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2014年11月14日金曜日

この古い写真(1854年)は私の心を打つ

侯 孝賢《風櫃來的人》


《またある朝はみゃくらくもなく,前夜むかれた多肉果の紅いらせん状の皮が匂いさざめいたが,それはそのおだやかな目ざめへとまさぐりとどいた者が遠い日に住みあきらめた海辺の町の小いえの,淡い夕ばえのえんさきからの帰着だった.》(黒田夏子






…………



一軒の古い家屋、影になっているポーチ、屋根瓦、昔のアラブ風の装飾、壁に寄りかかって坐っている男、人気のない街路、地中海沿岸に見られ樹木(チャールズ・クリフォード撮影の「アルハンブラ」)。この古い写真(1854年)は私の心を打つ。私はひたすらここで暮らしたいと思う。この願望は、私の心の奥深いところに、私の知らない根を下ろしている。私を引きつけるのは、気候の暑さか? 地中海の神話か? アポロン的静謐さか? 相続人のいない状態か? 隠棲か? 匿名性か? 気高さか? いずれにせよ(私自身、私の動機、私の幻想がどのようなものであるにせよ)、私はそこで繊細に暮らしたいと思うーーその繊細さは、観光写真によっては決して満足させられない。私にとって風景写真は(都市のものであれ田舎のものであれ)、訪れることのできるものではなく、住むことのできるものでなければならない。この居住の欲望は、自分自身の心に照らしてよく観察すると、夢幻的なものではない(私は非日常的な場所を夢みているわけではない)し、また、経験的なものでもない(私は不動産屋の案内広告の写真を見て、家を買おうとしてるわけではない)。この欲望は幻想的なものであり、一種の透視力に根ざしている。透視力によって私は未来の、あるユートピア的な時代のほうへ運ばれるか、または過去の、どこか知らぬが私自身のいた場所に連れもどされるように思われる。ボードレールが「旅への誘い」と「前の世」でうたっているのは、この二重の運動である。そうした大好きな風景を前にすると、いわば私は、かつてそこにいたことがあり、いつかそこにもどっていくことになる、ということを確信する。ところでフロイトは、母胎について、《かつてそこにいたことがあると、これほどの確信をもって言える場所はほかにない》(『不気味なもの』)と言っている。してみると、(欲望によって選ばれた)風景の本質もまた、このようなものであろう。私の心に(少しも不安を与えない)「母」をよみがえらせる、故郷のようなもの(heimlich)であろう。(ロラン・バルト『明るい部屋』p52-53)

History of photography in Spain


…………

フォーレのOP108は、わたくしにはバッハのBWV 1056やBWV1043(BWV 1062)のLARGOなどをどうしても想起せざるをえないのだが、どうして誰もそういっていないのだろう。









2014年8月18日月曜日

Faure OP.121 アンダンテ

わたくしの葬式用の音楽。

ーーバッハじゃ凡庸だからな。最近すこし心変わりして、大河の波の音でもいいさ、というふうに心持は傾いては来ているが。

葬式用ったて、死んでから聴くわけにはいかないしな。


◆四重奏団名不明




ーーどのカルテットなんだろう。この曲はそんなに多くの演奏録音があるわけではない。

参照 → フォーレ:弦楽四重奏曲ホ短調 Op.121

たぶん、あのカルテットだろうとは思うが、ここには敢えて書かないでおこう。


◆クレットリ弦楽四重奏団(Krettly String Quartet)




◆イザイ四重奏団(Quatuor Ysaye)




◆Loewenguth Quartet




◆Amati Quartet




順不同だからな。どれが一番の好みかなんて書かないでおくよ
数少なくフォレのop.121を演奏してくれる人たちだからな
カザルス、チボーでさえ、op121には不感症だったのかもな

若きLe Quatuor Ebèneの二楽章がYouTubeに上がっていないのが残念だが、あの連中は生きのいい演奏するよ。これからのカルテットの華じゃないかね。彼らがいたら、イザイ四重奏団解散する気になるのも分かるな。

Le 24 janvier 2014, le Quatuor Ysaÿe a donné son dernier concert à la Cité de la Musique de Paris. Une soirée plein d'émotion qui clôturait un parcours musical de 30 ans.( Quatuor Ysaÿe WEB SITE)

ーーというか、仲間割れの気味合いがあるのかもしれないが。カルテットを長年キープするのは困難なんだろうな。


◆エベーヌ四重奏団op.121 三楽章




◆エベーヌ四重奏紹介映像のひとつ




…………

誰も彼を嫌う人はいない、さればといって、本気で打ちこんで愛しているんのかと問いつめられると、また、即座にウィと答えられる人はごく少なく、むしろほかの音楽家たちのあとまわしにされてしまうのではないか。それだけに少数の熱愛者の熱は、ますます高くなるというのも事実だが。(吉田秀和 フォレ《ピアノと絃のための五重奏曲第二番》『私の好きな曲』)

ーーというわけで、少数の熱愛者らしい、オレは

私はまちがっているかも知れない。そうでないとすれば、私には何故フォレがこんなにたまにしか演奏会でとりあげられないか、よくわからないのである。

というのも、私の考えでは、フォレの音楽派ーーその全部ではないとしても、その中のあるものはーー近代ヨーロッパ音楽の最良のものに属するからである。

私は、彼の音楽を愛し、かつ、それを非常に、非常に高く評価する。

《非常に》、とあって読点があって、また《非常に高く》とされているな。いい書き方だ、一呼吸おくようで。

非常に、非常に正しい。

とにかく、彼がそれに値するだけ、充分に強く愛されておらず、充分に正しく評価されていないとしたら、それは、彼の良い点、彼の再考の美徳が、多くの人々の好みとどういう関係に立っているのかということを、考えてみる必要があるだろう。

みんなは、彼が嫌いではないのだから。

つまり、ここには、彼の一部とだけつきあっているかぎりでは、みんな、彼を好ましく思い、よろこんできくのだが、彼が本当の彼になり、より高いところに達した時は、みんなには何かが気に食わなくなる、あるいはみんなの耳に届きにくいメッセージを告げるようになったという事情があるかも知れないのだ。

みんな耳が繊細にできてないだけだろ?

以前、晩年のフォレの、好みの作品をツイッターに貼り付けていたら、「なんて渋い音楽ばかり聴いていて」、などと、ドイツに住む、たしかイタリアかどこかの著名な指揮者の前妻だった音楽家系の女性に言われたのだがーー揶揄にもきこえたよ、そんなしちめんどう臭い音楽ばかり! ってーー彼女でさえ、そんなことを言う。彼女は絶対音階の持主で、バッハ以前の作品にも詳しく、おおむね趣味があって仲良くなったのだが、これを言われてなんだかがっかりしてしまった。


ナウモフよ、きみはオレの稀なる友だちだよ





彼はバッハのコラールをたくさんピアノ用に編曲している。

※参照:エミール・ナウモフEmile Naoumoffとナディア・ブーランジュNadia Boulanger


吉田秀和の『私の好きな曲』のフォーレの項目は、その表題の通り、ピアノ五重奏曲第2番OP.115について主に書かれているのだが、そこにはこのop121(フォーレの最後の作品、死ぬ直前の作品で、彼は耳がきこえなくなり、演奏は聴くことができなかった)への言及もある。

ヴァイオリン・ソナタ第二番は一九一六年から翌年にかけて作曲され、二曲のチェロ・ソナタは、それぞれ、一九一七年と一九二一年に書き上げられたのに反し、それぞれたった一曲づつのピアノ三重奏曲(一九二二年から翌年)と弦楽四重奏曲(一九二三年から二十四年にかけて)の二作は最後の三年間に、はじめて完成されたのである。これは純然たる晩年の作品であり、そこには形而上学的と呼ぶのがふさわしい、高度に精神化された筆法がみられる。その中では、私は弦楽四重奏曲の緩徐楽章に最もひかれる。これは、ちょっと把えどころのないような夢幻的な超脱的な雰囲気の中で、そえとはさだかではないが、しかし通じるものには通じるといった感触で、苦悩の跡があり、息苦しさと、それを静かに耐え忍ぼうとしている精神の働きがある。

かつて、第一ピアノ四重奏曲で、私たちを魅惑した、あの愛撫するような歩みが、ここでは、まるでちがった表情で戻ってきているのも注目をひく。

それから、いみじくも『コーダは涙で曇った頬笑みのような、不思議な魅力的な不協和音をもつ』(H.Hallbreich)と呼ばれた、この楽章の結びの素晴らしさ!

《形而上学的と呼ぶのがふさわしい、高度に精神化された筆法》とか、《通じるものには通じる》ってのは、精神的でなかったり、通じないひとには厭味にきこえるんだろうな。少し前に引用した、《彼が本当の彼になり、より高いところに達した時は、みんなには何かが気に食わなくなる、あるいはみんなの耳に届きにくいメッセージを告げるようになった》というのと同様に。

まあいいさ。それぞれみなさんの趣味があるんだから。
たとえば、リストに精神性を聴く耳はオレはまったくもたないからその面ではニブイんだろ






2014年8月17日日曜日

ピアノトリオ今昔




名手マイスキー、ベル、キーシンのトリオでも
いまだ遠くおよばないのだな。
ーーという言い方をするのは、
専門家に怒られるのは知っているが
具体的に言えよ、もっと、と。

音楽について語るのは難しいよ
オレの趣味の問題だね
次元が違うんじゃないか
「美」を信頼していた時代
「神」とまではいわないが
「祈り」がまだあった時代の演奏と

もちろんすでに「伝統」は廃れようとしていたさ
ハイフェッツ、ルーヴィンシュタイン、ピアティゴルスキーもね
それを救い出そうとする過剰な「祈り」を籠めて
というふうに言えるかもな






ルーヴィンシュタインがばたばたやっていたり
ときおり流していたりするのは許そう
二楽章は甘美な果実が滴るようなのだから






でももうすこし昔のコルトー、チボー、カザルスの名演もある。




冒頭のカザルスのチェロのなんとすばらしいこと!

