの、心準備なしにしゃべりたてる人物なら、僕として真面目に答える必要もないわけだ……(大江健三郎「見せるだけの拷問」)




役者がちがうって感じだな、ーー「なんなの、ダリ坊や?」

母の影はすべての女性に落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」

この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで。((Paul Verhaeghe『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』私訳)

もちろんうらやましがるのは、こっち系でもいいのだが
これはやっぱり十代~二十代に修業を積んでからじゃないか

江戸時代の遺風としてその当時の風呂屋には二階があって白粉を塗った女が入浴の男を捉えて戯れた。かくの如き江戸衰亡期の妖艶なる時代の色彩を想像すると、よく西洋の絵にかかれた美女の群の戯れ遊ぶ浴殿の歓楽さえさして羨むには当るまい。(永井荷風「伝通院」)


ここで唐突にロラン・バルトと吉岡実のまねをしてわたくしの好きなものを書き出そう。

といっても吉岡実のようにイキに書けるわけではない、《ラッキョウ、ブリジット・バルドー、湯とうふ、映画、黄色、せんべい、土方巽の舞踏、たらこ……》(私の好きなもの(吉岡実、ロラン・バルト)





《私の好きなもの》、女の腰、脚、足指、チェロ、太股、イタリア産のサラミ・生ハム、サフランのリゾット、山羊のチーズ、恥垢の臭いがかすかにする女の膝で耳かきしてもらうこと、三時間後のCHANEL ANTAEUSの首筋の香り、五時間後のCHANEL五番の女の髪の匂い、くちなしの白い花と香り、散歩途次の金木犀の匂い、生牡蠣、トリュフ入りチョコレート、ヴェトナムカフェ、白い肌に真っ黒い縮れた腋毛、カンボジア産の葉煙草(なかったらダンヒルでもダビドフでもいいさ)、ダンヒル製のパイプ、40年代ロレックス、鮒寿司、このわた、テニスでトップスピンサーブがきまること、川蟹タマリンド煮、初期ヴェンダース(都会のアリスなどの三部作)、フォレ、ドガの踊子、タンニンくさい濃厚な赤ワイン、プルースト、丘のうなじ、西脇順三郎、吉岡実、バッハはあげたくないがあげる、かっこつけてヴェーベルン、霧のかかった高原の朝のかたつむりの白い足跡ーーといってもニブイヤツがいるからつけ加えておくよ、《枝をたわめている野性の黒すぐりの葉に、あたかもかたつむりが通った跡のように見える、自然に出たものの跡が、一筋つく》(プルースト)ーー、飯田線で温泉場にいくこと(縄と蠟燭持参)、がらがらの渥美線で終点までいくこと(象徴的ファルス持参)、ーー象徴的ファルス? わからないだろうなこれもーー





伊良湖岬まで女とともにバスの最後部席でいちゃついて擦れ違うトラックを溝に嵌めること、夕刻、下穿きを履かずに浴衣で女と散歩すること(温泉場だぜ、もちろん)、マイルス・デーヴィスの「Kind of Blue」が好きな酔っ払い女、木綿のワンピースを無造作に着た汗ばむ女など






男ってのは、やっぱり女にかなわないんじゃないか?
いまごろようやく悟るってのもなんだが。

世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …(ソレルス『女たち』)





ジジェクは、バダンテールの“On Masculine Identity(1996)”を引用して次のように書いている。

The true social crisis today is the crisis of male identity, of “what it means to be a man”: women are more or less successfully invading man's territory, assuming male functions in social life without losing their feminine identity, while the obverse process, the male (re)conquest of the “feminine” territory of intimacy, is far more traumatic.(ジジェク『Less Than Nothing』(2012)

現在の真の社会的危機は、男性のアイデンティティである、――すなわち男性であるというのはどんな意味かという問い。女性たちは多少の差はあるにしろ、男性の領域に侵入している、女性のアイディンティティを失うことなしに社会生活における「男性的」役割を果たしている。他方、男性の女性の「親密さ」への領域への侵出は、はるかにトラウマ的な様相を呈している。(私訳)




若い男性たちよ、安心したまえ! きみたちが悪いのじゃない。ただ女性たちが真実を語り始めた〈不幸な〉時代に〈運悪く〉生れ合わせただけさ

ーー《女性が真実を語り始めたら最後、鏡に映る男性の姿は小さくなり、人生への適応力が減少してしまうのである》(ヴァージニア・ウルフの『私ひとりの部屋』)

・女性は過去何世紀もの間、男性の姿を実物の二倍の大きさに映してみせるえも言われぬ魔力を備えた鏡の役目を果してきた。

・文明社会における用途が何であろうと、鏡はすべての暴力的、英雄的行為には欠かせないものである。ナポレオンとムッソリーニがともに女性の劣等性をあれほど力説するのはそのためである。女性が劣っていないとすると、男性の姿は大きくならないからである。女性が男性からこうもたびたび必要とされるわけも、これである程度は納得がいく。また男性が女性の批判にあうとき、あれほど落ち着きを失うことも、あるいはまた、女性が男性にむかってこの本は良くないとか、この絵は迫力がないなどと言おうものなら、同じ批判を男性から受けるときとは段違いの絶えがたい苦痛を与え、激しい怒りをかきたてるわけも、これで納得がいく。

・つまり、女性が真実を語り始めたら最後、鏡に映る男性の姿は小さくなり、人生への適応力が減少してしまうのである。もし男性が朝食の時と夕食の時に、実物よりは少なくとも二倍は大きい自分の姿を見ることができないなら、どうやって今後とも判決を下したり、未開人を教化したり、法律を制定したり、書物を著したり、盛装して宴会におもむき、席上で熱弁をふるうなどということができようか?そんなことを私は、パンを小さくちぎり、コーヒーをかきまわし、往来する人々を見ながら考えていた。

・鏡に映る幻影は活力を充たし、神経系統に刺激を与えてくれるのだから、きわめて重要である。男性からこれを取り除いてみよ、彼は、コカインを奪われた麻薬常用者よろしく、生命を落としかねない。この幻影の魔力のおかげで、と私は窓の外を見やりながら考えた、人類の半数は胸を張り、大股で仕事におもむこうとしているのである。ああいう人たちは毎朝幻影の快い光線に包まれて帽子をかぶり、コートを着るのだ。





《男性が女性の批判にあうとき、あれほど落ち着きを失うことも、あるいはまた、女性が男性にむかってこの本は良くないとか、この絵は迫力がないなどと言おうものなら、同じ批判を男性から受けるときとは段違いの絶えがたい苦痛を与え、激しい怒りをかきたてる》だって? マイッタネ

さきほどつけ加えるのを忘れた、私の好きなもの、女の去勢。

……おさげ髪を切るものの態度には、たとえ遠くからであっても、否認された去勢を執行しようとする欲求が、強く押し出されていることが見てとれると考えられるのである。彼の行動は、そのなかで女性は陰茎を無事にもっているというものと、父が女性を去勢してしまったという、両立しがたい二つの主張を、和解させているのである。(フロイト『呪物』ーー倒錯と女の素足(谷崎潤一郎)



もっとも、男性諸君! こっちのほうだけは牛耳られないほうがいいらしいぜ、あとはどうでもいいさ。

「戦争が男たちによって行われてきたというのは、これはどえらく大きな幸運ですなあ。もし女たちが戦争をやってたとしたら、残酷さにかけてはじつに首尾一貫していたでしょうから、この地球の上にいかなる人間も残っていなかったでしょうなあ」(クンデラ『不滅』)



ある写真が気に入り、それに心をかき乱されると、私はいつまでもそれにこだわる。そうやって写真を前にしているあいだずっと、私は何をしているのか? 私は写真に写っている事物や人間についてさらに詳しく知ろうとするかのように、写真を見つめ、子細に検討する。……(ロラン・バルト『明るい部屋』p123)

どうしてこんな「平凡な」写真に心をかき乱されるんだろ? なにが突然向うからやってきたというのだ? 覗き窓から覗くようにして学生たちが宴の卓を囲んでいるのが見える(背中を向けているのは教師か)。若く知的な男女の慎みと節度、はじらいの気配に領され、無礼講になるようすはまったくない……

まあ、いいさ
オレの一見反フェミ風というのは、こういうことだぜ

自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「創造者の道」手塚富雄訳)

ーーというわけで、文明国の男女のみなさんは、こういったものを読んどかなくちゃな

イラク北西部、ヤズディ(ヤジディ)教徒の町シンジャルを制圧したイスラム国は、住民の殺戮と迫害を開始した。イスラム過激派から「邪教」とされてきたヤズディ教は銃をつきつけられ、イスラム教への改宗を迫られる。さらに数百人を超えるヤズディ教徒の女性を集団拉致。戦闘員と強制結婚させられたり、「奴隷」として売られたりしたという。その多くは今も行方不明のままだ。このひと月間に女性たちの身に何が起こったのか。イスラム国に拉致され、脱出してきたばかりの女性は声を震わせながら語った。(イラク北部ザホー 玉本英子

ーーとすれば日曜日にはふさわしくない読み物かい? ならば、

季節の空気、空の、土の、樹々の色、それも語れぬわけではないだろう。だが、あの軽やかな酩酊、埃の上をゆく足取り、眼の輝き、フェダイーンどうしの間ばかりでなく、彼らと上官との間にさえ存在した関係の透明さを、感じさせることなど決してできはしないだろう。すべてが、皆が、樹々の下でうち震え、笑いさざめき、皆にとってこんなにも新しい生に驚嘆し、そしてこの震えのなかに、奇妙にもじっと動かぬ何ものかが、様子を窺いつつ、とどめおかれ、かくまわれていた、何も言わずに祈り続ける人のように。すべてが全員のものだった。誰もが自分のなかでは一人だった。いや、違ったかも知れない。要するに、にこやかで凶暴だった。(……)

「もう希望することを止めた陽気さ」、最も深い絶望のゆえに、それは最高の喜びにあふれていた。この女たちの目は今も見ているのだ、16の時にはもう存在していなかったパレスチナを。(ジャン・ジュネ『シャティーラの4時間』)

この何年かのあいだでめぐり合ったもっとも忘れ難い女の表情の画像も附載しておくよ。








2014年5月5日月曜日

五月五日 「空蝉」と「現身」

まず『万葉集』から万葉仮名の原文と一般的な訓読みを三首並べる。

…………

【原文】: 空蝉之 命乎惜美 浪尓所濕 伊良虞能嶋之 玉藻苅食 (作者: 不明)

【よみ】: うつせみの、命を惜しみ、波に濡れ、伊良虞の島の、玉藻刈り食む


【原文】:高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉 (作者:中大兄 三山歌)

【よみ】:香具山は 畝傍(うねび)を善(え)しと 耳成(みみなし)と 相争ひき  神代より かくなるらし 古昔(いにしへ)も しかなれこそ  現身(うつせみ)も 嬬(つま)を 争ふらしき


【原文】: 宇都曽見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 弟世登吾将見 (作者: 大伯皇女)

【よみ】: うつそみの、人にある我れや、明日よりは、二上山を、弟背(いろせ)と我が見む
…………

「ウツセミ」は現身の意であるが、これを「空蝉」と表音的に記載した結果、理解に際してはそれが表意的のものと考へられ、従つて「空蝉の世」は、人生の義より転じて、蝉の脱殻の如き無常空虚の世の義となり、更に「空蝉の殻」のごとき語が生まれるやうになつた。(時枝誠記『国語学原論』)

この時枝誠記の『国語学原論』の文の捕捉としては、吉本隆明の『初期歌謡論』に書かれる文がいい。それを引用している柄谷行人の『日本近代文学の起源』より、柄谷氏の文もふくめて抜粋する。

ところで、和歌の韻律は「文字」の問題とどう関係しているのだろうか。国学者は、荷田在満の「国歌八論」以来、音声によって唱われた歌と、書かれた歌の差異を問題にしてきたといえる。本居宣長において、『古事記』の歌謡は唱われたものであり、歌謡の祖形だとみなされた。吉本隆明は、賀茂真淵が指摘したように、それらは祖形であるどころか、すでに“高度”なレベルにあるという。

《いま『祝詞』には、「言ひ排く」、「神直び」、「大直び」という耳なれない語が、おおくみつけられる。はじめに<いいそく>、<かむなほび>、<おおなほび>という言葉があった。成文化するとき漢音文字をかりて、「言排」、「神直備」、「大直備」と記した。これが、<言ひ排く>、<神直び>、<大直び>と読みくだされる。この過程は、なんでもないようにみえて、表意、あるいは表音につかわれた漢字の形象によって、最初の律文化がおおきな影響をこうむった一端を象徴している。<いいそく>、<かむなほび>、<おおなほび>といえば、すくなくとも『祝詞』の成立した時期までは、あるあらたまった言葉として流布されていた。「なほび」という言葉は、神事、あるいはその場所などにかかわりのある言葉としてあった。<かむ>とか<おほ>とかは尊称をあらわしていた。そのころの和語は、適宜に言葉を重ねてゆけば、かなり自在な意味をもたせることができたとみられる。しかし、これを漢字をかりて「言排」、「神直備」、「大直備」のように表記して、公式な祭式の言葉としたとき、なにか別の意味が、漢字の象形的なイメージ自体からつけ加えられた。これは和語の<聖化>のはじまりであり、<聖化>も律文、韻文化へのひとつの契機と解すれば、ここにすでに歌の発生の萌芽のようなものは、あった。

