このブログを検索

2014年6月25日水曜日

安倍晋三「フェティシスト」政権という「仮説」をめぐって

安倍晋三首相は14日の参院予算委員会で「私は戦後レジームから脱却をして、(戦後)70年が経つなかで、今の世界の情勢に合わせて新しいみずみずしい日本を作っていきたい」と述べた。「戦後レジームからの脱却」は第1次政権で掲げたが、最近は控えていたフレーズだ。(久々に登場、「戦後レジームからの脱却」 安倍首相 2014.3.14

戦後レジームとはなにかをめぐっては、まずは中井久夫の説明を読んでおこう(歴史にみる「戦後レジーム」)。

ところで「戦後レジーム」の脱却とはなにか。おそらく、それは要するに「富国強兵」政策ということなのだろう。


安倍政権は、経済政策のアベノミクスが「富国」を、今回の特定秘密保護法や、国家安全保障会議(日本版NSC)が「強兵」を担い、明治時代の「富国強兵」を目指しているように見えます。この両輪で事実上の憲法改正を狙い、大日本帝国を取り戻そうとしているかのようです。(浜矩子・同志社大院教授

まさか、いくらなんでも、そんな時代錯誤的な考え方を安倍自民党政権がもっているはずはない、とひとは思ってしまうかもしれない。だがその「証拠」らしきものはいくらでも挙げることができる。


・(憲法は)国家権力を縛るものだという考え方があるが、それはかつて王権が絶対権力を持っていた時代の主流的考え方

・(政府の)最高の責任者は私だ。政府の答弁に私が責任をもって、そのうえで選挙で審判を受ける」(安倍晋三――都知事が考える「立憲主義」と「憲法改正」『憲法改正のオモテとウラ』著者・舛添要一氏インタビューより)
・教育基本法は(第二次大戦後の)占領時代につくられたが、衆参両院で自民党単独で過半数をとっていた時代も手を触れなかった。そうしたマインドコントロールから抜け出す必要がある。(戦後教育はマインドコントロール 首相、衆院委で発言

徴候感覚の「詩人」鈴木創士氏なら、その臭いを鋭敏に嗅ぎとり、次のようなツイートを炸裂させる。


あのね、秘密保護法案なんてだめに決まってるでしょうが。安倍が鬱病に再突入するのを待ってる暇はない。安倍はじいさんの元戦犯首相である岸信介と全く同じことをやろうとしている。政治はエディプスコンプレックスの原動力だろうが、それで次々法律をつくろうなんてゴロツキのキチガイがすることだ。(鈴木創士ツイート2013.10.29)
「不特定」秘密保護法案に賛成した議員と国民は「死んだ父」を空しく探す安倍の精神病を助長し、どっちがどっちか解らぬままに転移を繰り返し、どの仮面を剥がそうとものっぺらぼうの百面相に死化粧を施し、あまつさえ巨大なESの糞溜めの中でうれしそうにのたうち回り、病院へ直行することになる。(鈴木創士ツイート2013.11.27)

もっとも「エディプスコンプレックス」や「精神病」という語彙については、保留しておこう。前者は、ラカン派的には「神経症」であり、「精神病」とは異なるのだから。


ラカンはフロイトの 著作のなかに、それぞれの構造に対する特異的な用語があることを指摘しました。神経症では抑圧Verdrangung(repression)、精神病で は排除Verwerfung(foreclosure)、倒錯では否認Verleugnung(disavowal,desaveu)です。最後に、ラカ ンは否認Verleugnungにdementi(denial)という訳をあてることを好むようになりました。(ミレール「「ラカンの臨床的観点への序論」を読む」)

捨てたものがシニフィアンに媒介されて「隠喩」として回帰するのが神経症的な「抑圧されたものの回帰」であり、他方、捨てたものが他のシニフィアンに媒介されずにそのままの形で回帰してくるのが精神病的な「排除されたものの回帰」である(シニフィアンとはフロイト的に言えば、「言語表象 Wortvorstellung」のこと)。

さて「富国強兵」は隠喩として回帰しているのか、それともそのままの形で回帰しているのか。すなわち安倍政権は「神経症」的であろうか、「精神病」的であろうか。


……マルクスが『ブリュメール一八日』で明らかにしたのは、代表制議会や資本制経済の危機において、「国家そのもの」が出現するということである。皇帝やヒューラーや天皇はその「人格的担い手」であり、「抑圧されたもの(絶対主義王権)の回帰」にほかならない。