ヴァイオリンとピアノではなく、チェロ、ヴァイオリン、ピアノだが、あたかも次の如し。

…ピアノとヴァイオリンとの美しい対話! 人間の言葉を除去したこの対話は、隅々まで幻想にゆだねられていると思われるのに、かえってそこからは幻想が排除されていて、話される言語は、けっしてこれほど頑強に必然性をおし通すことはなかったし、こんなにまで問いの適切さ、答の明白さをもつことはなかった。最初に孤独なピアノが、妻の鳥に見すてられた小鳥のようになげいた、ヴァイオリンがそれをきいて、隣の木からのように答えた。それは世界のはじまりにいるようであり、地上にはまだ彼ら二人だけしかいなかったかのようであった、というよりも、創造主の論理によってつくられ、他のすべてのものにはとざされたその世界――このソナタ――には、永久に彼ら二人だけしかいないだろうと思われた。それは一羽の小鳥なのか、小楽節のまだ完成していない魂なのか、一人の妖精なのか、その存在が目には見えないで、なげいていて、そのなげきをピアノがすぐにやさしくくりかえしていたのであろうか? そのさけびはあまりに突然にあげられるので、ヴァイオリン奏者は、それを受け止めるためにすばやく弓にとびつかなくてはならなかった。すばらしい小鳥よ! ヴァイオリン奏者はその小鳥を魔法にかけ、手なずけ、うまくつかまえようとしているように思われた。すでにその小鳥はヴァイオリン奏者の魂のなかにとびこんでいた。すでに呼びよせられた小楽節は、ヴァイオリン奏者の完全に霊にとりつかれた肉体を、まるで霊媒のそれのようにゆり動かしていた。スワンは小楽節がいま一度話しかけようとしているのを知るのであった(……)。しかしこんどは、じっと動かないかのように、宙にかかったままで、ほんの一瞬たわむれると、そのあとで息がたえようとしていた。だからスワンには、それがつづいているそんなに短い時間を、すこしも空費するひまがなかった。それは浮かんでいる虹色のシャボン玉のようにいまはまだ宙にあるのだった。虹さながらに、光彩がよわまり、低くなり、また高くなり、やがて消えようとする一瞬に、ひときわ強くかがやきながら、その小楽節は、それまで見せていた二つの色に、色とりどりの他の弦、プリズムのすべての弦を加えて、それらに歌をうたわせた。スワンは動こうともしなかった、そしてほかの人たちをおなじように、静かにさせておきたかった、どんなにかすかな身動きも、たちまち消えようとしている、超自然的な、快い、こわれやすい、このふしぎな魅力をそこなうかのように。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」井上究一郎訳)


…………

カザルスたちによるフォーレピアノ クインテットの録音が残っていたらいいのに

これは誰たちの演奏かわからないが、
コルトーやルーヴィンシュタインだったら、この冒頭をどんなふうにやっただろう。





ーーそれにカザルスやチボーの絃はどんなふうに歌っただろう
ハイフェッツやピアティゴルスキーだったら?


◆Alfred Cortot plays Fauré's Berceuse from 'Dolly'




◆Jacques Thibaud,&Alfred Cortot Faure sonata n.1 in A Maj.





※:FAURÉ Piano Quartet No.1 - E.Gilels, L.Kogan, R.Barshai, M.Rostropovich, 1958

もちろん、カザルス当時は、総統のピアニスト(ヒットラーのお気に入り)のピアニストElly Neyのような奇跡の演奏もあるさ。これはシューマンだけどさ







2014年8月16日土曜日

「同じ空間で」

カヴァフィス「同じ空間で」(中井久夫訳)

家々、カフェ、そのあたりの家並み。
歳月の間にけっきょく歩き尽くし、眺めおおせた。

喜びにつけ悲しみにつけ、私は刻んだ、きみたち家々のために、
数々の事件で多くの細部を。

私のためでもある。私にとってきみたちすべてが感覚に変わった。







ウンベルト・サバ「トリエステ」(須賀敦子訳)


……
活気に満ちた おれの町には
おれだけのための 片隅がある
憂愁のある 引込み思案な
おれの人生のための 片隅が




サイゴンの街を歩き廻っていたときは
フォーレのメロディばかりを聴いていた
Barbara Bonneyの歌唱ではないけれど

シクロに王侯のようにふんぞりかえる
若く貧しい娘たちがひどく美しかった

白いTシャツに亜麻色の短パン
ひどく暑い国なのにイッセイミヤケの
麻のカーディガンを肩に洒落る
こげ茶の革サンダルに黄色のフレームのサングラス
日本の無印で手に入れたストローハット
このいでたちで街をさ迷い歩いた
少女デュラスの中年男風変装
ラマンの物真似というわけさ

(アクセサリーかい?
四十年代のゴールドロレックスに
伊で手に入れたまがいグッチの二十四金ネックレス
というひどく「シンプル」なふたつだけさ
こっちの女はゴールドに目がないのでね)

さあてとなんの話だったか

長方形の殺風景のアパート
コロニアル様式のやたらに天井が高い部屋
天井扇がカラカラ鳴るのが珍しかった

ベニヤ張りの薄っぺらいベッドと机のみの
独りで住むには広すぎる伽藍堂の部屋

扉と窓が不調和にがっしりしていた
バスルームのドアの五倍ほどの厚み
古材の紫檀扉の四隅の角は
長年の使用で円くなっている
磨耗した真鍮ノブを握るのが心地よい

グリーンとクリームを混ぜた色調で塗られた鎧戸
朝そこから斜めに漏れ入る光の筋
床に描く模様のゆらめく焔
沈黙のなかの叫び
それはフォーレの内気な詩趣と抑制
夢幻と超脱にとてもよく共鳴した






2014年7月25日金曜日

「自分の声をさがしなさい」

《自分の声をさがしなさい》(須賀敦子)

文章が表現しようとする内容の混濁と、にもかかわらず文章そのものの音調の明解さというのがありますね。僕は還暦の頃になってようやく、ひとつの極端な例だけど、わかったんですよ。マラルメです。

何を言っているのかわからないんだけど、その言葉の音調だけがきわめて明晰なものとして残るでしょう。そこまで表現として極端にはできないけど、僕は同じようなことを下のレベルでやっていたんじゃないかなと思いましたね。

僕の口調の明澄さを保証するものは何なのか。努めて音調を練ってできるだけ明澄さをつくり出そうとした覚えが、実はないんです。どこかでインプットされたものなのでしょうが、とにかく人間としてもそうだけど、作家としてもいちばんわからないのは自分の本質なんですね。(古井由吉「文藝」2012年夏号)





中井久夫ならこう言う。

「文体」を獲得して初めて、作家は、机に向かわない時も作家でありうる。なぜなら、「文体」を獲得した時、言語は初めて、書かず語らずとも、散策の時も、友人との談話の時も、電車の中でも、まどろみの中でも、作家の中で働きつづけるからである。

「文体」とは何であるか。古くからそれは「言語の肉体」であるといわれてきた。「言語の肉体」とは何であるか。それは、言語のコノテーションとデノテーションとの重層だけではない。歴史的重層性だけでもない。均整とその破れ、調和とその超出(……)だけでもない。言語の喚起するイメージであり、音の聴覚的快感だけではない。文字面の美であり、音の喚起する色彩であり、発声筋の、口腔粘膜の感覚であり、その他、その他である。(中井久夫「「創造と癒し序説」——創作の生理学に向けて」)

…………

女は笑って、どうしてそんな暮らしをしているのかを話してくれなかった。もうすこし待って。そうしたら、ふたりでどこかに行ってしまいましょう。あたしのことを信じて。これ以上話せないんだから。それから窓ぎわですっぽりはだかになって、月を見ながら、言った。あんたの呼び唄、歌ってよ。でも、そっと、よ。おれが歌ってやると、女はたずねた。あたしのことを愛している? 突っ立ったまま、なにかを待っているみたいに夜を眺めている女を、おれは窓際に押しつけて、抱いた。(ダブッキの『ビム港の女』(邦題『島とクジラと女をめぐる断片』)須賀敦子訳)

四方田犬彦が原典と読み比べて驚愕し呆然とした須賀敦子の訳である。《文体と語彙の豊かさのみならず、より根源的なところで詩的言語の凝縮性をめぐって、彼なり彼女なりはこれまでのテクストの記憶に、意識的・無意識的に動かされることになる。わたしは須賀敦子に、その典型的な例を見るような気がする。》と(参照:おれの心はムクロ(カヴァフィス=中井久夫))。

四方田氏が仮に試訳してみたという訳文なら次の通り。


女はあんな暮らしのわけなど自分でわかるでしょという感じで笑うと、私にいった。もうちょっと待ってから、いっしょに出ましょ、私を信じてくれなくちゃ、いえるのはそれだけ。それから窓のところで裸になると、月を見て私にいった。誘惑の唄をやってよ、でも声はたてないでね。そこで私が歌を歌ってみせると、抱いてよと頼んできた。それで私は立ったまま、窓のところに凭れかかっている女を抱いたのだが、その間ずっと彼女は何かを待っているかのように夜を眺めているばかりだった。(四方田犬彦 試訳)
…………

言語と身体に共通にあるのは声である。しかし声は言語でも身体のいずれの部分でもない。声は身体から生じる。だがその部分ではない。声は言語に属することなく、言語を支える。このパラドックストポロジー。この場のみが言語と身体が共有するものだ。これは対象aのトポロジーである。(ムラデン・ドラー Dolar, Mladen 『A Voice and Nothing More』 eng7007.pbworks.com/f/Dolar.pdf 私訳)

標準的なラカン派であっても、あるいは一般的な研究者の人間把握においても、さらに文学への接近方法においてさえも、声はあまりにもないがしろにされている。視線(まなざし)、あるいは視覚的領野だけが注目されがちなのだ。音楽家や一部の映像作家たち(ビクトル・エリセやストローブ=ユイレなど)はさておき、エクリチュールの領野に限るなら、ごく限られた詩文のすぐれた書き手や読み手のみが、声の秘密を知っているかのようである。