成句や成文となれば、さらに律化、韻化の契機はふかめられた。語句の配列はそのもので、ひとつの律化だからである。》(「初期歌謡論」)

この注目すべき吉本隆明の考えにしたがえば、歌の発生、あるいは韻律化はそもそも漢字を契機としている。宣長が祖形とみなすような「記」、「紀」の歌謡は、文字を媒介しなければありえないような高度な段階にある。それは音声で唱われたとしても、すでに文字によってのみ可能な構成をもっている。《たぶん、宣長は、<書かれた言葉>と<音声で発せられた言葉>との質的なちがいの認識を欠いていた。すでに書き言葉が存在するところでの音声の言葉と、書き言葉が存在する以前の音声の言葉とは、まったくちがうことを知らなかった》(「初期歌謡論」)(柄谷行人『日本文学史序説』講談社文芸文庫 P73-74)

柄谷行人は最近でも次のように語っている(日本精神分析再考(講演)(2008))。

たとえば、平安時代に、各地の人々が京都の宮廷で話されている言葉で書かれた「源氏物語」を読んで、なぜ理解できたのか。それは彼らが京都の言葉を知っていたからではありません。今だって各地の人がもろに方言で話すと通じないことがあるのに、平安時代に通じたはずがない。「源氏物語」のような和文がどこでも通じたのは、それが話されていたからではなくて、漢文の翻訳として形成された和文だったからです。紫式部という女性は司馬遷の『史記』を愛読していたような人で、漢文を熟知している。にもかかわらず、漢語を意図的にカッコに入れて『源氏物語』を書いたわけですね。

あらためていうと、日本人は漢字を受け取り、それを訓読みにして、日本語を作り上げたのです。ただ、その場合、奇妙なことがある。イタリア人はイタリア語がもともとラテン語の翻訳を通して形成されたことを忘れています。しかし、日本人は、日本語のエクリチュールが漢文に由来することを忘れてはいない。現に漢字を使っているからです。漢字だから、外来的である。しかし、外部性が感じられない。だから、日本では、韓国におけるように、漢字を外来語として排除もしないのです。ところが、日本では漢字が残りながら、同時に、その外部性が消去されているのです。そこが奇妙なのです。


なぜ日本人は漢字を使い続けているのか(沖森卓也)

漢字で言えば、もちろんいろんな要素があるんですけど、いちばん重要なのは「なんで日本人は漢字を用いてきたか」、あるいは「なんで漢字を手放せなかったか」。この視点がいちばん重要だと思うんですよ。これは言うまでもなく「訓(くん)」ができたからなんです。当たり前なんだけど、漢字には本来「音(おん)」しかないはずなんです。漢字の読み方というのは、本来中国語の発音の言語、文字体系のものなんですけど、それが日本に渡ってきて日本の固有語、「やまとことば」と言いますが、固有語に当てられて訓ができるんです。この訓が漢字と強く結びついていて、やまとことばが漢字で書けるようになってしまったということが非常に大きいと思うんですよ。本来なら、仮名ができたのなら仮名だけでやまとことばを書いても良かったはずで、当初は仮名で書いていたはずなんです。いろんな位相があるので、男性の世界では漢文を用い、女性の世界ではひらがなを用いるというなかで、仮名だけでも日本語を書けたはずなのに、漢字で書くという人も一方にいて、伝統的に漢字が勝ってしまったというのが現状なんだと思うんです。

実は訓というのは、世界の言語のなかで現在では日本にしかありません。訓を持つ漢字は「表語文字」、語をあらわす文字で、それ自体で意味を表しているわけです。言語の歴史から言うと、文字の発生というのは表語文字なんですよ。これは絵文字から発達したもので、ものを真似て作ったというところに由来しています。

最古の文字はシュメール文字で、これが表語文字なんですが、このシュメール文字をまったく別系統のアッカド語という言語が借りたときに固有語をあてているんです。つまり「訓」ですね。漢字が生まれる以前にすでに訓があったんです。訓というのは表語文字を違う言語で借りたときに必ず発生するものだと言ってもいいくらいです。日本では、もともとの中国語の意味で用いているときには中国語の発音で漢字を読んだのでしょうが、日本語にその意味に当たる語があった場合には、その漢字の読みにその語を使ってしまったということなんです。中国の漢字を借りた朝鮮半島にも本来訓はあったんですが、中国に距離的に近いものだから、そういう変な使い方はやめようとやめちゃったから音だけしかない形になってしまった。

日本は中国からはるか離れていたから、漢字をより自由に使えたということで、訓が定着したと。ひらがなの「やま」と書くこともできるけど、漢字で「山」と書くこともできる。そうすると、表語文字のほうが意味の識別がよりたやすいんですよね。一字一字音を読んでイメージを思い浮かべるよりも、字を見て「これはこういう意味だ」とわかるわけだから。速読をする方法として「漢字だけ見ていけばいい」ということがよく言われるけど、それと同じことで、訓というのは非常に便利だったので、べったり定着してしまったんです。平安時代以降定着していって、江戸時代にはだんだんと庶民が教育を受けるようになり、さらに明治になると義務教育になり、当時は西洋化と同時に漢文的な文章が良いとされていましたから、より多く漢語を使うようになっちゃった。江戸時代までは文章に和語も多く使っていたんですけどね、それが漢語に置き換わってしまったというわけです。それでいっそう漢字が手放せなくなったということでしょうね。


◆蓮實重彦『反=日本語論』より

 日本語と中国語とが、いわゆる祖語を共有することのない全く系統の異なる言語だということ(……)。この事実の確認は、多くのヨーロッパ人が、そしてときには日本の大学生までが、文字と語彙の貸借関係があるというだけの理由で、日本語が中国語から分かれた言葉だと信じきっている現状にあっては、まず第一に強調されねばならない。(……)

ここで見落としえない点は、(……)一つの漢字が中国語として持っていた音声的価値も、文法的機能も日本語としての漢字の訓の中にはいっさい残存してはおらず、まさにそのことによって、日本語の構文法を支えることになるという点であろう。あながち中国語と日本語とが、ラテン語と英語という親族関係を持っておらず、かえって異質な系統にある言語であったが故に、借用された漢字によって、意味と音声と表記法との自由な戯れが日本語として可能になったという点こそを強調すべきなのである。

たしかにわれわれは、日本語の漢字に、訓読みと音読みと二つ、あるいそれ以上の読み方があるといった言葉を口にしている。そしてその不用意な言葉が、日本語に接近しようとする外国人たちを、必要以上に混乱させることになるのだ。おそらく、ヨーロッパ的精神にとってこの上なくわかりにくいのは、その事実にあるのではない。一つの漢字が、いかなる日本語の意味と結びつき、その意味が日本語で何と発音され、その発音表意的に借用された漢字と、漢字の標音的側面から創始された仮名とによってどのように表記されるかという点を順に追って説明すれば、その難解さはある程度は緩和されうるものである。つまり「急」の一字は、「急行」の場合はキュウ、「急ぐ」の場合はイソグと発音されると説明すべきではなく、「急」の字に接したら、それがまず「いそぐ」ことを意味し、「イソグ」には、現在の送り仮名の規則によるなら、「急ぐ」と表記すると説明すべきなのだ。(……)

そもそも、訓とは、ほんらいが読み方の問題ではなく、意味の問題ではなかったか。「明」は「明暗」の場合はメイと読まれ、「明るい」の場合はアカるいと読まれると解説しはじめるのではなく、「明」はまず「あかるい」ことを意味し、そして「アカルイ」は「明るい」と表記されうると続けるのが、論理的な筋道というものではないか。その過程を納得した上でなら、一つの漢字の幾つかの読み方が語られても混乱は起るまいと思う。(蓮實重彦『反=日本語論』「萌野と空蝉」 P221-223ーー黒字強調は原文では傍点)

たとえば時枝誠記の『国語学原論』に引かれている名高い「ウツセミ」の例を想起してみよう。時枝博士は、その「文学論」を構成する「文学の記載法と語の変遷」の項目に、次のような書かれた。

「ウツセミ」は現身の意であるが、これを「空蝉」と表音的に記載した結果、理解に際してはそれが表意的のものと考へられ、従つて「空蝉の世」は、人生の義より転じて、蝉の脱殻の如き無常空虚の世の義となり、更に「空蝉の殻」のごとき語が生まれるやうになつた。

日本語を語ろうとするものの必読文献にみられる文章だから、何もいまさら説明めいたものは必要あるまいと思われるが、ここに無知と誤解から生じた日本語の豊かな増殖ぶりの跡を認めうる点に誰も異存はあるまい。現身(うつしみ)なる語の意味と音声との表記法との多様な戯れが、一方で日本神話の構造的理解に通じ、また他方で、西欧形而上学の今日的崩壊過程へと向けるわれわれの視線を鍛えうる役割をも担っているというきわめて啓発的な論文が、坂部恵氏の『仮面の解釈学』におさめられているから、興味のある方はそれを参照されたい。ここではただ、『万葉集』の「うつせみ」が「空蝉」「虚蝉」の現身と誤って表意的に解釈され、奈良時代にはこの語に含まれていなかった「はかなさ」の意味が、平安朝以後の日本語の定着したという『岩波古語辞典』の説明を繰返し、誤解が発揮しうる言語的活力と、文化的創造性の一面を指摘するにとどめておこう。……(同上p226-227)

…………

※附記

漢詩文だけでなく、候文にてもほとんど漢字ばかりが目立つ森鴎外の『伊沢蘭軒』の登場人物たちの書き物だが、次のようなこともあったようだ。

文中に見えてゐる蘭軒は平頭三十であつた。わたくしは是に由つて「伊沢長安様」と呼ばれた信階が、倅蘭軒ほど茶山に親しくはないまでも、折々は書信の往復をもしたと云ふことを知る。茶山の仮名文字を用ゐること常よりも稍多かつたのは、老人の読み易きやうにとの心しらひではなからうか。(森鷗外『伊沢蘭軒』 その百八十九)


この書信の宛先である蘭軒の父信階は教養のない人物ではけっしてない、《原来伊沢の家では、父信階の時より、毎旦孝経を誦する例になつてゐた》(その百五十二)



2014年2月13日木曜日

「である」と「ですます」調

前投稿から文章や文体をめぐって書いているのだが、どうも読み返す習慣がなくていけない。iPADの修理中でいまようやく戻ってきたので、寝転がって読み返すことにする。コンピューターのスクリーンというのは、どうも読み返す気がおこらないのだ。ーーと書いているのは、実は前投稿の冒頭に小学生並の主語と述語の不一致を見出し、文章などとえらそうなことを書ける身ではない、ということが言いたいのだが、また書いてしまった。いささか垂れ流し気味だが、ある意図があって続けて投稿する。

…………

〈である調〉と〈ですます調〉の両方を、ぼくは気分によって使い分けています。であるで始めて、なんだかちょっと上から目線みたいな文章になりかけたら、ですますで書き直すこともあります。もちろん文章の音の流れを考えて混ぜて使うこともある――こんな感じ。

ぼくの『わらべうた』に〈であるとあるで〉というノンセンスな詩があって、これをユニット名にした木管四重奏団のCD『あるでんて』が出ました。武満徹が賢作の誕生を祝って書いてくれた曲や、谷川・林光コンビの校歌、ぼくが楽器に合わせて書いた詩の朗読も入ってます。

ボーナストラックの子どもたちが歌う賢作作曲の〈うんこ〉がぼくは気に入ってます。乞御一聴……これはである調だな、ですます調なら、一度聴いてみてください、かな。 (谷川俊太郎

ーー谷川俊太郎の《大学の教師とか定職を持たずに職業としての詩人を貫いた態度をめぐっては、ここにいくらかのまとめがある。


かつて批評家中村光夫の「ですます調」というのがあって、おそらく当時猖獗した小林秀雄風の究極の「である」「だ」調の文体の反動・反発としてもあったのではないか。加藤周一や森有正の硬質な文体にも若いころ魅せられた身であり、わたくしにはどうも中村光夫のスタイルは気に入らなかった(では谷崎潤一郎の『文章読本』の「ですます調」はどうなのか、といえば、あれはあれで気にならない、いや、あの啓蒙的な部分も多い内容にはむしろふさわしいという感があるので一概には言えないのだが、やはり谷崎の技倆というしかないもので、おそらく末尾に書かれる「含蓄について」の節における「意味のつながりに間隙を置くこと」という工夫が味気なさを生まない秘訣のひとつだろう、流麗ななかにも読み手を立ちどまって振り返らせる工夫があるのだ。)。

わが国が歴史時代に踏入った時期は、必ずしも古くありませんが、二千年ちかくのあいだ、外国から全面的な侵略や永続する征服をうけたことは、此度の敗戦まで一度もなかったためか、民族の生活の連続性、一貫性では、他に比類を見ないようです。アジアやヨーロッパ大陸の多くの国々に見られるように、異なった 宗教を持つ異民族が新たな征服者として或る時期からその国の歴史と文 化を全く別物にしてしまうような変動は見られなかったので、源平の合戦も、応仁の乱も、みな同じ言葉を話す人間同士の争いです。 (中村光夫『知識階級』)