絶対主義王権においては、王が主権者であった。しかし、この王はすでに封建的な王と違っている。実際は、絶対主義的王権において、王は主権者という場(ポジション)に立っただけなのだ。マルクスは、金は一般的な等価形態におかれたがゆえに貨幣であるのに、金そのものが貨幣であると考えることを、フェティシズムとよんだ。そのとき、彼は、それを次のような比喩で語っている。《こういった反省規定はおよそ奇妙なものである。たとえば、この人が王であるのは、ただ他の人々が彼に対して臣下として振舞うからでしかない。ところが、彼らは逆に、彼が王だから、自分たちは臣下なのだと信じているのだ》(『資本論』第一巻第一篇第三章註)。しかし、これはたんなる比喩ではなくて、そのまま絶対主義的な王権に妥当するのである。古典経済学によって重金主義が幻想として否定されたのと同様に、民主主義的なイデオローグによって絶対主義的王権は否定された。しかし、絶対主義的王権が消えても、その場所は空所として残るのである。ブルジョア革命は、王をギロチンにかけたが、この場所を消していない。通常の状態、あるいは国内的には、それは見えない。しかし、例外状況、すなわち恐慌や戦争において、それが露呈するのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

代表制議会の危機がいま日本にあるかどうかは保留しよう(いや、むしろいまさらのことではないのだから)。だが資本制経済の危機があるのは、日銀がデフレ脱却のために博打を打たざるをえない状況にあることから(あるいは原発事故処理をも視野に入れつつ)、たしかにそうだ、といいうる。そしてそのとき「国家」があらわれる。


いままで言ってきたように、アベノミクスってのがそもそも危険きわまりないギャンブルなんだけど、それがうまくいってるように見える今のうちに、参議院選挙に勝って両院のねじれを解消し、憲法改正をはじめ、いわゆる「戦後レジームからの脱却」を強引に進めようってのが、安倍政権の狙いだね。でも、国際的には「戦後レジーム」ってのは第二次世界大戦の戦勝国である米英仏ロ中が国連の安全保障理事会の常任理事国を構成する体制なんで、それを否定するのかってことになると、中国はむろん、アメリカその他だって黙っちゃいない。本来、北朝鮮に圧力をかけるため米中その他の諸国と協力すべき時だし、中国の覇権主義に対して日米同盟で対抗するってのが安倍政権の外交の基軸なんだから、他方でそれを揺るがし、アメリカにさえ警戒感をもたせるような言動をとるってのは、愚かとしか言いようがない。(田中康夫と浅田彰の憂国呆談2 TALK 63

 ところで、柄谷行人の文にも、「抑圧されたものの回帰」(神経症の機制)とフェティシズム(倒錯の機制)が混在する。すなわち、ここでは、安倍自民党政権の「富国強兵」は、抑圧されたものの回帰(精神病の機制)なのか、「抑圧されたものの回帰」なのか、それとも「フェティッシュ」(倒錯の機制)なのか、というラカン派的な問いを「仮に」立ててみよう。

現代のいわゆる「ポストイデオロギー」の時代にあっては、イデオロギーはますます従来の「症候」モードとは反対の「フェティシズム」モードで機能する。(ジジェク『ポストモダンの共産主義  はじめは悲劇として、二度目は笑劇として』)

ここでジジェクのいう「症候」モードとは「神経症」モードのことであり、「フェティッシュ」モードとは「倒錯」モードのことである。さて、どう異なるのか。

最愛のひとの死の例をみてみよう。症候の場合、私はこの死を“抑圧”する。それについて考えないようにする。だが抑圧されたトラウマが症候として回帰する。フェティッシュの場合は、逆に、私は“理性的”には死を完全に受け入れる。にもかかわらずフェティシュな物ーー私にとって死の否認を取り入れるなにかの特徴――にしがみつく。この意味で、フェティシュは、私を苛酷な現実に対処させる頗る建設的な役割を果たす。フェティシストは自身の私的世界に没入する夢見る人ではない。彼らは徹底的な“リアリスト”である。もののあるがままを受け入れるのであり、というのはフェティシュな物にしがみついて、現実の全面的な影響を和らげることができるからだ。