ジジェク曰く、欲動のタームでは、声と眼差しはエロスとタナトス、生の欲動と死の欲動に関係している。《眼差しー恥ー自我理想》と《声ー罪ー超自我》。

《In terms of the drives, the voice and the gaze are thus related as Eros and Thanatos, life drive and death drive……gaze–shame–Ego Ideal, and voice–guilt–superego.》(ジジェク『LESS THAN NOTHING』)

ラカンは後年、眼差しと声を対象aの主要な化身として分離した。しかし彼の初期理論は眼差しが疑いようもなく特権化されている。だが声はある意味ではるかに際立ち根源的である。というのは声は生命の最初の顕現ではないだろうか?自身の声を聴き、人の声を認知する経験、これは鏡像における認知に先行するのではないか?そして母の声は最初の〈他者〉との問題をはらむつながりではないか?臍の尾に取って換わる非物質的な絆であり、最初期の生のステージの運命の多くを形作るものではないか?(ムラデン・ドラー  『Gaze and Voice as Love Objects』私訳)



《あ、こいつ、粒々しているぞ。しゅうしゅういっている。くすぐっている。こすっている。傷つけている。》

声の《きめ》は響きではない――あるいは、響きだけではない――。それが開いてみせる意味形成性は、音楽と他のもの、すなわち、音楽と言語(メッセージでは全然ない)との摩擦そのものによって定義するのが一番いい。歌は語る必要がある。もっと適切にいえば、〈書く〉必要がある。なぜなら、発生としての歌のレベルで生み出されるのは、結局、エクリチュールだからである。(ロラン・バルト「声のきめ」)





《異郷感からこっそりと忍び込む分身(ドッペルゲンガー)の不快さ》、痛みであり傷であるもの。聴取活動を危機に陥らせる悦楽(享楽)の音楽。《私が精神の陶酔と呼ぶものは、享楽が、欲望によって垣間見られていた可能性を越えてしまう、あの状態である》(ライスブルック)。

快楽のテクスト。それは、満足させ、充実させ、快感を与えるもの。文化から生れ、それと縁を切らず、読書という快適な実践に結びついているもの。

悦楽のテクスト。それは、忘我の状態に至らしめるもの、落胆させるもの(恐らく、退屈になるまでに)、読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがすもの、読者と言語活動を危機に陥れるもの。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)


……この音楽のなかで、くらがりにうごめくはっきりしない幼虫のように目につかなかったいくつかの楽節が、いまはまぶしいばかりにあかるい建造物になっていた。そのなかのある楽節はうちとけた女の友人たちにそっくりだった、はじめはそういう女たちに似ていることが私にはほとんど見わけられなかった、せいぜいみにくい女たちのようにしか見えなかった、ところが、たとえば最初虫の好かなかった相手でも、いったん気持が通じたとなると、思いも設けなかった友人を発見したような気にわれわれがなる、そんな相手に似ているのであった。(プルースト「囚われの女」)


音楽こそ人生の苦悶の精華ではないか。どこかで血が流れていると、響きがいよいよ冴える。

ところがたった一人の恍惚者は果てた後の沈黙を心の静かさと取り違えて、祭司みたいな手つきでレコードを替えて塵を払い、また始める。これにはよほどの神経の鈍磨が必要だ。そうそう自らを固く戒めてきたはずなのに、近頃私はまた、夜中にステレオの前に坐りこんでレコードを取っ替え引っ替え回す悪癖に馴染んでしまった。 ただ、音の流れが跡切れると、間がもてない。音が消えたとたんに、自分を囲む空間のまとまりがつかないような、物がひとつひとつ荒涼とした素顔を見せて、私を中心にまとまるのを拒むような、そんな所在なさを覚える。

しかしさいわい、音楽と私とは、相変らず折合いが良くない。一節がこちらの身体の奥へすこしく深く響き入って来ると、私の神経はたちまちざわめき立ち、音楽のほうもなにか耳ざわりすれすれのところまで張りつめ、両者は互いを憎むことにならぬようあっさり別れる。(古井由吉『哀原』赤牛)



アファナシェフは、ある種の作品の演奏で吃るのだ、唐突にどもりだす。《文体とは、自らの言語のなかでどもるようになること。難しい。なぜなら、そのようにどもる必要がなければならないのだから。発語(パロール)でどもるのではない、言語活動(ランガージュ)そのものによるどもりなのだ。自国語そのものの中で異邦人のごとくであること。逃走の線をひくこと。》(ドゥルーズ『ディアローグ-』)

◆シューベルトの最後のピアノソナタ第21番変ロ長調D.960について(アファナシエフ『ピアニストのノート』より)

それに私も、どうすればこのソナタの心理的な重みに耐えることができるだろう。たとえウィークデーの夜、小さなホールで演奏するだけとしても。このソナタをわが家で弾いたら何が起こるだろう?大文字の「他者」がそのまったき光輝と恐怖とともに出現する。ある意味において、このソナタは私の不俱戴天の敵なのだ。弾けば弾くほど、私は具合が悪くなる。私を傷つけ、私の苦痛をいつまでも引きのばすことを知りながら―――今回も、とどめの一撃を与えてはくれないのだ―――私はこの他者を抱きしめ、接吻する。日常生活の中でなら、こんなにひどいカタストロフに襲われれば命を落としていただろう。





《このソナタは私の不俱戴天の敵なのだ》、あるいは《私を傷つけ、私の苦痛をいつまでも引きのばす》とも言う。


彼の演奏は、吃るというだけでは足りない。音が流れてしまうことを拒絶し(いわゆる華麗な演奏にあるような)、その一音一音を刻み込むさま。「耳で聞く」のではなくて、ほとんど読まねばならないこれらの音。華麗な演奏が流暢な演説口調のパロールであるならば、ここには《二行を探し求めて二日》のフローベールのようなエクリチュールがある。それは異質の聴き手に語りかけているかのようであり、あるいは聴くのではなく読まなければならないかのようなのだ。あるいはこう言ってもいい、アファナシェフは、音のなまなましい抵抗感に犯されることの苦痛が倒錯的な快楽に反転する瞬間を辛抱強く待ちつづけているかのようだ、と。

こうして、音楽の未来の扉が開くかすかな予感ーー何かはわからないが何かが確実に存在しようとして息をひそめているこの感覚、ーーがあたりに瀰漫しはじめる。そして、いつのまにか未来のドアがわずかに開き、隙間のなかに保留されていた光が漏れ入るかのような瞬間がある。そこにあるのがわからなかった部屋が見えるのだ。

…………

ケロールは作家や詩人たちの視覚的感受性の代わりに正真正銘の声の想像力を持っている。第一に、声はどこからか現れ、流れ出ることができる。だが、一旦発せられると、その声はどこかには存在する。あなたの周囲に、あなたのうしろに、あなたの横に。しかし、結局、決してあなたの前にはいない。声の真の次元は、間接的、側面的次元なのである。声は脇から他者に接し、軽く触れ、去っていく。声は自分の出自を名乗らず触れることができる。したがって、声は名づけられないものの記号である。それは、身体の物質性、顔の特徴、あるいは、視線の人間味を取り除いてもなお、人間から生まれ、存在し続けるものである。それは最も人間的であると同時に非人間的な実体である。声がなければ、人間同士のコミュニケーションもないが、声があると、また、冥界にせよ天界にせよ、超=自然から、つまり異郷感からこっそりと忍び込む分身(ドッペルゲンガー)の不快さをも生ずる。よく知られたテストによると、皆(テープレコーダーで)自分自身の声を聞くのを嫌がり、自分の声だということがわからないことさえしばしばあるという。それは、声というものは、その出所から切り離しても、つねに、一種の奇妙な親密さを生み出すからであるが、この親密さこそ、ケロールの世界、すなわち、その正確さによって識別され、しかし、その起源消失によって識別されることを拒む世界の親密さである。声はまた別の記号でもある。つまり、時間の記号である。どのような声もじっとしていない。絶えず過ぎ去る。さらには、声が示す時間は穏やかな時間ではない。声はどんなにむらがなく、慎ましくとも、その流れに何の切れ目がなくとも、声は皆脅かされている。人間の生の象徴的な実体である声は、つねに始めには叫びがあり、終わりには沈黙がある。この二つの契機の間に、パロールの頼りない時間が広がるのである。流動的で、しかも、脅かされている実体である声は、したがって、生そのものである。そして、おそらく、ケロールの小説は、つねに、純粋で孤独な声の小説であるからこそ、それはまた、つねに、頼りない生の小説でもあるのだ。(ロラン・バルト「削除」『テクストの出口』所収 沢崎浩平訳)

そしてもうひとつ、ニーチェの音調、文である思想、という歌唱。

『批評的エッセー』の中によく見てとれるように、エクリチュールの主体は「進化する」のである(荷担〔アンガーシュマン〕の道徳から、記号表現の道徳性へと移行して)。彼は、みずからが対象として扱う著作者たちに応じて、順を追って進化する。けれどもそれを導くものは、私がそれについて語る著作者自身ではなく、むしろ、《その著作者によってしむけられて私がその人について語るにいたることがら》である。つまり、私は《その人の認可のもとに》私自身から影響を受ける。私が彼について語ることがらによって、私は、私自身についてその同じことを考えさせられる(あるいは、そのことを考えないようにさせられる)、と、そんなふうに言ってもいい。

だから二種類の著作者たちを区別しなければならない。第一は、人がある著作者たちについて書く、そういう対象としての著作者たちであり、彼らからの影響は、人が彼らについて語ることがらの外にはなく、そのことがらに先立つものではない。そして第二は(もっと古典的な考えかたであり)、人が読む対象としての著作者たちである。ところで、第二の著作者たちから私に及ぼされるものはいったい何だろうか。一種の音楽、一種思索的な音の調子、程度の差はあるがともかく厳密なアナグラムのゲームである。(私の頭はニーチェでいっぱいであった。読んだばかりだったのである。しかし私が欲していたもの、私が手に入れたがっていたものは、文である思想、という歌唱であった。影響は純粋に音調上のものであった。)(『彼自身によるロラン・バルト』)