吉本隆明による中村光夫の「ですます」調批判は次の如し。

…「です」とか「ます」とかいう口調で、対象とする作品あるいは作家に批評の言葉が思い入れをすることを回避したこと。しかしそれが同時に味もそっけもない、これほど読んでつまらないものはないというスタイルになった一つの理由だとぼくは理解しています。(吉本隆明

もっとも蓮實重彦などは中村光夫の批評を小林秀雄より評価している。蓮實重彦の小林批判は、高橋悠治による小林秀雄批判に続くもので、ーー高橋の文は、小林の安っぽいトリックへのもっとも鮮烈な批判として有名だがーー、それににまさるとも劣らない辛辣さをもっていおり、小林秀雄の文章の「メロドラマ」性を批判する、ーー《名高い小林秀雄のランボー体験、モーツァルト体験などは、いずれも遭遇の物語であり、舞台装置や背景までが詳述されている。これは風景の中での制度的な遭遇にすぎず、いわばよくできた思考のメロドラマだ。》(『表層批判宣言』)

※蓮實重彦の小林秀雄をめぐっては以前抜き書きしたものがあるので、末尾にやや詳細に附記する。

そして浅田彰、柄谷行人、蓮實重彦、三浦雅士は、中村光夫を吉本隆明の上におく(『近代日本の批評  昭和篇(下)』)。もちろん一時的に吉本隆明が無闇に崇められたへの時代の風潮への反発もあったはずだ。70年代の柄谷行人や蓮實重彦の批評文には、吉本隆明賛とも受けとれる文がある。『マス・イメージ論』(84年)前後から吉本隆明の発言への失望があったこともあるだろう。ようするに吉本のポストモダン的風潮への媚態に嫌気がさした人たちがいた。

――などということをメモしているのは、新垣隆という方が話題になっているので、どんな人なのか、と検索している中に、大野左紀子氏の文章の「ですます」調に当たったからだ。大野さんはかつて美術活動の実践者で、「なんでもアート」と呼ばれることに鬱憤を抱いてその業界から去ったとある。





いまは教師と批評活動をされている方だが、わたくしと同年輩の「芸術」に関心のある方がどんな見方をもっているのか、あるいは教師の目で、いまの若い人への対応の苦慮、あるいは考え方の異和などをブログで書いておられ、数年前からほぼ全記事を読む習慣をもっていた。が、このところiPADを修理に出していたことがあり、テト休みをはさんで二週間ほどご無沙汰していたところでの「新垣隆」の記事である。

ここでは「新垣隆」をめぐってはメモするつもりはない。ただブログでは「ですます」調で書くことはたしか稀であったはずなのに、著書では「ですます」調で書いているのだな、ということにいささか意外感を覚えた。記事内容も演奏家たちの苦闘ぶりが書かれており、やや関心のあるところなので、その個所を引用しよう。

数年前、あるシンポジウム で音楽プロデューサー の平井洋さんとご一緒したことがあります。五嶋みどり をはじめ日本を代表する音楽家のマネジメント やコンサートのプロデュースを、長年やってこられた方です。平井さんによれば、クラシック音楽の分野では「今は一握りの人を除いて、プロがなかなか食っていけない時代」。

 伺ったお話をまとめると、「少し前ならトップクラスは演奏家 で、二番手ならオーケストラに入り、三番手の人はヤマハ音楽教室 で教え、その次は自宅でピアノ教師をするというように、食べていく手段が皆それなりにあった。今はオーケストラのバイオリン の空きポスト一つに人が殺到し、少子化 で音楽教室には人が集まらない。住宅事情も悪く騒音問題もあるので、ピアノを買える家が少なくなった。どこの音楽ホールもお金が無く運営に苦心している。でも、これが当たり前なんだと思うべき。この状況で何ができるかを考え工夫することが大切」。

 ここから二つのことが言えると思います。一つは、これまでの「芸術の振興」は社会全体の安定と豊かさを前提としてきた。二つ目は、単に芸術だから守られるべきだということは言えない。一番目については、低迷する景気と政治的閉塞感の中での橋下氏当選[2011年、大阪市長 に橋下徹 が当選したことを指す]といった現象が端的に示していますし、詳しい説明は不要でしょう。

二つ目について。現在は、ポピュラー音楽 が低俗な娯楽でクラシック音楽が高級な芸術、あるいはポピュラーがわかりやすくクラシック は難しい、とはならなくなりました。趣味嗜好や価値観が多様化 している中で、クラシックもポップスもジャズ もロックもヒップホップ も現代音楽も歌謡曲も民謡 も、音楽としてはどれも同等。どれが重要でどれがそれほどでもないという言い方は、できないのです。そんな中で、かつてはヨーロッパ貴族の庇護のもとにあり、次いで「文化となった芸術」[近代以降の芸術は当初は既成の文化に対抗する「前衛」として現れ、やがて文化となっていくという意味]として制度の恩恵を受けてきたクラシック音楽は、売れなければ生き残れないポピュラー音楽に比べると、経済活動 が貧弱です。日本発の文化ではないので、能や歌舞伎 のような伝統芸能 としての保護は望めません。海外で活躍する日本人アーティストに期待がかけられますが、国内で強い存在感を示すには「工夫」が必要ということになるのでしょう。(『アート・ヒステリー 』第一章 アートがわからなくてもあたりまえp.79~p.80

こういった文体で書くのは、編集者からの要請もあったのかもしれない、若い人に受け入れ易くとか親しみやすくとかの類の。だがわたくしの古い感覚ではいささか失望感を覚える。《「です、ます」調で書かれた文は、相手にそれとなく同調を迫り、相手を自分のペースに巻き込んで、うやむやのうちに同調させようという圧力を持つと私は思う。「です、ます」調の文に対しては批評意識が働かせにくい》(中井久夫)のだ。

「なんでもアート」に反発して創作活動から離脱した人までが、そして「アート=良いもの」を疑うというテーマなのに、このような読み手への媚びを感じざるをえない文体で書くというのは、水村美苗と同じ嘆息をつきたくなる。だがもうそんなことはとっくの昔に諦めざるをえなくなってしまったのだろうか。教師の立場としてやむ得ないこともあるのではあろうが……


メタ言語を破壊すること、あるいは、少なくともメタ言語を疑うこと(というのも、一時的にメタ言語に頼る必要がありうるからである)が、理論そのものの一部をなすのだ。「テクスト」についてのディスクールは、それ自体が、ほかならぬテクストとなり、テクストの探求となり、テクストの労働とならねばならないだろう。(ロラン・バルト『作品からテクストへ』)

「アート」についてのディスクールは、それ自体が、「アート」にならなければならない。「アート」の探求であり、アートの労働にならなければならない。


批判的な文脈で小林秀雄の名を挙げているが、ここでは致し方ない、次のように肯定的に小林秀雄に触れよう。小林は、彼が敬愛するアランを引きつつ、音楽家も詩人も小説家も一種の物を創り出す人間であり、思想家さえもそうだと言う。「鑿を振り上げる外にどうしようがあるのか」そういう行為が思想だと。「思想といふ一種の物を創る仕事」「文体を欠いた思想家は、思想といふ物に決して到る事は出来」 まい、と。https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/4267/1/92304_278.pdf


ーーなどということは、もちろん何十年間に何人かの書き手の問題ではあるが、あまりにも読者に擦り寄るのもどうかと思うーーとするのも酷な時代なのだろうな。



◆水村美苗「著者と語る『日本語が亡びるとき』 水村美苗 2009.2.6」)より


水村美苗)教育の場で近代文学をもっと読ませるというのには、 さらにもう一つ重要な点があります。それを私は難易度の不可逆性と呼んでいるのですが、 一度近代日本文学を読んだ人にとって、いまのものを読むというのは実に簡単なんです。 スカスカだから、 パッパッと読んでいける。

ところが、 いまのものしか読んでいない人にとって、 逆は無理なんです。 読書力というのは運動と同じです。 若いうちに密度の濃い文章を読む訓練を受けないと、 若いうちに歩かなかった人と同じで、 脳が読書力をきちんと育てられない。 ですから、 大学を出るぐらいまでに、 これだけの近代文学を読んでおくというのが当たり前だというような教育を与えてほしい。

質問)  『日本語が亡びるとき』 の、 その亡びるという意味ですけれども、 つまり日本語がなくなるというようなことはないんですね。 日本語で考える力が衰えること、 イコール日本語の亡びであるというような意味かなと思っているわけですが、 そういうことでよろしいですか。

水村) そうですね。 人間として精神的に活発な人が日本語を読まなくなる。 少なくとも、 日本語を真剣に読まなくなる。 日本語を読む人たちが、 日本語で書かれたものに大きなものを求めなくなるにつれて、 大志を持った人たちが日本語で書かなくなるという、 悪循環のようなものが始まるのは避けたいということです。

例えば、 漱石には、 途中で死んでしまいましたけれども、 正岡子規がいた。 正岡子規のような人がいるんだから、 何を書いたって、 とことん自分の日本語をわかってくれる人がいると得心できたと思うのです。 つまり、 書く人間にとっては、 どれぐらいの人がどれぐらいのレベルで読んでくれるだろうかということが重要なのです。 二葉亭四迷なんか読むと、 ああ、 これだけの密度のものを読者が読むのを期待して書けたんだと、 それがうらやましく思います。

こんな密度で書いてしまったら、 いまの人は読んでくれないだろうと。 それに加速度がついて、もう読みやすいということだけに重点が置かれるようになるんじゃないかと。

ここで唐突に、蓮實重彦のテオ・アンゲロプロスへのインタビュー(『光をめぐって』より)から抜き出してみよう。モンタージュは、《観客である人間の聡明さというものに対する信頼のなさをしめすものであるような気がする》と語る彼の言葉を。

モンタージュによる映画を見ていて私が苛立つのは、それは二つの画面の相互介入といった衝撃の上に成立しているのですが、そのとき、その画面を指差して、ほら、このイメージをよく見なさいといった押しつけの姿勢が感じられることです。つまり、強調という作業が行われているわけで、それは、私にとっては、観客である人間の聡明さというものに対する信頼のなさをしめすものであるような気がする。観客を、ちょっと子供のようなものとして扱い、さあ、これに注目しなさいといっているようなものです。ワンシーン・ワンショットの映画では、見る人間の知性と感性とにより多くの自由を残そうとしています、ひとつの画面にあって、観客は、そのしかるべき要素を自分で発見し、自分でそれを組織だててゆく。その時間的推移は、モンタージュにおけるよりはるかに現実の時間に近い。そうすることで、死んだ時間、停滞する時間に対する観客の感性を豊かなものにすることも可能になります。
……

───そのことはとてもよくわかり、まさにそうした点においてあなたの映画に興奮するわけですが、そうした場合、あなたは、観客を全面的に信頼しておられるのですか。

観客にはいろいろ種類があります。アンドレ・マルローが「映画の心理学」でいっているように、映画にとっての障壁が産業であるなら、それによってわれわれは条件づけられてしまう。それはよかろう。だとするなら、選択しなければならない。その一つは、映画を撮りはするが、いつか沈黙におしやられはしないかという危険をいつでも身に感じながら撮り続けるという姿勢をとるか、それとも、いま一つの姿勢として、他の誰もが撮るようなやり方で、つまりモンタージュの映画か、説話論的有効性の映画、等々もつくってゆくことにするか、その二つに一つしかない。つまり、沈黙に向かうか、金銭に向かうか、その選択ということ以外にありえないわけですが、どうでしょうか、ある作家たちは、こうした二つの方向を厳密に選択することなく、複雑な経路をへながらも、みごとな作品を撮り続けることができる。おそらく、私には、そうしたことはできないと思う。しかし、私はそれで他人を批判しようとは思いません。あらゆる批判派自分自身にむけられます。

もちろん「押しつけの姿勢」とは程遠いゴダールのようなモンタージュがあることをわれわれは知っている。

ところで、すべての「ですます」調ではないが、やはりその調子は多くの場合、時代風潮に屈したスタイルに思えてしまう。抵抗は諦めて、多くのひとに読まれることのみを望んでいる、などと臆断するつもりはないが。冒頭近くに書いたように啓蒙的な内容ならば、「ですます調」がふさわしいということもあるのだろう。


北野武が語る「暴力の時代」

―監督は先ほど「エンターテイメントに徹している」と仰いましたよね。今言われたような編集で間を詰めるということと、エンターテイメント性というものは、監督の中では繋がっているものなんでしょうか?

北野:うん。結局今の時代ってさ、テレビを観てても、お笑いの奴が喋ってる言葉がわざわざ吹き出しテロップで出てくるじゃない? 耳の不自由な方は別だけどさ、「え? そこまで丁寧なの?」っていう感じがあるんだよね。そういう時代だから、後姿や背中でものを言うなんて時代じゃないのかな、って思うよね。

―なるほど。

北野:登場人物が相手をじっと睨んでて、映画を観てる人に「あ、こいつ絶対復讐を考えてんだな」なんて思わせるような間を作ることができなくなってきてる。「てめえ、殺すぞ」って言った方がいい。

こうして二人の映像作家の発話文を抜き出したが、なにが言いたいのかをごたごた説明するつもりはない。

《人間として精神的に活発な人が日本語を読まなくなる。 少なくとも、 日本語を真剣に読まなくなる。 日本語を読む人たちが、 日本語で書かれたものに大きなものを求めなくなるにつれて、 大志を持った人たちが日本語で書かなくなるという、 悪循環のようなものが始まるのは避けたいということです》というのは、もうとっくの昔に折込ずみで、戦線放棄ってわけでもあるまい? 

