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2013年6月4日火曜日

フロイトのナルシシズム的強迫型をめぐって

フロイトは、『ナルシシズム入門』(1914)で、二つの根源的な対象選択、つまり性愛の対象選択として、ナルシシズム型と依存型に分かれるとはしているが、すぐさま《すべての人間は一次的ナルシシズムをそなえており、これが場合によっては対象選択のさいに優勢に顕れてくることがあるかもしれない、と仮定するのである》(著作集3 p121、とつけ加えることを忘れない。

フロイトは、愛の対象選択として、

ナルシシズム型は、(a)現在の自分、(b)過去の自分、(c)そうなりたい自分、(d)自己自身の一部であった人物(子供)

依存型は、(a)養育してくれる女性、(b)保護してくれる男性

としている。

この二つの型は、たとえばラカン派ではしばしば語られ、たとえばラカンの娘婿でもあるジャック=アラン・ミレールは次のような例を挙げている。

It’s very much in evidence in love at first sight. The classic example, commented on by Lacan, is in Goethe’s novel, the sudden passion of young Werther for Charlotte, at the moment he sees her for the first time, feeding the rabble of kids around her. Here it’s the woman’s maternal quality that sparks off love. Another example, taken from my practice, is the following: a boss in his fifties is seeing applicants for a secretarial post; a young woman of twenty comes in; straight away he declares his love. He wonders what got hold of him and goes into analysis. There, he uncovers the trigger: in her he met traits that reminded him of what he had been at the age of twenty, when he went for his first job interview. In a way, he’d fallen in love with himself. In these two examples we see the two sides of love distinguished by Freud: either you love the person who protects, in this case the mother, or you love a narcissistic image of yourself.(Jacques-Alain Miller: On LoveーーWe Love the One Who Responds to Our Question: “Who Am I?”)

このふたつの型のうちの依存型も、第一次ナルシシズムをそなえている、とフロイトは書いているわけだ。つまり、すべての人間は自己愛者(ナルシシスト)であると言っているとしてよいだろう。

依存型の対象としての養育してくれる女性と保護してくれる男性というのは、例外はあるにしても、「母」と「父」とすることができる。この「両親」たちの幼児に向けての養育と保護の振舞いそのものが彼ら自身のナルシシズムであるとされている。

ものやさしい両親が子供たちにとっている態度を注意してみると、それがもうとっくに放棄された自己のナルシシズムの復活であり再生にほかならないことを認めないわけにはいかない(同 p123

そして、幼児的第一次的(原初的)ナルシシズムは、親のナルシシズムの投影から生まれる。ここで何が生じるのかといえば、親の側から不断に語りかけられ、ナルシシズムを投影された幼児は、<他者>の欲望に対する反応――<他者>は何を欲しているかという問いに応答することーーなのであり、この<他者>はイマジネールな小文字の他者ではなく象徴的な大文字の他者である。

「彼(彼女)は、私に話しかけることで、何を欲しているのか?」ラカンによれば、この<他者>の呼びかけを欲望として、そして自らへの「問いかけ」として引き受けるとき、象徴化が既に生じている(ラカンは、幼児にとっての、この「問い」の理解しがたさを「欠如(manque,lack)」と呼ぶ。(比嘉徹徳『ナルシシズムと<他者>』2003ーー参照:「うぬぼれとナルシシズム

こうして比嘉徹徳は、《自己愛の核には根源的な他者性が刻まれているというフロイト的ナルシシズムの論理に他ならない》と書いている。

《自己が対象を愛するのは、その対象の中に他ならぬ自己を見出すからだ》、とするフロイトの説明がこのように読まれるならば、その愛の対象は、想像的(鏡像的)な小文字の他者ではない、ということになる。

フロイトのナルシシズム概念は、一般に抱かれがちな観念、つまり、ナルシシズムとは自己像への病的な愛着であり、他者の視線を欠いている云々とは異なっている。それはフロイトにとって、せいぜい「二次ナルシシズム」をしか意味していない。他方、一次(=原初的)ナルシシズムは、他者を組み込んだ運動そのものを指している。(同比嘉徹徳)

比嘉徹徳によるフロイト解釈では、いわゆるナルキッソスの神話のナルシシズムは、根源的なナルシシズムではなく、第二次ナルシシズムに過ぎないとされているわけだ。

ギリシャ神話は、鏡に写る自分自身の姿以外の何物も気に入らなかった若者、そして同じ名の美しい花に姿を返られてしまった若者をナルキッソスと呼んでいる(フロイト『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』)