だが肝要なのは声だけではない。においやフェロモンがさらに根源的であるという視点がある。

……無時間的なものの起源は、胎内で共有した時間、母子が呼応しあった一〇カ月であろう。生物的にみて、動く自由度の低いものほど、化学的その他の物質的コミュニケーション手段が発達しているということがある。植物や動物でもサンゴなどである。胎児もその中に入らないだろうか。生まれて後でさえ、私たちの意識はわずかに味覚・嗅覚をキャッチしているにすぎないけれども、無意識的にはさまざまなフェロモンが働いている。特にフェロモンの強い「リーダー」による同宿女性の月経周期の同期化は有名である。その人の汗を鼻の下にぬるだけでよい。これは万葉集東歌に残る「歌垣」の集団的な性の饗宴などのために必要な条件だっただろう。多くの動物には性周期の同期化のほうがふつうである。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」ーー不安のにおい
成人世界に持ち込まれる幼児体験は視覚映像が多く、稀にステロタイプで無害な聴覚映像がまじる。嗅覚、味覚、触覚、運動覚、振動感覚などはほとんどすべて消去されるのであろうか。いやむしろ、漠然とした綜合感覚、特に母親に抱かれた抱擁感に乳の味覚や流れ入る喉頭感覚、乳頭の口唇触覚、抱っこにおける運動感覚、振動感覚などが加わって、バリントのいう調和的渾然体harmonious mix-upの感覚的基礎となって、個々の感覚性を失い、たいていは「快」に属する一つの共通感覚となって、生きる感覚(エロス)となり、思春期を準備するのではなかろうか。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』p57)

2014年3月4日火曜日

マグダ・タリアフェロMagda TagliaferroとフォーレFaure




マグダ・タリアフェロMagda Tagliaferroはブラジル出身でコルトーの秘蔵弟子。フォーレのお気に入りのピアニストで、演奏旅行をともにしたり、多くのフォーレの作品を演奏している。1960年から70年にかけて、タリアフェロの名を冠した国際ピアノコンクールがパリであった。
                        
わたくしの長男は幼い頃タリアフェロに教えをうけたピアノ教師に学んでおり、独特なタリアフェロ体操なるものをさせられた。日本のラジオ体操に近いが、手首や肘の関節を柔らかくする体操が中心だ。息子は妻やときにわたくしの同伴のもと週一回当地の音楽大学の校長室(教師の夫は校長)に通うのだが、その教育のあまりの厳しさに音をあげて数年後にやめてしまった。その後もこの夫妻の自宅に招かれることがあるが、自宅には小田実とともの着物をきた彼女の写真が飾ってある。ベトナム戦争時、一度日本に招かれて演奏旅行をしており、そのときのものだ。


この教師の演奏スタイルはその肘や手首の動かしかたが、まさに冒頭の映像のようであるが、いかんせんミスタッチが多い!

上の映像は昨日ツイッターから拾ったものだが、つい先日、次の文を読んでタリアフェロの演奏するフォーレの「バラード」を聴いたところだった。

プルーストは1903年にフイガロ紙に掲載された「エドモン・ド・ポリニャッ夫人のサロン」と『失われた時を求めて』の「因われの女」の中で、フォーレのヴァイオリン・ソナタ第1番に言及している。また、フォーレの「バラード」をヴァントゥイユのソナタに「利用」した、と1915年のアンス・ビベスコ宛ての書簡で明かしている。そして翌年、ガストン・プーレ弦楽四重奏団の演奏によリフォーレのピアノ四重奏曲を聴き、それをヴァントウイユの七重奏に利用したという。また、プルーストはフォーレのピアノ五重奏曲にも興味を寄せ、オデオン座でのフォーレ・フェステイバルでこの曲を初めて聴き、ガストン・プーレ四重奏団と作曲家フォーレ自身を思い切つて自邸に招き、自分ひとりのために演奏を依頼している。この曲もヴァントゥイユの七重奏のモデルになつたことは「ここは、フォーレの弦楽四重奏曲第1番卜短調のカペーの弾くヴァオリン・パート」とプルーストの残したノートにあることから明らかである。(Anne Penesco Proust et le violon interieur (Les Editions duCerf, 2011)書評 安永愛ーーフォーレとヴァントゥイユ(プルースト)



次の演奏録音は、《Magda played this work at 15 y. old, invited by Faurè for the first audition. And HE played the second piano!》とある。




1965928日 パリ、サル・ブレイエルでのリサイタルのプログラムより


ピアノは芸術、ピアノは快楽、もっともまれな、もっとも洗練された楽しみ。私たちのすべての夢をかなえてくれるもの。演奏者がその演奏によって聴衆の一人一人に音楽の魔法の力を伝えるとき、音楽を聴き愛する人は、たんにそれをうけとるだけではなく、音楽の魔法と魅力に世界にわけいる冒険者になるのです。

音楽は私のよろこび、忍耐強い練習を積み重ねてはじめてえられる深いよろこび。演奏者としての長年の経験のすべてをこめた、合理的な演奏法によって、できるだけ多くの人々にこの魅力的な世界のエリートになってもらうようにするのが、私の願いです。この願いの実現こそが私の苦労の代償であり、そのために私はピアノ教育にも熱意をもって取り組んできました。小さな子どもたちを導くことにも、すでに演奏家の域に達しているピアノストたちに助言を与えることにも、ひとしなみに喜びを感じています。

ああ、聖なるミュージック、音楽こそ私の全人生!(マグダ・タリアフェロ)



2014年2月20日木曜日

フォーレとヴァントゥイユ(プルースト)






尿酸値が高く左膝のぐあいがあまりよくないのだが、フォレ(フォーレ)の曲をやるというので丈高いユーカリ並木の美しい通りにあるG音楽教授夫妻宅の内輪の音楽会に訪れる。三〇人弱の集まりで若いひとが多い。欧州で音楽活動をしているふたりのご子女のうちひとりが戻ってきていて、そのヴァイオリストの娘さんがG夫人とフォレのピアノソナタを演奏する。若い学生さんが、声は細いが美しい声で歌曲をうたう。四重奏や五重奏曲のいくつかの断片をやる。G氏のチェロのなんとすばらしいこと!






フォレはこの国にあう。二十年前この国に最初に訪れてここに居を定めるかどうかを試し住みするために、小さな殺風景なアパートを一ヶ月ほど借りた。そのときフォレばかりを聴いていたことがある。


五階建ての三階にある部屋、白く塗られた壁がくすみつつある、武骨で古くさく縦に細ながい部屋だったが、鎧戸だけは重く立派だった。朝その鎧戸の隙間――その扉は緑とクリームを混ぜたような色で塗られており瀟洒で気品があったーー、そこから光の筋が模造大理石の床に模様を眺めながら、こちらのスタイルの美味なコーヒーを入れ、フォレを聴く。路上市場のようなところで一枚50円ほどで手に入れた歌曲集やソナタ、ピアノ四重奏のCDを繰り返して聴いた。





そのとき以来、フォレはわたくしにとってはプルーストのヴァントゥイユであり、フォレを聴くと、当時かかえていた個人的な鬱屈の先から洩れるわずかな光、新しい生活へ希求の香気が蘇る。

プルーストによる精細で執拗なまでの音楽の記述は、ヴァントゥイユの「ソナタJや「七重奏」にモデルがないはずがないとの印象を与えずにはいない。実際プルーストは、アントワーヌ・ボスコとジャク・ド ラクルテルに宛てた書簡に、モデルとなつた音楽について言及しているのである。書簡によれば、ヴァントゥイユのソナタは、主にサン=サーンスのヴァイオリン・ソナタに由来し、しゃがれ声の冒頭はフランクのソナタであり、フォーレのバラードである。「トレモロの震え」はワグナーの「ローエングリーンJのプレリュードである。また、印象に残つている演奏は、ジャック=ティボーの奏するサン=サーンスのソナタであり、エネスコの演奏するフランクのソナタである。(……)

プルーストは1903年にフイガロ紙に掲載された「エドモン・ド・ポリニャッ夫人のサロン」と『失われた時を求めて』の「因われの女」の中で、フォーレのヴァイオリン・ソナタ第1番に言及している。また、フォーレの「バラード」をヴァントゥイユのソナタに「利用」した、と1915年のアンス・ビベスコ宛ての書簡で明かしている。そして翌年、ガストン・プーレ弦楽四重奏団の演奏によリフォーレのピアノ四重奏曲を聴き、それをヴァントウイユの七重奏に利用したという。また、プルーストはフォーレのピアノ五重奏曲にも興味を寄せ、オデオン座でのフォーレ・フェステイバルでこの曲を初めて聴き、ガストン・プーレ四重奏団と作曲家フォーレ自身を思い切つて自邸に招き、自分ひとりのために演奏を依頼している。この曲もヴァントゥイユの七重奏のモデルになつたことは「ここは、フォーレの弦楽四重奏曲第1番卜短調のカペーの弾くヴァオリン・パート」とプルーストの残したノートにあることから明らかである。(Anne Penesco Proust et le violon interieur (Les Editions duCerf, 2011)書評 安永愛)