「リーダビリティ」の重要性を頻りに言い募り、「ですます調」で書く評論家たちもいるが、そして彼らのそれなりの役割を認めないわけではないが、読後に襲われるあの味気なさはなんなのだろう、ーーということも多くの若いひとたちは感じなくなっているわけだな……。

《言葉が尽きずに、改行もなしにとめどなく流れつづけてゆくことの恐怖というのが、いまの時代の姿なのかも知れません。しかしそれを崩れと観るという感受性それ自体が、こんなに萎えてしまっているのではねえ。》(松浦寿輝発言 古井由吉・松浦寿輝『往復書簡集 色と空のあわいに』)

ーー監督は今の時代というものをどう捉えてらっしゃいますでしょうか。

北野:もう、末期かも知れないと思うけどね。何百万年という人類の歴史において、文明とかあらゆるものは、絶滅する時代が必ずあって。無くなることで、新しいものが出てくる。そういう風に考えると、人間はもう行き詰まったなっていう感じはあるよね。人間が生き物として頂点に君臨している時代がついに終わりを迎えられるような気がするよね。

―なるほど。

北野:もしかしたら、あと20年か30年後に世界中の人が「このときから人間の破滅は始まってた」って言うんじゃないかな。それが今日のことを指すのかもしれないし。我々が幕末の話をするときに「このときにはもう江戸幕府は終わってたね」って言うのと同じように、世界のあらゆるものが崩壊しだしている。

《勇気を失ってはいけない、(……)多くのことが、まだまだ可能なのだ。あなたがた自身に笑いを浴びせることを学べ、当然笑ってしかるべきように笑うことを学べ。》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)


…………

上に断片を引用した中井久夫の文をもうすこし長く引用しておく。

日本語の敬語もよく考えると単に丁寧さの程度だけではない。われわれは同じ対象に向って「です、ます」調で講演し、「である」調で文を綴る。

「です、ます」調が講演や会話で選ばれるのは、接続がやさしいからである。実際、「です」「ございます」は、文から独立して、喚起的な間投詞(というのであろうか)として使用されている。「あのですね、実はですね、昨日のことでございますが、あのう、お電話をさしあげたんですがね、いらっしゃいませんでしたですね。それでですね……」。こういう用法は、顔が見えない電話での会話で頻用される。

「である」にこの作用をもたせると、政治演説になる。「のであるんである」は政治家の演説を嘲笑するのに恰好である。しかし、予想外に多くの批評家の文に「のである」の頻用を発見する。「だ」の間投詞的用法は某政治家が愛用して「それでだ、日本はだ、再軍備してだ……」とやっていたが、「突っぱねるような調子」と批評され、不人気の一因となった。

「のである」を、私は「ここで一度立ち止まっていままでの立論を振り返れ」というしるしと見る。どうしてもなくてはかなわぬ場合以外に使用すると相手をむやみに立ち止まらせ、相手の頭にこちらの考えを押し込もうとする印象の文になり。品が下る。

「です、ます」調で書かれた文は、相手にそれとなく同調を迫り、相手を自分のペースに巻き込んで、うやむやのうちに同調させようという圧力を持つと私は思う。「です、ます」調の文に対しては批評意識が働かせにくい。京都学派がかつて頻用した「なかろうか」にも同じ傷害を感じる。

日本文の弱点は語尾が単調になることで、語尾を豊かにしようと誰も苦心するはずだ。動詞で終ることを多くする。体言止めにする。時に倒置法を使う。いずれもわるくない工夫である。(中井久夫「日本語を書く」1985初出『記憶の肖像』所収)


附記:蓮實重彦の小林秀雄批判

……高橋氏が引用するのは、いうまでもなく、「僕が、はじめてランボオに、出くはしたのは、廿三歳の春であった。その時、僕は、神田をぶらぶら歩いてい た、と書いてもよい。向こうからやって来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである」で始まる一節である。だがそれにしても、これが「一種の狂暴 な<出会い>として一挙に起こったのだ」という点に注意すべきだとする高橋氏が、すかさず「精神が精神に触れ合う危機」を語り始めるとき、ここで小林氏が 嘘をついているという事実になぜ気づこうとしないのだろう。というより、小林氏は嘘をつくべく強いられているのだ。「神田をぶらぶら歩いていた、と“書い てもよい”」の、動詞「書く」がフランス語の譲歩による語調緩和の「条件法」に置かれている点を見逃してはなるまい。それに続く瞬間的な衝撃性の比喩とし ての「見知らぬ男」の殴打、「偶然見付けたメルキュウル版」に「仕掛けられてて」いた「爆薬」、「敏感」な「発光装置」、「炸裂」などの比喩は、事件とし てあったはずのランボー体験を青春の邂逅の光景としてしか語りえない「貧しさ」に苛立っていた言葉が、「書いてもよい」を恰好な口実として一挙に溢れだし て小林氏を裏切り、ほとんど無償に近い修辞学と戯れさせてしまったが結果なのであり、問題の一節にあって「条件法」的語調緩和の余韻をわずかにまぬがれて いる文章は、最後に記される「僕は、数年の間、ランボオといふ事件の渦中にあった」という一行のみである。つまり、真の小林的ランボー体験は、その装われ た性急さにもかかわらず、徐々に、ゆっくりと引き伸ばされ、時間をかけて進行した事件だったのである。わざわざ「『地獄の季節』の見すぼらしい豆本」とこ とわっている小林氏は、書物の言葉をかいくぐって一挙に「精神が精神に触れ合う危機」などを演じてしまうほどに、「精神」を信用してはおらぬ、それとも高 橋英夫は、小林氏が言葉にもまして「精神」を尊重していたとする確かな証拠でも握っているのであろうか。(……)

……だが、多少とも具体 的な夢へと立ち戻りうる者になら、人が「未知」の何かと「偶然」に遭遇したりはしないという点が素直に理解できるだろうし、そればかりか、むしろ「出会 い」を準備しうる環境と徐々に馴れ合い、それを通じて出会うべき対象をかりに無意識であるにせよ引き寄せ始めていない限り、遭遇などありえはしないとさえ 察知しうるはずだ。つまり、小林秀雄は、大学における専攻領域の選択、交遊関係などにおいて、詩人ランボーの書物と「出会い」を演じて決して不思議ではな い環境にあらかじめ住まっていた「制度」的存在なのであり、そのときすでに、ボードレールもパルナシアンの何たるかも知らされてしまっていたのだ。そうで なければ、「メルキュウル版の『地獄の季節』の見すぼらしい豆本」を「ある本屋の店頭で、偶然見付け」るといったペダンチックなメロドラマは起こったりし まい。いずれにせよ、こちらがそれらしい顔でもしていない限り、「見知らぬ男」が都合よく「僕を叩きのめし」てくれるはずがなく、だからあらゆる「出会 い」は「制度」的に位置づけられ準備され組織された遭遇なのであって、その位置づけられ組織されたさまを隠蔽するために、人は「出会い」を擬似冒険的な色 調に塗りこめ「文学」と「青春」との妥協に役立てずにはいられないのだ。(蓮實重彦「言葉の夢と批評」『表層批判宣言』所収)


2013年11月25日月曜日

書かれた言葉と音声で発せられた言葉(吉本隆明=柄谷行人)

ところで、和歌の韻律は「文字」の問題とどう関係しているのだろうか。国学者は、荷田在満の「国歌八論」以来、音声によって唱われた歌と、書かれた歌の差異を問題にしてきたといえる。本居宣長において、『古事記』の歌謡は唱われたものであり、歌謡の祖形だとみなされた。吉本隆明は、賀茂真淵が指摘したように、それらは祖形であるどころか、すでに“高度”なレベルにあるという。

《いま『祝詞』には、「言ひ排く」、「神直び」、「大直び」という耳なれない語が、おおくみつけられる。はじめに<いいそく>、<かむなほび>、<おおなほび>という言葉があった。成文化するとき漢音文字をかりて、「言排」、「神直備」、「大直備」と記した。これが、<言ひ排く>、<神直び>、<大直び>と読みくだされる。この過程は、なんでもないようにみえて、表意、あるいは表音につかわれた漢字の形象によって、最初の律文化がおおきな影響をこうむった一端を象徴している。<いいそく>、<かむなほび>、<おおなほび>といえば、すくなくとも『祝詞』の成立した時期までは、あるあらたまった言葉として流布されていた。「なほび」という言葉は、神事、あるいはその場所などにかかわりのある言葉としてあった。<かむ>とか<おほ>とかは尊称をあらわしていた。そのころの和語は、適宜に言葉を重ねてゆけば、かなり自在な意味をもたせることができたとみられる。しかし、これを漢字をかりて「言排」、「神直備」、「大直備」のように表記して、公式な祭式の言葉としたとき、なにか別の意味が、漢字の象形的なイメージ自体からつけ加えられた。これは和語の<聖化>のはじまりであり、<聖化>も律文、韻文化へのひとつの契機と解すれば、ここにすでに歌の発生の萌芽のようなものは、あった。

成句や成文となれば、さらに律化、韻化の契機はふかめられた。語句の配列はそのもので、ひとつの律化だからである。》(「初期歌謡論」)


この注目すべき吉本隆明の考えにしたがえば、歌の発生、あるいは韻律化はそもそも漢字を契機としている。宣長が祖形とみなすような「記」、「紀」の歌謡は、文字を媒介しなければありえないような高度な段階にある。それは音声で唱われたとしても、すでに文字によってのみ可能な構成をもっている。《たぶん、宣長は、<書かれた言葉>と<音声で発せられた言葉>との質的なちがいの認識を欠いていた。すでに書き言葉が存在するところでの音声の言葉と、書き言葉が存在する以前の音声の言葉とは、まったくちがうことを知らなかった》(「初期歌謡論」)(柄谷行人『日本文学史序説』講談社文芸文庫 P73-74)


万葉集(7~8世紀編輯)は、もともとすべて漢字(万葉仮名)で書かれていたわけだが、たとえば万葉仮名で書かれた大伴家持の歌は次の如し。

(万葉仮名文)都流藝多知 伊与餘刀具倍之 伊尓之敝由 佐夜氣久於比弖 伎尓之曾乃名曾

(訓)剣大刀 いよよ研ぐべし 古ゆ 清(さや)けく負ひて 来にしその名そ

ひらがなやカタカナは9世紀前後の発明だから、それ以前のひとは、上のように書かれていたものを訓読みしていたということになる。吉本隆明のいうように、漢字の字面から《なにか別の意味が、漢字の象形的なイメージ自体からつけ加えられた》のは、指摘されてみれば当然なのだろうが、そんなことにはなかなか気づかない。


『古事記』の最も美しい箇所のひとつ(とういうかこの前後しか殆ど知らないのだが)、「沼河比売求婚」の箇所の原文(万葉仮名)はこんな具合らしい。


此八千矛神、将婚高志国之沼河比売、幸行之時、到其沼河比売之家、歌曰、

夜知富許能(やちほこの) 迦微能美許登波(かみのみことは)
夜斯麻久爾(やしまくに) 都麻麻岐迦泥弖(つままきかねて)
登富登富斯(とほとほし)  故志能久邇邇(こしのくにに)
佐加志売遠(さかしめを)  阿理登岐加志弖(ありときかして)
久波志売遠(くはしめを)  阿理登伎許志弖(ありときこして)
佐用婆比爾(さよばひに)  阿理多々斯(ありたたし)
用婆比邇(よばひに)   阿理加用婆勢(ありかよばせ)
多知賀遠母(たちがをも) 伊麻陀登加受弖(いまだとかずて)
淤須比遠母(おすひをも) 伊麻陀登加泥婆(いまだとかねば)
遠登売能那須夜(をとめのなすや)
伊多斗遠於曾夫良比(いたとをおそぶらひ)
和何多多勢礼婆 比許豆良比(わがたたせれば ひこづらひ)
和何多多勢礼婆 阿遠夜麻邇(わがたたせれば あをやまに)
奴延波那伎奴(ぬえがなきぬ) 佐怒都登理(さのつとり)
岐芸斯波登與牟(きぎしはとよむ) 爾波都登理(にはつとり)
迦祁波那久(かけはなく) 宇礼多久母(うれたくも)
那久那留登理加(なくなるとりか) 許能登理母宇知(このとりもうち)
夜米許世泥(やめこせね) 伊斯多布夜(いしたふや)
阿麻波勢豆加比(あまはせずかひ) 許登能加多理(ことのかたり)
其登母許遠婆(こともこをば)

   