この主張は、ラカン、すくなくとも前期ラカン、セミネール一巻のフロイトの『ナルシシズム入門』の読解やら、セミネール三巻の次のようなラカンの発話に反する。

私達はナルシシズムの関係を対人関係の中心をなす想像的関係と考えています。…(中略)…。それは、実際は、一種の性愛的関係なのです。すべての性愛的同一化、つまり性愛的魅了という関係の中で、イマージュによって他者を捉えることはすべて、ナルシシックな関係という方法を介して行なわれます。また、それは攻撃的な緊張の基礎でもあるのです。(ラカン『精神病セミネール』)

わたしたちの通念としても、ナルシシズムは否定的な色調を帯びて使われることが多い、つまり「自己像への病的な愛着」として。そうでない自己愛が根源的なものだとする比嘉徹徳のフロイト読解による主張は、ナルシシズム概念に新しい光を照射しているとしてよいだろう。


…………


ところで、ルソーは自己愛amour-de-soiと利己愛 amour-propreとを次のように分けている。
素朴な情念はすべて直接にわれわれの幸福をめざしているので、それに関係のある目標しかわれわれをかかわらせず、自己愛amour-de-soiのみを原理としているので、本質的にまったく優しく穏やかなものなのです。しかし障害によって目標からそらされると素朴な情念は到達すべき目標よりも避けるべき障害のほうにかかずらって性質を変えてしまい、怒りっぽく憎しみに満ちた情念になる。まさにこのようにして、善なる絶対感情である自己愛amour-de-soiが、利己愛 amour-propre、すなわちたがいを比較させ選り好みさせる相対感情になるわけです。利己愛のもたらす喜びはただただ否定的なもので、利己愛はもはやわれわれ自身の幸福によってではなく、他人の不幸によってのみ満足させられるのです。(『ルソー、ジャン=ジャックを裁く--対話』)

このルソーの文に注目しつつ、ジジェクは、『Less Than Nothing(2012)の最終章で、《邪悪な輩は、自己愛者=エゴイストのことではない、なぜならエゴイストは自らの関心/利益にのみ注意を払うことに忙しく、他人の不幸などにかまっているほど余裕はないのだから。本当に厄介な「悪人」とは、自身へよりも他人への関心に没頭してしまう連中だ》という意味合いのことを語っている。
An evil person is thus not an egotist, "thinking only about his own interests." A true egotist is too busy taking care of his own good to have time to cause misfortune to others. The primary vice of a bad person is precisely that he is more preoccupied with others than with himself.A modest plea for enlightened catastrophism Slavoj Zizek


ここでの、ルソーの自己愛amour-de-soiを「第一次ナルシシズム」に近似するもの、利己愛 amour-propreを「第二次ナルシシズム」に近似するものとしてよいのかもしれない。

もっともルソーによって、自己愛amour-de-soiの情念の様相が、《本質的にまったく優しく穏やかなもの》とされており、比嘉氏により《自己愛の核には根源的な他者性が刻まれている》とされる第一次ナルシシズムが、必ずしもそうであるとは限らないだろう。だが、ナルシシズムが自己のなかの根源的な他者性に向うのなら、それは「隣人」にたいしては、「優しく穏やかなもの」であり得る。

他方、利己愛 amour-propreは《たがいを比較させ選り好みさせる相対感情》なのであれば、それは鏡像的な「第二次ナルシシズム」とほぼ同様な意味をもっているように思える。「私に似た」他の人々、競争や相互承認といった鏡像的関係を結ぶ私の同類たち、《私の似姿、鏡像としての隣人》(ジジェク)との相互感情。

そしてわたしたちが「ナルシシズム」を否定的な意味合いで使うとき(あいつは、たんなるナルシシストに過ぎないよ、などと)、それは「利己愛」のことだろう。

…………

そもそもわたしたちの社会通念では、ナルシシストは、愛するより愛されることを願う存在だとされているはずである。

フロイト自身、女性のナルシシズムについての箇所だが、次のように書いている。
……とくに美しく発育してゆくような場合には女性の自己満足が生じてきて、これが女性のために社会的に侵害された対象選択の自由の贖いをするのである。このような女性は厳密にいうならば、男性が彼女を愛するのと同じような強さをもって自分自身を愛しているにすぎない。彼女が求めているものは、愛することではなく、愛されることであり、このような条件をみたしてくれる男性を彼女は受け入れるのである。(『ナルシシズム入門』 p122

