このブログを検索

ラベル ドビュッシー の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ドビュッシー の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2014年7月26日土曜日

アンドレイの恋

以下は、アウステルリッツの戦闘で負傷、妻との死別などで、鬱屈した生活を送っていたアンドレイ公爵がナターシャとめぐり合い、恋に陥る箇所で、『戦争と平和』のなかでも、最も美しい場面のひとつだろう。というか十代半ばに初めてこの書を読んだとき、もっとも魅了された箇所ということであり、ほかの人がなにを言っているのかはしらないし、引用されているのは見たことがない(この作品で頻繁に言及される名高い箇所は、〔「あなたは読まないで話していますね」、あるいは『戦争と平和』〕にいくらか引用してある)。


◆トルストイ『戦争と平和』(二) 米川正夫訳 岩波文庫p251~

アンドレイ公爵は貴族団長のところへいったら、なんとなんとをきかなくてはならないと考えて、もの思わしげな浮かぬ顔つきをしながら、愉楽村〔オトラードノエ〕なるロストフ家をさして、庭園の並木路を進んでいった。と、右手に当って、木立のかげからうきうきした女の叫び声が聞え、彼の幌馬車の前を横ぎる少女の一群が目に入った。一人のやせたーーおかしいほどやせた、瞳の黒い黒髪の少女が、ちかぢかと公爵の馬車に駆けよった。少女は黄色い更紗の着物をきて、白いきれで頭を結えていたが、ほぐれた髪の束がそのかげからはみ出ていた。少女はなにやらおおきな声で叫んだが、見知らぬ人に気がつくと、そのほうを見ないようにして、笑い声をあげながらもときたほうへ駆け出した。

アンドレイ公爵はなぜかしら、急に苦しいような気持ちになってきた。空は美しく、太陽はあかるく、あたり全体がうきうきとして見える。ところが、このやせた可愛い女の子は、彼という人間の存在を知りもしなければ、また知ろうとも思わない。しかも、それでいて自分一個のばかばかしい(きっとそうに違いない)、けれども楽しい幸福な生活に満足して、仕合せに感じているではないか!『あの子は何がうれしんだろう? 何を考えているのだろう? まさか操典のことだの、リャザンの年貢の整理なんかじゃあるまい。何を考えているのかなあ? なぜあんなに仕合せなんだろう?』われともなしにアンドレイ公爵は、好奇心に誘われて腹の中でこうきいてみた。




……退屈な一日のあいだじゅう、主人側の年長者や、客の中でも地位のある人たちが、アンドレイ公爵をもてなした(……)。そのあいだ、アンドレイ公爵は、べつな若い人たちの仲間にまじってなにがおかしいのかしきりとはしゃいで笑っているナターシャのほうを、いく度もなく見やりながら、『いったいあの娘はなにを考えているのかしら、なにがうれしいのだろう?』とたえず自問するのであった。

その晩、一人きりになると、彼は新しい土地へきたために、長いあいだ寝つくことができなかった。しばらく読書していたが、やがて、いったん蠟燭を消してまたつけた。内から窓枠をはめた部屋の中は蒸し暑かった。彼は、入り用の書類が町においてあってまだとってきてないからといって、自分を引き止めたあのばかな老人(彼はロストフ伯爵をこう呼んだ)にむかっ腹を立ててみたり、ずるずるひき止められた自分自身をののしってみたりした。

アンドレイ公爵は起き上がって窓に近より、戸を開けにかかった。月光は窓が開くやいなや、まるでずっと前から外に張り番をしながらこの機会を待ちもうけていたかのように、さっと室内へ流れこんできた。彼は窓の戸を開けた。それはすがすがしい、静まりかえった明るい夜であった。彼のすぐ前には一方の側が黒くて、いま一方の側を銀色に照らし出された、枝を刈りこんだ木立が一列並んでいた。木立の下はなにかしら露にみちてむくむくして、しっとりと濡れた草があって、ところどころ葉や茎が銀色に輝いている。黒い木立の向こうには露に光る屋根が見え、やや右よりには幹や枝のくっきりと白い、もくもくした大きな木があって、その上には満月に近い月が、ほとんど星のない明るい春の空にかかっている。アンドレイ公爵は窓に頬づえをついた。彼の眼はこの空にすわった。