  現在の解釈
   
 此の八千矛(やちほこの)神、高志(こしの)国の沼河比売を婚(よば)はむとして、幸行(い)でますの時、その沼河比売の家に到り、歌よみしたまひしく。
   
  八千矛の 神の命は 八島国 妻枕(つまま)きかねて 
  遠遠(とほとほ)し 故志の国に 賢(さか)し女を ありと聞(き)かして
  麗(くは)し女を ありと聞(き)こして さ婚(よば)ひに あり立たし 
  婚(よば)ひに あり通(かよ)はせ 太刀が緒も いまだ解かずて
  襲(おすひ)をも いまだ解かねば おとめの 寝(な)すや板戸を
  押(お)そぶらひ 我が立たせれば 引こづらひ 我が立たせれば
  青山に 鵺(ぬえ)は鳴きぬ さ野つ鳥 雉(きざし)はとよむ
  庭つ鳥 鶏(かけ)は鳴く 心痛(うれた)くも 鳴くなる鳥か
  この鳥も 打ち止(や)めこせね いしたふや
  天馳使(あまはせつかい) 事の語り言も 是(こ)をば
  


ーー「八千矛の」が「夜知富許能」と書かれていたことを知れば、エロス的解釈が生れるのも頷ける。「登富登富斯(とほとほし)」やら「遠登売能那須夜(をとめのなすや)」なども想像力を刺激する漢字面だ。


「夜知富許能迦微」(八千矛の神)が、女の寝ている家の戸を激しく押し揺すぶり、立っていると(和何多多勢礼婆〔わがたたせれば〕)ーーここで夜知富許が、「空しく勃然としていると」などとしたくなる人がいてもおかしくないーー、沼河比売(ヌナカハヒメ)は、未だ戸を開けずに(未開戸)、内から歌を曰(ひけらく)(詠んだ)、つまり、上の八千矛神の妻問(沼河比売(ぬなかわひめ、奴奈川姫)への求婚)とされる文に引き続く沼河比売返歌の箇所は、詩人高橋睦郎の名訳がある。

八千矛神(やちほこのかみ)よ、この私はなよなよした草のようにか弱い女性ですから、私の心は浦や洲にいる鳥と同じです。いまは自分の思うままにふるまっている鳥ですが、のちにはあなたの思うままになる鳥なのですから、鳥のいのちは取らないでください……
いまは朝日がさしてきた青山ですが、やがて夕日が沈んだら、まっ暗な夜が来ましょう。あなたは朝日のように晴れやかに笑っていらっしゃり、さらした梶の皮の綱のような白い腕、泡雪のような若やかな胸を抱きかかえ、玉のような手と手とをおたがいに枕とし、股を長々と伸ばして寝ましょうに、そうやみくもに恋いこがれなさるものではありません……(『古事記』現代語訳)

<高橋睦郎『読みなおし日本文学史-歌の漂泊-』岩波新書1998>

高橋睦郎訳にて、《玉のような手と手とをおたがいに枕とし、股を長々と伸ばして寝ましょうに》とされている箇所は、岩波文庫翻訳では、《眞玉手(マタマデ) 玉手さし枕(マ)き 百長(モモナガ)に 寝(イ)は寝(ナ)さむを》であり、原文は次の通り。

麻多麻傳(またまで)多麻傳佐斯麻岐(たまでさしまき)毛毛那賀爾(ももながに)伊波那佐牟遠(いはなさむを)

毛毛那賀爾(ももながに)→百長(モモナガ)に→股を長々と伸ばして、と見比べるとなかなか味わい深い。

あるいは岩波文庫(訳者倉野憲司)のみに於いても、原文の「麻多麻傳(またまで)」を「眞玉手(マタマデ)」としているのは、これもなかなか粋な漢字遣いである。

…………



柄谷行人は最近でも次のように語っている(

日本精神分析再考(講演)(2008))。

たとえば、平安時代に、各地の人々が京都の宮廷で話されている言葉で書かれた「源氏物語」を読んで、なぜ理解できたのか。それは彼らが京都の言葉を知っていたからではありません。今だって各地の人がもろに方言で話すと通じないことがあるのに、平安時代に通じたはずがない。「源氏物語」のような和文がどこでも通じたのは、それが話されていたからではなくて、漢文の翻訳として形成された和文だったからです。紫式部という女性は司馬遷の『史記』を愛読していたような人で、漢文を熟知している。にもかかわらず、漢語を意図的にカッコに入れて『源氏物語』を書いたわけですね。

あらためていうと、日本人は漢字を受け取り、それを訓読みにして、日本語を作り上げたのです。ただ、その場合、奇妙なことがある。イタリア人はイタリア語がもともとラテン語の翻訳を通して形成されたことを忘れています。しかし、日本人は、日本語のエクリチュールが漢文に由来することを忘れてはいない。現に漢字を使っているからです。漢字だから、外来的である。しかし、外部性が感じられない。だから、日本では、韓国におけるように、漢字を外来語として排除もしないのです。ところが、日本では漢字が残りながら、同時に、その外部性が消去されているのです。そこが奇妙なのです。

ここで、漱石の「当て字」を、《

「作品」を決定論的凝固から解き放ちたいという彼の骨がらみの欲動の表現として読み解かれるべきではないのか》とする松浦寿輝を引いてみよう。

『こころ』も『明暗』も要するにただの絵空事であり、その道具立てとして導入された「先生」だの「K」だの「津田」だの「小林」だのは、言語記号の組合せによって表象される想像的な人物イメージの戯れの積分的な総体に与えられた、仮の名前にすぎない。なるほど、一人一人の登場人物に一貫した自己同一性とリアルな存在感を賦与しようという意図を作家が抱いていたことは間違いなかろうが、しかしたとえそうであっても、創造の「今」において漱石は、そのつど確率論的な揺らぎの中で、むしろ“適当に”書いていたはずである。漱石の筆が運動しつつある、その「今」の現場には、過誤も思い違いも混同も意識せざる誇張も自家撞着も裏切りも、何もかもがいちどきに呼びこまれえたのであり、またそうした人間的“いい加減さ”に大胆に身を委ねることで、彼の「作品」における運動はいよいよ豊かな、また生気に満ちたものになっていったはずなのだ。漱石の文体における「当て字」の問題なども、むしろ「作品」を決定論的凝固から解き放ちたいという彼の骨がらみの欲動の表現として読み解かれるべきではないのか。(松浦寿輝「表象と確率」『官能の哲学』所収 文庫P190)


すべてが漱石起源の当て字かどうかははっきりとは窺い知れないが、漱石の小説には、「美人局」「五月蠅い」「胡魔化す」「何でも蚊んでも」、「焼持」「尻持」「食ひ心棒」「非道い」「草臥れる」「場穴」「三馬(秋刀魚のこと)」「兎に角」 「急勝 せっかち」「酒唖酒唖 しゃあしゃあ」などがあるようだ。

これらのなかにはその後多用されて陳腐化してしまったものもあるが、当時の読者には言葉の意味を《決定論的凝固から解き放つ》驚きとしてあったことだろう。



※追記

……ありふれたバカげた錯覚に反して、漢字はたんに表意的なのではなく、表音性をもっている。そして、漢字文化圏の諸民族において、漢字の表音性を利用して、それを一種の「仮名」として用いるさまざまな試みがあった。しかし、結果的に、漢字をエクリチュールのなかに吸収したのは、日本だけであり、他の周辺諸国はそれを最終的に放棄したか、現在の朝鮮がそうであるように放棄しつつある。たとえば、朝鮮では、漢字はその音声のままで(朝鮮化した発音であろうと)取り入れられた。また、エクリチュールとしては漢文が主であり、十五世紀に表音的なハングルが発明されたにもかかわらず、ほとんど使用されなかった。それに対して、日本では、漢字は、同時に、日本語での意味=音声(訓)で読まれたのである。そうした「漢字仮名混交」というエクリチュールは、すでに八世紀の『古事記』に見いだされる。国学者の意見に反して、『古事記』の文章は、当時の俗語を筆写したものではなく、それ以前に企てられた正史として漢文で書かれた『日本書記』にもとづいて、それを俗語に翻訳しようとしたものなのである。この時点では表音的に用いられた漢字は、まもなく簡略化され「仮名」として用いられるようになる。いうまでもなく、当時もそれ以後も、漢文が「真名」としてあった。そのために、仮名のエクリチュールは「女文字」と呼ばれている。事実、それは十世紀以後に大量の女流文学を生み出している。しかし、基本的に日本のエクリチュールは、漢字と仮名の併用である。

国学者は、仮名のみによって書かれた女流文学に、真の「大和魂」を見いだした。確かに、『源氏物語』では、紫式部は、きわめて意識的に漢語を排除している。シナから導入した律令制のもとにあり、また仏教が浸透した宮廷において、もっと日常的に漢語が使われていたことはまちがいない。そして、漢文が同時代では、京都の宮廷をこえたところで通用する唯一の「共通語」であった。彼女がそれを拒んだことに、宣長は「漢意」への批判を見いだしている。しかし、たとえば、ダンテは俗語を選んだ理由として、ラテン語は「愛にふさわしい言葉」ではないといっている。その意味で、歌や物語が「愛」にもっぱらかかわるがゆえに、漢語をしりぞけた言葉が選ばれたといってもよい。しかし、『源氏物語』が当時から広範囲で読まれたのは、それがたんに俗語で書かれたからではない。漢文を自在に読み書くことができた紫式部が、意図的に漢語を排除しているとしても、その漢語から来る意味を、乏しい大和言葉の語彙でいおうとしているからである。そのことが大和言葉をエクリチュールとして規範化することになったのだ。それは同時代に京都で話されていた俗語とはほとんど関係がないだろう。しかし、愛あるいは男女関係という主題に限定された王朝女流文学のエクリチュールは、その他の領域では通用しない。当時もそれ以後も、日本のエクリチュールの主流は「漢字仮名混交」である。(柄谷行人「エクリチュールとナショナリズム」『ヒューモアとしての唯物論』所収 p68~)








2013年5月28日火曜日

『日本美術文化序説』序説(加藤周一)

加藤周一(1919-2008)の代表作は、『日本文学史序説』(1980)だろう。もちろん、より若い頃の著作『雑種文化』(1956)や『羊の歌』(1968)、あるいは『芸術論集』(1967)や折々の政治的言説をまとめたものも、かつてはよく読まれたが、未来に生き残り続けるであろうのは、『序説』ではないか。

私は自分では研究者仲間からディレッタントと思われるくらい比較的に関心対象が広いほうだと思ってますが、その私が逆立ちしても加藤君の視界には及ばない。加藤君の守備範囲が広すぎるのではなく、日本の文学者やアカデミシャンの守備範囲(或は攻略範囲)が狭すぎるから余計目立つのです。(丸山真男「文学史と思想史について」

ところで加藤周一は、『日本文学史序説』上梓の後、『日本美術文化序説』の企画をもったが果たさなかった。

『絵のなかの女たち』の「あとがき」(1998.5)には次のように書かれている。
絵または造形美術一般について、今の私の関心は、日本美術史の見取図に向かっている。『日本 その心とかたち』十巻(平凡社)を作ったのは、そのためであり、さらに話を詳しくして、日本美術文化序説を書こうとも考えている。そういう観点からすれば、この本は序説の序説でなこともない。


『続 羊の歌』のなかの友人との会話の叙述、《「政治の話はもうやめよう」と彼はいった。「ぼくはひっそりと片すみで暮したいよ」……》(参照:「なんのために」ーーー加藤周一『羊の歌』より)は、加藤周一の独語として、つまり自らの内心でこういった問いを繰り返すこともあったのではないか、として読んでみたい誘惑に駆られることがある。少なくとも、「ひっそりと片すみで暮し」ていれば、文化・芸術方面の仕事がより増えただろう。だが、それを犠牲にしてーーという言い方が正鵠を得ていないのは十分承知のうえだがーー、2004年(85、九条の会の発起人となるなどに至るまで、政治的な仕事に傾斜してゆくことになる。


…………


『絵のなかの女たち』はとても<美しい>本だ。もともと「マダム」(鎌倉書房)と「太陽」(平凡社)に連載された文が所収されている。

この本は一方で「女たち」に係り、他方で「絵」に係る。「まえがき」にはこうある。

人は忘れ得ぬ女たちに、偶然の機会に、出会う、都会で、旅先の寒村で、舞台の上で、劇場の廊下で、何かの仕事の係わりで。そのまま二度と会わぬこともあり、そのときから長いつき合いが始まって、それが終ることもあり、終らずにつづいてゆくこともある。しかし忘れ得ないのは、あるときの、ある女の、ある表情・姿態・言葉である。それを再び見出すことはできない。

再び見出すことができるのは、絵のなかの女たちである。絵のなかでも、街のなかでと同じように、人は偶然に女たちに出会う。しかし絵のなかでは、外部で流れ去る時間が停まっている。10年前に出会った女の姿態は、今もそのまま変わらない、同じ町の、同じ美術館の、同じ部屋の壁の、同じ絵のなかで。

私はここで、想い出すままに、私が絵のなかで出会った女たちについて、語ろうとした。その眼や指先、その髪や胸や腰、その衣裳や姿勢……その一瞬の表情には、――それは歓びに輝いていたり、不安に怯えていたり、断乎として決意にみちていたり、悲しみにうちひしがれていたりするのだが、――私の知らない女の過去のすべてが凝縮され、当人にさえもわからない未来が影を落としている。私は場面を解釈し、環境を想像し、時代を考え、私が今までに知っていたことの幾分かをそこに見出し、今まで知らなかった何かをそこに発見する。現実の女が、必ず他の女たちに似ていて、しかも決して他のどんな女とも同じではないように。