ところでこの1914年に書かれた『ナルシシズム入門』からかなり後の『リビドー的類型について』(1931)という小論では、ナルシシズム類型について、《主な関心は自己保存に向けられていて、自主的で、物おじするということはほとんどない。自我はいつでも大量の攻撃性を思いのままにすることができるのだが、これはいつでも行動に移りうることのなかにもよく表れている。愛情生活では、愛されることよりも愛することのほうが優位をしめる。》とまるで正反対のことが書かれることになる。これは、ルソーの自己愛amour-de-soiに近いことを語っているとしてよいのだろうか(その判別は保留して、まずなによりも、ルソーの自己愛は分裂病的なものだろう(注1)ーーそして、フロイトは当初、精神分裂病を自己愛神経症と呼んでいたことをも思い出そう(『本能とその運命』p65)。


心的装置の諸領域がどこでリビドーがおもに消費されるかにしたがって、三つのリビドー的類型を区別することができる。これに命名するのはそう簡単なことではない。われわれの深層心理学をたよりとして、私はエロティック型、ナルシシズム型、および強迫型と名づけることにしたい。

エロティック型はたやすく性格づけることができる。エロティック型の人というのは、そのおもな関心――そのリビドーの相対的に最大の量――が愛情性格にむけられているような人物である。愛すること、しかしとくに愛されることが、彼らにとってはもっとも重要なのである。彼らは愛を失うことに対する不安に支配されており、それゆえとくに、自分たちを愛してくれなくなるかも知れないようなおそれのある他のひとびとに左右されやすい。このような類型は純粋な形のままでも、よく見られる。これらの変種は、他の類型との混同や、同時にふくまれている攻撃性の度合にしたがって、生じてくる。社会的にも文化的にも、この類型はエスの要素的な欲動的要求を代表しており、その他の心的な要請はこのエスのいいなりになっているのである。

私がさしあたり強迫型というなじみのない名前をあたえた第二の類型は高度の緊張のもとに自我から分離してゆく、超自我の優勢ということで際立っている。この類型は愛の喪失に対する不安のかわりに良心の不安によって支配され、外への依存性のかわりにいわば内への依存性をしめしており、高度の独立性を展開して、社会的には、文化のどちらかといえば保守的な真の担い手となるのである。

第三の、正当にもナルシシズム的と名づけられた類型は、本質的には否定的な特性をもっている。自我と超自我とのあいだにはいかなる緊張もなくーーこの類型からは、超自我というようなものを設定することにはほとんどならなかったであろうーーエロティックな欲求の優越ということもなく、主な関心は自己保存に向けられていて、自主的で、物おじするということはほとんどない。自我はいつでも大量の攻撃性を思いのままにすることができるのだが、これはいつでも行動に移りうることのなかにもよく表れている。愛情生活では、愛されることよりも愛することのほうが優位をしめる。この類型のひとびとは「人格者」として、他の人たちに畏敬の念を起させるが、とくにふさわしいのは、他のひとびとのためによりどころとなってやることであり、文化の発展に新たな刺激をあたえたり、既成のものを打ちこわしたりする、指導者の役割を引き受けることである。

これら純粋な類型は、リビドー理論から導きだされたものではないかという疑惑をのがれるわけにはいかないだろう。しかし、純粋型よりもいっそう頻繁に観察される混合型に目を向けるならば、自分が経験というしっかりした地面の上に立っているのが感じられる。これらの新しい類型、つまりエロティック・強迫型、エロティック・ナルシシズム型、およびナルシシズム的強迫型は、事実われわれが分析学によって知った個々人の心的構造を、うまくとりおさめているように思われる。ずっと前からよく知られているもので、この混合型を追及してゆくさいに行きあたるような性格像がある。エロティック強迫型では欲動生活の優越が超自我の影響によって制限をうけているように見える。身近な人間的な対象に対する依存症と同時に、両親の遺物や教育者や模範などに対する依存症も、この類型では最高度に達する。エロティック・ナルシシズム型はおそらくこれに属するという判定がいちばん多く下されるに違いない類型である。これはそのなかで互いに緩和しあうことができるようないくつかの対立を合一している。これを他のエロティック型の類型と比較してみれば、攻撃性と活動性とがナルシシズムの優位と協力しているのを、知ることができる。最後に、ナルシシズム的強迫型は、外的な自立性と良心の要請への顧慮にさらに協力な活動への能力を付加し、こうして自我を超自我に対して強化することによって、文化的にもっとも価値の高い変種を生み出す。