※Nuit d'Étoiles(星の夜)は、ドビュッシーの1876年(14歳)の作品とか1880年(18歳)の作品とか言われているが、詳細は不明。いずれにしろ最も初期の作品のひとつ。

アンドレイ公爵の部屋は二階であったが、その上の部屋にも人がいて、やはり寝ていないような気配であった。彼は上から響いてくる女の声を聞きつけた。

「たったもう一ぺんだけよ。」と三階の女の声が言った。アンドレイ公爵はすぐにそれが誰かわかった。

「いったい、まあ、あんたはいつ寝るの?」といま一人の声が答えた。

「あたし寝ないことよ、寝られないんですもの、しかたないわ! ねえ、もう一ぺんお名残りに……」二人の女の声は、なにかの末尾になるらしい音楽の一節を歌いだした。

「ああ、なんていい気持ちなんでしょう! さあ、もう寝るのよ、これでおしまい。」

「あんたお寝なさい。あたしだめよ。」第一の声が窓に近よってこう答えた。察するに、彼女はすっかり窓にのりだしてしまったらしく、衣ずれから息づかいまで聞えるのであった。あたりは月とその光と影と同様にしんとして、化石のようになってしまった。自分が偶然こんなところにいあわせたことを気取られまいとして、アンドレイ公爵は身じろぎさえもはばかった。




「ソーニャ、ソーニャ!」と第一の声がふたたび響いた。「まあ、どうして寝たりなんかできるんでしょう! まあ、ちょっとごらんなさいな、なんていいんでしょう! ほんとになんていいんでしょうねえ! さあ、お起きなさいってばよう、ソーニャ」彼女はほとんど涙声でこう言った。「だって、こんな美しい晩はけっして、けっしてありゃしないわ。」

ソーニャはしぶしぶなにか答えた。

「いやよ、まあちょっとごらんなさい、なんて月でしょう! ……本当になんて美しい景色でしょうねえ! あんたもちょっとここへきてごらんなさいよ。あたしの好きなソーニャ、ここへきてごらんなさいってばさあ。ほらね、見てて? ここんとろこへしゃがんでね。ほら、こんなふうに自分の膝を抱いてねーーしっかり、できるだけしっかり抱かなくちゃだめよーーそしてひと思いに飛んでみたらどうでしょう? こんなふうにして!」

「およしなさいよう、落っこちてよ……」

相争うような物音が聞えた。ソーニャは不平らしい声で、「だってもう一時すぎてよ」。

「ああ、あんたはいつもいつも水をさすんだわ。さあ、あっちぃいらっしゃい、いらっしゃい。」

ふたたびしんと静まりかえった。けれど、アンドレイ公爵は、彼女が依然としてそこに座っていることを知っていた。ときにひそやかな身じろぎの音、ときにため息が聞えたからである。

「あああ、本当になんというこったろう!」とふいに彼女は叫んだ。「どうせ成るものは寝るんだわ!」と言い、窓をぱたりと閉めた。

『そうだ、俺の存在などにはなんの用もなにんだ。』なぜかこの少女が自分のことをなにか言い出しはしないかと、恐ろしいような期待をいだきながらこの話し声に耳を傾けているうちに、アンドレイ公爵はふいとこう考えついた。『それに、またしもあの娘! まるでわざとのようだ!』と思った。

とつぜん、彼の全生活に矛盾する若々しい想念と希望の入りまじった渦巻が、思いがけなく心中に沸いてきた。とても自分の心持ちをはっきりさせることはできない、そう思って彼はすぐ眠りに落ちてしまった。



2014年2月17日月曜日

カペー四重奏とプルースト

表題は「カペー四重奏とプルースト」だが、書いているうちに別のところにいってしまった。

カペークァルテットの演奏録音のいくつかを貼り付け、そこにプルーストとカペーの関係をすこし付加しようと思っただけなのだが、そのなかでプルーストの次の言葉に出遭った。


・音楽が「有益な夢想」を与えてくれさえすれば、詩人の賞賛する音楽の客観的クオリティは問題ではない

・粗悪な音楽を嫌悪したまえ、しかし侮ることなかれ。いい音楽以上にうまく演奏したり歌つたりすれば、音楽は徐々に夢と人の涙で満たされる。粗悪な音楽には芸術の歴史に居場所はないが、社会の情緒の歴史において、その地位は絶大なのだ。