最後の部分がはじまるところでスワンがきいた、ピアノとヴァイオリンの美しい対話! 人間の言語を除去したこの対話は、隅々まで幻想にゆだねられていると思われるのに、かえってそこからは幻想が排除されていた、話される言語は、けっしてこれほど頑強に必然性をおし通すことはなかったし、こんなにまで間の適切さ、答の明白さをもつことはなかった。最初に孤独なピアノが、妻の鳥に見すてられた小鳥のようになげいた、ヴァイオリンがそれをきいて、隣の木からのように答えた。それは世界のはじまりにいるようであり、地上にはまだ彼ら二人だけしかいなかったかのようであった、というよりも、創造主の論理によってつくられ、他のすべてのものにはとざされたその世界―――このソナタ―――には、永久に彼ら二人だけしかいないだろうと思われた。それは一羽の小鳥なのか、小楽節のまだ完成していない魂なのか、一人の妖精なのか、その存在が目には見えないで、なげいていて、そのなげきをピアノがすぐにやさしくくりかえしていたのであろうか? そのさけびはあまりに突然にあげられるので、ヴァイオリン奏者は、それを受けとめるためにすばやく弓にとびつかなくてはならなかった。すばらしい小鳥よ! ヴァイオリン奏者はその小鳥を魔法にかけ、手なずけ、うまくつかまえようとしているように思われた。すでにその小鳥はヴァイオリン奏者の魂のなかにとびこんでいた。すでに呼びよせられた小楽節は、ヴァイオリン奏者の完全に霊にとりつかれた肉体を、まるで霊媒のそれのようにゆり動かしていた。スワンは小楽節がいま一度話しかけようとしているのを知るのであった。(プルースト「スワン家のほうへ」井上究一郎訳)

いまは晩年の弦楽四重奏OP121をもっとも愛する。弦楽四重奏のなかでは、おそらく他の作曲家のものも含めて、ベートーヴェンOP131と同じくらいーーいやよく聴くのはフォレの方だーー愛する。第二楽章が好みだが、第三楽章もよい。昨晩は夫妻とその仲間たちの合奏による第三楽章をきいた。

ひかえめな初老の男が、少年のような音楽の悦びの表情を輝かせて、思い切りチェロで歌をうたう。そして合奏者に親しい合図を送って瞳を見交わす。演奏と同じくらい、演奏者の顔の表情に魅せられる。






エベーヌ四重奏団の面子ような生きのいい若者と愉快に会話ができて、ひさしぶりに生き返ったような気分になった。






そのまえの年、ある夜会で、彼はピアノとヴァイオリンとで演奏されたある作曲をきいたことがあった。最初彼はただ楽器からにじみでる音の物質的な性質だけしかたのしもなかった。それからヴァイオリンの、ほそくて、手ごたえのある、密度の高い、統率的な、小さな線の下から、突如としてピアノの部分の大量の音が、ざわめきながらわきたち、月光に魅惑される変記号に転調された波のモーヴ色の大ゆれのように、さまざまな形をとり、うちつづき、平にのび、ぶつかりあって、高まってこようとしているのを見たとき、それだけでもう彼は大きな快楽にひたったのであった。しかし、そのうちふとある瞬間から、スワンは、輪郭をはっきり識別することも、彼に快感をあたえているものをそれと名ざすこともできないままに、突如として魅惑された状態で、たそがれどきのしっとりした空気にただようばらの匂が鼻孔をふくらませるように、通りすがりに彼の魂を異様に大きくひらいたあの楽節かハーモニーかをーーそれが何であるかを彼自身も知らなかったがーー心のなかでまとめてみようとつとめたのだった。(……)

その楽節は、ゆるやかなリズムで、スワンをみちびき、はじめはここに、つぎはかしこに、さらにまた他のところにと、気高い、理解を越えた、そして明確な、幸福のほうに進んでいった。そしてその未知の楽節がある地点に達し、しばし休止ののち、彼がそこからその楽節についてゆこうと身構をしていたとき、突然、楽節は方向を急変し、一段と急テンポな、こまかい、憂鬱な、とぎれない、やさしい、あらたな動きで、彼を未知の遠景のかなたに連れさっていった。それから、その楽節は消えた。彼は三度目にその楽節にめぐりあいたちとはげしく望んだ。すると、はたして、その楽節がまたその姿をあらわしたが、こんどはまえほどはっきりと話しかけてくれなかったし、まえほど深い官能をわきたたせはしなかった。しかし、彼は家に帰ると、またその楽節が必要になった、あたかも彼は、行きずりにちらと目にしたある女によって生活のなかに新しい美を映像をきざみこまれた男のようであり、その名さえ知らないのにもうその女に恋をし、ふたたびめぐりあうてだてもないのに、その女の新しい美の映像がその男の感受性にこれまでにない大きな価値をもたらす場合に似ていた。(同「スワン家のほうへ」)





…スワンや彼の妻はこのソナタに、明瞭にある楽節を認めるのだが、私にとってその楽節は、たとえば思いだそうとするが闇ばかりしか見出せない名前、しかし一時間も経ってそのことを考えていないときに最初はあれほどたずねあぐんだ綴がすらすらとひとりでに浮かびあがってくるあの名前のように、ソナタのなかにあって容易にそれとは見わけにくいものなのであった。また、あまりききなれないめずらしい作品をきいたときには、すぐには記憶できないばかりでなく、それらの作品から、ヴァントゥイユのソナタで私がそうであったのだが、われわれがききとるのは、それほどたいせつではない部分なのである。(……)

そればかりではない、私がソナタをはじめからおわりまできいたときでも、たとえば距離や靄にさまたげられてかすかにしか見ることのできない記念建造物のように、やはりこのソナタの全貌は、ほとんど私に見さだめられないままで残った。そこから、そうした作品の認識にメランコリーがむすびつくのであって、時間が経ってからのちにそのまったき姿をあらわすものの認識はすべてそうなのである。ヴァントゥイユのソナタのなかにもっとも奥深く秘められた美が私にあきらかになったとき、はじめに認めてたのしんだ美は、私の感受性の範囲外へ習慣によってさそわれて、私を離れ、私から逃げだしはじめた。私はこのソナタがもたらすすべてを時間をかさねてつぎつぎにでなければ好きになれなかったのであって、一度もソナタを全体として所有したことがなかった、このソナタは人生に似ていた。しかし、そうした偉大な傑作は、人生のようには幻滅をもたらすことはないが、それがもっている最上のものをはじめからわれわれにあたえはしない。ヴァントゥイユのソナタのなかで一番早く目につく美は、またあきられやすい美であり、そうした美がすでに人々に知られている美とあまりちがっていないのも、まず早く目にとまる美だからである。しかしそんな美がわれわれから遠ざかったとき、そのあとからわれわれが愛しはじめるのは、あまり新奇なのでわれわれの精神に混乱しかあたえなかったその構成が、そのときまで識別できないようにしてわれわれに手をふれさせないでいたあの楽節なのである。われわれが毎日気がつかずにそのまえを通りすぎていたので、自分から身をひいて待っていた楽節、それがいよいよ最後にわれわれのもとにやってくる、そんなふうにおそくやってくるかわりに、われわれがこの楽節から離れるのも最後のことになるだろう。われわれはそれを他のものより長く愛しつづけるだろう、なぜなら、それを愛するようになるまでには他のものよりも長い時間を費していたであろうから。それにまた、すこし奥深い作品に到達するために個人にとって必要な時間というものはーーこのソナタについて私が要した時間のようにーー公衆が真に新しい傑作を愛するようになるまでに流される数十年、数百年の縮図でしかなく、いわば象徴でしかないのである。(プルースト『花咲く乙女たちのかげに Ⅰ』 井上究一郎訳 文庫 P172-174)









2014年2月16日日曜日

バッハカンタータBWV12 第一曲、第二曲

◆第一曲シンフォニア




エミール・ナウモフ 編曲演奏(第一、二曲)




※BWV12第二曲→ バッハカンタータBWV12とヴィヴァルディPiango, gemo, sospiro e peno


◆リスト編曲第二曲(ホロビッツ演奏)






…………

◆ナウモフ編曲(フォーレ弦楽四重奏曲OP.121 アンダンテ)




◆OP.121 アンダンテ(演奏カルテット名不明)






◆プルーストの「囚われの女」より

……この音楽のなかで、くらがりにうごめくはっきりしない幼虫のように目につかなかったいくつかの楽節が、いまはまぶしいばかりにあかるい建造物になっていた。そのなかのある楽節はうちとけた女の友人たちにそっくりだった、はじめはそういう女たちに似ていることが私にはほとんど見わけられなかった、せいぜいみにくい女たちのようにしか見えなかった、ところが、たとえば最初虫の好かなかった相手でも、いったん気持が通じたとなると、思いも設けなかった友人を発見したような気にわれわれがなる、そんな相手に似ているのであった。





2013年8月17日土曜日

「あなたは読まないで話していますね」、あるいは『戦争と平和』

君は『戦争と平和』を読んでいるときに、重傷を負ったボルコンスキイをむりやり地理的かつ時間的にナターシャと接触させようとして、どれほどトルストイが無理をしているか、気づいただろうか?》─『ナボコフ=ウィルソン往復書簡集 1940-1971


ナボコフの挑発に促されて、この何週間か『戦争の平和』をめくっていた。
むりやり地理的かつ時間的に、の箇所はすぐ知れた。
手元にある岩波文庫(米川正夫訳)では、第三部 第二篇の395頁にまずはこうある。


囀りの声を立てて矢のごとく飛びながら地上へおりた小鳥のように、アンドレイ公爵(ボルゴンスキイ)から二歩ばかりへだてた大隊長の馬のそばで、榴弾があまり高い響きを立てずにぐしゃりと落ちた。(……)

『これがいったい死なんだろうか?』アンドレイ公爵はまったく新しい羨望の眼をもって、草や、苦蓬や、旋回する黒い玉から舞い上がる煙の流れを見ながら、こう考えた。『俺は死ぬことができない。死にたくない、俺は生活を愛している、この草と土と空気を愛している……』

榴弾は炸裂し、ボルゴンスキイはわきの方へけし飛ばされ、片手を上げたまま胸を下に倒れる。右の脇原からは大きな血のしみが草の上に流れひろがる。


「ああ、何というこった、本当になんというこった! 腹部に命中するとは! これじゃだめだ! ああ、何というこった!」――将校たちが叫んでいる。


このボロジノの戦いは、1812826日であり、戦闘後、ナポレオン軍は120キロ離れたモスクワに、92日に乗りこむ。ところが重傷のボルゴンスキイを運ぶ馬車は、831日の夜、モスクワに辿り着いている。ナターシャ一家(ロストフ家)の知人はほとんど全部モスクワを出ていっているのにもかかわらず、彼らはモスクワにぎりぎりまでうろうろしている。