(……)エロティック型が罹患すると、強迫型が強迫神経症となるように、ヒステリーになるということは容易に推量できるように思われるが、しかしこれは最後に強調しておいたような不確実性とも関わりをもっている。ナルシシズム型は、その平正の非依存性によって外界から拒否される機会にされされており、犯罪を犯しやすいという本質的な条件をそなえていると同時に、精神病への特別な素因をふくんでいる。(フロイト「リビドー的類型について」(1931)

ここでの三つの類型は、フロイト自身、《これら純粋な類型は、リビドー理論から導きだされたものではないかという疑惑をのがれるわけにはいかないだろう》と書いているように、明らかに、エロティック型=エス型、および強迫型=超自我型、ナルシシズム型=自我型とすることができる(『自我とエス』1923Das Ich und das Es)の後に書かれた論文であることを思い出そう)。

そして混合型のそれぞれ、エロティック・強迫型、エロティック・ナルシシズム型、およびナルシシズム的強迫型は、「自我の弱い型」、「超自我の弱い型」、「エスの弱い型」とすることができる。

フロイトが、この混合型なら、《自分が経験というしっかりした地面の上に立っているのが感じられる》と書いているように、いくらか血液型判定のような気味合いがないでもないが、まあここでは何が言いたいかと言えば、これだけ見ても、フロイト自身、「ナルシシズム」をめぐって大きく揺れ動いているということだ。


で、フロイトが、すでに1931年の時点で《エロティック・ナルシシズム型はおそらくこれに属するという判定がいちばん多く下されるに違いない類型である》と書いているが、現在、「父なき世代」(中井久夫)であるならば、つまり超自我なき世代ならば、この類型のひとびとが跳梁跋扈しているということになるのだろう。

それは二〇世紀の「神経症の時代」から、二一世紀の「ふつうの精神病の時代」というラカン派(ミレール派)の言明とも一致する。

このエロティック・ナルシシズム型は、エス・自我型とすることができる。フロイトは、《攻撃性と活動性とがナルシシズムの優位と協力しているのを、知ることができる》としているが、この攻撃性とナルシシズムが、現代の人々の特徴ということになる。『自我とエス』から奔馬と騎手の比喩を抜き出しておこう。

自我の、エスにたいする関係は、奔馬を統御する騎手に比較される。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行う、という相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(『自我とエス』p274 ―――同じ比喩が『夢判断』のなかにもある)

…………


ここで前半に書かれた比嘉徹徳によるフロイトの読解に僅かながらでも戻るならば、《自己愛の核には根源的な他者性が刻まれているというフロイト的ナルシシズムの論理》とは、すなわち「超自我=自我理想」の復権とされており、フロイトが『リビドー的類型について』で書く「ナルシシズム的強迫型」の復権に向けての「ナルシシズム」概念への新しい光の照射と繰り返しておく(いまは、超自我のない形のルソーの「自己愛」の議論については保留しつつ)。


ナルシシズム的強迫型、すなわち、《外的な自立性と良心の要請への顧慮にさらに協力な活動への能力を付加し、こうして自我を超自我に対して強化することによって、文化的にもっとも価値の高い変種を生み出す。》

ーーもっとも、このナルシシズム的強迫型は、エスの弱い型とされるのだから、芸術型気質のひとには受け容れがたいのであり、まあなんというのか…芸術への愛着をもつ<わたくし>は、そんな類型であるのは御免蒙ると言いたいところがあるな…


※ここでは超自我=自我理想とする比嘉徹徳論文の問題については、ーーいや仮にあるとしてだが、フロイト自身『自我とエス』の段階でさえ、このふたつの間に等号をおいているーー、ラカン派の異議については触れていない。

In Freud’s writings it is difficult to discern any systematic distinction between the three related terms ‘ego-ideal’ (Ich-ideal), ‘ideal ego’ (Ideal Ich), and superego (Über-Ich), although neither are the terms simply used interchangeably. Lacan, however, argues that these three ‘formations of the ego’ are each quite distinct concepts which must not be confused with one another.(An Introductory Dictionary of Lacanian Psychoanalysis Dylan Evans)

超自我の或る側面が自我理想=象徴界のものではなく、現実界のものであるという議論(母なる超自我ほか)、少なくともその二面性をめぐっては、[PDF]The Archaic Maternal Superego-Leonardo S. Rodriguez - Jcfar.orgにフロイト、ラカンやミレールの言葉を引用しつつ、いくらか詳細に書かれている。