あるいはナポリ国立考古美術館所蔵の「フローラ」(作者不詳)と師宣の「見返り美人」をめぐって叙された「後ろ姿の女たち」には、こうある。




現実の世のなかでは、(……)一般に道を行く見ず知らずの女の後ろ姿は、あるときは優美で、あるときは粗野であり、あるときは魅力に溢れ、あるときは魅力を欠く。しかしいずれにしても、そこには「見かつ見られる」関係が成立せず、こちらが相手を見るだけで、相手はこちらを見ることがない。見る側の視線は相手を対象化し、観察し、比較し、見えない部分を想像し、菱川師宣が「見返り美人」を眺めたように、人の姿をみるのである。そのとき、対象と観察者との関係は、美的あるいは感覚的であって、深い感情的な係わりではない。

しかし人生のもっとも感動的な瞬間に、女の後ろ姿を見ることもある。たとえば、別れゆく女の後ろ姿。その別れは「甘い悲しみ」であることもあり、苦い悲しみであることもあろう。安堵や憐憫や恥辱であるかもしれない。しかし常に、後ろ姿を見つめる男は、顔が見えなくても、女の心や気持ちや意識の特定の状態を、知っているか、少なくとも知っていると感じている。女が何処に去るのかは、わかっていることもあり、わかっていないこともあるだろう。しかし常に、再び相見ることのたしかな保証はないということ、何かが終り、再び何かが始まるとしても、それは今終ったことと全く同じではあり得ないだろうということを、明瞭に、あるいは不明瞭に、感じている。

寝室で、家の扉の前で、街の雑踏のなかで、あるいは吹雪の駅頭や真夏の照りつける空港で、別れてゆく女の後ろ姿に、男は決して華麗な衣裳や官能的な身体の線を見ない。そうではなくて、ただ人生の一回性、または時間の非可逆性そのものを見るだろう。かのローマの画家も、その壁面に彼の「フローラ」を描いたとき、一度去って再び来らず、しかも彼の人生の意味を決定する何ものかを、描こうとしていたのかもしれない。




これらは、女との恋の溢れる追憶を抑えこむようにした「数学的な美」の文体で書かれているといえるだろう。

《……その結実としての文体は、すぐれた数学者のつくる数式のような美しさがある。》(小倉朗「加藤周一」)


余談だが、音楽家小倉朗は、 『自伝 北風と太陽』などで名文章家として絶賛された時期がある。高橋悠治の「小倉朗のこと2」におけるわずかな引用文にもその片鱗は間違いなく窺われる。

1950年代の小倉朗は、後になって「なぜモーツァルトを書かないか」(1984)のなかで「音の流れが進みながら、句読の和音(ドミナント)に向って盛 り上がり切り立っていくその波頭や、砕けて散るしぶきの中に、あたかも夜光虫の光のように光を放つ感情」と要約されているような古典主義にたどりついた。 それから日本語のリズムと抑揚に注目し、それも研究というよりは、じっさいにわずかな音をうごかしながらメロディーを作曲し、そのなかで発見していくプロ セスだった。「日本の耳」(1977)は、その経験を書いている。

音楽的感情は、音楽の輪郭となるもの、それ(ら)は、分析の結果あらわれる構成要素や、計算された配列のように、分離され、定義され、操作されるというよ りは、うごく音の全体として共有される。音楽が響くとき、さまざまな感じかたのちがいを包みこみながら、だれのものでもない空間がひらく。ちがうことを感 じながら自由に歩き回れる場で、音そのもののあらわれから位相を移しながら、ちがいをそのままに人びとの心を通わせる通気口になる。それが音楽のもつ強さ としなやかさと言えないだろうか。

小倉朗が作曲から離れていこうとしていた頃に書いた「竹」(1977)という文章の一節、「だが、そうして竹の枝がほとんど露わになったある朝、竹全体が 不思議なうす緑の光につつまれているのを見る」、竹の葉が枯れて飛び離れていった後に萌え出た若葉が逆光を浴びている瞬間、そこにそれぞれの意志と方向を もって飛び交う音を包む場の予感が感じられたのだろうか。

…………


かつて桑原武夫は《加藤氏は感動を醒めた言葉でしか語らない。彼は人を酔わしめることがない。人を醒まそうとする》(「加藤周一氏をめぐる断片語」)と書いたが、これらの文はわたくしを酔わしめる。


女との別れを書いた文は、『羊の歌』のなかにもいくつかある、たとえば。


――「そんなことってあるかしら。こんなに待っていたのに」と加藤周一の洋行帰りをながく待っていた京都の女がつぶやく。

ここには驚愕した陶器の顔の女の口がある。

《四人の僧侶/畑で種子を播く/中の一人が誤って/子供の臀に蕪を供える/驚愕した陶器の顔の母親の口が/赭い泥の太陽を沈めた》(吉岡実「僧侶」)

吉岡実のエロティックな意味合いを離れて、「鷭の声に変化した女の声」を聴きもしよう。

《水べを渉る鷭の声に変化した女の声を聴く》(「感傷」)

私はながく彼女を愛していると持っていたが、ひとりの女にほんとうに夢中になったときに、彼女と私の間の関係がそれとちがうものであったことに気づいた(……)。相手の責任のない不幸を、私が相手の生活のなかにつくり出す、ということを承知の上で、私が行動するーー行動せざるをえない、というときに、その当の相手と話すことのあるはずがない。私は喋り、喋ることの無意味さを感じ、疲れきった。私は放心状態で彼女に別れ、二度と会うまいと考えた。もはや相手のことを考えつづける気力もなかった。それは完全に自己中心的な状態である。しかしそういう状態が成立すると同時に、私はそういう自分自身を第三者のように眺めていた。この「自己」とは何だろうか。一人の女から去って、別のもう一人の女へ向う人間の内容は何であろうか。その二人の女との関係を除けば、私のなかには何も残らず、ただ空虚だけが拡がっているように思われた。(加藤周一『続 羊の歌』)


女にふられての場合もあるだろう、「甘い悲しみ」や「苦い悲しみ」――、それらは「忘れ得ない」。そのことが簡潔でエレガントな文体で書かれることに酔う。


女との別れ、あるいはその後ろ姿――、「必ず他の女たちに似ていて、しかも決して他のどんな女とも同じではない」女たち。そこに「ただ人生の一回性、または時間の非可逆性そのものを見るだろう」。


《いちはつのような女と/はてしない女と/五月のそよかぜのような女と/この柔い女とこのイフィジネの女と/頬をかすり淋しい。/涙とともにおどる/このはてしない女と。》(西脇順三郎「無常」)

《けやきの木の小路を/よこぎる女のひとの/またのはこびの/青白い終りを》(同「秋」)

《柿の木の杖をつき/坂を上っていく/女の旅人突然後を向き/なめらかな舌を出した正午》(同『鹿門』)


これらの詩句をも聯想させる『絵のなかの女たち』の文章に、加藤周一の最上のものをみるなどは言いつもりはない。そもそも加藤周一のすべてを網羅して読んでいるわけでは、決してないのだから。

あるいは人それぞれ自分にあった眼鏡があるのだ、わたくしの老眼がすすむ今の眼にはぴったりくるというだけだ。

私の読者たちというのは、私のつもりでは、私を読んでくれる人たちではなくて、彼ら自身を読む人たちなのであって、私の書物は、コンブレーのめがね屋が客にさしだす拡大鏡のような、一種の拡大鏡でしかない、つまり私の書物は、私がそれをさしだして、読者たちに、彼ら自身を読む手段を提供する、そういうものでしかないだろうから。したがって、私は彼らに私をほめるとかけなすとかいうことを求めるのではなくて、私の書いていることがたしかにその通りであるかどうか、彼らが自身のなかに読みとる言葉がたしかに私の書いた言葉であるかどうかを、私に告げることを求めるだけであろう(その点に関して、両者の意見に相違を来たすこともありうる、といってもそれは、かならずしも私がまちがっていたからそういうことが起こるとはかぎらないのであって、じつはときどきあることだが、その読者の目にとって、私の書物が、彼自身をよく読むことに適していない、ということから起こるのであろう)。(プルースト「見出された時」)


加藤周一が愛した森鴎外の史伝、「渋江抽斎」「伊沢蘭軒」「北条霞亭」などの文体、同じくこの史伝を範とする永井荷風や石川淳の系譜の文体をみるといっても、そこには加藤周一の彼らとは異なる個性の味わいが深く刻まれている。若き日、ヴァレリーの『レオナルドダビンチの方法』に魅せられたことからくる「分析的精神」はもちろんだが、かつ堀辰雄や立原道造に傾倒したひとびとの集まりでもあった「マチネポエティック運動」の星菫派風の余燼が見え隠れする――、一歩間違えば感傷に堕っしかねないリリシズムを決然と反転させて、「爽快な抒情」を装うスタイルとでもいおうか。だが欲望の裂け目、その《胚種が、場所を選ばず、あなたの念頭に現れる。それはキャフェでかもしれず、列車の中かもしれず、友だちとしゃべっているときかもしれない(それは、その友だちが話していることがらの側面から突然出現するのだ)》(『彼自身のロラン・バルト』)



そこにひとは加藤周一の脇の甘さ・隙を見て嘲笑するなどということはあり得る。

ーー吉本隆明による加藤周一「雑種文化」論批判、《さしずめ、西欧乞食が洋食残飯を食いちらしたあげく、伝統詩形に珍味を見出しているにすぎない》(吉本隆明「三種の詩器」1958)

いずれにせよ、すくなくとも二十世紀のある時期以降、感傷にひたる俗物を批判するのが文学・批評の重要なつとめであることは明らかである。それはますます昂じて、いまは「感傷」を曝すことを、ひとびとはひどく怖れる。
現代の世論は恋愛の感傷性ということに冷淡である。恋愛主体はこの感傷性を、わが身ひとりを衆人環視の中にさらすたぐいの、強度な侵犯行為として引き受けざるをえなくなっている。つまり、ある種の価値転倒により、今日では、この感傷性こそが恋愛のみだらさをなしているのである。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』)

あるいは、《歴史的転倒。今や下品とされるものは性的なものではない。実際にはそれもまた別の道徳にほかならぬものによって非難された感傷性こそが、下品なのである。》(同)

おまえはもっともらしい貌をして、難しく厳しく裁断するがじつは、おまえは少女たちの甘心を買うためにそういう姿勢をしはじめたのではなかったか。遠いアドレッセンスの初葉の時に。そう云われていくぶんか狼狽するように、これらの自然詩人たちへのかつての愛着を語るときに狼狽を感じる。(吉本隆明歳時記「夏の章――堀辰雄」)



 …………



暁と夕の詩  立原道造


沈黙は 青い雲のやうに

やさしく 私を襲ひ……

私は 射とめられた小さい野獣のやうに

眠りのなかに 身をたふす やがて身動きもなしに


ふたたび ささやく 失はれたしらべが

春の浮雲と 小鳥と 花と 影とを 呼びかへす

しかし それらはすでに私のものではない

あの日 手をたれて歩いたひとりぼつちの私の姿さへ


私は 夜に あかりをともし きらきらした眠るまへの

そのあかりのそばで それらを溶かすのみであらう

夢のうちに 夢よりもたよりなく――


影に住み そして時間が私になくなるとき

追憶はふたたび 嘆息のやうに 沈黙よりもかすかな

言葉たちをうたはせるであらう


…………



そう、ときに加藤周一の甘美な抒情が洩れ溢れるのに狼狽を感じつつも、決然とそれを断ち切ろうとする醒めた理知的文体、そのふたつのものの混淆に酔う。

《……私は昔からの読者の一人として、その著作に現代の日本文学をよむことの大きなよろこびを見出してきたのである。その川端康成の死後今日まで、私には容易に消えない感慨がある。さらば川端康成。これは私の知っていた川端さんへの「さらば」であるばかりでなく、私の内なる「川端的」なものへの「さらば」でもある。前者は死別の事実に係る。後者は――決別の願望である、おそらく容易に実現されないであろうところの、しかし断乎としてその実現に向うべきところの。》(加藤周一「さらば川端康成」)

私のつきあいの範囲では、美しいという言葉を今なお悪い意味じゃなく、いい意味で使ってる人は、芸術家でも、画家でもない、数学者です。数学者は使う。あるいは、数学的な自然科学、例えば物理学者です。古典熱力学の体系は、あれは「優美」だ、と言います。それは美しいという。あるいは数学者は、問題の解き方が三つある、どのほうほうでも解ける、しかし、三つの解決法の中で、一番美しいのはこれだからこれを採りましょう、と言います。

その時は美しいという言葉を使います。美しいという言葉は、二〇世紀以降はむしろ数学者にまかせた方がいいのではないかと思います。数学者は、美しいを定義しろと迫れば多分「簡単」と答えるでしょう。複雑な解決法よりも、簡単・単純な方が美しい、ということです。(加藤周一「語りおくこといくつか」)