すなわち隠れたテーマはこの文にかかわるが、そして重点の置き方を構成し直すべきかと思ったが、メンドウなのでそのままにする。

…………


◆カペークァルテットCapet String Quartet ラヴェル




◆エベーヌクァルテット Quatuor EBENE

ーーこの若いクァルテットのヴィオラ奏者の自己主張の強さが好みなのだが(第一ヴァイオリンの呼気がまざまざしく聞こえてきそうなその歌いようはもちろんのこと!)、第一ヴァイオリンが際立つカペー時代にはこういうことは少ない。





◆カペー ドビュッシー弦楽四重奏G





…………

◆カペー ベートーヴェン OP131





ここではあえてほかの著名な演奏楽団のものは貼り付けないが、フレージングやアーティキュレーションなどが、驚くほど「現代的」にわたくしにはきこえる(ポルタメントの古さには耳を塞ぐわけにはいかないが目を瞑ろう)。もちろん第一ヴァイオリン主導であり過ぎる当時のスタイルの翳は色濃く落ちているが、第二ヴァイオリンのなんと素晴らしいこと! それにボウイングの新鮮さ。その飄逸と清澄、高雅と峻厳。媚を排した孤高。これは、大時代的、ロマン派的な演奏スタイル以前の、すなわち第一次世界大戦以前の香気ということか? ディレッタントに過ぎないわたくしには、いわゆる現代的なアンサンブルの妙技といわれるものよりも、こういった演奏のほうがモダン(モダン? いや来るべきモダンといおう)に聞こえてしまう。いや一時期比較的熱心に聴いたアルバン・ベルク四重奏団のアンサンブルの妙技なるものに食傷しているだけなのかもしれないが。(《カペーは良いけれど、今きくと、私にはどうしてもついてゆけない古めかしさがある》(吉田秀和 ベートーヴェン作品131『私の好きな曲』--ワルカッタナ、時代錯誤的で。まあたしかに第一楽章はアンサンブルの妙の楽章だからちょっといけない、かつてここだけ聴いて続けて聴くのをやめたせいで、今までカペーに親しんでいなかった)

当時〔一九一三年から翌年〕パリ中の人々が熱狂し(とはいってもプルーストの関心はそのためにかきたてられたわけではなかったが)、最近編成しなおされたばかりのカペー四重奏団の十八番だったベートーヴェン晩年の四重奏曲に彼は熱中していた。音楽会がすんだのち、プルーストは楽屋に足を運び、率直な、しかし微妙さを欠いてはいない言葉で自分の感動をのべ、カペーを驚かすと同時に魅了した。「ベートーヴェンの天才と演奏者の技倆に関して、あれほど深い洞察を見せた評価を聞いたことはかつてなかった」--のちカペーはそう断言した。(ペインター『マルセル・プルースト』)

『この傑作では、すべてが、完璧で、必然で、変更の余地が全くない』と、この曲(ベートーヴェン 作品 131)について賛辞をおしまなかったのは、晩年の死ぬごく前の、ストラヴィンスキーであった。

ストラヴィンスキーという人は、本当におかしな芸術家だった。二十歳そこそこであの最高のバレエ音楽、特に《春の祭典》を書き上げたのち、バッハに帰ったり、ペルゴレージからチャイコフスキーに敬意を表したりした末、晩年にいたって、ヴェーベルンに「音楽の中心点」を見出すに至ったかと思うと、その後長生した数年のあと、いよいよ死ぬ時をまつばかりとみえたころになって、今度はヴェーベルンも、自分の作品も、もうききたくないと言いだし、みんな投げすててしまい、ベートーヴェンに熱烈な賛辞を呈しつつ、死んでいった。これは、どういうことだろう? もっとも、ストラヴィンスキーは、若いころだってベートーヴェンの偉大さを認めてなかったわけではないと、後年、ロバート・クラフトに述懐しているが、しかし、それもまた奇妙な事情の下で、だった。というのは、彼は、一九二二年《ルナール》の初演のあと、招かれていたパーティでマルセル・プルーストに出会った。