…………

注)
この野蛮の時代は黄金時代であった。というのは人々が団結していたからではなくて、離れていたからである。おのおのが万物の主人だと思っていたという。そうかもしれない。しかし誰も自分の手のとどくものしか知らなかったし、欲しがらなかった。彼の要求は彼をその同胞に近づけないで、遠ざけるのであった。人々は出会えば、お互いに相手を攻撃したといってもよい。しかし彼らはめったに出会いはしなかった。いたるところ戦争状態が支配していたが、地上はすべて平和であった。(ルソー『言語起源論』)

ーー柄谷行人は、この文を引用して次のように説明している。


孤立と自足が「自然人」のイメージである。そこでは、他者の欲望、あるいは他者に媒介された欲望(ジラール)などはない。基本的に、彼らは他人に無関心である。フロイト的にいえば、「感情転移能力」をもたない。いわば、分裂病的なのである。しかし、この場合、感情転移能力をもたないということは、たんに他人への愛と憎悪のアンビヴァレントな固着関係をもたないということでしかない。というのは、彼らは(……)動物をふくむ他者への「同情」をもっているからだ。したがって、「いたるところ戦争状態が支配していたが、地上はすべて平和であった」といいうるのである。

中井久夫は、狩猟民は分裂病的であったといっている。農耕社会に入ってから、人間は強迫神経症的になり、それは産業資本主義にいたってもかわっていない。分裂病者を治療することは、事実上、彼らを強迫神経症なタイプに変えることを意味している。だからこそ、彼らの「社会復帰」は困難であり、彼らは、産業資本主義的でないしょうな社会では、あるいは過去の段階では、とくに病人とみなされない。(『分裂病と人類』)(『探求Ⅱ』 p237~)





2013年5月8日水曜日

うぬぼれとナルシシズム


「うぬぼれ」は、英語だと”conceit”起源はconceive(これには、「心に抱く」、の類以外に、「妊娠」という意味があるよな)から来ているらしい。「自惚れ」、――虚栄心、高慢な態度、思い上がり、自負……


自惚れはナルシシズムと同じような意味で使われるときがあるのだよな、すくなくとも日本では。――いやたぶんそういう場合が多い、としておこう(もちろん、ナルシシズムには、ほかに自己中心、自己陶酔などの意味で多く使われる)

「ナルシシズム」という語自体、ひどく曖昧な使用をされるのだから、ことさら文句を言うつもりはないのだけれど。


…………


フロイトの論文には「ナルシシズム」をめぐって数多くの言及があるが、そこでは、ナルシシズムというのは、自体愛(autoerotismus)を喪失することから始まるとされる。自体愛とは触覚とか圧覚などの部分欲動の段階で、自己〔自我〕はまだ統合されたものでなく、「快―自我」の機制のみが働いている時期ということになる。自体愛などといえば、すでに胎内から始まっているということになり、それをも自己愛(ナルシシズム)というわけではない。部分欲動とは、まあいわば「おしゃぶり」の類のことなのだが、中井久夫に次のような文がある。

胎内はバイオスフェア(生物圏)の原型だ。母子間にホルモンをはじめとするさまざまな微量物質が行き来して、相互に影響を与えあっていることは少しずつ知られてきた。(……)味覚、嗅覚、触覚、圧覚などの世界の交歓は、言語から遠いため、私たちは単純なものと錯覚しがちである。それぞれの家に独自の匂いがあり、それぞれの人に独自の匂いがある。いかに鈍い人間でも結婚して一〇日たてば配偶者の匂いをそれと知るという意味の俗諺がある。

 



触覚や圧覚は、確実性の起源である。指を口にくわえることは、単に自己身体の認識だけではない。その時、指が口に差し入るのか、指が口をくわえるのかは、どちらともいえ、どちらともいえない状態である。口―身体―指が作る一つの円環が安心感を生むもとではないだろうか。それはウロボロスという、自らの尾を噛む蛇という元型のもう一つ先の元型ではないだろうか。

 



聴覚のような遠距離感覚でさえ、水の中では空気中よりもよく通じ、音質も違うはずだ。母親の心音が轟々と響いていて、きっと、ふつうの場合には、心のやすらぎの妨げになる外部の音をシールドし、和らげているに違いない。それは一分間七〇ビートの音楽を快く思うもとになっている。児を抱く時に、自然と自分の心臓の側に児の耳を当てる抱き方になるのも、その名残りだという。母の心音が乱れると、胎児の心音も乱れるのは知られているとおりである。いわば、胎児の耳は保護を失ってむきだしになるのだ。

 