2013年5月26日日曜日

マチネ・ポエティック運動


遠い心の洞のなか

扉のひらく時を待ち

乱れて眠る赤はだか

緑の髪の娘たち


白い泉の畔りには

しじまを染めて立昇る

炎 記憶の燃える岩

仄かに明日は透きとほる

……  

ーー中村真一郎「真昼の乙女たち」より



頭韻が「と」「と」「み」「み」、「し」「し」「ほ」「ほ」とありAABBの形式。
脚韻が「か」「ち」「か」「ち」、「は」「る」「は」「る」とありABABの形式。

これが戦後まもなく結成された福永武彦、中村真一郎、加藤周一、窪田啓作、白井健三郎などの詩運動『マチネ・ポエティック』の詩の試みのひとつであり、すべてソネット(十四行詩)である。



死の馬車のゆらぎ行く日はめぐる

旅のはて いにしへの美に通ひ

花と香料と夜とは眠る

不可思議な遠い風土の憩ひ



漆黒の森の無窮をとざし

夢をこえ樹樹はみどりを歌ふ

約束を染める微笑の日射

この生の長いわだちを洗ふ


……

ーー福永武彦「火の鳥」より


こちらは脚韻だけの試み(だろうか? 一部頭韻がないでもない)。


福永は三好達治の追悼文で「戦後、私が友人たちと定型詩を試み「マチネ・ポエチック詩集」を出した時に、三好さんは鋭い批評を下された。好意的悪評といったものだが、三好さんの位置が、その発言に権威あらしめたために、この批評は決定的に私たちを敗北させた。」と振り返っている。その三好の批評文とは「マチネ・ポエテイクの試作に就いて」である。ここで三好はマチネの詩作が「つまらない」と表明する。

《奥歯にもののはさかつた辞令は、性分でないから、最初にごめんを蒙つて、失礼なことをいはしてもらはう。まづ、同人諸君の作品は、例外なく、甚だ、つまらないといふこと。諸君が危惧してゐられるやうに、決してそれは難解ではないが、私にはいつかうつまらなかつたといふこと。詩に於ける難解といふことはその詩の魅力と並立してこそ、はじめて成立ちうる性質の難解であつて、魅力を欠いた孤立した難解といふやうなものは、昼まのお化けで、ありつこない。》(三好達治)

その上で三好は日本語においてなぜ押韻定型詩が不可能なのかを、理由を三点挙げ説明する。一つは「脚韻の効果」が薄いこと、つまり「日本語の声韻的性質」である「常に均等の一子音一母音の組合せで、フィルムの一コマ一コマのやうに正しく寸法がきまつて、それが無限に単調に連続する」ために、押韻は「読者の注意を喚起」しない。二つめは「命題の末尾(原則として脚韻の位置)を占める動詞の数は、中国語や欧羅波語の場合当然その位置を占めるべき名詞の数に比して、比較にもならぬ位その語彙は少数」となるために、「窮屈な貧しさ」を露呈すること。最後にマチネの詩作に「文章語脈ないしは翻訳口調の、入り乱れて混在する」ことを指摘し、そこに「いかにも不熟で、ぎこちなく、支離滅裂で、不自然」な点があるとし、この背景には「文章語脈」の形式性が「我々の今日の領分」に相応しいように「きり崩されて」いないこと、「現在の口語脈」の未成熟、「翻訳語脈」の日常生活への不適応性があるとしている。(「マチネ・ポエティクと『草の花』」西田一豊)mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/irwg10/Jinbun37-06.pdf



もっとも彼らの試みは誤っていず、彼らが詩人でなかっただけだなどと評する人もいる。

…………



三好達治は、ほかにも星菫派の名残りがないでもない大岡信の第一詩集『記憶と現在』の中の「六月」について、次のように批判しているようだ。

国文畑の出身と聞く作者が、「鳥たち」「花々」などといふのは、もと、変てこな語感に違いない。意味のアイマイなだけ、音調においてはするすると滑りのよい、それらの比喩、...それらは、かんじんの「詩」の犠牲に於て、その「突貫工事」を突貫しようとするのであらうかと…


あわせて、吉本隆明による加藤周一の雑種文化論への批判を記しておこう。

《さしずめ、西欧乞食が洋食残飯を食いちらしたあげく、伝統詩形に珍味を見出しているにすぎない》(吉本隆明「三種の詩器」1958)


ーー加藤周一は吉本隆明を、《日本人特有の『いまとここ』主義から生まれる際限の無い現状肯定の見本》(出典不明)と批判しているようだ。


…………

つち澄みうるほひ

石蕗〔つわぶき〕の花さき
       
あはれ知るわが育ちに

鐘の鳴る寺の庭


――室生犀星「寺の庭」

…………

…三好が詩に於てつとに萩原朔太郎を宗としたことは周知のとほりだが、その詩境をうかがふに、年をふるにしたがつて、むしろ室生さんのはうに「やや近距離に」あゆみ寄つて来たのではないかとおもふ。萩原さんの詩はちよつと引つかかるところがあるけれど、室生さんの詩のはうはすらすら受けとれると、げんに當人の口から聞いたことがあつた。萩原さんをつねに渝らず高く仰いてゐた三好として、これは揣らずもみづからの素質を語つたものだらう。ちなみに、そのときわたしは鑑賞上それと逆だと應へたおぼえがある。また三好が酣中よくはなしてゐたことに、芥川龍之介は百發九十九中、室生犀星は百發わづかに一中だが、のべつにはづれる犀星の鐵砲がたまにぶちあてたその一發は芥川にはあたらないものだといつて、これにはわたしも同感、われわれは大笑ひした。つち澄みうるほひ、石蕗の花咲き……といふ室生さんの有名な詩は三好が四十年あまりにわたつで「惚れ惚れ」としつづけたものである。「つち澄みうるほひ」はまさに犀星の一發。このみがき抜かれたことばの使ひぶりは詩人三好が痩せるほど氣に入つた呼吸にちがひない。(石川淳「三好達治」『夷斎小識』所収)

…………
                   
褐色(かちいろ)の

根府川石(ねぶかはいし)に

白き花はたと落ちたり、

ありとしも靑葉がくれに

見えざりし さらの木の花。 


ーー森鴎外「沙羅(さら)の木」


この鴎外の詩をめぐって、中井久夫は次のようにいう、《押韻もさることながら、「褐色の根府川石」「石に白き花はたと」「たり/ありしとも青葉がくれに/みえざりし」に代表される遠韻、中間韻の美は交錯して、日本詩のなかで稀有な全き音楽性を持っている》。さらにこの詩がボードレールの詩句の巧みな換骨奪胎であるとする。(『分裂病と人類』)

…………

中井久夫は現代ギリシャ詩について次のように書いている。

突然、現代ギリシャの詩が私を捉えた。「古代」の間違いではない。現代ギリシャが、二人のノーベル賞詩人セフェリスとエリティスを初めとする優れた詩の源泉であるという知識はかねてよりあった。だが遠い世界だった。第一、私は詩人ではない。

若い友人の結婚式のスピーチを考えていた。甘美で格調のある祝婚の詩はめったにない。たまたま英訳エリティス詩集が書架にあった。たちまち冒頭の「エーゲ海」に吸いこまれた。なんとか日本語にした。結婚式のスピーチ代わりにはなる程度のものができた。

次のページをめくった。次も。私は魅了された。空と海と鷗と白い島と。乾いた夏と湿った冬と。太陽と裸体とセミと星明りの夜ときつく匂う草と。独特の漁船と生乾きの海藻の香と。そして何よりも風。庭を吹き荒れ、樹を揺るがせ、平原をこうこうと吹く風があった。舞い、ひるがえり、一瞬停止し、どっど駆け出す風のリズムがあった。

原文を少し入手した。現代ギリシャ語。鋭い言葉である。母音は短いアイウエオだけ、それもイ、エが多いから。そして我が国語純化論者なら嘆くだろう “乱れ” 。文語が現存し、口語は江戸弁のままという粗さで、しかも両方が混じる。生まの方言で論説や科学論文を書くとすれば、雅語や漢語を加えねばならぬ。そこに生じる混乱、この荒さ、鋭さ、変化が、例えばエリティスの傑作「狂ったザクロの木」になるのだろう。

私の訳で紹介しても甲斐ないことだが、歌い出しは「南の風が白い中庭から中庭へと笛の音をたてて/円天井のアーチを吹き抜けている。おお、あれが狂ったザクロの木か、/光の中で跳ね、しつこい風に揺すられながら、果の実りに満ちた笑いを/あたりにふりまいているのは?/おお、あれが狂ったザクロの木か、/今朝生まれた葉の群れとともにそよぎながら、勝利にふるえて高くすべての旗を掲げるのは?」である。全六連の最後までザクロの木を歌っているのか風なのか定かならぬままにしばしの陶酔を私に与えてくれる。(中井久夫「ギリシャ詩に狂う」)

中井久夫は日本語も捨てたものじゃないと語っているようにも見える、ただ工夫が足らないだけだと。


ここで、現代日本の詩に特有のことかもしれないが、押韻や定型を云々する以前に、詩は音読されねばならないかどうかが問題である。詩は必ずしも音読する必要はないかもしれない。これは、その人がどういう感覚によって詩を作りあるいは味わっているかという問題があって、当否で答える問題ではないと思う。ここで、音読とは、聴覚だけの問題ではないことを言っておくにとどめよう。たとえば、舌と喉頭の筋肉感覚があり、口腔の触覚を始めとする綜合感覚もある。私は、リッツォスの「三幅対」の第三において「接吻の直後にその余韻を舌を動かしながら味わっているひとの口腔感覚」を、音読する者の口腔に再現しようとしたことがある。

きみの舌の裏には、カレイの稚魚がいる。
ブドウの種がある。桃の繊維がある。
きみの睫毛の投げかける影には
暖かい南国がある……

(リッツォス『括弧Ⅰ』「三幅対」三「このままではいけない?」)

もし、音読を詩の必要条件の一つとするならば、いや、詩は時に読まれるべきものだとするなら、改行とは音読をガイドする働きを持っているかもしれないという仮説が生まれる。私は、改行とは、第一に、読む速度をそれとなく規定するものであると考える。長い行ほど早口で読むようにと自然に人を誘導すると私は思う。

視覚的言語が二つの要請を音声に与える。一シラブル(正確には一モーラ)をほぼ同じ速度で読ませようとする「文字」と、一行全体がほぼ同じ時間内に読まれる権利を主張する「行」とのせめぎあいである。これはシラブル数が不定な詩においては特に著しい。その結果として、読後の緩急が決ってくる。この緩急は、行の末端が作り出す上り下りによって、読者にあらかじめ示唆されている。
(……)

私の訳詩は思い入れをこめた緩急な朗読を予想していない。私は、現代日本語の美の可能性の一つは、速い速度で読まれることによる、母音と母音、子音と子音、あるいは母音と子音の響き合いにあるのではないかと思っている。(……)日本語のやや湿った母音は単独ではさほど美しくなくとも、その融け合いと響き合いとが素晴らしい美を醸成することを、私は信じている。
(……)

私は、詩の読まれる速さが、単純に一行の字数で決まるといっているのではない。まず、わが国においては、詩のたいていは漢字かな混じり文である。複雑な漢字は、その存在そのものが一字で二音以上である可能性を示唆し、読む者に、ゆるやかに読もうという姿勢を取らせる。また、漢字の多い行は、当然短くなる。これも、短い行はゆるやかに、という示唆のために、ゆるやかに読む姿勢を強化するだろう。

(中井久夫「詩の音読可能な翻訳について」『精神科医がものを書くとき Ⅱ』広栄社 所収)

2013年4月25日木曜日

変てこな語感


すこしまえにその断片を読んだ荒川洋治の詩の朗読批判には次のような文がある。



「朗読をはじめると、同音異義語など、耳にやっかいな表現を排し、耳に意味が届くとろけた言葉を好んで使って書くようになるので言葉も思考もやせほそる。朗読詩人(現代詩人の大多数)は例外なく知名度を高め、みずからの詩の質量を落とした」



――日本語の同音異義語の多さは世界に誇るとはしばしば語られるけれど、ちょっとしたスピーチをしても、たとえば「コウセイ」、これは「漢字でこう書くコウセイ」です、といわねばならない、ーー構成、校正、公正、厚生、攻勢、更正、後生、後世、恒星……、と。

一方、たとえば多和田葉子は同音異義語だけではなく漢字の形態の近似性から文を紡いで、その自由と飛躍、わけのわからなさと突拍子もなさを齎す(高橋アキと組んで朗読会やってるな)


雲はときに蜘蛛でもあるが、このすりかえは日本語でしか成立しない。わたしはわたしだけの脈絡を見る。作中に登場する蝶と鰈、そうして作者の多和田葉子。いずれの中にも枼字がひそむ。漢字圏の読者には即座に見える単なる事実も、他言語読者にとっては存在しない。いやもしかして意味を欠いた字面を見る分、むしろそちらが目につくこともあるかも知れない。一方、日本語話者にとってさえ、耳で聞いた音だけから、鰈と蝶の共通点に気がつくことはむずかしい。確固とした存在がひらりと身をかわすのではなく、雲のようにそこにある。手を伸ばすと形を変えて、腕を引いてもそのままでいる。そのくせ不意に現れて、突然消えてしまったりする。(円城 塔「響遏行雲」

まあそんなにカタイことを主張するなよ、荒川さん、と言いたいところだが、荒川洋治の詩をほとんど読んでいない(アンソロジーなどで出てきても掠め読む程度だ)ので、もう少し調べてみよう。