『プルーストは、ストラヴィンスキーとは戦前〔第一次大戦〕すでに知りあいになっていたが、〔このパーティで〕最初に口をきいた時、荒れ模様の初演を終えたばかりの大作曲家に呈する質問としては、もっとも無器用な質問を彼にむけたのだった。―― 「ベートーヴェンはお好きですか?」 ――「大嫌いですよ」――「しかし晩年の四重奏曲などは ……」とプルーストは抗議した。「彼が書いたもののなかで最悪の作品ですよ」とストラヴィンスキーはどなった』(ペインター、岩崎力訳《マルセル・プルースト》)

晩年になって、この時の様子を改めてクラフトにきかれると、こう弁解したのだ。『プルーストは、直接彼のベッドから、例によって、夕方おそく起きて、やってきたのだった。まっさおな顔をして、こったフランス式の服装に、手袋をはめ、ステッキをもっていた。彼は、私に音楽の話をしかけてきて、ベートーヴェンの後期の四重奏曲に対する感激を吐露していた。これは、当時のインテリ文士のきまり文句で、音楽的判断というより、文学的ポーズになっていた。そうでなければ、私も、大いに共鳴するところだったのだ』(ストラヴィンスキー、ロバート・クラフト、吉田秀和訳《百十八の質問に答える》)

本当に、そうかしら? いや、そうだったとしておこう。
だが、彼がプルーストの音楽についての真剣な関心を全くみそこなったのは、これはもう釈明の余地がないのではないかしら。

――― 吉田秀和『私の好きな曲』上  P15-16

プルーストが自宅に呼んで己れのためにのみ演奏させたのは、プルーストの年譜(吉田城作製)によればプーレ四重奏団でとされているが(ガストン・プーレはドビュッシーと親交があった)、これはセレスト(家政婦フランソワーズのモデル)の証言もある。だがAnne Penesco Proust et le violon interieur 書評 安永愛)によれば、《プルーストは、ガストン・プーレ弦楽四重奏団の他に、 リュシアン・カペー弦楽四重奏団にも自邸での演奏を依頼している》とある。ただしセレストは否定しているとする情報もあり、ひょっとして「演奏を依頼している」だけで実現しなかったのかもしれないが判然としない。


この安永愛氏の書評は、プルーストの小説に頻繁にその名が出てくる架空の音楽家ヴァントゥイユ、そのソナタや七重奏曲のモデルをめぐって実に興味ふかいことが書かれており、一読の価値あり。ir.lib.shizuoka.ac.jp/bitstream/10297/7321/1/8-0101.pdf

引用してもいいのだが、断片では誤解を招きそうな個所がある。すなわち今まで一般にはサンサースがモデルとされたり、いやフランクやフォーレだとされたりしてきたが、プルーストは後年サンサースは凡庸な音楽家だと言っているらしい。だが、そのあたりが微妙なのだ。ラヴェルやフォーレの記述個所は除き、サンサースをめぐる個所だけ引用しよう。

ヴァントゥイユのソナタの聴取の記述に最も大きなインスピレーションを与えたものと、プルーストの書簡から読み取られるのは、サン=サーンスのヴァイオリン・ソナタである。しかし奇妙なことに、プルーストはサン=サーンスについて、自分の好みではなく凡庸な作曲家だと、1915年にアントワーヌ・ビベスコ宛ての書簡で述べている。これは一体いかなることなのだろうか。アンヌ・ペネスコは、その答をボードレールについてのプルーストの評論の記述の中に見出している。それによれば、音楽が「有益な夢想」を与えてくれさえすれば、詩人の賞賛する音楽の客観的クオリティは問題ではないというのである。また、プルーストは未完の小説『ジャン・サントゥイユ』の「粗悪音楽礼賛」のくだりでこう述べているという。「粗悪な音楽を嫌悪したまえ、しかし侮ることなかれ。いい音楽以上にうまく演奏したり歌つたりすれば、音楽は徐々に夢と人の涙で満たされる。(中略)粗悪な音楽には芸術の歴史に居場所はないが、社会の情緒の歴史において、その地位は絶大なのだ」と。