視覚は遅れて発達するというけれども、やわらかな明るさが身体を包んでいることを赤児は感じていないだろうか。私は、性の世界を胎内への憧れとは単純に思わない。しかし、老年とともに必ず訪れる、性の世界への訣別と、死の世界に抱かれることへのひそかな許容とは、胎内の記憶とどこかで関連しているのかもしれない(私は死の受容などと軽々しくいえない。死は受容しがたいものである。ただ、若い時とは何かが違って、ひそかに許しているところがあるとはいうことができる)。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」 『時のしずく』所収)



で、ひとの「愛」の発展の、基本的な定式は、自体愛autoeroticism →自己愛(ナルシシズム)→対象愛なのだけれど、それは単純なものではない。

たとえば『性欲論三篇』(1904)には、「対象発見は、本来再発見である」とされる。

『本能(欲動)とその運命』(1905)では、部分欲動に関して、「のちに対象が快の源泉だとわかると、その対象は愛される。しかしそれが自我に組み入れられると、純化された快-自我にとって対象は再び見知らぬもの、もしくは憎まれるものと一致してしまう。」、と。


『ナルシシズム入門』(1917)では、「完全な対象愛は、子供の根源的ナルシシズムに完全に由来しており、それ故、性的対象への転移自体に相当している、目立つ性的過大評価を示している」など。

『喪とメランコリー』(1917)では、「自我には愛する対象の「影」が落ちている」となる。

つまり、この1917年のふたつの論文の記述を合奏すれば、愛する対象には「自我」の影が落ちている、ということにもなる。

このあたりは、最近、博士論文『フロイトの情熱 ― 精神分析運動と芸術』を上梓して(2012.11)、関係者のあいだで評判の高い比嘉徹徳氏が十年まえ書いた、『ナルシシズムと<他者>』2003に詳しい。hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/.../1/ronso1300301070.pdf

この論はナルシシズムの肯定的側面をフロイトのテクストから抽出しようとするもので、すでにこの時点で、比嘉氏は大胆な論の展開をしている。そこでは、ナルシシズムを大文字の他者(象徴的なもの)に関わるものとしており、たとえばラカンのナルシシズムを想像的なものとする論述にまっこうから反する。


私達はナルシシズムの関係を対人関係の中心をなす想像的関係と考えています。…(中略)…。それは、実際は、一種の性愛的関係なのです。すべての性愛的同一化、つまり性愛的魅了という関係の中で、イマージュによって他者を捉えることはすべて、ナルシシックな関係という方法を介して行なわれます。また、それは攻撃的な緊張の基礎でもあるのです。(ラカン『精神病セミネール』)
この想像的関係の他者が小文字の他者と呼ばれるものだ。(ヘーゲルによる他者の欲望の他者、それは承認欲求の他者であり、小文字の他者のこと)。

ヘーゲルの他者は欲望する者として主体も同様の欲望をもつことを必要とします。主体から承認を受けるためです。他者が欲するものはaです。ここにあらゆる袋小路の元凶があります。「わたしが対象として承認されるのであれば、そしてこの対象は見てのとおりそもそも意識、自己意識ですから、暴力以外による解決はありえません … ふたつの意識のあいだで裁断を下すことがどうしても必要になる」からです。(……)ヘーゲルさんへマをやらかしました!(「セミネール「不安」を読む」)


比嘉氏の論は、ナルシシズムを、むしろ、ラカンの欲望の定式の<他者>、つまり大文字の他者とつなげようとするものだ、《人間の欲望の根本的な袋小路、「われわれの欲望は他者の欲望」とは、単なるヘーゲル流の他者の承認という問題ではなく、他者から欲望されたいという欲望であり、なによりも他者が欲望しているものへの欲望である。》(ジジェク)


最初に読んだときは、一部のラカン派書物の偏読の影響があってか、なんだか間違いだらけのように見えたが、すこし思い返してみると、ナルシシズムを肯定的にみようとする議論には魅惑されてしまう。


結論として、《自己愛の核には根源的な他者性が刻まれているというフロイト的ナルシシズムの論理に他ならない》とされる。


ここには、ラカンがintimacyから造語したextimacyと似たようなものがありはしまいか。


Lacan is commenting on when he speaks of the unconscious as discourse of the Other, of this Other who, more intimate than my intimacy, stirs me. And this intimate which is radically Other, Lacan expressed with a single word: extimacy. Extimity Jacques-Alain Miller