……

さて、すくなくともその初期には難解な詩を書くことで知られていた荒川洋治だが、大岡信はこう語っているようだ。


あれはH氏賞をもらっていて、H氏賞をだすということは十数人の既成詩人 が検討していいと認めたわけなんだけど、素朴な感想を言えば、選考に当った年長詩人諸氏は、この詩集を読んでわかったのかいなと気になってるんですけど ね。とくにあの詩集のはじめのほうの何篇かの詩は、僕にはとてもわからない。(現代詩手帖」:1977年、10月号、対談「詩意識の変容と言葉のありか」)


涌井隆氏は、荒川洋治の『娼婦論』をめぐって次のように指摘している。



『娼婦論』という詩集の題は、収録された最後の詩の題でもあるが、この詩 集全編は意味の網の目を張り巡らせており、読者はそれを解きほぐすようにして読むことを強いられる。例えば、「娼婦」という言葉は、様々な変奏を全詩集を 通じて繰り返す。「キルギス錐情」に出てくる「樵夫」は同音異義語であるし、「娼婦論」に出てくる「雪譜(せっぷ)」という言葉は、1)拙婦(愚妻)、 2)節婦(貞節な女性)、3)褻夫(淫乱な男)などの幅広い同音異義語を持っている。「雪譜」という語はまた、石婦(うまずめ)という語を連想させる。石 婦は同時に「石斧」という同音異義語に連なる。「斧」という語は明らかに男性生殖器を象徴しているから、この同音異義語の対は意味深げである。

図式化したらこういうことになるらしい。


      しょうふ


       樵夫                              娼婦

                                       オーラルセックス

                                          (「男斧のほおばりに疲れ」)

       褻夫                               石婦

       石斧                               拙婦、節婦

       (男)                            (女)



いくつか荒川洋治の詩の断片を引用しておこう


「指の数を憂えながら石女のやさしさで胎児を否決するとき」(「諸島論」)



「方法の午後、ひとは、視えるものを視ることはできない」(「キルギス錐情」)


「キルギスの草原に立つ人よ/君のありかは美しくとも/再び ひとよ/単に/君の死は高低だ//わたしは君を/地図のうえに視てい る/ときおりわたしのてのひらに/錐のように/夕日が落ち/すべてがたしかめられるだけだ」(同)



吉本隆明はかつて荒川洋治を、《若い現代詩の暗喩の意味を変えた最初の、最大の詩人》と称揚しているそうだ。



…………


なぜ技術かといいますと、当時はあいまいな意味の詩がぼくらをとりまいていた。意味というものは調子にのりすぎるとさまざまな価値の幻想を生みやすいもので、それが僕には耐えられなかった。ムーディーな形で意味の取引が行われていて、技術的な苦しみを経ていない……荒川洋治『技術の威嚇』1977


――この文は、冒頭の朗読批判にそのまま繋がる。


ところで三好達治は、大岡信の第一詩集『記憶と現在』の中の「六月」について、次のように批判したようだ。


国文畑の出身と聞く作者が、「鳥たち」「花々」などといふのは、もと、変てこな語感に違いない。意味のアイマイなだけ、音調においてはするすると滑りのよい、それらの比喩、...それらは、かんじんの「詩」の犠牲に於て、その「突貫工事」を突貫しようとするのであらうかと…



ははあ、日本語の名詞の複数ね、なかったんだよな。いや、ないんだよな。

ああ、そんなものか、そんなものだったのか、という感慨だな。いまはその「変てこな語感」に慣れてしまっているのか。

――しかし、詩人たちの、あるいは詩の読み手たちの陶酔のあり様に違和を覚えることはある。現在、時代は変ったにしろ、当時の三好達治はそれを言い当てているということができるんだろう。散文だってそうだ。ネット上の発話まで含めれば、《ムーディーな形で意味の取引が行われて》いると荒川洋治がいう文は枚挙に暇がない。そもそも甘っちょろい<詩的な>文を恥ずかしげもなく褒め合っている「文学好き」「詩好き」の連中に行き当たれば、「眼を閉じる」よりほかない――などと書けば皮肉になるが。オレもちょっと油断すればその類だね


「~たち」「花々」って類は、立原道造の詩によくでてくるな(初期大岡信は、立原の詩に影響を受けているのは明らかだ)。


逝いた私の時たちが 私の心を金にした 傷つかぬやう傷は早く愎るやうにと(「夏の弔ひ」)


あの日たち 羊飼ひと娘のやうに(「夏花の歌」)

逝いた私の時たちが(「夏の弔ひ」)

さまよひ歩くかよわい生き者たちよ(「溢れひたす闇に」)

風や 光や 水たちが 陽気にきらめくのを(「或る晴れた日に」)

――まいったね、いくらでも出てくる。「あれら」ってのもそうだ、

月は とうに沈みゆき あれらの/やさしい音楽のやうに 微風〔そよかぜ〕もなかつたのに(「さまよひ」)

堀辰雄系譜なんだろうな、堀辰雄の文を拾ってみることはしないが。

そして後継者はマチネ・ポエティックの連中(加藤周一、中村真一郎、福永武彦……)

加藤周一に「ある晴れた日に」って小説があるのだけれど、浅田彰はポストモダン小説と皮肉っているが、とんでもない恋愛小説だね(いや失礼、敬愛する加藤周一よ!)。

かれらを語るときにいくぶんか、気まずさと恥部をさらけだす辱かしい思いに誘われるのはなぜだろうか。おまえはもっともらしい貌をして、難しく厳しく冷たく裁断するがじつは、おまえは少女たちの甘心を買うためにそういう姿勢をしはじめたのではなかったか。遠いアドレッセンスの初葉の時に。そう云われていくぶんか狼狽するように、これらの自然詩人たちへのかつての愛着を語るときに狼狽を感じる。(吉本隆明歳時記「夏の章」)

――ここにも「これら」って出てくるが、これもダメなのかね

瀧口修造だって、「鳥たちはぼくたちをくるしくした/星たちはぼくたちをくるしくした/光のコップたちは転がっていた/盲目の鳥たちは光の網をくぐる(「地上の星」)として「たち」でリズムをとっているな

――カタイこというなよ、三好達治さん、と言いたいところだが……

「~たち」とすれば、(「たち」だけではなく、ほかにも音調のためだけの付加的接辞がたくさんあるだろう)音調においてはするすると滑りのよくなるに相違ない、それは、《「詩」の犠牲に於て、その「突貫工事」を突貫しようとする》ことでありうる。

たとえば西脇順三郎や吉岡実ならこういった言葉遣いを禁欲していたのだろうな、あまり思い当たらない


もうひとつ例を挙げれば、ヴァレリーの「海辺の墓地」の冒頭、かつては「鳩たちがあゆむ、この 静かな屋根、」などと訳された。中井久夫は、それを「鳩歩む この静かな屋根は」と訳している。



散文でもそうであって、――これは<わたくし>もよくやるなあ、「あれら」なんて口癖みたいなもんだーー、恥ずかしいことかね、そうなんだろうようよ、今でもそういったことに気をつけて書いている書き手はいるんだろう、金井美恵子あたりはどうだろうね

……


初期大江健三郎は翻訳調の多大な影響を受けて、次のように書いた。



数知れない鳥の羽ばたきが、かれを目覚めさせた。朝、秋の朝だった。かれの長々と横たわった体のまわりに無数の鳥がびっしり翼を連ね合って絶え間ない羽ばたきを続けている。かれの頬、かれの裸の胸、腹、もも腿の皮膚一面を、堅く細い鳥の足が震えを伝えながらおおっている。そして暗い部屋いっぱいに、森の樹葉のさやぎのように、いっぱいの鳥たちは、けっして鳴かず飛び立ちもせず、黙り込んだままけんめいに羽ばたきをくりかえしていた。鳥たちは不意の驚き、突然の不安に脅かされてそのあまりにざわめいている様子なのだ。

 

 

かれは耳を澄まし、階下の応接室で母親と男の声がひそかに続けられているのを聞いた。ああそういうことか、とかれは鳥たちへ優しくささやきかけた。羽ばたきはよせ、こわがることは何一つない、だれもおまえたちを捕らえることはできない。あいつらあは、外側の人間どもはおまえたちを見る目、おまえたちの羽ばたきを聞く耳を持っていないんだ、おまえたちを捕らえることなんかできはしない。

 

 

 安心した鳥たちの羽ばたきが収まり、かれの体一面から震える小鳥の足のかすかで心地よい圧迫が弱まってゆき、消えていった。そしてあとには、頭の皮膚の内側をむずがゆくし熱っぽくしてむくむく動きまわる眠けだけが残っていた。かれは幸福なあくびをし、ふたたび目をつむった。眠けは、鳥たちのようにはかれの優しい声に反応しないから、それを追いやることはむつかしいのだ。それはしかたのないことだ。眠けは現実の一部ということだ、《現実》は鳥たちのように柔らかく繊細な感情を持っていない。かれのごく微細な合図だけでたちまち消え去って行く《鳥たち》に比べて、《現実》はけっして従順でなく、がんこにかれの部屋の外側に立ちふさがっていて、かれの合図をはねつける。《現実》はすべて他人のにおいを根強くこびりつかせているのだ。だからかれはもう一年以上も暗くした部屋に閉じこもって、夜となく昼となく部屋いっぱいになるほど群れ集まって訪れる鳥たちを相手にひっそりと暮らしてきたのだ。(大江健三郎『鳥』)

 


アランは次のように書いている、《散文には媚がない。耳の期待をうらぎる。散文は絶対に歌おうとはしない。あの巫女の痙攣など散文は知らない。》ーー必ずしもこうであるべきとは言わない。


ーーニーチェのスタイルを思い出してるんだよ、原文は知らないけど

一種の音楽、一種思索的な音の調子、程度の差はあるがともかく厳密なアナグラムのゲームである。(私の頭はニーチェでいっぱいであった。読んだばかりだったのである。しかし私が欲していたもの、私が手に入れたがっていたものは、文である思想、という歌唱であった。影響は純粋に音調上のものであった。)》(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

アランだって? 「チョークの粉がつくる雲の中で教師然としているアラン」(ラカン)の言葉は、ほどほどにしてきいておこう



しかし、ドゥルーズ曰く、《文体とは、自らの言語のなかでどもるようになること。難しい。なぜなら、そのようにどもる必要がなければならないのだから。発語(パロール)でどもるのではない、言語活動(ランガージュ)そのものによるどもりなのだ。自国語そのものの中で異邦人のごとくであること。逃走の線をひくこと。》(『ディアローグ』)は、アランの言葉と共鳴しないでもない。


私はこれまでに時どき、詩人たちについてかなり手きびしく語ったことがある。雄弁家、それも非凡な雄弁家たちを、私はそれ以上に大して愛しているわけではない。いたって学識のある人が、そのことで私につっかかってきた。どんな話でも心底から出たものは雄弁の動きとリズムをおのずと帯びる。ただすぐれた詩においてのみ、このリズムは一そう規則立っているのだ、と彼はいう。彼はそこで実例をそらで引用したが、なかなかうまく択んだ。私は散文をしかるべく弁護するすべを知らなかった。散文は、読者が声を出して読むとかならず損なわれる。そして目の方がいっそうよく散文をとらえるように私は思う。散文には媚がない。耳の期待をうらぎる。散文は絶対に歌おうとはしない。あの巫女の痙攣など散文は知らない。どんな遠慮も知らず、いかなる宗教臭もない。これこそ、すっかりはだかになった人間性そのものである。筆致が道具のように喰い入るのだ。(「プロポ」)


上の話とはすこしおもむきが異なるが、「今どき文章がうまいというのは下品なこと」「感情的な、あるいは思考の上でのポイントに入るところで、あり来たりのものをもってくる」とする古井由吉を附記しておく。

今どき文学上のリアリズムっていうと、まあ多少文学を考える人はまともに付き合うまいと思うでしょう。リアリズムというのは、人がどこで得心するか、なるほどと思うか、そのポイントなんですよ。つまり人は論理で納得するわけじゃない。論理を連ねてきてどこか一点で、なるほどと思わせるわけです。その説得点あるいは得心点ともいうべきところで、形骸化されたリアリズムが粘るというのが、文学としてはいちばん通俗的じゃないかと思うんです。説得点にかかるところだけはすくなくとも人は真面目にやってほしい。つまりこんな言い方もあるんです。今どき文章がうまいというのは下品なことだと。それをもう少し詰めると、感情的な、あるいは思考の上でのポイントに入るところで、あり来たりのものをもってくる。筋の通ったあり来たりならいいですよ。もしもそういう筋の通った『俗』がわれわれにとって、説得点として健在ならば。しかし時代になんとなく流通するものでもって人に説得の感じを吹き込む、そういう文章のうまさ、工夫、これは僕はすべて悪しき意味の通俗だと思う。これがいわゆるオーソドックスな純文学的な文章にも、ミナサンの文学にも等しくあるわけだ。これをどうするのかの問題でね。(古井由吉・松浦寿輝『色と空のあわいで』)


ーーなどと引用しつつ、この<わたくし>の今書く文も、下品な、悪しき意味での通俗の振舞いをどこかでやっている筈でね……