ボルゴンスキイが、ロストフ家に入り込む場面も奇妙だ。

この夜また一人の新しい負傷者が、ボワルスカーヤ街を運ばれてきた。門のそばに立っていたマーヴラ・クジミーニシナは、その車をロストフ家に入れさせた。この負傷者は、マーヴラ・クジミーニシナの想像によると、よほど身分のある人らしかった。乗りものは四輪馬車で、前は膝掛けで蓋をしたうえに、幌までおろしてあった。馭者台の上には馭者と並んで、品のいい老侍僕が腰をかけていた。後ろの荷馬車には軍医が一人と、兵卒が二人乗っていた。

「わたくしどもにおいでくださいまし。どうぞ、御主人がたはお発ちになりますので、家じゅうがら空きでこざいます」と老婆は侍僕にむいて言った。
「そうだなあ」と侍僕はため息をつきながら言った。「とても行き着かれそうもないでなあ! わたしどもも、モスクワに自分の家があるんだが、だいぶ遠いうえに、誰もすまっていないもんだから」第三部p477

ナボコフはおそらくこのあたりのことを言っているのだろう。


…………


こうやって拾い読みをすると、ほかの場所も読み返してみたくなる。結局、第一部の終わりあたりから、最後までまた読むことになる。


第一部の終わりでも、アンドレイ公爵は重傷を負っている。アウステリッツの会戦(1805)の場面であり、その箇所はあまりにも有名だ。


『これはどうしたのだ? 俺は倒れかかっているのか! なんだか足がへなへなする!』とアンドレイ公爵は考えると、たちまちあおむけにぶっ倒れた。彼はフランス兵と砲手の争闘の結果がどうなったか、赤毛の砲手が殺されたかどうか、大砲は鹵獲されたか助かったか、それを見るつもりで眼を開いた。が、なにも見えなかった。彼の頭上には高い空――晴れ渡ってはいないが、それでも測り知ることのできないほど高い空と、その面をはってゆく灰色の雲のほか何もない。

『なんという静かな、穏やかな、崇厳なことだろう。俺が走っていたのとはまるっきりべつだ。』とアンドレイ公爵は考えた。『われわれが走ったり、わめいたり、争ったりしていたのとはまるっきりべつだ。あのフランス兵と砲手が、おびえた毒々しい顔つきをして、洗桿をひっぱりあっていたのとは、まるっきりべつだ。この高い無限の空をはっている雲のたたずまいは、ぜんぜんべつなものだ。どうして俺は今までこの高い空を見なかったんだろう? 今やっとこれに気がついたのは、じつになんという幸福だろう。そうだ! この無限の空以外のものは、みんな空〔くう〕だ、みんな偽りだ。この空以外はなんにもない、なんにもない。しかし、それすらやはりありゃしない、静寂と平安のほかなにもない。それでけっこうなのだ!……』一巻 P538-539

そしてピエールとの渡し船の場面の「高い空」。


アンドレイ公爵は渡し船の欄干に肘をついて、ピエールの話を聞きながら、蒼ずんだ水面に輝く赤い反映を、まじろぎもせず見入っていた。ピエールは口をつぐんだ。あたりはしんと静まりかえっていた。渡し船はとうに向こう岸へ着いている。ただ川波が弱い音をたてながら、船底にひたひたとあたるばかりであった。アンドレイ公爵はこの波のささやきがピエールの言葉に和して、「そうだ、信じなさい。」というように感じられた。

アンドレイ公爵はため息をついた。そして、ピエールの赤くなった顔を、光にみちた、子供らしい、やさしい眼でちらと眺めた。ピエールの顔には勝ち誇ったような表情ではあるが、それでもやはり、優越権を握った友にたいする遠慮の色がうかがわれた。

「そう、それが本当にそうだったらなあ!」と彼は言った。(……)渡し船を出るときに、彼はピエールの指さした空を仰いだ。かつてアウステルリッツの戦場に横たわって眺めたかの高い永遠の空を、彼はあのとき以来はじめて見たのである。と、なにかしら、ずっと前から眠っていた心中のある優れたものが、ふいに悦ばしげに彼の胸によみがえった。

アンドレイ公爵がなれっこになった以前の生活条件ははいると同時に、この感情は消えてしまったけれど、彼の育まれなかったこの感情が、心の中に生きていることは自分でも知っていた。ピエールとの会見はアンドレイ公爵にとって、一つの画期的な事件であった。このとき以来、外見上こそ変わりがないけれども、内部の世界に新しい生活が始まったのである。二巻P193-194


ほかにも若年期からのお気に入りの場面が、五、六箇所ほどあり、こういった大小説は、その場面に近づく予感とともに読むことになってしまう。


ところで、ここで冒頭のナボコフをまねて、次のように言ってみることにする、

ーー「きみは覚えているだろうか? ボルゴンスキイがナターシャに出会うロストフ家の田舎の地所愉楽村の場面を。彼が眠れぬまま二階の部屋のバルコニーで、窓を開けて月夜を眺めつつ耳をすます上の階からのナターシャの声音の甘美さを。そしてその前後の愉楽村に向かう途中にある白樺林のなかの楢の老樹と帰途の同じ木の描写の反転を」。

そこにはいままで書かれた小説のなかで、最も繊細なポエジーの極致のひとつがあるとは言えないだろうか。




だがひとにはそれぞれ愛する小説やその個別の箇所をもっているのであろうし、わたくしの場合若年期に強烈な印象を受けたある箇所だけを慈しむようにして、ほかの箇所に眼が届かなくなるという「悪癖」がある。


最も古典的な物語(ゾラやバルサックやディケンズやトルストイの小説)には、いわば薄められた合成語分離法とでもいうべきものがある。われわれは全体を同じ緊張度で読みはしない。テクストの完全性をあまり大事にしない、無造作なリズムで読む。知りたい一心で、なるべく物語の白熱する部分(それは、常に物語の関節であり、謎や運命の暴露を進行させる部分だ)に到ろうとして、(《退屈》そうに思われる)ある箇所を斜め読みしたり、抜かしたりする。描写や説明や考察や会話はとばしても罰は受けない(誰もみていないから)。その時、われわれは、舞台に跳び上がって、すばやくダンサーの服を脱がせ、ストリップの先を急がせるキャバレーの客に似ている。急がせるといっても、順序に従って、だ。つまり一方では、儀式の挿話(エピソード)を尊重し、他方では、それを早めるのである(ミサをはしょる司祭のように)。快楽の源泉であり、技法である合成分離法は、ここでは、散文的な二つの縁を向かい合わせる。秘密を知るのに有用であるものと有用でないものを対立させる。それは単なる機能性の原理から生じた断層である。それは直接言語活動の構造からは生れない。言語活動の消費の時にだけ生れるのである。作者はそれを予見できない。すなわち、読まれないであろうことを書こうとすることはできない。しかし、偉大な物語のもたらす快楽は、読むことと読まないことのリズムそのものだ。プルーストやバルザックや『戦争と平和』を逐語的に読んだ者がいるだろうか(プルーストの幸せ、それは、誰も、読むたびに、決して同じ箇所はとばさないことだ)。

私が物語で味わうものは、従って、決して内容ではないし、構造でさえない。むしろ私がその美しい外被につける擦り傷だ。私は急ぐ。とばす。顔を挙げる。また読み始める。悦楽のテクストが、単なる読書の時間性にではなく、言語活動自体に与える裂傷とは関係がない。

そこから、二つの読み方が生ずる。一つは一気に逸話の関節に向かい、テクストの広がりを見渡すが、言語活動の遊びを知らない(シュール・ヴェルヌを読むとき、私は先を急ぐ。ところどころ話の流れを見失う。しかし、私の読書は言語の覆流水―――洞穴学において持ち得る意味で―――によって魅せられることはない)。もう一つの読み方は何もとばさない。吟味し、テクストに密着し、いわば、熱心に、夢中になって読み、テクストの各箇所で、言語活動―――逸話でなく―――を断ち切る連辞省略を捉える。この読み方を魅するのは(論理の)発展でも、真理をむしろとることでもなく、意味形成性の薄片だ。熱い手遊び(マン・ショード)のように、興奮は進行を急ぐことから生じるのではなく、いわば、垂直の大騒ぎ(言語活動とそれの破壊の垂直性)から生じるのである。



この密着した第二の読み方は現代のテクスト、限界=テクストにふさわしい読み方である。ゾラの小説を、ゆっくり、通して読んで見給え。本はあなたの手から滑り落ちるだろう。現代のテクストを、急いで、断片的に読んで見給え。このテクストは不透明になり、あなたの快楽に対して門戸をとざすことだろう。あなたは、何事かが起こればいいと思う。しかし、何も起こらない。言語活動に起こることは話の流れには起こらないからだ。すなわち、《起こる》もの、《過ぎ去る》もの、二つの縁の断層、悦楽の隙間は、言語活動の量(ボリューム)の面において、言表行為において生ずるのであって、言表の連続において生ずるのではない。早読みしないこと、丹念に摘みとること、現代作家のものを読むには、昔のような読書のひまを再び見出すこと、すなわち、貴族的な読者になることだ。(ロラン・バルト「テクストの快楽」)



1828年生まれのトルストイは、1862年に『戦争と平和』に着手(~完結1869年)しており、つまり三十代の半ばからの仕事であるが、そのみずみずしさの度合いは、後年の作品とは大きく異なる、--などと多くの先達の称揚の尻馬に乗っていまさら語ってもはじまらないが、アランがトルストイの後年の作品を読んだあとには、やはり『戦争と平和』に戻るように奨め、小林秀雄が「読む本に困ったら、トルストイを。出来れば『戦争と平和』を」などとするのに十代の頃強い印象を受けていまだその影響下あるためか、わたくしにも『戦争と平和』がもっとも近しい。そこには、プルーストのいう「ビロードの肌触り」がある。