ここにradically Otherとある。すなわち「根源的な他者」性。



まあそうはいっても、上掲のラカンの「ナルシシズム」=想像的なものとする論とは大きく懸け離れるている(「<他者>の欲望」の他者は象徴的なものであり、そこには問題はないけれど)。


この想像界/象徴界の関係は、精神病/神経症と等しいとして、ミレールの「ラカンの臨床パースペクティヴへの導入」  An Introduction To Lacan's Clinical Perspective, in Reading Seminars I and IIによれば、次のように図式化される(いわゆるラカン派のセントラルドグマにかかわるものだ)。






それ以外にも、


・自我理想(象徴的なもの)に触れられているばかりで、理想自我(想像的なもの)の視点がない。


――ラカン派では(通常)、「理想自我」とは、われわれが自分たちにとって好ましいように見えるイメージ、つまり「われわれがこうなりたいと思う」ようなイメージ。「自我理想」は、「私が自我イメージでその眼差しに印象づけたいと願うような媒体」あるいは「そこから自分を見るとわれわれが自分にとって好ましく、愛するに値するように見えるようなイメージ」(ジジェク)とされるのだけれど、比嘉氏は、ナルシシズムを前者ではなく、後者の「自我理想」にかかわるものとしているわけだ。



・比嘉氏の自我理想=超自我とする記述も、《楽しみを強制するものはない。超自我を除いて。超自我は享楽の命令である。「楽しめ!」(ラカン『セミネールⅩⅩ』)》――享楽は現実界的なものであり、超自我=享楽に等号が置かれているとして読めば、これに反する。自我理想は象徴界に所属するのだから。


gaze–shame–Ego Ideal, and voice–guilt–superego.( Zizek『Less Than Nothing』2012)


まあオレの偏よった読書ではこうなのだけれど、それにも関わらず比嘉氏の論文は面白いのだな……


 …………


次のフロイトの文には比嘉氏は触れていないが、たとえばフロイトのゲーテ小論には、こうある。


かつて母親の絶対的な寵児であった者は、生涯あの征服者の感情を、あの成功の確信を抱きつづけるものである。そしてこの確信は、実際に成功を自分の方へ引き寄せてくることがよくある。(フロイト「『詩と真実』中の幼年時代の一記憶」)


ナルシシストたちの全部が全部、鏡像的な袋小路に陥っているわけではあるまい、このゲーテ論の絶対的寵児がナルシシストかどうかは保留するにしても、自己に惚れるている連中、つまり「自惚れ」野郎の力というものはある。(世間の自惚れ屋の大半は、たぶん、幼少時、母親に溺愛された連中じゃないかね、女なら父親って場合もあるんだろうな)。



この稀にみる自惚れ野郎(乙女たちやおばちゃんも)の力が、比嘉氏の書くような《自己愛の核には根源的な他者性が刻まれているというフロイト的ナルシシズムの論理》に従っているかどうかは分からないけれど。


いや、うぬぼれとナルシシズムをめぐる金井美恵子の文を読んだばかりでね。この文の内容はフロイト理論に照らし合わせれば、おかしいところもあるのだけれど、それにも関わらず魅惑されるのだな。

最近、小説を読むことより、書くことのほうが楽しいこともあるのだということを発見した。

それは、どういうことなのかと言えば、多分、作者という存在が、いつでも持てあまし気味に持っている<うぬぼれ>ということなのである。<うぬぼれ>を自己愛と同じ意味に考える人がいるかもしれないがーー実際、己惚れ、あるいは自惚れ、と書くわけだしーー<うぬぼれ>という言葉の、自分がすぐれていると思って得意になる、というニュアンスは、自己愛〔ナルシシズム〕とは違う、と言わざるをえない。自己愛は自己完結的な不気味さがあるが、<うぬぼれ>は、いささか騒々しいものだから、はた迷惑なところが多分にあって、うぬぼれている人間というものは、他人から見ると、滑稽に見えるものだ、と知らないわけでもないのだけれど、何年も前から私は、書きながら、自分が物凄く小説が上手で、文章も並ぶ者なきほどの名手なのではないか、と秘かに考えてしまうことが度々あって、しかも、他人の共感を得られずにいるものだから、活字になった自分の小説を読むと、それを、美しい文章でもって、精密で繊細きわまりない評論に書きたくなってしまうほどなのだが、そういうわけにもいかないので、しかたなく、ほそぼそと小説を書きつづける、ということになる。