サン=サーンスの音楽を「粗悪音楽」とは言い切れないだろうが、良い音楽か否かは間わず、「夢」や「涙」と結びつく音楽であればポエジーの糧になるというプルーストの考え、そして彼が必ずしも好みではない音楽家の作品を『失われた時を求めて』における音楽の記述の発想源としていたというのは、興味深い。

《音楽が「有益な夢想」を与えてくれさえすれば、詩人の賞賛する音楽の客観的クオリティは問題ではない》とは、プルーストの小説のなかで、このブログでもしばしば引用しているとても示唆的な次の文と似たような見解を感じる。

われわれも相当の年になると、回想はたがいに複雑に交錯するから、いま考えていることや、いま読んでいる本は、もう大して重要性をもたなくなる。われわれはどこにでも自己を置いてきたから、なんでも肥沃で、なんでも危険であり、石鹸の広告のなかにも、パスカルの『パンセ』のなかに発見するのとおなじほど貴重な発見をすることができるのだ。(プルースト「逃げさる女」井上究一郎訳)

安永愛氏によれば、ベネスコはプルーストのサンサースの評価を次のように書いている。

プルーストのサン=サーンスのヴァイオリン・ソナタに寄せる思いは、『失われた時を求めて』の語り手がジルベルトに寄せる思いと同じく、初恋のようなものではなかったか、とアンヌ・ペネスコは推測している。プルーストは、やはりサン=サーンスのヴァイオリン・ソナ夕に魅了されていたのだとペネスコは断じる。かつて愛し、離れてしまったものへの、疼くようなやるせない思いが、文学テクスト上のヴァントゥイユの音楽の創出にあずかっていたというのが、ペネスコの見立てである。

音楽だけでなく芸術作品一般において(あるいは男女の愛の対象においてさえも?)、「石鹸の広告」のような作品を愛していても恥じることなかれ! と宣言するつもりはないが、《粗悪な音楽には芸術の歴史に居場所はないが、社会の情緒の歴史において、その地位は絶大なのだ》には相違ない。「社会の」? いや「個人の情緒の歴史」でももちろんよい。これは<対象a>にかかわるのだ。→ 「人間的主観性のパラドックス」覚書

それは、「好き」の次元に属するのではなく、「愛する」の次元には属するものであり、ロラン・バルト用語のプンクトゥムのことと言ってもよい、――刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目、または骰子であり、「私」を突き刺すばかりか、「私」にあざをつけ胸をしめつける偶然。


たいていの場合、プンクトゥムは《細部》である。つまり、部分的な対象である。それゆえ、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる。(ロラン・バルト『明るい部屋』ーーベルト付きの靴と首飾り (ロラン・バルト)

サンサースの作品は、プルーストにとって、己を引き渡すことになってしまうものだったのかもしれない。ひとは己を引き渡すものについて語るときはアンビバレントな愛憎の仮装によってしか語れない。ロラン・バルトは彼の至高のプンクトゥムの写真(母の幼年時代の「温室の写真」)を写真論でもある『明るい部屋』に掲載することを拒む。《「温室の写真」をここに掲げることはできない。それは私にとってしか存在しないのである。読者にとっては、それは関心=差異のない一枚の写真、《任意のもの》の何千という表われの一つにすぎないであろう》(『明るい部屋』)

心を寄せていた異性の名を口にできないのとおなじように、ほんとうに好きな作家、好きだった詩人の名はぜったいに明かせない。(堀江敏幸『河岸忘日抄』)

ーー本来、そうであるはずだ。

ところで、<あなた>はそういう作品をもっているか?

実際、「読書」とはあくまで変化にむけてのあられもない秘儀にほかならず、読みつつある文章の著者の名前や題名を思わず他人の目から隠さずにはいられない淫靡さを示唆することのない読書など、いくら読もうと人は変化したりはしない。(蓮實重彦『随想』)

堀江敏幸がいうような「ぜったいに明かせない」というのは極論だろう。長い生涯において、ふとその名を口に洩らすことがあるだろう、少年が秘密の宝を親しい友と共有するようにして声をひそめてつぶやくことが。だがおおやけの作品にはめったにその名がでてこない。作家や芸術家たちの秘密、場合によっては作家の核心はそこにある。