この正確な意味で、貨幣は、マルクスにとって、フェティシュである。私は理性的な功利主義者の主体を装う。ものごとがどのようにあるのかをよく知っている。しかし貨幣フェティッシュのなかに自分の否認された信念を包みこむ……。ときには、ふたつの間の境界線はほとんど見分けがたいこともある。対象は、フェティッシュ(正式には断念された信念)とほとんど同じように、症候(抑圧された欲望)としても機能することもある。たとえば死んだひとの衣服などの遺品は、フェティッシュ(そこには、死んだ人が魔法のように生き続ける)としても機能するし、あるいはまた症候(死者を想い起こさせる心を掻き乱す細部)としても機能する。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』私訳ーージジェクによる政治的「症候/フェティシズム」モード

ジジェクは、症候もフェティッシュも区別がつきがたいときがあるとしている。「富国強兵」は症候(抑圧された欲望)なのか、フェティッシュ(死んだ人(大日本帝国)が魔法のように生き続ける)のかは判然としない。


もし後者であれば、安倍自民党政権は、徹底的な「リアリスト」ということになる。《フェティシストは自身の私的世界に没入する夢見る人ではない。彼らは徹底的な“リアリスト”である。もののあるがままを受け入れるのであり、というのはフェティシュな物にしがみついて、現実の全面的な影響を和らげることができるからだ。》すなわち、《私は理性的な功利主義者の主体を装う。ものごとがどのようにあるのかをよく知っている。しかし貨幣フェティッシュ=「富国強兵」のなかに自分の否認された信念を包み》んでいるのかもしれない。


厳密にいえば、倒錯とは、幻想の裏返しの効果です。主体性の分割に出会ったとき、みずからを対象として規定するのがこの倒錯の主体です。(……)主体が他者の意志の対象となるかぎりにおいて、サド=マゾヒズム的欲動はその輪を閉じるだけでなく、それ自身を構成するのです。(……)サディスト自身は、自分で知らずに、ある他者のために対象の座を占め、その他者の享楽のためにサディズム的倒錯者としての行動をとるのです。(ラカン『セミネールⅩⅠ』)

ここでラカンは「幻想」といっているのは、神経症(モード)のことである。他方、「倒錯」が厄介なのは、己れが「病気」だと無意識的にも意識的にも感じていないことだ。


<大文字の他者の意志>の純粋な道具の地位を引き受けるという倒錯的な態度(……)。それは私の責任ではない。実際にそれを行うのは私ではない。私はたんにより高次の〈歴史的必然性〉の道具にすぎない。こうした状況がもたらす猥褻な享楽は、私は私自身が自分のしていることに対して無罪であると考えているという事実から生み出される。私は、私には責任がなく、たんに〈大文字の他者の意志〉を実現しているだけだということをじゅうぶんに意識しているからこそ、他人に対して苦痛を課すことができる。(ジジェク『ラカンはこう読め』p181)

ジジェクにはこれらの説明の種々のヴァリエーションがある(参照:Hysteria, Psychosis,Perversion-----Zizek "Less ThanNothing")。ここではひとつだけ抜き出しておこう。


倒錯を特徴づけているのは問いの欠如である。倒錯者は、自分の行動は他者の享楽に役立っているという直接的な確信を抱いている。ヒステリーとその「方言」である強迫神経症とでは、主体が自分の存在を正当化するその方法が異なる。ヒステリー症者は自分を<他者>に、その愛の対象として差し出す。強迫神経症者は熱心な活動によって<他者>の要求を満足させようとする。したがって、ヒステリー症者の答えは愛であり、強迫神経症者のそれは労働である。(ジジェク『斜めから見る』)

安倍自民党政権の「富国強兵」がどのように機能しているのかは、わたくしの知るところではない。おのおのの所属者によって「神経症」的であったり、「倒錯」的であったり、あるいはまた「精神病」的であったりするのかもしれない。精神病の特質は次のようである。


精神病とは,対象が失われておらず,主体が対象を自由に処理できる臨床的構造なのです.ラカンが,狂人は自由な人間だというのはこのためです.Clinique ironique. Jacques-Alain Miller