理知が摘みとってくる真実――この上もなく高次な精神の理知であっても、とにかく理知が摘みとってくる真実――透かし窓から、まんまえから、光のただなかで、摘みとってくる真実についていえば、なるほどその価値は非常に大きいかもしれない。しかしながらそのような真実な、より干からびた輪郭をもち、平板で、深さがない、というのは、そこには、真実に到達するために乗りこえるべき深さがなかったからであり、そうした真実は再創造されたものではなかったからだ。心の奥深くに神秘な真実があらわれなくなった作家たちは、ある年齢からは、理知にたよってしか書かなくなることが多い、彼らにはその理知が次第に力を増してきたのだ、それゆえ、彼らの壮年期の本は、その青年期の本よりも、はるかに力強くはあるが、そこにはもはやおなじようなビロードの肌ざわりはない。(プルースト「見出された時」)

 ロラン・バルトは『戦争と平和』のもうひとつの至高の場面を挙げて次のように書いている。


今、私の人生の半ば、私の個人的なものの頂点にあって、二つの本の読み方を再発見したのです(実は、いく度も読み返すので、正確にいつとはいえないのですが)。第一は、残念ながら、もう書かれることのないような大小説、トルストイの『戦争と平和』です。今、お話するのは作品についてではなく、それから受ける衝撃についてです。この衝撃は、私にとって、ボルゴンスキ老公爵の死で、彼が娘のマリアに語りかける最後の言葉で、死が迫って、愛の言葉(おしゃべり)を一度も交わすことなく愛し合っていたこの二人が引き裂かれ、どっと愛情がほとばしる所で、頂点に達します。第二は、『失われた時』の、祖母の死のエピソードです(この作品はこの講演の最初の部分とは別の資格でここに登場します。私は、今度は、作家にではなく、「話者」に同化しています)。これはこの上なく純粋な物語です。私が申し上げたいのは、ここでは、苦しみが(『失われた時』の他のエピソードとは逆に)注釈を加えられていないだけに、そして、やがて来る、永久に引き裂こうとする死の残忍さが、シャンゼリゼのあずまやへの立ち寄りとか、フランソワーズに髪をとかしてもらって揺れる哀れな頭といった間接的な事物や事件を通してしか語られないだけに、純粋であるということです。(ロラン・バルト『テクストの出口』より)


忙しい現代、ひとはかつての古典などめったに読み返しはしない。いま、若い人たちのなかで、アランや小林秀雄のように読むひとがどれだけいるのだろう。「小暗い処で、顔は定かにわからぬが、手はしっかりと握ったといふ具合な解り方をして了ふ」(小林秀雄)というのは錯覚かもしれない。だがその「錯覚」を覚える読み方をしているひとがどれだけいるだろう。
忙しい人間に文学、つまり、本を読むことの必要などない筈であって、それでも教養が身に付けたいという種類のいじらしい考えでいても、そうしたせかせかした気持で人が書いた言葉など楽しめるものではない。仮に本当に教養が身に付けたいのであっても、そんなに忙しいならば、又、教養というのが精神を快活にするものであるならば、その間に眠った方が体にも、精神にもよさそうである。(吉田健一『文学の楽しみ』)

まあ現在そんなことを言い出したら、殆んどの人は本など読めなくなってしまうのかもしれない。

だが今でも次のようなことはいえるだろう。
私の人生観はわりと単純で、善人と悪人というんじゃなくて、余裕のある人間と、余裕のない人間とがあるんだろうと。それは程度の差もあるし質もあるだろうけど、私はそう考え、そういう軸で人をみている(中井久夫「家庭の臨床」『「つながり」の精神病理』ちくま学芸文庫、2011年(初出1985年))。

吉田健一には次のような名文句がある、「書棚には、五百冊ばかりの本があれば、それで十分というのが、吉田さんの口癖だった」(篠田一士『読書の楽しみ』)

篠田一士はこうも書いている、《「本は五百冊あればというのは、ズボラか、不勉強かとは逆に、よほどの禁欲、断念のはてに実現するもので、これを実行するには、並大抵の精神のエネルギーではかなうことではない。一日に三冊もの本を読む人間を、世間では読書家というらしいが、本当のところをいえば、三度、四度と読みかえすことができる本を、一冊でも多くもっているひとこ そ、言葉の正しい意味での読書家である」

吉田健一こそ「そういうひとだった」というのだ。》



私はバルザックのために戦ってきた。時どきこんな人にお目にかかるのだが、『谷間のユリ』は実にたいくつだ、ということを私に証明するせっかちな読者がある。ところが私には、あの作品が『イリアッド』ないし『ハムレット』にもひけをとらぬことの証明ができない。じつは私はそう心得ているのだが。しかし、そういう読者に対して、あなたは読まないで話していますね、ということならいつでも証明できる。私は崇高なくだりをいくつか挙げてみるが、彼はそういう箇所に気づいていさえいないのである。(アラン『プロポ』「読者のつとめ」杉本秀太郎訳)

…………

「肝心の作品をよく読みもしないで、手前勝手な理屈をこねまわす文学研究者の何と多いことよ」


森有正は、「彼(アラン)はアリストテレスを十八回読破したと言う!」と、感嘆の声を発しているが、およそアランほど、徹底して古典を読みこんだ者はいないであろう。

例えば、彼は、トルストイの大作『戦争と平和』を10回以上、あの厖大なサン・シモンの『回想録』を一行も飛ばさずに少くも三度以上反読する。『谷間の百合』、『パルムの僧院』、『赤と黒』に至っては実に五十回以上も読み返し、しかも読むたびに喜びを新にする。

「ステイヴンソンの『宝島』は、はとんど記憶の中に書きとめられている」と言う。おそらく、プラトンやスピノザ 、デカルト、ヘーゲル、(……)などの哲学者も、こんな風にして、その全著作をくり返し彼は熟読したのであろう。

例えば『谷間の百合』が退屈だとかつまらぬとか言う者がいるが、彼等はかけ足でページからページへと急いだだけで、ろくによく読みもしないで勝手な言辞を弄している、これこれしかじかの素晴らしい個所を引用してみると、彼等はそんな部分があったことにさえ全く気づいていない。

肝心の作品をよく読みもしないで、手前勝手な理屈をこねまわす文学研究者の何と多いことよ、とアランは嘆くのである。(アランと小林秀雄より

アランにしろ、小林にしろ、彼等が最も軽蔑するのは、物を創る忍耐も工夫も、そこにある喜びも苦しみも知ることなく、もっともらしい空疎な言辞を呈するやからだ。芸術家は、美についてなど考えない。そんな空想じみた考えからは何も始まりはしない。「芸術家は、物Dingを作る、美しい物でさえない、一種の物を作るのだ。人間が苦心して様々な道具を作った時、そして、それが完成して、人間の手を離れて置かれた時、それは自然物の仲間に這入り、突如として物の持つ平静と品位とを得る。それは向うから短命な人間や動物どもを静かに眺め永続する何ものかを人間の心と分とうとする様子をする。」画家や彫刻家は言うまでもなく、音楽家も詩人も小説家も一種の物を創り出す人間である。小林は、思想家さえもそうだと言う。「鑿を振り上げる外にどうしようがあるのか」そういう行為が思想だ。「思想といふ一種の物を創る仕事」「文体を欠いた思想家は、思想といふ物に決して到る事は出来」 まい、といった風に小林は語るのである。

また例えば、小林が宣長を引用しながら述べる、感情は訓練され馴致されなければ、その人の明瞭な所有物とならない、自分の物として見る事の出来る対象にならない、「歌とは、意識が出会ふ最初の物だ」という言葉。あるいは、歌とは一種の礼であり「秩序なく泣いては、人と悲しみを分つ事が出来ない」悲しみのうちにあって、悲しみをととのえ「悲しみを救ふ工夫が礼である即ち一種の歌である」(同上)


読書百遍とか読書三到とかいういい古された教訓には、実に容易ならぬ意味があると言う小林は、「読書について」と題された断片的なエッセイでこう述べている。誰れでもよいが、一流の作家の全集を読むのは非常によい事だ。全集を、日記から書簡まで、隅から隅まで読む。一流といわれるような人は、どんなにいろんな事を考え、試みていたかよくわかるだろう。それまで単純に考えていた、その作家の思想とか性格は、もはや判然としたものではなくなり、ますます奥の方に手探りで探さなければならないものとなろう。「僕は、理窟を述べるのでほなく、経験を話すのだが、さうして手探りをしてゐる内に、作者にめぐり会ふのであって、誰かの紹介などによって相手を知るのではない。かうして、小暗い処で、顔は定かにわからぬが、手はしっかりと握ったといふ具合な解り方をして了ふと、その作家の傑作とか失敗作とかいふ様な区別も、別段大した意味を持たなくなる、と言ふより、ほんの片言隻句にも、その作家の人間全部が感じられるといふ様になる。

プラトンにせよ、デカルトにせよ、ヘーゲルにしろ、コントにしろ、ことさら彼等の思想などを探ることなく、モンテーニュやバルザックを読むような具合に、気ままに、楽しみながら、心ゆるやかに読むこと。小林秀雄の愛用する言葉を用いれば、漫読することだ。何かを学ぼうとして、自分は何物も学んだことはない、とアランは言う。「私見によれば、記憶にとどめようとなどせず、ただ気晴らしに読むのが秀れた読書法なのだが、これは余りに知られていない。こんな風にして読んだものほど、我々と一体となり、我々を豊かにし、和ませるのだ。」(同上)


《彼(小林秀雄)の批評の「飛躍的な高さ」は、やはり、ヴァレリー、ベルクソン、アランを読むこと、そしてそれらを異種交配してしまうところにあった。公平にいって、彼の読みは抜群であったばかりでなく、同時代の欧米の批評家に比べても優れているといってよい。

今日われわれが小林秀雄の批評の古さをいうとしたら、それなりの覚悟がいる。たとえば、サルトル、カミュ、メルロ=ポンティの三人組にいかれた連中が、いま読むに耐えるテクストを残しているか。あるいは、フーコー、ドゥルーズ、デリダの新三人組を、小林秀雄がかつて読んだほどの水準で読みえているか。なにより、それが作品たりえているか。そう問えば、問題ははっきりするだろう。》(「交通について」)中上健次との共著、『小林秀雄をこえて』河出書房新社、1979.9)  