書物はまさに、人が手もとにかくまっているものを隠すためにこそ、書かれるのではないか。( ……)すべての哲学はさらに一つの哲学を隠している。すべての意見はまた一つの隠れ家であり、すべてのことばはまた一つの仮面である。(ニーチェ『善悪の彼岸』 289番)










2013年8月31日土曜日

痛みやすい果実

(私はきのう書いたことをきょう読み直す)、印象は悪い。それは持ちが悪い。腐りやすい食物のように、一日経つごとに、変質し、傷み、まずくなる。わざとらしい《誠実さ》、芸術的に凡庸な《率直さ》に気づき、意気阻喪する。さらに悪いことに、私は、自分では全然望んでいなかった《ポーズ》を認めて、嫌気がさし、いらいらする。


 

私は一度も日記をつけたことがない。――というよりも、むしろ、日記をつけるのがいいのかどうか、わからなかったのだ。時折、始めてみる。そして、すぐやめるーーしかし、少し経つと、またつけ始める。それは間歇的にちょっと書いてみたくなるだけで、重大な意味もなければ、主義主張といった定見があるわけでもない。私はこの日記《病》に診断を下すことができるように思う。つまり、それは日記を書く事柄の価値についての解きがたい疑念なのだ。

この疑念は油断がならない。ゆっくり進行する疑念だからである。第一期には、(毎日の)メモを取る時、私はある種の快楽を覚える。これは簡単でやさしい。何を書くべきかを考えて苦しむまでもない。材料はすぐみつかる。露天掘り鉱山のようなものだ。身をかがめさえすればいい。手を加える必要もない。そのままで、価値がある、等々。第二期には、それは第一期のすぐ後なのだが(私はきのう書いたことをきょう読み直す)、印象は悪い。それは持ちが悪い。腐りやすい食物のように、一日経つごとに、変質し、傷み、まずくなる。わざとらしい《誠実さ》、芸術的に凡庸な《率直さ》に気づき、意気阻喪する。さらに悪いことに、私は、自分では全然望んでいなかった《ポーズ》を認めて、嫌気がさし、いらいらする。日記という状況のもとにあって、しかも、まさに、《仕事》をしていない(仕事のために姿を変えていない)からこそ、私というのはポーズ屋なのである。それは効果の問題であって、意図の問題ではない。文学のむずかしさはまさにそれに尽きる。読み進めていくと、すぐに、動詞のない文に(《不眠の夜。すでに連続三夜、等々》)、あるいは、無造作に動詞を短縮した文に(《St.S広場で二人の少女に遭遇》)うんざりしてくるーー慎ましく完全な形(《私は出逢った。私は不眠の夜を過ごした》)に戻しても無駄であろう。日記の母型、すなわち、動詞の縮減は私の耳に残り、決まり文句のように私をいら立たせる。第三期は、書いてから数カ月後から数年後に日記の数ページを読み直すと、疑念は晴れないものの、私は、その数ページのおかげで、それが物語る出来事を思い出し、さらには、それが蘇らせてくれる(光や雰囲気や気分の)ニュアンスを思い出し、ある種の快楽を覚える。要するに、こんな具合に、文学的興味はまったくなく(言語化、つまり、文の問題に対する興味を除けば)、私の体験(それの想起はやはり曖昧である。なぜなら、思い出すとは、二度と戻らぬ出来事を確認し、再度失うことでもあるからである)に対する一種のナルシス的愛着があるのだ(ナルシス的といっても、ほんのわずかだ。誇張してはならない)。しかし、またもや問題となるのだが、拒否の局面を経た後に到着したこのような最後の心地よさが日記を(几帳面に)つける理由となるだろうか。その苦労に値するだろうか。

私はここで《日記》というジャンルの分析を始めているのではない(それについての本は何冊もある)。実践的な決断を下すための個人的な省察をしているのである。私は公開を目的として日記をつけるべきだろうか、私は日記を《作品》にすることができるだろうか、と。だから、私はふと思いつく機能だけしか問題にしない。たとえば、カフカは、《自分の不安を根絶する》ために、いいかえれば、《救いを得る》ために日記をつけた。私にはこの動機は自然とは思えない。少なくとも終始不変とは思えない。伝統的に「私的日記」に与える目的についても同様である。もはやそれが適切とは思えない。それは《誠実さ》(自分を語る、自分をさらけ出す、自分を裁く)の効用や威光と結びつけられてきた。しかし、精神分析、サルトルの底意批判、マルクス主義のイデオロギー批判が告白を空しいものとしてしまった。誠実さは第二度の想像物〔イマジネール〕でしかない。そうだ。(作品としての)「私的日記」を正当化する理由は、純粋な意味で、懐古的でさえある意味で、文学的でしかあり得ないだろう。私は、今、四つの動機を考えている。