(……)古風なーー反動的な、と言ってもかまわないがーー<作者>は<読者>というものは、非常に疑い深いと同時に信じやすい性格を持っているので、作者の書いた作品を一番よく理解しているのは作者自身だ、と思っているらしいのだが、そんなことはない、ということを確認したうえで、正直に申しあげてしまえば、私の書いた作品を誰よりも愛しているのは、今のところ、私が一番なのだ、と、つい考えてしまう。それは自己愛〔ナルシシズム〕ではなく、どちらかと言えば、物欲〔フェティシズム〕というものかもしれない。


なにしろ、自分の小説のある部分を、自分が書いたのだということをすっかり忘れ果て、うっとり読んでしまう瞬間をもってしまう程なのだが、そういう鼻持ちならないタイプの作者には、読者など本質的に必要はないのだろう、と考えるのは早計というものであり、書かれた作品が何を欲望しているのかといえば、読まれること以外の何ものでもない。


作者自身の欲望と読者の欲望が一致する輝かしくもなまめかしい惑溺の瞬間の喜びに出あいたいと願うので、私は小説を読むのだが、小説を書くことは、そうした瞬間を自分にはついに書けないのではないか、という怯えと闘うことでもあって、怯えと闘うためには<うぬぼれ>を動員し、もう一つの根深い怯えである、<誰もこれを読まないのではないか>という書き手のおちいりやすい神経症とも闘うことになる。……(金井美恵子 福武書店版『あかるい部屋のなかで』あとがき 1986)


フロイト理論からは、たぶん齟齬のある見解だ、というのは、金井美恵子は自らのナルシシズムをフェティシズムのようなものとしているのだけれど、たとえば、自分の作品を自らの子供のように“フェティシッシュに”愛するとしても、フロイトは『ナルシシズム入門』で、《ものやさしい両親が子供たちに対してとっている態度を注意してみると、それがもうとっくに放棄された自己のナルシシズムの復活であり再生にほかならないことを認めないわけにはいかない》と書いているわけで、この叙述からだけ判断すれば、やっぱりナルシシズムだ。


ほかにも『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』には、ほぼ同様の叙述があったあと、次のように書かれている(これは「同性愛」をめぐる箇所だけれど)。


母親への愛は子供のそれ以後の意識的な発展と歩みをともにしない。それは抑圧の手中に陥るのである。子供は自分自身を母の位置に置き、母と一体化し、彼自身を手本にして、その手本に似た者から新しい愛の対象を選ぶことによって、彼は母親への愛を抑圧する。子供はそれほど同性愛的になってしまったわけである。いや実際には、いまや青年たる彼が愛している少年たちとは実は、かつて子供の彼を母が愛したごとくに、いま彼がそんなふうに愛している、子供としての彼自身の代償であり更新に他ならないのであるから、彼はふたたび自己愛に落ちこんだというべきであろう。それをわれわれは、彼は愛の対象をナルシシズムの途上で見出すというように表現するのである。ギリシャ神話は、鏡に写る自分自身の姿以外の何物も気に入らなかった若者、そして同じ名の美しい花に姿を返られてしまった若者をナルキッソスと呼んでいるからである。

しかし他方、フェティシズム=倒錯なのだから、次のようなフロイトの叙述はあるのだけれどね。(フロイトの『ナルシシズム入門』からだが、比嘉氏の論からの孫引き)

ナルシシズム的対象選択は、「リビドー発達に障害を被ったような人々、例えば倒錯者だとか同性愛者の場合とりわけ顕著なのだが、彼らは成長後の愛の対象を母親というモデルによってではなく、彼ら自身の人格に従って選択して」おり、「彼らは明らかに自分自身を愛の対象として求めており、ナルシシズム的と呼ぶべき対象選択のタイプを示す。」このようにフロイトは、ナルシシズム型が、リビドー発達に「障害」を被っており、「倒錯的」であると示唆している。


まあオレはうぬぼれ野郎で、しかも倒錯傾向があると思ってるんだよな、自分のことを。で、それはラカンのセントラルドグマとは反するってわけでね、「神経症,精神病,倒錯はどう頑張ってもお互いに行き来できない」というやつだ。


ここでのナルシシズムは倒錯者だというフロイトの叙述をどう扱っているのだろうね、ラカン派では。



※参考:《自惚れはすでに賞賛を得てしまっているという(おめでたい)満足に基づくが、虚栄心は賞賛を求めようとする永遠の渇望である。しかも相手が誰であってもよいのではない。自分が「いくぶん尊敬する」人に賞賛されたいという努力なのである。この「いくぶん」が大事である。》(『カントの人間学』中島義道)