もちろん、柄谷行人自身、後年、小林秀雄批判の仲間たちの一員になったことを知らぬではないが。


ここでごく「常識的な」文学史の見解を確認するならば、近代小説がフローベールから始まったというならば、近代以降すべての小説(ロマン)はパロディなのであり、たとえばプルーストであるならばロマンとしては、パロディのパロディであるだろう(もっともわたくしはそれにほとんど気づかずに読んでいるわけだが、すくなくともフローベールのパロディである箇所は自ずと知れる)。すべての「物語=ロマン」が語りつくされたという幻滅から、モダニズムは出発するわけで、ある意味、モダニズムとはすでにポストモダンだ(『失われた時を求めて』がロマンではないといわれるのは、その徹底して断片的なありよう、一つの方向ができそうになると自分の力でそれを否定するような細部からなる小説であるからだ)。

小説でいえば、ヘーゲルの役割を果たしたのはトルストイです。彼は完全な物語を書いてしまった。これ以上の小説はないと作品自体がいっています。

 そのあとにフロベールが出てきて、終わったはずの小説を書く。「感情教育」は1848年の革命を、決して物語にならないように書いたものです。物語のディコンストラクション(脱構築)として。彼以後のすべての近代小説は、終わった物語をもう一度書く、というものなんです。 ((平成2年5月1日朝日新聞夕刊  対談 大江健三郎&浅田彰)

どうもその程度の認識もなく、その意味も分らずパロディやらバスティッシュやらとノタマウ愛好者がしたり顔で文学を語ってしまっていることはないか。まあそれは無知として致し方ないにしろ、これら巷間の「宇宙人」たちは好きとか感動したとかばかり語るだけで、小説の細部の指摘、たとえば冒頭のナボコフのような指摘がされている様子もほとんど窺われない。

もっともナボコフの読みは唖然とさせるものが多く、たとえば、カフカの『変身』のカブト虫をめぐる解釈の徹底性など、それを読めば、わたくしのような凡庸な読者はなにも読んでいなかったことを思い知らされる。

ナボコフのようでなくてもよい、《フローベールは「黄色の印象を与えたい」がために『サランボー』を、「わらじ虫がうようよする片隅のあのカビの色みたいな感じを出したい」がために『ボヴァリー夫人』を書いたらしく、これを聞いただけでもフローベールに好感を抱かざるを得なくなる》とアンドレ・ブルトンは言っているが、これを読めばまた『ボヴァリー夫人』を再読したくなる。そんな指摘ができるのが本来の小説の読み手だろう。



『戦争と平和』自体、もし「

明晰な理解可能性という、いわば貧しい領土」にとどまれば、異和の生じる箇所はいくらでもある。

浅田:批評的立場を選んだからには、徹底して明晰であろうとすべきでしょう。僕は奇妙な形で文学にひかれています。妙に小器用で、他のジャンルのことはよく分かったような気がするのに、文学はどうしても隅々まで理解できない。ただ、そういう不可解なものを語るとき、それをまねるのではなく、明晰な理解可能性という、いわば貧しい領土にとどまって、ギリギリのところで書いていきたい。それが、自分にとって本当に分からないものの発見につながると思っていますから。

大江:浅田さんには「自分は単なる明晰にすぎない」という、つつましい自己規定があるんですね。明晰な判断力ではとらえきれないものがあって、それは明晰さより上のレベルだと思っていられる。天才というようなものが働くレベルというか。文学というあいまいな場所で生きている人間からすると、上等な誤解を受けている気がします・・・・・・(笑い)。

浅田:ところが不思議な転倒現象があるんです。戦後の文学界で最も明晰なのは三島由紀夫であり、明晰であるべき批評家たちが不透明に情念を語ることに終始したんですね。三島は、最初から作品の終わりが見え、そこから計算しつくされたやり方で作品を組み立てて、きらびやかであるだけいっそう空虚な言葉の結晶を残した。他方、小林秀雄の亜流の批評家たちは、作品をダシにおのれを語るばかりだった。二重の貧困です。(平成2年5月1日朝日新聞夕刊  対談 大江健三郎&浅田彰)

浅田彰の苛立ちは、ここにある「二重の貧困」へのものであり、彼はあえて「貧しい領土」にとどまっているのであり、彼の資質がそれだけではないのは、かつてときおりみせた「音楽」や「映像」などへの官能的表現にふと垣間見らる、としておこう。


メタリックな切断と貫通の力が音楽を<外>へと解き放つ。音楽はそこを横切っていく旅人だ。そして、旅人たちの出会いやすれちがいがまた新しい音楽を散乱させることになるだろう。

逆に、<外>を駆ける速度と強度を失い、閉じた空間の中に堆積していくとき、音は音楽であることをやめる。

(……)

こうして、音たちは旅人になる。<外>の空間を縦横無尽に横切っていく、その途方もない往来。それが音楽である。

そんな音楽に耳を傾けること。そのうち、自分自身が無数のきらめく微粒子となりメタリックな音の粒となって、コスミックなさざめきの中に漂い出すこと。それがヘルメスの誘惑である。いかがわしくもあり危険にも満ちた、それでいてあらがいようもなく魅惑的な、音楽の誘惑である。(浅田彰『ヘルメスの音楽』)

いまはマラルメプロジェクトにかかわり、少し前にはフォーサイスの舞踏をめぐって次のように書いているわけだ。
演劇があくまでも意味に縛られているのに対し、舞踏は意味に先立つ純粋な出来事に向かうのだ。それは、既成の知のコードを逃れて「骰子一擲」としての純粋な思考に向かうことであり、同時に、目に見えるアクチュアルな運動のコードを逃れて不可視のヴァーチュアルな運動に向かうことでもあるだろう。そのような裸形の出来事としての舞踏がマラルメの夢見たものであるとすれば、その夢は、一世紀の後、フォーサイスによって――そう、加算的総合に向かうブーレーズ以上に、減算的純化に向かうフォーサイスによって、ほとんど実現に近づいたかに見える。(浅田彰「マラルメに始まる」



…………

※附記



●小林秀雄的レトリック
岡崎 ・・・その見えない物自体のような函(ルビ:ハコ)である<地>に、<絵画>や<芸術>を代入し実体化して自分だけ見えるかのように信じる人が多いから困るんですけれどね。

浅田 さっきの話で言うと、アメリカ型モダニズムというのは、メタ・レベルで、各ジャンルが自己批判を通じて自己純化せよというルールをおいた上で、それを、建築なら機能性、絵画なら平面性に自己を還元せよというオブジェクト・レベルのルールに引き下ろして記述したわけですね。それに対して、前に岡崎さんが小林秀雄について言われたように、日本の場合は、そういう記述を行わず、つねにメタ・レベルに留保された曰く言い難い美の<理念>に触れ、それをトートロジカルに反復するだけだ、と。しかし、実は、自分こそがそういう<理念>を直接摑んでいるという思い込みが、背後で両者を共通して支えているんですね。

岡崎 そうですね。クレメント・グリンバーグでも、あるいは藤枝晃雄さんでも、肝心なところで、絵画を描くだけで絵画はのりこえられるとか、平面でありながら平面でないとか、わけのわからない反語形を言い出すところで、残念なことに小林秀雄になってしまうんですね。<真正の>なんて理念をふりまわし始めたら、せっかくの本邦唯一の読むに堪える形式批評も台無しですよ。ただの判断基準なき趣味判断になってしまう。自分だけが特権的にその見えざる理念をにぎっていると主張しているにすぎなくなってしまうわけですから。

柄谷 それはもともとロマン派(シュレーゲル)にあったような事柄ですね。カントがそういうことを背理として指摘していたけれども。

浅田 カントは、美学的判断は主観的であるにもかかわらず原理上はいかなる人にも普遍的に妥当することを要求するという、ほとんどむちゃくちゃなことを言っている。

柄谷 ロマン派はそれをつなぐのがイロニーだと言う。

浅田 グリンバーグのような目ききとその追随者たちとか、小林秀雄とか、そういう特権的な人がけが見られるものだとすれば、それは<理念>ではないんです。とにかく、日本のグリンバーギアンの不思議なところは、きわめてドグマティックな個人崇拝になっているところでしょう。岡崎さんとの往復書簡(『読売新聞』一九九〇年三月二十日夕刊)で藤枝晃雄が書いていたのは、磯崎新は、理論的にはともあれ、卑俗なポストモダニストたちとは区別して評価しなければならない、なぜなら、彼の設計したロサンジェルス現代美術館で講演をしてきたグリンバーグが、建築を認めこそすれ批判しなかったから、と(笑)。これはモダニズムどころかプレモダンそのものでしょう。

岡崎 どういうわけかわからないけれど、この私にだけ見えちゃったっていう人がいるわけね。あるいはそれによって事後的に私という主体性を支えている、そういう話になっちゃう。本人は、私が、とは主張していない。受動的であるかのように装ってしまう。

磯崎 それはいたって日本的なレトリックじゃないの。

岡崎 かもしれないけれど、ドナルド・ジャッドだってほとんど同じレトリックだから。

柄谷 小林秀雄の有名な言葉で、「美しい『花』がある、『花』の美しさといふ様なものはない」というのがある。しかし「美しさ」がないんだったら、「花」もないですよ。美が概念なら、花も概念でしょう。ぼくは「花」なんて見たことがない(笑)。「この花」と言っても、結局は概念から逃れられない。ものを書くなら、そこで勝負するほかない。とにかく概念がいやなら、いっさい物を言わないことだね。「美はひとを沈黙させる」なんてことも、書くべきではない

浅田 小林秀雄で言うと、私といまここの美しい「花」(あるいはランボーでもモーツァルトでも)との特権的な出会いというトポスがあって、とにかくそれをバーンと出せばみんな平伏するしかない、と。磯崎さんも「見えない制度」で言われるように、その安っぽいトリックをもっとも鮮烈に批判したのは高橋悠治でしょう。