第一は、エクリチュールの個性、《文体》(以前なら、そういっただろう)、作品に固有の個人語法(少し前なら、そういっただろう)に彩られたテクストを提供することである。これを詩的動機と名づけよう。

第二は、毎日毎日、重大なニュースから風俗の細部まで、大小入りまじった時代の痕跡を散りばめることである。(……)これを歴史的動機と名づけよう。

第三は、作者を欲望の対象とすることである。私は私の関心を引く作家の内面を知りたいと思うことがある。彼の時代の、趣味の、気質の、気づかいの日常的な細部を知りたいと思うことがある。作品よりも彼の人となりの方を好むことさえある。彼の「日記」を貪り読んで、作品は放り出すこともある。だから、私は、他人が私に与えることのできた快楽の作り手となって、今度は自分が、作家から人間に、また、その逆へと移行させる回転ドアのように、人を誘惑しようと努力することができる。あるいは、さらに重大なことだが、(私の本の中で)《私は私が書くものよりも価値がある》ことを証明しようと努力することもできるのだ。「日記」のエクリチュールは、その時、剰余としての力(ニーチェのいうPlus von Macht「力の剰余」として作られる。人はそれが完全なエクリチュールに欠ける所を補うであろうと思っている。これをユートピア的動機と名づけよう。実際、人は決して、「想像物〔イマジネール〕」に打ち勝つことができないからである。

第四の動機は「日記」を文の作業場にすることである。《美しい》文のではない。正確な文のである。つまり、絶えず言表行為〔エノンシアシオン〕の(言表〔エノンセ〕のではない)正確さを磨くことである。夢中になって、一生懸命、デッサンのように忠実に。もうまるで情熱としっていいほどに。《もしあなたのくちびるが正しい事を言うならば、わたしの心も喜ぶ》(『箴言』、第二十三章十六節)。これを愛の動機と名づけよう(多分、熱愛的とさえいってもいいだろう。私は「文」を熱愛する)。……(ロラン・バルト「省察」1979『テクストの出口』所収)


《日記も、読まれることを予想して書かれることがしばしばある。永井荷風の『断腸亭日乗』やジッドの『日記』は明らかにそうであろう。精神医学史家エランベルジェは、日記を熱心に書きつづける人には独立した「日記人格」が生まれてくると言っている。日記をつける人も読む人も、このことは念頭に置くほうがよいだろう。》(中井久夫「伝記の読み方、愉しみ方」『日時計の影』所収)




ーーーきみたちの(「きみたち」、つまりイマジネールな「きみたち」である)の徹底的なニブサは、自らのポーズにまったく気づかないことだ。


機銃掃射で/ひとり残らずぶっ殺してやりたい」(谷川俊太郎)ってこと

あるいは自分の媚態や挑発の迎合性に恥じるってことさ
それに恥じたら今度は逆にワザといかめしく振舞ってみて
(いや平静さを装ってでもいい)
それをも恥じるってこと
銃口を自分の口で咥えてみたくなるってこと

ーーないのかね、「きみたち」には?


…………


前投稿のミシェル・ベロフだと? アルゲリッチのオーラにあてられてスランプになっただと? そんなことはどうだったいい(というふうに書くのは関心がある証拠だ)。

1950年生まれのベロフはいいおっさん(あるいは ほどよく凡庸な?)になっている。




 

ごくろうさん、20歳のベロフはあっけなく消えた。詩人は長生きするもんじゃない(などというのも凡庸な言い草だ)。



 ーー

ミシェル・ベロフ1970年(20歳)のデビューアルバムより


 

ミケランジェリやポリーニのドビュッシーがいいなどと言っている連中は耳が悪いんじゃないか、--などと(20歳のときのオレのようには)、今のわたくしは決して言わない。


ドビュッシー自身の演奏による「沈める寺院」。