だがどうやらわたくしの浅墓な見立てではーージジェクや柄谷行人の論のパクリとしての見立てではあるがーー、安倍自民党政権全体としては、どうも「倒錯=フェティシスト」的であるように見えないでもないのだ。《フェティッシュの場合は、逆に、私は“理性的”には死を完全に受け入れる。にもかかわらずフェティシュな物ーー私にとって死の否認を取り入れるなにかの特徴――にしがみつく。この意味で、フェティシュは、私を苛酷な現実に対処させる頗る建設的な役割を果たす》。だが、「富国強兵」という呪物(フェティッシュ)が建設的な役割を果たしてもらったらコマル。

呪物は、確かにその信奉者から異常なものと認められているのだが、病気の症状と感じとられていることは稀(……)。たいてい彼らはその呪物にまったく満足しており、あるいはかえって、彼らの愛情生活に役立つ便宜さを高くかってさえいる。(フロイト『呪物崇拝』)

ーーここでは、ヒトラーが羨んだといわれる戦前の日本型ファシズム、「いつのまにかそう成る「会社主義corporatism」(柄谷行人)」をめぐっては、議論が煩雑になるので触れていないが、フェティシズムについて考える上には、当然、《日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない》ことを視界におさめなければならない。

…………


レヴィ=ストロースは、若き彼の真の二人の師(マルクス、フロイト)を称揚しつつ次のように語っている。
分類から導かれた仮説が、決して真ではありえず、ただより高い説明価値があるかどうかだけが重要。(『悲しき熱帯』)

フロイトは、仮説に立つと、より多くのものを説明ができるといっている。そしてレヴィ=ストロースが言うのと同じように、別のより高い説明価値がある仮説があれば、いつでも乗り換える用意があるとも。


…………

※附記

やや上の文脈からはずれるが、次のジジェクの問いかけ(柄谷行人への)を付記しておこう。

ジジェクは、『パララックス・ヴュー』あるいは『LESS THAN NOTHING』にて重ねて、柄谷行人の権力論を批評(吟味)している。

それは、《もし匿名投票による普通選挙、つまり議会制民主主義がブルジョア的な独裁の形式であるとするならば、くじ引き制こそプロレタリア独裁の形式だというべきなのである。アソシエーションは中心をもつが、その中心はくじ引きによって偶然化されている。かくして、中心は在ると同時に無いといってよい。すなわち、それはいわば「超越論的統覚X」(カント)である》(柄谷行人『トランスクリティーク』P282-283)をめぐる箇所である。

"the center exists and does not exist at the same time"(中心は在ると同時に無い)

《But is this effectively enough to undermine the "fetishism of power"? When an accidental individual is allowed to temporarily occupy the place of power, the charisma of power is bestowed on him, following the well-known logic of fetishist disavowal: "I know very well that this is an ordinary person like me, BUT NONETHELESS... (while in power, he becomes an instrument of a transcendent force, power speaks and acts through him)!" Does all this not fit the general matrix of Kant's solutions where the metaphysical propositions (God, immortality of the soul...) are asserted "under erasure," as postulates? Consequently, would it not the true task be precisely to get rid of the very mystique of the PLACE of power? 》(The Parallax of the Critique of Political Economy


こういったジジェクの柄谷行人批判(吟味)の核心部分(『パララックス・ヴュー』)を、いまだインターネット上では、誰も引用していない(わたくしは手元に英文しかないので、いま邦訳がないのか探ってみたのだが)。『LESS THAN NOTHING』も、そろそろ邦訳が上梓されるはずだが、この大著『パララックス・ヴュー』のさらに二倍ほどの分量をもつ書もたいして読まれることはないだろう。

ところで柄谷行人の権力欲をめぐる考え方は、次の通り。

われわれは、権力志向という「人間性」が変わることを前提とすべきでなく、また、個々人の諸能力の差異や多様性が無くなることを想定すべきではない。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

ジジェクのいう、権力の「場所」という神秘を取り除くことが真の仕事である、という主張は「ユートピア」的思考であり過ぎるという観点もあるだろう。

…………

差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがない。差別された者、抑圧されている者が差別者になる機微の一つでもある。(……)

些細な特徴や癖からはじまって、いわれのない穢れや美醜や何ということはない行動や一寸した癖が問題になる。これは周囲の差別意識に訴える力がある。何の意味であっても「自分より下」の者がいることはリーダーになりたくてなれない人間の権力への飢餓感を多少軽くする。(中井久夫「いじめの政治学」)